経済の運動


 よく昔から時は、金なりと言いう。しかし、時間的な価値を経済的に認め、制度的に経済の仕組みの中に取り込んだのは、近代になってからである。近代に入って、金融制度が確立し、また、資本制度が確立することによって、経済の中に時間的な価値が組み込まれたのである。
 時間には価値がある。結局、近代化というのは、時間に含まれる時間的価値を社会的に受け容れるかの問題でもあるのである。時間的価値というのは、金利と収益、そして、資本の問題である。それは、貨幣的な問題でもある。つまり、金利という貨幣から派生する副産物から時間的価値が実体化されたのである。それが貨幣の効用の中でも最も重要な要素の一つなのである。そして、時間的価値の基礎を為す収益も資本も貨幣的な概念なのである。また、収益や資本というのは、優れて市場的な概念でもある。
 時間が価値を持つと言う事は、時間の経過が価値を生み出すという思想でもある。それが資本主義の原点でもある。時間の経過が価値を持つというのを認めるのに、非常な抵抗があり、受け容れるのに時間がかかった。今でも、なかなか容認しようとしない世界がある。近代の担い手である西洋文明においてもキリスト教は、利息をとる事を認めなかった。何もしなくても時間が経過するだけで物が価値を生み出すという事を容認できなかったからである。そこには、生産に対する人間の力、労働に対する崇拝があった。働かざる者、喰うべからず。金利や地代は、不労所得の最たるものと見なされてきたからである。
 金利や、収益、資本の概念によって時間に経済的価値が附加された。それによって経済は、従来とは、まったく違った展開、発展をしたのである。

 調達した資金を直接消費するのではなく、何等かの生産手段に投資し、それを運用して収益を得、あるいはまた、それを担保して資金を得る。それによって資産価値を増幅する。

 資本主義を成り立たせているのは、収益と資本だが、実際に経済を動かしているのは、資金である。

 石油のようにストックができる財と、生鮮食品のようにストックができない財とがある。これは、財に対して時間が陰に作用しているか陽に作用しているかの問題である。

 財政が破綻する原因は、財政が貨幣の時間的価値をその仕組みの中に取り込めないことである。市場価値が時間的に変化しているのに、財政の時間的価値は静止した状態にある。だから、財政は、赤字になるのである。
 時間的価値とは、収益と金利である。そして、財政のが時間的価値を持ち得ないのは、基本的に財政の思想が価値の時間的変化を認めず。予算の単年度均衡、絶対的評価が金利や収益を否定し、貨幣の時間的価値を受け付けないからである。

 貸借対照表上に現れるストックとは、資金の源泉、価値の蓄積を意味する。それに対し、損益計算書上に現れるのは、貨幣の流れ、消費の経過である。
 フローとは、消費と移転、所有権の移転を意味している。つまり、フローというのは、その時点、時点の運動、動き、変化のことであり、変化や運動というのは、消費と移転を指しているのである。

 資金の調達は、ストックに依り、資金の運用は、フローによる。ストックが資金の源なのである。
 相場が時価総額を引き上げる。フローがストックの価値を増幅し、ストックがフローの資金調達を拡大する。相場そのものの取引はゼロサムである。

 資産を時間的に見ると第一に、時間的価値が減価する資産と第二に、時間的価値が何等かの相場や物価と連動している資産。第三に、時間的価値が金利と連動している資産。第四に、時間的価値が働かない資産がある。
 減価する資産の代表的なものは、費用性資産で負債と連動している。
 資産の時間的な価値がいろいろ波長の波を起こす。

 経済変動は、一本調子のものではない。波がある。企業経営は、その波を前提として計画される。

 負債は、元本と金利からなり、元本は、貨幣の額面価値であり、変動しない。つまり、固定している。性格は、現預金と同じである。

 社会資本を変動するのが、相場(不動産相場)や資本市場である。これらは、時間的が蓄積される財である。同時に、取引相場が見かけ上の価値を生み出す財である。名目的資産価値は、負債の担保となって、あたらして貨幣価値の原資となる。
 これが実需と投機の問題を引き起こすのである。それは、実際の生活に必要とされる物と資金の動きがかならずも一致していないことに原因がある。

