価値の創造


 経済の重要な機能の一つに価値の創造がある。

 経済価値の根本は、使用価値と交換価値である。そして、経済は、使用価値が基礎である。交換価値は、使用価値に従属的に派生する。
 使用価値とは、財やサービスの有用性、即ち、効用を指して言う。
 使用価値というのは、使用者サイドにある。必要性というのは、使用者サイドにある。そして、本来価値は、必要性によって成立するものである。それ故に、価値の形成するのは、本質的に供給サイド、生産者サイドではなく。使用者側、消費者側なのである。

 どういう教育をするかによってどの様な学校にすべきかが決まる。どの様な学校にすべきかが決まって、どの様な校舎にすべきかが決まる。校舎の建築は、失業対策でも、景気対策でもない。どの様な教育をすべきかが根本の問題であって、どんな校舎にすべきかは、教育に対するビジョンがあって成立する物である。どの様な教育をすべきかは、政治的問題である。その政治的判断の基にどの様な校舎にするかという経済的な判断が働くのである。校舎の建設予算があるから校舎を建てるというのは、政治的にも、経済的にも無意味であり、愚行である。
 校舎をどうするかは、校舎をどうするかによって決められるべき物である。いかに、仕事がないから、金の使い道がないからと言って校舎を造るのは、無駄と言うよりも必要もない教育を強いることにもなり、かえって弊害である。莫大な税金を費やして、必要としない道路を作って生態系や環境を破壊したら犯罪である。国を守るための軍備によって国家財政が破綻し、その結果、侵略戦争を引き起こして、国民どころか近隣諸国の人民まで戦禍に巻き込むのは、本末の転倒である。
 それは、人類にとって何が必要なのかが、価値の基本である事を意味している。家族にとって何が大切なのかを忘れ、豪邸に住んでも、金を貯めたとしても、美味しい物を食べたとしても、快楽に溺れても幸せにはなれない。大切なのは、何が幸せになるために必要なのかであり。それが、価値の源泉なのである。それは、価値の源泉が交換価値にあるのではなく、使用価値にこそ、価値の源泉があることを証明している。

 貨幣は、交換価値を具象化した物である。貨幣のもう一つの特徴は、価値をデジタル化、数字に置き換えることによって表現しているという事である。つまり、貨幣価値は、交換価値を数字的な体系に還元する事によって成立している。この数字という無機質な基準に価値が置き換わることによる利点も多くあるが、反面、弊害も生じているのである。

 また、貨幣は、中央銀行の債務であり、国民の債権でもある。(「経済論戦の読み方」田中秀臣著 講談社現代新書)この事は、経済政策を決定する上で重要な意味がある。

 貨幣のデジタル的性格は、交換価値そのものがデジタルな基準だという錯覚を生じさせている。デジタル的性格、数字的性格というのは、明確に序列化できるという事である。人間の価値を一概に序列化することは難しい。と言うよりも不可能である。しかし、年収によって人間を序列化、差別化することは、容易である。また、人間一人の労働力の価値と家一軒の価値とは、比較しようがない。しかし、年収と家の価格とは、比較することができる。つまり、本来比較しようのない物を容易に比較検討することも可能となる。数学的価値とは、その様な性格を持つ。
 つまり、デジタル化、数値化というのは、対象からあらゆる属性をはぎ取り、ただ数字的価値に置き換えることを意味する。しかし、本来の交換価値は、単純に割り切れるものではない。同じ間取りの家でも、その家に愛着を持つ者と何の愛着を持たない者との間では、交換価値の度合いが違う。しかし、愛着は、貨幣価値に換算することはできない。数値化しえない物まで強引に数値に置き換える。それが貨幣価値の特性である。その為に、交換価値以外の価値が、全て削ぎ落とされてしまう。その最たるものが人間の感情である。貨幣価値には、この様な欠点があることを忘れてはならない。

