C 政 府


 日本が戦争に負けた当日も経済は機能していたのである。阪神大震災の時も経済は機能していた。明治維新の時も、経済は生きていたのである。財政が破綻して、多少の混乱はあるかも知れないが、経済は機能し続けるであろう。経済とはそういうものである。経済は、生業なのである。生きていく為に必要な事である。社会が発達し、分業が進化すればするほど、人間は、社会に対する依存度が高まり、経済の機能がなければ生活できなくなるのである。だからこそ、国家機関が一時的に機能しなくなったとしても経済は、休みなく機能し続けるのである。

 経済における国家の重要な役割、機能は、財の再配分と市場の管理、通貨の管理、そして、行政サービスである。

 国家の果たす役割の中に、富や財の再分配機能がある。平等な社会の建設というのは、倫理的な意味だけでなく。社会的、経済的な意味でも重要である。
 極端な財の偏在は、富の一方向的蓄積を促す。この様な富の一方的偏在は、本来循環運動である経済活動を阻害する要因となる。
 また、富の一方向的な蓄積は、社会に階層を生み出し、その階層が固定的になると特権階級を派生させ、社会の平等性を損なう。このような、階級制度は、社会構造にストレスを生じさせ、それが高ずると社会構造を維持できなくなる。
 故に、財の偏在を是正する必要があるのである。そして、それが、国家の重要な機能となるのである。
 富の偏在は、私有制度下だけ派生するわけではない。私有制度を認めない国にも派生する。ただ、私有制度の方が固有の権利となりやすい傾向がある。富の偏在は、分配の過程で生じるものであり、私有制度を認めなくとも分配に偏りがある場合、派生する。私有制度でない場合の方が、境界がない分、極端に現れることがある。私有制度を禁じた全体主義的な国家の方が、巨大な構造物を作るのが好例である。

 財の再配分は、収入段階と支出段階の二つの段階で行われる。つまり、入り口と出口で財の再配分は、調整されるのである。
 入り口の部分は、主として税制度によって行われ、出口は、主として、年金制度や社会保険制度、公共事業のような行政サービスによって行われる。行政機関自体が再配分機能を担うこともある。

 貨幣の最大の特徴は、価値の蓄積である。蓄積性の高い財は、土地と貨幣である。貨幣制度の浸透は、富の偏在の固定化に繋がりやすい。故に、富の再分配は、土地と貨幣の問題に集約される場合が多い。

 現在の財政は、赤字になるべくしてなっているだけである。
 第一に、予算が事前議決を必要としており、一度決められた予算は、実績として使い切ってしまうと言う点にある。
 第二に、単年度均衡予算だと言う点である。つまり、財政には、蓄えという思想がない。つまり、収益性や金利を最初から否定している。市場経済の原則を無視している。
 第三に、絶対的基準に基づいている点である。政府機関は、内部規律、規範によって動かされる。外部の規律や規範は、障害や圧力としてしか作用しない。その為に、内部の規律や規範が絶対化しやすい。
 第四に、経費構造が下方硬直的だと言う点である。経費が絶対的基準によってしかも予め決められていれば、経費、特に、固定費は、硬直的になり、底堅いものになる。
 第五に、財政事業は、独占的事業だという点である。つまり、財政事業には、競争原理が働いていない。市場が存在しないのである。
 第六に官僚制度の性格である。官僚制度は、もともと生産的事業に向いていない。官僚組織は、自分達の実績と評価が直接的に結びついている組織ではない。また、官僚組織は、意志決定手続きが煩雑となり、小回りが利かない。この事は、官僚組織が、外的環境への適合力を最初から持っていないことを意味する。
 第七に、官僚組織は、自己完結型であり、外部に対し閉ざされた組織だと言う事である。基本的に官僚組織は、内向きだと言う事を意味する。官僚組織は、内向きな傾向を持つから、結果的に内部圧力、即ち、身内、内部からの圧力が強くなる。内部からの上昇圧力や拡大圧力に抗しきれない。
 第八に、官僚組織の意志決定は、機関決定であり、所定の基準と手続きに基づかないとならない。その為に、問題の認識から対処まで時間がかかる。解決するための行動が起こった時には、実体は大幅に変化している場合が多い。結局、手遅れになるか、的はずれな対策になる。
 第九に、財政事業は、非生産的事業だと言う事である。つまり、財政事業は消費事業だという点である。消費経済が確立されていないために、消費を事業だと見なしていない。その為に、経済原則や経済性を最初から度外視しているのである。
 第十に、拡大型だと言う点である。インフレや成長経済を前提とした財政構造を持っている。官僚組織にせよ、公共事業にせよ、生産性を度外視しているために、自己増殖する。その典型が軍隊である。
 第十一に、利益誘導型政治形態だという点である。現行の政治システムでは、地元の有権者の利益代表、権益代表になってしまい全体的な利益が反映しなくなっている。しかも、中央集権的な意志決定のため、地元のに対するきめ細かな施策がとらなくなっている。つまり、どんどんと実体からかけ離れた意志決定がなされているのである。地方からの要求や圧力によって予算が肥大化しているのに、予算を執行する段階では、地元の意見が反映できない仕組みになっている。その為に、不正が発生しやすい上、無駄遣いを抑止できないのである。
 第十二に、既得権が派生しやすい点である。官僚組織が巨大化するにつれて監視の目が届かなくなる。また、動く資金が巨額になるために利権が生じやすい。一度生じた利権は、巨額であればあるほど、継続化されやすく、何らかの既得権が生じやすい。
 第十三に、不景気の時に財政で調整しようとする点である。しかし、不景気の時は、税収も落ち込むのが通例である。収入が落ち込んでいる時に支出を増やすのであるから、単純に考えれば、赤字が発生するのは、当然と言えば当然である。それを景気が回復した時に取り返せれば、赤字も一時的なものに収まる。しかし、景気が好転すると財政出動したとき生じた既得権によって財政を抑えることが困難になる。故に、一度赤字が発生すると慢性化する。
 第十四に、財政事業が公共事業だと言う事である。公共事業としての性格である。公共事業は、収益事業ではないと言う点。そして、公共事業は、景気対策や失業対策に用いられると言う点である。
 第十五に、税収や公債の発行によって安易な増収が計れるという点である。これは、税収に対する規律を失わせる。
 いずれにしても歯止めが効かない上、一方向的に経費は増大し続ける傾向を持つ。

