経済体制

 結局、経済は、所有権の問題に帰結する。資本主義ならば資本の問題に行き着く。つまり、資本の在り方に収斂する。そして、所有権は、国家の体制を決定する。

 所有権とは、とは何か。特定の対象が特定の主体に所属ないし、一部と見なされることを意味する。また、対象の物を延長線であると見なされることである。つまり、対象の物を自由にすることのできる権利である。自由にする権利というのは、それを使用したり、利用したり、また、処分することができる権利である。対象の物を利用、活用して上がった収益を自由にすることができることである。

 所有権とは、労務投下や資本投下に裏付けられた排他的で独占的な、利用権、占有権、専用権、使用権である。所有権は、恒久的な権利である。所有権は、譲渡する事が可能である。所有権は、継承・相続される。また、所有権には、処分権が含まれる。
 つまり、所有権は、第一に何らかの労務投下か資本投下によって既得権が発生するという事である。第二に、所有権は、排他的権利だと言う事である。第三に、所有権は、独占的権利だと言う事である。つまり、所有権は、占有権だと言う事である。第四に、所有権は、利用したり、使用する権利だと言う事である。第五に、所有権は、恒久的権利であり。譲渡したり、相続することのできる権利だと言う事である。第六に、所有権者は、所有物を勝手に処分して良い事を意味する。生き物であれば、生殺与奪の権を握る。この権利は、国によっては一部制限を受けている。しかし、いずれにせよ、所有権を持つものは、所有物を処分、即ち、譲渡、廃棄、改造、消去する権利を持つ。これらの性格は、所有の在り方によって社会そのものの在り方のみならず人間の生き方をも変えてしまう。
 特に、排他的で独占的であるという事が特徴である。排他的で独占的権利である所有権は、人間とはかぎらないが、その持ち主が特定されていなければ成立しない。また、排他的で独占的だからその権利を侵せば、必ず、争いが起こる。争いの多くが、この所有権に起因している。戦争ですら、国家間の所有権(特に、領土や権益)が原因で起こるものが大多数である。この所有権そのものを否定しようと言うのが共産主義であり、社会主義であるが、その場合でも、固定できるのは、私的所有権、それも生産手段に限定されている。それは、自分が生きていく為に必要な最低限の物資、特に、食料の私的所有権まで否定できないからである。
 特に、所有権が恒久的で、譲渡が可能だと言うところに重要な社会的作用が隠されている。しかも譲渡が相続という形で引き継がれると、最初は、何らかの労力や資本の投下があったとしてもそれが、長い年月を経る内に子孫の既得権益となり、ある種の特権階級を生む下地となる可能性を含んでいる。だからといって相続できない所有権は、その効力を発揮できない。所有権は、相続できる事に意味があるのである。
 所有権は、人の意欲を引き出す誘因であると同時に、社会を階級化する原因でもある。

 社会的不平等の原因となる不労所得の代表である、地代、家賃、金利は、所有権から派生する。そして、所有権が相続されることによって 既得権となり、特権階級の基礎を形成する。
 また、所有権の起源が、労務の投下と資本の投下によることによって所有権の帰属が労働者になるのか、資本家になるのかの解釈が割れる。これらが経済体制の根本にある。

 この様に貨幣価値と所有権の概念は、密接に関わっている。また、密接に関わることによって、所有の概念は、資産、財産と結びつき、更に、負債の概念と関連づけられるようになったのである。つまり、所有の概念は、フローとストックの概念の根底を成すようになってきたのである。つまり、所有権が経済のフローとストックを規定するようになる。そして、所有の概念がストックを形成していく。

 国民国家が成立する以前は、国家も所有権の対象となっていた。国家は、君主のものだったのである。国が敗れれば、領土も切り売りされたのである。国民の意志や住民の意志など関係ない。彼等には、所有される対象であっても所有する対象ではなかったのである。

 また、権利も所有権の対象である。国民は、主権者の権利を売り渡すこともできる。所有権そのものが売買の対象にもなる。
 以前は、所有の概念は、有形の対象にかぎられていたが、知的所有権のように、今日では、無形の物の所有権も問題となっている。即ち、知的所有権のような権利の取得と占有も所得の概念とされるようになってきた。

 そして、近年ではむしろ、所有という概念は、所有という権利の取得という概念に変わりつつある。つまり、貨幣価値は、交換価値、即ち、市場で商品と交換する権利の取得を意味するようになった。

