経済主体

B 産業



 明治維新後の日本は、富国強兵のかけ声の下、軽工業から重工業へとシフト、発展させてきた。その中核を担ったのが軍需産業である。しかし、最終的には、軍事体制に移行し、軍需産業一辺倒となり、破綻したのである。

 産業は、育成するものである。国家の重要な役割の一つが殖産興業である。問題は、どの様にして、殖産興業を起こすかである。それは、建造物を構築するように、先ず、産業の土台を作り、その上に産業をある程度計画的に組み立てていかなければならないのである。その是非は別にして、経済には計画性が必要である。しかし、ここで言う計画性とは、直接的に生産手段に働きかけるのではなく。その時々の政策(公共事業、金融政策、国債、国防政策、補助金等)や立法(税法、商法、証券取引法、民法、年金制度、社会保険制度、会計制度等)という間接的な手段によって機構や制度環境に対し、構造的に働きかけることを意味するのである。それが構造経済学である。

 公共事業によって基幹産業を育成する。公共事業の代表は、社会、産業のインフラストラクチャーと軍需である。産軍複合体は、強固な基幹産業として国家経済の中核を握ることがある。しかし、軍需産業は、拡大再生産型の産業ではない。軍需は、民需を追い出してしまう危険性がある。軍需は、麻薬的な作用があり、軍需に依存した経済は、国家経済を歪んだ物にしてしまう。やはり、基幹産業の育成は、軍需に依存するのではなく。国家、社会、産業のインフラストラクチャーに重点を置いたものにすべきなのである。
 代表的公共事業は、運輸、通信、エネルギーであり、いずれも、重厚長大型産業の典型である。重厚長大型産業は、固定費型産業の典型でもある。更に、鉄は国家、石油、電気、ガスは、産業の血液と言われるように、鉄鋼のような産業も基幹産業の一種と見なされた。そして、また、鉄鋼も重厚長大型産業である。
 この様な重厚長大型産業は、固定費型産業であり、固定費型産業は、設備投資、即ち、固定資産が巨大な産業である。固定費が巨大な産業は、固定費がネックになって簡単に転換が容易にできない。市場が拡大している間は、順調に経営ができても市場が収縮してきたり、停滞するととたんに、資金の回転が鈍くなり、経営を圧迫する。その上、雇用に関しても産業の裾野が広いだけ、転換が難しい。

 建設業や軍需産業は、利権を生みやすい。つまり、公共事業に依存しているかぎり、政治的にならざるをえないのである。
 そして、これらの産業が利権化し、政治や官僚と癒着すると政治や官僚は腐敗し、国家的事業が財政を圧迫する要因となる。不必要な公共事業は、地域経済を荒廃させ、人心を倦(う)ませ、環境を悪化させる。財政赤字の本質は、ここにある。時代の変遷や市場環境、経済情勢に対し柔軟に適合できるならば、財政赤字は、それほど怖れることはない。しかし、財政が硬直化し、環境に柔軟に適合できなくなると財政赤字は、国家経済を破綻させる危険性がある。

 戦後は、高度成長から低成長時代へと移行してきた。高度成長時代は、競争の原理でよかった、今は、闘争の原理に変わってきた。競争の原理の間は、スピードが重要であった。誰よりも早く、大量の製品を市場に送りだした者が勝つ時代であったし、そこで物をいうのは、資金量であった。売上至上主義でよかった。また、土地を担保にして多額の借金をしてもそれを上回る物価の上昇が借金を帳消しにした。年功序列型賃金でも、費用を吸収することができた。借金も財産のうちとすら言われたのである。この様な右肩上がりの経済情勢が永遠に続くと錯覚をし、右肩上がりの経済を前提とした経営が当然とされてきた。
 この様な経済の中で重厚長大型産業が繁栄してきたのである。ところが、低成長時代に移行すると一転して、軽薄短小型産業がもてはやされるようになってきた。

 大量生産、大量消費時代から、多品種少量生産、ブランド志向へ経済は変化してきた。経済は、成長期から成熟期へと移行しつつある。それにともない市場は、均質から異質へ、統一から分散へと質的な変化をしている。産業それぞれ変革の波にさらされている。競争の時代から生存を賭けた闘争の時代に突入をしたのである。

 闘争の時代とは、競争の時代と違って生存を賭けた戦いである。競争の時代から闘争の時代への変化に適合しなければ、生存できなくなる。個々の事業主体の構造そのものの変化が要求される。競争の時代は、成長の時代であり、拡大の時代である。それに対し、闘争の時代とは、成熟の時代であり、停滞の時代である。市場の拡大や成長が止まり、限られた市場、限られた資源を取り合う、奪い合う時代である。量的規模の時代から、質の時代への転換である。標準化、均一化、均質化から、多様な要求に対応していかにければ生き残れない時代である。それ故に、スケールメリットよりも収益構造の適否が求められる。
 その場合借入は、両刃の刃となる。借入を主体とした財務構造を見直し、自己資本の充実が必要となる。また、年功序列型賃金体系もコスト構造を硬直的で重圧的な物にしてしまう、成果主義的な雇用体系への転換が要求される。それによってリストラによるコスト構造の変革が要求される様に変化してきたのである。

 老舗企業がなぜ潰れるのだろうか。それは、老舗が生き残ってきた経済環境というのは、成熟した環境だったからである。際立った技術革新もなく、激しい競争もなく、労働争議もなく、一つの技術をひたすらに守り続ければ成り立っていた。だから、徒弟制度的な教育体制が有効だった。
 現代人は、成長経済しか知らない。成長経済の適応した産業しか生存できない体制になっている。だから、無理に経済成長を続けようとしている。停滞は、悪だと考えている。しかし、本当に停滞は悪なのであろうか。人類の歴史の中で見ると成長時代よりも停滞時代の方が長い。成長は、変化である。停滞は、平常である。平常な時代だからこそ、技術を磨き、生活を安定させることができた。つまり、文化の多くは、停滞の時代に生まれたのである。文化遺産の多くは、停滞の時代に作られた物である。変化は破壊が伴う。停滞の時代にこそ創造がある。革命や動乱は、華やかであり、英雄の時代である。しかし、平和な時代には、英雄はいないかも知れないが平穏がある。我々は、成長ばかりを望むべきではない。停滞な時代には、平穏な体制が必要なのである。

 産業というのは、経済主体の集合体である。一つ一つの経済主体の健全性が、産業の健全性を保証している。腐ったリンゴの例えにあるように、個々の産業主体が腐敗すれば、いずれは産業全体を腐敗させるのである。産業が腐敗すれば経済全体の健全性が損なわれる。収益性のみを基準にしただけでは、一つ一つの経済主体の健全性を保つ事はできないのである。

 戦後の発展を促すためには、金融資本、金融市場の確立が不可欠であった。戦後の高度成長の中で金融制度は確立されたのである。しかし、低成長経済への移行は、この金融機関を直撃した。

 また、商品と産業には、ライフサイクルがある。それが、経済に一定の波動を引き起こす。また、経済の波動を生み出すようその一つに経営の回転運動がある。この様な商品や産業のサイクルに合わせて経営や経済運営がなされれば問題はない。しかし、それを難しくしているのが、下方硬直的なコスト構造である。

 商品や産業のライフサイクルは、必然的に事業主体の構造的な変化、経営や運営の質的な変化をもたらすことになる。それは雇用形態や組織形態の変化として具現化する。この変化は、従業員の生活スタイルの変化や人生観の変化にも及ぶ。そこに重要性がある。また、それを無視していることに現代経済学の限界がある。経済学は、本来、高度に人間学なのである。

 産業やコスト構造の転換は、容易ではないのである。事業主体には機構があり、環境に適合するまでに時間がかかる。特に、重厚長大型産業は、固定費が高い分、環境への適合に時間がかかる。その時間が、産業にかかわる人間や事業主体に破壊的な影響を与えるのである。その障害を除去しない限り、産業の変換は、常に、深刻な抵抗を受けることになる。
 産業構造、並びに、産業の質的な変化を勘案しながら、長期的展望に立った構造変革を前提とした政策に基づいて経済運営を国家はしていく必要がある。産業、事業主体をただ単なる機関としてみるのではなく。人間集団として認識する必要があるのである。つまり、構造というのは、物的構造、金銭的構造だけでなく、人的構造も含まれるのであり、その人的構造こそが大切であり、尚かつ、厄介なのである。

