経済の機能


 経済の目的は、財を公正、公平に分配することである。ここで問題になるのは、何をもって公平、公正とするかである。その基準は、労働とその成果にある。
 これまでの多くの社会主義者や平等主義者の犯した過ちは、公平について定義する前に不公平をなくそうとした事である。そして、不公平をなくせば、公平が実現すると考えた事だ。しかし、不公平をなくしても公平が実現するとは限らない。
 不公平をなくす事で公平が実現するための前提条件は、人間の能力や欲求、価値観が全て均一、均質である事である。しかし、人間の能力や欲求、価値観は全て違う。全員が一致しないことを前提としない限り、社会は成立しない。特に、民主主義や自由主義は、思想信条の自由を大前提としているから、この様な平等の定義では、自由と平等は排反的概念になってしまう。
 その典型が、男女差別の問題である。男と女の間の不公平をなくしても、男と女は、公平にはならない。なぜならば、男と女は、少なくとも肉体的に違うからである。つまり、実体的に本質に違いがある。公平というのは、その実体的な差を前提としてその差から生じる弱点を補い合うことによって成立する。ただ同等に扱えば、その弱点が帰って際立ち、逆に不公平を増長する結果を招く。男と女が本質的に違うのならば、対等な立場で性別分業を成り立たせることが、本来の男女同権なのである。ただ男女間にある不公平を取り除けばと良いというのは、女性の男性化、男性同化を意味し、裏返しの差別感に過ぎない。その結果、家事労働が、不当に低く評価され、家庭の空洞化を招いている。男と仕事が優れているといって男の仕事で社会を支配させようとすれば、必然的に女性が担っていた仕事を喪失する。結果、家事労働に携わる者は、社会から孤立し、自己のアイデンティティをなくしていく。つまり、自己の存在意義が失われるのである。男だけが社会を担ってきたわけではない。昔の女性は単なる奴隷だったわけでもひたすら隷属してきたわけでもない。重要な局面で重要な役割を果たしてきたのである。その事実を見逃してはならない。
 公平と言う事を定義する上で、考慮しなければならないのは、共同体としての在り方である。
 多くのコミュニティは、寡婦や未亡人、孤児が置かれた弱い立場を何らかの形で補ってきた。それが共同体である。そのベースとなる人間関係は、近代以前の社会の多くは血縁関係だった。しかも、貨幣経済が異常に発達した現代では、全ての援助を金銭的に片付けようと言う傾向が高いが、必ずしも金銭的なものと限定していたわけではない。むしろ、制度的な援助、構造的な援助の方が多い。日本人の武士社会における家の概念がそれである。家の存続は、養子、縁組みによる、育児や教育と言った物心両面からの実体的な援助が主だったのである。経済は、金銭の動きだけでは捕捉しきれない。金銭の動きの背後にある実態をつかむことが大切なのである。さもないと、金銭の動きによって実体が形骸化し、最悪の場合失われてしまう。その好例が、金銭的な援助によって家庭が破壊されることである。介護問題や福祉問題の難しさがその点にある。介護も失業も金銭的に援助すれば片づくという問題ではない。
 貨幣経済の浸透は、家内労働者の立場を弱くした。その結果、女性の社会的地位も失われたのである。むろん、それ以前に、女性の地位が不当に低く置かれていたという歴史的事実を無視するわけではない。しかし、男権だけが全てに優先する社会だけが存在したというのは、穿ち(うがち)すぎである。「元始、女性は太陽だった」と主張した女権論者もいたのである。男だけが、古来、社会の中心だったというのは、間違いである。しかし、貨幣経済が浸透することによって生じた家内労働に対する差別は、経済のみならず、社会全体に決定的な変化をもたらした。それは、家族の崩壊、共同体の解体である。母親という中心を家庭は失ってしまったのである。今は、母という言葉自体が虚しく聞こえる。
 女性が経済で求められる機能は、母であり、妻であり、女である。しかし、現代は、いずれでもない。ただの個人としての働きしか認めない。それが平等主義だという。だから、経済は機能しなくなる。
 戦後の日本の結婚式の変遷は、象徴的な出来事である。戦後直後は、仲人を立て家と家との結びつきを強調したものであった。しかし、それがやがて会費制へと変わり、仲人が廃れ、最後には、ただのパーティ形式へと変わってきた。それは、家という共同体の崩壊に他ならない。それと伴に離婚率も上昇している。家の在り方というのが根本的に問われているのである。それは、懐古主義ではなく、新しい形の家族の在り方、家の在り方を再構築する必要性を意味しているのである。さもないと、家族の絆そのものが失われてしまう。
 共同体を結びつけているのは、心であり、愛情であり、絆である。いずれも、金銭的には推し量れないものである。血も涙もない経済は、魂のない肉体、つまり、屍(しかばね)に過ぎない。経済は、生業なのである。

