経済空間


 経済空間は、生活空間である。

 経済は、金銭的問題が全てではない。市場が、経済空間の全てではない。経済は、生業である。経済を広い意味で捉えると生物全般の生業になる。しかし、それでは、範囲が大きくなりすぎるので、ここでは、人間の生業に限定しよう。つまり、人間の生活があるところは全て、経済空間になる。

 経済問題は、人口問題、食糧問題、エネルギー問題、環境問題である。なぜならば、経済は、生活空間における分配の問題だからである。

 地球的規模で見ると経済的空間は、今まで考えられてきたような解放された、無限の空間ではなく、閉ざされた有限な空間である事が明らかになってきた。
 近代にはいると人は、自然界には資源が、無尽蔵にあると考えてきた。荒野は、果てしなく続いていると考えてきた。自然界の浄化力、治癒力には限りがないと思い込んできた。それより少し前の人間は、限界があると考えていた。しかし、科学が進歩すると人間は、自らの力を過信し、人間は、神に代わって全知全能の力を蓄えていると思い上がってしまったのである。
 そして、人は、海や河川を汚染し、大気に有害な化学物質を放出し、ゴミを無制限に捨ててきたのである。その結果、人類は重大な危機に直面することになる。
 経済もその延長にある。自然には、循環作用がある。しかし、資本主義経済は、この循環作用を無視している。つまり、市場経済は、不可逆的な一方向の作用しか持たない。大量生産・大量消費、使い切り、使い捨ての経済である。それを経済性と広言してはばからない。しかし、かつての経済は、循環を前提としていた。それを象徴するのがゴミ問題である。資本主義経済は、使い切り、使い捨てを前提としながら自然に分解しない生産物を大量に生産している。必然的に一方向的に排泄物が堆積することになる。
 また、大量生産・大量消費型の経済は、資源を食い尽くし、海の幸、山の幸を無原則に、貪欲に取り尽くしてしまう。
 この様な一方向的な経済は、人類を取り返しのつかない淵まで追いやってしまう。温暖化であり、エネルギー問題であり、貧困の問題である。環境問題は、経済の問題である。そして、この様な経済問題には、国境がないのである。

 経済空間は、経済の発展に伴って地球を覆い尽くし、今や宇宙にまで拡大しようとしている。そして、現在問題になっているのが、宇宙のゴミであり、大気汚染である。
 経済は、液体のような物である。水滴が合わさると一つになっていくように、経済も一つの塊に統合されていく。そして、一つの空間を共有するようになり、全体として一つの限界を共有するようになる。

 個々の部分の限界は、なくなり、反面に全体としての限界が見えてくるのである。

 経済発展によって経済空間が地球を覆い尽くすと経済空間は、それまで考えられていたような無限で開放的な空間ではなくなってしまった。これは、成長期の経済に典型的に現れる現象である。それが経済は、当初、競争的空間だったのが、成熟してくると闘争的、また、覇権的、帝国主義的空間に変質していく原因なのである。この様に、経済空間は、経済の発展状況によって変質していく。時間的関数の空間でもある。 

 地球的規模、資源や環境的観点から見ると閉ざされた空間である経済空間も地域的に見るとオープンな空間、開かれた空間である。政治的空間は、国家を一つの物理的空間の単位として成り立っている。それに対し、経済的空間には、政治的境界線、つまり、国境線のような明確な境界線があるわけではない。
 即ち、政治的空間は、政治的境界線に囲まれた閉じた空間である。経済は、何らかの法や掟によって成り立っているのではない。法や規則は、後から生じた体系である。その点が、法や掟によって成り立っている政治的空間とちがう。

 この様に経済空間は、前提条件や視点によっていろいろと姿を変える相対的で多様な空間である。

 政治的空間が島や大陸ならば、経済は、河であり、湖であり、海である。経済は、流れである。地球的規模で見れば経済も政治も一つの星の要素だが、地域的に見ると経済は、流れであり、政治は、島である。

 経済の空間は、人造空間であるから、そこで使用される経済単位は、相対的な単位である。

 経済とは、相対的なものである。経済空間も相対的空間である。
 食料に比べてこんなにも車が安いのかと思うのか。車に比べてこんなにも食品は高いのかと思うのか。それは、個々の視点によって変わってくる。一概に比べることができないのである。しかも、深く文化にかかわっている。

 日本には、清貧という思想がある。政治に携わる者は、清く貧しくなければならないと言った考えである。しかし、国家を代表する首相の所得が、一介のスポーツ選手の所得の十分の一にしか満たないというのをどの様に考えるべきなのか。しかも、スポーツ選手や芸能人の所得に寛容な国民が、政治家の所得に厳しすぎるというのは、どう考えるべきなのか。結局、物事の水準をどう捉えるかの問題である。何を基準に考えるかによって物の見方や価値観は、百八十度違ってしまう。

