需要と供給


 市場が形成されると需給が問題になる。需要と供給は、市場価値を一定に保つための重大な機能がある。需要と供給は、市場価値を決定・調整する際、重要な働きがある。ただ、需要と供給は、近代経済の中で過大な評価がされてきたきらいがある。需要と供給だけが市場価値を決定するわけではない。市場価値の根本は、使用価値であり、必要性である。

 需要と供給が価値を形成するのではなく。価値が需要と供給を形成するのである。また、需要と供給だけが市場価値を決めるわけではない。確かに、需要と供給は、市場価値に重大な影響を与える。しかし、その重要と供給の背後に隠れ、需要と供給を生み出している構造、仕組みが重要なのである。つまり、動機が大切なのである。
 市場価値は、貨幣経済下では、最終的に貨幣に換算される。その為に、市場価値が最終的に定まるには、市場に流通する貨幣の総量が重要な要素となる。
 過剰に貨幣が市場に供給されると貨幣価値を低下させ、インフレーションを引き起こす原因となる。市場価値は、市場に流通する貨幣の量に影響を受けると言っていい。貨幣が過剰に市場に供給されている状況を過剰流動性という。ただ、過剰流動性は、即、インフレーションに結びつくとは限らない。通貨が供給されても需要がなければ、貨幣は、蓄蔵される。
 デフレーションは、貨幣価値の上昇を意味し、インフレーションは、貨幣価値の下落・減少を意味する。
 この様に需要と供給は、貨幣を介して調整される。

 確かに、需要と供給は、市場価値を確定するのに、決定的な役割を果たす。また、インフレーションやデフレーションの原因となる。しかし、需要と供給のバランスだけがインフレーションやデフレーションを引き起こすわけではないし、その需要と供給の不均衡を引き起こした原因や構造が真因なのである。ただ需要と供給の問題で片付けていたら、経済の問題は解決できない。

 市場が過飽和な状況では、いくら総需要を刺激しても景気は良くならない。満腹な者にいくらご馳走を並べても食欲が沸かないように、腹一杯の市場は、需要を喚起しないのである。その場合は、総需要を喚起するような政策ではなく。市場を空腹にする政策をとる必要がある。

 高度成長期の市場とバブル期、デフレ期の市場は違う。高度成長期の市場は飢えていた。荒廃した国土は、開発を必要としていた。人々の生活は貧しく。皆、物心両面において飢えかつ渇いていた。そこへ技術革新の波が押し寄せてきた。しかも、国内の政治は、長期に安定し、平和であった。だからこそ、総需要を刺激すれば、経済は、黙っていても成長した。反面に公害をはじめエネルギー問題といった高度成長の歪みも大きく出たのである。高度成長期は、国内に未発達な、発展途上の市場を抱え、貿易は、大幅な円安と保護主義によって守られていたのである。故に、輸出すれば売れ、そして、作れば売れる状況があったのである。
 それに対し、円高不況が訪れた時は、市場は、過飽和な常態であり、必需品は、輸入品か国産で賄えたから円高の影響を比較的軽微に受け止めることができた。その為に、市場に吸収されない貨幣が溢れ出したのである。それがストックに向かいバブルを引き起こしたのである。また、その後のデフレ期も市場そのものの飽和状態は解消されていなかった。つまり、物が溢れていたのである。だからデフレが止まらない。
 それでも、商品を供給して需要を喚起しようとした。満腹な人間に更に食べさせようとしたのである。飽食の時代である。世の中には、高級な食材が溢れ。グルメ番組が流行る。かつて、中国の食通は、吐きながら食べたと言われるが、その様な経済状況が現出したのである。これはもう醜悪以外の何ものでもない。餓鬼の世界である。
 高度成長期以後の市場は、常に供給過多であった。市場が満腹している状態では、いくら購買力をつけても需要は生まれない。故に、拡大再生産ができない公共投資は、景気を回復するに至らない。闇雲に財政を悪くするだけである。状況が違うのである。