 貨幣価値の総和は、現実の財の総価値ではない。また、必要とされる生産財の価値の総和でもない。

 例えば、計算上、貨幣が全人口の食費を賄えるだけあったとしても、また、所得の総和が、全人口の食費を賄えるだけあったとしても、食料が全人口の欲求を満たすだけあるとはかぎらないし、証明にもならない。さらに、全人口一人一人の嗜好を満たすと言うことにもならない。
 貨幣価値というのは、市場における交換価値を表象しているに過ぎないのである。だから、貨幣価値は、市場における需給に左右される。例え、全人口を満たすだけの食料があったとしても市場に出回らなければ、貨幣価値は、生じない。また、ある物が、生産量に対しごく一部しか市場に出回らずに、その物に対する欲求が高ければ、本来の価値以上に貨幣価値、即ち、価格は高騰する。
 つまり、貨幣価値は、そのもの自体の持つ本来的価値ではなく、交換価値だけを表象しているのである。そのもの自体が持つ本来的価値とは、使用価値である。

 ところがマルクス主義にせよ、近代経済学にせよ、この価値を転倒している。つまり、交換価値に使用価値が従属しているかのように錯覚しているのである。
 交換価値は、使用価値に従属した価値である。そして、使用価値は、必要性から派生し、必要性は、個人の欲求によって形成される。故に、経済は、純粋に個人主義的なものなのである。

 使用価値と交換価値を転倒すると重大な錯誤が生じる。なぜならば、使用価値は、個人に帰着し、交換価値は、市場に帰着するからである。交換価値を土台とし、使用価値を従属的なものと見なすと、経済は、全て市場的な価値に還元されてしまう。市場経済を否定したマルクスが、なぜ、交換価値に使用価値を従属させたのか理解できない。
 全ての価値を交換価値に還元してしまうことは、全ての財を均一の物にしてしまう。価値の多様性を否定する事である。その結果、全体主義的な国家体制が生まれるのは、必然的なことである。つまり、個が成り立たないのである。経済は、元々、個人の生活から発する現象である。個が成り立たなければ、経済は成り立たない。経済が破綻するのは当然の帰結である。その上、市場価値に立脚していながら、市場を否定するという自己矛盾を引き起こす。それを弁証的というのならば、自己破滅的、自己否定的という方が正しい。
 また、価値の転倒があるから、弁証法的な処理をしなければ、論理的に成り立たなくなるのである。しかし、弁証法的な処理は、科学的・合理的処理ではない。
 カンボジアのポルポトや毛沢東、スターリンがどの様な国を作ろうとしていたのか。私には想像がつかない。それは、人間性を全く感じないからである。国家は、人間の集まりである。人間性を感じさせない国家は、成立しえない。つまり、人間が人間性を否定する。将に自己破滅型国家、自己否定型国家になってしまう。そして、歴史は、不幸な事に今述べたのと同じ結果を招いたのである。
 交換価値の前提は、それを要求する人間の必要性である。必要性は、使用価値によって決まる。何にどの様な使用するかは、個人の価値観に基づく。他者から見て無価値に見える物でも、当人にとって何らかの使用価値(鑑賞や収集も使用価値の一種)があれば、価値は成立する。そして、使用価値を交換価値に変換する過程で媒体として貨幣は機能する。それが使用価値と交換価値の因果関係である。

 日本人は、空気と安全は、ただ、つまり、市場的価値がないと思っていると言われた。安全はともかく、少なくとも、現在は、空気には市場価値がない。しかし、これは、市場的価値であり、経済的価値がないという意味ではない。空気には、いろいろな経済的価値がある。ただ、空気は、至る所にあり、交換性がないから市場価値がないだけなのである。使用価値から見れば、多大な価値がある。人間は、空気がなければ生きていけないのである。
 また、広い意味での環境も効用はあるが、交換価値がない。つまり、使用価値はあるが、市場価値がない。故に、環境を保護する事に対し市場経済には動機がない。その為に、環境の悪化を市場ではくい止められない。しかし、環境は、経済に密接に繋がっている。経済と環境を結びつけないで考えることはできない。環境を保護しようとすれば、何らかの規律や規制を市場に課す必要がある。
 この様に、交換価値だけで経済問題を処理しようとすると経済は、機能不全に陥る。経済機能の本質は、生活、即ち、生存活動、生命活動にある。

 また、市場は、公共の利益を代表していないという事も忘れてはならない。結局、市場は、需給の調整が主な機能だと言う事なのである。そのうえ、市場を放置すれば、市場は、独占市場や寡占市場のような硬直的な構造にも変質する。市場は、何もしなければ競争原理によって自律的に調整するというのは幻想に過ぎない。市場の機能が硬直化すれば、需給の調整という機能も低下する。更に、硬直的市場は、富の偏在を促す。市場の機能に、経済の制御を無条件に委ねるのは、社会的財の公共性を否定するようなことでもある。市場は管理されなければならない。

