経済の機能


                     A 労働と分配

 欧米人には、労働を蔑視する思想が根強くある。極端な話、働かないことを美徳だとすらする。労働は、下層階級がするものという間違った認識、差別が存在する。労働は、奴隷がするものだという考えである。その為に、休日をやたら増やせばいいと考えている。労働を仕事を楽しむという思想がない。これは、日本人の伝統的価値観に反する思想である。日本人にとって労働は美徳である。働かざる者、喰うべからずと言う思想すらある。労働、即ち、仕事は人生における修業でもある。合理化や機械化は、労働から解放するという間違った認識があるが、合理化や機械化は、人間の可能性や能力の限界や越えさせる事はあっても労働や仕事から解放すると言う事はないし、それは、本末の転倒である。労働こそ、自己実現の手段であり、人間は、仕事によって生かされているのである。

 一方に置いて労働を蔑視しながら、一方において労働を促す。その典型が男女平等問題である。仕事を生き甲斐のごとく良いながら、労働から解放されることを願う。矛盾している。

 労働を罪悪だと考え、償いだと考えれば、休みは楽しみである。なるべく休みたいと望む。しかし、労働は、自己実現であり、修行だと思えば、働くことは、喜びであり、休みたいとは思わない。それを無理して働いているというのは、価値観の相違の問題でなのであり、本質的な問題ではない。本来、労働は、自己実現であり、神聖なものである。仕事をすること、仕事があることは、それ自体幸せなことなのである。

 経済にせよ、政治にせよ、先ず、幸せとは何かが明らかにされて成り立っている。つまり、幸せの定義が根本になければならない。格差が拡がっても自分の仕事の実績や能力を直接的に報酬、即ち、分配に反映する社会の仕組みが良いのか、それとも、自分の取り分が減らされても良いから公平を求めるのかによって社会の在り方は違ってくる。

 そして、それは分配の仕組みが深くかかわってくるのである。故に、経済は、労働と分配の問題になる。中でも究極的には、分配の問題に還元される。

 分配と言う考え方には、働きや役割に応じて分配するという思想と全てを均等に分配するという思想がある。後者は、結果に対する平等を目指す思想である。

 しかし、均質で、均等な分配は、物理的にも、技術的にも不可能である。第一、個人の嗜好が皆違うと言う事である。第二に、まったく同じ物を生産すると言う事が技術的に難しいという事である。、また、環境が違えば、要求とされる物、必要とされる物も違ってくる。生産面においても、消費面においても、均質、均等の分配は、不可能であり、無意味である。要は、平等というのは、実質であり、実体的でなければならない。
 共産主義的な体制というのは、皮肉なことだが、大量生産、大量消費社会を前提しなければ成り立たない。つまり、無尽蔵に生産をしない限り、個々人の消費の要求を賄(まかな)いきれないのである。その為には、無制限な大量生産をとらなければならない。さもないと、消費を規定せざるを得なくなるのである。かつて、人民服なる物があった。それは、服を全て同じ企画の物に規定することを意味する。その場合、個人の自由は、犠牲にせざるを得ないのである。
 環境を考えると、均等な分配というのは、極めて限られた範囲、狭いエリア内でしか実現できない。即ち、ロシアのような極寒の地方と南方の島々のような環境とでは、同じ物を分配するのは、意味がなく。逆に差別的な扱いになるという事である。ハワイで毛皮を配るのとアラスカやシベリアで毛皮を配るのとでは最初からその扱いが違うと言う事である。だから、環境を無視して分配を均質にしようとしたら、それは、差別であり、環境を考慮したら、同じ物を配給することはできないという事になる。それを合理的に規定する絶対的基準はないという事である。

 公平な分配を実現しようとしたら、構造的な均衡しかない。つまり、財の分配を一定の範囲内において均衡させるという思想である。

 構造的均衡というのは、必ずしも、分配の均一化、同一化を意味しているわけではない。しかし、経済構造や社会構造を維持するためには、公平な分配を実現すべきだと考える。公平な分配は、個人の労働と公共の福祉の均衡によって得られると考える。
 即ち、公共(水平的)の利益を優先すべきか、個人(垂直的)の利益を優先すべきか。公共と個人の分配をどう均衡させるかが、構造的均衡の要諦(ようてい・肝心なところ)なのである。労働の構造的均衡を成立させるためには、定性的、定量的な分析が鍵となる。