 市場経済、貨幣経済は、明治以降の税制改革によって浸透した。即ち、納税を金、つまり、貨幣ですることによって生産物を一旦市場で貨幣に変換する必要性がでたことによって市場経済、貨幣経済は、社会の隅々まで浸透したのである。それまでは、納税は、物納や賦役、用役で行うこともできたのである。つまり、経済的価値は、貨幣価値だけではなかった。むしろ貨幣で換算される価値の方が小さかったのである。

 本来市場は、補助的な場であり、分配は、主として共同体を通じてなされていたし、今でも、大多数が共同体によって分配されている。ただ、共同体の分配機能に限界があるから、市場は成立した。補助的な場としての市場は、余剰生産物の捌け口だった。そして、それが市場の性格を決める。

 最初の市場は、余剰的生産物の交換の場として、発生する。それがやがて、必需品の交換の場へと変化する。
 余剰的生産物は、市場に浮動的価値を発生させる。その浮動的価値が、貨幣によって保存力を持つようになると価値の蓄積が始まる。蓄積された価値は、それを納める所を求めて、市場の希少品に集束する。それが、希少品の価値を高めるのである。

 しかし、この様に、実需から離れて形成された浮動的価値は、時として、実物経済を振り回すことになる。犬の尻尾に犬の体が振られるようなことが起こるのである。金融市場が好例である。

 需要を生み出すのは、価値である。価値を生み出すのは、個人の欲求である。個人の欲求の第一は、生存である。第二は、自己実現である。
 欲求は、必要性の源である。必要性は、価値を形成し、需要を作り出す。需要が形成されると供給の必要性が生じる。一度、需要と供給が成立すると需要と供給は、均衡点を求め、価値を調整する。

 どんなに希少品でも面白くない本やゲームは、売れない。つまり、需要がないのである。価値は、その物が持つ、魅力、必要性が生み出すのである。

 ダイヤモンドに対する需要がなければ、市場にダイヤモンドが供給されても価値は生まれない。石ころとダイヤモンドの違いは何処にあるのか。それは、ダイヤモンドを欲する者がいるという事である。石ころが何処にも豊富にあってダイヤモンドが希少だと言うこともある。しかし、それ以前に、ダイヤモンドを大金を投じても欲しいと思う者がいるという事実の方が、ダイヤモンドの価値、価格形成には、重要なのである。その上での需給関係である。

 この様に、需要と供給が価値を決めるのではなく、価値が需要と供給を決めるのである。言い換えると欲求が価値を生み出し、需要となり、供給が需要に基づいて価値を決める。

 タレントやスポーツ選手が高額の所得を得るのは、希少価値によるものではない。市場規模が巨大だからである。一つ一つの利益は、小さくとも量が集まると高額の所得が得られるのである。

 なぜ、共産主義は失敗したのか。それは、人々の欲求を必要性と結びつけなかったことである。

 市場は戦場である。
 市場原理、即、競争原理というのは、まやかしである。市場は、戦場である。経済主体が存在をかけた戦いの場である。スポーツと戦争とは違う。スポーツに負けたとしても命までは奪ったりはしない。
 市場は、戦場である。生きるか死ぬかの場である。殺戮の場、修羅場である。市場における敗者は、完膚無きまで叩き潰され、再起不能に陥る。しかも国際市場には、スポーツのルールのような統一された法はない。無法地帯なのである。最後は、戦争によって決着がつけられる。

 私は、いかがわしい陰謀説に組したりはしない。しかし、もともと市場は、経済は、適者生存がならいなのである。市場は、弱肉強食、戦いの場なのである。

 市場の力は、暴力的である。市場の原理に従えば、市場は、寡占、独占的体制に向かう。それを阻止しようとすれば、国家暴力、権力を行使せざるを得なくなる。しかし、今や多国籍企業は、国家以上の力を持つようにすらなってきた。
 新規参入を規制しなければ、競争原理は、働くというのは机上の空論である。新規参入によって競争の原理が保たれるという産業は、ごく少数である。
 また、規制をなくせば公正な市場が保てるというのも幻想である。幻想と言うよりも嘘である。為替の変動によって公正で対等な市場などあっという間に潰えてしまう。そして、一度潰えてしまったら産業構造は、簡単には回復することができないのである。
 規制を緩和しろと言うのは、欺瞞である。規制の質的転化をしているに過ぎない。規制を緩和することによって喜ぶのは、強者である。現にバブル以後勝ち残ったのは、強者である。
 市場の原理は、競争の原理ではない。闘争の原理なのである。そこにあるのは、強者の戦略と弱者の戦略である。弱者の戦略を一方的に封じ込めるのが規制緩和である。
 規制を考える時、緩和するにせよ、強化するにせよ、一体それで誰が得するかを考えればいい。