 最近、主婦も定年退職を求める傾向が出てきた。子育てをおえ、亭主も定年退職を迎えた、だから自分も定年退職をしたい。ついては、別れてとなる。なんだか定年退職を良いことだと思っているように見える。しかし、人生に定年退職はない。早い話、内臓器官に定年退職はない。心臓が定年を迎える時は、基本的には、死ね時だ。ならば、家事や育児、会社に定年退職させるというのは、社会的に死ぬと言う事か。働くというのは、世に必要とされていることを意味する。多くの人が定年退職と同時に呆け(ボケ)るのは、自分が必要とされていないという事に耐えられないからである。

 更に言えば、お互いを必要としている、離れられない関係になるという事を否定しようとしている。男というのは、だらしがない。女が居なければ生きていけないところがある。だから、以前は、女が経済的に自立できないように仕向けた。しかし、今は、女性も経済的に自立できるようになった。女は、自分は一人で生きていけるから別れようと言う。しかし、その後の人生はどうなるのであろう。一人で生きていくつもりであろうか。
 一人で好き勝手なことをする。勝手気儘に生きていく。それは、夫婦関係の崩壊ではなく。共同体の崩壊なのである。男も女も自分が何を必要としているかを理解していないからそんな話になる。それは錯覚である。伴に喜びや悲しみを分かち、自分の価値を認めてくれる人が側にいなければ、自分は無価値な人間になってしまう。居場所がなくなるのである。寄る辺ない身になるのである。それが何を意味するのか。家族の在り方を根本的に見直すべき時がきたのである。
 お互いが、物心両面から離れられないから我慢し、共同体は存続する。そして、その忍耐によって、相互に高め会うのである。一方だけに我慢を強いる人間関係は長続きしない。伴に人生を生きていこう。子供を産み一人前に育てていこうという覚悟もないままに、結婚をするから、簡単に別れてしまう。伴に人生をいきていく事、子供を産み育てること、それが経済である。

 勤め人には定年退職があるのに、家事や育児には、定年退職がない。それは、大事なことである。だからこそ、家事や育児は、素晴らしいのである。仕事をしなくても生活できるようになることを良いことのように言うが、本当だろうか。それは、あなたは、この世では必要とされていないと宣言されるようなものである。かといって、定年後に新しい人生を始めろと言うのは、酷な話である。企業や家族を単なる機関として捉えるからその様な錯誤に囚われる。企業や家族が共同体であり、その共同体の一因として、共同体に奉仕する精神があったら、労働や仕事を単なる苦役だという発想にはならない。むしろ、仕事や労働は喜びなのである。だからこそ、人生は豊かになり、幸せになれる。現代の経済は、幸せという本来の目的を失っているのである。つまり、企業や家族の共同体化が第一義の目的でなければならない。

 共同体化というのは、お互いがお互いを必要とする関係を作ることである。つまり、共同体内の分業を確立することである。それは、お互いがお互いに対して弱味を持つことである。いずれか一方だけが他方に依存する関係ではなく。双方が、お互いを必要とし、協力する関係を築くこと以外にない。精神的繋がりだけでは保たない。なぜならば、お互いがお互いを必要としていなければ、一緒に生活をする意味がないからである。夫婦で言えば、簡単に別れられない関係を築いく事が大切なのである。その為に、かつては、結婚式を盛大にし、皆に知らしめ、仲人まで立てた。それが今では結婚式を簡単に済ますようになった。自分達のため、ひどい時は、自分のためにだけ結婚式をする。周囲の人間は関係ない。だから安易に別れる。だから共同体が築けない。お互いに嫌になったら、それまでだ。後は金の問題である。共同体の根本は、経済的関係であり絆である。それを抜きにしては共同体は語れない。そして、経済とは、生活である。生きる為にお互いを必要としているそう言う関係が大切なのである。