 市場価値さえあれば、なんでも有益だというのも間違いである。麻薬であろうと、子供達に有害な情報やメディアであろうと、また、地震が起きたら崩壊するような建物であろうと、需要があれば、売買してもかまわないと言うのでは、社会秩序は保てなくなる。市場は、自ずと管理されなければならない。必然的に市場を管理するための基準は、交換価値以外のところに求められる。どの様な国家、社会を建設するかのビジョンや理念に基づく必要がある。そして、その価値を決め、また正すのが政治の役割なのである。それを経済的機能にばかり求めたら、市場の規律は損なわれ、市場は正常に機能しなくなるのである。

 貨幣の使用価値は、交換という機能、市場性に特化しており、蓄積という機能は、副次的に派生したものである。つまり、貨幣は、使用価値と交換価値が一体となった象徴的物である。つまり、価値を象徴化した物なのである。それが貨幣の特性である。そこから、貨幣の機能が定義される。つまり、貨幣の機能は、交換の媒介と蓄積である。
 装飾性や希少性という二義的意義を持つこともあるが稀であり、それを、貨幣の本来的価値として捉えると重大な錯覚をすることになる。つまり、貨幣の機能は、交換の媒介と価値の蓄積である。価値の蓄積は、交換機能の必要性から生じている。
 この機能から、貨幣の素材は選択された。そして、機能を強化する過程で貨幣制度は、発展・成長してきたのである。
 ただ、貨幣が生み出す価値は、貨幣本来の機能から離れないという事を忘れてはならない。つまり、貨幣価値は、貨幣の機能から派生した属性なのである。貨幣そのものが価値を有しているわけではない。貨幣は、交換を媒介する過程で価値を派生させたのである。つまり、貨幣価値は、従属的価値であり、同時に相対的価値なのである。
 貨幣の意匠は、貨幣の機能から模造されない事を第一義に考えられている。芸術性や美術性、装飾性は、二義的な問題である。むろん、希少性は問題とされない。
 貨幣価値には、本来、財が持つべき財の質的な特性が抜け落ちいてる。つまり、貨幣価値には、貨幣の質は、問題にならないのである。貨幣が発展する過程や流通する過程において貨幣の質が問題になることはある。しかし、それは、貨幣制度の信憑性においてである。貨幣が表象する価値には無縁なのである。貨幣価値の表象する価値の性質は、その対象となる財の方にある。つまり、金の価値は、金そのものが持っている。そして、金の品質は、換算された貨幣の側にはなく、貨幣は、金銭的な評価を表象しているに過ぎない。電気製品の性能は、電気製品の側にあり、貨幣価値の側にはない。貨幣価値は、電気製品の交換価値を表象しているに過ぎない。
 百万円のダイヤも、家具も、家電製品も、自動車、旅行代金も貨幣価値は同じである。商品の違いや差は、貨幣価値の上では問題とされない。貨幣価値は、需要と供給の問題である。百円ショップは、象徴的である。それこそ、商品が、何千、何万アイテムあっても全ての価格、貨幣価値は、百円に統一されているのである。労働力も貨幣価値に換算されると、一人一人の人間性や性格、家庭環境、履歴などから切り離されてしまう。つまり、問題となるのは、交換価値なのである。
 貨幣は、貨幣の質を問題にされることはない。もし、質が問題とされる場合は、貨幣としての機能は、喪失している。それは、希少価値や装飾的価値を表象しているのである。そして、希少価値や装飾的価値を持った瞬間、その貨幣は、貨幣としての機能が喪失するのである。
 
 この貨幣価値の特徴を忘れると、バブル時代に東京の地価だけでアメリカ全土の土地が買えるなどと言う馬鹿げたことが起こる。

 貧しい国の一般庶民の一年の年収に相当する額を一日に食費で費やしているとか、一人の大金持ちの所得で何万人もの人間の食費が賄えるというのは、馬鹿げた発想である。

 市場に流通する通貨の量と財の量の比率は、一定していない。比率が一定しないために、市場価値も流動的である。故に、市場に流通する通貨の量と財の量との不均衡は経済現象の均衡を乱す原因となる。

