A 家  計


 かつては、生産拠点も消費拠点も家族にあった。現在は、それが分裂し、家族は、消費拠点としての役割に特化しつつある。その為に、家族は、生産的労働を主に外に求めるようになってきた。そして、家庭内では、消費的労働のみが残されてきている。それは、家族の経済的自律性を喪失させている。

 個人事業主、農業、漁業の基本は、家族にあった。これらを支えてきた農村や漁村と言ったコミュニティは解体の憂き目にあっている。それは、工業化、都市化の進行によって消費拠点と生産拠点が分離し、農村や漁村のコミュニティとしての機能、共同体としての機能が失われてきたことに起因している。
 工業化や都市化は、進歩の象徴となり、いわゆる一次産業は、後進的な産業として認識が浸透し、地方は衰退してきたのである。本来、公民、人民を表す百姓と言う言葉を蔑称として捉えるようになってきたのがその象徴である。

 また、農家も換金作物の生産が主となり、食用作物の生産は従となった。つまり、儲かる物しか作らない傾向が高くなり、食料は、投機の対象にまでなった。

 更に、消費拠点と生産拠点の分離は、都市化という現象としても現れている。一大消費地としての都市への人口の集中は、経済の均衡を崩し、物流の偏在を促している。同時に貨幣経済によって、実体的価値と貨幣価値とが乖離し、実物経済が貨幣経済によって攪乱される結果を招いている。つまり、貨幣が主で生産財は従という転倒した関係が支配するようになってきたのである。

 都市化、工業化は、家族の崩壊を促し、家族の崩壊は、都市化、工業化を促すという悪循環によって生産主体の共同体としての機能が低下してきた。そして、共同体として機能の低下は、経済主体の自律性を奪い、経済主体の解体を招いている。そして、無機質な機関としての経済主体に再構築しているのである。それは、経済を無機質化することである。しかし、本来、経済は生業である。生活である。生きることである。経済の無機質化は、人間社会から生活力を奪い、ひいては、活力を喪失させることに繋がる。

 社会の無機質化は、あらゆる分野に及んでいる。それは、農業技術で言えば、化学肥料や農薬に象徴される。そして、農業の無機質化は、生態系や環境に決定的な、取り返しのつかないダメージを与えているのである。

 市場経済に支配されると売れる物だけを作るようになる。
 貨幣経済や市場経済が支配的となると、都市化や過疎化が始まる。即ち、金銭による所得が、絶対的な価値を持ち始め、金銭に換算できない価値が軽視されるようになる。また、貨幣所得を得られるような労働が重視され、金銭に換算されないような労働が軽視、ひどいケースは、蔑視されるようになる。即ち、労働も金銭的な価値のある労働が尊ばれるようになり、金銭的に価値のない労働は蔑まれるようになる。こうなると金銭的価値が全ての価値に優先するようになる。金銭を得るためならば何をしても許されるという風潮が強くなる。特に、この傾向は、メディア関係の仕事に強い。どんなに有害なことでも、ヒットさえすれば、売れさえすれば、それは正しいという事になる。本来、道徳に厳しいはずの言論人に品性やモラルを期待するのは、お門違いなことになってしまった。彼等にとって金儲けさえできれば何でも正しいのである。糖尿患者に砂糖を与えることくらい何でもないのである。阿片を売って中毒患者を作ることくらい平気の平左である。
 最良の選択は、楽をして多く儲けることである。人生の成功は、金銭的な成功に他ならない。結果的に売れる物を作るようになり、社会的に有用な物でも、売れない物は作らなくなる。資源保護や環境保護は二の次になる。また、モノカルチャアな文化になりやすい。物資が集中する都市部に、人口も社会の機能も集中するようになる。人口の集中は、金銭を獲得する機会を増やす。それが、都市化を生み、過疎化の原因となる。また、生産的な仕事は、軽視され、何でも金で買えばいい、解決しようとする傾向を生み出す。その最大の被害者は、家事労働である。つまり、家事労働が無価値な物になってしまったのである。そして、家事労働に従事する者は、誰からも評価されなくなってしまった。

