経済主体


 経済問題の根底は、有限で閉ざされた共同体内部の分配の問題である。無限で開かれた世界の金銭的問題ではない。我々が活用できる資源や空間は、有限であり、経済空間は、閉ざされているのである。しかも、それは、金の問題ではない。現実の生活がかかった問題なのである。

 市場は、競争の原理というのは、欺瞞である。市場の原理は闘争である。経済というのは、経済主体間の闘争、姿を変えた戦争である。そこで敗(やぶ)れた者は、滅びていくか、第三者の支配下にはいるかの二つに一つしかないのである。さもなければ、なぜ、戦争が起こるのか。なぜ、オイルショックが起こるのか。なぜ、貧困がなくならないのか。その原因は、解明できない。原因が解明されなければ、それらをなくすこともできない。経済は、自然現象ではないのである。

 市場の規模は、市場に流通する財の量で決まるのであり、通貨の量で決まるわけではない。経済とは、本質的に配分の問題なのである。しかし、市場規模は、貨幣価値に換算されて表示される。

 そして、経済主体は、基本的に共同体である。

 人類は、運命を共有する一つの共同体である。そして、この全体としての共同体は、更に、無数の共同体から構成されている。経済問題は、この共同体間、及び、共同体内部の分配の問題に他ならない。

 人の世の組織が、機関化している。機関というのは、仕事以外の人間と人間との繋がりを、関わりを拒絶した組織である。ただ、仕事だけの関係であり、相手の持つ仕事以外の属性、個性が無縁な集団である。この様な集団は、助け合うという基本的認識が欠けている。ただ、与えられた目標や任務だけに専念すればいい、専念することを目的とした集団である。共同体は、基本的に助け合いの精神を土台としている。だからこそ、本当に困った時に通常と違った機能が働く。困った時こそ、助け合うのである。つまり、共同体というのは、運命を共有しているのである。それが共同体である。本来の人間の社会というのは、共同体でなければならないのである。しかし、今の事業体は、ただ、所得を得るための機関でしかない。それが、人間本来の関係を損なっているのである。

 近代的合理精神と言うが、ただ仕事だけの関係、金儲けだけの人間関係を合理的人間関係として良いのだろうか。本当に合理的というのは、人間としての情や柵(しがらみ)、過去からの経緯(いきさつ)を無視したところに成り立っている人間関係を指して言うのだろうか。義理や人情は、不合理なものとして切り捨ててしまって良いのだろうか。それを合理的というのであろうか。
 共同体の存在意義を収益に置くべきではない。共同体の存在意義は、構成員の生活と自己実現にある。つまり、構成員一人一人を豊かにし、幸せにすることに共同体の存在意義はあるのである。それは、家族を例にしてみればよく解る。

 なぜ、家は、否定されるべきなのか。家族は、封建的と言われるのか。家族制度が封建的だと言うには、いくつかの意味がある。一つは、家族を封建的と考えるのか。それとも、民主主義体制が確立される以前の家族制度が封建的なのか。それによって、封建的という意味合いも違ってくる。家族を封建的だというのならば、家族という人間関係そのものを否定しなければならない。そうではなく、家族制度の在り方が封建的だというのならば、家族制度の在り方を改めればいい。そもそも、封建的なものが悪いと決め付けるならば、封建制度の何処がどの様に悪いのかを検証する必要がある。ところが家族は、封建的だから悪いと言っている人間のほとんどが何処がどう悪いかを明らかにしないでただ悪いと決め付けて、家族を否定してしまっている。それが教育関係者や官僚、マスメディアの関係者に多くいるから始末が悪いのである。

 仲間とか、助け合い、お互い様、お陰様という言葉が死語になりつつある。それにつれて、友達、友情、家族、親戚という関係も崩壊しつつある。大体、家とか、義理・人情と言うのは、古くさくて、封建的だと決め付けられて意味もわからないままに否定されている。愛という言葉も人間関係をさす言葉ではなくなり、ただ刹那的感情を表しただけの言葉に変質しつつある。それにつれて家族愛とか、友愛、愛国心も空々しい意味になってしまった。
 それらは、全て、共同体が機関化している事を意味する。仲間なのだから、家族なのだから、困った時に助け合うのは当たり前ではないか。そう言った人間関係が当然のこととして成立しなくなった時、その人間関係は、存在意義を失うのである。存在意義を失った人間関係は、稀薄になり、失われていく。家族の崩壊も社会の無秩序も当然の帰結なのである。守ろうとする者がいない人間関係は守れない。