 産業の発展には、一定の段階と過程がある。一つの段階から次の段階に移る時には、事業主体は、その変化に構造的に適合する必要がある。成長段階から成熟期への移行は、大きな環境の変化を伴う。環境の変化に応じて構造を変革させていかなければ、企業経営は、継続されない。構造的な変化に対応できなければ淘汰されるのである。事業主体は、共同体であり、そこに働いている者が多くいる。彼等の生活を維持することが専決である。その為には、スムースに移行できる様な仕組みが必要なのである。

 環境の変化は、事業体単体で克服することが難しい場合がある。その様な場合、事業主体は、他の事業主体と結びついたり、又は、分裂したりして構造を変えていく。
 事業主体は、必要に応じて、集合離散を繰り返す。合併、営業譲渡、業務提携、受託、買収、会社分割、清算、投資などを繰り返しながら、事業主体は、グループ化したり、合掌連係をしていく。また、結びつき方も資本を介したり、金融を介したり、人を介したり、仕事や業務、特許や免許を介したりといろいろな結びつきをしていく。また、垂直的な結びつき、統合や水平的な連係などがある。日本では、系列、株の持ち合いなどが問題になったが、しかし、それも一種の結びつきに過ぎず、善悪の問題ではない。有利、不利の問題である。この様な事業主体は、いろいろな結びつくための因子、端子を持っている。そして、この端子となる部分が、主として資本なのである。これが資本主義の特徴でもある。

 経済主体は、絶えず、市場を支配しようと合従連衡を繰り返している。事業主体のみならず、労働者組合、消費者運動、生協や農協と漁協と市場では、いろいろな組織が、自分達の利益を計るために結成されている。その様な、集団や組織の形成そのものを否定するのは行き過ぎである。しかし、市場の機能や制御に支障をきたすようであれば、規制する必要がある。:経済の仕組みというのは、合目的的である。経済の制度や規制を考える時、その制度や規制の目的が何であるかが重要なのである。経済の規制はルールであってモラルではない。この点を錯覚してはならない。各プレーヤーは、自分に有利に働くように、ルールの変更を求めるものである。それを不変的な原理や自然の法則のように捉えるのは、何等かの作為である。無作為な人間は、作為ある人間の言いなりになる。結局、国家間の利害抜きに市場の原則を決める事は不可能なのである。その点をよく見極める必要がある。

 カルテルやトラスト、コンツェルンなどは、市場を支配するための在り方・構造であり、それが市場を独占的に支配するようになると富の恒久的遍在を生み出し、階級格差を拡げ、弊害が大きくなる。しかし、市場の秩序を維持する観点から見ると弊害ばかりとはいいきれない。特に、カルテルは、カルテルそのものが悪いと断定しきれない。カルテル自体よりもカルテルが形成された経緯、その弊害、環境、状況が問題なのである。
 かつては、不況カルテルや合理化カルテルなどは認められていた。また、持ち株会社が認められたことで、外形的に見ればコンツェルンの復活も認められた。容認するのも、否定するのも、オール・オア・ナッシング的発想が事が危険なのである。長所、欠点をよく見極め、弊害を除いて用いることが肝心なのである。

 株の持ち合い、持ち株会社、カルテルも選択肢の一つである。談合も秘密にすれば問題だが、ルールに基づいて公開で行うのならば、必ずしも悪いとは断定できない。選択肢の一つである。要は、経済的合理性の問題であり、経済主体は、分配機関でもあることを忘れるべきではない。経済的基準は、道徳律ではない。合目的的なもので、相対的な基準である。社会・経済の状況、要請によって選択すべきものである。選択をするためには、その前提条件、状況が重要なのである。それを一律に悪い事だと決め付けるのは、早計、短絡的すぎる。

 サプライチェーン・マネージメントや系列化、ジャスト・イン・タイムといった生産組織の組織化やフランチャイズチェーン、ボランタリーチェーンと言ったチェーンストアマネージメント、また、特約店、代理店制度といった販売制度の組織化と言ったグループ化も盛んに行われている。また、多角化もグループ化の一種である。この様に生産性や効率化、規模のメリットを求めて事業主体は、離合集散を繰り返している。また、それを可能ならしめる構造を事業主体は有しているのである。

 産業の在り方は、国家経済、国民生活に重大な影響を与える。貨幣の流れを水流にたとえれば、産業は、装置である。貨幣の流れて装置である産業の基礎となるのが、税制度や商法、会計制度と言った国家制度である。
 貨幣経済は、貨幣の流れを作り出すことによってその反対方向に流れる物流を引き起こし、財の分配を円滑に行こなう事によって成立する。その為には、貨幣を社会の隅々にまで流通しておく必要がある。それに活用されるのが公共事業である。
 大規模な公共事業によって通貨を消費者に与え、それによって、購買力を創造して、市場を作り上げる。つまり、有効需要を作り出すことによって市場経済を活性化するという政策がよくとられるようになった。また、軍隊や政府機関は、雇用によって貨幣の流通を促す。この様に、公共事業、政府機関、軍隊と言った機関を通じて大量の通貨を社会に流通させる機能がある。
 一度、流通した通貨は、市場や産業によって社会に循環させられる。つまり、産業に重要な機能の一つは、通貨の環流と財の分配である。需要と供給面からのみ見る経済学には、財の分配という観点が忘れられている。故に、大規模な事業を行うことを著しく重視し、その事業の効用は軽んじられる傾向がある。金を使うことばかりに目が向けられている。しかし、実際には、公共事業の効用こそが、経済構造に重要な影響を持っているのである。その効用の最も重要なことは、経済構造の基幹の変換にある。たとえて言えば、道路網や交通網の整備は、沿線地域の生活や経済の流れを変えてしまう。また、エネルギー網に整備は、産業の質的変化をもたらす。通信網の整備は、情報ネットワークの構築を促進し、都市開発は、消費地を生み出し、土地の開拓は、地域の環境変化をもたらすという具合である。つまり、経済の大枠を変えてしまうのである。また、最も重要なのは、雇用の創出である。

 近代経済は、産業革命によって起こったと言われているが、産業革命は、会計革命であり、雇用革命でもある。
 近代資本主義体制は、会計制度や原価計算制度の影響を濃厚に受けている。それでありながら、経済学においては、長い間、会計制度や原価計算制度は無視され続けてきた。それが、近代経済学の限界をもたらしている。

 近代会計学は、資本の概念が確立されたことによって完成された。資本の部、新会社法では、純資産の部が確立されることによって会計制度は、現代の形を整えることができたのである。そして、会計上の資本の概念が確立されるのと平行して資本主義が発展していくのである。その意味では、資本主義と近代会計学は、不離不可分の関係にある。

 資本の概念は、収益の概念でもある。近代において巨額の資金を調達運用することが可能となったのは、償却と借金の技術が発達したからである。資本主義というのは、資本の思想であると同時に、償却と借金の思想でもある。そして、償却と借金の概念が確立することによって収益の概念が確立し、資本の概念が確立されたのである。それをなさしめたのは、近代複式簿記を基礎とする会計学である。

 会計学は、その成立時点から誤魔かしがある。最初から、無理がある。しかし、その誤魔かしや無理が、資本の概念を生み出し、近代経済の礎を築いたのである。会計学の根本は、アカウントつまり、報告にある。執事(スチュワード)が、主人、特に、不在地主に報告することを目的にして発展した。当然、長期的な投資は帳尻が合わない。その帳尻を合わせるために、簿記、会計は発展した。その根本は、今でも変わりがない。
 本当ならば、手持ち現金と財産の残高が解ればいいはずである。その証拠に今日、キャッシュフロー会計が重視されてきた。利益、収益は意見・見解にすぎない、キャッシュ、現金は事実であるとまで言われている。
 ならばなぜ、収益を重視した会計が発展したのか。そこに会計の論理がある。それは、資産の構成を見ると解る。資産は、流動資産と固定資産から成る。流動性とは、現金、又は、現金同等物に変換しやすいかどうかの指標である。そして、この流動性から離れていく、つまり、固定化すればするほど、会計の意義が現れてくるのである。

 資本の概念が確立されたことにより、大量の資金の調達と運用の技術が確立したのである。従来の考え方では、収支と財産目録で事足りるのである。しかし、それでは、大量の資金を長期にわたって運用するための合理的説明ができない。そこに、収益と費用の概念と、資本の論理を確立する必要があったのである。その典型が減価償却制度である。
 資本の概念が確立される以前の巨大事業は、国家権力による強制力によってなされていた。政治的権力と経済的権力は一体だったのである。資本が確立されることによって政治的権力と経済的権力は分離した。それが近代経済を著しく発展させたのである。

 それまでの現金出納を核とした会計から収益を核とした会計に発展することによって近代資本主義は、確立していくのである。そして、近代資本主義では、利益は創られるものなのである。

