最近になって少年の凶悪犯罪が増えているかの如き記事をよく目にする。しかし、本当だろうか。 そう主張する者の多くが団塊の世代、全共闘世代である。
 では、学園紛争、大学闘争は何だったのか。あれは、反社会的、犯罪的行為ではなかったというのか。主義主張がハッキリしていれば、犯罪ではなくて、主義主張がハッキリしていなければ、犯罪だというのか。ならば、その主義主張の正当性は誰が証明するのか。自分達は、正しくて、後の者は、間違っている。理解できないと言うのは、独善に過ぎない。
 学園紛争が激しい時代は、多くの人間は、自分の抑圧された状況を社会に向けて発散することができた。しかし、現代の若者達は、それすらも許されていない。その根っ子は、同じ動機である。もし、それが何らかの確信に基づいたとしても罪は、罪である。人を殺したり、物を壊したりした事を正当化することはできない。確信に基づいて行うならば、尚更の事、自分の罪を自覚しなければならない。さもなければ、それは、自らを神とする行為、絶対視するのと同じ事だからである。

 団塊の世代というのは、反体制・反権力・反権威の世代である。つまり、なんでもアンチ派である。
 叛逆、アウトロー、ピカレスク、ヒッピー、サイケデリィク、ラジカル、革命、それも暴力革命、闘争、紛争、テロ、デモ、アジ演説、ゲバルト、スト、内ゲバ、パルチザン、ゲリラ、ハイジャック、バリケード、反帝国主義、反戦、ドロップアウト、労働者、アンチプチブル、反小市民、共産主義、社会主義、無政府主義、破壊、共同体、それが、正義だったのである。
 要するに既成の秩序や世の中に逆らってきた世代である。自分達が、逆らってきた世代に代わって責任ある立場に立たなければならないのにその身に付いた性癖はなくならない。何かというとたてをつき、斜に構えるのが好きである。どちらかというと、暗くいじけている。前向きではない。自分達なんてという自虐的なところがちらつく。現実離れしたことが好きだ。議論好きだ。
 そこから生まれたのが、学生運動、市民運動、消費者運動である。

 しかもアンチテーゼがテーゼになってしまっている。もともと、社会一般で、認められるわけがないというのでその分、過激になっている。そして、アンチテーゼは、本来テーゼへの批判として成り立っている。そのアンチテーゼが、テーゼになってしまったら、反対のしようがない。だから、反体制派の論理は、頑迷にまで硬直して時代に取り残されていった。それが、団塊の世代が責任世代になった時、ゾンビのような蘇ったのである。まるで怪奇現象である。例えば、男女参画、ジェンダーである。男と女の本質的な差を認識した上で、アンチテーゼとして男と女の平等が俎上に上がる。それが過激な男女平等論がテーゼ、前提になれば、結局、男と女そのものが存在しなくなる。つまりは、人間存在だけになる。これでは反論の余地がない。全くと言って批判を受け付けない。それが全体主義的、独裁的だと言っても受け付けない。元々、テーゼそのものを欠いているのである。論理性など持ちようがない。
 彼等と議論して感じるのは、最初から議論なんてする意志がないのである。自分達が絶対に正しくて相手は、認めない。それを民主的だと主張する。彼等とって闘争であって、議論ではないのである。

 何でもかんでも反対。反体制は、格好いい。叛逆は、美学だ。止めてくれるなおっかさん。背中の銀杏が泣いている。
 戦後の社会では、逆らうことばかりを教えてきた。意見と言えば、反対意見、賛成意見は、言う必要がないかのごとく教えてきた。先生や体制に逆らう奴を英雄視し、学校や先生、体制に従う人間を蔑視してきた。自分の意見というのは、他人と違う意見であり、皆と違う行動、違う意見を言うことが正しくて、皆と同じ事を言うとちゃんと自分の意見を持てと叱られた。それで、話せば解るとはないものだ。話し合っても対立するように仕向けておいて、話し合えてと言っても無理がある。横暴だ。だから、我々の世代は、知らず知らず、無意識のうちに逆らうことになる。
 そして、自分達が体制を担う番になった時、それでも反体制か、独善に陥る。今の政権を担う人間が、反体制か、独裁者にしかなれないのは、自分達の根源を否定してきた当然の帰結なのである。

 アンチの中には、道徳、特に、性道徳が含まれていた。反道徳、フリーセックスがそれである。人間の行動を制約するもの全てが悪い。これは、今の運動の底辺にも流れる思想である。どうしてもある種の運動が反社会的、ラジカルなものに映るのは、その運動の原点に反体制、反社会的な潮流があるからである。