 経済が生産性中心に廻るようになってから、消費経済が衰退し続けている。それは、家庭の喪失に繋がっている。

 市場経済や貨幣経済が社会全体を支配することは、共同体としての機能を否定する事に繋がる。家庭内部にまで市場経済、貨幣経済が侵入してくると、また、貨幣所得以外の価値を全て否定してしまうと、貨幣価値に換算できない労働、特に家庭内労働が駆逐されてしまう。そして、家庭内労働に従事する、即ち、主に、専業主婦が否定され、評価されなくなる。
 主婦は、自己のアィデンティティ、存在意義を喪失し、自己に否定的になる。その結果、家族の存在意義は失われ、主婦は、外に働きに出ることを欲するようになり、家庭内は空洞化する。家事を外注化する傾向を生み出す。
 子供達が巣立っていくと主婦は、自分の居場所を失い、虚脱感に襲われる。元々、共同体としての結びつきや機能が働かないのだから、家族の絆などなくなってしまう。かくて、熟年離婚が流行、家庭が崩壊していく。家庭に幻想を抱くのは、家庭にいない者達である。だから、主として外部に働きに行く者は、家庭に共同体としての機能を求めてしまう。この認識ギャップは埋められなくなり、夫婦の絆を危機的なものにしてしまう。その原因を相互の無理解に求めがちだが、家庭が機能しなくなっていることに気がついていない。家庭が機能していないのに、家庭に本来の機能を求めるから、原因がつかめず苦慮することになる。
 子供達にとって、家庭内に求心力がなくなる。その為に、子供達は、家庭内で孤立し、家族としてのアィデンティティを喪失する。家庭内の分業は崩壊し、子供達の役割は、家庭内に見いだせなくなる。その結果が、ひきこもりや登校拒否と言う現象として現れる。つまり、自分の役割が家庭内にも、社会にも見いだせなくなり、自己の必要性が見失ってしまうのである。誰からも愛されていないと言う観念は、誰からも必要とされていないと言う想いに通じる。それは、家庭内のコミュニケーションの不足に起因しているのではなく。家庭内の分業が否定されたことに起因している。つまり、平等と同等の履き違えているのである。家庭内の役割が同等ならば、家庭を維持する必要がない。重要なことは、家庭内の役割分担を再構築することなのである。さもなければ、家族は、ただの同居人になる。喜びも悲しみも伴にする間柄ではなくなる。家族の絆は、その時消滅するのである。子供は、自分が必要とされていると思うから家族の中で安心できるのである。それが認識の作用反作用の関係である。おまえは、勉強だけしていれば良いんだと言われることは、その子は、家族に必要とされていないと宣言されるようなものである。その瞬間、その子は疎外されるのである。
 家族は、過去から現在、未来との繋がりによって成り立っている。それは、家庭内分業が基礎にあって成り立つことである。今というポイントでしか人間関係がとらえられなければ、過去の思い出も未来の夢を維持できない。今の、刹那的な快楽によって、過去も未来もかなぐり捨ててしまう。そのような者に、永続的な幸せを望みようがない、あるのは、刹那的な快楽だけである。それを商業主義というのであろうか。過去を振り返る時、楽しい一時は、必ずあるだろう。その幸せの時の延長線上で未来が捉えられなければ、幸せにはなれない。誰にでも、現状に対する不満はある。その不満を敷衍化したら、家族の絆は保てない。
 家事の外注化の行き着くところは、性の商品化であり、売春の肯定へと繋がる。現に、過激な男女同権論者には、その兆候が現れている。それは、翻ってみると、結婚を家庭内売春のように見なすことにもなる。性行為を愛といった共同体内部に働く力の結果、ないし、一部として見なすのではなく。快楽、又は、商品としてしか見なせなくなるのである。それを平等というのであろうか。だとしたら、平等という概念ほど薄汚いものはない。しかし、平等というのは、人間存在から発する崇高な理念である。
 性の商品化は、言論の自由や平等という本来、崇高な理念すら薄汚く変質させてしまう。経済をただ金の問題だと考えるから、経済の本質が見えなくなる。そして、金の効率のみを求めてその背後にある実体を破壊してしまう。金銭は、重要である。しかし、それは、金銭の果たす機能の側面においてである。金が全てではない。金が全てどころか、金は影に過ぎない。重要なのは、その影の本体である。愛情は、金では買えない。しかし、金がなければ生活は維持できない。愛と生活は、金によって結びつけられているのである。金のために、愛を捨てるのは愚かである。しかし、愛ばかり強調して生活を顧みなければ続かない。それが現実なのである。お互いがお互いを必要とするから家族は成り立っている。その自覚が失われた時、家族は、自然に崩壊するのである。

