経済の場



 経済は、文化である。

 経済の場は、第一に、労働の場であり、分配の場である。そして、第二に、生産の場であり、消費、即ち、生活の場である。
 生活の場とは、文化の場だと言う事である。この事を忘れてはならない。
 経済の場は、金儲けの場ではない。金儲けは、二義的な問題である。経済の場が、金儲けだけの場になった時、経済は、その本来の機能を失う。

 経済空間の中で重要なのは、時間と距離である。世界中、ある一定の価値を保つ財と、地域固有の価値を形成する財とがある。前者は、工業製品に多く。後者は、農産物に多い。高級な工業製品の価格が農産物に比べて相対的に低い地域と、逆に、工業製品の価格が農産物に比べて相対的に高い地域とが偏在している。しかも、それは、単純に物理的距離だけに依存しているのではなく、時間的距離、制度的距離によって変化してくる。この様な多次元的な空間と空間の持つ水準が経済空間の特徴でもある。そして、構造的にこれらの空間は、場を構成していく。つまり、経済的場に働く力は、時間と距離、物理的量、コスト(貨幣価値)の関数である。
 つまり、経済的空間は、一様な場ではなく。制度や時間によって人工的に区切られた場なのである。そして、場の内部の水準が重要な鍵を握っている。

 経済的場は、それ単独に存在するわけではなく。政治や物理的空間の上に重層的に存在する場である。つまり、重層場である。また、物理的空間と違って人為的に区切られた場である。故に、経済的場は、契約的空間である。つまり、人為的に決められた規則によって成り立っている場である。法則や原理が所与のものとして存在する場とは違う。
 そして、経済的場は、制度や物理的存在を媒介にして、物理的場とか、政治的場と言った他の場と相互に影響を及ぼしあっている。故に、経済現象を解析する場合、他の場から受ける力の均衡を考察しておかなければならない。ただ個々の場は独立した場である。

 道徳と経済的規範は別体系である。道徳の場と経済の場は、個人の行動を通して結びつけられている。個人は、その人、一人一人の行動を通して相互に結びつけられている。経済的行動は、同時に、道徳的場に作用して行動を抑制する。その力の均衡したところに個人の行動は落ち着く。同時に、個人の行動は、経済的場、道徳的場双方に作用して、それぞれの内部構造を変革する。それが、行動の相互作用である。
 
 経済的場、基本的に相対的場である。つまり、その場に働く力や法則は、絶対的なものではない。

 土地は、土地自体が価値を決めるわけではないし、土地自体に価値があるわけではない。市場価値が流動性、即ち、運動の関数であるならば、地代の経済的価値は、土地があるだけでは、ポテンシャルな関数、つまり、位置の関数である。それが流動性を持った時、はじめて経済的価値として顕現する。

 最大の問題点は、生産の場と生活の場が切り離されたことである。生活の場こそ文化である。生産の場と消費の場が切り離されたことで生活の場がものすごい勢いで奪われようとしていることが最大の問題なのである。文化は、個性でもある。
 生産と消費の場が切り離されると、次に、生産力によって消費の場を支配されていった。それは、大量生産、大量消費の始まりを意味し、生活の場から自律性を奪う結果を招いた。そして、工業化され、大量に生産された画一的な製品によって生活は支配されていった。画一化は、教育やメディアの世界にまで及び、恐ろしい勢いで消費の場は標準化されていった。その結果、方言は廃れ、地方の伝統や風俗習慣は無視された。文化の荒廃と地域社会の衰退、家庭の崩壊である。つまり、生活の場が失われていったのである。子供達から、遊び場かなくなり、狭い空間から画一的なテレビ番組やゲーム、漫画が一方的に流される。それによって個性は埋没し、自己は抑圧されていく。
 現代の日本は、いわゆる文化の東京化である。地方文化は廃れ、東京の文化一色に染め上げられていく。一極主義である。
 食卓から家庭の味が失われ、食卓は、工場で大量生産された製品で埋められていく。そこにあるのは、健康や栄養バランスなど忘れられた化学調味料の塊でしかない。滑稽なことだが、成人病の増加は、食生活が豊かになってから増加した。商戦直後の粗末な食生活からは、成人病になりようがなかったのである。

