経済の目的


 物の生産量や生活に変わりがない。何も変わっていないはずなのに、財政が破綻したり、不況になる。
 そして、財政破綻や不況が、自分達の生活逼迫してくる。
 そうなると、経済が原因で自分達の生活がおかしくなってきたのか、元々自分達の生活の仕方が悪いから経済が悪くなってきたのか解らなくなる。
 そこに経済の不思議がある。
 また、質素倹約は、美徳であり、環境や資源保護から不可欠であるというのは解る。しかしもう一方で、景気を良くするためには、使い捨てがいいことだと言われる。途端に、どちらが、真実なのか曖昧になる。
 経済的な価値観とは何なのか。それは、人間の本来の生き方と合致しているのか、考えれば考えるほど混乱してくる。世の中、矛盾だらけである。特に、経済の問題は難しい。
 金が全てでではないと言いながら、金が物言う社会でもある。そこに現代経済の問題点も隠されている。それを解決するためには、経済とは何かを明らかにする必要がある。

 経済にせよ、政治にせよ、国民を、人々を幸せにすることがその根本的な目的である。では、幸せというのは何か。幸せの尺度とは何かである。近代以降は、それを、「自由」「平等」「友愛」に置く。それは、自己実現と豊かさの実現にあると私は、考える。ただ、それでは具体的な指標を設定することができない。幸せを具体的に言えば、一つは、経済的自立である。もう一つは、生活水準にある。その上で、自己実現をするのに必要な機会と資源の保証である。国民の幸せを実現するためには、少なくとも、一定の生活水準を維持するための資源を確保しなければならない。しかし、資源は、有限な物である。だからこそ、経済は、分配の問題に還元され、絶対額よりも比率を重視する必要があるのである。

 幸せを見る場合、具体的には、生活水準が解りやすい。我々は、豊かさに対する錯覚がある。豊かさを測る基準には、ライフスタイルが肝心なのである。
 何もない無人島のような小さな島に行くツァーがあるという。高額な金を払って、わざわざ南海の孤島に行く事はないのにと私は思ったりする。しかし、大枚な金をはたいてまで、不自由な生活を体験しに行く者もいるのである。豊かな国ほど、過激な自然保護運動が流行る。便利な生活は苦痛であるかのようである。現代社会には似たような話が沢山ある。
 テレビや車を買うことはできないが、食べ物は、安く手にはいる生活が良いのか。宝石や石油はあるが、その日に食べる物に事欠く生活が良いのか。本当の幸せとは何か。それを追求するのが経済学の本来の在り方である。
 今の日本人は、ブランド物で身を固めていながら、猫の額ほどの家でで生活をしている。それで、、日本は、豊かになったと言えるであろうか。経済的な豊かさとは何を意味するのか。相対的な問題なのである。
 他国の一ヶ月分の所得ぐらいのトマトを食べているといっても、それは、本当の価値を現しているのであろうか。それを金持ちというのであろうか。ただやたらに高いトマトを食べさせられているのに過ぎないのではないのか。要は視点の違いである。肝心なのは、自分達がどの様な生活を望んでいるかである。その肝心な部分が見えてこない。

 経済の目的を考える時、忘れてはならないのは、どの様な国民生活を実現するかの問題である。観念的には、平等か、自由かみたいな議論に終始しがちであるが、実際的には、国民生活の問題であり、どの程度の生活水準を実現し、生活水準をどの様に均衡するかである。そして、それは、分配の問題に行き着く。現実の問題である。

 経済は、共同体の問題である。本来は、共同体間、共同体内部の分配の問題である。現代は、経済を貨幣的問題や市場的問題として限定的にとらえる傾向がある。しかし、貨幣や市場がなくても経済は、成立していたのである。
 一方で飢餓がありもう片一方で飽食があるのは、分配の失敗による。それは、経済が分配の問題であることを如実に表している。

 貨幣経済下にいる我々は、経済を貨幣の動きや貨幣価値に換算して解釈する傾向がある。しかし、経済は、基本的に分配、即ち、配分の問題である。貨幣は、配分を仲介し助ける機能をする象徴的な相対的価値であり、経済の血液とも言うべき物である。貨幣の動きや働きは、重要ではあるが貨幣の動きでとらえられるのは、経済の影に過ぎない。その意味で貨幣経済上に現れない動きや働きもある。貨幣経済上だけで経済をとらえようとすると経済の全貌を見損なう危険性がある。むろん、血液の成分や働き、動き、血圧などから、健康状態をつかむことができるが、その先は、実際の疾患について解明しなければ意味がないのである。