 家族であろうと、国であろうと、会社であろうと、どんな人間関係でも誰も守ろうとする者がいなければ守りきれるものではない。ただ廃れ、失われていくのである。現代人は、自分が命かけてまで守らなければならないものを見失っている。それは、命がけで守るに値するものを持たない、つまり、命がけになるに値しない人生だと言う事を意味する。人は、自分が命がけで守らなければならないものを知った時、生きる価値を見出すのである。失うことを怖れていては、得るものは何もない。命をかけて何を護らなければならないのか。それが生き甲斐なのである。つまり、生き甲斐とは、死に甲斐でもあるのである。

 共同体内部の結びつきが弱くなり、最後に消滅するのは、共同体を破壊しようとする者の意志が存在するからである。国の、社会の、会社の、家族の人間関係を断とうとする者は、その共同体を破滅させることを目的としている。それを忘れてはならない。そして、我々の国を、社会を、会社を、家族を破滅させることによって利益を得る者が潜んでいることも忘れてはならない。

 世界は、無限でも、開放的でもない。その証拠に産油国の政変や事故は、瞬時に世界を駆けめぐり、経済変動を引き起こす。しかも、人間の社会は、運命を共有する一つの巨大な共同体である。有限で、閉ざされた空間内部では、成長や発展には自ずと限界が生じる。限られた物資を使って、限られた空間の内部で行われる運動には、自ずと限界がある。つまり、経済は、無限に拡大し続けることはできず。必ず、成長の限界に達すると言う事である。それに対し、現代の資本主義経済は、無限の成長と拡大を前提として成り立っている。問題はそこにある。経済は、常に成長の限界を前提にして考えられなければならない。

 そして、経済は、基本的に分配の問題である。
 飽食と飢餓が同時に存在するのは、分配機構の明らかな欠陥による。そして、分配機構とは、経済機構に他ならないのである。
 分配は、労働によって決定されるべきものである。故に、経済の最終的課題は、労働と分配の仕組みである。

 経済の実態は、実物である。故に、経済問題の実体は、金銭的問題ではない。金銭的問題は、副次的に生じる問題であり、経済の実体は、実物的問題である。つまり、基本的に生産と消費の問題である。生産を決めるのは、本来、消費である。消費の必要性である。だからこそ、消費を制御する事が経済問題を解決する鍵なのである。消費を決定するのは、必要性である。故に、生産を制御するのは、必要性である。

 需要と供給は、市場の問題である。市場は、経済の一部である。全体ではない。経済の全体は、生産と消費にある。需要と供給ではない。つまり、経済主体は、生産と消費の両面を持った機関でなければならないのである。

 そして、資本主義社会が産業中心、即ち、生産中心主義社会だと言う事である。消費が生産を抑制するのではなく。生産が消費を決定する生産主義社会だと言う事である。その結果が、大量生産、大量消費社会であるが、言い方をかえると過剰生産、過剰消費社会、浪費社会だと言う事である。その為に、経済は、抑制が効かずに暴走している。

 以上のことを突き詰めると、経済問題は、労働と分配、生産と消費に要約される。そして、その労働と分配、生産と消費を実体的に決定付ける仕組みが市場であり、市場を支配するのが需要と供給である。故に、実際的問題となるのが需要と供給の均衡なのである。また、この需要と供給には、フローとストックの作用が働いている。この様に、経済は、重層的かつ構造的な存在なのである。一つの局面だけを取り上げて解明できる性格の物ではない。丁度、医学が血圧だけ調べれば全てが解るとはいかないようにである。

 この様な経済構造の実体的要素を構成するのが、経済主体である。経済主体は、究極的には、個人に還元される。しかし、経済主体の単位は、一つの共同体に要約される。この経済単位を成立させている共同体は、第一に家族である。第二に、企業(事業体)である。第三に国家である。

 資本主義体制下では、経費は下方硬直的である。経費が下方硬直的では、環境への適合ができなくなる。環境に適合できなければ、生き残れない。資本主義経済は、拡大し続けることを構造的に運命付けられている。

 経済主体が環境に適合するためには、経済主体が自律的機能を持たなければならない。経済主体が自律的機能を持つという事は、共同体化を意味する。経済主体が自立化されてはじめて、経済は、自律的働きをすることができる。経済は、環境や状況に支配されている。自律的働きのない経済は、環境や状況に対し適合できず、自律的に制御する事ができない。故に、経済主体は、機関であるだけでなく、自律的に機能する共同体でなければならないのである。しかも、経済主体は、構造的に制御される組織・機関でなければならない。この事は、民主的な機関でなければならないことを意味する。