 深刻なのは、消費労働の貧困化である。食卓を見れば解る。人々の食卓は、急速に工業製品によって占拠されつつある。料理のできない主婦が急増しているのである。

 過激な男女同権論者は、性別分業は、悪いと決め付けている。しかし、彼等は、なぜ性別分業が悪いか明らかにしていない。性別分業は、男と女の肉体的な差が主たる原因となって成立している。つまり、出産と育児という必要性から生じた。性別分業の原因は、
女性は、出産と育児において弱い立場、状況に置かれる。つまり、性別分業が成立した背景は、女性の出産・育児、それに適合した肉体的特徴である。性別分業の原因は、肉体的属性である。そこから、性別分業が生まれた。この様な性別分業は、必ずしも人間だけが行っているわけではない。
 性別分業を、即、性差別に結びつけて考えるムキがある。しかし、性別分業がなぜ悪いのか。性別分業がどう性差別に結びつくのかを明らかにした者はいない。
 性別分業は原因であり、性差別は、結果である。しかし、性別分業は必ずしも性差別に結びつくとは限らない。性別分業は、性差別の主たる原因ではない。
 性別分業を性差別と結びつけて、排斥するのはおかしい。男と女がお互いを尊敬できる関係や環境を作ることにこそ目的があるのである。
 そして、その為には、従来、女性の仕事とされてきた、家事労働を適正に評価することが大切なのである。

 差別と分業とは違う。分業から差別に至るまでには、いくつかの関門を通らなければならない。分業が差別になるためには、先ず認識上の問題がある。更に、それが制度的なものに結びつく必要がある。そして、扱いがある。同等と平等とは違う。その上で、それが処遇・待遇に関連づけられた時、差別は派生するのである。差を認識しただけでは差別にはならない。同等に扱わなかったからと言って差別にはならない。
 性差別の根本の問題は、女性の労働が不当に低く評価されていることにある。性別分業にあるわけではない。問題なのは、自余清雅になってきた労働が適正に評価されないことなのである。

 経済の本質は文化である。食糧問題は、例えて言えば食文化の問題である。かつて、食文化は、多様であった。それぞれの家庭には、それぞれの食文化があった。漬け物は、代々引き継がれてきた。糠味噌は、宝だった。糠味噌という言葉自体が死語である。みそ汁は、母さんの味と言われ、家それぞれに独自の味があった。それが、料理をせず、外食に依存するようになると、料理は、標準化され、価格に還元されるようになる。グルメと言い食通を任じる者が増えたが、その割りに食文化が貧困になっている。それは、経済の貧困に繋がる。価格が高いばかりで食事としての質は低下しているのである。

 現代の経済は、消費分野が引っ張っていると言っても過言ではない。その証拠に女性や子供を対象とした市場が裾野(すその)を広げている。今や、女性や子供は、経済の需要な担い手なのである。ただしそれは、消費の分野であって生産の分野ではない。

 消費労働は、総合的で、創造的な仕事であった。また、お袋の味に象徴されるように社会的にも、家庭内でも高く評価される仕事だった。男女同権論者さえも言うように家事は、馬鹿な仕事、馬鹿でもできる仕事と蔑まれるようになった。また、そのような家内労働の蔑視こそが、性的差別の背後に横たわっていることを忘れてはならない。

 女性は、出産や育児期に非常に不利な立場に置かれる。その為に、女性は庇護されるべきものなのであり、男性は、女性を庇護するのが当然の義務なのである。古来、弱者を強者がいたぶる事は、最も卑劣な行為として断罪されてきた。決してそれは、女性が男性に劣っているからではない。女性が弱い立場に置かれているに過ぎない。その事の理解なくして、男女の同権論は成り立たない。女性に選挙権が与えられなかったのも、女性の地位の低さと同時に家内労働を社会的に認知しなかったことにもよる。

 家計の経済における機能の第一は、市場に労働力を供給することである。第二に、商品の購入や投資、預金等を通じて資金を供給することである。第三に、家事や育児、介護と言った日常活動を通じて生活を実現することです。生活とは、消費活動である。

 家計とは生計ともいう。つまり、家計の土台は、生活、生業なのである。家計は、経済の最先端を担っている。その家計の母胎である家族が崩壊の危機に立たされているのである。

 家事の外注化や介護の公共化は、社会の共同体化を意味する。つまり、家庭内分業が社会的分業に転化することを意味する。それが無自覚に行われた時、家庭も社会も基礎的な絆(きずな)を失い解体してしまう。

 個人事業主や農家、漁師は、今でも家族経営である。生産拠点と消費拠点が一体となっている。個人事業主や農家、漁師のような形態は、段々に衰退に向かっている。そして、それと平行して地域コミュニティも変質している。都市化、工業化は、どんどんと進行しそれと共に環境問題や人口問題が深刻さを増している。それなのに、誰もそれが、都市化や工業化に伴う弊害だという自覚がない。つまり、自覚なき病気なのである。
 我々は、もう一度共同体の在り方について考え直さなければならない。その原点が、家族なのである。





                    


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