 不用になった産業は、淘汰されればいい。生産性が低く、収益力がなくなった企業は、市場から退出するのが当然であると多くの経済学者が主張するが、簡単に産業構造は転換できない。人の一生が容易く変えられない。その人その人が歩んできた人生経験や知識、技術によって身につけた仕事を古くなったからと言って全く違う仕事に生かすことは言うほど簡単ではない。多くの人は、時代の変化に取り残されてしまうのである。そして、変化は、道徳や人格とは、無縁なものなのである。どんなに立派な人でも市場の変化についていけなくなることはよくある話である。正直者が馬鹿を見る、それは、日常的な事である。経済構造・産業構造の変革には、時間と多くの犠牲を伴うのである。

 市場は、規制されなければならない。重要なのは、市場の構造である。問題なのは、規制の質であり、在り方である。ただ、保護主義的な規制は、結局は、産業の体力・実力を弱めるだけである。だからといって規制をなくせと言うのは暴論である。規制が市場にどの様な作用を及ぼすかを構造的に考察する必要があるのである。

 需要と供給が経済の全てであるような言い方をする者がいるが、市場に関わらない人間には、需要も供給も関係ないのである。
 自給自足の生活をしている人間は、その日の米の値段は意味をなさない。需要と供給は、市場があって成り立っている。

 競争原理だけでは、石油ショック、円高、バブル、その後の不況という現象は、説明しきれない。経済学者が言っているのは、石油や円、土地、株が急激に高騰したという事とその結果、経済にどの様な影響が出たかを説明しているにすぎない。石油や円の高騰は、結果に過ぎない。その高騰の背後に何が隠されているか、その原因が重要なのである。さらに、その原因の大本である。産油国の生活実態はどの様なものなのだったかがわからなければ、経済変動の真の原因は解明できない。
 だから、現代の経済学者に有効な経済政策が立てられないのである。

 需要と供給は、微妙な均衡の上に成り立っている。言い換えると、極めて繊細で危うい均衡の上に成り立っている。資本市場を見るとそれが解る。株式市場に出回っている株式数(浮動株)は、総株式数の数%に過ぎない。その数%の株の需給が株の価格を決定しているのである。

 需要と供給が均衡するところで価格は一定するというのも幻想である。工業化、大量生産下の市場では、工業製品は、常に過剰生産、供給過多であった。つまり、大量生産時代というのは、規模の大きさ、スケールメリットが働く社会なのである。それ故に、絶えず規模の拡大を前提とした設備投資がされてきた。それが市場に常に、供給過多の状態を引き起こしてきたのである。そして、スケールメリットを支えてきたのは、資金量である。規模の大小・資金量が勝敗を決する社会においては、公正な市場競争など望むべきもない。不公正な競争が当たり前なのである。そこに、公正な競争原理を持ち出すこと自体怪しい。市場は、競争の場ではなく。戦いの場なのである。戦いの場であることを前提として需要と供給を考えるべきなのである。

 需要と供給は、功利主義的考え方を前提に成り立っている。各々が各々の利益を追求する時、全体の利益は均衡する。需給は、人間の欲求が均衡するところで均衡する。しかし、各々が追求する利益は、同質のものか。それが問題なのである。株式相場を見れば解るが、需給が均衡したところで価値が一定化するのは、市場が正常に機能しているときだけである。しかし、株の暴騰暴落を見ても解るように、企業のファンディメンタル、経済の実体と乖離したところで、株価は、乱高下することが度々起こる。象徴的なのは、システムが引き起こす株の大暴落である。この様な大暴落、大崩落を防ぐためには、市場に安全装置を持たせたり、自動調整機能を持たせる必要がある。