 経済の基準は、相対的なのである。しかし、政府機関は、独占的に事業をするために、絶対的基準を追求する。計画経済や社会主義経済が破綻した原因もそこにある。経済というのは、土台、人為的な世界である。しかも、経済的な対象は、環境や状況、制度に左右される。この様な経済的尺度は必然的に相対的な体系となる。経済現象を絶対的な基準で測ろうとすれば、環境や状況への適合性を喪失する。絶対的基準では、フィードバック機能が働かないからである。フィードバック機能が作用しないことによって費用や組織の拡大、増殖は、歯止めを失う。そのために、費用は、下方硬直的になり、財政を圧迫することになる。

 また、財政赤字を問題とする時、財政赤字そのものを問題にするだけでは、解決できない。財政赤字の問題点は、財政の経済構造における機能から捉えるべきであり、その場合、国内における財政の均衡だけの問題では片付けられない。国内における均衡の問題以上に経常収支とのバランスの方が影響は大きい。故に、財政赤字は、経常収支との関係で考えなければならない。

 では、財政赤字は、何でもかんでも悪だと決め付けていいかというとそうではない。財政赤字は、結果に過ぎない。問題は、財政の果たすべき機能である。その機能に照らし合わせて、財政が果たすべき働きができなくなる事態が生じた場合、又は、予測される場合、財政赤字は、問題となるのである。

 財政が破綻し、行政サービスが正常に行われなくなった時、財政赤字は間違いとなるのである。しかし、重要なのは、行政サービスである。財政が破綻する以前に行政サービスが非効率で、悪ければ話にならない。その最大の問題は、財政の在り方と言うよりも行政組織の機構、構造に問題がある。官僚機構が、仕事の実績と成果が報酬に結びつく構造でないことが問題なのだ。行政サービスの対価として税が納められているという実感が乏しく。行政サービスが納税行為と直接結びつかない。だから、個々の役人は、自分の仕事の意義を見いだせないのである。民間企業の人間ならば、赤字は即、企業の存亡にかかわることを知っているが、行政サービスに携わる人間は、財政赤字が自分達の生活にどの様な影響を及ぼすのか自覚がない。また、仕事の評価と地位とが結びついているわけでもない。しかも、天下りのような形で役人は、正規以外の報酬を暗黙に保障されているケースが多々ある。これでは、官僚に財政をよくしようとする動機が働かない。むしろ、自分達に与えられた権利を既得権のように守ろうとする。これでは、財政をよくしようとする内部牽制機能が働かないことになる。