 経済は、文化である。それは、生活の場にある。生活の場が奪われたら文化は、逼塞(ひっそく)する。
 経済の目的は、生産性を高めるためにあるのではない。人々の生活を潤わす為にあるのである。生産性が高まったとしても人々の生活が破綻してしまったら本末転倒である。

 また、経済の場は、労働と分配の場であることも忘れてはならない。経済的合理性が生産性のみを意味するようになると経済の場から、労働が排除される結果を招く。労働は、分配に直接的に結びついているから、経済の場から労働が排除されると分配に齟齬(そご)が生じることになる。それは、即、経済的破綻に結びつく。経済的合理性とは、生産性のみを意味しているわけではない。

 市場も産業も規制されるべき存在であり、規制のない市場も、産業も、危険極まりない存在である。ただ、成長期にある市場と成熟期にある市場とでは、規制の内容や方向が違ってくるのと、市場の状況や環境、構造によっても規制の在り方が違ってくると言うだけである。

 かつて、人々は、自分の生活に必要な物だけを生産しておけば良かったのである。ところが貨幣経済が発達し、財の全てが貨幣価値によっては駆られるようになると、換金できる物を作らなければならなくなった。自分達の生活の糧から、商品価値に変質するのである。そして、何よりも商品価値が優先するようになる。生きる為よりも、売るために必要なのである。食料の生産現場で飢えや餓死者が発生する。食料はないわけではないのである。ただ、食料を買う金がないのである。これは経済ではない。経済の失敗である。
 また、貨幣が蓄えができることで、必要以上の物を生産するようになった。そして、乱獲が始まる。漁業資源は、瞬く間に取り尽くされ。沿岸漁業は危機に瀕することになる。また、乱開発によって環境資源は、荒らされ放題である。そこには、必要性の概念はない。
 多く取れれば、元が取れなくなる。元が取れないからといって売らないわけにはいかない。そうなると人より多く売ろうと皆がする。ますます、価格は下落し、乱獲は抑制できなくなる。豊漁貧乏である。それが、市場の論理である。市場原理主義者には、市場の怖さが見えていない。市場に全てを委ねればいいと言うのは、暴論である。

 市場は、怪物である。野放しにすれば、あらゆる物を飲み尽くしてしまう。

 市場にはいつも問題がある。過当競争市場。寡占市場。独占市場。だから、市場は規制されなければならない。
 規制の緩和というのは、規制の方向性や内容によって決まる規制の質的変化をさしているのであり、規制がなくなることを意味しているのではない。

 経済は、商売ではない。経済が商業主義に支配されれば、経済の本質は失われる。経済的場は、実体的場である。電気製品が電気で動かされているとしても電気が電気製品の全てではない。電力だけでは電気製品は成り立たないのである。むしろ電気よりも機械的、即ち、物理的部分の方が重要な機能を持っている。ただ、重要な要素の一つとして電力の制御があるという事だけなのである。

 資本主義経済の表面に現れる世界は、会計学的に解析できる世界である。問題はあるにしても、大多数の企業家(多国籍行の経営者も含め)は、会計基準に従って行動をしようとしている。そして、そのことによって市場の規律が保たれていることは見逃してはならない。問題は、その内容である。むろんその内側には、会計的にとらえられない世界が拡がっている。ただ、経済を制御するためには、表面に現れた会計的数字によって行うのが妥当である。

 むしろ問題なのは、その会計基準にすら従おうとしない経済主体、即ち、国家や公的機関が存在することの方が問題なのである。

 また、資本主義的基準が会計的基準であるのならば、環境問題といったいわゆる市場経済では推し量れない価値を会計原則の中にどう織り込んでいくかが今後の課題でなのある。





                    


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