 過去においては、農奴や奴隷のように、人間が所有の対象とされたこともある。民主主義を国是としてきたアメリカにも奴隷制度を認めていた時代がある。その時代では、人間も所有の対象だったのである。この場合は、国民国家たる民主主義において、国民を、人間をどう定義していたかが問題となる。それによって、民主主義の品位、性格が問われるのである。民主主義は、法と制度によって書かれた思想である。

 この様に所有の概念は、時代や国家、体制によって違ってくる。所有する者と所有される物との関係を示唆している。所有する者は、者なのである。所有される物は、所有される物なのである。所有権は、者と物とを分けている。

 この様に所有権は、根本において、人権に結びついている。所有権を有する者は、即ち、物を所有する権利を認められている者こそ人間なのである。逆に言えば、所有権を認められていない者は、人間として見なされていない。人間社会に居場所がないのである。なぜならば、居場所こそ、所有権の最も原初的ものだからである。居場所も所有できない者は、全てを貸し与えられなければ生きていけない。つまり、生存権が保障されていないのである。それ故に、所有権は、人間存在に関わる根源的な権利なのである。

 生産手段の所有権は、自由に関わる問題でもある。生産手段を自由にできることは、自己の生存の基盤を確かなものにする。自己の生活の基盤、生存の基盤、経済の基盤が保障されることは、自己の存立基盤が保障されることを意味する。自己は、存立基盤が与えられてはじめて主体的に行動できる。自己が依って立つところが確立されてはじめて自己の主体的行動は、保障される。故に、財産権は、自由の基盤である。ただ、その所有権が何によって保障されるのか、それによって所有の在り方が違ってくる。

 所有権は、第一に、私人・個人と第二に、共同体、第三に、機関に発生する。

 所有権の種類には、第一に、私的所有権、第二に、公的・社会的所有権(地方自治体、地域コミュニティによる所有)、第三に、団体や組織による所有権、第四に、資本家による所有権、第五に、国家的所有権がある。

 私的所有権と言っても一個人に資産が帰属する場合だけでなく、一族や家族と言った血縁関係によって構成される共同体に資産が帰属する場合もある。この様に、一概に私的所有権といっても単純に個人、私人だけを指すのではない。その社会、国家の規定や法、慣習によって違ってくる。また、制度や文化によっても違ってくる。その点を良く見極めて考えなければならない。

 また、私的所有権と言っても全てが個人に帰属するとはかぎらないのである。一部、家族や後見人、社会と言った共同体に帰属する物も含まれている。例えば、マンションにおける共有部分と私有部分の区分やガスや電気における供給設備と使用設備の区分のような問題である。また、私有地と公有地の区分と言った具合に一つの資産の中にも公有と私有は、複雑に入り込んでくる。
 この区分の原則は、国家理念に基づかなければならない。

 我々は、今日、資本主義国、自由主義国は、私的所有権を認めている体制で、共産主義や社会主義国では、私的所有権を認めていない体制と単純に色分けする傾向がある。しかし、資本主義国、自由主義国でも全てに私的所有権が認められているわけではない。また、社会的所有と言っても国有だとはかぎらない。

 大体において、現在の国家体制は、私的所有と公的所有、国有が混在した体制である。

 政治体制と経済体制は違う。共産主義や社会主義が全体主義的、統制的経済、国有制度であると決め付けられたのは不幸なことである。国家体制を考える時、経済体制と政治体制は、切り離して考える必要がある。
 社会主義国においても市場経済が存在してもおかしくないし、民主主義体制に則った国家でもおかしくない。国有と言うよりも、地方コミュニティや団体、組織に生産手段が所有されていてもおかしくない。結局、我々は、全体主義、統制・計画経済、国有制度という旧ソ連型の共産主義国を敷衍化して共産主義、社会主義を捉えているのに過ぎない。しかし、政治体制や経済体制の組み合わせは、沢山の種類があり、一律に割り切れるものではない。
 先ず社会主義においては、国有や公有の意味を正しく知る必要がある。社会主義イコール国家が生産手段を独占するものだという決めつけはおかしい。根拠がない。また、共産主義的体制は、近代になってはじめて成立したというのも早とちりである。共産主義的体制というのは、所有権が確立される以前は、ごく当たり前の体制だったのである。