 功利主義的発想では、経済の本質を理解することはできない。人間は、自己の利益だけを追求しているわけではない。経済は、生活を基盤としたものである。生活の基盤は、共同体にある。それ故に、人間は、自己の利益よりも共同体、例えば、家族の利益を優先することが度々起こる。それは、共同体が、自己実現の場だからである。個人の利益は、あくまでも個人の物である。他に還元できない。他に還元できない利益とは、何なのか。それは、使えない金を貯めるような、守銭奴である。
 功利主義だけでは、価値の形成は、説明できない。価値は、他との比較があって成り立っている相対的な物である。他者のない価値、絶対的価値は、無価値と同じである。つまり、自分にしか認識できない利益は、利益ではない。全ての土地を所有したら、土地の所有権その物に価値がなくなる。つまり、利益も価値の相対的なのである。
 利益と言うより、幸福と言った方がまだ、説得力がある。ただ、幸福という概念も、幅広く、経済学の土台とするには、曖昧すぎる。
 本来、利益は、根本的に共同体の利益、家族・係累の生活の為に利益を最大にすべきなのである。特に、血縁関係、家族を中心とした共同体の利益を最大としようとするのが、通常の人間の在り方である。
 それが仕事中心の人間関係に置き換わることによって人間の社会は、本来の関係、関わり方を喪失しつつある。仕事以外の人間関係を否定することは、本当に合理的と言えるであろうか。それは、共同体が機関へと変質することを意味する。共同体が機関に変質する事は、人間関係の解体を意味する。人間関係から人間性がなくなった時、人間は、疎外されるのである。
 人間の社会は、義理・人情と言った人間、本来の相互扶助関係によって成り立っていた。そうした相互扶助関係は、ともすると相互に負担となる。また、人間社会には、鬱陶しい柵(しがらみ)や付き合いが付き物である。しかし、その負担があるからこそ人間関係は成り立っているのである。負担は、人間関係を支える力の一つなのである。そうした人間関係に、市場や社会の暴走を防いぐ機能がある。煩わしいからと言って人間関係からくる負担から逃げてはならないのである。

 功利主義は、人は、自己の利益を最大化するように行動すると考える。最大多数の最大幸福。それが功利主義である。
 利益とは何か。何のために、利益を最大にしようとするのか。誰のための利益か。何のための利益か。利益とは何かを明らかにする必要がある。功利主義的考え方には、その根本的視点が欠け落ちている。そして、あたかも、人間は、利益に基づいてしか行動しない。また、それが合理的行動であり、自明な事だと決め付けている。更に、その定義に矛盾が生じると勝手に利益の概念を拡大解釈をして辻褄を合わせようとする。そして、それを個人主義に結びつけようとする。つまり、利己心を個人の大前提とするのである。それは、利己主義であり、個人主義ではない。
 効用と利益とは違う。満足度と利益とも違う。利益に対する考え方を拡大解釈すれば、どんなことでも説明が付く。しかし、それでは、意味がない。
 利益を拡大解釈すれば、利益を得る事と欲望を満たすことを同義語的意味を持ちさえする。しかし、利益をえる事と欲望を満たすことは、本質的に違う。

 近代経済学では、消費者は、合理的に行動することになっている。そして、消費者の合理的行動とは、一定の条件の下で一定の目的を最大化しようとすることを言う。(「経済学を学ぶ」岩田規久男著 ちくま新書)しかし、人間の行動は、不合理なものである。合理的な行動をとれないからこそ、諍いが絶えないのである。人間の行動を支配しているのは、合理的な判断より、感情的な衝動である場合が多い。それは、人間が主体的存在だからである。
 
 近代経済学では、市場において人間は、合理的行動をとることになっている。しかし、人間の行動は、不条理なものである。それ故に、市場は、人間の行動に時として裏切られ、振り回される。

 近代経済学では、人間は、合理的に行動することになっているが、人間は、合理的な行動をするとはかぎらない。人間は、往々にして不合理な行動をする。

 人間は、不合理な物に価値を見出す傾向すらある。
 人間は、象徴的な物に価値を見出す。その典型的な物が貨幣である。人間の集団は、不合理なもの、象徴的なものに価値を見出す。人間の集団、特に、共同体は、団結する必要がある。その団結力を高めるものとして象徴、例えば、旗や印、祭礼、儀式の様な物を必要とする。それは、自己の属する集団と他の集団を差別化する必要性からである。つまり、人は、統制のための道具として象徴的なものを使う。そして、その象徴は、不合理な故に価値がある。