 配分の問題と言う事は、量よりも比率の問題だという事である。これは、財政問題を考える時にも重要な指針である。

 確かに血液にかかわる病気は、致命的問題である。しかし、血液にかかわる病気だけが死に至る病気ではない。確かに、血液を調べれば多くの病気や異変を察知することができる。しかし、だからといって血液を操作すれば全ての病気が治癒するわけではない。血液ばかりにこだわって手遅れになったり、悪化させてしまえば、何のために血液を検査するのか解らなくなる。
 金が全てであるような経済学は、血液が全てであるような医学と変わらない。貨幣の動きの背後には、本来、物流がなければならない。それが実体経済である。ところが、貨幣の流れと物流とが乖離している。そこに現代経済の病巣が隠されている。貨幣経済が発達する以前は、税も物納だった。市場経済が発達する以前は、共同体内部で分配が行われ、貨幣も必要とされていなかった。つまり、経済の本質は、分配である。この分配を前提として生産と消費の均衡が図られてきた。その基準は、必要性である。
 この場合、経済は、生産と消費の問題である。しかし、市場経済と貨幣経済が発達し、財が資本という形をとるようになると、需要と供給という市場の論理が経済を支配するようになる。そして、需要と供給は、生産性を土台として語られるようになる。それは、生産主導型経済の形成を促すことになる。必要性に代わって生産性が重視される経済に変質してきたのである。
 この様な経済体制下で求められているのは、消費の効率化ではなく。生産の効率化である。しかし、経済が本来追求するのは必要性であり、消費の効率化でなければならないはずなのである。生産性重視の経済は、浪費の経済であり、本来必要性のないところに価値を見出す。この様な経済は、資源を枯渇してしまう。

 共同体が拡大するにつれて分配や生産の仕組みにも限界が生じ、分配に偏りがでるようになる。それが、本来は、物の不足や大飢饉という現象として現れてくる。それが貨幣経済・市場経済下では不景気、不況、大恐慌という形で現れるようになる。これなどは、実物経済から貨幣経済への移行によって現れてくる現象である。

 経済は、観念ではなく。現象である。経済は、観念の所産ではあるが、経済活動そのものは、現象である。故に、経済を観念的にのみ捉えても理解できないし、また、経済現象は、前提の仕方によって全く違った捉え方をされる。財政の赤字は、本当に存在するのであろうか。それを観念的にのみ解釈しようとすると見誤る。つまり、数字は、観念的にものである。経済は、実体である。数字的側面だけで、財政赤字を理解しようとしても自ずと限界があるのである。現象面から見て、赤字として現れた数字の意味を理解する必要があるのである。それは、経済とは何か、経済の働きが解らないと理解できない。そして、経済の目的は、経済の働きを理解することによって明らかにされるのである。

 観念でのみ経済を捉えていたら、経済学・理念に経済が振り回されてしまう。
 なぜ、我々の生活に変化がないのに、恐慌が起こったり、財政が破綻し、その結果、生活が成り立たなくなるのか。それは、恐慌が原因なのか。それとも自分達の生活の在り方が問題なのか。そこに、経済の謎を解く鍵がある。

 だからこそ、経済の目的を考える前に、経済とは何かを明らかにする必要があるのである。

 経済とは、生きる為の活動である。ちなみに、政治とは、国家や社会の秩序を維持するための活動である。だから、経済活動は、よくロビンソン・クルーソーが経済学の例題に出されるのが示すように、一人でも成立するが、政治活動は、一人では成立しない。政治活動は、社会がなければ、成立しないのである。
 言い換えると、経済の働きというのは、人間が生きていく為の働きといえる。

 経済の根源的活動は、生活である。故に、経済の最小単位は、家族なのである。つまり、経済の源は家族にある。家族が崩壊すれば、経済も崩壊するのである。家計は、生計でもあるのである。故に、経済は、生計の発展したものとも言える。

 経済と政治について考える時、人が一人前の大人として認められるには、政治的に自立する事が優先されるのか、経済的に自立することが優先されるのかを考えれば解る。人は、形式的には、二十歳になり、成人式を迎えた時、社会人となるのだが、現実には、所帯をもって経済的に自立した時、一人前の大人、社会人として、実質的に認められるのである。それをもっても、自立とは、経済的なものであり、家族を持った時を意味する事が解る。経済とはそういうものであり、経済にとって家族は、一つの単位なのである。