 人生に定年退職を設けてはいけない。

 社会や組織が、仕事中心の機関となるのか。それとも、人中心の共同体となるか、それによって人間の生き方まで変わってくる。社会が機関化してくると、人間よりも機関の利益の方が優先されるようになる。機関の効率のみが社会目標となる。それでは人間が疎外される。つまり、人間が機関に奉仕するような社会になる。それは、人間が機関の奴隷になることであり、本末転倒である。機関は、道具に過ぎない。人中心の社会でなければ、人間にとって住みにくい社会になる。経済は、人を幸せにすることに目的があることを忘れてはならない。

 無条件に市場の法則に経済を委ねれば公平は、実現できるか。間違いなく、不可能である。
 市場には、市場の機能がある。働きがある。市場には、最初から公平を保つための基準や機能は、備わっていないのである。無法、アナアキーにすれば、自然と治安は善くなる、治まると信じるようなものである。それは信仰の部類であって、現実的ではない。
 市場の機能は、需給の調整と、市場価値の裁定である。経済全ての働きが市場にあるわけではない。
 人体の機能は、心臓だけにあるのでも、脳にあるのでもないのと同じである。人体は、全体として機能しているのである。その全体を明らかにするために個々の機能を明らかにしているのである。現在の経済は、あたかも市場の働きや貨幣の働きが経済の働きの全てであるかのようである。それでは近代医学以前の医学と変わらない。

 公平というのは、何もしなくても実現できるというものではない。積極的に働きかけることによって成立するものである。つまり、公平という概念は、社会制度を通じて実現される。その為には、公平という概念を社会制度に置き換える必要がある。その意味でも、現社会における不公平を取り除くだけでは、公平な社会は実現しないのである。

 経済的価値は、位置と運動と関係からから生じる相対的価値である。

 差と変化は、位置と運動と関係によって生じる。つまり、経済活動は、経済単位の位置と運動を関係によって生じる。

 差を否定すると経済活動はとたんに停滞する。なぜならば、経済活動は、差によって引き起こされるからである。地理的な差、時間的な差、欲求の差、能力の差、個人差が経済活動の源である。だから、差を悪だと決め付けたら経済活動は成り立たなくなる。同時に変化を否定しても経済活動は成り立たない。差をなくそうとする活動が経済の原動力である。差を是正するためには、変化が必要である。差が固定してしまえば、経済活動は停滞する。それが差別である。差や変化が悪いのではない。むしろ差や変化がないことがまずいのである。差と変化こそが経済の原動力なのである。

 一頭の牛でも美味しい部位とまずい部位がある。お米の銘柄も千差万別であり、産地によって味が違う。味は均一ではない。更に、個人の味覚には。個人差があり、人、それぞれ好み、好き嫌いがある。全ての人間の欲求を満たすことは、事実上不可能である。かつて、それを皆が納得するように切り分けるのが、亭主の仕事だった。ここで言う亭主とは、共同体の指導者である。
 社会主義国や共産主義国のように、平等を建前とする国家でもこの分配の問題は避けて通れない。将にこの分配の問題こそ経済なのである。衣食住全ての分野で財や用役を同等に分配することは不可能である。むしろ同等に分配しようとすればするほど不公平が際立つことになる。
 故に、労働を一旦、貨幣価値に還元し、それを市場を通して商品と交換することで分配の公平を実現しようと言うのが市場経済である。その為に、働きに応じて市場で商品に交換する権利が与えられた。それが貨幣である。故に、市場経済の発達と貨幣経済の発達は、補完的な関係にある。むろん、貨幣がなくても市場は成立する。しかし、それは、限定的な領域にとどまる。また、今日、市場経済と貨幣経済は、相互補完的なものとして考えて差し支えない。

 不公平は、格差が生み出すのだろうか。経済の原動力は、何らかの格差である。格差を否定したら、経済活動は停滞する。格差を是正しようとする力が、経済を動かす原動力となる。
 貧富の差は相対的なものであり、全ての人間を大金持ちになるのは、全ての人間を貧乏になることと変わらないのである。なぜならば、差がないからである。格差が不公平を生み出すのではなく。格差が固定されることが不公平を生み出すのである。つまり、変化を拒否する仕組みが経済を停滞させるのである。
 資本主義国であろうと、社会主義国であろうと、何らかの格差はなくならない。それは、人間一人一人が違う個性を持っているからである。故に、資本主義国であろうと社会主義国であろうとその格差が固定的となった時、経済の活性は失われるのである。変化を容認しない体制は、経済を停滞させるのである。
 不公正は、社会構造が生み出す。公平な社会を作り出すには、社会を公正な社会に再構築する必要がある。それが構造経済である。