 また、財の再配分機能が財政赤字によって失われ社会が階層的に分裂してしまうのも種々の問題を引き起こす。再配分が有効に機能しなくなるとしたら、財政の摂理、節度の問題である。つまり、再配分すべき機関が再配分を疎外するという現象を引き起こし事である。
 花粉症のように、本来、体の健康を守るべき機能を持った要素が、健康を阻害するように働くと言ったケースに似ている。行政機関という再配分機構が肥大化し、財政と国家経済全体とのバランスを失っていくことである。国家を維持すべき政府が、国家を破壊するように働く。公僕たる官僚が圧制者となって、国民の権利を侵し、国民生活を破壊する。政治家や官僚が、税金を無駄遣いし、国民を食い物にする。法を守るべき者が、法を悪用して、私腹を肥やす。そう言ったことが、実質的富の偏在を引き起こし、社会を土台から破壊してしまう。つまり、富の再配分機能を作用させなくしてしまうのである。
 特に、目に見えない利得、埋没利益を公務員は、多く受ける。それらは、社会一般の常識からかけ離れたとしていても行政機関内部では、常識化してしまう。極端に安い家賃による宿舎の提供、名目だけの手当、フリンジベネフィット、天下りと言った形で支給される所得が、民間の常識から大きくかけ離れ、巨大な資質となって財政を機能させなくなってしまう。また、既得権益化し、市場原理が働かなくなる。また、一部の特権階級を生み出す。とにかく、財政は、巨大な利権がつきまとうのである。その利権が社会の公平感を乱す結果を引き起こす。それこそが最大の問題なのである。そして、それは、富の再分配に逆行する作用をもたらす。行政機関こそ、最大の利権集団になりかねないのである。
 それを防ぐためには、行政機関の原理と国民経済の原理との整合性をとる以外にない。それは、単純に民営化すけばいいと言う短絡的な問題ではない。
 象徴的なのは、軍隊である。軍隊こそ、官僚機構の典型なのである。軍事費の抑制は、最も困難な仕事である。だからといって軍や警察を民営化せよというのは、乱暴である。必要なのは、明確に指針であり、抑制するための機構・制度である。
 指針や、機構・制度がなければ、軍隊に代表される、官僚機構は、抑制を失って肥大化し続ける。そして、国民経済のみならず、国家制度をも土台から切り崩してしまうのである。

 財政でも経常収支でも極端な話、分配が正常に機能していればいいのである。分配が機能しなくなり、極端な偏りや分配が滞り、経済の循環が阻害されたならば、逆に、経常収支や財政が黒字でも問題である。要は、水準の問題である。分配率の水準、赤字幅・黒字幅の水準、蓄積の水準、在庫の水準、収支の水準の問題である。水準や幅が極端に偏ると均衡が乱れ、循環が悪くなる。ただ、一カ所や部分だけをみても判断はつかないのである。

 行政サービスには、司法、立法、国防、外交、治安維持、防災、教育、産業育成、景気対策、国民の健康管理・生活管理などがあげられる。
 財政が破綻するとこれらのサービスを受けられなくなるか、また、サービスが低下する。中でも、国民のライフラインに関わる機能が停止すると即生活に影響を及ぼす。それ故に、財政が破綻してもライフラインは確保しなければならない。
 また、ライフラインが確保されても、国家は、事実上、独立機能が失われ、いずれの国か機関の支配下に入らざるを得なくなる。つまり、隷属、属国となるのである。それは、国家の歴史・文化の否定に繋がらざるをえない。

 財政が赤字で何が悪い。正直言って明確に回答はないのである。しかし、放置していて良いはずはない。高血圧、高脂血症のようなものである。問題は、財政が国家経済に果たす機能である。機能を明確にしないで赤字という現象だけを問題にしても始まらないのである。ちゃんと財政が正常に機能していれば、財政赤字は問題にならないのである。財政が正常に機能しなくなるから問題なのである。ところが、財政の赤字を問題にしていながら、財政の機能について明確にしているエコノミストは少ない。そこに、財政問題の不毛がある。

 財政赤字や貨幣流量は、その機能から検討されるべき事であり、量的な面から検討されるのは、二義的なことである。つまり、働きから見てその量が妥当であるかどうかが問題なのである。量的な問題は、目安に過ぎない。肝心なのは、財政が果たす機能や貨幣の果たす機能なのである。