 現代社会は、複雑で多岐にわたる。だから、生きる為の活動も複雑で多岐にわたる。生活必需品にのみ、経済活動は、限定できない。しかし、生きていく為に、必要な活動を指していることには、変わりない。
 政治家でも、僧侶でも、それこそ、無職の人間でも、ホームレスでも経済活動と無縁でいることはできない。つまり、経済とは、生きる為の活動なのである。

 経済とは、生きる為の生業(なりわい)である。つまり、経済とは、生活である。生活が成り立たなければ、経済は、破綻する。経済が破綻すれば生活が成り立たなくなる。生活が成り立たなくなれば、社会の秩序が乱れ、争いが始まる。
 経済の目的は、国民や家族を養うことである。国民や家族が養えなくなれば、経済は機能しなくなる。そこから、内乱や戦争が始まる。つまり、戦争や内乱の原因の根本は、経済にある。そして、その経済の延長線上に政治があり、戦争がある。内乱や戦争をなくそうと思ったら、先ず経済の問題を片付けなければならない。

 近代経済学、マルクス経済学は、学問として粗雑すぎる。そこには、人間性がない。人間の生き様がない。人間に対する洞察がない。その国の文化や歴史、産業の特性もない。

 共産主義の失敗は、経済や社会を人間の生業の延長に捉えなかったことである。つまり、経済も政治も人間的なことである。つまり、生臭く、感情的で、好悪や怨念に左右される代物なのである。人間の心理や感情を無視したところに、経済は成り立たない。人は、感情のない物ではないのである。そして、人間は、平等でも、同等ではないのである。一人一人の人間も同等に扱うことはできないのである。仕事にも向き不向きがあり、能力差があり、地域差があり、性別の違いがあり、その差をいかにして克服するかに平等があるのであり、同等に扱えばいいうのではない。同等に扱えば、換えって、差別を増長することがある。むしろ、多くの差別は、同等に扱うことによって生じている。同じ食べ物、例えば、牛肉や米でも、産地や部位によって違いがあるのは、当然なのである。同じ物など一つとしてない。収穫した年や時期、時間でも違いがある。その違いや差を無視したら、経済は成り立たない。なぜならば、その差が経済的価値の源なのである。

 資本主義は、間接的支配の経済体制である。つまり、植民地主義や帝国主義が直接的支配の体制であるのに対して、資本主義は、資本を仲介とした間接的支配の体制である。資本は、間接的支配の核心である。間接的支配の技術が発展すれば、必然的に企業は、財テクに走る。その結果、生産部門は、必然的に衰退する。GEは、その好例である。
 貨幣が実物経済から乖離しそれ自体が価値を形成するようになると不労所得者、資本家は、資本による間接的支配を目論見、財テクに走るようになる。

 企業は、利潤の追求を目的とする機関である。企業が目的とするのは、哲学でも、理想でも、人助けでもない。利益のみを追求している。それが資本の論理であり、そこにこそ資本主義の問題点が潜んでいるのである。

 投資家の善意など期待すべきではない。彼等の求めているのは、利益であり、理念ではない。況や、企業という共同体を構成する労働者の幸せでも、公共の福祉でもない。あくまでも、自分達の取り分である。資本家にとって、企業は、あくまでも投資対象であり、金の卵を産む鶏に過ぎない。金の卵を産まなくなった鶏は用無しなのである。それが、資本家である。

 自給自足的な体制から社会分業が進むにつれ、人間は、社会に依存しなければ生きていけないような体制が構築されていく。この様な社会体制自体に有害な要素が入り込むと、社会は、人々の精神を骨の髄から麻薬のように蝕んでいくことになる。元々、現代人は、社会に依存しなければ生きていけないのである。そして、資本主義は、射幸性や人間の欲望、快楽を煽ることで麻薬的な中毒を引き起こし要素を体制的に内在しているのである。

 資本主義における究極的な商品は、麻薬と奴隷である。麻薬と奴隷は、資本主義の正体、本性をあからさまに曝したので、表面的には、非合法化された。しかし、麻薬的な商品や奴隷的な雇用というのは、巧妙に姿を変えて資本主義経済の中枢に巣くっている。
 アヘン戦争は、起こるべきして起こった戦争なのである。