 その発想の根本は、弁証法である。いくら批判しても、その批判したものに代わるものを示せなければ、それは、ただの破壊にすぎない。矛盾論と言うほど、弁証法と言うのは、矛盾している。何せ、弁証法というのには、原則がない。論理に、飛躍がある以上結局どんな結論でも導き出せる。それが弁証法である。弁証法というのは、論理というのではなく。弁論上の技術に過ぎない。それ自体矛盾している。
 
 こういう環境では、知識人は、反体制に身を置いている方が安全であり、居心地が良いのである。かくして、大学は、反体制、反権力、反権威の牙城と化した。そして、今、彼等が権威者、権力者として学会を支配しているのである。なんて事はない、反権力的権力者、反権威的反権威者である。彼等の存在は、存在自体が自己矛盾である。そして、この自己矛盾した価値観を内包した人間が、社会、特に、教育、メディア、産業、官僚、政治の要職につこうとしている。

 反体制のまま、社会で責任ある立場に立つことはできない。戦後、マスコミ、言論界にいる者は、反体制側に立っていれば間違いがなかった。それは、戦前、体制側にまわって戦争を鼓舞した者が戦後、追放されたのを見ているからである。戦後、言論の自由によって自分の立場は、体制から保護されている。ならば、反体制側に立てば、自分の保身ができる。だから、戦後の知識人の多くは、反体制派である。しかし、自分達が社会的に責任ある立場に立たされることになると、否応なく、自分達は、体制派なのである。しかし、多くの知識人は、それを認めようとしない。社会的に責任ある立場に立たされながら、以前として自分は、反体制派だと思っている。だから、結局無責任になる。それは、戦前、戦争を鼓舞した者達と、基本的に変わらない。

 自分に責任がないと思うから、また、責任ある立場にいるという自覚がかけているから、何でも他人の性にする。世の中が悪い、社会が悪い、時代が悪い、国が悪い、親が悪い。一連の知識人の反日的言動も、本は同じ。自分だけは、同じ日本人ではないと思うからできる。日本人なのに、日本人が悪いと言っているに過ぎない。
 何か、事件や事故があると誰かを悪者に仕立てないと気が済まない。まるで、台風や津波を起こしたのは、世の中や国だと言わんばかりに。社員が無謀運転して事故を起こしても、社長が悪い、会社が悪いと体制の責任にする。それが正義だと言わんばかりに。しかし、自分達が社会に与える影響は、意図的に小さくする。何を言ったって自分達だけは許されると。
 都合が悪くなると親の性にする癖に、自分達の子供が悪い事をしたら、親の自覚と子供の人格は違う。子供のやったことに責任は持てないと言う。だから、世の中も子供も悪くなる。
 事件や事故には、避けられないものも多くある。責任の所在が曖昧なものもある。戦争だって特定の個人が引き起こすものではない。公害ですら、最初から、人を傷つけるつもりがあってやる場合の方が多い。故意か、過失かもハッキリしない。良かれと思ってやった善意が裏目に出ることもある。災害や事故の原因が全て、人である、天災も人災だというのは、思い上がりである。それよりも、事故を未然に治めようとする努力や被害を最小に食い止めようと言う努力をあざ笑うようなものである。現に、一人でも被害者が出るとそれまでも努力の積み重ねを水に流して人災だ、責任者を出せと騒ぎ立てる。その結果、何も改善されない。全てを特定の人物の責任にして片付けてしまう。そして、地道な努力を馬鹿にして、積み上げてきたノウハウをなくしてしまう。それがどれ程恐ろしいことか自覚しているのだろうか。リストラによって企業責任を放棄していると批判するが、そうさせたのは誰か。安くしろと騒ぎ立てたのは誰か。

 自分も団塊の世代の一員である。というより、団塊の世代の一番最後に属する世代と言った方が正解かも知れない。
 今、我々は、社会において責任ある地位を占めようとしている。しかし、その準備が果たしてできているであろうか。団塊の世代は、高度成長のまっただ中、新旧の狭間に揺れ動いた世代である。そして、世の中の矛盾に戦いを挑んできた。
 その結果どうであったろう、それを総括・清算しなければ、我々は、責任ある発言ができない。