 最近、日本では、グルメ番組が流行っている。しかし、味覚というのは、あくまでも主観的なものである。それに対し素材は、市場の需給によって決まる。今日手に入りにくいと言う理由で高級食材となった数の子や蟹、トロのような物でも、かつては、捨てるほどあったのである。高いからおいしく感じるのか、おいしいから高いのかこうなると解らなくなる。また、化学調味料のような物をふんだんに使って料理された物が本当においしかどうかは、主観的問題である。新鮮な素材を何の加工もしないで食べた方がおいしいと感じることもいるはずである。また、おいしいか、不味いかは、食文化の問題でもある。形がそろい、色のきれいな野菜がおいしいとは限らないのである。ならばどちらが食通と言えるのであろうか。料理の価値をどう測定するのか決まった基準は存在しない。経済的価値は、相対的なのである。

 食い道楽が高じると万金をはたいても惜しくないという事になる。貧しい国の一年分の所得に相当する価値の物をたった一日の食事に費やしてしまうと言う、馬鹿げたことが現代社会では日常的に起こっている。
 考えてみれば最良の調味料は、空腹であるとも言える。飽食の中、高価なものしか食べられなくなるよりも、日々の糧に心から感謝して生きていける方が、余程、豊かではないのか。心の貧しさは、金銭では測れない。

 いずれかの基軸通貨に換算することによって現れる現象なのであろうが、それが何らかの実効力を持ち、飢餓や貧困の原因となると重大な弊害を生じることになる。

 重要なのは、水準である。それぞれの国には、それぞれの国の水準がある。そして、その水準が最低限の生活を維持するための水準を保っているかが大切なのである。また、人々の暮らし向きの水準、貧富の格差の水準が経済活動を正常に保てるかが重要なのである。格差が拡大すれば、分配活動に明らかに支障をきたす。その水準が何処にあるかを見極めることから経済体制は考えなければならないのである。

 珍味と言われる物は美味しいかも知れない。しかし、命に変えるほど美味しいのかと言われるとどうであろうか。だからといって、この一食で多くの飢餓が救われると言っても事はそれほど簡単ではない。
 確かに、富める国は、度外れた浪費がある。しかし、反面において貧しい国にも生活がある。それなりに生活が成り立っているのである。しかも、貧しい国の人間の方が生活が慎ましく、節度がある場合が多い。富める国には、退廃的で堕落している。そうなると生活の質や構造の問題になる。何を豊かとするのかは、主観的問題である。

 自家用作物の減少と換金作物の増大は、経済の質を変化させてしまう。つまり、経済空間全体が市場と化してしまうのである。
 似た例として、食事の問題がある。家事労働が衰退することによって家事の外注化が浸透する。確かに、家事の外注化は、市場規模の拡大を促す。反面において、家事労働が計数化され、労働の質は均質化されてしまう。また、家庭料理が喪失してしまう。それが経済化だというのは、間違いである。経済空間の市場化を意味しているに過ぎない。市場化されると労働の個性は、無視される結果を招く。それが経済の一元化となる。また、家事が計数化されると、経済的に見合わない場合が派生する。そうなると家事労働の市場的価値を測定しようとする動きが表面化する。しかし、家事労働そのものは、市場経済にそぐわない面がある。家事労働を計数化するというのは、経済の文化的意義を否定する事になる。

 金がなければ、飢えていても食料を手に入れることはできない。後は死ぬしかない。それが経済だと言われれば、明らかに経済がおかしい。
 しかし、飢餓の問題は、購買力の問題に置き換えられる問題なのであろうか。

 経済は、金だけの問題ではない。ただ、金に換算した方が解りやすいと言うだけである。

 メディアは、凶悪犯罪が増えれば増えるほど儲(もう)け口が増える。ならば、メディアは、本気で犯罪を抑止しようとするであろうか。犯罪を抑止しようという動機が弱いのである。現在のマスコミの言動をみると犯罪を抑止しようとするどころか、煽っているようにすら見える。そこまで行くとモラルの問題に行き着く。しかし、モラルは、金に換算することもできないし、金儲けにも繋がらないのである。
 映画、バトルロワイヤルの時の議論が象徴している。道徳的に善いか悪いかの議論が、興行的に成功したか否かの議論にすり替えられてしまった。興行的に成功しても道徳的に悪い物は悪いのである。むしろ、道徳的に悪い事が、興行的に成功した方が、悪影響は大きい。その議論がなされないまま、興行的に成功した問い事実だけで片付けられてしまった。それが現在のメディアの限界であり、市場経済、貨幣経済の限界なのである。
 先ず、子供に与えて良い物、悪い物は何か、そのコンセンサス作りが重要なのである。その為に大いに議論をすればいい。そして、そのコンセンサスを作るのが政治である。政治が経済にすり寄ってしまえば、モラルを正す者はいなくなる。経済を金だけの問題で捉えたら、経済の本質は失われる。

 集権的な計画は、絶対的な基準、規律に依る。経済は、相対的な空間である。絶対的な基準を相対的な空間に持つ込めば、環境への適合ができなくなる。計画経済が破綻する原因がその点にある。そして、同質の傾向を財政は、持っている。絶対的な基準、規律に従っている限り、財政の規律は損なわれる。