 企業の生命線を握っているのは、資金である。収益ではない。そして、資金の源は、収益と資産である。経済現象は、元々波動である。景気の良い時もあれば、悪い時もある。企業経営者は、景気の悪い時に備えて蓄えをする。悪い時は、内部に蓄えた資産を食い潰して生き延びようとする。景気がよくならなかったらそれまでの蓄えを食い潰す一方である。だから、景気には一定の波が必要なのである。企業にとって継続は使命である。継続できなくなれば多くの係累を巻き込んで潰れてしまうからである。つまり、個人の損害ではなく、社会的損害を引き起こすことになるのである。その蓄えを悪いという。不当に儲けることも悪いという。
 企業の重大な目的の一つに継続がある。しかし、収益が薄く、不景気になるとあっという間に赤字に転落する上に内部留保が貯められない体制では、企業は継続できない。含み益も認めないと言う。なぜなのか。どの様な論理が背後に隠されているのか。その謎を解くためには、そのことによって誰が利益を得るかを知る事である。

 一方において恒常的な増収、増益を求め。一方において、内部留保の株主還元を求め。さらに、資金繰りを資産価値に求められる。更に、収益からは、半分以上が税金に持っていかれる。これでは、企業は存続できない。最後には、相続税によって全てを吐き出させる。

 元々国際市場においては、公正な競争などできないことは明らかである。公正な競争をするための前提条件が保てないからである。

 現代の市場には、三つの市場がある。一つは統制的市場。もう一つは、競争的市場。最後は、闘争的市場である。

 景気は、拡大するのは、一時であり、停滞するのが常態である。これは、明治維新以前の日本では当たり前のことであった。
 景気のいいときばかり望むが、不景気も必要なのである。だから、経済には、景気と不景気の波があるのである。
 よく旅館とガソリンスタンドは、不景気になると立て替えをすると言われてきた。
 国家や投資家、また、メディアの人間は、消費者の味方、正義感面をして利益還元を言う。そして、儲かった時は、無慈悲にその儲けを取り上げる。あたかも儲けることは罪悪であるようにした。しかし、松下幸之助は、かつて利益の上げられない企業は、悪であると言った。利益を上げることは、企業にとって国家・国民に対する使命でもある。儲けることは悪いことではない。
 企業は、利益を蓄えておかないと冬の季節を乗り越えることができないのである。また、設備の更新もある。利益を全て吐き出したら、不況の時にあっという間に立ち行かなくなる。蓄えがなければ、企業は存続できなくなるのである。日本の企業は、含み経営でうまく回っていたのである。株の持ち合いによってリスク分散してきた。なぜ、うまく機能していた仕組みを放棄する必要があるのか。また、その結果、よりよい仕組みに転換できたか。問題はそこにある。なぜ、変革しなければならないのか。何が何でも変革しなければならないと言うのはおかしい。変革には痛み、犠牲を伴う。ならば、なぜ変革が必要なのかを明らかにしなければならない。誰の為の、何の為の変革なのか。変革その物に価値があるわけではない。

 経済というのは、不思議なものなのである。経済がうまく回っているから、景気がいいとは限らない。経済が、うまくいっているから不景気だという事もあり得るのである。豊作貧乏が良い例である。逆に、経済がうまくいかないから景気がいいという場合もある。また反対に、景気がいいから、経済がうまくいっているとは限らないし、景気が悪いから経済がうまくいっていないと言うわけでもない。ところが現代社会では、景気の良し悪しだけで経済を判断しようとする。

 問題は、不景気だからどうだというのである。不景気なのに、景気のいい時と同じ事をしていてもダメだという事である。喧嘩をこのまま続ければ共倒れしてしまうというのが解っているのに、一時休戦をしたり、話し合ったり、一時的な協定を結ぶのがなぜ悪い事なのか。その根拠が稀薄なのである。長い目で見て明らかに消費者にも迷惑が及ぶと解っているのにである。逆に、競争の原理が働くなり、利権が発生しているのが解っているのに、いつまでも協定を結ばせておく必要があるのかとも言える。市場のルールは、状況によって判断すべきであり、普遍的な真理ではない。

 時には、不景気も必要なのである。不景気な時に、個々の企業は何をすべきなのか。また、行政は何をすべきかが大事なのである。また、不景気な時に備えて、企業は何をすべきか。行政は何をすべきかが大切なのである。経済学は、三流の時代劇でもあるまいし、悪代官と悪徳商人が結託して利権を貪っているような短絡的図式はあまり意味がない。