 公平な分配とは、質、量、密度の問題であり、均等、均質、同等の分配を指しているのではない。公平な分配の前提は、労働の質、量、密度をどの様な基準で計測するかであり、その為には、どの様に、労働の評価するかが重要になっくるのである。しかし、労働と分配における問題は、それだけではない。

 分配と労働を考える上で、問題となるのは、分配は、必ずしも労働と直接、結びつけて考えきれるものではないということである。労働の問題は、成果であるのに対し、分配の基本は、ニーズ、必要性の問題だという事である。

 市場経済においては、労働の評価が報酬という形態しかとれないのも問題なのである。市場経済下において、市場に現れてこない労働もあり、労働市場にのみ依存した場合、市場に現れてこない労働を適性に評価できないと言う欠点を市場経済は持っている。その為に、現代の報酬構造は、属人給的な部分を附加する事によってその欠点を補っている。

 更に言えば、分配の基準を労働と切り離して家族構成や生活実態に置いている思想もある。社会主義や共産主義的な思想は、その典型である。

 その為に、分配の問題は、その社会における根本的な思想、人々の幸せや国家の在り方といった思想を反映したものになる。つまり、自己実現の問題に行き着く。労働と分配の問題は、自己実現の問題なのである。それを象徴しているのがプロスポーツの世界である。

 ワーク・シェアリングと言う思想も労働を基準に分配を考えながら、結局、労働の量のみにこだわってしまえば思うような生産性を上げることはできない。生産性は、労働の質、量ともに向上させ、労働の密度を上げる必要がある。仕事の分量を減らせば良いという思想は、労働そのものの否定に結びつく。スポーツの技術の向上がスポーツを否定するという結果を招くようなものである。それは、労働そのものを否定する思想があるからである。

 社会の基本・経済の基本は、働かざる者、喰うべからずである。故に、常に問題にされるのが、不労所得者の存在である。その象徴が資本家と地主階級である。資本家は金利で、地主は、地代で生計を立てていると思われている。
 また、経済の一番の問題点は、失業者の問題である。それも、労働を基準に経済を考えている証拠である。いずれにせよ、経済の基本は、労働である。

 不労所得は、社会全体の生産性に結びつかず、不公平の原因を作ると考えられているために、問題視される。社会は、不労所得を極力排除するように作用する。
 
 経済の根本は、労働と分配である。需要と供給にあるのではない。需要と供給は、生産と消費を市場において調整する働きから派生する。経済の根本の機能は、財の公平な分配である。市場は、経済構造の一部に過ぎない。
 そして、分配は、働きに基づいてなされなければならない。個々人の働きとは、労働とその成果にある。つまり、経済の基盤は、労働にある。経済は、労働と分配の問題に帰結する。

 労働を経済の基礎にすえると言う事は、失業問題、雇用の創出が国家の重要な課題となる。雇用の創出とは、仕事の場を生み出すこと、仕事を作ることである。言い換えれば、仕事を作ると言う事は、労働を確保することである。労働を確保することは、国家の主要な機能の一つである。
 労働は、社会的価値を生み出す。つまり、労働の担い手に社会的必要性を附加する。労働の担い手、即ち、社会人は、仕事を与えられることによって社会の一員として認められるのである。故に、失業というのは、ただ単に貨幣的収入源を断たれる以上の意味を持つ。労働とは、社会的価値の根源でもある。仕事がないというのは、人間としての価値まで否定されるほどのことなのである。故に、労働を確保するというのは、国家、社会、共同体において重要な役割の一つである。

 この様な社会において不労所得者の存在は、社会の基盤そのものを危うくする危険性がある。それ故に、不労所得者は、厳しく糾弾されるのである。そして、労働は、分配の権利を生み出す。貨幣価値は、分配の権利を交換価値を表象することによって具現化する。そして、市場経済は、労働の価値を貨幣価値に還元することによって成り立っている。

 労働によって分配の基準を評価すると言う事は、労働市場が派生することを意味する。しかし、実際の分配は、市場を通してのみなされるわけではない。実際の分配は、共同体単位に対して行われる。さらに、労働の多くは、市場を通さずに評価される。そして、分配の実際は、共同体内部の基準、規律に基づいて処理される。
 