 産業を考える上で忘れてはならないのは、産業の下地と基礎、その範囲と境界線である。経済や市場の基盤は、単一のものではない。国家によっても産業によっても違うのである。それ故に、市場や経済の基盤となる制度、政策、規制の範囲や境界線を特定する必要がある。

 産業の制度的基盤は、国家単位である。国家間の取引の調整をするために、各種の国際機関と国際為替制度がある。
 通貨制度、為替制度、会計制度、税制度、金融制度と言った制度、金融政策、関税政策、為替政策と言った政策、許認可、輸出入規制、出店規制と言った規制、これらが市場構造の基礎構造を形成し、産業の基礎構造、インフラストラクチャーを構成している。
 地理的条件や政治体制なども重要な要因の一つである。
 また、基軸通貨によって通貨圏が形成される。国際決済、国家間の取引の決済権を基軸通貨国が握るからである。現在為替制度は、変動為替制度がとられている。
 
 経済政策は、道徳的規範とは異質なものである。善か悪かではなく、経済的効果、目的を重視してされるべきである。規制を緩和しろとか、会計制度を変えろとか言う場合、その時の経済情勢や予測される事態を無視して、かくあるべき論的、例えば、過度に市場主義的であったり、統制経済主義的であったりすべきではない。株価が急落している最中に、持ち直している最中に所有株を放出させるような政策をとったり、デフレ下に時価会計を導入するのは、経済に対して無責任な政策である。

 国家は、経済基盤や産業基盤を守るために、いろいろな経済障壁を設けている。
 カルテル、ダンピングにたいする基本的な政策、考え方である。カルテルやダンピングの是非は、絶対的な基準ではない。個々の国家の自国の市場に対する状況や見方、政策に依るのである。この様な経済的価値基準を倫理的価値基準と同一視するのは愚かなことである。所詮、経済的価値基準は損得であり、善悪では測れないのである。

 産業と言うと我々は、鉱工業、即ち、二次産業を思い浮かべがちであるが、実際は、一次産業の方が経済の原点であり、原型なのである。その意味で農業経済は、経済学に重要な視座を与えている。農業経済から、現在の経済学を見直すと経済の問題点も浮き彫りにされる。

 産業の果たす経済的機能の第一は、雇用の創出である。第二に、生産財や用役の生産と供給である。第三に雇用や取引を通じて資金を循環することである。

 産業主体は、事業主体、企業主体である。企業主体の目的は、基本的には、継続にある。収益を上げる事も重要な要件ではあるが、収益が上がらなくても継続することはできるのに対し、いくら収益があっても存続できなければ意味がない。故に、収益は、絶対的要件ではない。しかし、企業主体は、存続しなければその機能を発揮することができない。つまり、第一に、雇用の創出である。つまり、社員の生活の原資を供給することである。第二に、生産財の生産と供給である。第三に、資金の循環である。つまり、企業主体は、存続しなければ、経済活動ができない。故に、企業主体の基本的、目的は、継続である。そして、企業主体が継続するためには、資金の供給が不可欠なのである。

 事業主体・産業主体の分類は、機能から見た分類、それから、機構・構造から見た分類がある。機能面から見た産業主体とは、インフラストラクチャアであるか、製造業であるか、販売業であるか、流通業であるかと言った分類である。機構、構造面から見た産業主体とは、労働集約的であるか、資本集約的であるかと言ったことである。

 事業主体・産業主体(企業体)の構造を決定付ける要素をあげると次のようになる。
単体企業でみると、
 商品特性
 基礎構造(制度インフラ)
  @ 法制度・規制
  A 税制
  B 会計
 体制・経営主体
  @ 国営
  A 民営。株式、個人
 組織構造
成立前提から見ると
 市場状況
  @ 独占
  A 寡占
  B 自由
  C カルテルの存在
 労働環境
 立地条件
 産業構造・周縁構造(産業インフラ)
ネットワーク構造
 歴史的構造

 経済学は、公共投資と金融政策ばかりに目を向けている。会計制度の変更や税制の変更などまったく埒外である。だから、会計制度や税制、金融制度の変更がどの様に経済に影響を与えるかなんて関心がない。これでは、経済の現場を理解することなど経済学的には出来やしない。日本の経済に重要な影響を与えたのは、銀行の自己資本率の問題であり、高騰した地価に対する政策であり、相続税対策である。経済学でこれらの影響試算できないのならば、近代医学以前の医学と変わりはない。診断ではなく見立てである。

 現代の市場経済で言うところの利益というのは、会計学的利益だと言う事を忘れてはならない。現代人の多くは、利益や資本には、何等かの実体があると錯覚している。しかし、利益や資本とは、つくられた数字なのである。必然的に経営者は、表面に現れた数字を取り繕うとする。会計原則というのは、ある種のルールなのである。取り決めである。ルールなのであるから、会計は、柔軟な処理が可能にしてあるし、都合が悪くなれば変えることも可能なのである。人間の恣意や主観に対応できるようにしてあるのである。元々会計は、利害関係者を調停する目的で作られた制度である。極端な話、企業は、利益や資本によって存在しているわけではない。利益も資本も目安に過ぎない。企業は、赤字でも、債務超過でも、資金が廻れば存在することは可能なのである。その点を日本人は、理解していない。あたかも、会計原則を所与の真理と普遍的法則と同等に扱っている。

 事業家の行動規範は、会計学的論理である。なぜ、会計学的論理が事業家の行動を支配するというのかというと、人間は、外形的数字による基準を示されるとその基準に合致した行動をとろうとする習性があるからである。何も、これは、会計基準だけによるのではない。旧ソビエトにおける計画経済で、生産計画が重量で示されると、その重量に合わせた生産をする傾向があったという事例も報告されている。その為に、旧ソビエトの電化製品は、意味もなく重かったと言われている。とにかく、会計制度下で行動する事業家は、会計原則に合わせて行動をする。世の中を測る尺度、物差し、基準が、世の中を規制し、拘束し、支配する。その様な転倒した世界が現代の市場経済である。
 資金繰りにせよ、税務にせよ、会計学的な論理で意志決定をする。金融機関が、会計資料によって勇士をするかしないかを決定する以上、会計基準を無視することはできない。資金繰りができなければ、企業は存続できないのである。税制上有利に働く会計処理をとるのは、経営者として当然である。為替の問題や貿易の問題で、国家や社会の利益に反する行為を企業がとる事があると言うが、生存競争の中、生き残りがかかっている場合は、利益を優先した行動をとるのは、事業家として当然の行為である。と言うよりも、それが、事業家なのだと言う事を忘れてはならない。だからこそ、経済の先行きを読む時、会計的な判断抜きに考えるのは、愚かなことである。そして、事業家の判断の根本は、資金である。例え、収益が赤字でも資金がまわれば、事業は、存続できるのである。事業家というのは、本能的に事業の継続を考える。故に、資金の源を何処に蓄積するかを事業家は第一義に考えている。そして、収益を平準化したいという欲求を事業家は絶えず持っている。それも、会計的に安定したいという気持ちの現れである。
 例えば、減価償却費の問題である。減価償却費をどの様に処理するかは、企業にとって重大な課題である。
 また、デフレ下に減損会計を導入することは、デフレを昂進することにもなりかねない。これなども、会計的な基準が経済に与える重大な影響力である。それでありながら、あまりに、行政は、会計的な原則を無視しすぎる。

 経営者の価値観とは何か。もっと言えば、経営者の倫理観とは、行動規範とは何か。その点が、事業主体の意思決定に重大な結果をもたらす以上、当然の結果として、産業社会、市場経済に重要な影響を及ぼす。
 最近、モラルハザードという言葉を頻繁に聞くようになった。マスメディアでは、モラルハザードというと何か不道徳な行為という受け止め方しかしていない。例えば、経営責任を明らかにしないとモラルハザードが保てないと。しかし、経営に失敗することは、不道徳なことなのであろうか。そのことを理解せずに、ただ、モラルハザード、モラルハザードと言っても意味がない。逆に、経営失敗を経営者が何か悪い事をしたかのごとく言えば、世間体を気にして事実を隠蔽し、かえってモラルハザードを招く怖れすらある。先ず、経済上で言うモラルとは何かを明らかにする必要がある。
 モラルハザードというのは、不思議な問題である。モラルを守れない状況があってモラルの崩壊があるのである。戦場で人を殺すなと説く方がどうかしている。まず、人を殺すなというならば平和を実現する事である。さもないと人を殺すなと説く行為そのものが人殺しになる。生き残れないシステムを作っておいてシステムのルールに従えと言う方が無茶なのである。
 経済的な意味で言うモラルというのは、合目的的なものである。嘘をつかないと言った道義的意味でのモラルとは異質である。例えば、嘘をつかないと言っても一概に何が嘘で、何が真実かは、何等かの基準に基づいて判定される。例えば、減価償却は、実際に出費が伴う費用ではない。出費が伴わない費用なのだから、架空の費用かというとそうではない。会計原則に定められた費用なのである。つまり、経済的な意味で言う費用というのは、約束事なのである。これは取引も同じである。会計上の取引と一般常識で言う取引とは、同じではない。盗難や火災による被害も会計上は取引であるが、ただ契約を交わしただけでは、実際の金品の授受がないかぎり会計的には取引とは見なされない。この様に、モラルとなる基礎、下地が違うのである。