 本来は、破壊活動の後には、建設的な活動、創造的な活動が合わせて存在しなければならない。体制側の強固の壁の前に、多くの活動が挫折し、やがて、社会主義体制の崩壊を迎える。結局、団塊の世代の活動は結実することなく破壊だけが残った。その結果は、荒廃しきった学校であり、三無主義に代表される精神の荒廃である。

 既成の道徳を否定するならば、それに代わる新たな道徳律を示さなければならない。それができなければ、社会そのものが成り立たなくなる。

 我々は、もう自分達の非を認めるべき時が来た。
 反体制や反権威を気取り歳ではないだろう。三無主義も喜劇を通り越して、悲劇的である。

 教育が悪いのは、教育が本来の目的から逸脱したからだ。そして、その本来の目的から逸脱させたのは、他でもない我々なのだ。自分が反省もせずに人に反省を求めるのは、お門違いだ。いつだって団塊の世代は、自分達は悪くないと自分を正当化する。自分を正当化しておいて他人を責める。戦争をしたのは、俺達が悪いのではない。親の世代がバカだったからだ。環境が悪いのは、社会が悪い。やれ人災だ。やれ企業責任だ。そして、謝れ、謝れ。外国の力を借りてまで謝れのオンパレードある。
 しかし、もう我々は、自分の責任を逃れられない。これから、日本が悪くなるとしてたら、我々の責任なのだ。その責任を子供達に問うのか。その兆候は、既に現れている。教育が悪いのは、子供達が悪いからだ。我々の理解を超えてしまった。そうやってまた、自分達を正当化するのか。我々が責任をとらずに誰が責任をとるというのか。ならば我々は、過去の過ちを認め、自らの姿勢を改めなければならないのだ。その時が来たのだ。我々が間違っていたのだ。

 大金を騙し取られた者ほど、騙されていること自体を認めないと言われる。自分が犯した過ちが重大であればあるほど自分の犯した過ちを認めることができない。しかし、それでは、いつまでたっても言い訳しかできない。責任ある者として、ここはすっぱっと自分の過ちを認めて自分の行動を改めるしかない。さもないと失った時間を取り戻せない。

 ライブドアの行動は、未熟で、幼稚な部分があるし、フジ側の行動には、大人げないところがあるが、それ以上に腹立たしいのは、団塊の世代の行動だ。
 自分達は、旧体制派であるフジテレビに対し、批判的な態度をとり、さもライブドアに共感しているかのポーズをとる。そのくせ、ライブドアの行動を茶化して、揶揄している。
 自分達は、どちらに対しても公正中立の立場にいるように見せかけているけど、結局は、傷つくことない外野席、安全なところにいて、無責任な発言を繰り返しているだけ。
 ただ、団塊の世代は、根本的なことを理解していない。
 自分達は、責任ある立場に、今、立たなければならないという事。そして、今、立たなければ、自分達は、責任ある立場に立てるチャンスを失う上に、次からくる世代に排除されてしまうという事。
 ライブドアやイチロー、野茂、松井達らの世代は、確実に力をつけている。彼等の時代がもう目前に迫っていることは確実である。
 いつまでも、自分達の非を認めず。親の世代を責め、次の世代を問題意識が低いと侮っていたら、自分達の出番はなくなる。
 そして、学園紛争がそうであったように、破壊だけ残して、何の責任もとれなくなる。いい加減、もう自分達の過ちを認めないと。もう大人になろうよ。

 批判ばかりして、無責任な態度をとるのは辞めよう。我々が次の世代の責任を担っていかなければならないのだ。

 特に、ジャーナリストを自称する者は、自分が依って立つ思想を明らかにすることである。
 常に彼等の言い分には、あの人の言い分には、一部正しいところがあるとか、気持ちが分かると部分が含まれている。一部、正しくても導き出された答えが、自分の信念と違う、相容れないものならば、同調していると錯覚されるような言動をとるべきではない。また、気持ちが分かったところで、それがどうなのだ。何の意味も為さない。
 いやしくも、言論を生業とする者は、自分の言動に責任を持たなければならない。
 かつて、北野たけしや久米宏が、自分達のような者が言う事は大した影響がないですよといった発言をしたことがある。報道に携わり、俺だけ多くの番組に出演している者が、自分達の発言がどれだけ多くの影響を与えているのか、無自覚だ。無自覚を装うのは、ただ単なる逃避に過ぎない。
 自分の発言内容は、与太話で真剣に、受け取らないでくださいよと言うのは、あまりの無責任、人をバカにした暴言である。
 しかも、それを日本を代表するオピニオンリーダーだと持ち上げるメディアは、それこそ、自己否定しているに過ぎない。あまりに自虐的である。
 次の世代は、我々を模範・手本としているのだ。それを自覚せずに。自分ばかり良い格好しいは、欺瞞である。
 我々には、次の世代・時代への責任があるのである。