 労働は、仕事に転化され、仕事の成果、結果によって評価が定まる。市場経済、貨幣経済では、評価は、貨幣価値に換算されて支給される。貨幣は、交換価値を具象化した物である。故に、人は、貨幣を媒体として必要な財を市場から入手する。それが市場経済である。つまり、市場は、分配の仲介、中継の場なのである。市場の機能は、それ以上でもそれ以下でもない。市場の機能を過信すると分配の公正は保てなくなる。

 全ての生産財が市場を介して分配されているわけではない。多くの生産財が共同体の機構を通じて分配されている。労働市場と言うが実体は、共同体の機構の中に取り込まれている場合が多い。

 分配機能を市場の機能と一致せて限定的に捉えるのは、危険である。市場が全ての機能を担っているわけではない。市場は、経済の一部に過ぎない。市場だけ見ても経済の実態はつかめない。特に、労働の評価を市場にのみ求めると分配の不均衡は是正できず、結果的に不公平が生じる。
 例えば、一国の首相よりも一介のプロスポーツ選手や芸能人の方が何十倍も収入を得るなどと言う現象が起こる。職業に軽重はないとはいえどもその評価が適性かどうかは議論の分かれるところである。その効果、リスク、社会的責任、影響力を考えた場合、評価の妥当性には疑問が残る。しかし、問題は、その様な評価を生み出す仕組み、システムにある。評価された個人を責めるわけにはいかない。正すべきは、社会構造である。そして、それが経済なのである。

 分配は、共同体単位でなされる。外部からの貨幣的収入を所得という。しかし、その獲得は、共同体に還元されるべきものであり、個人に還元されるべきものではない。所得の源が幾つあったとしても、全て共同体に還元される。共同体内部の配分処理は、また、別の問題である。所得の担い手が全てを独占したら、共同体は成り立たない。また、共同体内部の全ての仕事・労働を、所得のみで換算する事はできない。全ての所得と自家生産した物は、共同体内部において働きに応じて公平に分配されなければならない。

 労働は、労働の質と量と密度から考えなければならない。
 労働の質は、分業によって決定的に変化する。分業が始まるまでは、労働は、一個の完結したものであり、個人に帰着している。つまり、労働そのものが一個の全体を形成している。それに対し、分業は、労働を部分化し、個人も部分化する。それによって共同体が生じ、一つの社会単位を形成する。それが社会の萌芽である。分業の原初的形態は、親子である。そして、親子の根源は、一組の男女である。それらは、家族を構成する。故に、家族が社会、ひいては、経済の最小単位である。

 現行の経済学は、労働の質を一律に捉える傾向がある。しかし、労働には、その対象とする生産物や用役に応じて違いがある。経済学者も自分の労働とプロスポーツの選手の労働を同じものと見てはいないだろう。そして、この労働の質が経済に決定的な影響を与える。

 官僚機構のように、労働と成果が結びつかない機構下では、報酬だけが主たる問題となる。社会主義国で、サービスの低下や生産性の低下を招いたのは、自分の労働の質と成果とが結びつかなかったからである。その様な社会では、労働の質や成果、生産性や効率よりも報酬だけが問題となる。そうなると分配の均一だけが正義であった自分労働の質や成果は、問題でなくなる。労働の対価して分配があるのであり、そうしないと、サービスの向上や製品の向上、生産性や効率の向上はあり得ない。

 経済学者の中には、古い産業が衰退しても新しい産業に労働力の移動があるから、失業問題は、深刻にならないような論法を述べる者がいる。最近、いわゆる重厚長大産業が衰退しても、IT産業が失業者を吸収するから経済的には問題にならない、雇用問題は起こらないと言う論法である。それは、労働の現場を知らないからである。
 労働者の多くは、自分の仕事に誇りを持っている。同時に、多くの人は、一度、身につけた技術や知識をそう簡単には捨てたり、変えたりでるものではない。経済学者が失業したから、翌日には、カウボーイになれるかと言えば先ず不可能である。それは、経済を数字でしか見ていない証拠である。経済とは、労働者一人一人の人生であり、永年勤めた仕事は、その人の人生と一体になっている場合が多いのである。そして、この様な労働と労働者が一体であることが、いろいろな経済問題の背景に潜んでいるのである。統計数字からだけではその実態を知ることはできない。
 経済問題を考える時、労働の質は避けて通れない問題である。 