 また、デフレと不景気を一緒くたに考える者もいるが、デフレーションと不景気は、同じものではない。デフレだからこそできることも沢山あるのである。

 経済現象は、自然現象とは違う。経済現象というのは、あくまでも人為的現象なのである。経済災害に自然災害はあり得ない。経済現象は、戦争と同じ、人為的災害なのである。

 長い間命脈を保ってきた老舗が次々と姿を消しているのは、老舗が、現代の経済体制に適合しなくなってきたからである。江戸時代から続く多くの老舗は、停滞を前提とした経営をしてきた。つまり、変革を前提としてきたわけではないのである。そして、老舗の多くが閉ざされた市場の中で秩序ある経営を心懸けてきた。しかし、国際市場は、競技場ではない、戦場である。乱世である。閉ざされた市場での、平時の経営では身代(しんだい)は保てないのである。

 現象としての経済の動きを知る前に、経済主体や経済の変動の在り方を明らかにしたい。経済主体の動きこそ、経済全体の動きを左右するからである。
 企業や経済は、飛行機に似ている。企業は、離陸し、上昇し、そして、一定の高度に達したら高度を保ちながら水平飛行に移り、目的地に近づいたら、下降し、最後に、着陸する。
 現代企業主体と飛行機の違いは、一度離陸した企業は、着陸することが許されないという事である。極端な話、上昇し続けなければならない。エネルギーを使い果たすまで飛び続けなければならない。そして、エネルギーを使い果たしたら失速し、墜落する。だから、どんな企業にも待ち受けているのは、倒産である。ソフトランディングは許されていない。始まりはあっても終わりはない。この様な経済に未来はあるのであろうか。
 経済の中に、停滞期や、衰退期、最盛期をも織り込んでいかなければ、恒久的な体制は築けない。闘争が是なのか。競争が是なのか。それを明らかにする必要がある。
 始め方は決まっていても終わり方が決まっていないのである。つまり、出口のない建物みたいなものである。それが現代の市場経済である。この事は、市場経済の運動に微妙な影響を及ぼしている。
 つまり、現代経済は、成長し続けることが、上昇し続けることが運命付けられているのである。この事は、基本的にインフレ経済であることを運命付けられていることを意味する。

 我々は、特殊な時代に生きているのである。何事にも限界がある。池に拡がる睡蓮の葉は、いつの間にか池一杯に拡がってしまう。同じように、外食産業もマクドナルドもスーパーもコンビニも安売り業者も倍々ゲームで多店化してきた結果、市場を埋め尽くしてしまったのである。

 経済は、無限から有限へと発想の転換を迫っているのである。今、問題になっている経済体制の問題も根本にその発想の転換がなければ成り立たない。需要と供給にも、欲望にも、資源にも、能力(自分達の能力にも、自然の浄化能力)にも限りがあるのである。

 経済の変動には、超長期的変動、長期的変動、中期的変動、短期的変動、一時的・スポット的変動がある。これらの変動を生み出す要素は、一つは、ライフサイクルである。もう一つは、市場の構造である。

 そして、変動には、市場全体の全体的変動。市場を構成する要素、例えば在庫や設備投資と言った部分がから派生する部分的変動。個々の経済主体や産業によって生まれる個別的変動がある。これらの変動・波動が複合されて経済全体の波動を生み出している。

 波動を生み出す回転運動、循環運動は、フローとして現れる。そして、ストック部分が、そのフローを調整するのである。フローの動きとストックの動きが乖離するとこの調節機能が円滑に働かなくなり、経済の動きを制御できなくなる。

 生産と消費のサイクルが、経済のはどうの基調を形成する。

 経済全体の波動を生み出す個々の回転運動には、資本の回転運動、設備投資の回転運動、在庫の回転運動、資金の回転運動、人事の回転運動などがある。これらの回転運動は、商品や資金、設備、人間のライフサイクルに関連している。