 また、生産手段を独占的に所有していた全体主義的国家体制は、共産主義だけではない。小規模な共同体であれば、修道院も生産手段を共有し、私的所有権を否定している。また、古代には原始共産主義的な村落共同体が沢山存在した。理念ではなく。体制である。思想で経済体制を判断すると実体が見えなくなる。
 共有を基礎としてた民主体制、自由体制も不可能ではないのである。肝心なのは、社会に対するビジョンである。どの様な社会を望むかである。それによって社会体制は決まる。

 計画経済と、統制経済を同一視するのも危険である。計画経済というのは、予算も含め、何を計画するのかに尽きる。直接的な計画だけが計画ではない。都市計画や生活設計も計画である。また、大規模な公共投資は、計画的になされねばならない。市場や産業を設計するのも計画である。無計画な経済の方が恐ろしい。計画が悪いのではなく。計画の在り方が悪いのである。生産を直接統制(統制経済)するのではなく、計画するのである。
 市場経済は、ともすると無原則、無計画なものに流れやすい。しかし、市場の原理に無計画に経済を委ねれば、経済は制御できなくなる。本来の経済は、都市計画と同じである。どの様な国にするのか、どの様な社会を作るのか、その根本の理念がなければ、経済は、ただ浪費し、破壊するだけである。問題は、計画ではなく。計画の中身である。

 資本主義国においては、資本の在り方が問題となる。

 資本家と言ってもいろいろある。第一に、個人である。第二に、一族である。第三に、企業それ自身である。第四に、企業の社員、労働者である。第五に、何らかの団体、機関(組合、軍隊のような組織も含む)である。第六に、金融機関である。第七に、社会、地方自治体である。第八に、国家である。

 国家や公益団体、地方自治体が資本家となる場合がある。
 今日、国有企業というのは、民営化の流れの中で姿を消しつつある。しかし、かつては、国鉄や電電公社に代表される国営企業は沢山あった。国鉄や電電公社が民営化された理由は、非効率にある。しかし、国営だから、非効率だったのであろうか。国営企業と民間企業とでは何処が違うのであろうか。
 国有企業が破綻したのは、元々市場経済や資本主義経済を罪悪視してきたからである。会計制度においても予算制度においても、市場経済の原則や商業主義的発想を否定的にとらえてきた。その結果の非効率である。国有や公益団体で問題になるのは、収益をあげてはならない点である。また、民間の会計基準・仕組みと会計の仕組みが違うことである。
 その発想をやめないかぎり、民営化したとしても無駄である。逆に言えば、市場経済の原則を取り入れることができれば、国営でも問題ないのである。民営か、国営かは、形式の問題である。それは、行き着くところ国家財政の問題になる。乱暴な話、国家も民営化してしまえと言う者すらいる。しかし、そうなったら、国家の存在意義すら失われてしまう。

 何でもかんでも国有化してしまえと言うのは、乱暴な話である。しかし、逆に、何でもかんでも民営化してしまえと言うのも、同じくらい乱暴な話である。
 なぜ、国営化する必要があるのか。なぜ民営でなければダメなのか。その功罪、原因を明らかにしたうえでないと解答は得られない。
 現代、民営化問題で焦点となっているのは、効率であり、生産性である。では、なぜ、民営化において、効率的なのにも国営、公営では、非効率なのか。また、生産性や効率のみを追求して良いのか。実際のところ、その点が明らかにされていない。市場の原理のが働かないないから、自己責任の原理が働かないからと言ったところに原因を求める者がいる。しかし、それならばなぜ、国営企業、公営企業では、市場原理が働かず、自己責任の原則が機能しないのか。また、企業化しえないような行政サービスや国防と言った分野では、競争の原理や自己責任の原則が働かなくて良いのか。そう言う問題をおざなりにして、国営化、民営化を論じるのは、馬鹿げている。