 労働の質にはどの様な違いがあるのであろうか。労働の質の違いは、仕事の質の違いでもある。
 労働の質の違いは、第一に生産的労働と消費(非生産的)労働である。第二に、単純労働、技能労働、熟練労働、特殊技能労働、複合的・総合的労働である。単純労働にも反復的な作業と非反復的(突発的)な作業とがある。第三に、頭脳労働と肉体労働である。第四に、屋内労働と屋外労働である。これは、言い換えると労働の場の違いからくる。第五に、単独労働(自己完結的労働)、集団労働、分業である。第六に定型労働、不定型労働である。第七に、換金的労働と非換金的労働。
 また、個々の産業には、産業固有の労働もある。故に、産業毎に労働の質的な差が生じる場合もある。さらに、労働環境によって同じ労働でも質的な差が生じることがある。例えば、同じ仕事でも砂漠でやるのと、北極でやるのとでは質的に違うし、極端な話、宇宙や海中でやる場合、災害の発生時にやる場合とではでは違ってくる。年齢や能力という個人差によっても労働には質的な差が生じる。若い者と、年寄りとは、同じ仕事をするにせよ、その質が違うのである。それをどう評価するのか、それは、経済の重要な役割の一つである。

 労働は、仕事から形成される。労働は、仕事によっていくつかの作業に置き換えられる。また、仕事は、いくつかの業務からなる。単位あたりの業務は、いくつかの作業の集合体である。一つの単位の業務は、作業の手順、段取り、組み合わせによって成立する。

 労働は、仕事に還元される。仕事は、時間と作業の関数によって評価される。作業は、作業の質によって単位あたりの価値が評価される。仕事の単位あたりの価値は、貨幣に換算されて所得になる。貨幣は、交換価値を具象化した物で、市場で商品と交換する権利を表象した物である。生活に必要な生産財は、市場から入手する。生産財の分配は、主として市場でなされる。故に、仕事の質をどうか評価されるかによって、その人の生活の質は左右されるのである。

 労働を分配に結びつけるためには、労働の成果をどの様に評価するかにかかっている。その為には、労働の質をどう解析するかが重要な鍵なのである。

 分業の在り方は、社会の在り方を決定づける。故に、経済は、社会体制の土台を形成するのである。

 定年退職というのは、ある意味で非常に残酷な話である。労働が社会の一員としての必要条件ならば、その労働を奪うことは、その社会から抹殺することを意味する。泰年退職を迎えた人をお祝いするのは、お父さんご苦労さん、もうあなたは、この世では必要なくなったわと祝うようなものである。その残酷さに誰も気がついていない。現代とは、殺伐とした社会である。と言うよりも殺伐としてくる。労働は、苦役であるという古い認識がそうさせているのである。労働こそ、存在意義なのである。そして、年齢と伴にその労働の質が変化してきていることを忘れてはならない。高齢者には、高齢者の仕事があるのである。

 経済の仕組みは、合目的的なものである。必然的に経済政策も合目的的なものである。経済の仕組みの目的の根本は、分配にある。故に、経済政策の基本は、公平な分配の実現であり、その為の再分配である。極端な財の遍在やハイパーインフレや恐慌は、経済政策の失敗とシステムの破綻によってもたらされる。つまり、経済の目的からの逸脱である。財の遍在やハイパーインフレ、恐慌を避けるためには、経済目的を明らかにすると同時に確認をする必要がある。また、国家観や国家構想がなければ、経済の長期的目標を実現することができない。と言うよりも、最初から目標が存在しない。どの様な国を目指すのかに対する国民的合意の形成こそ経済目的の実現に不可欠な要素なのである。

 財政問題もこの分配の問題から考えられるべき問題である。つまり、財政は、公正な分配を促すための再分配の手段の一つである。だからこそ、財政部門と非財政部門との経済的連続性が重視されるのである。その為には、財政規模は、絶対額ではなく、相対的な基準に基づかなければ確定しない。故に、水準と比率が重要な鍵を握ってくるのである。公務員給与の額は、それ単独で確定するのではなく、民間企業の給与水準との整合性がなければ確定できないのである。さもなければ、公正な分配という経済目的を逸脱してしまう。しかし、だからと言って無原則に民間企業の賃金ベースを参考にするわけにはいかない。故に、民間と同じルール即ち会計原則に則る必要があるのである。







                    


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