 一年の間にも季節変動があるのが普通である。人、物、金の季節変動がある。この季節変動も基本的には回転運動である。特に、資金の動きの季節変動は重要である。

 経済の波動・変動が意味するのは、景気には、上昇期、停滞期、下降期があると言う事である。良い時には、悪い時に備えて蓄えをし、悪い時は、再上昇期に備えて蓄えを放出し体制を整える。そのサイクルがあるという事である。このサイクルを円滑にするのが、経済構造や政策の役割である。しかし、現代の経済構造や政策はこれを阻害している。その為に、健全な市場構造が保てないのである。その原因は、経済は常に、上昇し続けているという成長神話である。経済には、停滞期があり、停滞期には、停滞期に合わせた政策が必要なのである。そうしないと市場は枯れてしまう。痩せ細ってしまう。

 この変動、波動の法則を見極め、経済を制御するためには、何(何の要素)が、何(どの部分・パーツ)に対し、どの様な(正の方向の働き・負の方向の働き・変化なし)働きをしているかを解明する必要がある。

 我々は、特殊な時代に生きているという自覚が欠けている。市場は、産業革命以来、爆発的に膨張し続けている。技術革新は、常態であり、経済は、成長発展し続けている。それが、当たり前だという錯覚に現代人は囚われている。経済は、右肩上がり、このまま成長し続けるかのように錯覚している。資源も市場も無尽蔵にあり、限界はないと信じ込んできた。しかし、人間は、二十世紀後半になると漠然とした不安を抱くようになってきた。限界を意識し始めたのである。

 長い時代命脈を保ってきた老舗が次々と姿を消している。それは、決して偶然ではない。国際社会においては、彼等は生き残ることが許されなかったのである。

 なぜ、利益を平準化してはいけないのか。なぜ、内部留保や含み益はいけないのか。なぜ全ての情報を開示すべきなのか。なぜ、株式を公開すべきなのか。業者間の話し合いや協定は悪い事なのか。不況カルテルは、許されないのか。
 公正な競争を保つために協調することも、また、冬の時代を生き抜くために蓄えることも許さない、その背後には、どの様な論理が働いているのか、そこに本当の真意が隠されている。

 かつて、私は、クラブ活動を主催するに当たって辞め方をはじめに決めた。はじめもする前に辞め方から決めるというのはおかしいという仲間もいたが、当時、政治活動をしていた多くの団体が辞め方も決めないでいたのに危険性を感じていたからである。辞め方の解らない団体ほど危険な組織はない。私には、そう言う確信がある。

 商売人悪党説。企業悪説。儲け必要悪説に毒されている。金は賤しいとする考え方が底辺にはある。ならば、武力は正しいのか。武士は善良で高潔で、商売には、賤しく不誠実なのか。こういった無用に経済を卑しめるような価値観を経済の現場に持ち込むべきではない。また、あたかも市場の原理を競争の原理と置き換えて、それを、あたかも普遍的原理のように決め付けるのは、非科学的、不合理極まりない。それは、一種の信仰に過ぎない。これまで、公正な競争が行われたことは、滅多にない。必ず不公正が介在したのである。公正な競争を持ち出す者には、何らかの意図がある。さもなければ、公正の競争などと言う出すはずがない。優位に立った者が、自分の優位を保つためか、劣位に立った者が自分の不利を挽回する口実に競争の原理を持ち出すだけである。だいたい、規制をなくせと言うのは、暴論である。規制と言うから誤解するのであり、いわばルールである。ルールを変更しろと言うのであれば解るが、ルールをなくせというのは、競争その物を否定することである。規制を緩和しろと言うのも意味不明である。規制を簡略化しろと言う方がわかりやすい。ルールを緩めた方が公正なスポーツができるという話は、未だかつて聞いたことがない。合理、合理と言う者に限って不合理なことを押し付けてくる。

 不景気な時も必要なのである。人は、不景気だからこそ、色々なところを改善し、また、体勢を立て直すのである。そして、次の飛躍へ備える。経済は、フローだけで成り立っているのではなく。ストック、つまり、蓄えも必要なのである。景気が悪くなったらその蓄えを吐き出し、放出して景気を良くしようとする。だから、儲かっている時に、極力、蓄えを増やそうとする。
 越冬する必要のない地域の蜂は、蜜を貯めないと言う。蜜を貯めなければ、社会を維持する必要もなくなるのである。我々は、助け合わなければならない状況があるから助け合うための組織を作るのである。良い時ばかりが必要なのではない。厳しい時があるから進歩するのである。景気がいいだけでは、経済は進歩しないのである。






                    


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