コモンロー(慣習法・判例法)の世界と制定法の世界は、別の世界とも言える。少なくとも法に対する考え方が全く違う。そのことを認識しなければ、日本人は、欧米の対立点、問題点が理解できない。
制定法の世界では、法の背景は、契約である。それに対して、コモンローの世界では、法の背景は、神の啓示・意志、ないし、人民・国民の意志、自然法、真理である。このことが民主主義の本源を全く別の物にしている。
制定法とコモンローの違いは、発明と発見の違いでもある。つまり、制定法は、法を発明するのにたいし、コモンローは、法を発見するないし、顕現すると言うのに近い。
コモンローを土台としているのと成文法を土台にしているのとでは、話し合いの意味が違ってくる。つまり、コモンローにおける会議は、判例や慣習法、自然法を土台として議論によって民意・神の意志を顕現することに目的がある。それに対して、制定法は、話し合いによって契約を結ぶ事に目的がある。法の精神は、コモンローでは、民意、神の意志に従うことを意味し、制定法は、遵法自治にある。故に、民主主義の本質は、コモンローの世界では、民意、神の意志であり、制定法は、個人の意志を土台にした話し合いにある。コモンローの世界では、民主主義は、真のであり、民意であり、神の意志である。だから、民主主義という体制そのものが、宗教的な意味合いを持つ。それに対し、制定法の世界においては、民主主義は、合理的、個人主義的な体制である。
この様な背景をもって陪審制や人民裁判の意義を考えなければならない。ただ、形式だけを持ってきたとしても、裁判制度が有効に機能するわけではない。
制定法においては、あくまでも、決められた事を守ることが重要なのである。それに対し、コモンローの世界では、その社会を成立させている精神が重要なのである。しかも、必ずしもその精神は、成文化されているとは限らないのである。
この事を理解しないと、近代的合理精神は理解できない。特に、英米を中心とした民主主義とヨーロッパ大陸を中心とした民主主義の差が理解できない。
英米の考え方と大陸の考え方には、決定的な断絶がある。そして、それは、近代社会の断絶にも繋がっている。それは、あらゆる基準にまたがっている。法はその典型であるが、会計の世界、スポーツの世界にもこの断絶はある。この断絶を埋めているのは、相対主義である。
民主主義が極めて思想的であるのに、その根本となる思想書や理論書がないのは、言葉に対する基本的な懐疑が根底にあるからである。この点は、制定法的世界もコモンロー的世界も変わらない。
元々、科学とは、自分達の限界を前提として成り立っていたはずである。民主主義、とりわけ、法で言えば、言葉の限界を前提として成り立ってきたはずなのである。だから、科学にも民主主義にも聖典はない。聖典を拒絶してきたのである。それは、コモンローでも制定法でも同じである。しかし、コモンローの世界の方が、その精神を濃厚に持っていた。
日本においてこの前提すら失われようとしている。法やルールを絶対視し、それは、所与の真理だとして崇拝する傾向が高まっている。そして、法に携わるものの主たる仕事は、法の条文を解釈することであり、法を創作したり、締結するなどという事は以ての外だという考え方である。
それは、近代的民主主義精神に反していることに気が付いていない。
日本人は、制定法の世界、コモンローの世界とも断絶しつつある。それは、相対主義が形骸化しつつあるからである。
この様な違いは、会計学やスポーツの世界でも同様である。その結果、我が国は、国際社会の中で従属的な位置しか占められなくなる。賢者は、礼を定め、愚者は、礼に縛られるを我が国は地でいっているのである。
民主主義や科学は、法や法則によって行動や運動を規制する。しかし、法や法則を絶対化せず相対化することを前提としている。故に、法や法則を従う事ができる。法や法則の不条理が判明したら改めればいい。大切なのは、実体である。それが根本思想である。ところが、日本人は、法や法則を絶対化し、形式のみを重んじる傾向がある。実体が失われなければ、形式の意味は失われない。しかし、実体がなくなれば形式の意味は失われるのである。影は、実体があって生じる。実体がなければ、自ずと影は消えるのである。影ばかりを追って実体を見なければ本質は失われるのである。法の背後にある実体を理解せずに法の解釈やスポーツのルール、会計基準を検討するのは、影を見て、本体を見ないことである。
欧米の社会、民主主義の本質、会計学や科学を成立させているものを知るためには、その背後にある精神を理解しなければならない。