 もう一つ財政赤字の問題を解りにくくしているのは、民間で言う赤字の概念と財政上の赤字の概念が根本的に違うと言う事に気がついていないことである。民間上の赤字というのは、会計学的な意味での赤字、損益上の赤字であるのに対し、財政で言う赤字というのは、収支上の赤字、キャッシュフロー上の赤字なのである。近年、キャッシュフローが重視されてきたとはいえ、企業業績に対する評価は、損益上の収益に基づいてなされている。ところが、財政上においては、損益上の収益が示されていないのである。それ故に、財政赤字が本当に悪いのかの会計的判定がつけられないのである。もし、損益上に置いても赤字だというのだとしたら、それは深刻な問題だが、収益が上がっているとしたら、それほど深刻な問題ではない。もっと深刻なのは、損益上の結果が報告されていない、また、報告する仕組みやルールがないという事である。そして、その原因が、収益を罪悪視する、儲けを否定する思想なのである。

 財政は、国家構想、国家デザインに基づき、財政の果たすべき機能、きたされる役割に基づいて設計、デザインされるべきものなのである。ただ、量の問題ではなく。何をなすべきかが重要なのである。財源があるやるというのはなく。道路財源があるから道路を造るのではなく。必要な道路を建設するのである。財源は、その上で考えるべきである。さもなければ、財政は硬直化し、やがて破綻する。必要もないのに作ったり、今、作る必要がないのに、作るというのは、本末の転倒である。財政の本質が失われてしまう。それは、再分配の本義からも離れる。公共事業の目的が失われるのである。
 地方へ行くと土建業がその地域の最大の産業であるような地域に出会すことがある。そのような地域では、土木事業を地域へ誘導することが政治の仕事であるような錯覚を持っている者がいる。これでは、財政の健全・節度は保てない。財政は、金があるから、既得権があるから発動されるわけではない。また、景気対策が主なる機能ではない。あるからではなく、必要だから行われるのが本筋である。
 特定の団体の利益を代表するのが政治家の仕事ではない。国家、国民のために何が必要なのか。その為の構想を持ち実現のために働きかけるのが政治家の勤めである。それが政治である。
 また、組織が巨大になると責任の所在が曖昧になる。しかも、仕事の成否にかかわらず報酬や地位が保障されているならば、保身に走るのは、必然的結果である。究極の保身は、何もしないことである。それこそ、見猿、聞か猿、言わ猿に徹すればいい。日和見主義が横行するのは、役人の性ばかりではない。彼等の置かれた環境、そして、その環境を作り出している機構に問題があるのである。一人二人の問題ではなく、全体に日和見主義的、権威主義的傾向があるのは、機構、環境の問題である。この様な構造を無視して財政の健全化を叫んでも絵に描いた餅である。的はずれなことである。
 革命かを国家が養う。行政機構は、自己否定を内包しているのである。
 軍事組織や官僚組織は、自己完結した、自己目的化した組織である。軍隊や官僚組織は、自分達の組織は、自己防衛的組織であり、自分達の組織を守るために戦うのである。この点を忘れてはならない。手綱を緩めれば、すぐに暴走する。軍隊は、地域住民や国民を助けるために戦った例は、まだない。軍隊は、自己保全のために戦うのである。結果的に国を護り、国民を守ることになる。しかし、国民や住民の生命財産を守るとしたら守りきれるものではない。必然的に、軍は、軍と要人を守るために戦うのである。特に、自国が主戦場となれば、国民の財産や生命などかまっていられない。だからこそ、誰が主人であるかを忘れた軍は、暴徒と化す。そのことを国民は忘れてはならない。そして、多かれ少なかれ、官僚組織は、自己目的化、自己防衛的傾向を持っている。それが、抑止力をなくせば財政を圧迫するようになるのである。財政赤字の問題の本質は、赤字の幅よりも、国家組織の暴走や自己増殖をいかに止めるかの問題の方がより深刻で本質的なのである。

 財政が破綻する方が怖いのか、旱魃や飢饉によって大量のが死者が出る方が怖いのか、答えは、明白なように思える。
 しかし、同時に財政か破綻し、国家の独立が保てなくなることは、国民としての誇りや信念が失われ、人間としての矜持(きょうじ)をも失うことになりかねないことを肝に銘じておく必要がある。要は、人間としていかに生きるべきかの問題、国家の独立とは何かの問題なのである。





                    


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