 現在の会計は、商法、証券取引法、税法から拘束を受けている。しかも、それぞれが依って立つ理念が違う。つまり、目的がそれぞれ違うのである。目的が違うのに、会計は、確定決算主義によって縛られている。この事が、企業系、ひいては、経済に重大な影響を与えている。その典型が、不良債権の問題である。また、銀行の自己資本比率の問題が金融不安の原因となったというのも、税制と証券取引法との間のねじれに起因している部分がある。
 商法、証券取引法、税法を各々の目的に沿って整合性をとる必要がある。

 産業を支えている基盤は、市場である。市場を支配しているのは、会計原則である。市場経済に則る事業主体は、会計原則に基づいて意思決定をする。

 市場は、価値の抽出、抽象化の場である。市場価値の本質は、交換価値である。市場価値には、人的側面、物的側面がある。それが、貨幣的価値に還元されるのである。

 財は、市場において単位価値、単価に還元され、貨幣価値に変換される。全ての財を貨幣的価値に価値を一元化し、会計的な処理を施すことによって市場経済は成り立っている。

 我々は、市場を一律に見るが、市場には、市場毎に論理や原理がある。独占が悪いと言うが、個々の商品市場を見る独占、寡占状態の市場も現に存在している。また、地域独占の市場もある。それらの市場が有効に機能しているか否かは、一概に言えないのである。

 市場規模は、一定ではなく、収縮と拡大を繰り返す。先にも述べたように、製品や産業には、ライフサイクルがあり、そのライフサイクルに応じて市場は、拡大と収縮を繰り返す。その市場の拡大と収縮は、経済に一定のリズムを生み出す。そのリズムに応じた経済政策をとる必要があるのである。

 経営分析の指標は、経済分析にも有効である。その指標とは、回転性と、比率と、相関性、推移である。そして、経営は、安全性、成長性、収益性、生産性によって評価される。

 市場は、物流の場でもある。絶えず、貨幣と物が循環している。それ故に、市場の状況を知る為には、消費量、供給量、生産量、需要量、在庫量を把握すればいい。特に、市場の運動が循環運動を基礎としているのであるから、回転率は重要な指標の一つである。

 企業主体を構造的には、損益構造による分類、貸借構造による分類、原価構造に基づく分類がある。
 現代の市場経済においては、企業実績を決定付けるのは、売上と利益である。

 企業は法人である。法によって人格を認められた基幹である。法による必要要件を喪失すれば清算される。利益が上がらなければ、事業主体である企業は、倒産するのである。利益は、売上−費用である。
 
 売上は、数量×単価によって決まる。数量とは、物理的量を表わし、単価とは、経済的価値かける貨幣的価値を意味する。物的価値には、有形な物と無形の物がある。経済的価値は、市場化的価値でによって決まる。市場的価値は、基本的に交換価値である。交換価値は、需要と供給によって決まる。需要と供給関係には、費用が梃子の作用を及ぼす。費用は原価構造を持つ。原価構造は、人的に価値と物的な価値がある。人的な価値は、時間の関数である。貨幣価値は、通貨の相対的価値である。貨幣価値は、市場に流通する通貨の量と市場規模によって決まる。また、国家間における通貨の相対的価値は、通貨の信任によってきまる。通貨の信任は、国際為替市場によって裁定されるのである。

 単価は、価格構造を持つ。価格構造というのは、配分構造であり、取り分・比率を表す。この点に経済の持つ重要なことが現れている。経済の基本は分配である。その分配を直接的に行うか、市場を介して間接的に行うかの問題なのである。市場経済といえども、財の全てを市場を介して行っているわけではない。政府機関や企業と言った組織・機関を通じて直接的に分配している部分が混在しているのである。

 インフレは、経済的価値が膨張するか、貨幣価値が収縮するかによって引き起こされる。デフレは、逆の現象である。

 価格というのは、絶対量ではなく、相対的量である。価格構造とは、配分の比率である。そして、市場経済とは、何等かの組織、機構を通じて直接的に配分の比率を決めるのではなく。市場を介して裁定する仕組みなのである。

 公平とか、中立と言って何でもかんでも消費者の味方であれば良いみたいに錯覚しているメディアもある。生産者と消費者どちらが正しいというのではなく、市場における力関係の問題である。その力の均衡を際しているのであり、情報の非対称性などによって不当に力関係が歪められることを問題とすべきなのである。だから情報の開示が重視されるのである。
 会計的数値というのは、つくられた数値である。そこには、何等かの為政者、当事者の意志が反映されるのは、当然なのである。倫理的問題ではなく。経済的合理性の問題である。市場価値の問題は、所得の移転の問題であり、絶対額が問題ではなく、比率、シェアが問題なのである。つまり、例えば、石油の上昇は、石油の生産者に所得が転移することを意味するのであり、その比率が、妥当性、適性を欠けば適正な比率に市場が是正するというのが、市場の原理である。
 国家が、企業主体の経営を支援するのは、国家が、家計を補助するというのと同様に当然なのである。特に減価償却のように会計上の処理において企業体の経営を支援するのは、当然なのである。角を撓(ため)めて牛を殺すのは愚かなことである。

 公共事業は、通貨のフローの量を増大させる。やみくもに公共事業を行い、通貨の流量を増加させても、市場の規模の拡大に結びつかなければ、かえって、貨幣価値の下落を招き、インフレの原因となる。

 財政が赤字になるのは、市場原理に市場原理に従わず、計画的原理、統制的原理に従っているからである。政府機関、公共機関は、営利を目的とすべきではないと言う誤謬である。公共事業は、非営利的事業であるという錯覚である。必然的に、公共事業は、破産し、財政は、硬直化する。企業経営者が収益を考えずに、出入りの業者の便宜だけを考えていたら赤字になるのは、必然的帰結である。さらに、便宜をはかれば、それが、悪い事に利権化する。儲けを考えなければ、裏金をつくることになる。それは腐敗・不正の温床になる。仕事が利益に結びつかなければ、自分の仕事の効率化を計ろうとはしなくなる。それは、仕事に対する評価がされていないからである。評価されないから、効率化を計る動機が生まれないのである。やってもやらなくても同じなのである。逆に、余計なことをすれば反発を招くだけである。それでは、業務は改善されない。既得権にしがみつくだけである。利益というのは、一種の成果である。利得と言うだけではないのである。目安なのである。
 世界で一番、硬直的な財政は、日本である。予算の推移を見ると最悪の時は、毎年同じシェアで棒一線になっていた。前年度主義、先例主義、前例主義の悪弊である。予算が既得権になってしまったのである。これでは、予算は、財政は機能しなくなる。

 統制経済、計画経済の誤謬は、この様な経済的価値を絶対量として直接管理しようとする点にある。

 営利事業を軽視するのは、国家、公務員の悪癖である。それは、士農工商の身分差別意識を引きずっているからである。国家、公共の仕事に従事する者は、何か、自分は、特別の仕事をしているように錯覚している。しかし、本質は、たまたま、国家、公共機関に勤めているのに過ぎない。民間企業は、経営に失敗すれば、倒産をし、経営者は、責任を問われるのに、財政、公共事業に失敗しても、政治家も官僚も責任を問われたりしない。天下り先を捜し、特殊法人から高額の退職金を支給されるだけである。責任をとりたくともとれず。無責任体制に陥るしかない。事なかれ主義、日和見主義が横行するのは、必然的である。公僕などというのは、かけ声だけである。責任の伴わない仕事は、自律できないのである。
 国民一人一人を株主に見立ててれば、極端な話、国家株式会社と見立てても良い。国家、公共事業も営利事業と変わらないのである。財政も公共事業も経営責任を明らかにすべきなのである。

