ここのところ、考えられないような初歩的なミスによる。重大事故が続いている。

 この様な事故に対するジャーナリストの論点は、共通している。安全性を犠牲にして、生産性や収益性を企業は追求している。
 そしてさらに、事故は、起こらないものであり、事故が起こったのは、人災であるという論法である。
 彼等の言い分を聞いていると、人間は、神の如き全能の力を、持っているかのごとくみえる。つまり、経営者は、あらゆる事態を予測し、それに対する手立てをしておくべきだ。そうでなければ、全ての責任は経営者にあると言わんばかりである。

 そして、事ある毎に社長を呼びだし、ただ、謝れである。誰に対し、なぜ、何のためにあやまらなければならないのか。そんなことはお構いなしに、ただ、謝れである。誰にか、被害者にか。被害者の気持ちなどお構いなしに、傍若無人な態度をとっているのだから、被害者ではなく、自分達と自分達の顧客に対して謝れと言っているのである。

 この様に企業過失に対して厳しい半面、ジャーナリストは、企業が破綻するのも生産性や収益性、効率性を追求してこなかった経営者の責任であるとするのである。要するにどちらに転んでもジャーナリストは正しい。悪いのは経営者である。そう言うことにしたいのである。

 事故が起こるたびに、安全性を軽視してきたのは、経営者である。全ては、経営者が悪いの大合唱である。

 いったい、この様に安全を軽視するような風潮は誰が作ってきたのか。安売りを奨励したのは、誰か。価格破壊者を英雄のように持ち上げたのは誰なのか。コストダウンを何よりも優先させたのは誰なのか。

 私は、経営者に責任がないと言っているのではない。経営者は、経営に全責任がある。だから、初歩的なミスで大惨事が起こったら、責任は免れない。しかし、一番問題なのは、考えられないような初歩的ミスで大惨事が起こっているという事実とその様な初歩的なミスを引き起こすような環境である。そこにメスを入れない限り、個人攻撃の域を出ないのである。ところが、ジャーナリストは、その点を棚上げにし、人のアラばかりを探している。

 人間は、ミスを犯すのである。しかし、最近のジャーナリストの意見を聞いていると人間は、ミスを起こさない者、起こしてはならない者のように決め付けている。そして、何か、災害があると、人災だ人災だと喚き立てて、誰かを犯人にしなければ気が済まない。責任者、責任者と言って何でもかんでもトップの性にしたがる。そのくせ、自分達、身内の不祥事には甘い。明らかに犯罪行為でもいつの間にか復帰を許している。

 子供によくない番組だと言っても、視聴率が良いから、人気者だからといって正当化する。要するに、彼等は、視聴率や人気があれば正しいのである。
 堀江の問題にしても、さんざん持ち上げていて、都合が悪くなると手のひらを返す。自分達の不明は棚に上げてである。

 自分は、豪邸に住み、庶民とは程遠い生活をしていながら、貧困を問題とし、弱者の味方であるポーズを取る。あるキャスターは、自分の国が攻められたら真っ先に、逃げ出すと広言していながら、為政者を批判する。自分は安全な所にいて、言動に責任を持たずに、人を誹謗中傷する。

 国を守ると言う事はどう言うことなのか。それは、愛する家族を守ることであり、故郷を守ることであり、友を守ることである。その本質を理解せずに、ただ、国を守ることは、軍国主義的だから、全体主義的だから、俺は嫌だというのは、あまりに幼稚であり、子供じみている。それが日本を代表するオピニオンリーダーだというのだから情けない。

 最近のジャーナリストは、自分の言動を巧妙に正当化する。
 多くのジャーナリストは、客観性を自分達の論拠・根拠だとする。自分は、客観的だという。中立的でなければならないと言う。しかし、その客観性というものが甚だ怪しい。
 第一に、その言い回しは、「・・・である。」であり、きわめて独断・主観的である。
 しかも、自分の主張を客観的としてくれるフォロー(第三者)がいない。ただ自分だけが自分は、客観的だと言っているのに過ぎない。
 その上で、自分の主張は、客観的という前提(独断)に基づいている。客観的だと言う前提、更に言えば、中立的だという立場が覆されたら、全てが論拠を失われる。それ自体が、もはや客観性を喪失していることに気が付いていない。
 そして、相手の意見は、独善(主観的)だという決めつける。(独断)つまり、自分の意見は、客観的で中立的だが、相手の意見は、主観的であり、偏見であると独断的に決め付けている。
 それらを前提として、賛否併論で自分の立場を曖昧にする。(自己の正当化・中立化)両者の意見を採り上げたことでで自分は、自分は、中立であることを装う。しかし、取り上げ方や、その後の発言には責任を持っていない。

 あるゲストコメンティターが経済の話をする際、自分がかつて、アメリカに留学していたときの話を持ち出して、
 「自分がアメリカにいた時、十年以上も前に習った。それを今問題にしているのは、欧米に比べて、十年以上も遅れている。」とコメントした。
 この発想は、二つの前提がなければ成り立たない。一つは、全てにおいて、欧米のものは、間違いがない。もう一つは、新しいものは、何でも優れている。つまり、西洋主義、進歩主義的な発想がなければ成り立たない。