 貨幣は、無制限に創出できる上に、蓄積が可能である。それに対し、資源や生産財には限りがある。有限である。その上、蓄積することが難しい物が多い。価値が陳腐化するものが多い。
 国家は、通貨を無制限に市場に供給することができる。しかし、通貨が過剰に市場に供給されると、貨幣価値が流動的となり、経済活動が不安定になる。逆に、供給量が少ないと、経済活動が停滞する。いずれにせよ市場の規律が失われる。

 貨幣のこの様な機能から、市場に流通する貨幣の量が問題になる。つまり、交換価値は、市場の需給によって裁定されるものだからである。そして、市場価値を安定させるためには、市場に流通させる貨幣の量を制御する必要がある。流通させる量を特定するためには、市場の特性を知る必要がある。

 市場は、余剰生産物の交換場所であった。つまり、市場の外部に多くの財が存在することを意味する。好例が土地や株である。土地や株は、その全ての財が、市場に出回っているわけではない。市場に出回っているのは、ごく一部である。しかし、そのごく一部の土地や株が市場価格を決定している。そして、ごく一部の株の値動きによって株の相場は乱高下するのである。
 土地や株が市場に出回るのは、それが使用されていない、使用価値が交換価値に転化されたものだけである。そうなると、余剰生産物の持つ交換価値が問題になる。市場経済が発達すると、ほとんどの財が交換価値、貨幣価値に換算されるようになる。しかし、基本的には、この市場の需給による価値の決定という仕組みには、変わりはない。つまり、物の価値は、市場の状況に左右される。市場の状況の影響を完全に排除することはできない。それが市場経済の特徴である。何らかの事故や災害によって一時的に供給が減っても市場は過剰に反応し、市場価格は重大な影響を受ける場合が多い。些細な出来事や流言飛語、噂が増幅されて市場を攪乱するという事が往々にして起こる。それが市場経済全体の不安定要因となっている。
 市場に出回る商品の多くが使用価値が交換価値に転化された物である。不動産市場、株式市場が典型的である。不動産価値や株の価値を決めるのは、市場に供給される量とそれに対する需要である。余剰価値は、交換価値に転化される。つまり、商品化されるのである。交換価値は、需要と供給によって裁定される。つまり、余剰価値と使用価値とは、交換価値を介して結びついているのであり、直接的に結びついているわけではない。市場価値、貨幣価値と使用価値とは、直接的に結びついているわけではない。交換価値の裁定が、需給に基づいて為されるという事は、希少価値が必要以上に重んじられる傾向を生む。その商品の性能や利便性と言った価値よりも希少性の方が価値を生む。そうなると、経済手はに価値のある物が軽んじられ、経済的な価値か本来低い物が重んじられるようになる。それが、その物の持つ価値から価値が乖離することにもなる。それが分配や生産にも影響を及ぼす。このような市場の構造的欠陥を是正することが国家の重要な役割となる。つまり、市場と通貨の管理が国家の重要な役割、機能なのである。
 不動産価格や株の価格が経済の実体を振り回す現象がよく起こる。それは、余剰生産物の流通によって経済の仕組み全体が揺り動かされ、時には、破壊されてしまうことを意味する。それらを制御するためには、市場を構造的なものとし、政策によって市場を制御し、更に、通貨の流量を構造的に制御する事が必要になる。その為に、重要なのが財政である。

 市場経済が発展すると財が余剰生産物から主要な生産物、そして、全ての財を網羅するように市場価値に置き換えるように変化してくる。使用価値を一旦全て交換価値に転化し、市場の再分配機能によって公平を実現しようとする。それは、貨幣価値によって経済が支配される事を意味する。また、全ての財を貨幣価値、即ち、交換価値を数字に置き換え、還元する事によって価値の一元化を測るのである。貨幣経済は、価値を貨幣に一元化することによって経済現象を制御しようとする制度なのである。

 たとえ、貨幣価値に経済を支配されても貨幣価値と財との非対称性が解消されるわけではない。貨幣価値は、あくまでも、市場における交換価値を代表した物にすぎないのである。何度も言うように、価値の本質は、対象となる物自体とそれを認識する者との間に直接的に成立するのである。人を好きになるのは、その人の経済力や金銭的価値に対してではなく、その人自身と自分の気持ちとによってなのである。

 また、市場は、最初から貨幣によって支配されていたわけではない。最初は、物々交換が主であり、即物的な場であった。そこには、価値の抽象性も、数値化、標準化、一般化ももなかった。価値は、直接的に物に還元されていたのである。