 国家財政が破綻するとどうなるか。
 第一に考えられるのは、植民地化である。かつて、アジアの多くの国が徴税権を担保され植民地化された。徴税権は、国家の主権にかかわる権利である。財政が破綻すれば、徴税権を担保され植民地化される怖れがある。第二に、ハイパーインフレである。貨幣価値を下落させて、借金を棒引きにする。第三が、デフォルトである。つまりは、破産宣言によって債務の不履行を行うのである。では、この様なことによって国民生活はどの様になるのか。
 まず、役人の給料が払えなくなる。また、公共投資や行政サービスが受けられなくなる。特に、国防や治安の維持、教育などが危機的な状況になる。国が国民を守れない状態になるからである。医療や社会へ保険は、当然、受けられなくなる。
 気をつけなければならないのは、民間企業に直接的な影響はないということである。ただ、全くないのかといえば、それは嘘になる。行政サービスが受けられなくなるし、インフレや増税の影響は免れないであろう。しかし、財政が破綻して一番困るのは、利益や既得権を甘受してきた者達である。

 重要なのは、国民が国家に対して何を期待しているかである。そこに。国家財政に対する理念がある。もし仮に、国家に国民が何も期待していないとしたら、財政が破綻しても経済は成り立つのである。困るのは、国家に寄生していた者達である。そして、彼等こそが国家財政を破綻させた元凶でもあるのである。そのことを忘れてはならない。

 貨幣経済が発展する以前は、税も現物か用役による物納だった。物流の範囲で経済は成り立っていたのである。貨幣経済が確立される以前にも国民生活は、あったし、立派に成り立っていたのである。
 貨幣経済が成立する以前は、物量が主であり、貨幣は従であった。市場は、物々交換の場だったのである。その時代の方が、ある意味で地方文化は、健全だったのである。貨幣経済は、国家の富を中央に集中させたのである。それの原因の一つは、価値の一元化にある。

 財には、市場に流通しているフローの部分と市場に流通する以前のストックの部分がある。経済的価値は、財のフローとストックのバランスによって成り立っている。フローの部分だけで成り立っているわけではない。

 市場に現れる部分だけで、経済的価値を制御しようとすると、時として、経済は暴走する。重要なのは、市場の構造である。市場の機能を見極めて、市場の仕組みを構築する必要がある。

 市場は、必ずしも経済の実相を表すとは限らない。市場の混乱が経済全体の破綻を招くことがある。株価が好例で、株価は必ずしも、企業実体や経済状況を反映したものではない。株価は、市場に出回っている株の取引によって成り立つのであって、企業実績に依るのではない。それ故に、企業規模が相手よりも数段低くても株の時価総額が、上回る例が多くある。つまり、株価は、企業価値を反映したものではないのである。

 損益の構造というのは、分配の構造である。損益には、五つの利益、四つの費用が三つの収益があると言われている。先ず、利益は、第一に、粗利益。第二に、営業利益。第三に、経常利益。第四に、税引き前利益。第五に、純利益である。費用は、第一に、売上原価。第二に、販売費、及び一般、管理費。第三に、営業外費用。金融費用。第四に、特別損失である。収益は、第一に、売上高。第二に、営業外収益。第三に、特別利益である。
 ちなみに、これは、日本の区分で英文会計には、経常利益の区分はない。それを見ても解るようにこれらの区分は相対的である。
 ここに現れる階層というのは、当該事業、仕事にかかわった関係者達の取り分を貨幣価値的に表している。つまり、分配の構造である。中でも粗利益に占める人件費、その他経費、収益の分配率が指標として重要な意味を持つ。
 特に、労働分配率は、事業主体の共同体的機能を支える重要な指標である。また、収益は、投資家、債権者、経営者、国家の取り分を示す。この様に、損益構造は、分配構造を示しているのである。

 損益構造は、配分を示すのだから重要なのは、絶対額よりも比率である。
 オイルショックの時の石油価格の高騰の問題を絶対額で捉えてしまう傾向があるが、実際は、為替の変動や物価の上昇を勘案する必要がある。結局、石油価格の上昇は、長中期的に見ると経済全体の配分の中で吸収される。つまり、比率の問題であり、結局は、産油国の取り分の変動に過ぎないのである。

 損益構造で重要なのは、収益と費用である。費用を分析する時に重要な要素は、変動費と固定費である。そして、この変動費と固定費から損益分岐点が導き出される。この損益分岐点の位置が、産業の性格をよく表している。損益分岐点から何が解るのかというと、安全性と収益性である。

 損益分岐点の位置は、産業によって違う。固定費産業と変動費産業。重厚長大型産業は、固定費産業の典型であり。流通産業は、変動費型産業の典型である。

 また、損益分岐点で大切な概念の一つに限界利益があります。限界利益とは、売上から変動費を引いたものです。単位限界利益を単価で割れば限界利益率がでる。この限界利益率の値によっても産業と性格は割り出される。
 固定費型産業は、固定費が大きいために、利益を上げられるようになるまでが大変であるが、一旦損益分岐点を超えると限界利益率が高い分、大きな利益を期待できる。装置産業によく見られる。又、変動費型産業は、固定費を低く抑えれば早い時期に黒字化できるが限界利益率が低い分、大きな利益を上げることは期待できない。固定費型産業は、景気の影響を受けやすく。変動費型産業は、景気の変動を受けにくいと一般に言える。又、固定費には、設備投資によるものと人件費によるものがある。前者は、装置産業が代表的である。
 その国の主要産業がどの型かによって経済現象の在り方や景気の変動の影響度合いが違ってくる。

 現代経済で最も愚かなことは、収益を認めようとしないことである。収益を上げる事は罪悪であるが如き思想が蔓延し、それを根拠に税制度がつくられている。しかも、それは経済的合理性に基づくのではなく、根拠のない倫理観に基づいている。その結果として、内部利益を放出させようとする。産業主体は、ある種の共同体であり、継続性を前提としている。その為には、リスクに対して何等かの予防的な処置が必要となる。それは、冬ごもりに備えて熊が身体の内部に栄養を蓄えるようなものである。この内部留保を否定されたら、産業主体は、変化に対応できなくなり、永続性が失われる。松下幸之助がいうように、利益を上げられない産業主体は経済的に有害、不経済なのである。国家が、その不経済な存在を増長させようとしてる。それが財政における最大の問題なのである。

 金の切れ目が縁の切れ目ではないが、資金の供給が絶たれた時、企業は、倒産する。この事は何を意味するのか。産業が貨幣経済に依拠していることを意味している。近年、キャッシュフローが、重要視されてきたのは、必然的結果である。

 しかし、総資産にしめる現金の部分の割合は、相対的に小さいのである。つまり、流動性は、考えている以上に低いのである。と言うより、全てが現金なわけではないのである。
 貸方は、資産を貨幣価値に調達ベースで換算したものである。借方の総資産の中には、貨幣価値に換算できない部分を多く含んでいる。その貨幣価値に換算できない部分が、時々悪さをするのである。

 我々の家の中には、市場価値のない財が沢山ある。食器や衣服、家電製品も購入してしまえば、市場価値は、ほとんどなくなり、使用価値だけが問題となる。つまり、売り物ではなくなるのである。
 市場に出回っている土地はごく一部に過ぎない。多くの土地は、活用しているために、売れない土地なのである。
 株も市場に出回っている浮動株は、ごく一部である。その株も投機的商品の性格を持っている。投機的商品というのは、商品の持つ実物的価値が乖離し、商品の市場価値が価値を持つことを指す。株は、ただの紙切れに過ぎず、それ自体が有用性を持たない商品である。つまり、会社の価値を象徴しているのに過ぎず、ギャンブルの対象としては、格好の物である。それ故に、株は投機性を帯びやすい性格を持つ。しかし、その株が資本の価値を決める。浮動株は、発行済み株の一部に過ぎない。その一部の株によって価格が決まり、株の時価総額が決定する。
 株に象徴されるように、我々が言う市場価値というのは、社会全体の価値のごく一部に過ぎないのである。ところが、その市場価値が、社会全体の価値であるような錯覚を引き起こし、それが原因となって経済全体が揺れ動かされる事があるのである。

 バブルと恐慌は、通貨の量と物流の量、市場の規模の均衡が破れ。急激な市場の収縮と膨張によって引き起こされる現象である。この様な市場の収縮と膨張は、市場における財の実体的価値と表象的価値とを乖離させる。それによって市場価値が、実体的価値の動きと違った振る舞いをする。その乖離幅が極限に達した時、市場は、制御力を失い暴走する。
 この様な現象は、不動産や有価証券といったストックの部分が市場と結びついて引き起こされることが往々にしてある。また、近年では、資本市場がこれに連動し、増幅させるケースが多く見られる。また、税制や会計制度と言った市場のインフラストラクチャが原因している場合もある。人為的恣意的に引き起こされることもある。その時その時の政策も重要な要因である。いずれにしても何等かの群集心理が働いている場合が多い。また、社会的価値観の在り方も重要な要因の一つである。