 表現の自由、言論の自由、思想・信条の自由に対するジャーナリストの姿勢も問題である。自由や平等を口にする時、何をもって自由とし、何をもって平等とするのかを明らかにするのは、言論人として当然の義務である。しかし、自分の定義ではなく、他人の定義や言葉を引用しながら、自分の立場を明らかにせず、自分に都合のいいように解釈する。一方で検閲を避難しながら、言葉狩りやメディアの力を借りて、反対意見の言動を検閲する。
 自由も平等も個人主義においては、自己を基礎とした概念である。基本は、自己概念であり、規制する側の問題ではない。同時に、放送局やメディアは、それ自体が一定の思想の基に成立しており、その機構を利用して表現をする社員は、母胎となる組織の論理を無視して表現をすることは許されない。
 テレビ局は、テレビが、視聴者に与える影響に対して、特に、子供達に与える影響に対して責任があるのである。俗に言う俗悪番組や幼児期におけるテレビの影響に対してテレビ局は、明確に規定があって叱るべきなのである。
 この様な自主規制と表現の自由とは矛盾しない。むしろ、テレビが視聴者に与える影響を無視して放送し続けることは、表現者が表現の自由を否定する事につながる。
 結局それは、テレビ局の自己正当化に過ぎない。

 世のため人のため、国のためと正々堂々と言える団塊の世代のジャーナリストがどれ程いるであろう。しかし、世のため、人のため、国のためにならないジャーナリズムとは何なのだろう。ならば、世のため、人のため、国のための堂々と言えないジャーナリストに何を期待すべきなのであろうか。それどころか、反社会、反国家、反倫理を標榜している者のお先棒担ぎや提灯持ちをするようでは、表現の自由、言論の自由どころではない。そこに、ジャーナリストの正義などかけらもない。世に阿っているに過ぎない。世のため人のため、国のためどころか、国家・社会を破滅に導いている。何を自分は、正しいとしているのか、それをハッキリさせなければ、それは、ジャーナリストにとって保身にすぎない。

 檻に入った虎をからかっても勇気があるとは言わない。

 世のため、人のため、国のためという言葉や礼儀・作法という言葉を生理的に受け付けない者までではじめている。その結果、挨拶もできない、敬語も使えない者を生み出している。その原因は、団塊の世代が受けた教育と団塊の世代か行っている教育にある。それでいて、最近の若い連中は、礼儀が悪いというのは、お門違いだ。自分達が種を蒔いたに過ぎない。

 世のため、人のため、国のためといっても国家に盲従しろと言っているのではない。最初から、反体制、反国家、反社会、反倫理的なのはおかしいと言っているのだ。また、放送局や学校に勤めている人間が、明らかにその会社や学校の方針に反することを、その組織を利用して発表したり、あるいは、教育の現場で教える事は許されないと言っているだけである。
 国をよくしよう、世の中をよくしよう、人の役に立とうと思うからこそ、苦しいことにも耐えられる。辛い仕事も引き受けられる。よくしようと思うから、反発も反対もする。その名分もある。自分のためだけに、やるのでは大義名分が立たない。金のためだけに働こうとしたら、何をやっても虚しいばかりである。なぜならば、人のためにするのは結局、自分のためになるのにたいし、自分のためにすることは、どこまでいっても自分のためにしか成らないからである。自分のためにすることが必ずしも世の為、人の為にならない。また、それが役に立っているか確認のしょうがない。自己は、間接的認識対象なのである。自分のためになることを知りたければ、世のため、人の為に働きかけなければならない。公議、正義は、自己善の反映に過ぎない。だからこそ、公議、正義に尽くすのは、自己の信念に依るのである。
 よくしたい、良くなりたいというのがなければ、何のために、自分達は働いているのかの意味を見失う。自分以外の何者かをよくしたいと思うから、自分が良くなるのである。家族の生活を良くしたいと思うから、国を良くしようと思うのである。良くしたいと思うから、何をしなければならないのかを見いだせる。良くしたいと思わなければ、何をして良いのか解らない。良くしたいというものがなければ、何をやっても無意味なのである。
 ライブドアのように、自分の我欲のままに行動し、一見成功しているように見える者も、引き籠もりやニートも、何ものかを良くしたいという気持ちを持たない点では根っ子は同じである。どちらも、良くなりたい、良くしようという発想がなく、無間地獄に堕ちていくしかないのである。何をやっても虚しい。
 それ以上に、最初から、世のため、人の為、国の為にならないことをしているのだと公言する者は、はじめから、論外である。へそ曲がりか天の邪鬼か、いずれにせよ、世をすねているに過ぎない。最初から投げやりで、どうでも良いと言っているようなものである。責任なんて求めようもない。常識や良識など頭からバカにしてしまっている。世の中や人の世を、国家を頭から否定していると言うより、自分自身を卑下し、自己を否定する以外のなにものでもない。それは、自滅的、自虐的、厭世的な姿勢である。自分も他も傷つけ、ボロボロにしてしまう。それらが、言論や教育を担っているとしたらゾッとする。ところが、人の世を否定し、国家を最初から否定する者が、知識人を自称している。彼等をジャーナリストが煽動する。自滅的で破滅的な生き方をしている者を褒めそやす。それもこれも、団塊の世代の革命幻想の為せる業である。国家は、自滅させ、破滅させたいのかと言いたくなる。