 希少性というのを経済的価値と錯覚している傾向がある。アメリカの高校の経済の教科書の冒頭にも「全ての社会が直面する根本的経済問題は、希少性(scarcity)だ。」と書かれている。(「アメリカの高校生が学ぶ経済学」ゲーリーE.クレイトン著 大和証券訳 WAVE出版)
 希少性という価値は、市場と貨幣の特性から生じる。希少性は、交換性と蓄積性がないと経済的には意味がない。個人の嗜好を満たすだけでは、経済的価値は、嗜好を満たした瞬間、喪失するからである。つまり、使用価値がなくなるのである。使用価値がなければ、交換価値に転化する必要がある。蓄積性がなければ、交換価値に転化することができない。交換価値に転化できなければ、市場価値がなくなるのである。そして、希少性は、市場の需給から生じる。個人的に扱っている限りは、どんなに珍奇な物でも市場価値はないのである。
 希少性が評価されるから印刷ミスをしたお札とか、病気の花、変形した植物、突然変異を起こした動物、絶滅寸前の動物と言った本来見向きもされない、すてられてきたような物が価値を生むのである。つまり、無価値な物にまで価値を付与するのが、希少性である。故に、希少性に経済の基盤を持たせると、必要性や重要性と言った価値が無価値な物に変質することすらある。それがいかに経済にとって有害かは、現代社会が環境汚染、資源の枯渇、種の絶滅と言った問題に直面していることを見ても解る。

 必需品と贅沢品を考えるとよく解る。必需品というのは、必要不可欠な物であり、使用価値は高い。贅沢品というのは、使用価値は低くても交換価値は高い。だとしたら、どちらの方が経済的価値が本来高いのか。本来的経済的価値は、使用価値であるから、必需品の方である。しかし、市場価値は、交換価値であるから、贅沢品の方が価値が高い。

 昔、数の子やトロ、鯨は、大衆的、庶民の食べ物であった。しかし、乱獲や規制によって市場に出回る量が少なくなると、市場価値が高まり高級な食材となった。そうなると、市場価値から食べ物の価値、味までも決められるようになる。つまり、高い物は、美味しいのである。味覚は変わっていないはずであるのに、市場に出回る量によって価値が決められる好例である。そのお先棒を担いでいるのがマスメディアというのは、現代社会を象徴している。本来、価値を定める言論が評論家が、市場価値に振り回されているのである。ならば、誰が一番美味しい物を知っているのか。無邪気な子供達かもしれない。

 交換価値や貨幣価値が全ての価値に優先すると言う事は、売れる物しか作らなくなる。出版業界に例えれば、良質な本や主張したい事を出版するのではなく。売れる本しか作らなくなる。そして、言論の自由も売れる本のための自由でしかなくなる。社会に有害であろうとなかろうと、売れる本を作って何が悪いという論法になる。この様な出版界の姿勢は、言論の本質を土台から切り崩してしまう。つまり、使用価値よりも交換価値が優先されてしまうのである。コマーシャリズム、商業主義によって倫理観が喪失するのである。

 インフレやデフレは、経済上の高血圧や低血圧のようなものである。つまり、物価の水準の問題である。物価の水準の乱れである。この様なインフレやデフレの原因は、構造的なものである。この物価水準の乱れが極端に触れると不景気や不況、恐慌を招くことがある。特に、全ての作用が一定の方向に向くと変動は、反発力を失う。この様な場合、経済のみならず社会構造も破綻させてしまうことすらある。