 財の表象的価値を追求するのが投機であり、実体的価値を追求するのが投資である。

 現金、預金、及び、現金同等物に変換される度合いから流動性は、測られる。市場に出回っている通貨の量を流動性と呼ぶのである。社会的財の全てが市場に出回っているわけではない。つまり、全ての財が通貨に換算されているわけではない。この市場に出回っている財と、通貨のバランスによって市場の規模は確定する。

 資産は、流動的な物から固定的な物へと変化していく。資産は、固定性が高まれば高まるほど重くなるのである。この関係は、貸借対照表によく現れている。流動性が高いとは、市場性が高いのである。つまり、流動性が低くなればなるほど市場性も低くなると言える。この流動性が低い資産が非貨幣性資産である。この処理の仕方が、近代会計制度を成立させ、資本主義制度を確立したのである。つまり、収益の素である。これを理解しないと近代市場経済、資本主義経済の謎は解けない。

 資本とは、純資産を意味し、総資産から債務を引いた差額である。純資産の中に貨幣に換算されていない資産が隠されているのである。それが、含み益や含み損を生み出している。
 この表に現れない価値が実物経済に重大な影響を及ぼしている。不良債権問題は、この表に現れてこない価値、含み益、含み損が根っ子にある。有価証券や不動産にある含み益を担保にして借金をしてきた企業が、含み益の拡大に伴って資金調達を拡大し、余剰資金を又、不動産や有価証券に投資してきたのが、株の下落し、土地の下落したとたん負の資産として、資金の調達力に作用した。それが、不良債権である。目に見えない価値によって企業の資金調達力が揺さぶられたため、キャッシュの動きに注目が集まってきたのである。それがキャッシュフロー会計である。そして表に現れない傷が貸借対照表の裏に隠されているのである。それが不良債権問題の実相である。

 ちなみに家計も、財政も現金会計である。

 借方は、流動性が高い財から、低い財へと価値の市場価値への変換過程を示す。貸方は、債務の貨幣価値を表す。これが、市場価値の変遷を表現している。

 市場に流れる通貨と財の量をバランスさせるように制御する仕組みを市場に組み込む、又、経営するのが構造経済学なのである。

 市場に流通する通貨と財、又、需給関係がバランスしなくなると交換価値と使用価値が乖離し、市場は暴走する。市場が抑制できずに暴走すると経済は制御できなくなる。それ故に、流動性は重要なのである。

 市場は、経済の一部であって全てではない。
 市場経済の浸透によってあらゆる財が交換価値に変換され、結果的に、貧困が普遍化されてしまうことがある。
 自給自足的な社会においては、貨幣による分配は、限定的なものである。その様な社会においては、人間的価値や社会的地位は、貨幣価値に依らない。
 自給自足的な社会においては、商品化されていない財によってある程度の豊かさは保証されていた。

 形が良くて高価だが、拙(まず)くて栄養価が低い、農薬だらけの野菜と形が悪いて安いが新鮮で美味しい野菜のどちらが本当に価値があるのだろう。市場価値の中では、前者の方が商品価値を持ち、後者は廃れていってしまうのである。その結果、良品が失われていく。

 教育が良い例である。本来、教育は、市場価値に換算できない性格のものである。しかし、現在、教育も市場価値に換算されてつつある。教育は、一つの産業と成りつつあるのである。教育が産業として確立されていく過程で、それまで教育と見なされていた、地域社会からの目に見えない教育や家庭教育、躾が失われつつある。この世の中の全ての価値を市場価値に置き換えることはできない。それは、市場に対して過大に期待、評価しすぎている。市場には、市場の機能、役割があり、その範囲内で機能している限り、市場は有益なのである。

 市場には、市場の持つ限界がある。だからといって市場経済を否定してしまうのは愚かである。市場は、たとえれば、経済の循環器である。循環器の病気が怖いからと言って循環器を否定するのは、馬鹿げている。市場経済の弱点を理解して、その長所を生かすべきなのである。

 製品、商品は、コストの塊である。そして、そのコストが市場経済を成立させている。そうなると、コスト構造、即ち、原価構造を解析すれば、経済の実態は解明される。さらに、原価構造は、生産様式の発展に伴って変化してきたのである。つまり、原価の在り方は、その時々の経済実態を反映したものと言える。原価構造が歪めば、経済も歪むのである。

 流れ作業、大量生産は、原価構造を著しく変化させた。又、雇用形体の変化も原価構造に重大な影響を与えてきた。また、国民生活の在り方にも重大な変化をもたらしてきたのである。
 石油のように連産品もある。又、石油は、戦略物資として政治的思惑に左右されやすい。その為に、石油製品の価格は、税制などによって恣意的に、又は、構造的にコントロールされている。この様に、商品特性が、市場の構造や性格を特定する場合もある。
 多くの部品を必要とする自動車産業のように裾野の広い産業は、インフラストラクチャーの整備が不可欠である。

 産業主体は、評価システムでもある。つまり、分配システムである。単位労働あたりのコストは、成果、あるいは、時間、かける、単位賃金である。これは、分配の基準を表している。
 単位あたり賃金というのは、単位あたり労働の質的評価を貨幣的に表示したものである。原価に含まれる人的価値と分配における基準を示している。そして、分配における基準は、時間の基づくのか、また、成果に基づくのかを意味するのである。

 財政や公共事業で重要なのは、何に、どの分野に、国家は投資すべきかなのである。基本的に、財政投資というのは、投資なのである。行政サービスは、雇用対策でもあることを忘れてはならない。公共機関というのは、再分配機関の一つなのである。市場経済が発達する以前は、もっぱら、国家政府機関、地方政府機関、行政機関が分配、再分配機能を果たしてきたのである。

 産業の揺籃期には、事業の育成策が必要とされる。運河や鉄道、通信、道路、宇宙開発と言った大規模事業は、初期投資を回収するのに、長期間を要する。
 道路港湾、治安維持、国防、教育と言った事業は、経済性のみを追求しても投資を回収しきれない。又、長期的な展望に立った開発事業のような国策事業も必要である。この様な事業は、短期的な観点では、資金を回収しきれない。
 建設業のような大規模事業は、公共事業で初期投資を償却、回収する。それも社会資本を整備するためには、必要な事である。だからといって経済的合理性を無視してもいいというわけではない。大切なのは、その目的と必要性である。
 経済情勢、市場環境に合わせてその事業内容、構造改革をするのは、経済主体の責任である。そこで重要なのは、原価構造である。

 原価構造を考える時、ただ、費用を削減すればいいという考え方は、短絡的である。それは、産業主体のもつ分配機能を無視しているからである。コストは、無駄なのではない。必要な経費なのである。又、原価は、分配の比率でもある。
 我々は、経済的価値を絶対額で捉える傾向があるが、実際の経済的価値は相対的な基準であり、比率が鍵を握っているのである。つまり、費用に占める割合が重要なのである。企業主体とって直接的に決められるコストと市場を通して間接的に決めるコストとがある。しかし、一概にコストは、かからない方がいいとは言えないのである。
 百人で一億円の利益を上げる企業が社会に対し経済的に貢献しているのか。一万人で一億円の利益を上げている企業が社会に対して経済的に貢献しているのか。経済的合理性、生産性から見れば、百人で一億円の利益を上げている企業の方が効率が良いが、一万人で一億人の利益を上げている企業は、一万人の雇用を生み出しながら、一億円の利益を上げているとも言える点を忘れては成らない。生産主体の社会的貢献、経済的役割は、生産性だけでは、判断ができないのである。

 又、近年では、社会的コスト、環境的コストの重要性も叫ばれてきた。これらのコストをどの様に原価構造の中に組み込んでいくのか。それは、経済的合理性だけでは片づかない問題である。

 市場経済は、多面的で複合的なものである。多面的、複合的に対策を立てていかないと、経済問題は解決できない。その好例が、不良債権問題である。
 不良債権の理由は、単純ではない。円高による資産価値の上昇、企業収益・本業の悪化、株や地価の上昇、事業継承、相続税と言った問題を抜きには語れない。
 不良債権は、経営努力の不足や経営者の不正によって発生しているものではない。構造的な問題である。
 
 バブルの原因とその後デフレの原因は、一律には語れない。
 コスト構造の変化を分析する必要がある。特に、労働分配率の変化、収益構造(特に営業利益)の変化、粗利益率、金利動向・為替動向、エネルギー動向と収益力の相関関係、在庫の変化、倒産件数、減価償却率の変化、固定資産の含み益の変化、特別損益の変化、納税率の変化、流動性、物価の変動等の複合的な解析が必要である。