 つまり、経済主体がその機能を発揮するための要件は、経済主体の共同体化であり、民主化である。経済主体の共同体化とは、経済主体の自律化、独立化を意味する。つまり、経済主体そのものが自律的機能を持つことである。

 貨幣経済が浸透し、工業化が進展するにつれて自給自足的な共同体、地域コミュニティーが急速に姿を消していった。それと同時に地域社会の自律性を失われていった。特に、近代以前の地域社会には、証拠経済や計画経済が、存在していた。リサイクルや協業がある程度、なされていた。確かに、前近代的な経済には、多くの欠点があった。だからといって全否定する必要はない。なかでも、地域社会の自律性と計画性は、取り戻す必要がある。

 拡大型経済下では、下方硬直的な体制でも、共同体を維持することができた。しかし、経済が、収縮してくると企業も収縮する事が必要となってくる。その時に障害になるのが下方硬直的な経費、特に人件費である。それ故に、不景気になると人件費を削減しようとする。それは、共同体としての事業体としては、その役割に反することになる。結果的に、企業は、共同体化を放棄することになる。
 それが終身雇用制の放棄という現象である。しかし、それは、共同体としての機能を失うことに繋がる。

 資本主義経済の中心は、産業である。そして、それが重大な問題を引き起こしている。資本主義体制だけでなく、社会主義体制でも中心となる経済主体は、事業体であり、産業である。この事によって生産性中心の世界が構築されることになる。資本主義社会では、産業を支配しているのは、資本家である。これがまた、重大な弊害を引き起こすことになる。

 産業が消費中心の体制に切り替わるには、事業体が共同体化するひつようがある。つまり、事業体内部に、消費の概念を持ち込むことである。
 共同体というのは、有機体である。つまり、生き物である。生き物は、自分が生きていく為に必要な物を産み出すと同時に消費する。つまり、生産者であると同時に消費者でもあるのだ。
 現在の企業は限りなく無機質になりつつある。それは、生産と消費が分離し、限りなく生産に偏向してきたことによる。
 逆に家計は、消費に特化し、社会性を喪失してきた。この二極分化がもたらしたのは、企業と家庭の崩壊である。つまり、企業や家庭から共同体としての機能が失われたことにより求心力を企業や家庭が急速に失ったのである。

 共同体化をするためには、企業が消費の効率化を促す機能を構造的に持つ必要が生じる。つまり、家計と直接的に連動していく必要があるのである。

 資本主義体制において事業体が生存するために必要なのは、資金である。利益ではない。利益は、資金を生み出す源に過ぎない。故に、事業体は、資金を得るために必要な行動をする。また、いざという時のために、資金、ないし、資金化できる資産を蓄えようとする。資本主義体制とは、基本的に貨幣制度経済なのである。また、企業経営は、本質的に金繰りである点を見落としてはならない。その証拠にいくら赤字でも、でたらめに経営をしても公営企業は、資金を供給されてる限り、潰れることはない。要は、資金なのである。
 経済主体は、資本主義体制下では、物事を金に換算するようになる。そのことによって現実の物流が見えなくなる。目の前に飢えた者がいても金がなければ何もできなくなる。そのことが生産財の偏在を生み出すのである。
 貨幣経済が発達する以前は、価値を一元化し、物流を調整することが難しかった。その為に、物の偏在が生じた。その弊害を取り除くために、貨幣が発達したのに、今度は、貨幣価値によって経済が振り回されるようになってきた。それは、貨幣を制御する機構に問題があるからである。資本主義体制を制御するためには、金の流れを制御する必要があるのである。経済は、金が全てではない。それなのに、金によって経済全体がおかしくなっている。だから、現代経済の問題は、金なのである。そのことを理解しないと、金の問題を片付ければ、経済問題は全て片づくような錯覚をしてしまう。経済問題を抜本的に解決するためには、金銭的な問題として現れた現象の背後にある機構、構造を改めなければならないのである。

 資本主義経済は、会計学的な世界である。経済の表面に現れる現象は、会計的な関連によって捕捉することができる現象である。つまり、経済主体の動きは、会計学的に解析することが有効だと言う事である。
 問題なのは、会計学的原則が有効なのは、民間企業に限られているという事である。つまり、一つの空間に複数の法則が存在するようなものである。それでは、経済の運動を制御することができなくなる。現代資本主義の問題点がそこに隠されている。