 経済の機能は、第一に、働きに応じて財や用役を分配することである。第二に、必要な財や用役を消費者に送り届け、一定の生活水準を維持させることである。第三に、財や用役を社会の隅々まで浸透させることである。

 労働の機能には、生産と消費がある。生産が労働ならば、消費も労働である。生産の現場だけが経済の現場ではない。消費の現場も経済の場である。

 市場の機能は、需給の調整・調節と交換価値の調停、財や用役の交換である。市場経済は、経済の一部、部分であり、全てではない。需給は、市場においてのみ有効な機能である。

 貨幣の機能は、価値の蓄積と交換の仲介である。貨幣と物流は、作用反作用の関係にある。つまり、貨幣の流れの逆方向には、何らかの財や用役の流れがある。また、貨幣の流れは、ストックとフローを生み出す。

 経済主体の機能は、労働力の提供と生活の実現、資金の生産と供給、価値の創造である。

 国家の機能は、第一に財の再配分による格差の是正することである。第二に、市場を管理して、物価を統制し、市場を規制し、市場の規律を保つことである。第三に、通貨の管理である。第四に、産業の保護育成である。第五に、公共事業によって、雇用を創出し、社会資本を充実することである。第六に、福利厚生によって国民の生活水準を一定に維持し、国民生活を守ることである。第七に、法を整備し、秩序を維持することによって社会信用を保つことである。第八に、国防を計ることによって国民の生命財産を守る事である。第九に、教育である。
 財政の規律は、経済の機能から求められるものであり、現象から求められるものではない。

 経済の役割は、必要な財をその人の働きに応じて社会に満遍なく配分・還元することである。この様な経済の機能は、循環運動によって支えられている。つまり、経済は、循環運動である。

 経済は基本的に回転運動、循環運動である。回転運動、循環運動は、波動を生むと言うより、波動は循環運動の一種である。急激な波動は、経済機構を破壊することもある。それ故に、経済の波動を制御する必要が生じる。その波動を制御するのが、経済機構、経済政策の役割である。
 財の偏在や水準の違いは、財の循環に支障をきたし、配分がうまく機能しなくなる原因となる。特に、最低限の生活が保障されるような生活水準が維持できなければ、経済は破綻し、社会は危機的状況に陥る。また、財の循環が機能しなくなると、生活するために必要な財の配分がされない部分が生じる。その部分は、最低限の生活が維持できなくなり、社会から脱落していく。この様な脱落者が増大することは、社会不安を拡大し、社会秩序を維持することが困難になる。
 それ故に、生活水準を保つように経済体制を維持することが経済政策の重要な目標となる。この様に、経済を決定付ける要因の水準をいかに保つかが、経済機構の最も重要な役割である。

 貨幣とは、商品と市場で交換するための権利を具象化した物である。貨幣そのものに価値があるわけではない。貨幣は、価値を表象した物にすぎないのである。
 市場経済の実体は、商品の流れ、物流である。貨幣は、その物流の仲介、媒体として働く。故に、経済の循環運動は、貨幣によって逆方向の動きとして現れる。

 景気の良し悪しは、人々の心証に左右される部分が大きい。所詮経済は生き物なのである。

 経済の機能は、配分であるから、経済尺度重要なのは、総額よりも比率である。しかし、実際に人の心理に与える影響は、総額の方が大きい。それが経済現象に対する認識で重大な錯覚を起こさせる。
 経済を考えていく上で重要なのは、経済全体に占める個々の要素の比率であり、水準である。経常収支にせよ財政にせよ、それだけを問題にしても、その問題点を明らかにすることはできない。その意味で経済の問題は、現象論的なものでなく、構造論的なものなのである。
 また、経済を活性化する目的だけで発動される経済政策は、例えば、穴を掘って金を埋めるような施策は、経済の持つ本来の機能を損なう。経済を活性化させるために財政を発動するにしても内容を伴わなければ、闇雲に財政を破綻させるだけでなく、資源を枯渇させ、環境をも破壊させてしまうのである。典型は、戦争である。戦争は、表面的な経済を活性させることはあっても、同時に、経済そのものを破壊してしまう。




                    


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