 企業の自律化、独立化を促すためには、労働組合の機能を強化する必要がある。ただし、労働組合を対立的にとらえるのではなく。共通の目的を追求するパートナーとして、創造的、協調的に捉え直す必要がある。
 労働組合が衰退したのは、労働組合が政治団体化したことに起因する。労働組合は、経済的目的が主であり、政治性は、二義的なものでなければならない。

 共同体内部に、共同体そのものに否定的、又は、対立的、破壊的に勢力が存在することは、共同体を分裂、解体する結果を招く。組合と企業は、共通の利害を共有している事実を忘れてはならない。専制的、独裁的という不幸な過去が企業と組合との関係を否定的なものにしてしまってきた。しかし、それでは、お互いに破滅してしまう。政治的信条は、個人の自由に関係する問題であり、経済的機関である、企業の現場に持ち込むべきではない。企業と組合とが対立するのは、双方の利害が一致しない場合である。それは、主として、経済的理由である。

 また、消費の局面を担う、福利や共済活動をより制度化する必要がある。その過程で、家計や財政との連携を深めていく必要がある。
 貨幣的報酬だけでなく、用役や物理的報酬も重要な役割を担っている。

 事業主体は、社会的機関である。企業は公器である。必然的に国家経済に連動している。

 財政との連携は、税制と社会保険制度により直接的に繋がっている。税制や福利厚生は、共同体としての社会基盤、基幹、基礎を形成しているからである。事業主体は、税制度や福利厚生面で、行政と直接関わり合っている。また、事業主体は、行政の機能の一部を肩代わりすることもある。税制や福利厚生制度は、家計、事業主体、財政との間を結ぶ、接続端子、連結部、結合部分である。雇用対策や各種の補助金、また、労災保険や医療保険などは、財政の要に直接影響を与える。

 市場価値は、価値を貨幣価値に還元するという働きによって貨幣経済を発展させた。その結果、賃金労働の普及させた。それが、従来の共同体、コミュニティーの崩壊を招いた。その結果、農村の疲弊したのである。即ち、市場経済の浸透は、雇用革命を誘発したのである。
 事業主体は法人である。事業主体は、労働と分配の現場である。事業主体は、倒産する。事業主体は共同体の一種である。事業主体は、機構・組織を有する。

 事業主体は、生産拠点と言う側面だけでなく、分配の端末装置でもある事を忘れてはならない。事業主体は、機関であると同時に、共同体であることを忘れてはならない。

 労働と評価は、事業主体の重要な機能の一つである。そして、それは、主観的な基準に左右されているのである。

 また、共同体である事業主体は、経済的合理性のみを追求してもいいのかという点がある。雇用の確保も重要な機能の一つであり、経済活動の一環なのである。

 事業主体の共同体性を色濃く反映したのが終身雇用、年功序列、年金制度である。終身雇用制度のようなものを経済的合理性という側面からやみくもに否定して良いものなのだろうか。
 共同体という側面からみると定年制度のもつ意義は大きい。人間にとっての生き甲斐とは何か、そう言った問題がないがしろにされている。労働は、苦痛であり、否定されるべきものという発想に囚われすぎていないだろうか。引退を早め、休日を増やす。労働時間の削減だけが究極的目的であるがごとく錯覚してはいないか。経済が主で人間が従になってはいないだろうか。
 人間は簡単には変われないのである。ただ、人間を経済的機能、能力でしか見られなくなれば必然的に人間性は忘れ去られ、疎外される。事業主体は、人間集団なのである。

 組織を構成する要素には、職位、職能、職階、地位がある。日本人の組織は、地位が基礎にある。地位が年功序列に結びつくと人件費は、硬直的になる。人件費を構成する要素には、実績給、年齢給、属性給、役職給、技能給、職性給がある。属性給とは、家族手当や住宅手当などの当人に付随した属性に対する対価である。職性給とは、危険手当や夜勤手当と言った仕事に付随した属性に対して支払われる対価である。純粋に仕事の実績に対して支払われる対価は、実績給の部分であるが、属人的な賃金は、コストとしての人件費を水脹れさせる。しかし、では、この部分を完全に削除して良いのかというとそう言うわけにはいかない。なぜならば、事業主体は、共同体であり、分配機関だからである。
 経済が成長し続けている場合は、年齢給のような属人的賃金の上昇分を吸収しきれるが、一旦、経済成長が止まり、停滞し始めると収益を圧迫するようになる。そうなると、必然的に属人給部分を削減せざるをえなくなる。無理に人件費を削減すれば、共同体としての求心力を失うことになる。
 ただ、公務員は、この限りでない。その為に、コストの膨張を抑制することができなくなる。また、組織の生産性や効率は無視されるようになる。
 いずれにしても、共同体としての求心力とコストの膨張を抑制するために、市場や雇用構造に何等かの仕組みを組み込んでおく必要がある。さもないと、市場に競争の原理が働くなる。

 市場の拡大の継続と経済成長の維持、恒久的技術革新を前提として成り立っている。
 しかし、今我々が直面しているのは、成長の限界である。成長し続ける考えられた経済にかげりが見えてきたのである。そこで、終身雇用制度が見直され、高額の給料をとる管理職層から人員削減されてきたのである。お陰でリストラ、合理化は、首切りと同義語になってきた。
 無尽蔵に思われた資源の限界がみえてきた。海洋資源、魚の減少は、我々の食卓から見慣れた魚を奪おうとしている。環境問題も深刻の度合いを深めている。これらの問題は、経済の問題である。消費を礼賛し、浪費を続けてきたツケである。そして、それは、市場構造、産業構造に問題が隠されているのである。近代以前の共同体においては、節約や勤勉は美徳だったのである。市場の拡大や経済成長、技術革新をこれ以上期待すべきではない。ある物の範囲でそれを効果的に利用する技術こそ開発すべきなのである。

 商品は、品物という物的な側面と用役・労働という人的な側面がある。市場価値は、物的な価値だけではなく、又は、金銭的な価値だけではなく、そこにその商品にかかわった人間によって付加された価値が含まれているのである。そして、その付加価値こそが経済的価値の中で重要な部分を構成しているのである。

 現代経済の問題の一つは、労働の質を無視していることである。人的質を無視し、均質化する事によって経済の実相を見失う結果を招いている。
 作業の標準化や均一化によって仕事の互換性が高まっているように錯覚を起こさせている。しかし、労働の質は、なかなか均一化できない。そして、実は、この労働の質的な差こそが経済学上最も重要な要素の一つなのである。この点を担っているのが産業である。それ故に、市場の変化は、産業主体を直撃する。

 事業主体は、労働し、生活の糧を得て家族を養い、老後の蓄えをする共同体である。仕事は、生き甲斐である。職場は、自己実現の場、自己を評価する場でもある。その観点を無視し、ただ、経済的合理性のみを追求しても人々を幸せにすることはできない。経済の根本の目的は、最大多数の幸せにある。その目的を甚だしく逸脱する。事業主体には、分配機能もあるのである。

 労働者、経営者、国家は、敵対すべきではない。家計、産業、財政は、対立関係にあるわけではない。かといって一体的なものでもない。結局、対立的に捉えたが故に、独裁主義、国家資本主義、共産主義、官僚絶対主義といって歪な国家体制が派生した。家計と産業、財政は、それぞれが特率した機能を維持しながら、協調的な関係を維持することが良いのである。

 事業主体は、人間集団であることを忘れてはならない。歳をとって働けなくなったから、用済みだからと言って切り捨てていって、事業主体は、その本来の働き、機能を発揮できるであろうか。経済の成長が止まり、収入に限界が生じた時こそ事業主体の役割が問われるのではないのか。
 生きるとは何か、人生とは何か、人間とは何か。それを忘れてしまったところに、真の繁栄など有り様がない。人間は、簡単には変われないのである。人間は、感情の動物なのである。生き甲斐を与える事こそ事業主体本来の役割ではないのか。会社の収益の向上ははかれた、しかし、その為に、会社に尽くしてきた人達の多くが犠牲となったら、専制主義国と何ら変わらないではないか。

 最後に、事業主体は誰の物かを考えていきたい。そして、この事業主体は誰の物かが、今後の経済体制の在り方を左右する重大な問題なのである。資本の論理、資本の在り方に、会計制度を基盤とした経済体制の在り方の秘密が隠されている。

