長い間、精神という言葉は、禁句であった。そして、我々の次の世代にいたっていよいよ死語になりつつある。
 なぜ、精神とか、精神力という言葉が、禁句となったのか。それは、封建主義や軍国主義を連想させるからだそうだ。
 お陰で我々は、とにかく、精神という言葉を生理的に受け付けないように教育されてきた。逆に、確かに、我々の親父達の世代は、何でもかんでも精神、精神といっていたような気がする。それに対し、マスコミや教育者達は、何でもかんでも、精神論で片づけるのは、おかしいと言っていた気がする。
 精神という言葉と伴に、魂とか、心という言葉も失われてきた。仏作って魂入れずである。入魂どころか、魂そのものが、なくなってしまっている。魂の根源は、生命である。活力源である。だから、現代人は、生気のない人間が増えている。魂の抜け殻である。
 他に、精神という言葉と一緒に、葬り去られた言葉には、確か、歴史、伝統、しきたり、形式、姿勢。そうそう、最も目の敵にされた言葉、愛国心がある。
 精神言う言葉に代わって一時流行ったのが、根性という言葉。この言葉も最近、すたって、近頃は、気合いだ。気合いだみたい。だけど、根性も気合いも精神とは違う。精神というのは、もっと深遠な魂の憶測から響く言葉。だけど、魂がないのでは致し方ない。
 まあ、我々にも、責任がないわけではない。僕は、中学時代、柔道部に在籍したが、部活を風邪で休むなどと言ったら、先輩に精神がたるんでいるからだと言われて、一時間も正座させられたことがある。それで僕は、一片で嫌になった。それ以来、何でもかんでも精神論で片づけられたらたまらないと言い始めた。
 しかし、これなど極端な例だ。精神という言葉を悪用したに過ぎない。こんな事で非難される精神の方がいい迷惑である。
 こんな使い方をされたから、精神というと不合理で不条理なもの、非科学的なことだと思いこんでしまった。しかし、本来、精神は、肉体を前提とした言葉である。健全なる肉体に健全なる精神が宿るである。なんでもかんでも精神の責任にされて、病気までもが精神が悪いからだと言われ。だから、弛んでいるんだなんて、どやされたら、たまったもんではない。
 以前は、何でもかんでも精神、精神と精神面ばかり重視したきらいがあるが、今は、精神面を蔑視している。蔑視していると言うよりも嫌悪すらしている。結果、精神力という言葉は死語になった。言うなれば、余(日本人)の辞書に精神という言葉はない。
 こうなると極端である。もともと、精神という言葉は、肉体という言葉の対語である。肉体があって、精神がある。健全な肉体に、健全な精神が、宿るである。健全な肉体というと、障害者を差別するのかと揚げ足を取る人間がいるので、健全というのは、健やかと言う意味だといっておく。それで解らなければ、辞書を引いてくれ。
 とにかく、バランスをいっているのである。
 精神論に変わって、最近は、何でもかんでも愛だと言うようになった。だけど、その愛だってずいぶんご都合主義な気がする。不倫だ、失楽園だと自分の好き勝手な事して、それを愛だなんて勝手にこじつけている。愛の形にもいろいろあるみたいに。でも、それっていい訳というか、自分のやった事、刹那的な快楽を、誤魔化すために愛と言っているにすぎない気がする。魂のない、心のない愛なんてありはしない。
 精神という言葉をすたらせてしまったのは、現代人のどす黒い欲望です。自分の内側の闇の中に住む欲望を解き放つ、口実に、精神という言葉を葬り去った。そして、引っ張り出したのが愛という言葉です。愛という言葉の裏側にある愛欲という言葉を利用せんが為に、愛という言葉を悪用したのです。そして、己の弱さのいい訳にした。自分の過ちを正当化するために利用したのだ。
 愛には、もっと凛とした響きがある。愛という言葉から連想されるのは、本来、純真、無垢、純粋、無償、純潔といった言葉だ。その根本は、肉体ではなく、精神であり魂である。結局、愛も精神を言い換えたに過ぎない。
 以前は、よく基本精神という言葉が使われた。肝心なのは、基本精神だと・・・。己の心にやましいところがなければ、それが基本精神である。何ものも怖れることはない。基本の姿勢と基本の精神があって人は、逆境に耐えられるのである。辛い事、哀しい事、苦しい事のない人生なんてない。だから、自分の心持ち、基本精神が大切なのである。そして、その基本精神、魂を失った事に、今の日本人の不幸がある。
 そして、最後に、道徳という言葉が葬り去られようとしている。学校から、道徳の時間がなくなる一方で、バトルロワイヤルや一部のテレビゲームの中で、反道徳的な事がもてはやされる。意図的か、否かは、別にして、マスコミは、道徳を否定して、反倫理的な事を称揚する。道徳がしっかりしている時に、道徳の硬直化や教条化を防ぐためのアンチ命題として、反倫理的な事をあげるのは、それなりの意味がある。むろんそれにも自ずと節度が求められるが。道徳が崩壊の危機にある時に、反道徳的な事を言うのは、破滅的なことである。そして、ただ、面白いだけの人間が、もてはやされるようになる。絶対的な権力者を、揶揄して笑い飛ばすのは、勇気のあることである。しかし、闇の権力者が義人の行為を揶揄するのは、弾圧以外の何ものでもない。メディアは、今や権力者である。檻の中の虎を、からかったとしても勇気があるとは言わない。ただ、卑屈で心がいやしいだけだ。
 アメリカの大統領選挙が終わった。アメリカは、勝利宣言と敗北宣言で終わる。勝者も敗者も最後にゴット・ブレス・アメリカ(神よ、アメリカに栄光あれ)で締めくくる。日本人、特に、プレスの人間には、この部分をいつも見落とす。意識してか、していないかは別に。この短い言葉の中に、いくつかの精神が隠されている。一つは、神である。一つは、祖国である。そして、最後に、祈りである。この三つとも、日本に知識人には受けが悪い。特に、ニュース・キャスターと称する人種には。民主主義国にあってはならない、言葉に見えるようである。しかし、彼等以外の人間にとって、神と愛国心と祈りがなければ、道徳心を持ちようがないのであり。信用ならない人間に見えるのである。
 ゴット・ブレス・アメリカ。アメリカの政治家の演説に、この言葉が、出てこないと締まらない。なぜなら、これが、アメリカの精神であり、アメリカの魂であり、アメリカの良心だからである。

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