 経済は、分配の問題である。つまり、各共同体間の取り分の話なのである。企業の収益に関して言うと企業収益は、収奪ではなく、余剰価値の配分問題である。つまり、企業の収益を家計と企業と国家という共同体間にどのように配分するのか。更に、債権者・資本家にどのように還元・配分するのかの問題である。これは、家計も企業も収益を自分の物だという認識から国家や債権者に収奪されるという発想が浮かぶが、実際は、配分されるのである。そして、各々の取り分の問題なのである。税は、奪われるのではなく、また、利益も企業の搾取というのでもない。ただ、それぞれが各々の役割に応じて収益をどのように配分するかの問題なのであり、取った取られたの問題ではない。この辺が、ある種の錯覚なのである。これは、経済を考える上でも重要なのであり、社会的生産財をどのような基準によって、また、どのような手段、制度によって配分するかの問題なのである。所有権の問題ではない。全体の限られたパイをどのように配分するかの問題であり、その為には、基本的に生産財の総量と質、消費の総量の質の問題に還元できるのである。更に、その余剰生産物をどのように蓄えるかという問題なのである。その分配を市場という仕組みによるのが市場経済であり、計画や国家機関によるというのが社会主義経済なのである。より全体的な社会構造の上で再構築していこうとするのが構造経済である。
 必然的に経済的基準は、相対的基準となり、絶対的基準によっては測れないのである。

 余剰価値の共同体間の分配という観点から見ても資本家は、補助的、副次的な役割を果たしているのに過ぎない。分配は、実際に仕事に携わる者が主でなければならない。
 資本を悪だと見なしているのではない。資本が支配的な物になるから弊害が生じるのである。配分は、役割に応じて相応にされるべきものなのである。経済の中心・主役は、労働者であり、生産者であり、消費者であるべきなのである。

 構造経済学では、消費の面からも構造化することを考えなければならない。例えば、事業体も生産という面だけではなく、消費の効率化という面からも事業を再構築していく必要がある。例えば、共済会活動や協同組合のような物を組織化していくことも必要であろうし、年金や退職金制度の見直しや保険制度の充実などによって、単なる、営利団体から運命共同体、生活共同体へと発展、成長させることを考えなければならない。従来の労働組合的な対立的在り方から、公共の福祉という共通の目的に向けて一体となった組織の在り方を模索していかなければならない。それが、生産と消費両面の構造化を促し、経済を構造化していくのである。

 財政は、再分配の仕組みである。この再分配の機能抜きに国家財政は語れない。

 現代の資本主義は、余剰価値を蓄えると言う事を否定している。余剰価値を個々の共同体に蓄えさせれば、個々の共同体が自立してしまうからである。余剰価値を独占することによって経済に対する支配権を強めようとしているのである。

 財政赤字もこの文脈の延長線上にある。国家の蓄えという物を本質的に認めようとしていない。しかも、行政サービスを独占化することによって、財政を、絶対的な基準で運営しようとしている。その為に、国家財政は、赤字化するのを宿命づけられている。この点を鑑みると財政赤字が問題なのではなく、財政赤字を生み出す仕組みが深刻なのである。

 蓄え(たくわえ)という思想が、否定されようとしている。しかし、蓄えこそが、社会的不均衡を是正してきたのである。

 戦争や争いは、表面的には、政治や思想が前面に現れるが、本当の原因は、経済である。しかし、経済的原因を前面に出すと、大義、道義が立たない。だから、大義、道義を建てるために、思想や政治を前面に押し出すのである。逆に言えば経済的理由は、単純明快である。つまり、食べていけない。生きていけないという事である。しかし、食べていけないから戦争をするというので、皆を納得させられない。皆を納得させる理由を作るためには、政治や思想の力が必要なのである。しかし、大多数の人、つまり、大衆は、単に観念だけのために命をかけたりはしない。生きたいけないから、命がけになるだけである。

 その国の国民を養うことができない状況が派生した時、世界は乱れ、争いが始まる。国民を養うことができない状況は、例えば、天災や飢饉による生産力の減少とか、人口の増加に生産力が追いつかなくなった時といった事象によって形成される。鎖国状態の国や経済封鎖を受けた国は、現代でも、その年の食料の収穫量に経済は左右される。

 地力がなくなれば、経済は深刻に事態を迎えるのである。それを考えると、環境や状況が経済には、重要な要件であることは明白である。
 ジョン・リレスフォードは、その著「遺伝子で探る人類史」(ブルーバックス講談社)のなかで、アイルランド島の人口は、1700年にジャガ芋の導入によって急速に増加後、1845年から1849年に葉枯れ病が蔓延しその結果150万人が死亡し、100万人がアイルランドを離れ、その後人口の回復は、現在までないとしている。それが経済なのである。