 資本とは、最終取り分である。公の取り分は、税として配分される。その他に、経営者への配分がある。そして、債権者に対する配分。債権者への配分は、従業員、取引業者、金融機関の三つがある。さらに、投資家である。この構造が明らかになるのは、会社を清算しようとしたときである。会社更生法における債権の優先順位は、第一に、担保付債権。第二に、優先債権。第三に、無担保一般債権。第四に、株主権等である。担保付債権の対象は、主として金融機関に担保された債権であり、優先債権とは、第一に税金である。次に、従業員の賃金、退職金を指す。そして、無担保一般債権とは、取引業者の債権であり。最後に株主、投資家債権、経営者の債権がくる。これを見ても解るように、金融債権と、税金が非常に強い優先権を持っているのである。これを前提に企業は誰の物かを考えると現代経済で誰が力を持っているかが明らかになる。企業の資産は誰の物かを実体的に表しているのが、この優先順位である。

 株主資本と言う考え方が、最近、よく言われる。会社は株主の物であると言うことである。また、会社の上場が盛んである。一方に置いて企業買収、M&Aも盛んに見られるようになった。それを嫌って上場を廃止しようと言う企業もある。また、日本の中小企業の大多数は、オーナー経営である。この発想の根本は、経営権を誰が掌握するかにある。資本を掌握することは、経営権を握ることである。債権の優先順位が物的な所有権とすれば、法人としての人的所有権は、経営権にある。この様な観点から見る資本は、また違ってくる。
 人的資本を支配する形体には、第一に、株主資本。第二に、金融資本。第三に、国家・公的資本。第四に、私的資本の四つがある。現代経済は、この四つの形体が混在した混合経済だと言える。そして、この四つの形体の企業は、その行動規範が違うのである。第一の株主資本を基調とした企業は、情報の公開と、増収増益による株価の維持と言う事が意思決定における最重要事項になる。それに対し、金融資本は、会社の安定と利益の標準化を第一義とする傾向がある。第三の、国家・公的資本は、採算性よりも公共の福祉を重んじ、収益を公共に還元する。極端な場合、収益を目的としてはならないと言う場合すらある。第四の私的資本は、富の蓄積、内部留保を重視し、永続性を求めるという具合である。必然的に、国家の基盤がどの形体の事業主体がしめるかによってその国の経済状態は変わってくる。貧富の格差や経済の活力は、経済主体の在り方にかかわる問題なのである。

 資本の在り方は、その目的によって法する違うのである。株主保護を目的とした法は、証券取引法であり、債権者保護の中で金融と取引業者の保護目的とした法は、商法であり、従業員保護を目的とした法は、労働法、国家、公的機関の取り分を規定した法は、税法である。また、法によって会計制度の目的も処理の仕方も違ってくるのである。最近では、国際会計基準がこれに加わってきたのである。

 一つの方向性は、資本と経営の分離である。しかし、資本と経営を分離してしまうと、事業主体の共同体としての性格が失われ、唯の機関に堕してしまう。

 株主資本主義というのは、即ち、株主平等(一株一票)資本多数決(株数の多数決)に基づく株主民主主義でもある。つまり、株主にとっての民主主義だが、それが、産業主体の民主主義かと言えば怪しい。産業主体は、共同体という側面があることを忘れるべきではない。

 資本の構造を設計することで機構の選択ができる。選択の自由を確保することが今は妥当だとおもわれる。しかし、本質的には、経済の民主化こそが最終的目的であり、その為には資本の在り方が鍵を握っている。事業主体を実際的に構成する者こそが本来の主人であるべきなのである。

 資本主義は、資本に弄ばれ、復讐されている。資本がキャピタルゲインという形で商品化され、それ自体が商品として売買されるようになったからである。資本が、それ本来の価値から分離され投機の対象とされてしまった。その為に、資本が実体から遊離して、独自の価値を形成した。その事によって、株主の意味が本来、会社の所有者、出資者、投資家という意味合いから投機家としての意味合いに変質してしまったのである。しかし、この事は、現代の資本主義が持つ本質と関わりがある。つまり、市場経済・貨幣価値の過度の進行によって価値がその対象自身の持つ価値から乖離し、貨幣価値に一元化されてしまったからである。本来の価値は、財そのものの持つ使用価値にある。
 最近、高校で必須科目の履修を怠ったことが問題化している。これは、象徴的な出来事である。教育が、教育本来の目的、即ち、価値を喪失したのである。そして、試験結果という価値に単元化され、その結果、本来学ぶべき事を見失ったのである。そして、メディアの反応は、受験時期に受験に関係ない課目を学習しなければならない受験生が可哀相という点に批判は集中しており、なぜ、その学課が必須科目にされているかは忘れ去られている。つまり、学ぶべき教科か否かの議論がされていないのである。その教科は、倫理や公民、歴史、地理である。それが意味するのは、教育がその本来の目的を喪失したという事実である。資本が、資本としての本来の意味を失う時、資本主義は、資本主義としての本来の機能を果たせなくなるのである。

 富の偏在が生み出す構造的ストレスが問題である。つまり、全てを一律同等に扱うことは不可能であり、意味がない。ただ、富が遍在し、その格差を是正できないほど状況になれば、財の分配がうまく機能しなくなる。また、意欲も社会から喪失する。それ故に、富の偏在を防ぎながら、適正な評価を下せるような社会システムを構築する必要があるのである。

 硬直的な社会が問題なのである。硬直的という意味では、貧富の格差を固定してしまう階級的社会も問題だが、過度に均一同等主義的な社会も、社会を硬直させるという意味において問題なのである。重要なのは、社会構造である。社会の健全な動き、活力を生み出し、維持し続ける事が可能となる構造を構築できるかが、永続的な社会を築くための鍵なのである。

 事業主体は、共同体である。共同体であることを忘れるから、事業主体、代表的なのは、企業の在り方が解らなくなるのである。共同体というのは、基本的には、組織化された人間の集まり、集団である。そこで問題なのは、評価の問題である。終局的には、ドロドロとした人間関係の問題なのである。しがらみや嫉妬、見栄や外聞、愛憎や怨恨、諸々の人間の葛藤の場が事業主体であり、生活の場が生活主体なのである。また、自己実現の場が事業主体なのである。そこで働く者の人生がそこにはあるのである。それを無視しては、経済は成り立たない。
 共同体であるから、人的側面、社会的側面、狭義的な経済的側面を持つ。人的側面とは、労働と分配の問題であり、社会的側面とは、生産と消費の問題であり、狭義的な経済的側面というのは、需要と供給の問題である。
 人的な側面というのは、労働と分配、即ち、評価の問題である。均質、均等に分配するならば、評価はいらない。家柄、階級、年齢、学歴、肩書きと言った外形的基準に基づくならば、評価はいらない。どちらも、固定的、硬直的という意味においては、同じなのである。評価は、労働と分配とを結びつける絆である。それ故に、事業主体にとって評価は、最も重要な機能なのである。また、それ自体に存在意義があるといっても過言ではないくらいの重要な要素なのである。
 社会的とは、社会における機能的側面を言う。それは、事業主体としてどの様な機能、役割を社会に対して果たしていくのか。どの様な業務、仕事をして社会貢献をしていくのか。つまり、どの様な財を生産していくのかの問題である。つまり、社会に対する有用性の問題である。同時に、社会的目的、社会的意義を問われる問題である。環境問題や資源問題が深刻化する現在、事業主体の社会的責任、社会的義務は、重要な要素となることは間違いない。
 狭義的な経済的側面とは、収益性の問題である。事業体として収益をバランスさせる事である。しかし、共同体にとって収益性をバランスさせることだけが問題なのではない。共同体にとっては、継続的に、事業主体を構成する者、関係する者に所得を供給し続けることが本来の機能である。ここでは、継続性が重要なのである。また、分配と責任の問題である。ところが、現在の経済では、生産性や収益性のみを重視し、この継続性や分配が無視されている。共同体である事業主体は、人間の集団であり、その集団が利害を共有しているのである。ならば、一致協力して危機や環境の変化に対応していくことが可能なはずである。労使や国家と企業を対立した利害関係者の集団と捉える現代の経済観こそ最大の問題なのである。
 そして、広義で言う経済というのは、人間の生活全般を指して言うのであるから、経済の本質は、労働と分配の問題なのである。
 故に、最終的に行き着くところは、評価の問題である。平等も差別も基本的には、評価の問題に行き着くのである。ところが、事業主体を狭義の意味で言う、経済、つまり、損得、収益性の次元でしか捉えられていない。それ故に、狭い範囲での生産性や収益性しか問題とされないのである。しかし、本質的には、人間性、事業主体を構成し、事業主体にかかわっている人間、一人一人の幸せを基準にしなければ、真の経済的な目的は達成できないのである。万民を幸せにし、自己実現を計ることが経済の究極的目的なのである。




                    


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