 上場企業の経営者と非上場企業の経営者とでは、行動規範も意志決定の方向性も違う。更に言えば、公営企業の経営者の行動規範は全く違うものである。それは、当然である。ルールも、立場も違うからである。そして、そのルールを決めているのが会計学的論理である。会計基準を変えれば、当然、経営者の行動の方向性が変化し、経済に重大な影響を与えるのは自明なことである。ところが、一向に会計基準と経済現象を結びつけて考えようとしない。経済学のベースを会計学に求めようと言う動きは全く見られない。不思議なことである。
 そして、会計学は、誰のものかによって経済を本質的なところで誰が支配しているのかが伺われる。会計学は、国民の支配下に置いてこそ真の経済的民主主義は達成される。

 資本主義経済下、貨幣経済下、市場経済下では、経済主体は、収益を追求する。それは、モラルの問題ではない。道徳やモラルとは、無関係な問題である。経済主体が収益を追求するのは、生きていく為である。生き残るためである。即ち、生存の問題なのである。資本主義経済とは、基本的に生存競争社会なのである。それによって障害が生じるとしたら、社会の構造を変革しなければならない。それが政治である。政治の役割がある。市場や経済を野放しにすれば、生産財の分配は不均衡になる。問題は、市場や経済を制御する機構なのである。

 収益を得るために行う活動の方向と、社会が目指すべき方向とが一致するように社会構造を構築する必要があるのである。かつての地域社会は、長い目で見て地域社会に弊害になることは、自粛してきた。資源の乱獲や乱開発、環境の汚染は好例である。ところが近代になると儲かるとなると乱獲も乱開発も環境汚染も社会的な歯止めが効かなくなる。極端な場合、それが正義にすらなる。儲けて何が悪い。儲けることは良い事だ。儲けのためには何をしても許される。それが経済だと錯覚した。しかし、その為に、世界は荒廃したのである。
 人口問題も然りである。貧しい国では、直接的な産児制限をしているのに、全く効果の上がらない国があるというのに、富んだ国では、少子高齢化に悩んでいる。何でこの様な逆説的な問題が起こるのか。飢餓で苦しんでいる国があるのに、肥満で苦しんでいる国がある。分配の仕組みが狂っているとしか言いようがない。動機よりもその動機を起こさせる背景なのである。
 結局、モラルの問題ではなく。社会の仕組みの問題なのである。

 経済主体は、ただ単なる金儲けの機関であってはならない。経済主体内部には、その主体を構成する人々の生活があり、人生があり、家族が居る。つまり、経済主体というのは、運命共同体なのである。経済主体から、生活や人生や家族という要素が脱落したら、経済は、その本質を失う。経済主体は、生き物なのである。経済主体の命や魂は、そこに生きている人々の生活や人生なのである。それが損なわれてしまえば、経済主体は、魂のない屍になってしまう。いわば、ゾンビみたいな存在である。
 計画経済が失敗するのは、人間を命ある物として捉えないことにある。人間は、生物なのである。大量生産される規格品とは、わけが違う。
 平等と同等は違う。人間は、一人一人違うのである。その違いを認めることによってしか、真の平等は実現できない。ただ、その違いが差別に結びついた時、深刻な問題を引き起こすのである。一方において違いを正しく認識し、その違いを公正に評価することが真の平等を実現する事なのである。そうなると、公正に評価することのできる仕組み、構造を構築することこそ、経済の目的となるのである。そして、それは、個々の経済主体が自律的に機能してこそ実現できるのである。
 極端な平等主義は、経済主体を一種の機関化してしまう。つまり、経済主体の個性が損なわれるのである。ゾンビのように主体性を失い、隷属した経済主体では、健全な社会を築くことはできない。それは、計画経済が陥った罠である。
 経済主体が自由であってはじめて自律的な経済社会ができるのである。自律的な社会は、平等な社会でしか保障できない。つまり、自由と平等は、二律背反的な関係にあるのではなく。相互補完的関係にあるのである。
 何よりも忘れてはならないのは、経済主体というのは、人間の集まりだと言う事である。生き物としての人間性を削除してしまったら、経済社会は成り立たないのである。
 経済主体は、共同体でなければならない。機関というのは、一つ一つが機能化され、一方向の作用に還元されているものをいう。例えば、労働者は、労働を提供し、対価を受けるという関係に集約してしまうことである。共同体というのは、そう言う枠組みを超えて共同体を構成する個々の要素に双方向の機能を持たせることである。