 だからこそ、経済や戦争を考える時、自給率を忘れてはならない。中でも、食糧の自給率とエネルギーの自給率は無視できない。
 日本の食糧自給率は、平成十年にカロリーベースで40%になり、それから平成十五年まで、連続六年間40%である。(農林水産省)これを他の国と比べるとオーストラリア230%、アメリカ119%、フランス130%、英国74%と最低のレベルにある。エネルギーの自給率に至っては、4%足らずでしかない。
 食料やエネルギーが自給できない以上、足りない分をどこからか持ってこなければならない。さもなければ、日本人は、40%の食料で国民の食料を賄わなければならなくなる。それが現実である。いくら、平和や世界貢献を唱えたところで、食べていけなくなれば、おしまいなのである。結局、現代の日本は、金でそれらの食料やエネルギーを買っているのである。買ってくる金がなくなれば、おしまいである。
 この現実を前に日本が生存のために、何らかの紛争に巻き込まれないと言う保障は何処にもないのである。観念的な平和主義者達は、食料やエネルギーが無尽蔵にあることを前提としている。しかし、食料もエネルギーも有限なのである。その限られた資源を巡っての争奪が政治であり、経済の原則を形作っているのである。
 ちなみに、日本の食糧自給率を低下させた一番の原因は、日本人の生活習慣の変化である。こう言ったことが経済にとって重大な問題であり、定量的に現れる経済現象には必ず定性的な原因が隠されている。そして、経済問題を解決する場合は、この定性的な原因を明らかにしなければならない。

 我々は、食料、エネルギー、原材料の確保という宿命から解放されたわけではない。故に、現実の経済を考察する上では、食料やエネルギー、原材料の生産拠点、集積拠点、中継拠点の地理的な位置と自国との位置関係が生じる力関係を無視しては経済が成り立たないことを忘れてはならない。そして、その地理的、歴史的関係こそが、戦争、ひいては、平和の源であることを覚えておく必要がある。

 勝負・強弱・損得・優劣は、倫理観から見ると否定的な価値観としてとらわれがちである。しかし、現実の世の中ではどうか。勝てば官軍という言葉が示すように、勝った者の言い分が正しいことになるのは、世の常である。勝敗や強弱、損得、優劣を度外視しては、生きていけないものである。

 コロンブスも経済的な動機で新大陸を捜したのである。大航海時代は、主として経済的な動機によって引き起こされた。そして、その後の世界の歴史は、大転回を迎え、欧米の絶対的な優位の時代が続くのである。つまり、経済力が政治力や軍事力を裏付け、それによって現代の国際情勢が形作られたのである。そこに強く作用した価値観は、正義でも、理想でもなく。強弱・勝敗・損得・優劣である。世の中を決したのは、真善美ではなく。優勝劣敗の冷徹な原理だったのである。

 理想と言った観念や憎しみと言った感情によって戦争は引き起こされるわけではない。戦わなければならない状況があって争いは起こるのであり、戦わなければならない理屈があって戦争が起こるわけではない。理想や主義主張を唱えれば戦争がなくなるというのは、幻想である。飢えるから人は争うのである。そこに経済の持つ重要性がある。経済を軽んじている限り、戦争はなくならない。政治力だけでは戦争はなくならないのである。

 人間が生きていく上には、必要なのは、経済である。思想や哲学ではない。むろんだからといって、哲学や思想が不必要だなどと言うつもりはない。ただ、哲学や思想、更に言えば、政治が高く評価されているのに対し、経済は、長いこと不当に低く評価されてきたと言いたいのである。
 更に言えば、従前の考え方では、経済を理念的に捉える傾向がある。しかし、経済は、理念ではない。現実である。哲学や思想では食べてはいけない。経済は、人間が生きていく上で不可欠なもの。翻って言えば、生きることの術の物だとも言える。それを下等な物と決めつけるのは、勝手だが、でからとっいて哲学や思想の下に服属させようとするのは行きすぎである。経済を哲学的、思想的に体系付けようとするのは、危険なことである。それよりも、経済を現象として捉えそこから、種々の法則を導き出すべきなのである。

 典型的なのは、価値基準である。経済的価値を、倫理的価値基準である真善美と言った価値観で捉えようとしても捉えきれない。現実的基準である経済的基準には、現実に使われている価値基準を使う必要がある。

 つまり、経済を考える時、生きていく為に何が必要なのかを考えればいいのである。それが食べ物なのか、エネルギーなのか、金なのか。生きる為に必要な物が、衣食住から、エネルギーに更に、情報や貨幣へと移行してきたのが、近現代なのである。

 経済は、金儲けのための手段だという錯覚がある。それが不幸の始まりなのである。経済は、人々を幸せにするための手段なのである。
 経済は、文化なのである。




                    


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