 物価水準の乱れを生む要素にはどの様なものがあるであろう。第一に、経済主体の持つ回転運動や循環運動は、周期的な波動を生み出す。この波動の振動の幅が大きくなると、経済を制御できなくなったり、市場の構造的変化や経済主体の破綻を招くような事態を引き起こす事が考えられる。
 また第二に、個々の生産財や用役は、それぞれ固有のライフサイクルを持つ。また、市場にも拡大市場、成熟市場、縮小市場という変化がある。この生産財のライフサイクルと市場構造の不協和が経済の安定を損なう原因となる。
 現在の経済は、基本的に拡大市場、成長経済を前提としている。その為に、拡大市場から成熟市場、縮小市場への転換点、調整局面や成長期から成熟期への移行に際し、転換や調整がうまく機能せず、縮小局面に入っているのに、惰性的に過剰生産、過剰供給を続けることで、市場の過飽和状態を招き、デフレを悪化させると言った場合が考えられる。
 第三に、フローとストックの間にも相関関係がある。フローとストックとの間には、一定の相関関係がある。その相関関係は、量的、質的均衡によって保たれている。ところが、この均衡が失われると、経済を制御する事ができなくなり、景気の暴走や冷却化を招くことがある。ストックに対し、フローが過剰になったり、不足したり、また、逆にフローに対し、ストックが過剰になったり、不足すると、市場の需給バランスが乱れ、物価水準の乱高下を招く。例えば、物価水準に対し、不動産価格や株価の水準が以上に高騰すると、フローとストックの水準の乖離を調整しようとする力が働き、資産デフレかフローインフレを引き起こす。または、売り惜しみにより、フローが極端に少なくなり物価の高騰を招くと言った現象である。
 第四に、為替と変動や原油価格の高騰と言った経済の基礎的要素の重大な変化である。オイルショックや円高不況と言った現象で立証されている。
 第五に、天災、戦争、気候の変化、大事故といった突発的な出来事、異常現象、非常事態と言ったものが、経済に一時的でも決定的な影響を与えることがある。第四次中東戦争によってオイルショックは引き起こされている。
 第六に、税制度や会計制度、金融制度、金本位制度と言った、社会制度や社会構造がが与える影響である。例えば、地価の高騰が相続税対策を促し、その相続税対策が、地価の高騰を促すと言った現象やデフレ期に減損会計を導入すれば、デフレを更に昂進させると言った現象である。
 また、貸し出し規制によって市中金融の不動産への貸し出しを抑制しながら、農林系金融の貸し出しを規制しなかったために、不良債権の増大を抑止できなかったと言った点である。
 第七に、財政、金融政策といった政策的問題である。銀行の自己資本比率を高める、政策が、不良債権を増大させると言った事や売りオペという金融引き締め政策が資産デフレを引き起こすと言ったことである。(「日本経済にいま何が起きているのか」岩田規久男著 東洋経済新報社)
 また、政策の決定に時間がかかり、政策を発動した時には、タイミングを逃していて逆効果になるという事もある。
 第八に、市場に働く、心理的圧力である。市場全体に不況感が漂うと、消費者は買い控えをし、ますます不況を昂進させると言った現象が好例である。つまり、需要の減退を引き起こす原因として市場心理は、無視しえない影響力を持っている。その点を当局が自覚したが故に、市場に対するアナウンス効果を重視するようになってきたのである。
 第九に情報の非対称性がある。情報が非対称であることによって、社会不安が増大し、些細な事でも暴走してしまうと言った現象である。
 第十に、実需に投機圧力がバイアスをかけると言う事である。2005年代の原油の高騰には、投機筋の思惑が重大な影響を与えていると言われている。
 むろん、財の過不足、生産と消費の不均衡による経済変動も無視できない。
 以上のような要素が、複合的、構造的に働いて、物価水準に影響を与える。そして、変動の幅を平準化することによって市場に決定的なダメージを与えないように心懸けなければならない。それが経済の舵取りである。

 市場価値は、市場に働く力が均衡するところで安定する。つまり、物価は、経済的な作用の均衡する水準で落ち着くのである。経済の安定を計るためには、市場に働く力の方向と作用とその総和を測り、それが安定する方向に順に働いているか逆に働いてるかを見極め、構造的、複合的政策によってその背後の構造や運動に働きかけて水準が均衡・安定する方向に向ける必要がある。
 市場に働く作用は、歴史的過程、又は、歴史的構造によって引き起こされていることを忘れてはならない。

 不景気や恐慌は、急速に通貨や財の流れ・流通が悪くなることによって生じる。通貨や財の流れが悪くなる事によって経済が潤滑に動かなくなるのである。この様な乱れの原因は、資金の過不足、財の過不足によって引き起こされる。それによる市場における価値形成の失敗に原因がある。つまり、市場の機能不全である。
 市場の機能不全を治す為には、一面的な対策ではなく、構造的な原因を明らかにし、複合的な対策によってなされなければならない。 

 経済現象を市場という限られた範囲、領域だけで考察すると、経済の全体像が損なわれる。俗に言う、木を見て森を見ずと言う事になる。






                    


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