 かつての職場は、コミュニティだった。村落で言えば、その地域の人間全体がそれぞれの役割を決め分業をしてきた。その役割の決め方も必ずしも統制的な関係によってではなく、話し合いでなされる場合も多くあった。そして、子供の世話を年長のものが見たり、社会的に見ることが原初的な教育だった。この様に協力関係は、生活全般に及んだものであった。

 農村や漁村には、つい最近まで、コミュニティとしての機能が残っていた。また、個人事業主を主体とした地域の商店街にもコミニティの機能が残されていた。それは、ただ単に生産性上の効率のみを追求した市場形態とは違う方向を持っていた。流通の合理化が叫ばれているが、流通過程が果たしてきた、雇用の創出は無視されている。ただ、効率のみを追求し、経済主体が機関化すれば、そこから、人間性が排除されてしまうのである。流通の効率化ばかりを追求した結果、地方の商店街は衰退してしまった。それは、地方の経済や文化に大打撃を与えているのである。 

 経済主体というのは、そこで働く人達の生き様、生活、人生そのものである。経済主体が活動する場、生活空間、共同体でなければならない。生きた場、生きる場なのである。しかし、現代の企業を見るとただ単なる金儲けの機関に過ぎなくなっている。
 人生に定年はない。定年退職を一つの目的とする社会は、労働を苦しみだという考えにとらわれている社会だ。労働は、喜びである。労働は、生き甲斐である。労働は、権利である。その仕事を突然奪われ、全く新しい人生をゼロから始めなければならないように追い込まれることを、なぜ、善しとするのであろうか。人生の大半を共にした仕事仲間から切り離され、新しい人間関係を築かなければならない。仕事に対する誇りも、人間としてのアイデンティティ、尊厳も、それまで培ってきた経験も全て否定され、奪われてしまう。自分の居場所がなくなってしまう。それは、企業が単なる機関だからこそできるのである。
 そこで一番重要なのは、コスト削減である。しかし、経済は、本来、コストを生み出すものだという視点が失われている。つまり、コストの創造が、経済を活性化するという考え方である。コストを削減しすぎると経済性が失われる。
 産業主体を機関化するという事は、仕事をパーツ化、部品化することである。仕事がパーツ化される、それは、大量生産、大量消費的発想が行き着いたところにある。また、全体をバラパラに分解し、一つの最小単位を特定し、それから、理論を構築するという原子論的な発想に基づく。しかし、労働の担い手は、人間である。部分の還元されることで全体が見えなくなり、自分の仕事に意義を見いだせなくなる、つまり、疎外感が発生させてしまう危険性が高いのである。この様な疎外感は、企業のような組織だけでなく、家事や育児と言った家内労働を担う者にも発生する。社会全体が疎外感に支配されてしまう。その果てに定年退職がある。ただ、少なくとも母親には、定年退職はない。その母親を過激な男女同権論者は侮辱し、否定しているのである。真の男女同権論は、社会の分業の在り方から見直し、経済主体を平等で公平な共同体に再構築することを求めるはずである。
 大規模で集権的な組織は、個々の構成員の目的と組織の目的を乖離させてしまう。そこには、組織と構成員が対立的な存在としてしか機能しない。経営が悪化したら、人件費の削減しか考えない経営者と既得権にしがみつく労働者と言う図式しかない。経営者と労働者が、話し合い場を持ち、一致団結して困難な状況を切り抜けるという構図が描けないのである。それが企業の機関かである。困っていることがあったら何でも話せる関係、それがコミュニティである。話し合いもできないようになったらおしまいである。話し合いができる場を確保することが民主的なのである。対立関係だけが全てではない。

 多くの人は、共同体というと生活共同体を思い浮かべるが、なにも共同生活をしなくても共同体は形成される。本来企業というのは、運命共同体なのである。同じ船に乗る船乗りは、運命共同体なのである。かつて、村や町は、運命共同体だったのである。つまり、生活空間や運命を共有するところに共同体は、成立するのである。無理に、組織から生活空間を分離している。それが、今日の国家なのである。だからこそ、計画経済も、資本主義経済もうまくいかないのである。
 経済の目的は、分配にある。その分配の根本は、仕事、つまり、労働である。ただ、商品を安価に効率よく消費者に送り届けることだけが目標ならば、その中間にある労働をうまく省けばいい。しかし、それでは、中間にいる者の労働を奪ってしまうことになる。経済は、時には、非効率を求めることもあるのである。
 そして、文化や人生とは、ある意味で非効率なものなのである。経済は、文化である。経済は、人生でもある。つまり、経済とは生きることなのである。





                    


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