 ジャーナリストは、自分の言動には責任を持たなければならない。少なくとも、自分の依って立つ立場、考え方は自覚している必要がある。間違っても、自分は、公平、公正、中立なのだなどと思ってはならない。人間は、中立的な立場、客観的な立場には立てない。特に、自己主張を前提としたジャーナリストは不可能である。ただ、客観的で中立的な立場に立とうという努力は、必要である。しかし、客観的で中立的な立場に立とうとするのと、自分は、客観的で、中立なのだというのとは違う。客観的で中立になれるのは、神のみである。自分は、公正、公平、客観的で、中立的だと主張しているジャーナリストがいれば、そのジャーナリストは、自分は神だと宣言しているようなものである。まあ、テレビキャスターの中には、自分は神だと思いこんでいる者もたくさんいるようだが。

 五月六日のNHKのニュースでレポーターが、イギリスの総選挙に絡んでブッシュ大統領とブレア首相が個人的関係でイラク戦争に加担し云々という発言があった。馬鹿げている。専制君主の時代ならばいざ知らず、民主主義国で、国家の首脳の個人的関係だけで、戦争や外交といった国の大事を決する国は何処にもない。これが、日本の国を代表する報道機関の実体である。

 今日のメディアは、自分で事件を起こしておいて、その事件をネタにして記事を書く。事件やみたいなところがある。俗に言う、マッチポンプなのだ。これでは、社会の指弾を浴びるのが当然である。言論の自由も危うくなる。言論の自由は、金儲けの手段のために、猥褻か否かを議論するような低俗な自由ではない。所詮、芸術論を闘わせたところで、やっていることは金儲けに過ぎない。それを視聴者は見抜いている。その為に、言論の自由が陳腐なものになってしまうのである。穿った見方をすると言論の自由を危うくすることで、体制に楯突いてるようですらある。自分の存在を誇示しているに過ぎない。目立ちたがり屋である。それを見た子供達が成人式で暴れる。それを記事にしてい儲けてる。だから事件屋なのである。
 言論の自由は、多くの言論人が命を賭して勝ち取った尊い権利である。それをジャーナリストの自己顕示欲のために汚されたらたまったものではない。

 テレビは、例外的な少年犯罪を取り上げて、全ての少年が凶悪化したかのように報道する反面、自分達が流す害毒については、例外的だと過小評価する。
 確かに、ここ十数年間の少年犯罪を見ると増加しているように見える。しかし、五十年前からのデータを見ると昭和二十年代から三十年代にかけてがピークであり、その後大幅に減少しているのである。(「グラフはこう読む!悪魔の技法」牧野武文著 三修社)

 同じデータでも読み方やデータの切り出し方で全然違うものになる。元々、客観的データなど眉唾(まゆつば)なのである。

 報道とは何か。報道における真実とは何か。それは、ジャーナリスト一人一人の使命感に関わる。反体制を気取り、無思想だと言って、正義感ぶったところで、自分の依って立つところすら明らかにできないのではなにをかいわんやである。

 人間は、ミスを犯すのである。人災、人災と言うが、これまで、災害を防ぐためにどれだけの人々の血の滲む努力があったことか。それでも、全く事故や被害者を出さないと言うわけにはいかない。第一、いくら警告しても、避難勧告を出してもきかない人間が居るのである。それでも、ジャーナリストは人災と書き立てる。それは、人間は、全知全能の神であるかの如き思い上がりに過ぎない。

 最近気になるのは、まるで、あたかも何も起こらないが当然であり、事故などありえない。人間は、全知全能の神の如き存在で、災害が起こるのは、何かの間違いだと言う風潮の中で、基本的な事すら守ろうという地道な努力まで怠るようになってきたことである。人は、全知全能の神ではない。人はミスを犯す。だから、こそ日々研鑽をして努力を怠らない。油断をしない。そう言う基本を忘れてしまいつつあることだ。自分達が守られてきたのを忘れて、自分で自分の身を護ろうともしなくなった。できなくなってしまった。飼い慣らされてしまったことである。
 基本的、モラルも技術も継承されていない。その原因をジャーナリスト達が作っている。

 人間は、ミスを犯す。しかし、現在起きている事故原因は、初歩的なミスによるものが多い。テレビニュースを見ていても初歩的なミスが連日起こっている。それなのに、ジャーナリスト達は、危機感すら持っていない。

 そして、我々を守ってきてくれた人達が現場を退いていった時、その時こそ人災が起こる。そして、その人災を引き起こした原因は、誰あろうジャーナリスト達なのである。しかし、その時彼等は、何というのであろうか。

 ジャーナリストの使命とは、同じような災害や事故を起こさせないことである。その為に、自分達は、何ができるか、何をしなければならないのか。それが重要なのである。自分達は安全な場所にいて人を責めたり、被災者を食い物にすることではないはずである。自分が言いたいことを言う前に、先ず、自分達は、何をなさなければならないのか。ジャーナリストは、そのことを深く自覚し、自戒すべきなのである。

 ジャーナリストが、自らの立場を公正、公平、中立、客観的だというのは、卑怯だ。ジャーナリストは、言論人である。言論人には、主張がある。主張がある限り、中立的な立場には立てない。言論人は、言論関して、常に当事者なのである。中立だという事は、最初から自分の責任を放擲することである。

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