 法に違反していなければ何をしても許されると思っているのではないのか。野球を思えばいい。野球のルールを無視したからといって違法行為とは言えない。しかし、野球のルールを無視したら、野球はできない。組織には組織の、社会には社会のルールがある。礼儀や挨拶、その多くが形式である。しかし、団塊の世代の多くは、形式的なものを頭から否定してしまう。だから、段取りや手続きができなくなってしまっている。この弊害は、これから明らかになる。

 自分が勤めているテレビ局が暴力的な子供向け番組を作り、卑猥で、下品な番組を作っているのを抑制させることができず、なぜ、暴力を否定し、犯罪を糾弾できるのか。そう言う無節操さが問題なのである。自分だけは間違っていない。悪いのは、ちゃんと報道を受け取らない、理解できない、周囲の人間や社会の無知である。事部は間違っていないと自分を正当化していながら、それでいて自分の立場、考えを明らかにしない。そう言う態度は、卑怯である。

 団塊の世代が育った環境は、五十五年体制が固まり、旧体制が強固になっていった時代である反面、高度成長と急速に社会が変化していた時代である。
 だから、多少団塊の世代が暴れたところで大勢に影響を与えるほどには至らなかった。だから、終盤では、破れかぶれ、破壊活動がエスカレートする。その一方で、運動は四分五裂していったのである。

 そして、秩序、規律、礼儀、儀礼といった形式を憎んで破壊し尽くしたのである。それを今でもやっているのが、メディアであり、コメディアンである。彼等は、暴力的、自滅的である。それでありながら、オピニオンリーダーのを装う。良識を問うのである。笑止である。暴力的な人間が、非暴力や平和を説くのである。最初から矛盾している。

 規律や礼儀、つまりは、誇りの源を否定するのであるから、恥知らずである。厚顔無恥、恥知らずだからこそ、テレビで堂々と自説が語れるのである。彼等の行為は、場合によって犯罪すれすれであり、時には、犯罪者を英雄扱いすらしている。
 それが、裏社会を表の社会の中で認めてしまう原因となったのである。犯罪を美化し、裏社会を賛美する。しかし、それが、犯罪の凶悪化、若年化とは無関係だと言い張る。

 ハレンチという言葉は、市民権を得たのである。ハレンチ学園。ガキデカ。表の社会で堂々と認められたのである。そして、子供達の言葉の乱れの原因を自分達で作り出している。年端のいかない上品な女の子が聞くに堪えないような汚い口のきき方を平然とするようになってしまった。その一方で言葉狩りをする。言論弾圧である。ある種のファシズムである。それも闇からのファシズムである。反独裁主義の独裁者である。この様に団塊の世代の価値観は、矛盾と欺瞞に満ちている。

 明確な信念もなく、自己を正当化することばかりを繰り返しているのも、団塊の世代の悪癖である。
 団塊の世代は、自分達が何によって立っているのかそれを自覚すべきなのである。そして、我々が、自分達が次の世代、次の時代に責任を負っていることを自覚すべきなのである。

Since 2001.1.6
本ページの著作権は全て制作者の小谷野敬一郎に属しますので、一切の無断転載を禁じます。
The Copyright of these webpages including all the tables, figures and pictures belongs the author, Keiichirou Koyano.Don't reproduce any copyright withiout permission of the author.Thanks.

Copyright(C) 2001 Keiichirou Koyano

団塊の世代へ