 合理性という考えに誤解がある。合理性は、論理的手続きに、矛盾がないことだけを意味するのではない。合理性には、所与の前提、与件、命題が自明、また、了解可能ならばと言う前提がつく。その前提の基に論理的手続きに矛盾がなければ、そこから導き出された結論や解答は論理的だといえる。前提となる命題が、自明ではなく。空想的、観念的であった場合は成り立たない。神を前提とするか否かは、その典型である。神を自明な存在とするものにとって宗教的な事は、合理的なことである。
 人間が合理的に行動するという場合、その行動の前提となる規範が自明なもの、又は、了解可能なものである必要がある。判断となる基準が自明なものでなければ、合理性は成り立たない。しかし、人間の行動規範は、多分に経験的であり、自明なものとは断言できない。
 自明性を裏付けるための客観的基準というのも、厳密に言えばあり得ない。なぜならば、判断や判断基準というのは、主観的なものであり、客観的というのは、自分以外のものの判断をさすからである。客観的基準というのは、自分以外の基準を指して言う。数値的に表現したら客観的なものになると言うのではない。つまり、客観的基準というのも自己矛盾しているのである。

 経済は、自律的、自発的反発がある。故に、一定の時期が来れば景気は、回復する。しかし、その回復は、国家、国民のためになる回復であるかどうかが問題なのである。

 予定調和というのは、不思議な思想だ。特に、日本人が言うとおかしい。予定調和というのは、一種の信仰である。それをアダムスミスのようなキリスト教とが言うと神の見えざる手となる。しかし、現代経済や日本人は、神の存在を前提としてはいない。むしろ、否定的である。つまり、現代経済、日本経済は、神なき信仰の賜物なのである。

 予定調和という信仰は、自由放任主義という思想を派生させた。この場合もただ放任する事と人間の意志を排除することを同義語的に捉える考えがある。しかし、無為と無意志とは違う。無為には、まだ意志の働きがある。しかし、日本人は、自由放任を無為自然と同義語的に捉え、何もしないことが正しいと思い込んでいる。何度も言う。人間の創り出したものに無為自然な物は何もないのである。そして、経済は、人間が生み出したもの、人工的なものの最たるものなのである。人間の意思が働かない市場は、市場とはなり得ない。

 市場には、歴史があり、段階があり、ライフサイクルがある。

 経済の拡大期と成熟期・縮小期では公共投資の効果は違う。拡大期に公共投資を行えば、総需要が刺激されて、経済を活性化するが、縮小期に公共投資を過大に行っても、需要は喚起されず、金余り現象を引き起こす。また、拡大再生産に繋がらない公共投資は、必要なところに金が流れず、過剰投資を引き起こしてデフレの誘因にもなりかねない。

 拡大、成長を前提とした経済を設定したり、拡大や成長を良い事尽くめのように考える為政者、経済学者がいるが、拡大には、破壊が伴われる場合が多いことを忘れてはならない。拡大・成長が一服し、踊り場・調整期に入った時、傷ついた所の修復や乱れた秩序の回復を計るべきなのである。

 拡大期の市場から成熟期への市場への移行は、市場の質的な変化が伴う。成長期の市場は、基本的に新規市場だが、成熟期の市場は、更新市場である。市場は、飽和状態へ移行し、過飽和な状態になる。そして、過飽和な市場は、物余り、金余りの現象を引き起こす。いずれにせよ、デフレ、インフレの原因となる。デフレ、インフレは、その時の政策によって引き起こされる場合が多い。
 物が余って金が不足するとデフレになる。金が余って物が不足するとインフレになる。両者が過剰になるとデフレとインフレが複合的に起こり、複雑な経済現象を引き起こす。

 需要構造は、大衆の消費行動を反映する。大衆の消費行動は、その時代のライフスタイルを反映する。ライフスタイルは、文化である。故に、経済は文化である。

 この様に、需要と供給は、市場の在り方によって変わってくる。そして、市場の在り方、状況、環境に合わせて市場の構造を構築していく必要があるのである。






                    


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