 経済は止めることができない。経済には、切れ目はないが、節目はある。戦争中も、大地震の時も、明治維新の時も、ロシア革命の時も、経済は動いていたのである。経済が生業だからである。生業は、連続したものである。経済空間も時空間的に連続している。

 経済は、全人類のためにあるのか。それともごく一部の選ばれた者のためにあるのか。それが問題なのである。経済空間を非常に限られた一部の人間だけの空間と特定すると経済空間は、割れて階級闘争のような異次元な問題を引き起こすことになる。経済は、特定の一部の人間だけを利するようにはできていないのである。経済で最も重要なのは、均衡である。その為にも経済を一つの空間の中で捉える必要がある。

 経済は、あくまでも全体として捉えていかなければならない。市場空間のような部分的空間を全体的空間に置き換えてしまうと、経済の全体像が見落とされてしまう。そうなると、個々の部分の機能が解らなくなる。経済空間を限定的に捉えるのは、危険なことである。

 経済空間には、生産的空間と消費的空間がある。そして、その二つの空間を縦断するように分配空間と労働空間がある。
 現在の経済は、生産的空間のみに偏向して考えられている。更に、それを貨幣的空間に写像する事によって経済全体を捉えようとしている。それが、経済が著しく生産性に偏る原因となっている。
 貨幣は、市場で商品に交換する権利を具象化した物にすぎない。つまり、貨幣軸によって全てを変換してしまうと、交換価値しか浮き上がってこない。生産性と交換性だけが重視される経済、それが市場経済であり、貨幣経済の実相である。経済全体を捉えるためには、必要性と使用価値、消費と言った座標軸も加えて考えなければならないのである。そうしないと経済の全体像は捕捉し得ない。

 同じ貨幣軸でも会計学的な座標軸に反映した方が経済の実態はより鮮明になる。なぜならば、会計学的座標軸には、使用価値や必要性が少なくとも織り込まれているからである。

 家事労働は、労働の原点である。家事労働は、創造的で、総合的、かつ、高度な労働である。家事というのは、経済の原点でもある。家事を経営するのは、極めて経済的なのである。その家事労働が市場経済化、貨幣経済化されようとしている。家事労働は、消費経済の原点である。家事労働を貨幣に換算することが果たしてできるのであろうか。また、例えできたとして、それは何を意味するのであろうか。それは、家事労働の質的変化を意味している。
 市場価値、貨幣価値によって家事を測定、評価するようになることは、家庭の崩壊を意味する。つまり、家庭の市場化を意味するからである。家庭が外部経済に取って代わられることを意味し、それは、共同体内部を外から解体することになる。そして、外部経済に家計が支配されることを意味する。
 家事には、換金できない部分がある。それを無理矢理換金しようとすれば、家計を標準化せざるを得なくなる。つまり、価値の単元化である。家に伝わる文化伝統の破壊である。この様にして、個性は失われ、文化は解体される。

 経済空間は、本来、非線形空間である。経済は、多様で独創的なものである。それは、百人いれば百通りの生き方があるようなものである。それを単元化するのは、文化をモノカルチャア化することである。資本主義経済も社会主義経済もその点では一致している。それ故に、いずれの経済も行き詰まっているのである。経済をより多面的に捉えないかぎり、経済問題は解決できないのである。

 かつて、日本の林は、ほとんどが雑木林であった。戦後、失われた林を取り戻すために、杉の植林が盛んにされた。その結果、日本から雑木林が消えて杉林ばかりになった。そして、花粉症が日本に蔓延する結果を招く。杉を植林する時には、それなりの合理性があったはずである。しかし、ただ、一つの合理性ばかりを追求し、日本の森林がなぜ雑木林だったのかを見落とすと、重大な過ちを犯す危険性がある。そして、それが単一化だと被害を拡大することになるのである。モノカルチャアの危険性がそこにある。経済的合理性の根本は、選択にある。その根源は、個人差と社会の多様性である。差があるからこそ、経済は成り立っていることを忘れてはならない。

 経済の本質は、選択である。この世にある資源は、有限である。ならば、どんな人間も、人は、選ばなければならない。選別しなければならない。その基準は、差である。ならば経済は、差によって成り立っている。差を否定したら、経済は成り立たないのである。
 しかし、その差が埋まらない、是正できないほど大きければ、経済活動は、動機を失う。また、小さな差でもそれが固定されて是正できなくても経済は、動機を失う。経済は、差とそれを埋めようとする動機によって成り立っているのである。

 人は、自分の人生を選択しなければならない。選別しなければならないのである。全ての物を等しく見ていたら、選択も選別もできない。仕事も生涯の伴侶も一つだけ選択、選別しなければならない。なぜならば、自己は一つだからである。その為には、対象を選別するための基準を与える必要がある。その基準は基本的には差に基づいている。その差は、認識上の差である。

 経済は、生活である。生活の基である。人間が生きられないような経済体制は、明らかに構造的な欠陥があるのである。また、生活の現場で捉えることのできない経済学は、学として明らかに欠陥がある。経済とは、人間の生業(なりわい)なのである。





                    


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