 なぜ、金融資本が悪いのか。
 銀行が財閥の出先機関か中核に見られていたからである。しかし、それは、権力は何が何でも悪いという発想と同根である。権力機構にも功罪はある。しかし、権力によって秩序が保たれ、独立が保たれているのは、紛れもない事実である。
 経済も権力も力である。その力が悪いというのではなく。その力をいかに制御するかが、肝心なのである。
 自動車事故で身内を亡くしたからといって、車を憎み、車を撲滅しようとするのは間違いである。車の安全性を高め、道路状況や交通法規、マナーをよくして、二度と同じような事故が起こらないような体制を作ることこそ肝要なのである。
 金融資本は、確かに、野放しにすれば、自己の利益のために、その権益を強化するであろう。だからこそ、情報を開示させ、寡占独占体制にならないように監視し、金融の仕組みを構築することが重要なのである。
 社会や国家が、金融資本を核にして、社会主義や共産主義を実現することも可能である。それは、国家理念、建国理念に基づいてされればいい。闇雲に、統制経済や計画経済だけが、社会主義体制、共産主義体制だと決め付ける必要はないのである。
 社会主義か、共産主義か、資本主義かは、要するに、生産手段を最終的に誰が所有するかの問題である。結局それは、経済の民主化の問題に行き着くのである。

 共産主義革命が成就してから、我々は、体制を思想で見がちである。しかし、体制は、体制である。実体は、制度的なものである。いくら、社会主義といっても制度的実体が、頭首が世襲的に継承され、社会体制が階級的で、中央集権的・専制的体制であれば、君主制度と実体は変わりない。
 思想は観念である。生活は現実である。観念で飯が食えるわけではない。理念や、理想だけでは生活はできない。現実の実利、損得の方が生活をしていくためには、重要なのである。

 金融資本も同様である。金融資本による独占を怖れる前に、金融を制御する仕組みと、それを監視する仕組みを構築することなのである。観念や思想で、現実とかけ離れたところで制度を論じるのは愚かである。観念や思想は、制度や仕組みを設計し、改廃する際に必要なのである。現代の経済は、金融資本があって成り立っているのである。その現実を無視しては、換えって現実の混乱を引き起こすだけである。

 なぜ、株の持ち合いが悪いのか。株の持ち合いは悪いと、無批判に受け容れられている。しかし、なぜ株の持ち合いは悪いのか。その論理が明快ではない。株の持ち合いは、企業の防衛策の一環として生まれた。攻める側から見れば都合の悪い策である。しかし、だからといってなぜ、攻める側の批判にあわせて防御を解く必要があるのか。株の持ち合いは、緩い企業連合を構成する。それは、相互に互助しながら一つの全体を構成することが可能である。また、安定株主と理解者による連合を構築することもできる。反面、排他的になる傾向もある。故に、開放的な体制によって排他的な要素を排除しつつ、相互が連携できる関係を築き上げることが大切なのである。

 重要なことは、資本の在り方である。資本を誰が持つかである。経済主体内部の人間が持てば、肉体と魂が、同じ主体の基に統一される。外部に持たれれば、肉体と魂は分離するのである。資本を握るものが、その経済主体の運命を握るのならば、なるべく、その主体を構成するものが資本をその内部に取り込む必要がある。

 資本を誰が握るのか。その有り様によっては、資本主義も、社会主義も極めて近似した体制となる。国家や社会が少しずつ株を持ち合うことによって企業に影響力を持つことも可能である。地域コミュニティや団体が企業を持つことも可能である。従業員が持つことによって、自分達の意志を経営に反映することもできる。
 問題は、経済主体が誰のものであるべきかなのである。そこに、経済体制の原則がある。

 かつて人間は、収穫が上がるとその一部を神に供えた。それは、人間が所有の本質を理解していたからである。所有権は、神から出る。
 人は皆、無一物、何も持たずに生まれてきます。自分の肉体ですらままならない。それを少しずつ自分の物にしていく。所有という概念は、人間が生み出した物である。しかし、死ぬ時、また、無一物となって逝く。裸一貫生まれてきて、また、無となって逝く。それが宿命である。所有という概念は、人の世の中でしか通用しない。しかし、所有物に支配されているのも人の世。所有物を決めるのは人であり、所有物に囚われ支配されるのも人である。人が所有物に囚われるのは、人の思い。所有すれば、失うことを怖れるようになる。それは、人の思いがそうさせているのである。所有しているという人の思いこみにすぎない。必要だから所有するのである。必要性から離れた所有物は、余計な物である。必要以上に所有すれば、必要以上の苦しみに悩まされる。所有は、必要性が生むことを忘れてはならない。だから、得た物の一部を神に供え、自分を戒めるのである。
 経済体制の根源は、所有権なのである。人が、自らを神以上の存在とした時、所有の本質は、失われ、争乱の世となるのである。神から出た物は、神に返す。それが所有本来の姿である。

参考文献
  「所得権」の誕生 加藤雅信著 三省堂



                    


ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、 一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano