経済の現状

日本経済の現状について

経常、投資、資金繰り



はじめに

今、キャッシュフローは大流行であり、正規の財務諸表に加えられて久しい。しかし、その割に経営分析でキャッシュフローが有効だという話はあまり聞かない。キャッシュフローは、企業の実体を知る上の資料程度にしか考えられていない。キャッシュフローは、あまり経営分析に活用されていないように見える。
その原因は、企業は、利益を追求する事を目的としているという錯覚があるからのように思える。
民間企業は、市場経済に要、支柱である。この点を理解せずに経営分析をしても始まらない。企業は、なぜ、利益を上げなければならないのか。企業は、利益を上げる事を求められるが、利益は、企業目的ではない。利益は、企業目的を測る指標の一つに過ぎない。この点を正しく認識しておかなければ、経営分析は、意味を為さない。
企業の経営目的は、事業計画にある。つまり、どの様な働き、どの様な貢献を社会に与えるかである。次に、経営目的は、報酬を得る事にある。なぜならば、報酬を得る事で、それを費用として人々に分配還元する役割を果たせるからである。つまり、企業は、生産に関わった成果によって人々に成果物を分配する事が役割だからである。
そして、第三に、企業は、「お金」を循環させる役割があり、ここにキャッシュフローの働きがある。キャッシュを滞留させることなく、偏りなく、円滑に循環させるのが企業に重要な役割なのである。この点でキャッシュフローを見る必要がある。
四つ目に、企業は、付加価値を生みだす事が目的となる。この点が意外となおざりにされている。なおざりされていて、ただ、結果である利益ばかりが追求されている。それが企業経営のみならず、家計も、財政も逼迫させる原因となっているのである。
公共投資や公共事業は、付加価値を生まない事になっている。というより、付加価値を生まないように仕組まれている。公共機関は、非営利団体なのである。付加価値を生み出すのは、営利事業である。いくら公共投資をしても営利事業に還元されなければ付加価値は生まない。付加価値を生まなければ、市場の拡大、経済成長に結びつかない。単に資金移転に過ぎない。「お金」の動きには、付加価値を生み出す流れと単なる資金移転とがある。付加価値を生まなくても資金の動きは、資金繰りに重要な意味がある。
資金移転は主として貸借取引と資本取引による。貸借取引や資本取引は、ストックを形成する。ストックは、付加価値の元となる。故に、市場の表面に現れない「お金」の流れを掌握する必要があるのである。
経営の正しい役割を知る意味で「お金」の正しい働きを明らかにする必要がある。

利益を追求する事を卑しい行為としている限り、経済の効用は見えてこない。
一般政府の経済的効用を必要とするのならば、一般政府が上げるべき利益は何かを明らかにし、正当な費用を国民に要求できるような仕組みにすべきなのである。
一般政府を例外としている限り、国家全体の経済的効用を測る事はできない。

実際に経済を動かしているのは、「お金」の流れである。


市場を動かしているのは「お金」の循環である。

「お金」の循環は、水の循環によく似ている。
雨が大地に降って川となり、大海へと流れ込む。大海に流れ込んだ水は、また、雲となって湧きあがり、大地に雨を降らす。この循環が大地を潤し、多くの植物を育む。
ただ、大地は一様ではない。砂漠もあれば密林もある。氷の大地もある。それは、雨が降る量も時期も一様ではないからである。
資金の循環も同様に一様ではない。一様でないから雨の降らない不毛の大地もあれば、水資源に恵まれた豊かな大地もある。
水は時には、洪水や津波となって何もかも押し流していく。
水利は人類長年の知恵の結晶である。「お金」の流れも水の流れのように制御する事が難しい。
「お金」は、放置すれば均等一様に循環する物ではない。

世界の環境が一律一様でないように、世界の市場も一律一様ではない。密林のような市場もあれば、砂漠のような市場もある。それぞれの環境に適した対策を立てないと資金は、循環しなくなるのである。「お金」を循環する仕組みが正常に機能しなくなると市場経済は破綻する。これが市場経済の大原則、前提なのである。

貨幣価値は、債権と債務によって作られる。債権と債務は、支払いを準備する。

一般政府と発券機関(中央銀行)の役割は、「お金」を生産し、信用を供与する事である。「お金」を生産し、その流通量を制御する事で物価を安定させるのが一般政府と発券機関の使命である。
一般政府と発券機関の貸借によって資金は、生産される。

貸借によって無限に「お金」を生み出す事が可能だと主張する政治家がいる。確かに、貸し借りを通じて「お金」を無限に生み出す事は、可能である。だから、景気や財政は大丈夫、問題ないとするのがおかしいのである。
無限に「お金」を生み出す事が出来るから問題なのであり、大丈夫ではないのである。
貸し借りで生み出されたものは、市場に流通しなければ、金融機関に滞留して金融の働きの障害となる。それが問題なのである。
経済危機は、財政危機だけを意味しているのではない。財政は、デフォルトしないから大丈夫と言われても財政以外のところで深刻な問題が進行していたら、財政が破綻しないから大丈夫とは言えない。特に、現在の様な状態では、金融が機能しなくなる危険性が高いのである。
中央銀行がGDPと同じくらいの国債を保有していること自体異常であり、危機なのである。

市場経済の仕組みは、「お金」が循環する事によって機能している。市場が正常に機能する為には、市場は、「お金」に隅々まで満たされていなければならない。その上で、「お金」が流れる経路は通じていなければならない。「お金」は、分配の手段であるから、全体量は一定でなければならない。
同じ仕組みと言っても経済の仕組みは、電気機械の様な発散型ではない。故に、システムとしては閉じていなければならない。無限に「お金」が供給されたら物価は制御できなくなる。

物価、所得、金利、利益、税の配分と均衡の問題なのである。

資金を循環させ、市場を正常に機能させるためには、単なる資本移転と付加価値を生み出す資金の流れとを明確に区分する事が不可欠なのである。資本移転と単位期間内の資金の働きを区分する事で期間損益は成り立っている。

経済とは生きるための活動である。経済の仕組みの目的は、人々が生きていくために必要な物資を必要とする人に必要な時、必要なだけ供給、即ち分配する事である。その全段階として生産がある。つまり、経済は、生産から消費に至る過程だと言っていい。
そして、現代の貨幣経済を構成する主要要素は、人、物、金である。生きる為に資源を必要としているのは全ての人である。物とは、人が生きる為に必要とする財である。そして、人と財と間を仲介しているのが「お金」である。

経済の仕組みを動かしているのは、「お金」の流れである。「お金」の流れは、資金の過不足によって作られる。

「お金」は、いわばエネルギーである。一般にエネルギーは目に見えない。電気製品でも我々が普段目にしているのは、電気そのものではなく、電気によって動かされている機構、仕組み、装置である。経済の仕組みも経済を動かしている「お金」の動きや働きを直接目にする事はできない。我々が目にする事が出来るのは、経済を動かしている機構、装置であり、「お金」が流れ働いた痕跡である。
我々は、仕組みや痕跡から「お金」の働きを測り、その効果を認識するのである。

「お金」は、取引に依って市場に供給され、循環し、効力を発揮する。
外部取引は等価交換を前提として成り立ち、利益は、内部取引より生じる。
一般に取引と言うと「お金」の動きばかりを注目し、財の流れが見落とされる。その為に、双方向の働きが認識されない場合が多い。

経済の仕組みは、「お金」を循環させる事で成り立っている。「お金」の流れは、逆方向の財の流れを促す。つまり、「お金」の循環の背後には、逆方向の財の流れがある。この財の流れによって人々に生きていくために必要な資源が分配されるのである。
お金が回ることで、人々に生きていくために必要な資源は行渡るのである。満遍なく、資源が行渡るためには、予め人々に「お金」が分配されている必要がある。「お金」は、所得として人々に分配される。人々が所得を得るのは、生産手段による。生産手段には、労働と所有によるものがある。所有とは、権利を生み出す。所有には、無形な権利も含まれる。
所得は、支出を準備する。支出は、分配を実現する。即ち、財と「お金」の交換によって分配は、完了されるのである。
財と「お金」を交換する行為を通じて企業も、家計も、財政も、収入を受け、支出をする。この「お金」の出入りが経済の仕組みを動かしているのである。また、「お金」の流れは生産を促進する働きがある。
収益の中から人々の所得が分配される。「お金」は、市場から資源を調達する手段、権利を表しているのである。
お金は絶え間なく循環いする事で、格差の拡大を防いでいる。
「お金」が循環しなくなると、経済の仕組みは維持できなくなる。
経済を実際に動かしている部品は、経済主体である。経済主体には、政府主体、民間主体、海外主体がある。
民間主体には、民間企業と家計とがある。民間企業は、生産を担い、家計は消費を担う。
「お金」の流れが経済主体のどの部分にどの様な作用を与えるかを見極めないと経済の実相を掴む事は出来ない。

経済を動かしているのはお金の流れであるから、資金の流れの全体像を最初に掴んでおく必要がある。
市場における「お金」の流れは、売り買いと貸し借りによって作られる。売り買いは、分配を実現し、貸し借りは、資金の過不足を補う。
貨幣価値は、交換価値を数値として表した表象である。

「お金」の流れには、対価や反対給付を伴う「お金」の流れと対価や反対給付を伴わない「お金」の流れがある。
先ほど、「お金」の流れの反対方向に財やサービスを流す事で市場は機能していると言ったが、財やサービスに直接的に結びついていない「お金」の流れがある。それが貸借・資本取引である。貸借、資本取引は、財やサービスと直接結びつかない代わりに、債権と債務を生み出す。債権と債務がストックを形成するのである。
財やサービスを伴わない「お金」の流れが移転である。移転は、「お金」を循環させるために重要な役割を果たしている。
売買と貸借は表裏の関係にあり、同じくらいの働きを市場では果たしている。

移転とは、財やサービスを伴わない一方的な資金の流れである。反対給付や対価を伴わない収支である。移転には、経常移転と資本移転がある。
資金を循環させるためには、資金移転が重要な役割を果てしている。また、資金移転は、経済主体が経済活動を継続する上で不可欠な取引である。しかし、移転からは、付加価値は生じない。故に、損益上に表れてこない。その為に、移転による経済的動きが補足されないでいる。


企業法人統計

資金の流れには、経常収支上の流れと移転による流れがある。
移転による流れは、損益に影響しないが資金繰りに深刻な影響を及ぼす。
「お金」が回って入れさえいれば、赤字になっても経済主体は、経済活動を持続する事が出来る。
しかし、「お金」が回らなくなればいくら利益があっても経済活動を持続する事はできない。破産と言うのは、「お金」が回らなくなる事なのである。

その意味では、移転による資金の流れも損益以上に重要なのである。
しかし、資金の移転は、損益の表面に現れてこない。


企業法人統計


安定した収益が見込めなくなると収益の増加による資金繰りが期待できなくなる。
経済が成熟し、市場が拡大均衡から縮小均衡に向かうと成長による資金の獲得が期待できなくなる。

実質的な可処分所得を圧迫し、狭める。
所謂、金詰りである。
利益は上がっているが資金が回らない状態を引き起こす。

表に現れない資金の流れを見ずに、利益が上がっているから景気がいいと判断するのは早計なのである。



企業法人統計

有形固定資産と長期金融機関借入金の流れを見ると不動産業界にいかに巨額の資金が流れ込んだかがわかる。そして、その資金がバブルが崩壊すると一斉に引き揚げられたのである。

経済の仕組みを動かしているのは、「お金」である。しかし、「お金」の流れを見ただけでは経済の仕組みはわからない。それは、電気の流れを見ただけでは、どの様な仕組みで電気が活用されているのか、働きや機構、全体の仕組みが見えてこないのと同じである。
「お金」の働きを単位期間の損益に表す事で、明らかにしようとするのが複式簿記であり、会計である。ただ、会計だけでは、資金の流れが見えてこない。そこで考えられたのがキャッシュフローである。キャッシュフローは現金収支の側から経済の仕組みや働きを解明しようとする手段である。

キャッシュフローは、現金収支から「お金」の働きを評価する手段であるが、キャッシュフローによっても見えてこない「お金」の働きがある。そして表に現れてこない資金の流れや働きにこそ経済問題を解く鍵が隠されているのである。

資金が市場に循環する事で市場は動いている。故に、市場に資金を循環させなければならない。
市場資金を循環させている主体は何か。市場に資金を循環させているのは、人である。
最終的に資金を循環させているのは人である。
なぜなら、人は、生産者と消費者を兼ねているからである。つまり、人は、生産と言う入り口と消費と言う出口を担っているからである。
労働と言う生産手段を所得に変換し、消費に支出を変換する事で資金の循環を担っている。
生産は、労働力と資本を投入する事で成立する。人は、労働力と言う生産手段を提供する事で所得をえる。所得によって手に入れた「お金」を支出する事で財を消費する。生産と消費を人と言う同一主体が担う事で、「お金」は、循環する。「お金」が効率よく循環する為には、生産と所得、所得と支出が均衡しているかどうかにかかっている。
ただ、問題なのは、生産者と消費者は同一ではなく、所得と支出も同一ではないという点である。
生産年齢人口と消費者、即ち、全人口は一致していない。つまり、限られた人工で所得を分配し、全人口の支出に応えるという図式になるのである。生産年齢人口が偏っている分、所得にも偏りが生じる。それが支出や消費の変更や格差の原因となる。
また、生産された物がすべて消費されるわけではなく、所得の全てが支出されるわけではない。生産されたもので消費されなかったものは、余りとなる。所得の中で支出されなかった部分は、貯金となる。
また、物を消費した後の余りとお金を支出した後の残高とは、同じ性格のものではないという事である。物を消費した後の余りは、一般に不要なものであるが、お金を使った後の残金は、有用な物である。これが重要なのである。
物は、生産から消費へと直線的に流れるのに対して、「お金」は、所得と支出によって循環している。
つまり、物の流れは直線運動であるのに対して、「お金」の流れは回転運動である。
物の流れと「お金」の流れの違いによって市場の仕組みに一定の負荷がかかる事になる。
貯蓄された資金は、投資され資本や負債となってストックを形成する。

飛行機の軌跡から飛行機のしくみを明らかにするのは難しい。経済も同じである。景気の動向を制御したければ市場の仕組みを理解しなければならない。市場の仕組みを知るためには、単に、景気の動向の軌跡ばかりを追っても明らかにはできない。
個々の要素の相互関係や、市場の構造に目を向ける必要がある。


経済の仕組みを動かすアルゴリズム



経済とは生きる為の活動である。
故に、経済とは、人を生かすための仕組みである。人を生かすための仕組みは、使い方を間違えば人を殺す仕組みに変質する。
人を生かすための仕組みの目的とは、国民が生きていくために必要な財を生産し、あるいは、調達して国民に遍く配分する為の仕組みである。
経済の仕組みの目標は、必要な資源を必要とする人に必要なだけ、提供する事である。

経済の仕組みは、家計、非金融法人企業、財政、対家計非営利団体、金融、海外部門の六つ部門から構成される。対家計営利団体は、その性格や規模から財政の一部としてみなしてもいい。故に、一般の考察においては、家計、非金融企業法人、財政、金融、海外部門の五つとする場合が多い。経済には、生産、分配、消費の三つの場がある。三つの場は、独立していて固有の原則が働いている。そして、この三つの場を結び付けているのが、人、物、「お金」の働きである。

経済の仕組みの効率性を考える時、経済性の概念が重要となる。経済性は、経済効率を表す概念だが、経済効率は、生産効率だけを意味する概念ではない。経済効率には、分配効率や、消費効率もある。
経済性を表す言葉に「もったいない」とか、節約とか、倹約と言う言葉があるが、これらの言葉は生産効率と言うより、消費効率を意味している要素が強いと思われる。公平、公正と言う言葉は分配効率を意味している。
経済性と言うのは、生産効率だけでなく、分配の効率と、消費の効率の相互作用から複合的に求められる概念なのである。
つまり、生産、分配、消費において最小の資源で最大の効用を引き出す事である。生産効率は、最小の資源において最大の財を生産する事であり、分配の効率は、最小の資源によって最大の所得を得る事、消費の効率は、最小の支出によって最大の効用を引き出す事である。生産、分配、消費の効率を均衡させる点や範囲が経済性の指標となるのである。

経済は、財を生産し、消費者へ分配する仕組みである。
経済の仕組みを明らかにするためには、経済の仕組みの構造を明らかにし、仕組みを構成する要素の働きを理解する必要がある。経済の仕組みには、大きく分けて売買と貸借からなる。売買は、財と「お金」の交換によって取引を成立させる場と資金の過不足を補って支払いを準備する場である。

経済の仕組みを動かしているのは、「お金」の流れである。
「お金」の流れには、物と財との交換によって分配を実現する流れと貸し借りなどによって資金の不足を補い支払いを準備する二つの流れが存在する。前者を収支、後者を移転と言う。
「お金」の流れは、経常収支と移転からなる。経常収支は、フローとなり、移転は、ストックとなる。
「お金」の働きを監視する為には、経常収支と移転の関係を明らかにし、相互作用を知る必要がある。
「お金」の本来の役割は、分配の手段であり、財と「お金」とを交換する事によって生産財を消費者に分配する事である。このような「お金」の働きを実現する為には、消費者に予め「お金」を配分しておく必要がある。
支払準備のために、「お金」を資金不足主体に融通する事を資金移転と言う。資金移転は、対価を伴わない一方的な取引を言う。故に、移転が成立した場合、同量で相互に反対方向の債権と債務と言う関係を生む。

移転には、経常移転と移転がある。
資金移転は、損益の表面に現れてこないが、経済を裏で動かしているのは、移転が引き起こす資金の流れである。
金融機関は、移転を司る期間である。故に、損益の表面には現れてこない。損益の表面に現れるのは金利である。しかし、経営を行き詰まらせるのは、資金繰り、即ち移転である。この点をよく理解しないと金融機関の働きを理解する事はできない。

貸付金や借入金は、移転であり、元本の移動は、損益上には、計上されない。
つまり、損益には影響しない。しかし、資金繰りには深刻な影響を及ぼす。経済主体の持続性は、資金繰りによって決まる。黒字倒産などが起こる原因は、損益上は利益が出ていても資金繰りに行き詰まるからである。

基本的には、「お金」は、交換を前提としたものである。その為の支払準備として所得が、労働力など生産手段に対する対価の対価として家計に配分される。
故に、経済の仕組みを成り立たせるための核となる要素は、所得である。

市場は取引の場、人、物、金が交錯する場である。
市場を形成するのは消費者である。

所得は、報酬と言う側面だけでなく、費用や生活費、評価という側面がある。
「お金」は、使えば減り、補充しなければ生活が維持できなくなる。それが「お金」を循環させると同時に国民から生産手段を提供させる動機となるのである。「お金」の流れによって家計からは、労働力や資本が提供され、企業は、提供された資源によって財を生産し、それを家計に販売する事で、生産と消費との整合性を保っているのである。
売買取引は、「お金」と財との交換を促して、分配を実現させる。
不足した資金は、貰うか、借りるか、働いて得るかによって補われる。
収益と費用は、「お金」の働きを表しているが、「お金」の流れを表しているわけではない。
市場の表面には現れないが、市場を動かしために決定的な働きをしているのが資金移転である。資金移転は、資金需給として捉えられる。
ただ、資金移転が収益や費用として会計上に計上されないため、動きがつかみにくいのである。
特に、貸借・資本取引による資金の動きは、損益上は計上されない。しかし、資金の流れにおいてこの資金移動が占める割合は大きいのである。

国民経済計算書では、総産出は、フローである売上を、総資産は、ストックである総資本・総資産を表している。
第二次石油危機の時は、1対5の比率だったフローとストックの比率がバブル崩壊後は1対10にまで拡大したのがわかる。この変化が、金利を圧迫している要因だと思われる。

また、付加価値係数=中間投入係数(列)計という等式が成り立つとされている。
総産出-中間投入=付加価値とされるから、付加価値は、総産出の半分とみていい。
大体、中間投入係数は、50%とされるが、生産効率や中間投入の構造の変化によって幾分かの誤差が生じる。
総資産、総産出、付加価値(中間投入、総生産、総所得、総支出)、雇用者報酬の関係を見ると経済の大枠が見えてくる。


国民経済計算書


フローは、ストックを土台として成り立っている。ストックとフローは、密接に結びついている。
物価、金利、所得の変化は、相互に連動している。それは、フローの基礎となるストックの力関係にフローが影響されるからである。
フローを構成しているのは、人件費、償却費、支払金利、税金、地代家賃、利益(営業余剰)、運転資本である。
これらの分母となっているのが、粗利益(分配率)、投資額、純利益、負債、収益である。

負債、収益が占める割合に対して負債に対して支払金利がどれくらいか、即ち、金利、収益と利益と費用(人件費)の割合、そして、過去の投資に対する回収率がどうかがその相互の割合によって経済は制約を受けるのである。
所得(人件費)と利息、そして、資金需給が営業キャッシュフローの範囲に収まっているか否かである。それが水平方向の均衡を意味し、人件費と粗利益の比率、運転資本と現金収支との割合、投資と収益と返済額の割合、関係、そして、資金需給と負債残高の関係等が経済の状態を現わしている。収益は、物価に連動しているから、物価、所得、負債の関係が鍵を握っているのである。

注意しなければならないのは、資金移転は損益に計上されないという事である。その為に、期間損益では資金移動による現金の収支が補足されにくい。
また、家計や財政でも貸借のような資金移転は、補足しにくい。例えば、可処分所得に占める借入金の返済と言った固定的、経常的な資金移転がフローに及ぼす影響である。負債を重ねれば、可処分所得の幅が狭くなり、最悪の場合「お金」が流れなくなる。家計でいえば、ローンの支払いに追われて日常的な生活費に「お金」が回らないような状態である。高利から借金をして補おうとすれば、所謂サラ金地獄に陥る。この点は財政も同じである。「お金」を刷れば問題ないとするのは、フローとストック関係、また、資金の流通量の管理を考えていない証拠である。

「お金」の働きで注意しなければならないのは、経常収入と資金移転の関係である。経常収入が不安定であったり、中断されると借金の返済などの資金移転が滞る事になる。実際の「お金」の働きで損益に計上されないこの資金移転の働きが景気に決定的な影響を与えているのである。バブル崩壊後の実感なき好景気は、見かけ上の利益が上がっていても実際には、市場に資金が供給されていない事に原因がある。

資金移転による資金の流れは、経済の成長拡大とともに増加し、フローに対して決定的な働きをする。血栓の様に「お金」の流れる道を詰まらせてしまうからである。資金移転によって「お金」が詰まらないようにする為には、ストックの管理が重要なのである。

経済の仕組みは全体と部分から成る。
経済の仕組みは、人、物、「お金」の三つの要素からなる。
人、物、「お金」は、それぞれ独立した空間、場を構成する。
また、経済的働きによって生産、分配、消費、貯蓄の場を構成する。
そして、貸借取引・資本取引に依って資金の過不足を補い、資金を循環させる場が金融市場である。

経済の仕組みは、相互牽制によって成り立っている。基本的に三つの要素の関係、働きによって経済の仕組みは制御されている。なぜならば、一つの要素では、相互牽制が働かないし、二つの要素では分裂し、あるいは偏りが派生するからである。要するに、三すくみの状態が最も相互牽制が働くのである。
三つ以上になると力が分散し、均衡を保つ事が難しくなる。

経済の相互牽制作用は、三つ要素の関係を基礎として働いていると言っていい。
牽制装置は幾層にも重なり合って更に相互牽制が働いている。
例えば、物価と収益、所得の関係、家計、企業、財政の三つの部門の関係である。
物価、収益、所得の関係は、金利と税、為替の影響によって変化する。
家計や企業、財政の均衡は、金融と海外部門の働きによって変化する。
有名なのは、マンデルフレミングの法則である。マンデル・フレミングの法則は、為替と経済政策、資本移動が相互牽制の関係にある事を表している。
相互牽制の働きは、部分だけを見ていてはわからない。相互牽制の働きを明らかにするためには、全体の関係と働き、変化を正しく観察する必要がある。

生産、分配、消費は、各々固有の場を形成する。各々の場に働く原理や目的はは独立しており、直接他の場には働かない。生産、分配、消費を結び付けているのは、人・物・金であり、それぞれの場の境界性には、市場が形成される。

生産の場、分配の場、消費の場は、近代の市場経済では明確に分離し、独立している。しかし、この事を明確に、かつ、正確に認識されていない。そのために経済政策が生産、分配、消費が未分化に混在する事になる。

生産、分配、消費は、経済活動の目的が違う。生産は、国民が必要とする財を必要とされる時に必要なだけ生産する事が目的である。それに対して、分配は、国民すべてが生きていくために必要なだけの生産財を市場から購入できるだけの所得を満遍なく配分する事が目的である。
消費は、生きていくために必要な資源を効率的に活用する事が目的となる。
生産に要求される効率とは、最小の資源で最大の効率を引き出す事であり、分配で問題となるのは、平均と分散は、幅の関係である。

生産のアルゴリズムで問題とされるのは、いかに生産手段を構築するか。どの様に生産手段(設備、労働力、資金、原材料)を組み合わせて財を生産するか。どの様にして原材料を加工、変形、組み立てるか。いかにして収益を測るか。利益を最大化する為には、どうすべきか。利益の最大化は、収益の拡大と費用を削減を意味する。
分配のアルゴリズムで問題とされるのは、所得の配分にどの様な手段を用いるか。生活していくうえで、必要な所得はどれくらいか。所得(経常的収入)をどの様にして維持するか。所得の偏りをどの様にして是正するか等である。所得源をいかに増やすか。
消費のアルゴリズムは、生活設計や人生設計に立脚した支出項目のウェイト付け、順序付けが基本である。より良い生活をするためには、支出の対象をどの様に構成したらいいのか。収入が減少して来たら、何から減らすか。住宅を買った方が得か、借りた方が得か。その根拠は家計簿にある。
また、一般政府は、どの様な災害に備えておくべきか、社会資本を何から構築すべきかといった国家構想、理念が基礎となる。

要するに、生産の場、分配の場、消費の場を動かす力の源が違うのである。


内閣府 国民経済計算書

売上・収益が伸びても所得が増えなければ、経済成長は望めない。所得は費用でもある。収益に占める所得の割合が問題となる。所得は、支出の原資である。支出は、物価を構成する。
生産の効率を上げて経費を削減すれば所得の減少を招く恐れがある。所得が上昇すると売り上げを押し上げ物価の上昇を招く恐れがある。物価の低下は、収益を圧迫して個人所得の減少を促す危険性がある。
生産、分配、消費を構成する要素の、何が何に対してどの様な働きをするか、相関関係にあるかを、明らかにする必要がある。
消費の場は、生活の場である。消費の場の核は、家計であり、家計が経済の最小的な原単位である。
所得は、一般に経常的収入を形成する。経常的な収入は、消費の場では、生活費の原資である。生活費の構造は、生きる為の活動の消費構造を意味している。
この様に、個人の働きは、生産、分配、消費の場で違ってくる。

経済は、生産、分配、消費、貯蓄と言う過程がある。
経済の仕組みの問題は、生産と分配、消費をいかに関連付けその整合性を保つかの問題である。
生産、分配、消費は、各々固有の場を持ち独立した構造をしている。
これらの場と構造を結び付けているのが人、物、「お金」である。
つまり、水平方向に生産、分配、消費の場が繋がり。垂直方向に人、物、「お金」の場が重なっているのである。

経済主体の最小単位は、個人である。個人は、集合して組織を形成する。国民経済計算書では、組織は、働きによって、家計、非金融法人、金融法人、財政、対家計非営利団体、海外の六つの部門に分類する。個人は、必要に応じて複数の組織、部門に所属する事が可能である。
ただし、個人は、いずれかの家計に所属しなければならない。
家計は、消費単位であり、経済の仕組みの基本単位を構成する。

経済の基礎は、生活の場にあり、家計が経済の基礎単位となる。家計は、他の部門に労働力を提供する事で所得を得る。その所得が経済の根源を形成する。

間違ってはいけないのは、経済の最終的拠点、目標は、企業でも、財政でも、金融でも、海外でもなく家計である。なぜならば、いずれかの家計に、全ての人間は所属しなければならないからである。

人と経済の関係は、労働と消費によって形成される。家計部門の核となり、家計は、消費主体である。
家計部門の投資は、消費を前提とした住宅投資である。
物と経済の関係は、物を生産し、仕事を作る事で成り立つ。不足する資源を海外から調達する。その為に余剰な財を海外に売って外貨を調達する。民間企業が核となり、民間企業は、生産主体である。
企業の投資は、生産手段に対する設備投資である。
「お金」と経済の関係は、「お金」は、人と物、生産と消費の間を仲介する事で、財を分配する事にある。金融は、金融部門の核となり、金融部門は、市場取引の鏡となる。
金融機関の投資は、資金の過不足を補うための金融投資である。
財政は、生産主体と消費主体を兼ねる事で市場の歪、偏りを調節する。また、財政は、国債を通じて金融と実物経済との懸け橋にもなっている。
財政の投資は、社会資本の形成と所得の再配分を目的とした公共投資である。
これが、人と物と「お金」の基本的関係と働きである。

人、物、「お金」には、それぞのの動き、流れがある。その流れをアルゴリズムにする。
先ず、全体像を鳥瞰する。現代の経済は、自由主義経済である。自由主義経済のインフラストラクチャーは、市場経済、貨幣経済、会計制度である。

市場経済は、経済主体と市場からなる。経済主体は、個人と組織からなる。現代経済は、組織と市場が組み合わさった構造体である。

注意すべきなのは、生産のアルゴリズムと分配のアルゴリズムは、別のものだという事である。生産のアルゴリズムの構成と分配のアルゴリズムの構成は違う。それを一体にするからそれぞれの働きが正常に機能しなくなる。また、全体との整合性も失われ、暴走したり、崩壊するのである。

生産を効率化したり、促す原理と、財を偏りなく、遍く分配する原理とは別の原理である。生産の原理と分配の原理の均衡をいかに保ち、市場の原理の整合性を保つかが、一般政府の一番の役割である。故に、財政機能の第一に挙げられるのが所得の再配分なのである。

生産と分配の違いは、社会資本の整備と社会保障、所得の再配分の違いにも通じる部分がある。

また、経済や市場の状態は、発展段階によって変質する。生産を重視する段階か、分配を重視する段階か、消費を重視する段階かによって市場の状況も違ってくる。
市場や産業が生成発展期では、生産が追い付かずに財が不足し、また、所得も上昇している場合が多い。それに対して市場が成熟し飽和段階に入ってくると、成長よりも分配を重視する政策をとる必要がある。量から質への転換が求められるのである。
この様に経済の発展段階では、生産の場や分配の場、消費の場に質的な変化が表れる。この質的な変化に適合するような政策をその時点その時点でとる必要がある。

現代経済の矛盾は、生産のみに重きを置いて分配を忘れている事である。分配で問題とされるのは、せいぜい言って失業程度である。しかし、失業は、結果に過ぎない。問題は、失業が起こる構造、メカニズムであって、仕組みを変えない限り、失業問題は解決できない。
留意すべきなのは、生産性をいくら上げても分配の効率は上がらないという点である。

生産が効率化されればされるほど、合理化されればされるほど、無人化されれば、分配の仕組みが問われるのである。全ての国民に高度技術高能力を要求するのは馬鹿げている。単純反復肉体労働を得意とする者がいるのである。
大切なのは、国民すべてに所得を得る手段を等しく与える事なのである。それが分配のアルゴリズムである。この分配の仕組みと生産の仕組みは同じものではない。生産と分配は、違う法則によって動いている。

市場を形成するのは、消費者である事を忘れてはならない。市場では、「お金」を所持していなければ消費者になれない。いかにして全ての国民に遍く、「お金」を配分するか、その手段と経路が経済を決するのである。

所得、収益、消費の関係が経済の状態を定める。
所得と収益と物価の水準を均衡させようとする働きによって市場は制御されている。

財の生産、そして、雇用、生活設計をいかに均衡させるか。その相互作用によって景気の動向は、左右されるのである。そして、投資と経常収支の関係がストックとフローの関係を制約するのである。投資は経常収支に反映され、経常収支によって投資された資金は、回収される。
消費の傾向は、収益を変化させ、産業構造を枠組みを変えていく。市場を構成する人的要素、物的要素は有限であるのに対して貨幣的要素には限りがない。この様な市場は、需給関係によって制御されている。


国民経済計算書




経済を測る指針は、生産の局面から国民が生活する為に必要最低限の資源が確保されているか。分配の局面から、国民が生活に必要な資源を手に入れらるように所得が配分されているか。消費の局面から国民生活の水準は維持されているかである。故に、生産の指針として収益、GDP。分配の局面から所得の平均と分散、最小値。消費の局面から物価水準である。そして、景気の動向は、収益、所得、物価の均衡と方向から求められる。

総生産、所得、物価が不均衡になると経済は不安定となり、昂じると経済は破綻するのである。

初期設定のアルゴリズム



物事には、始まりがあり、順序があり、手順がある。その物事の順序、手順をアルゴリズムと言う。
始まりは、初期条件、初期設定、開始の前提となる。初期条件が満たされなければ何も始まらない。

基本的には、全ての初期条件は、零に設定されていると想定する。
全てがゼロであるから、先ず場を設定する必要がある。
次に、プレイヤー、主体を設定する。
大前提は、基本的思想は、個人主義とする。
個人主義社会では、全ての始点は、自己であり、自己を客体化した個人である。

経済は主体の初期設定は、零である。つまり、無一物である。
経済主体が経済活動をするためには、「お金」を先ず調達する事が求められる。これが前提となる。

市場経済では、全て主体の行為は、資金調達から始まる。資金調達の手段は、所有物を売る。他者から借りる。貰うかである。

市場経済は、カジノに似ている。市場は、取引によって成立している。市場では、「お金」がなければ取引に参加できない。
カジノでは、手持ち資金をチップに両替する事でゲームに参加する権利を得る。
同様に、市場経済では、「最初にお金」を手に入れる事が必要条件となる。

「お金」のアルゴリズムは、少し複雑である。まず「お金」を金融機関が生産する必要がある。生産した「お金」を経済主体に貸し出す事によって供給する。「お金」を手に入れた経済主体は、市場取引に依って市場から生きていくために必要な資源を手に入れる。

現在の経済では「お金」の動きが鍵を握っている。

現代経済の仕組みを動かしているのは、「お金」である。「お金」といっても現在の「お金」の主たる部分は表象貨幣、即ち紙幣が占めている。故に、現在「お金」と言った場合、表象貨幣を指していると言っていい。

現在の経済の仕組みを制御する為には、経済を動かしている「お金」の貨幣経済の仕組みを知る必要がある。
貨幣経済の仕組みを知るためには、「お金」の生成アルゴリズムを明らかにする必要がある。

現実の「お金」は、歴史的産物であり、各々の通貨が成立する過程は、一定ではない。ただ、紙幣が成立する為の、要件、アルゴリズムには一定の法則がなければ成り立たない。それは紙幣は一定の共通した要件を満たす必要があるからである。
紙幣は、象徴(名目性)、交換(取引)、信用、価値の尺度(市場価値の確定)、名目的価値の不変性(価値の保存)、支払準備、匿名性、数値情報の八つの要件を満たさなければならない。
「お金」は、分配の手段である。
「お金」は、循環する事によって効力を発揮する。翻っていうと循環させる必要があるという事である。
紙幣は、貸借によって成立し、売買によって実現する。
交換が意味するのは、貨幣の働きが双方向性を持つという点である。

この様な紙幣は、第一段階として紙幣の生成、第二段階として紙幣の信認を確立させ、第三段階として紙幣を流通させ、第四段階として紙幣を循環させ、第五段階として紙幣の流通量の上限を制約すると言う五段階によって市場に浸透させる事が出来る。

交換価値の象徴である「お金」は、貸借取引によって生み出される。直接物と物とが交換できるならば「お金」は必要とされない。「お金」が必要とされるのは、物と物との間に貸し借りが介在するからである。
「お金」は、象徴的行為、手続きによって生産される。その行為は、貸借取引を象徴している。
貸し借りにせよ、売り買いにせよ、市場取引は、単体では成り立たない。何らかの相手が必要とされる。取引主体と取引相手との間の反対取引に依って市場は成り立っている。
これは、「お金」を生産する上で重要な要素となる。そこに金融機関の本質的役割がある。金融機関は、市場取引の鏡なのである。

金融機関のアルゴリズムは、貨幣の創造だけでなく。信用を創造する過程でもある。


日本銀行


まず「お金」を生み出し、社会に承認させ、市場に供給させ、流通させる必要がある。
「お金」の価値は、交換価値である。
今日の「お金」には、実体はない、交換と言う働きに価値がある。「お金」の働きは、生産でも消費でもない。交換なのである。

「お金」は観念的所産である。つまり、人間の意識が生み出したものである。「お金」は、合意によって成り立つ。故に、「お金」は、信認がなければ成立しない。
「お金」の価値は認識の問題であって存在の問題ではない。故に、相対的なのである。

「お金」は、象徴であり、情報である。
「お金」は、あなたが「お金」だというから「お金」なのである。ある意味で「お金」は錯覚の所産である。
「お金」は、市場で信認されてはじめて効力を発揮する。紙幣は、市場の信用によって成立する。
信用は、仕組みによって作られる。それが信用制度である。

また、「お金」は、取引によって成立している。「お金」は、使わなければ効用は発揮できない。
交換を基本とする「お金」は、単独では成立しない。故に、紙幣を成立させる為には、単一機関では不可能である。行政府だけでは、紙幣は、発行できない。故に、紙幣を成立させる為には、政府とは別に独立した機関がなければならない。

貨幣制度の基礎は債権と債務の関係によって成り立っている。つまり、「お金」は債権であり債務、その根底にあるのは、貸し借りなのである。紙幣自体が債権証書、債券が発展したものである。
つまり、紙幣の発行は、負債の増加、ストックの増加を意味する。この点を理解しないと国債と紙幣の関係は理解できない。フローは、売買によって成立する。「お金」の働きは、売買によって発揮される。即ち、「お金」の効用は、売買取引によって実現する。この貸借と売買取引の関係から、フローとストックの働きは形成される。
ストックは、フローとの均衡によって安定する。ストックの拡大は、フローを圧迫する。

紙幣は、政府と発券機関(中央銀行)との貸し借りから始まる。貸し借りは、債権と債務を生み出す。債権と債務の証券が国債と紙幣の本となるのである。
紙幣の始まりは、国が国家資産と徴税権を担保として国債を発行し、金融機関から紙幣を借り、公共投資や行政費用として使用する。中央銀行は、金等の実物資産を担保に紙幣を発行し、金融機関に貸し出す。金融機関は、最初は何らかの資産を担保に紙幣を借りる。金融機関は、政府からは徴税権や国家資産を担保に。民間企業に対しては資産か、将来の収益を担保として資金を貸し出す。
政府と発券機関との関係は、発券機関は、自らの信用によって紙幣を発券し、貨幣の価値は政府が保証するという関係である。故に、貨幣の流通に対して、翻っていうと物価に対して発券機関は責任をもつ。
政府と発券機関の間で直接的な交換をしているだけでは、紙幣は、市場の信認を受ける事が出来ない。発券機関以外の金融機関が介在する事によって紙幣は、市場の信認を取り付ける事が出来る。
金融機関から政府や家計、民間企業などに「お金」が貸し出され、貸し出された「お金」と財とが交換(譲渡)、即ち、売買が成立した時、「お金」の効力は発行する。売買取引を完了させる事を決済とする。つまり、「お金」は、売買取引に依って決済の機能が付与されるのである。

一つ重要なのは、交換価値は、市場取引に依って確定する相対的な値である。故に、交換価値は、変動する。つまり、変数である。

「お金」は、税金によって循環する。納税を金納にする事によって「お金」の価値と働きは、政府によって信認され、保証される。納税期間が一定化させることで、「お金」の単位期間が画定され、「お金」に時間価値が付与される。

次に「お金」の信用を確立する。「お金」の信用は、初期の段階では、金の様な何らかの資産によって保証される。それが兌換紙幣である。しかし、実物による保証は、市場の拡大に伴って限界に達する。一定程度経済規模に至ったら実物による保証から発券量による管理へと切り替える。それが管理通貨制度である。
管理通貨制度は、基本的に相互保証制度によって成り立っている。
経済主体間が相互に保証し、牽制し合う事で、市場規模は抑制され、経済は、制御されるのである。相互けん制機能が働かなくなったら仕組みそのものが成り立たなくなる。経済は、双方向の働きがあるから相互牽制がきくのであり、単一方向の作用しか働かなくなったら仕組みそのものを維持する事が出来なくなる。

「お金」は、媒体であって「お金」の量の変化によって経済の実体的な部分は動いているわけではない。「お金」の流通量を増やせば見かけ上は、変わるかもしれないが、景気の実体がよくなるわけではない。価格は、物と「お金」の需給によって決まる。「お金」の流通量は価格を決める時の基準となる。しかし、それは尺度の問題であって実体の問題ではない。供給量を調節すれば価格は上下するが、それによって経済の実体が変わるわけではない。

国家が無制限に「お金」を発行していったら何時かは「お金」の働きを制御できなくなる。なぜなら相互牽制が聞かなくなるからである。
故に、「お金」がある程度市場に流通したら、「お金」の流通量の上限を制約する必要がある。なぜならば、「お金」は、分配の手段であり、貨幣価値は相対的な値だからである。

兌換紙幣から不換紙幣に転換した段階で、紙幣は、中央銀行の国民からの負債となる。なぜなら、紙幣は、市場取引によって担保されているからである。故に、中央銀行は、物価に対する責務を負う事になる。

「お金」は、循環する事によって効力を発揮する。「お金」の働きは、「お金」が流れる事で発揮される。「お金」の働きを規制しているのが貨幣制度である。
経済主体は、「お金」の出入りによって動く。「お金」の出入りは、現金収支を意味する。現金収支を表しているのがキャッシュフローである。

「お金」の出し入れによって経済主体も市場は動く。「お金」の出し入れは現金収支となる。「お金」の出し入れは出金と入金である。出金は、支出であり、入金は、所得である。
「お金」の働きは、出し入れによる。故に、働きの根本は、二進数であり、離散数(デジタル)である。

「お金」が使用されると余剰資金が派生する。余剰資金を金融機関に預ける事で預金が形成される。預金は、現金と同様の働きをする事がある。国民経済計算書では、現金と預金の和が市場に流通する総量と見なす。

貯蓄は、支払準備であって効用が発揮されているわけではない。

注意しなければならないのは、「お金」の働きである。
「お金」は、分配の手段である。分配である「お金」が機能を発揮する為には、「お金」の流通総量は、上に閉じている必要がある。「お金」が有限であることが「お金」が信任されるための必要条件である。これは仮想貨幣も同じである。
なぜならば、「お金」は必要量と生産量を調節する手段だからである。市場価格は、人と物と「お金」の量の均衡点によって定まる。
問題なのは、貨幣価値は、何の制約もしなければ上に開いている。故に、貨幣の流通量の上限に対して何らかの制約を設ける必要がある。キャプを被せるのである。

問題は、市場の規模は一定していないという事である。市場は、膨張と収縮を繰り返している。市場全体は、無数の市場の集合体である。全体を構成する個々の市場は、固有の性格や構造を持ち一律一様ではない。
故に、「お金」の総量の上限も一律に決められない。いくつかの要素の相互牽制の働きを前提として相対的、構造的に設定される。

「お金」の働には、長期的働きと短期的な働きがある。
長期的働き、生産手段を構築し、短期的働きは、消費として現れる。
長期的働きは、貸借によって、短期的働きは、売買によって実現する。「お金」の効用は、売買、決済によって完了する。売買に対して貸借は単なる資金転移と見なされる。
貸借は、債権と債務を生み出し、債権と債務は証券を派生する。この証券が紙幣の原型となる。貸しは、「お金」を預けることを意味し、借りは、「お金」を預かることを意味する。故に、預金の本質は貸借である。資本も貸借関係の一種とする事が出来る
生産手段は、固定資産と負債・資本を形成する。負債と資本、資産がストックを形成する。

「お金」は一度発行されると回収するのは困難である。なぜならば、「お金」は消費されないからである。

初期設定は、基本的にゼロである事が前提である。実際の市場は歴史的出来事の支配下にある。故に、過去の仕組みの残像を引き摺っている。しかし、表象貨幣の機能だけ見ると初期条件はゼロと設定せざるを得ない。
まず、市場経済は、「お金」がなければ始まらないから経済主体は、「お金」を調達する必要がある。
初期の段階では、政府は、借金によって「お金」を調達し、歳出と公共投資によって「お金」を市場に供給する。
中央銀行は、国債や金を担保に紙幣を発行する。金融機関は、資産や預金を担保に中央銀行から「お金」を借りて、企業や政府、家計に「お金」を貸出する。

紙幣は、政府と金融機関との貸し借りで生産される。金融機関の中心に位置するのが発券機関であり、一般に中央銀行である。他の金融機関は、中央銀行から手持ちの資産を担保に「お金」を借り、それを民間企業や家計に貸し付ける。金融機関から「お金」を借りた企業や家計は、売買取引を通じて「お金」を市場に循環させるのである。
経済は、歴史的産物である。「お金」も歴史的産物であり、過去の遺産を引き継いでいる。故に、ゼロからのスタートと言っても完全にゼロという訳ではない。
近代的な金融制度が成立する過程で過去の負債、たとえば、藩札や旧貨幣、そして、家禄を源資とした金禄公債証書等を集めて担保などとした。

「お金」が生産されれば、次に、市場経済は、各経済主体が、「お金」を調達す事から始まる。

「お金」を調達する手段は、政府は、発券機関と組んで「お金」を発行すればいい。他の部門は、手持ちの資産を売るか、「お金」を借りるか、「お金」を貰うかである。
「お金」を借りる場合、担保が必要となる。担保できるのは、資産(無形の権利も含まれる。)か将来の収入である。実物と貸し借りが結び付けられることで貨幣価値が実体を持つ。
家計部門が担保できる限度は、手持ち資産か生涯所得である。企業が担保するのは、資本と将来の収入である。政府が担保するのは、国家資産と徴税権である。海外に対しては、外貨準備と徴税権である。貸出と担保の相互牽制によって資金の流通量の上限は設定される。

全ての家計に、一定水準以上の「お金」が配分されないと市場経済は始まらない。
生産部門である民間企業は、金融機関からの借入金と他の経済主体からの投資によって資金を調達する。
生産手段は、担保される事で資産価値が形成する。

「お金」の流れは、収入と支出が組み合わさって形成される。
収益の本質は、社会的効用である。必然的に社会的責任が伴う。

よく財政はデフォルトをしないとか、ハイパーインフレーションになるはずがないとか言う人がいる。そういう人の多くは、木を見て森を見ないと言うタイプである。経済の問題は、財政のデフォルトとか、ハイパーインフレーションだけではない。金融危機も不況もある。それよりももっと深刻なのは格差の拡大である。そして、今一番懸念されるのは金融危機である。ハイパーインフレにならなければいいとか、デフォルトなんかしないといった短絡的な問題ではない。経済の仕組みが正常に機能しなくなることが問題なのである。

「お金」は単体では生み出せない。必ず相手がいる。自他の取引、やり取りが全ての始まりである。買う者がいれば売る者がいる。借りる者がいれば貸す者がいる。この関係は対称している。
男と女がいて子孫が残せるように、「お金」を生み出す仕組みにも雄と雌がある。これは一つの摂理を表している。

易に太極あり、これより両儀を生ず。
太極から陰陽が生じる。
太極は一、陰陽は二。

元は善の長なり。亨は嘉の會なり。利は義の和なり。貞は事の幹なり。

物を利すれば以て義を和するに足り、貞固なれば以て事に幹するに足る。

利は義である。義を極めたところに利が生じる。義に反する利、利を得られない義は、真の利でも、義でもない。

次に、物と人のアルゴリズムを明らかにする。


生産のアルゴリズム



生産のアルゴリズムは、経済行為に必要な財を生産し、市場に供給する事である。
生産財は、売上として計上された時、経済取引として成立する。売上は、国民経済計算書では、総産出に相当する。
国民経済計算書をわかりにくくしているのは、一般に粗利益に相当する総生産のみ偏り、総産出が軽視されている事による。
通常、損益上において重視されるのは、売上である。


国民経済計算書


物的アルゴリズムは、財を生産し、生産した財を分配し、消費すると言うのが基本である。
その為に、生産手段を構築、整え、財を生産し、それを市場に供給し、分配する。消費者は、必要な資源を市場から調達して消費する。
生産主体は単に財を生産するだけでなく、仕事を作り出して所得を分配する役割がある事を忘れてはならない。

市場経済では、全て主体の行為は、資金調達から始まる。資金調達の手段は、所有物を売る。他者から借りる。貰うかである。
資金調達が出来たら生産手段に投資をして財を生産し、生産した財を売って資金を獲得してそれを再投資し、生産をするという繰り返しをする。

市場を構成する主体は、個人である。
個人は、集合して経済単位を形成する。経済単位には、消費単位として家計、生産単位として非金融法人、公的単位として一般政府と対家計非営利団体、金融単位として金融機関がある。
金融機関は、自らは、何も生産をせずに「お金」を融通する事で利益を獲得する機関を言う。つまり、非生産的機関である。基本的に、非金融法人と金融機関は、中間消費はしても最終消費はしないとする。

物的アルゴリズムは、資金を調達する事から始まる。
全ての単位は、資金調達から始まる。

家計は、所有物を売るか、「お金」を借りるか、「お金」を贈与、あるいは、相続するかで資金を調達する。
経常的には、家計は、労働力か、所有権の一部を貸し付ける事で所得を得る。
非金融法人は、生産手段に投資し、それから財を生産し、生産した財を販売し、それから収益を獲得し、獲得した収益の一部を再投資する。その繰り返しによって資金を循環させる。

財政(一般政府)の生産の働きは、税や国債によって資金を調達し、公共投資を通じて社会資本を生産する事である。

最初、公的機関と金融機関は、資金を調達する先がないために、一般政府は徴税権を担保として国債を発行し、発券機関、一般に中央銀行は、支払準備(金や銀と言った貨幣に準じる物)を担保にしてお互いに貸し借りをして紙幣を発行する。発行した紙幣を金融機関に貸し出す事で資金を市場に供給する。

金融機関は、手持ち資産を担保として発券機関である中央銀行から資金を借りる事で初期資金を調達する。「お金」が市場を循環するようになると預金が主たる担保となる。
金融機関の生産に対する働きは、投資の資金を準備し企業や家計に融通する事と運転資本を提供する事にある。
金融機関の基本的な働きは、消費局面で消費に使われなかった資金、余剰資金を集め資金不足の経済主体に融通する事である。金融機関は、家計等にある余剰資金を生産局面に循環させるのが役割である。

海外部門の役割は、国内で不足する資源を供給する事であるが、その為の資金(外貨)を国内の余剰な財を輸出する事によって獲得する事である。

生産は、主として非金融法人が行う。非金融法人の働きは、財を生産し、販売するところまでで発揮される。
非金融法人は、物を買う事から始まる。売りが先行するわけではない。故に、最初に資金が必要となるのである。

資金を調達した後、資金を生産手段に投資する。生産手段には、生産設備、原材料、労働力がある。設備投資、在庫投資、人的投資の三つの投資がある。
投資が経済行為として市場表面に現れるのは、資金調達からである。

初期投資は、主として生産設備と労働力に対するものである。また、投資には、市場に参加する為の登録料が必要となる。つまり、企業に伴う手続き、登録料の費用が必要となる。これを見てもわかるように市場は人為的な場なのである。

投資によって初期条件は設定される。初期条件を投資キャッシュフローと財務キャシュフローは、始源とする。
生産活動が始まると生産と販売の過程で費用が発生する。費用は、分配の要の働きをしている。

資金調達と投資は、先ず、事業の基礎としてのストックを形成する。つまり、ストックからフローが派生するのである。基礎はストックにある。
貸借・資本取引に依って形成された事業基盤、産業基盤から売買取引に依ってフローが生じる。売買によって生じるキャッシュフローが営業キャッシュフローである。

生産規模の拡大に従って分業が始まり、分業によって人は組織化される。投資と並行して組織が形成されていく。投資が完了すると組織が前面に現れてくる。

組織の機能には、現業部分と管理部分がある。現業部分は、生産・販売・仕入購買、在庫等、直接業務にかかわる部分をいう。それに対して、金銭の出納、組織統制、企画、設備の保守点検といった間接的、付帯的業務を管理部分と言う。これらの業務が費用を構成する要因となる。

結局、企業活動は、収益と費用の関係によって測られる。その指標が利益である。
ただ、実体的に経済主体の仕組みを動かしているのは、主体に対する「お金」の出入り、入金、出金である。
だから、経済の動きは、残高、収支、残高として現れる。

費用は、生産のための支出である。費用の役割は、生産だけでなく、分配や消費の働きもある。生産効率を上げるという名目で費用を限りなく削減すると所得も縮小し、消費も減退する。
適正な費用が維持できるような収益を実現できる市場構造を構築する事。その為の指標が利益である。

所得の上昇拡大を前提としていたら際限なく成長し続ける事が運命づけられてしまう。
縮む事を覚えないと市場経済は、常に破綻と再生を繰り返さなければならない。
市場は拡大と縮小を繰り返す事で、「お金」を循環させているのである。
生産の拡大を伴わないで費用である所得だけを上昇させることはできない。利益は、収益と費用の差なのである。この関係を忘れたら、現在の市場経済は成り立たない。
費用や借金を罪悪視、費用や借金をひたすらなくそうとするのは、経済の一面しか見ていない事を意味する。費用や借金にも重要な役割があるのである。費用は、生産手段であるとともに分配の要である。費用と所得は表裏の関係にある。

現在、個人事業の典型だった喫茶店とか、居酒屋まで企業化され組織化されつつある。個性的で多様だった喫茶店や居酒屋、小料理屋が標準化され一様なものになっってしまった。東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、静岡でのみコーヒーも規格化され均一化されている。それが成熟した経済だと言われたら、私は、退化、逆行だと答えるしかない。
経済は、本来多様なものだ。それは、消費者が多様であり、市場が多様であり、環境や前提が多様だからである。多様さを失った経済は、全体主義的で、独裁的である。
なぜ、喫茶店や、居酒屋、小料理屋が企業化され一様なものに変質するのか。
それは経済制度が市場を一様化させるような仕組みになっているからである。
価格やコストだけに特化した市場は、多様さを失うのは必然的結果である。それは、量のみが先行して質が軽視された結果である。大量生産、大量消費に偏れば質が軽視されるのは当然である。
また、居酒屋や喫茶店の様な三ちゃんと言われたような企業でも人を雇えば、常に人件費の高騰に悩まされる事になる。年々、人件費をあげなければならなくなれば年とともに競争力を失っていく事になる。経済発展に伴って新興国が競争力を失うのは、人件費の高騰に依るし、先進国が新興国に太刀打ちできないのも人件費が高いからである。
市場や経済が成熟してくると必然的に所得は、相対的に高くなる。

喫茶店の様な商売でも一人ひとりの所得を上昇させようとしたら多店化する以外になくなる。停滞や縮小は許されないのである。しかし、拡大成長には限りがある。なぜならば、実質的な市場規模を画定するのは人と物だからであり、人や物は、有限な実在である。故に、物質的な限界があるのである。人や物に限りがある以上、無限に経済を成長させることはできないのである。同様に限りなく所得を拡大する事はできない。市場の縮小を前提とした施策をとらなければならない時があるのである。
その為には、市場が飽和状態に陥った時、量から質への転換が求められる。
ところが今日の日本の市場では、安売りが奨励され、競争を煽る政策が採られている。これでは適正な収益は維持できなくなる。デフレーションの最大の原因は、適正な収益が維持できない事なのである。

所得、収益、消費の関係が経済の状態を定める。
所得と収益と物価の水準を均衡させようとする働きによって市場は制御されている。
生産の水準と分配の水準、消費の水準を均衡させることが鍵なのである。


分配のアルゴリズム


分配のアルゴリズムは、他のアルゴリズムとは、根本が違う。分配のアルゴリズムこそ思想的なのである。つまり、分配のアルゴリズムは経済の思想を具現化したものである。
何を基準、どの様な体制、仕組みによって生産財を分配するかは、極めて思想的なのである。

分配と言うのは、言い換えると分け前の話である。だから難しいのである。
しかも、部門の働きに応じた分け前をしなければならない。部門の性格も働きも違うだから難しいのである。
分け前、取り分は、争いの本。全ての人間を納得させられる分配の基準はない。むしろ、全ての人間がどのような基準に従って分配しても納得しないと思っていたわうがいい。だから、分配の基準には客観性が求められるのである。

市場経済では、市場だけが問題とされる。しかし、市場経済下でも所得の分配は、組織的、かつ、恣意的にされる。だからこそ分配のアルゴリズムは思想的なのである。

経済が分配の仕組みだという事は、この点からも言える。
単純に労働への対価と言えないところに分配の難しさがある。分配には、市場取引の様な客観的根拠になる部分が少ない。多くの部分が恣意的なのである。
分配には、報酬、対価、評価、生活費の資金源等の働きがある。報酬は所得、経常収入を意味し、対価は、財に対する費用を意味する。評価は、自己実現や動機付けを意味し、モチベーションやインセンティブの根拠となる。その他に、生活費として人との属性に基づく部分がある。生活費には、個々の地域の前提条件も含まれる。そして、これらの働きが給与体系・給与構造の下地となる。
報酬は、給与の基礎的部分を構成し、対価は、残業や手当などの追加費用として、また、評価は、賞与や昇給などに反映され、生活は、属人給として支給される。
報酬は、給与の期間となる部分を構成する。費用は、収益と関係によって測られる。評価は、成果、実績が基本となる。
ただ、分配は、成果や実績、時間だけで測られるべき事ではない。なぜならば前提条件に個人差があるからであり、また、分配本来の目的は、必要な時に、必要とする人に、必要とされる資源を、提供する事だからである。
所得の偏りは、分配の目的の障害となる。その為に、国家権力による所得の再配分が必要となるのである。

分配とは、差をなくすことではなく。合理的に差をつける事なのである。なぜならば、差はなくならないからである。差がなくならないのは、差の本質は、個体差から派生する事だからである。性別、年齢、身体的能力、知的能力、生活環境、家族構成などの個体差を前提としなければ公正公平な分配は成り立たない。
速い話、寒冷地に住むのと温暖に地域に住むのかによって、青年か、老人かによって差は生じるのである。この様な差をなくすためには、差をつける必要がある。問題は、個体差、個人差を何によって正当化するかである。それが思想である。

また、最低賃金や労働条件、労働時間などの経済の枠組みも分配に対する考え方から制約される。この点は、個々の国の経済事情、状況に違いがあるから、国家間の市場格差になり不公正な競争を容認する事になる。
故に、公正な市場環境を維持確立させるためには、国家間に差をつける必要がある。ただ、国家間に差をつけるのは、国家間の話し合いによる。差のつけ方が無原則なものであったり、報復的なものであったり、特定の国を狙い撃ちにするようなものであると健全な市場の発展を妨げる事になる。基本的には、相互協力、国際分業に基づいた体制にする必要がある。関税だけではかえって不均衡で偏った市場を許す事になる。
貧困の輸出や労働条件の悪化にならないような取り決めでなければならない。
生活水準の向上か悪化か、相互に採られた政策によって経済を発展する事も衰退させる事にもなる。

分配においては、幅が重要となる。人が生きていくために必要最小限の所得をどの様な基準でどこに設定するかが、下限を制約するからである。

分配のアルゴリズムで問題とされるのは、所得の配分にどの様な手段を用いるか。生活していくうえで、必要な所得はどれくらいか。経常的所得(経常的収入)をどの様にして維持するか。所得の偏りをどの様にして是正するか等である。


国税庁

分離譲渡所得とは、土地や建物を譲渡した時発生する所得であり、長期所得の中には、相続によるものも含まれる。土地や建物の所有期間によって長期と短期に分類される。プラザ合意からバブル崩壊にかけて急速に上昇し、バブル放課後急落している。
同様な事が列島改造論が引き金となった狂乱物価の際も急騰、急落している。


国税庁

分離譲渡所得は、資本移転としてみなされ、経常移転として計上されない。経常移転が可処分所得に係る移転と見なされるのに対して資本移転は、可処分所得に対して影響を及ぼさないものとして捉えられている。資本移転が経常移転と区分されている以上相続税も資本税としてみなされ、可処分所得に影響がないとされる。



国税庁



経済は、市場的な部分と組織的な部分をいかに整合性を持たせるかの問題なのだある。

生産に働く原理と分配に働く原理とは違う。生産は、最小の資源で最大の効用を求める。それに対して分配は、所得の幅と分散と平均が問題となる。必要とする支出に対応できる所得が求められるのである。

分配のアルゴリズムの働きは、全ての国民に、一人当たり一定の幅の範囲で所得を分配する事である。
一定の幅と言うのは、生活していくうえで必要な資源を市場で購入する事が可能な範囲と言う事である。故にも経済は、物価と個人所得の平均と分散、最低所得との関係に収斂する。
分配は、一般に組織的になされる。基礎を市場に置く生産とは、根本から違うのである。分配は、一般に組織的になされる。なぜならば、分配は、分業に基づくからである。
分配は、均一均等にはできない。分配の対象である消費者が置かれている環境、状況が違うからである。同額の所得を配分しても前提条件によって格差が生じる。寒冷地にいる者と温暖な地方にいる者とは生活の前提が違うからである。
また、人には、能力や適性の違いがある。能力や適性を無視して配分すれば当然不平等になる。
問題は、どの程度の差をつけるかである。経済は差によって動いている。差をつける時、合理的な基準に基づくか否かが、平等であるかないかの問題なのである。差をつけること自体で不平等が発生するわけではない。

経済主体は、基本的に共同体であり、組織である。家庭も、企業も、政府も組織的な主体である。

経済の基礎単位は、消費単位である。なぜならば、消費は、生きる為の基礎的な活動だからである。故に、消費の場は、生活の場であり、消費単位は、経済の基礎単位なのである。

経済は生産だけで成り立っているわけではない。いくら財を生産しても消費者に分配されない限り、生産された財は、無駄になる。生産された財は、全ての消費者、国民に分配される事ではじめて経済の仕組みは成り立つのである。

そして、分配間の為の手段が「お金」なのである。市場経済では予め消費者に必要なだけの「お金」が配分されている必要がある。

分配のアルゴリズムで問題となるのは、「お金」と財が配分される経路と手段である。「お金」と財が配分される経路と手段によって経済の仕組みの基礎は構築される。

人的アルゴリズムは、先ず、人は、市場から生きていくために必要な資源を手に入れる(調達する)為には、「お金」が必要となる。
人は、「お金」を第三者から借りるか、労働力か、手持ちの私財を売って「お金」を手に入れ、その「お金」を支出する事で生きていくために必要な資源を市場から手に入れて消費する。
労働力は生産手段の一種である。

家計が「お金」を調達する手段は、主として労働の対価としての所得である。
国税庁は、所得を、給与所得、利子所得、配当所得、不動産所得、事業所得、退職所得、山林所得、譲渡所得、一時所得、雑所得の10種類に分類している。労働の対価として支払われるのは、この内、給与所得を指す。
所得の中で安定的で固定的な所得としてみなせるのが給与所得であるから、基礎的支出は、給与所得に依存しているのが一般的である。
故に、分配の中核は、給与所得に依存している。


国民経済計算書

重要なのは、付加価値に占める所得である。所得は、国民経済計算書では、雇用者報酬と混合所得に分類される。

分配は、部門を対象にして行われる。家計に対する分配は、雇用者報酬、企業法人に対する分配は、営業余剰と・混合所得、一般政府に対する分配は、税である。
所得と支出の配分の偏りが部門間の資金の過不足となる。資金の過不足は、ストックに蓄積され、フローの流れる方向を左右する。

注意すべきなのは、営業余剰・混合所得は、中間消費項目として最終消費支出から除かれている点である。

生産と分配との関係では、労働分配率が鍵となる。


法人企業統計

労働分配率は、産業によっても市場環境によっても違ってくる。小売業は、一貫して40%前後に安定している。それに対して、製造業は、市場の状況の変化によって大きく変動している。
かつて、粗利益に占める人件費、その他経費、利益との比率は、企業経営の安定性を見る指標だった。
付加価値に占める人件費、即ち、所得、金利、減価償却費の関係は、経済の状態、産業構造を現わしていると言っていい。収益は、物の価値、物価に反映するとともに所得の源でもある。故に、収益と物価、所得の関係によって市場の方向、拡大均衡か、縮小均衡かが決まる。

生産のための仕組みと分配のための仕組みは違う。大体、目的が違うのである。ただ連動しているために、一体性が求められる。
分配の仕組みは、例えば、7000万人の国民がいる国があるとして、その内、20歳未満の人口が2000万人、60歳以上の人口が1000万人とする。男女の比率を半々として、国民が生活するのに必要な資源を生産する為に、必要とする資源は、1000万にで生産できると仮定する。但し、消費に必要とされる労働の成果は除く。市場経済では、生産されたもの総てを換金し、国民は、所得を得て、必要な物は、お金を払って市場から調達する。
要するに7000万人が生きていくために必要な資源を1000万人にで生産した場合、それをどの様に分配するかの問題である。
働ける人口は、未成年と60歳以上を除い4000万人だとする。かつては、大体7人程度の血縁による集団に形成し、それが家計と言う経済単位を構成して、その中の一人の男性が働いて後の7人を養っていたというのが基本的構図である。そうなると、働いてる男性の相対的な地位が高くなり、家庭では、主人に主人以外の者が隷従する。
2000万人の女性が所得を得る機会すら奪われていた。
更に、所得を得られる人間は、1000万人に限られるから、1000万人の男性も仕事にあぶれる。
それで新たに、1000万人分の仕事を作らなければならなくなる。その仕事の多くは、権力によって生まれる。権力の根幹は、治安と国防である。
現代問題となるのは、生産性が高まる事で、生きていくために必要な資源を生産する為の人口が少なくて済むようになってきた事なのである。生産性が高まれば高まるほど失業者が増える。失業者にいかに「お金」を配分するかそれが最大の課題である。
それに対して生産部門は、いかに効率化して費用を削減するかに血道をあげている。
かつては、人口を維持する為に労働力が不足した。それが課題だったのである。現代は、生産性が向上したことで仕事がない事が問題となっている。経済問題の質が変わったのである。
生産と分配の構造の整合性をいかにとり、保つかが経済最大の問題なのである。

生産された財は、一部は、販売されて換金され。残りは在庫となる。それが総産出となり、収益を形成する。
また、「お金」は、生産手段(労働、所有権)の対価として所得が家計に分配される。所得の中から「お金」を払って(支出)生活に必要な財を調達する。支出は、費用の本になる。所得を集計した値が総所得である。
生産と分配をいかに両立させるか、均衡させるかが経済の一番の問題である。生産と分配を制御し均衡させる場が市場であり、手段が「お金」である。

経済主体は、「お金」の収支、即ち、入金と出金によって動かされている。要するに入り口と出口が、問題なのである。入り口を構成するのは、収益であり、出口は、支出である。入力と出力の関係が経済の動きを定めている。つまり、収益対費用、所得対支出の関係によって景気の方向は定まるのである。

重要なのは、経済は物の生産だけで成り立っているのではない。人の所得が対極に成り立たない限り経済は機能しない。人の所得は、支出と均衡する必要がある。所得より支出が上回ると貸借、即ち、ストックが過剰となる。貸借は、余剰の「お金」を生み出し、「お金」の正常な循環を阻害する。物価と雇用は、経済の両輪なのである。
勘違いをしてはならないのは、世の中の大多数の人間は、平凡な人間、凡人である。何らかの欠点、それも身体的な障害がある者もいる。天才でも、特殊な技能があるわけでも、図抜けた才能に恵まれているわけでもない。どちらかと言えば無能で、欠点だらけの人間である。そういう人達が生活に困らないような所得を得られるようにする事も経済の仕組みの役割なのである。
これからの技術革新が、平凡で無能な人間から仕事を奪うようなものならば確実に経済は衰退する。そのような仕組みになっているのである。単純労働を軽視したら経済は成り立たなくなる。
仕事・労働は苦役ではない。自己実現の手段の一つである。遊んで暮らすのは、虚しい。なぜなら、生きる目的も見出せず。他人の役にも立たないからである。

半分の労力で生産できても二倍の所得になるわけではない。所得が増えなければ付加価値も増えない。付加価値が増えなければ、市場も拡大しないし、成長もしない。では、生産性を高めなくていいのかと言うとそれでは、物質的な豊かさは実現しない。生産量が増えても所得が変わらなければ、経済成長は実現しないのである。要は、生産と分配とをどう両立させるかの問題なのである。
安売り業者を消費者の味方とメディアは持ち上げるが、消費者は生産者でもあるのである。

経済は、収益を上げ利益を得る事だと誤解している人が多い。経済は、生活に必要な財を生産し、それを消費者に配分する事である。
経済の目的が利益にあるとすると限りなく、費用を削減すればいいという事になる。しかし、費用の大半は、人件費である。人件費を極限にまで削減する事が目的だとされたら、必然的に個人所得は縮小される事になる。それは、社会全体では総所得の縮小を意味する。

また、生産性を向上させるのに伴って付加価値をあげなければならないと主張する者がいる。それは、全ての国民、労働者の高度な技術と知識、能力を要求する事につながる。しかし、一人ひとりの能力や技術には個性があり、適正があり、限界がある。
全ての国民、例えば、システムエンジニアや飛行機のパイロット、数学者の様な技術や知識、能力を要求する事はできない。
単純な労働に向いている人もいる。所謂、進歩主義的な考えのある者は、能力至上主義的な事があり。能力の劣る者を認めようとしない傾向がある。

何の取り柄もなく、何をやらせても駄目、不器用で真面目、正直なだけな人、謹厳実直、そんな人にも遣り甲斐のある仕事、生き甲斐、誇りの持てる職場を作るのも経済の仕組みの重要な役割なのである。
大多数の人は、天才ではないし、スポーツの花形選手になれるわけでもない。不器用で、みすぼらしく、醜くて、欠点だらけ、それでも人間らしく生きる権利、誇りの持てる仕事に就く権利は誰にだってある。
確かに、俺はその他大勢の口かもしれない。でも人として生まれてきたのだ。
選ばれた人ではない、平凡で、普通な人たちのためにこそ経済の仕組みは役に立たなければならない。そうでなければ経済の仕組みなんて最初から成り立たないのである。なぜならば、経済とは生きる為の活動だからであり、経済は、全ての人を生かすための仕組みだからである。

所得の分配と生産とを切り離して考えるべきだとする思想がある。しかし、それは経済の仕組みを破綻させてしまう。
経済の仕組みは、経済を構成する主体の双方向の働きと私的所有権に依拠した働きによって制御されている。個人が、生産主体と消費主体を兼ねているから、生産と消費双方の均衡がとれるのである。むしろ、生産主体としての働きと、消費主体としての働きを切り離してしまうから経済の仕組みが正常に働かなくなるのである。
経済主体は、自分が稼いだ収入を基礎として支出や蓄えを組み立てる。この収入と支出、蓄えを均衡させようとする働きが経済の仕組みを制御するのである。

生産の成果は、収益に、分配の成果は、所得に振り分けられる。

経済の状態は、収益、所得、支出、貯蓄の比率に集約される。つまり、収益、所得、支出、貯蓄、負債の均衡をどう保つかが経済政策の目標となる。

分配の働きは、部門によって違いがある。
財政(一般政府)の分配の働きは、主として税や給付による所得の再配分である。

また、金融機関の分配の働きは、資金の過不足を補い、資金を融通する事である。

最終的に分配は、消費によって完結する。消費されない部分は、貯蓄として投資に回される。
市場を形成するのは、消費者である。消費があって生産が制御される。現代社会は、生産と消費の関係が転倒している。即ち、生産があって消費があるように錯覚されている。故に、生産性だけが異常に追及される。
その結果、消費の効率化である節約や無駄と言う概念が廃れてしまっている。

本来、生産は、消費構造を反映したものでなければならない。産業は、消費性向を土台として形成される。
消費から支出が生まれる。

一人当たりの消費量、一人当たりの所得、一人当たりの価格の関係が景気の基礎となる。この点を勘違いしてはならない。人は、「お金」の幻想によって経済の実体を見失う。しかし、経済の本質は、生きていくために必要な資源をいかに獲得するかにある。「お金」にあるわけではない。
だから、経済成長だの景気を金額だけで捉えたら実相を見失うのである。単価は、あくまでの市場取引の便宜上つけられるのである。しかし、一度市場価格が決まると金額は独り歩きを始める。
経済の実体は、一人当たりの生産量と消費量の関係に還元される。

経済成長、経済成長と経済成長が全てだと思っている人がいるが、経済の根本は、人と物であり、金額は所詮名目的な事なのである。人と物の実体的な関係に変化がなければ、「お金」という名目的な表面的変化に過ぎないのである。
だから、人と物と言う実体的関係を無視して「お金」の供給量を増やせば、物価は、天井知らずに上昇していく事になる。
市場は、消費者によって形成される。故に、最大の人口を擁する中国は、いずれは最大の市場を有する国になる。と言うより、実質的には、常に、中国市場は最大なのである。この点をよく理解して経済は考えなければならない。


消費のアルゴリズム


現代の経済は、消費を軽んじていて、生産に偏り過ぎている。それ故に、分配の機能が正常に働かない。
消費と生産は、経済を動かす両輪である。消費と生産の均衡がとれて経済は安定するのである。生産だけが速く回転しても消費の回転が遅ければ経済は、まっすぐには進まない。

消費を経済としてみなさない傾向があるが、生産経済が確立しているように、消費経済の確立も急がれる。

一般に経済を主導するのは、消費であって生産ではない。生産力より必要性が優先するのである。
一部の例外を除いて、需要が供給を生み出すのである。

消費の場は生活の場である。消費の意味するのは、人生の軌跡である。消費の根本は、生病老死である。消費の根幹は、衣食住である。

市場は、消費者によって作られる。消費は、産業の枠組みを作る。

生産の根本が事業計画ならば、消費の根本は、人生設計であり、生活設計である。
市場は、消費者によって形成される。
生産者は価格を上げるように働きかけ、消費者は、物価を低くするように働きかける。
生産者と消費者の力関係によって景気は変動する。
それが需給関係を形成するのである。

生産に投資と経常収支があるように、消費にも投資と経常収支がある。
生産が生産手段に対する投資と生産のための経常収支であるのに対し、消費は消費のための投資であり、消費のための経常収支である。

経常的収支とは、日常生活に基づく「お金」の流れである。日常生活には、必要最低限の必需品がある。必要最低限の必需品とは、生存に係る支出だからである。この様な支出は、安定的で固定的な収入があって保障される。

消費は、先ず、支出として現れる。生産の場の支出の様な収益、収入を得る手段としての支出ではなく。消費のための支出は、対価、見返りのない支出である。
消費に対する支出は、対価を前提としていないから基本的に無収入である。この点が、生産と消費に対する支出の根本的な違いである。
つまり、消費のための働きは、無報酬だという事である。消費に対する働き、無報酬だと言っても経済的価値がないのではない。ただ、経済的価値が貨幣的価値に置き換わらず、市場取引として認められないという事である。
この点こそ、生産と消費の決定的違いなのである。
消費は、基本的に消耗であり、再生産を前提としていない。故に、支出による収益は見込めない。この性格は、経常収支も消費投資も同じである。

故に、消費は、基礎的収入を根本として成り立っている。基礎的収入は、固定的で、安定した収入を指す。
所謂、定収入だが、定収入を維持する為の手段、仕組みがその国の経済に決定的な働きをしている。
定収入を支える仕組みは、雇用形態、賃金体系、経営主体の構造、会計制度、経済に係る法、社会保障制度、社会保険制度、年金等である。
収入が安定する事で消費者金融が確立される。
借金の手段は、基礎的収入の構造に依存している。


国民経済計算書


消費の「お金」の流れには、投資と経常収支がある。
投資には、住宅投資、教育投資等が主たるものである。
投資には、蓄えも含まれる。蓄えには、経常収入から支出を引いた余り。非常時、緊急時に対する備え。出産や冠婚葬祭と言った一時的な出費に対する備え。住宅投資や老後のための準備金などの目的がある。

経常収支は、基本的に良知常生活に必要な支出を基礎として成り立っている。
基礎支出は、生存に係る食料、そして、衣服からなる。今日では、この他に、ガス、水道、電気と言ったインフラに係る支出も含まれる。そして、次に、交通や通信と言った準基礎支出が加わる。これらの支出が生活の基礎を構成する。

その他に、固定的支出として社会保険とか、税金と言った公的支出が引かれる。年収から公的支出が引かれたものが、自分たちが私有に使える手取り、可処分所得である。

消費の核となる経済主体は家計である。そして、会計は、現金主義を基本として、税金も現金主義に基づいて徴収される。


国民経済計算書

家計の収入状態によって支出の優先順位は決められる。それが消費のアルゴリズムの基礎となる。

消費には、波があり、その波が景気の波を形成する。
消費の波には、一日の波、一週間の波、一か月の波、季節変動、半期の波、一年の波、商品のライフサイクルによる波、人生の波などがある。


「お金」の流れを作っているのは資金の過不足である


市場経済を動かしているのは、「お金」の流れである。
「お金」の流れを作っているのは、資金の過不足である。

資金を循環させることで現代の経済は成り立っている。つまり、資金をいかに循環させるかが、経済の一番の課題である。
資金を絶え間なく市場に循環させるためには、資金不足主体に資金補充し続ける必要がある。
「お金」は、支出される事で効用を発揮する。支出する為には、常に、「お金」を経済主体は保有している必要がある。
その為に、資金を資金不足の主体に移転し、支払いを準備させる必要がある。それが資金移転である。いかに、資金不足の主体に資金を廻すか。資金を資金不足の主体に回す手段の一つが報酬や財に対する対価である。報酬や対価以外の手段として贈与や貸し借りがある。
報酬や対価は、資金を移動させるための反対給付が明確である。しかし、貸し借りや資本取引は、反対給付が取引と同時に実現するわけではない。貸借や資本取引は、反対給付ではなく債権、債務と言った権利と義務が発生する。
貸借取引や資本取引に依って発生する資金移動は、損益上に計上されない。結果だけが貸借上に計上されるのである。これは借入金の返済も含まれる。
損益には計上されない。なぜならば、貸し借りや借金の返済は資本移転だからである。現金収支があっても資本移転と見なされる。しかし、資本移転と雖も資金繰りが出来なくなれば経済主体は経済的に破綻する。
その典型が黒字倒産で、よく黒字倒産の原因について書かれている本があるが、それが今一つ釈然としないのは、資本移動の事が抜けているからである。

投資、貸借・資本取引、負債の返済、相続、贈与、税、給付は、資本移動である。支出は、費用化されなければ、収入は利益にならなければ付加価値を生み出さない。つまり、フローとして損益計上されない。市場的価値を生み出さないとみなされるのである。この点を気を付ける必要がある。
また、営業余剰と固定資産減耗は、中間消費、中間投入とされ、これも最終消費には寄与しない。
可処分所得と最終消費支出の関係として現れる。



国民経済計算書




総生産は、総所得として分配され、総支出として清算される。
総支出の中で支出に結び付けられるのは、雇用者報酬と混合所得の一部である。
雇用者報酬と混合所得の一部は、消費と貯蓄に振り向けられるが、貯蓄はストックとなり、フローにはならない。フローとして認知されるのは、最終消費支出のみである。
後の現金収支は、資本移転となる。
土地を買うのは、資本移転である。家賃を受け取るのは、経常収益である。

貸借・資本取引だけでは、経済的価値は生み出さない。
いくら金融取引が盛んになっても実質的経済価値、経済価値の実体は増えない。

レバレッジを効かせた取引は、貨幣価値を希薄化するだけなのである。
インフレーションは、貨幣価値が希薄化した結果として現れる。

バブル崩壊後、貯蓄の割合は減少し続け、2009年、即ち、リーマンショックの翌年には一時マイナスにまで落ち込んでいる。


国民経済統計 2000年基準 1993SNA


貯蓄は、ストックである。要するに、バブル崩壊後支出は消費に向けられ貯蓄ストックに向けられる現金が減ったという事を意味する。貯蓄の減少は、ストックの割合の減少、フローの割合の増加を意味する。
注目すべきなのは、絶対額が変化していないのに、貯蓄が減少している事であり、リーマンショックの際は、最終消費支出が微減なのに貯蓄は大幅に減らしている事である。それは、支出は変わらないのに、可処分所得全体が減少している事を表している。


国民経済統計 2011年基準 2008SNA


紙幣の原点は、国債であり、借用証書だと言う点を忘れてはならない。つまり、紙幣の本質は借金である。何を担保するかによって紙幣の性格は変わる。

そして、貨幣を成り立たせているのは、貸し借りであり。返済を前提として成り立っている返済は、債務と債権を生む。つまり、貸し借りは、同量の債権、債務を生む。それが資金の流れる方向を定めるのである。貸し借りは支出の方向に、返済は回収の方向に資金を流す。

返済は、収益による事を原則とする。収益とは、売り買い即ち、何らかの対価を伴う行為であり、反対給付を前提とする事で経済的効用を生み出し。生み出された効用が経済的価値、付加価値を創出する。この関係が経済成長を促すのである。経済的価値の本質は時間価値である。即ち、タイム イズ マネーである。

可処分所得に占める民間の最終消費支出は、上昇し、リーマンショックの時、跳ね上がっている。それが、貯蓄をマイナス、即ち、取り崩させた原因である。


国民経済計算書

最初は、経済主体は、無所有である事が前提となる。経済主体は、全てを外部から調達する事が前提である。
初期設定はゼロである。そして、初期設定がゼロである事を前提とするから、会計上全ての経済主体の資産と負債の総和はゼロになり、収支もゼロとなるのである。これが第一の前提である。

最初ゼロ設定、即ち、無所有であるから、どこからか資金を調達してこなければならない。この場合、投資によって「お金」を調達してくる場合と、「お金」を借りてくることになる。つまり、経済主体は、最初は資金不足である状態な事が前提なのである。
そこでまずなぜ資金不足になるのかを明らかにする必要がある。

資金不足が生じるのは、手持ちの「お金」に対して支出が上回るからである。逆に、手持ち資金を支出が下回れば資金は余剰になる。
手持ち資金の資金源は、預金と所得による。資金が不足した場合は、誰からか貰うか、借りるしかない。そして、余った資金は、誰かに預けるか、貸すことになる。これが、自由主義経済の原則なのである。

いくら財産を持っていても会計に計上されていない物は経済的価値が認められていない。つまり、無価値である。価値は、会計記録に計上されている事が前提となる。

法人は、無所有が原則なのである。つまり、法人は、一時的所有を前提として恒久的所有を前提としていない。例え、継続的所有であっても最終的には、清算する事が前提つされている。法人そのものは空の状態から始まり、からの状態に返す事が原則となる。法人は仕組み、装置であって法人と言っても人的存在ではない。

キャッシュフローには、短期的な資金の流れと長期的な資金の流れがある。
この様な資金の流れを作り出しているのは、資金の過不足である。

日々の営業上における資金の過不足を記録したものが営業キャッシュフローで短期的な現金の出納を表している。
その他に投資に係る資金の過不足がある。短期的資金と長期的資金の過不足を補う働きをするのが金融の働きである。
そこでキャッシュフローは、営業キャッシュフローと投資キャッシュフローと財務キャシュフローに区分される。

一般に日々の営業に係る資金の出納は、複式簿記に記録される。
なぜ、このような記録が必要なのかというと一般に営業活動は、売上を前提とした活動だが、必ずしも売上による収入の後で当該取引に係る支出が発生するとは限らないからである。収入がある前に支出が発生する場合がある。その場合は、一時的な資金不足になるから、それを補うためには、どこからかお金を借りてこなければならない。そう言った時にお金を借りるための口実が必要となる。短期的な資金調達をするための資料として日々の営業記録をとる必要がある。そして、日々の取引が帳尻があっているかどうかを明らかにする指標が利益なのである。その為に、収益と費用は実現主義、発生主義が採用されている。

投資は、一時的にまとまった資金の流出、支出がある事を前提としている。それは生産手段に対する支出として計上される。

ここで重要となるのは、短期的資金と長期的資金との関りである。営業キャッシュフローでは、支出の伴わない費用として減価償却費が利益に加算される。この点が重要なのである。あたかも収入が降って湧いたように思っている人がいる。専門家の中にも減価償却費は支出を伴わない費用だから、社内金融だと教えている人もいる。しかし、これはとんでもない誤解である。
支出を伴わない費用はないし、費用と結びつかない支出もない。そんなものを許したら、最終的に帳尻が合わなくなる。
ただ、直接的に費用と支出と結びついていないか認識上の問題である。問題は、そのズレと認識に違いがどこから来ていてどの様に処理されているかである。
投資キャッシュフロー上には現れてこないが財務キャッシュフローの長期借入金の減額がある。この減価償却のやり取りと長期借入金の減額に基づく資金不足をどの様に調節したかが経済を見る上では重要となる。そして、損益上にどのような影響を及ぼしているかである。
同じような問題として支払利息がある。
キャシュフローを見る場合どの部分がどの部分に影響を与えるかを明らかにしておく必要がある。
資金計画がどのように反映されているかである。この事は、経済全体の動向や産業の実体を見る時、鍵となる。

キャッシュフローを個々の枠組みにとらわれず働きに応じて追跡する事は、経済の実体を理解するうえで不可欠な事である。


お金の始源は、貸し借りにある。


我々は、何事も市場ありきで考えがちである。しかし、今日の市場は、「お金」が先に分配されていなければならない。市場は、例えは悪いかもしれないが、ある意味で賭場みたいなところである。賭博場は、さっきにチップが配られていないとゲームに参加できない。チップがなければ始まらないのである。同様に、市場は「お金」がなければ始まらない。「お金」がなければ参加できないのである。

「お金」がなければ、余剰資金を持つところから「お金」を借りるしかない。
全ての経済主体は、空、即ち、零、無から始まる。「お金」を前借しないと始まらない。
政府も同じである。政府も最初は「お金」を借りる事から始まる。自分て自分から「お金」を借りても意味がない。だから、自分以外の主体を政府の外に置き、お互いに貸し借りをする事によって「お金」の価値を生み出すのである。その政府の外にある主体が中央銀行、あるいは発券銀行である。中央銀行は、象徴的存在であり、象徴的存在だからこそ機能を発揮できるのである。

「お金」の存在は、貸し借りから生まれる。貸し借りをするためには、担保が必要となる。つまり、「お金」と「お金」の価値を担保する財である。財は、必ずしも有形資産である必要はない。権利の様な無形な資産でもいい。
金本位制では、準備金を担保とした。現在は、主として国債である。国債も借金である。国債が担保しているのは、国家資産と徴税権である。
貨幣が担保しているのは、市場価値である。即ち、物価である。なぜならば、貨幣は、市場に流通するすべての財の価値を定めるからである。
基本的に紙幣は、国債と同じく借用書の延長線上にある。

「お金」の価値は、生産財の量、消費量、通貨の流通量によって相対的に決まる。
「お金」の価値は、最終的に物価に反映される。
「お金」の流通量は、銀行券の発券残高、金利によって左右される。物価は、「お金」の流れ、キャッシュフローによって定まる。故に、物価を制御する為には、キャッシュフローが重要になるのである。

貨幣価値は、生産財の量、消費量、通貨の流量の均衡によって定まる相対的価値である。絶対的なものではない。貨幣価値で決定的な働きをしているのは、通貨の流量である。
レバレッジを効かせ過ぎて「お金」の流通量が過剰になれば貨幣価値は希薄化する。逆に流通量が逼迫すれば「お金」は、濃密化する。濃密化すれば粘度が高まり、流れが悪くなる。それがデフレーションの原因との一つである。逆に貨幣価値が希薄化するとインフレーションの原因となる。

キャッシュフローの源は、通貨の発行にある。通貨の発行の仕組みこそキャッシュフローの源泉となる。
つまり、現金が流れ出すところこそキャッシュフローの源なのである。

「お金」は、分配の手段であるから全体、即ち、総量が重要となる。総量が画定できなければ、「お金」は、機能を発揮できない。総量を画定する為には、何らかの形で上限を制約しなければならない。

どの様にして「お金」の総量の上限を画定するのか、その手段によって貨幣制度の枠組みは作られる。

本位制度では、本位となる何らかの物的対象を担保として上限が決められていた。物を基準とすると物の量と貨幣価値による影響を免れない。信用貨幣である今日の紙幣は、上限は、複雑な手続きや制度によって構造的に制約されている。

つまり、物や金額によって直接的に設定されているわけではなく、制度的、間接的に上限が定まるように仕組まれているのである。肝心なのは仕組み、システムであり、アルゴリズムである。貨幣制度は、数学的なのである。

一つは、行政と発券機関を分離している事である。そして、国が国債を発行し、その国債を担保にして紙幣を発行する事で相互牽制するようになっている。
注意しなければならないのは、国債と紙幣は、別物であるという点である。
紙幣の本質は借金だという事である。紙幣は、発券機関、即ち、中央銀行の負債である。国債は、国の借金である。
国債も借金であるならば、紙幣も借金で、国は、国債を発行して借金をし、中央銀行は、国債を担保にして国民から借金をして金融機関に紙幣を発行する。
国と中央銀行が二重に担保を設定する事によって通貨の流量の上限が、市場や物価の状態に合わせて相対的に画定されるような仕組みになっているのである。
その上に、国債の発行は、国会の承認がなければできないようにしている。更に、中央銀行は、国債を直接引き受ける事が出来ないような仕組みになっている。
ある意味で紙幣と国債の関係は融通手形のような関係にある。言い換えると政府と中央銀行に自制心がなくなり、示し合わせるように成れば歯止めが効かなくなってしまう。つまり、行政府、国会、中央銀行が相互牽制する事で通貨の価値は保障されている。

国債は、国の債務ではあるが「お金」ではない。紙幣は、発券機関の借金である。つまり、中央銀行の借金である。中央銀行は、無制限に借金をするわけにはいかないので、担保を設定する。金本位制の時代は、準備金を担保とした。現在は国債を担保とする。

国債が担保しているのは、徴税権であり、徴税権を言い換えると所得である。要は、国債は、所得を担保していると言っていい。
物価は、通貨の供給量によって決まり、通貨の供給量を発券機関が画定しているという前提に立てば、中央銀行が担保するのは物価だと言っていい。

国債は、返済すればいいという訳にはいかない。
国債の働きは、一つは、財政の資金不足を補う事ともう一つは、「お金」の流通量の上限を画定する事である。そして、これらの働きは、最小的に物価に反映される。
国債を返済するという行為が国債の二つの働きを有効にする事でなければ、国債を返済する意味がないからである。
つまり、国債を返済する事で財政の資金不足は解消されるか。また、国債の返済が「お金」の流通量にどの様な影響を与えるか。
国債が返済されても、即、「お金」の流通量が変化するわけではない。それは、国債が発行されただけでは、「お金」の流通量が即増えるわけではないわうにである。


日本銀行

「お金」の流通量に直接影響するのは、銀行券の発行残高である。即ち、何が銀行券の発行残高に影響するかが、最終的に通貨の流量に影響するのである。



日本銀行



国債が返済されても、「お金」の流通量に影響を与えなければ意味がない。「お金」の流通量は、中央銀行の銀行券の発行残高によって決まる。
そうなると障害になるのは、日本銀行の当座預金に積み上がっている資金である。当座預金に積み上がっている400兆円(2019年現在)の資金は、一旦、現金化されないと解消できない。現金化されれば、それが市場に流れ出す事が防げなくなる。

一度、国債や銀行券が市場に出回ると回収するのは難しくなり、結局、物価の上昇に頼らなければらならなくなる。


お金の働きをどのように測定するのか


自由主義経済は、貨幣経済でもある。即ち、貨幣の働きを正確に測定する必要がある。
つまり、自由主義経済を制御するためには、貨幣がどの程度の仕事をしているか、それを量的に掌握する必要があるのである。

「お金」の働きは、現金収支、および、複式簿記に基づく会計によって測られる。
経済の仕組みは、資金の流れによって動かされる。資金の流れは、資金の過不足によって作られる。ゆえに、「お金」は、資金の流れと資金の過不足の状態を測定する事によって測られる。

その手段の一つが期間損益である。しかし、期間損益だけでは、限界がある。それは、期間損益は、「お金」、貨幣の働きを表現する事は出来ても、現金の実際の出納を正確に表現しているわけではないからである。
その好例が減価償却費や繰延勘定である。減価償却費は、単位期間における資産の減価を仮想して計算した費用であって、実際の支出と結びついているわけではなく、売掛金や受取手形は、売上を認識している、約束だけで実際に収入があるわけではない。
つまり、期間損益には、現金収支と直接結びついていない取引が含まれている。期間損益は、認識上の出来事を基本としている。
しかし、実際に経済を動かしているのは、「お金」の出入りである。
故に、期間損益上の欠点を補うために、キャッシュフローが計算されるようになったのである。
期間損益とキャッシュフローとは相互補完的関係にある。

経済の基本は、人と物なのである。
人が生きる為に必要な資源、例えば一人の人間が生きる為に必要とする食料の量は、それ程変わらない。食料の価格は、人間が必要とする量、即ち、需要と市場に供給された量との関係から定められる。実際は、市場取引、売買を通じて定められるのである。

市場取引は、一つの経済主体だけで成り立っているのではなく。相対する経済主体が一対になって成り立っている。
現金収支は、収入側と支出側の主体が一対になっとて成立する。そして、収支の総和はゼロになる。
収入は、対極に同量の支出を伴う。
ただ、現金の収支だけでは、取引の内訳が明らかにできない。
取引の内訳に応じて内部取引と外部取引を区分し、内部取引と外部取引が均衡するように仕分けるのが複式簿記の仕組みである。

本源的経済的価値の量は一定である。本源的経済的価値は、人と物の関係によって形成される。貨幣的価値は、本源的経済価値を貨幣化する事によとって成り立っている。

数は、何らかの対象と対になる事で成り立っている。数そのものは、名目的であって実体を持っていない。
名目的価値である貨幣価値が本源的経済価値から乖離し、異常な働きをすると経済は乱れる。

「お金」は、相対的尺度である。物理的尺度と違って絶対的基準ではない。市場取引によって「お金」の尺度は絶え間なく揺れ動いている。
相対的尺度であり、交換価値である貨幣単位は、常に、物と物との対比によって定められている。物と物との対比を仲立ちしているのが、「お金」であって「お金」の実質的価値は、その都度、市場取引によって決められている。

その為に、キャッシュフローは、供給された「お金」の量と市場に流通している量を対比する事で測定される。個々の経済主体の側から見ると経済活動は、調達と運用によって成り立っている。そして、供給は調達に、流通は、運用に対応している。
故に、資金効率は、調達された資金がどのように運用されたかによって評価される。
資金調達の手段は、貸借的手段、資本的手段、収益的手段、法的手段(強制的手段)の四つの手段がある。この内、市場取引に基づくのは、貸借的手段、資本的手段、収益的手段である。資本的手段は広義で捉えると貸借的手段に含まれる。
調達は、貸借によってストックを構成し、収益によって調達された資金はフローの本となる。ストックは、基本的に支払準備を構成する。
資金の流通量の増減は、ストックを基とする。流通している「お金」の働きは、フローによって表現される。
故に、ストックとフローの両面からお金の働きを測定する必要が生じるのである。

ストックは、ある時点における貯蓄、貯蔵品の残高である。フローは、ストックを変化させるある一定期間の経済活動を言う。ストックには、人的要素、物的要素、資金的要素がある。
フローは、財と資金の流れによって構成される。フローの歪はストックに集積される。
そして、フローは、金利や負債の返済、地代、家賃、運転資金、人件費などの維持費用と言った付加価値や費用、時間価値などストックから派生する要素によって制約されている。

故に、ストックで重要となるのは、配分と比率であり、フローで重要になるのは、幅とストックとの関係である。それを現しているのが期間損益である。

注意しなければならないのは、フローとストックにも、人、物、金がある点である。人のストックは、人口や労働力を意味し、物のストックは、生産力や在庫、資源の埋蔵量を意味する。

買い手が財を購入すると手持ち資金は、減少し、売り手の資金は、増加する。経済主体は、常に買い手一方では、資金は枯渇してしまう。故に、経済主体は、売り手と買い手を兼ね、不足した資金を補充し続ける必要がある。この売り買いが資金の基本的な流れを構築する。市場で資金の基本的な流れを作るのは、売買意外に貸し借りがある。資金の調達は、収入を意味し、手段は売り、借りにより。運用は、支出を意味し、買い、貸しによる。
この動きが資金を動かす原動力となるのである。そして、キャッシュフローはこの過程で生じる。

経済的価値は、時間軸が重要な働きをしている。時間軸は、時間価値を生み出す。時間軸は、資金の過不足の変化と資金の流れと結びついて時間価値を形成する。資金の過不足と資金の流れは、ストックとフローを生み出す。
時間価値は、ストックとフローを結び付ける働きをしている。即ち、時間価値は付加価値を生み出し、付加価値は、フローとストックを結び付けていると言う関係が形成される。フローとストックとを切り離して考える人が多くいるが、フローとストックを切り離したら、資金の流れと過不足の関係は見えてこない。付加価値にこそ、「お金」の働きによって形成されるのである。
借入金は、金利に、固定資産は、減価償却費に、土地は、地代家賃に、投資は、利益に、費用は、物価の上昇率に、所得は税に転換され、フローを構成する。ストックの拡大は、時間価値を増大させる。フローの幅は、時間価値を制約する。必然的に比率が重要となる。比率には、ストックとフローとの比率、前年との対比、構成比等がある。そして、前年との増減は、資金の需給を表している。
そして、付加価値を構成する要素は、相互に働きかける。その基礎となるのは、フローの幅である。フローの幅は、ストックとの関係によって相対的に決まる。

「お金」すなわち、貨幣の仕事量は、供給された「お金」、貨幣の量によって測られるのではなく。貨幣が市場に流通した量、回転数によって測られる。
なぜならば、貨幣の効用は、市場取引によって発揮されるからである。市場取引は、財と「お金」、貨幣の交換を通じて実現する。つまり、取引によって「お金」、貨幣の流れが生じる。その流れの量と、速度によって貨幣の仕事量は測られるのである。量と速度は、供給された貨幣の量と回転数によって測定する事が可能である。速度は、時間と距離の関数であるから、一単位当たりの回転数によって貨幣の仕事量は測定される。



キャッシュフローとは何か


キャッシュフローは、現実である。現実の「お金」の出入りに基づいている。それに対して損益は、現実の「お金」の伴わない勘定も含まれる。損益は、「お金」の働きを表す指標だからである。

キャッシュフローとは、有り体に言えば「お金」の流れである。
ただ、会計上のキャッシュフローを単純に現金収支と同じだと考えると、今、なぜキャッシュフローが脚光を浴びているのかの意味が解らなくなる。
会計上のキャッシュフローと言うのは、あくまでもむ、期間損益を下地としたもの、あるいは、期間損益に基づいて作られた表の一つだと考えていい。
つまり、期間損益によって測定された「お金」の働きを「お金」の流れと言う視点からとらえなおしたものだという事である。

現在の市場経済では、「お金」がなければ何も手に入らない。つまりは生きていけないのである。
「お金」は、使えばなくなる。「お金」がなければ生きていけない。だから、現代社会で生きていくためには、常に、「お金」を補充し続けなければならない。どの様にして「お金」を補充するか、つまりは。調達するか。まずは、働いて「お金」を稼ぐか、物を売って「お金」を稼ぐか、誰かから「お金」を借りる事である。貯金があれば、それを取り崩してもとりあえず「お金」を調達する事はできる。このようにして「お金」の流れが生じる。それがキャッシュフローである。「働く」か、「売る」か、「借りる」か、「取り崩す」か、それがキャッシュフローの入り口である。そして、対局に「使う」か、「貸すか」、「貯める」かがある。それが出口である。キャッシュフローの基本的な動きは、これだけである。

今、キャッシュフローが、流行っている。しかし、キャッシュフロー、キャッシュフローと今囃し立てる人の多くには、キャッシュフローに対して誤解がある。キャッシュフローは、「お金」の流れを表しているのに過ぎない。「お金」の働きは、期間損益計算の結果と照合する事によってはじめて理解できる。

ただ、キャッシュフローは、従前の現金主義とは違う。

特に違うのは、キャッシュフローで用いられるのは、整数である。整数であるからキャッシュフローは、負の値をとる事も許されている。
従前の現金主義は自然数による。期間損益主義で用いられるのも自然数である。
つまり、従来の現金主義や期間損益で用いられるのは自然数である。
従来の現金主義や期間損益で用いられているのは、負のない数である。
これまでの現金主義や期間損益主義では、負の値は存在しないのである。
キャッシュフローがなぜ整数価と言うと、キャッシュフローは、方向を示してもいるからである。
現金主義や期間損益主義が量を表しているのに対してキャッシュフローは、方向も含んでいる。つまり、キャッシュフローはベクトルである。
それは、キャッシュフローが資金の過不足に基づいているからでもある。

ただし注意しなければならないのは、あくまでも、キャッシュフローは、近代会計、近代期間損益主義を下地にして成り立っていることである。近代会計や期間損益の概念を習熟しておかなければ、キャッシュフローの意義を理解することは出来ない。期間損益の考え方を前提としないとキャッシュフローの意義も理解できない。

近代社会は、期間損益が形成される過程で成立した。しかし、期間損益だけでは、資金の働きを捕捉するのは難しい。その為に、お金が原因で制御不能な大きな経済的変動に度々襲われるようになってきた。期間損益だけでは制御できない経済的変動に対処するために改めて資金の流れを捕捉する必要が出てきたのである。

経済の仕組みを動かしているのは、「お金」の流れである。
経済の仕組みによって引き起こされる現象を理解する為には、「お金」の流れの働きを明らかにする必要がある。

期間損益の特徴は、試算表に現れる。
試算表が読めれば期間損益とキャッシュフローの違いも際立ってくる。言い換えると試算表から精算表へと変換する過程に現金主義と期間損益の秘密が隠されているともいえる。
つまり、期間損益、その延長線上にある資本主義の考え方は、決算仕訳の中に隠されている。

経済の仕組みを動かしているのは、資金の過不足であり、それは、ストックとして蓄積されている。そのストックを基礎としてフローは形成される。それがキャッシュフローである。
キャッシュフローは、消費に反映されて日常生活や企業の経常的活動を支えている。

貸借・資本取引は、損益上に表れてこない。投資資金の調達や借入金の返済資金の動きは、貸借対照表上の増減、即ち、差額でしかとらえる事が出来ない。また、基本的に利益や資本は、差額勘定なのである。
また、例え、増減によって総額は、把握できたとしてもむどの様な目的、投資なのか、繋ぎなのか、不良債権の清算なのかと言った調達目的やどの様な手段で、どこから資金が調達されたか詳細まで精査しないと掴めない。
基本的に費用勘定のような、借金の返済や投資を意味する勘定そのものがないのである。

財務は、資金調達が主たる働きであるが、もう一つ重要な働きとして繋ぎ資金の調達と借入金の返済がある。繋ぎ資金が調達できず借入金の返済が滞ったり、不渡り手形を出すと経営主体は、経営を継続できなくなり破産する。
つまり、財務こそ企業の存亡の鍵を握っているのである。

財務の役割、必要性は、会計制度の構造から生じた。
財務の流れは、先ず、初期投資の資金調達から始まる。そして、資金は、調達した瞬間から回収、返済が始まる。返済と返済のための原資を考えずに資金調達や投資は行うべきではない。これは、企業会計のみならず家計も財政も同じである。回収と返済と言う両輪がなければ、設備投資であろうと、住宅投資であろうと、在庫投資であろうと、公共投資であろうと投資は成り立たないのである。
資金の回収計画が営業の流れを生み、資金の返済が財務の流れを生む。それ故に、キャッシュフローは、投資キャッシュフローを要として営業キャッシュフローと財務キャッシュフローが生じるのである。




国民経済計算書とキャッシュフロー



国民経済計算は、産出、付加価値の生産(生産)、中間消費、所得の発生、可処分所得の成立、消費と貯蓄、固定資産形成の一連の活動から、経済の実体を観察する。国民経済計算書では、生産は、付加価値生産を意味し、中間消費等を差し引く前の産出と区分する。
産出は、民間企業では、売上に相当し、生産は、粗利益に相当すると言っていい。
分配から見ると第一次所得の配分、第二次所得の配分、現物所得の再配分、可処分所得、最終消費支出、貯蓄という流れになる。
重要なのは、所得の二段階が二段階で発生している事である。
つまり、段階的に所得が発生する事に注目する必要がある。
第一次所得の配分点では、営業余剰・混合所得、雇用者報酬、財産所得、生産・輸入品に課せられる税から補助金を控除したもの。そして第一次所得バランスは、付加価値を構成し、全ての部門を集計したものが国民所得が得られる。
付加価値は、雇用者報酬、営業・混合所得、固定資本減耗、生産・輸入品に課せられる税から構成される。これは、営業キャッシュフローに相当している。
第一次所得は、生産過程への参加、生産に必要な資産の所有の結果、発生する所得である。
ここで注意すべきなのは、営業余剰・混合所得は、中間消費とされ、最終消費には結びついていないという点である。非金融法人、金融機関は、生産主体であっても消費主体ではない。

そして、第二次分配では、所得・富に課せられる経常税が計上される。
所得税は、所得に課せられる税であるから一旦第一次所得分配で雇用者所得を計上しておく必要がある。

この様に個々の部門の所得は段階的に発生する。

税の中で生産・輸入品に課される税として国税は、消費税、酒税、たばこ税、揮発油税、石油ガス税、航空燃料費税、石油・石炭税、関税、とん税、印紙税、たばこ特別税、地方揮発油税、特別とん税、電源開発促進税、地価税、自動車重量税の半分、その他として、中央競馬会納付金、預金保険機構納付金。都道府県民税としては、不動産取得税、鉱区税、道府県たばこ税、地方消費税、ゴルフ場利用税、軽油取引税、自動車税と自動車取得税の半分、市町村税では、固定資産税、都市計課税、特別土地保有税、市町村たばこ税、事業所税、入湯税、水利地益税、その他として地方収益事業収入がある。
そして、所得・富に課される税は、国税では、所得税、復興所得税、法人税、自動車重量税の半分がある。その他に、日本銀行納付金。都道府県県民税では、道府県民税、事業税、地方法人税、地方帆人特別税、自動車税と自動車取得税の半分、市町村税として市長民税、狩猟税。そして。軽自動車税の半分からなる。
基本的に一次分配に徴収される税は、間接税であり、取引の過程で生じる税である。生産コストの一部が購入者や利用者に転嫁されるものと考えていい。
それに対して所得・富等に課せられる税は、所得に直接かけられるために、直接税とされる。ただ法人税が特殊だとされるのは、営業・混合所得と言う中間消費に対して課せられることにある。
いずれにしても税の性格を表し、また、働きを象徴していると言える。
また、相続税、贈与税は、資本税として資本移転と見なされ、所得とはみなされない。

国民経済計算書は、突き詰めると、経済全体の資金の流れと過不足を計測した結果を現した表である。
中でも、GDPは、民間企業における営業キャッシュフローを表した部分と言える。この一事をもって見ても営業キャッシュフローが経済の根幹である事がわかる。



国民経済計算書と日本銀行

資金は、市場を循環する事で効用を発揮する。故に、市場に流通する「お金」の流通量は、単位量と回転数の積で表せる。
日本銀行券の発行残高とベースマネーを単位量として総生産に対する回転数を測ってみると71年のニクソンショック以前は、日本銀行券で18回転、ベースマネーで16回転ぐらいしており、70年代から80年代を通して銀行券ベースで16回転、ベースマネーで12回転していたのが、バブル崩壊後急速に低下した。それでも日本銀行券を基準にすると6回転くらいは維持しており、ベースマネーの回転数が異常であることがわかる。

GDPは、経済全体の中の付加価値を表していてる。資金の付加価値は、部門間の取引によって生じる資金の過不足によって形成される残高項目である。この事は、経済の本質の一局面を表している。

GDPが営業キャッシュフローを表しているのに対して、総資本形成は、投資キャッシュフローにあたる。また、金融勘定は、財政キャッシュフローを構成する。

原則的に企業会計におけるキャッシュフローと国民経済計算書におけるキャッシュフローの違いは、企業会計上のキャッシュフローは、一面的、一次元的なものであるのに対して、国民経済計算書のキャシュフローは、立体的で四次元的なものだという点である。

企業会計上のキャッシュフローが単体のキャッシュの受け払いを表しているのに対して、国民経済計算書のキャッシュフローは、部門間のキャッシュの遣り取りを立体的にとらえている事にある。
故に、国民経済計算書は、企業会計より包括的にキャッシュの流れを捉えていると言える。

企業のキャッシュフローは、現金の出納、つまり、入出金を基礎として資金の働きを測るのに対して、国民経済計算書は、部門間の現金の授受、増減等を通して資金の過不足の原因を明らかにしようとしている。

故に、部門間、要素間の資金の割り振り、遣り取りが要点となる。この事は、経済の仕組みが何によって動かされているかを明らかにしている。

国民経済計算は、経済循環を表している。国民経済計算書によると労働と資本を市場に投入し、財やサービスを生産し、それを市場を通じて分配する。経済活動は、資金を循環する事を繰り返す事で成り立っている。
経済循環を部門間、要素間の資金の流れとして、一覧的にとらえるのが国民経済計算書である。

個々の要素は各々部門と結びつく事で働きの性格がわかる。雇用者報酬は、家計部門だけに現れる。営業余剰・混合所得は、非金融法人、金融法人、家計の三つの部門に現れる。生産・輸入品に課せられる税は、一般政府にのみ現れる。
全ての部門に現れる働きと特定の部門に現れる働きは、その性格が違う。

資金の流れから経済の状態を見るためには、単に、一要素、一部門の流れだけを追っても明らかにできない。分数の要素、部門を立体的に分析する必要がある。
また、要素によっては、受け取り側と支払側、双方に現れる要素がある。その場合は、受け取り側と支払い側双方の働きを見る必要がある。

国民経済計算書2008SNAでは、第一次所得の配分勘定、所得の第二次配分勘定、現物所得の再配分勘定、所得の使用勘定の段階を経て配分される。
経済の仕組みの根本は、分配構造にある事がここからもわかる。
そして、経済の仕組みを動かしているのは資金の流れである。

故に、キャッシュフロー、資金の流れを見る事で経済の状態や問題点を明らかにできる。

要点は、どの部門のどの要素から発してどの部門のどの要素に受け入れられたかである。どこに、どれだけ入って、そこから、何が、どれだけ出て、余りがどこに、どれだけ蓄積されたかを見れば経済の実態がわかる。その過程でどのような働きをしたのか。また、どの部門のどの要素の比率が増えて、どの部門のどの要素の比率が減ったか。それが、資金の働きを表している。量と比率が重要となる。
基本的に経済は、分配の仕組みであり。経済は、生産、分配、消費、貯蓄の流れに沿って動いていると考えていい。そして、生産、分配、消費、貯蓄の段階ごとに、どの部門のどの要素に資金がどれくらい、どの比率配分されたかが鍵となるのである。
さらに、どれだけ生産され、生産された物のどれだけが消費され、どれだけが在庫に回されたか。
また、どれだけの所得が生まれてそのうちのどれだけが支出に回され、どれだけが貯蓄されたか。
これらによって資金効率が測られる。
問題は、一定の周期で資金が還流しているか、各部門を循環しているかが重要となるのである。資金が還流しなくなると資金は澱み、滞留し、偏りが生じる。その結果、経済の仕組みが正常に機能しなくなるのである。

それ故に、重要なのは、残高項目で、残高項目には、付加価値、営業余剰・混合所得、第一次所得バランス、企業所得、可処分所得、調整可処分所得、貯蓄、純貸出/純借入、正味資産、正味資産の変動がある。

GDPは、付加価値、営業キャッシュフローを表し、一つの局面(生産面)は、国内産出分、即ち、産出から原材料などの中間投入した部分を差し引いた値を意味し、もう一つの局面(分配面)は、雇用者報酬、営業余剰・混合所得、生産・輸入品に課せられる税から補助金を引いた値、固定資本減耗の和を表し、もう一つの局面(支出面)として最終消費費支出、総資本形成、そして、輸出の和から輸入を引いた値として表される。
この三つの局面は等しく、三面等価と言う。
同時に部門間の差は、資金の流れた結果として表される。

即ち、付加価値には、生産、分配、支出の三つの局面があり、個々の局面には固有の働きがある事がわかる。




国民経済計算書

分配は、付加価値を表しているが、付加価値の中で雇用者報酬は、一定な割合を示しているのに対して営業余剰、即ち、営業利益の割合が圧縮されその分、固定資産減耗、即ち、減価償却費の割合が増加しているのが読み取れる。
支出面からすると総固定資本形成が圧縮され、政府最終支出が増加している。



国民経済計算書

分配によって資金が配分され、支出によって財やサービスが配分される。余った物が貯蓄へ回される。

分配は、雇用者報酬として家計に、営業余剰・混合所得として家計、非金融法人、金融法人に、生産・輸入品に課せられる税として財政部門に現れる。なお、税には、生産・輸入品に課せられる税のほか、所得・富等に課せられる経常税と資本税が加えられる。
最終消費は、一般政府と家計部門に現れ、非金融法人、金融法人には現れない。非金融法人、金融法人は、中間消費として第一次所得の配分勘定に、営業余剰・混合所得として現れる。

資金の働きは、収支を見て見なければわからない。
例えば、輸入だけ見ていても、輸出だけ見ていても貿易の働きは理解できない。輸入と輸出の平衡を見ないと貿易の働きは明らかにできない。財政も、企業も、家計も、金融も同様である。


国民経済統計

雇用者報酬と民間最終消費との間に乖離が生じたのは、バブル崩壊時だが、決定的な差が生じ始めたのは、1997年、三洋証券、山一證券の破綻、北海道拓殖銀行の破綻と言った一連の金融機関の経営破綻が明らかになった金融危機の時である。


国民経済計算書

資金の流れを見る時、注意する必要があるのは、経常的な収支と資金移転の違いである。
税にも付加価値に現れる税の働きと付加価値上に表れない資金移転とがある。
相続税や贈与税は、資産の変動に現れる。


国民経済統計

最終消費支出は、制度部門としては、家計、一般政府に現れるが、企業法人や海外部門には現れない。
それは、企業法人は、消費主体ではないことを意味している。
最終消費とは、制度単位が財貨やサービスを使い尽くす事を意味している。

事業の流れ


一般に経営主体の業績は、期間損益によって測られる。しかし、一定期間に安定した収益があげられるまでには、一定の準備期間がある。
即ち、事業の流れは、資金調達に始まって、投資があり、その上で期間損益が成り立つ。事業が軌道にのり安定した収益を上げる事で投資した資金は回収されるのである。

事業には、創業期、成長期、成熟期、衰退期、復興期と言う段階を繰り返す。復興に失敗すると事業は生産される。
そして、各段階ごとに固有のキャッシュの流れがある。
全ての事業には、始まりがある。何事も始めが肝心と言われるように、始点は、全ての事業の基礎を構築する。故に、創業時の瑕疵は、以後の事業全般に影響する。だから、創業時の資金調達の手段が重要になるのである。

資金調達が財務キャッシュフローの基礎となり、投資が投資キャッシュフローの基礎を形成する。

大前提は、長期短期は別に期間損益には、準備期間があるという点である。その間は、収益が上げられない。故に、創業時は、生産的手段以外の手段によって資金調達をする必要がある。この点は、民間企業だけでなく全ての経済主体、財政も、家計も、金融機関も、対家計非営利団体も経済主体全てに共通している。

故に、まず前処理段階にあるのが、前処理機関は、資金調達と投資期間だと言える。
前処理段階と言うのは、消耗戦の期間である。つまり、生産による収入がなく、支出ばかりであり、生産に基づく収入以外の手段で収入を計っていく必要がある。その為に、資金的には最も脆弱な段階でもある。
生産的手段以外の資金調達とは、貸借と資本である。
そして、この資金調達の手段と投資が経営の枠組みを形成するのである。損益の形、固定費変動費の関係はこの時形作られる。

財務キャッシュフローの基礎となるのは、金融の損益である。

事業が立ち上がると生産、分配、再投資の流れが形成される。主たる再投資は、拡大再生産を基にする。

一般に事業には、第一に、人事・労務。第二に、仕入・購買・在庫。第三に、企画・統制。第四に、渉外、営業、販売。第五に会計・財務。第六に、生産・業務等の働きがあり、企業の成長とともに組織的に分化していく。個々の部門が有機的に連携しながら事業は発展していく。
そして、組織的な分業が確立される過程で事業の流れは形成されていく。分業は、組織の部門を形成していく。そして、部門が成立するにしたがって部門ごとに費用が形成される。費用は、支出の流れの源になる。
何に対して、どれくらいの「お金」を使うかは、分配の要になる。

市場の状態変化によって事業主体の構造も変化する。経営主体の構造には、人的構造、物的構造、金銭的構造があり、これらの構造は、市場や空間、環境の変化によって影響を受け、変化する。環境の変化に適合できない経済主体は淘汰されていく。

創業期、成長期、成熟期、衰退期、復興期では、「お金」の働きや流れは違ってくる。
創業期、成長期、成熟期、衰退期、復興期では、経済主体を流れる「お金」の働きは、違ってくる。特に、成長期と成熟期とでは「お金」の働きが違ってくる。この点を読み違うと経済主体は一気に衰退期へと向かう事になる。気を付けなければならないのは、フローとストックの関係である。成長期と成熟期では、フローの働きの方向とストックの働きが正反対な動きをする場合がある。見極めを間違うと違う方向の働きを増幅する結果を招く危険性がある。

経済を制御するためには、環境の変化に対応して、市場や経済主体を流れる「お金」の方向と速度、量、そして、対象が経済のどの部分にどの様な影響を与えるかを、常に、明らかにし対策を立てる必要がある。

経済を制御するためには、人が、操作できる部分が、どこでその部分を、どの様に操作したら、どのような効果が現れるかを知る必要がある。

市場は、ブラックボックスであり、市場の動きを正確に読むことは難しい。要は、インプットとアウトプットから市場の動きを読み解くのである。その場合、何がインプットであり、何がアウトプットなのかを予め見極めておく必要がある。その上でどのようなインプット、即ち、政策をとるべきか、そして、どの様な仕組みに変えていくかを判断していくのである。

経済政策で、まず、操作できるのは、公共投資のような投資である。次に、税、国債、給付金、所得、そして、金利である。直接操作できない要因は、物価、売上、雇用、在庫、株価などである。直接的に操作できるよう県に基づいて物価や売上、雇用、在庫、株価などを制御するのが経済政策である。
また、操作できる部分は、先行的に現れる指標として設定する事が可能である。問題は、直接的な施策が直接操作できない要素に、どの様な仕組みで、影響するかを明らかにできるかである。

営業キャッシュフローは、基本的に売買取引における資金の流れを補足している。つまり、実体経済の流れである。財務キャッシュフローは、貸借取引と資本取引を補足している。投資キャッシュフローは、固定資産の増減から設備投資の流れを補足している。

これらの資金の流れを解析すれば経済の動きは、かなり正確に読み解く事が出来るはずである。経済は、極めて数学的で論理的なのである。その点でいえばわかりやすいはずであるが、わかりにくくしているのは、人間の思い込みと施策である。

市場経済を動かしているのは、部門間の資金の過不足による。故に、財政赤字は、部門間の資金の歪を見てみないと何とも言えない。
資金の流れを制御しようとし場合、基本的に家計部門と民間法人部門の短期的では、交互に資金不足部門と余剰部門とを入れ替わるように誘導する。
通常は、財政部門は、中立的、即ち、均衡した上に置かれるようにするが、資金を供給する時に財政部門を資金不足部門とするよう調節する。その場合、財政部門は、期間損益(プライマリーバランス)を基準にしてに資金の動きを制御する。
海外部門は、国際分業の観点に立って経常収支と資本収支が均衡するように調節する。
金融部門は、中立的立場を維持するように制御する。
絶対に赤字は悪いと決めつけるのではなく。資金と損益の関係をよく見て判断するように心がけるべきである。

キャッシュフローの三つの働き



会計上、「お金」の流れ、すなわち、キャッシュフローには、三つの働きがあるとされている。第一の働きは、営業キャッシュフロー。第二の働きは、投資キャッシュフロー。第三の働きは、財務キャッシュフローである。

損益に関わる収支の根拠が営業キャッシュフローだといえる。
貸借に関わる収支の根拠が財務キャッシュフローと投資キャッシュフローといえる。
財務キャッシュフローは、貸し借りに関わる「お金」の流れ、投資キャッシュフローは資産に関わる「お金」の流れとみる事もできる。
また、運転資本にかかわる資金の流れが財務キャッシュフロー。固定資産の形成、生産手段にかかわる収支の流れが投資キャッシュフローと言える。

営業キャッシュフローは、経営主体本来の日常活動による「お金」の働きを指す期間損益上においては、営業利益、あるいは、営業利益を生み出す為の「お金」の働きをである。
営業キャッシュフローは、営業利益を生み出す際、その基礎となる「お金」の働きも含んでいる。営業利益を生み出す為の基礎的な働きには、営業活動によって生み出される「お金」以外に、生産手段である設備にかかる「お金」の働き、取引上の「お金」過不足を補う働きが含まれている。

営業利益は、投資にかかった費用を単位期間に按分したり、また、運転資金から生じる時間差を調整したものを集計した結果である。その意味で営業利益に相当するのは、営業キャッシュフローと投資キャッシュフローを合計した部分だともいえる。

営業キャッシュフローは、日常の現金収支、すなわち、短期的「お金」の働きを表し、売買取引を基本としている。
投資キャッシュフローは、生産手段に対する現金収支を表し、長期的「お金」の働きを示し、基本的には貸し借りに基づいている。
財務キャッシュフローは、お金の過不足を調節する働きを示し、投資キャッシュフローと同様、貸し借りに基づいている。
経済全体から見て営業キャッシュフローそのものは、「お金」の供給量を増やしたり、減らしたりはしない。なぜならば、営業キャッシュフローは、売買取引を基礎としているからである。
「お金」の流通量は、「お金」の供給量と回転数の積である。つまり、「お金」の流通量を増やすためには、供給量を増やすか、回転数を増やすかしかない。供給量を増やす取引が貸し借りであり、回転数を増やす取引が売り買いである。そして、営業キャシュフロート、投資キャッシュフローを結びつけているのが財務キャッシュフローである。

会計上では、営業キャッシュフローと投資キャッシュフローを合計した値、フリーキャッシュフローとして重視している。
投資キャッシュフローは、投資にかかった費用を期間に按分する以前、当期にかかった投資の費用を集計した値である。直接的に投資にかかった費用を算出できない場合は、固定資産の前期と当期の差額から求める事も許されている。この様に前期と当期の差から割り出す計算方法を間接法といい、借入金等も前期当期の増減から割り出す間接法が用いられる事が多い。ただ間接法は、総額ではなく、純額である点は留意する必要がある。
また、投資の中に金融資産に対する投資を含めるか否かは議論が分かれるところである。
フリーキャッシュフローが不足した場合、経済主体は、「お金」が回らなくなる。
財務キャッシュフローは、フリーキャッシュフローによる「お金」の過不足を補う為に派生する。必然的にフリーキャッシュフローの過不足を前提とする。また、資金の調達先、資金源が重要となる。資金の調達先には、内部資金と、外部資金がある。内部資金は、利益、内部留保、減価償却費からなる。外部資金、負債である。負債を保証するのは、資産である。
資産は、資金調達を担保する働きがある。

「お金」は使えばなくなるのにである。故に、絶えず補給し続けなければならない。しかし、だからと言ってやみくもに「お金」を供給すればいいという訳ではない。
問題は、どの時点で、どの様な手段によって「お金」を補給するかなのである。
重要なのは、供給量が少ないのか。回転数が悪いのかを見極める必要がある。


キャッシュフローの働きは部分を見ただけでは解明できない。



全体は部分から成り、全体の働きは、部分の働きに制約される。部分の働きは、全体の働きから制約され、全体の働きに従う。
部分が全体との関係を立てば、部分はそれ自体が全体となって自分だけで自分を律していかなければならなくなる。

現在経済は、群盲象を評す状態である。
断片をつなぎ合わせて全体を捉えようとしている。
しかし、部分を見ただけでは、全体の働きや仕組みは見えてこない。

例えば、一企業の経営状態を分析したからと言って産業の実態がわかるわけではない。ただ産業全体の状態を知るための有効な情報であることは間違いない。しかし、利益の持つ働きをよく知らなければ、利益の果たしている役割は解明できない。

資金の働きには、短期的働きと長期的な働きがある。短期的な働きは、損益を形成し、営業キャッシュフローに対応する。長期的な働きは、投資キャッシュフローに対応している。そして、長期的資金の流れと短期的資金の流れをの不均衡を補っているのが財務キャッシュフローである。

リーマン・ブラザースの破綻は、瞬く間の内に世界市場に伝播し、世界経済を硬直化させ、危うく破綻させてしまうところであった。しかし、リーマンショックを引き起こした人たちは、自分たちの行為がそれほど深刻な事態を引き起こすとは思いもよらなかったようである。

国家財政も多国籍業も、中小企業も、個人商店も、メガバンクも一個人の家計も市場全体を構成する一要素に過ぎない。そして、市場を構成する膨大な数の要素の一つひとつの働きが、経済全体の仕組みを形作り動かしているのである。
そして、その一つひとつの部分を動かし、全体を制御している力が「お金」なのである。

キャッシュフローの働きは、個別の経済主体だけでは理解できない。全体の中でお金の流れる方向を見なければキャッシュフローの働きは解明できない。

キャッシュフローには、売買による流れと、貸借による流れがある。短期的な流れは、売買によって作られるが、貸し借りによって作られる流れは、損益上に現れず、貸借上に間接的に現れる。
現金、および現金同等物を除く資産の増加は、キャッシュの減少を意味し、現金および現金同等物を除く資産の減少は、キャッシュの増加を意味する。この関係は、簿記取引と表裏を為している。


法人企業統計

バブルの形成とバブル崩壊に何が一番働いたか、また、影響を受けたのか財務キャッシュフローを見れば一目瞭然である。バブル形成と、バブル崩壊にもっもとかかわったのは、財務、即ち、金融の動きである。

プラザ合意後財務キャッシュフローは、急速増加している。ここで増加した財務キャッシュフローがバブルの形成と崩壊に深く関わっていたのがよくわかる。

バブル崩壊後も営業キャッシュフローは大きく影響を受けたようには見えない。それに対して、バブルが崩壊すると急速に財務キャッシュフローは低下している。投資キャッシュフローは、バブル崩壊後上昇しているように見えるが、これは、投資が控えられている事を意味している。
1998年から1999年に投資キャッシュフローが大きく下降しているように見えるが、不良債権を処理した結果だと考えられる。

地価の変動と財務キャッシュフローの動向を重ねてみると財務キャッシュフローに地価が与えた影響が大きいのが読み取れる。




1974~2013 財務CF 公示47住宅指数
財務CF 1
公示47住宅指数 0.56 1

1974~1990 財務CF 公示47住宅指数
財務CF 1
公示47住宅指数 0.97 1

1991~2013 財務CF 公示47住宅指数
財務CF 1
公示47住宅指数 0.87 1

1974年から2013年までを比べてみるとさほど大きな相関関係がある様にはみられないが、1990年で分けて見てみると強い相関関係が現れてくる。

注目すべきなのは、財務キャッシュフローの大幅な乱高下である。この様な財務キャッシュフローの動きは、結果なのか、原因なのか解釈は分かれると思う。しかし、何らかの相関関係があった事は否定できない。
この事は、資金調達の流れが大きく変わった事を意味する。そして、この変化が、空白の十年、二十年、三十年と言われる長期停滞、デフレーションの主因だと考えられる。
資金の流れが外部資金調達から内部資金調達へと変わったのである。この時、どの様な政策がとられたか。それが長期停滞の謎を解く重大なカギを握っている。

経済には、時間が大きく関わっている。利益にしろ、金利にしろ、付加価値にしろ、資産価値にしろ、純資産にしろ、税にしろ、二時点間の価値の差によって成り立ている。
時間価値というものを考えないと経済の本質は理解できない。

一時点の結果だけとらえていては、利益や金利の働きは解明できない。
ところが今日、単年度、単年度の結果だけみて経済の施策や対策を立てようとしている。それでは、経済の問題を解決する事はできない。
経済は、資金の過不足によって成り立っている。赤字だから悪くて、黒字だからいいといった短絡的な捉え方では、経済の実相を理解する事はできない。

インフレーションにせよ、デフレーションにせよ時間的な問題である事には変わりないのである。大切なのは過程である。

現在の経済体制は、決済制度を共有することで成り立っている。決済制度は一種のネットワークである。
個々の経済主体は、この決済制度の上にあって働きを発揮する事が可能となる。電気製品が電気が流れなければ作動しないように、「お金」が流れなければ、経済主体は動かないのである。
この様な経済主体は、全体の統制のもとで動く部分に過ぎない事を理解しておく必要がある。これが大前提となるのである。




営業キャッシュフロー


キャッシュフローの中核は、営業キャッシュフローである。
営業キャッシュフローが絡まなければ付加価値は、変化しないからである。

「お金」の流れには、経常的な流れ、投資の流れ、資金調達の流れがある。
投資によって生まれる流れは、投資キャッシュフローであり、資金調達の流れは、財務キャッシュフローとなる。
経常的流れは、一般に営業キャッシュフローとよばれている。営業キャッシュフローは、家計ていえば生計である。

経常的と言うのは、言い換えれば日常的と言える。つまり、日常的な「お金」の流れが営業キャッシュフローである。経常的な資金の移動は、収益と所得である。
収益や所得もないのに、経営や生活が成り立つのがおかしいのです。何から収入を得るのか、自給自足の時代ではないのですから、借金をするか、貯蓄を取り崩すしかない。いずれもストックで生計をたてている事になる。

経営や生計の経常的経済活動を成り立たせているのは、所得や収益である。この点を忘れるとストックとフローの関係がおかしくなる。
経常的な資金のフローが抑制されると、ストックが上昇する。ストックが積み上がるとその圧力がフローにかかってくるのである。
その限界を超えると蓄えられたストックのエネルギーは一気に市場に放出される。

今の経済のおかしさがそこにある。本業で収益が上がっていないのに、金融や投機で利益が上がっているようではまともではない。それは、正業で生計をたてずに賭博や博打で生計をたてているのと同じである。まっとうとは言えない。まっとうとは言えないのに、その分別すら現代人はつかなくなってしまった。経済が傾くのは道理である。借金や博打で生計をたてるのはおかしい。
今の経済は、金融や投機でしか経営が成り立たないのである。
そうなったら、先ず、生活を立て直し、まともな商売で生計が立てられるようにすべきなのである。

一般にフローとは、経常的な資金の移動が観測される事象である。投資キャッシュフローや財務キャッシュフローは、長期的な資金の流れを意味する。フローと言ってストックの元となるフローである。一般に市場を恒常的に動かすフローは経常的フローである。経常的フローは、現金主義からみると収入、期間損益からすると収益として認識される。ストックを解消する手段は、フローにしかない。この点を忘れてはならない。

キャッシュフローは、経常的な資金の流れが核となる。経常的キャッシュフローとは、基本的に営業キャッシュフローを言う。故に投資によって作られた資産と負債は、収益の中から清算するのが原則となる。

一部に、財政問題などで負債の対極に資産があるのだから、それを相殺すればいいといった意見もあるが、これは暴論である。
例えば、住宅ローンを組んで家を買たら家という資産があるから、借金はないの等しいと言っているような事である。
財政は、家計や非金融法人と違って通貨の発行券があるのだから、収入がへったら紙幣をどんどんすればいいというのは、一面しか見ていない。そんなことをしたらストックは、フローとかかわりなく際限なく膨張してしまう。それがいくいくは、フローを締め付けてしまうのである。
現実は、家のローンは、所得の中から返済されているのであり、返済が滞れば家を取り上げられてしまうのである。家は担保でしかなく、使用価値は、約定通り、所得から返済されている事が前提なのである。だとしたら、所得をいかに維持すべきかが鍵なのであり、ストックどうしを相殺したところで、フローを悪くするだけである。

フローは、部門間の過不足によって流れる方向が定まる。故に、部門間の歪を是正する事で、フローを調整しないと抜本的な解決には結びつかない。

一般に貨幣価値を位置エネルギーとしてとらえがちだが、貨幣は、運動する事によってその効力を発揮する事を忘れてはならない。つまり、いくら手元に残っているかではなく。いくら使ったかによって経済的効用は測られる。部門間の負債を相殺しても経済的な効用は得られないのである。
資金の流れは、部門間を経由する度に要素を変換する。例えば、家計に所得として流れる事で生産手段としての労働力を引き出す。家計から企業法人に支出として流れる事で、企業法人から資金を財に変換すると言うようにである。

営業キャッシュフロー短期資金の流れの波を形成する。
投資キャッシュフローは、長期資金の流れの波を形成する。財務キャシュフローは長期短期の資金の過不足を補う働きをする。

営業キャッシュフローは、営業損益要因、債権債務要因、投資活動及び財務活動以外の取引から生じる要因、公的要因等から構成される。
投資活動及び財務活動以外の取引から生じる要因には、保険収入や損害賠償金の支払いなどがある。

営業キャッシュフローは、付加価値を現している。それは、間接法による営業キャッシュフローを見ると顕著である。

付加価値は、市場の状況や環境、経済の発展段階などに応じてその働きや性質を変える。
高度成長期の市場は、市場の水平的広がりによって垂直的拡大が促されることによって調和が保たれてきた。しかし、市場が飽和状態になり水平的な広がりが期待できなくなると付加価値は、量的拡大から質的拡大へと変化し、密度の調和が求められるようになる。
市場が飽和状態に至ったら無理の量的拡大は、経済の仕組みそのものを毀損してしまう。日本の高度成長は、技術革新によって第二次産業に余剰人員を吸収する余地が生じる。その事で、第一次産業の余剰人員が第二次産業に吸収され第一次産業の生産効率も上昇する。それが第三次産業の発展を促すという好循環が生まれた。それが高度成長の原動力である。しかし、問題は、格差である。高度成長は、成長の度合いによって格差を生む。それは、階級的格差、地域的格差、国家的格差、産業的格差となる。この格差が、世界に修復困難な亀裂を生じさせるのである。
この格差が拡大し、清算するのが不可能な状態に陥ると市場は、暴力的な手段で解消しようとする。それが恐慌であり、ハイパーインフレーションであり、財政破綻であり、革命であり、戦争である。

営業キャシュフローを構成する要素は、利益、運転資本、金利、減価償却費、租税公課である。

営業キャッシュフローは、短期的資金の働きを表わしている。
短期資金は、流動性が高い事が特徴である。
故に、短期資産や短期負債を流動資産、流動負債という場合もある。広義の運転資本は、流動資産から流動負債を引いたものである。
そして、短期的資金の働きは、収益や費用に反映される。故に、営業キャッシュフローは、損益と深いかかわりがある。

運転資本は、経常的取引から生じる金融機関以外からの貸借である。運転資本で生じる資金不足は、短期借入金によって補填されることが原則とされる。
広義の運転資本は、流動資産と流動負債との差額を言う。これは、流動比率に対応している。
狭義の運転資本は、売上債権と買入債務、そして、在庫から構成される。売上債権や買入債務、在庫が派生する原因は、それぞれ固有のものだが、最終的には倉庫背に影響を及ぼし関連付けられる。
運転資本は、経常的活動を制御する行為であるから、その時点その時点における経済主体の外的環境、内的環境を反映している。故に、運転資本の動向を分析する事で、外的、内的環境の変化を探る事が出来る。

債権は資産であり、債務は負債である。

運転資本は、市場の動向や産業・企業の状態をよく反映している。市場が拡大期の時は、売上債権が拡大し、費用が高騰すると仕入債務が上昇する。市場が拡大均衡状態にあるか、縮小均衡状態にあるかは、運転資本の幅に現れる。在庫には、市場の需給関係を表れる。また、為替の変動も反映される。
運転資本は、経常取引の資金繰りを表しており、与信、受信関係が反転する事は、市場の力関係が逆転した事を暗示する。要するに、借り手と貸し手の力関係の差が出るのである。

ただ気を付けなければならないのは、複式簿記の基本は、残高主義であり、最終的な帳尻は、残高であって、均衡を意味しているわけではない事である。つまり、最終的な帳尻がゼロ和になるとは限らない。運転資本も必ずしも均衡するわけではない。

運転資本は、産業毎の性格を色濃く反映している。全産業を一律の指標によって判断する事は難しい。しかし、全産業の運転資本の動向は、個々の産業を一律に測る指針にはならないが、その時点その時点の一国の経済や産業の傾向を判断する上で重要な指針である。
鍵を握るのは、売上債権、買入債務、在庫が何によって影響を受けて変化するかである。それを明らかにすると経常的取引に変化を与える市場の仕組みが明らかになる。ひいては、経済を制御する手段を知る事にもなる。



法人企業統計


在庫が表しているのは、一つは、原価である。二つめは、物的貯蔵、即ち、物的ストックである。貯蓄品としての在庫は、経済的価値の本質を表している。三つめは、市場環境や動向を表している。
「お金」の特徴の一つの保存と言う働きがあると言われる。なぜ、価値の保存が「お金」の働きで重要となるのかと言うと「お金」以外に経済的価値を保存できる財と言うのは少ないという事である。そこに「お金」の希少性と言う特性が働く。現在の様な表象貨幣になる以前は、金銀と言った希少性を保存できる財が貨幣として用いられた意義は価値の保存性にある。
石油や金属の様な長期にわたって効用を保存できる財もあれば、生鮮食品の様に鮮度が保てない財もある。また、家電製品や洋服の様に流行り廃りがある物もあり、パソコンの様に技術革新によって商品が陳腐化する物もある。この様な財の性格が在庫の性格を左右する。そして、それが経済の本来の在り方である。

在庫は、原価を表す。原価と言うのは、原材料価格を意味すると同時に、財の生産過程を表している。在庫は、仕入時期や評価の仕方によって差が出る。また、在庫量は、利益に影響を与える。利益に影響を与える事で度々利益操作に使われる。
在庫は、前期残高と今期残高の差額を意味する。残高は、残額と言う意味と残量と言う意味がある。在庫の評価基準は、在庫の金額に重大な影響を与え、ひいては、利益に重大な差をもたらす。
これらの事を検証しながら総合的に判断しないと在庫の働きは理解できない。

運転資本は、短期の資産と負債の均衡を見る指標である。また、産業の特性や状態をよく表していると言える。
小売り業界は、バブル崩壊後、短期負債に対して短期資産が長期にわたって不足していたことがわかる。つまり、非常に厳しい資金繰りに追われていたことになる。




不動産業界は、バブル崩壊後資金繰りが不安定な状態が続いている。

電力業界も長期にわたって短期資金が不足しているが、安定した収益が見込める事から問題視される事はなかったが、東日本大震災後は、短期資金が大幅に不足していることが読み取れる。



広義の運転資本の動きは、規模によっても大きな違いがある。
プラザ合意後や金融危機に資本金十億円以上の企業は、大きく運転資本を増やしているのに対して資本金五千万円から一億円の中堅企業は厳しい資金繰りが続いた事が窺わされる。

流動資産と流動負債の問題は流動比率の問題でもある。つまり、流動性の問題である。一般に、流動比率は100%以上、高ければ高いほどいいとい言われるが、現金商売、日銭が入る商売は、100%以下でも問題がないとされる。むしろ、流動性の変化の方が重要な意味を持つ事が多い。









営業キャッシュフローは、売り買いによって成立し、短期的資金の流れを作り、所得の本となる。
但し、営業キャシュフローの一部にも貸し借りがあるが、それは短期的な貸し借りを根本としている。
後の投資キャッシュフローと財務キャシュフローは、基本的に貸し借りによって成立し、長期的資金の流れを作り、貸借の本となる。

狭義の運転資本は、売上債権、買入債権、在庫から構成される。さらに、売上債権と買入債権、在庫に分解できる。
在庫は、売上原価に係り、評価の仕方、回転によって利益率に影響を与える。

売上債権と買入債務を見てみるとバブル崩壊後、資金の流れが変わった事が読み取れる。
市場が拡大している時は、慢性的に資金が不足し、市場が成熟すると資金が余ってくる。



売上債権と買入債務の増減に在庫の増減が加わって運転資本を構成する。
売上債権は、売上を反映し、買入債務と在庫は、売上原価を反映する。また、在庫は、生産量と販売量の関係を表している。

売上債権を左右するのは、売上高であり、買入債務を左右するのは、仕入や購買である。故に、売上債権は、収益の変化や市場の状態に伴って増減する。それに対して買入債務は、仕入の動向によって左右される。基本的に原材料の価格動向の影響下にある。海外からの原材料に頼っている場合は、為替の影響もうける。
売上高は、仕入の影響を必然的に受ける。しかし、問題は、タイミングで、どちらが先行するかによって運転資本には差が生じる。
在庫は、収益と仕入、双方の影響を受け、その為に評価の基準、手段が重要となる。
特に在庫は、生産と販売の差や市場の変化を先行的に表す傾向がある。故に、先行指標として扱われる場合が多い。

バブル崩壊後の資金の流れの変化は、より顕著に運転資本にも現れている。
在庫が景気を反映して動いているのも見て取れる。在庫投資もバブル崩壊から流れが変わっている。


法人企業統計


運転資本の不足は、短期借入金によって補填するのが原則である。
運転資本の不足と短期借入金を重ね合わせてみるとほぼ一致する。
ただプラザ合意後バブル崩壊に至るまでは、運転資本は、大きく不足し短期借入金がそれを平準化するような動きをしている。


法人企業統計

バブル崩壊時は、売上債権や在庫は、資金需給から見るとマイナスが増加であるから、売上債権、在庫、買入債務が減少している。つまり、資金余剰を表している。これは、信用取引が滞っている事を暗示している。リーマンショック時も同様の動きがみられる。
それに対してバブルの形成時は、大幅な資金不足を表している。

製造業は、プラザ合意以前は、運転資本と短期借入金の間に大きな乖離は見られない。運転資本の不足分は、短期借入金で補てんしていたのが読み取れる。それがプラザ合意後には、運転資本と短期借入金との間に微妙なずれが生じている。運転資本の過不足を和らげるような形で短期借入金が利用されている。


法人企業統計

不動産業界は、バブル期に多額の資金が必要とされたのがわかるが運転資本短期金融機関借入金の間に大きな乖離は見られない。要するに運転資本の不足分は、短期借入金で賄われたことがわかる。それに対して金融危機時においては、運転資本と短期借入金の間に乖離が生じた。



法人企業統計

また、支払利息は、金融機関借入金を分母として利益、減価償却費、人件費等とともに付加価値を構成する。

営業キャッシュフローと収益との主たる違いは、減価償却費である。

減価償却費は支出を伴わない費用だといった説明をされ、誤解されているところがある。
支出のない費用はない。費用は、支出を伴い事であり、ただ、費用の発生と支出との間に若干の時間差が生じる場合があるだである。減価償却費は先払い費用であることを忘れてはならない。
市場経済というのは、時間価値によって成り立っている。それ故に、減価償却費は、時間価値を形成する要素ではある。

俗にいう黒字倒産というのは、運転資金がショートする、つまり、調達できない事に起因する。長期借入金は、経常的な資金の不足ではない。長期借入金の返済が滞っても経営に直接的に影響をするわけではない。逆に、運転資金が不足すると仕入ができなくなり、人件費も、税金も払えなくなる。お金が回らなくなるのである。その結果、経営は成り立たなくなり破産する。見かけ上、利益が上がっているのに、運転資金が不足して起こるのが黒字倒産である。

バブル崩壊後、貸し渋りや貸し剥がしが行われたのは、投資資金ではなく運転資金に対してである。運転資金は、表面に現れないから金融機関は、貸し渋りや貸し剥がしはしてないと言っていただけなのである。

金融機関は、担保不足を理由にして赤字主体に資金を融通しなかった。遡れば円高不況の時も健全な赤字主体に資金を供給せずに、担保主義に走った。それがバブルの原因となったのである。そして、資産価値が下落すると資金の貸出先がなくなってしまったのである。
結局、金融機関は自分で自分の首を絞めてしまったのである。

資金の過不足を調整するのが金融機関の役割である。そして、資金の過不足を制御するためには、長期的な構想、展望を基礎としなければならない。
その展望や構想がなく、目先の利益を負えば資金を適切に配分する事が出来なくなり、偏った流れを生み出す事になる。それが社会や市場構造を混乱に陥れ、最悪の場合破綻させてしまうのである。




在庫と経済の関係


在庫や設備投資は、景気の動向を占うための重要な指標の一つとされている。それは、市場の置かれている状態を先行的に表すからである。
中でも在庫は、需給関係が先行的に現れ、短期的な景気を予兆されるものとされる。
ただ、一口に在庫と言って在庫には、産業毎に固有な癖がある。そして、その癖こそ個々の産業の特性を表している。なぜなら、在庫は、生産過程や財の性格に左右されるからである。

在庫は、短期的な景気の変動を反映している。在庫は、景気を先行的に現れていると言われる。
在庫の変動は、利益に与える影響が大きい。
なぜならば、在庫は、原価に直接影響を与えるからである。
在庫を調節する事で、利益を調節する事が出来るからである。

在庫と言っても製造業と他の産業とでは、根本が違う。製造業では、製造原価が基本になるのに対して製造業以外では、仕入が基本である。






仕入は、仕入価格と在庫の評価によって決まるのに対して、製造原価は、製造工程が影響をしている。




原価と言う観点から見ると卸売りや小売業は、仕掛品とか原材料と言う視点の物は少ない。ほとんどが仕入れ価格である。
在庫が利益に与える影響の意味が全く違うのである。








在庫の評価方法は一律ではなく。評価方法を変える事で大きく在庫の金額は変化する。
在庫の評価は、原価法と低価法があり、原価法には、個別法、先入先出法、後入先出法、総平均法、移動平均法、最終仕入原価法、売価還元法等がある。
正式には、後入先出法は、現在使われていない。

在庫の評価方法は、利益に影響する。この点を正しく理解しておかないと利益の変動や景気の変動に在庫が与える影響を正しく読み解くことはできない。



在庫を見る場合、重要なのは、在庫残高と回転率である。在庫残高は、その時点その時点の在庫の水準、有り高を表し、回転期間は、フローと関係を表している。

小売り業界は、在庫を大きく変動させているのに、回転周期に大きな差が生じていない。それは、収益の変動がそれだけ大きかったことを意味している。










在庫管理で重要なのは、金額と回転率である。
在庫の残高の水準と回転率の関係を象徴的に表しているのは、不動産業である。



不動産業は、石油ショックやバブル、金融危機などの景気の変動を敏感に反映している。しかし、回転期間は、他の産業に比較すると相対的に長い。


法人企業統計

バブル崩壊後、在庫が急激に減少しているのに、回転期間に変化が見られないのは、在庫の減少とほぼ同じ程度の売上の減少があったことを意味している。急速に市場が縮小したのである。

在庫を決定的に左右するのは、価格、数量、そして、為替の変動である。
典型的なのは、石油である。

為替の変動から企業経営を守るという観点からリスクヘッジ、金融工学が生まれた。ヘッジは、投機的なものである前に、為替の変動をやわらげる目的だったという点を忘れてはならない。
石油にはそれだけリスクがかかっているのである。



例えば、在庫の評価の仕方によって石油業界の利益は、大きく変動する。




石油業界の在庫を評価する時、石油業界をどう国家の中に位置づけるかと言う視点を欠いてはならない。これは石油だけではなく、エネルギー業界全体に言える事である。

例えば、石油在庫を見る場合、国家備蓄の影響を忘れてはならないからである。

石油業界は、1987年から1988年にかけて、在庫の評価基準を一斉に「後入先出法」に変更した。
利益操作に使われるとして、IFRSでは後入先出法が認められておらず、「後入先出法」は、単価が安いときに買った昔の在庫が残っていれば、石油価格の上昇局面において、棚卸資産に含み益が残ってしまう。逆に価格が下落局面にあれば、棚卸資産に含み損が生じることになる。オイルショック時に原油価格の高騰に悲鳴を上げた石油元売り各社がそれまでの会計基準を変更して採用したといういわくつきの基準である。

なぜ、石油業界は、「後入れ先出し法」を採用せざるをえなかったのか。その事情を理解しないで会計基準の是非を論じるのは、片手落ちである。
まず第一に言えるのは、オイルショック以来、石油は政治的に利用され、極端な価格の乱高下を繰り返してきたという点である。
第二に、その価格の乱高下に石油業界は振り回され続けてきた。この様な名目的損益とキャッシュフローのかい離が大きく。キャッシュフローにおいて石油業界は過大な負担を担ってきたのである。

第二次オイルショックの際、見かけ上の過大な利益が計上されるが、逆に、石油の暴落時には、過大な損失が計上された。
しかも、原油価格の上昇時の原油上昇による利益を除くと売上総利益率は、下降しているのである。

「後入先出法」が採用される以前は、「平均法」「先入先出法」が石油業界でも一般的だった。
「平均法」「先入先出法」だと原油が急騰した場合は、莫大な利益が会計上あがってしまい、逆に、急落すると莫大な損失が出てしまいキャッシュフローが追いつかなくなる。オイルショックの際、その弊害が強く出たので、多くの石油元売り会社が「後入後出法」に会計基準を変更した。

第一次、第二次オイルショックの際は、在庫の評価は、「平均法」や「先入先出法」だったと考えられる。

「後入先出法」では、石油価格の上昇局面において、単価が安いときに買った昔の在庫が残っていれば、棚卸資産に含み益が残ってしまうことになるし、一方で価格が下落局面にあれば、棚卸資産に含み損が生じることになってしまう事になる。

国際会計基準統合化の流れに従って昭和シェル石油は、1998年に、コスモ石油は、2000年に「後入先出法」から「総平均法」へと在庫の評価基準を変更した。それに対して、出光興産は、2009年、東燃ゼネラル石油は、2011年に「後入先出法」から「総平均法」へと変更。JXホールディングスは、2011年に「総平均法に基づく低価法」に統合した。

会計基準の変更における効果は、価格が高いか低いかと言ったポジションではなく、上昇局面にあるか、下降局面にあるかという変動によるものであり、効果の程度は、変動幅(ボラティリティ)と速度によって定まる。

「後入先出法」から「総平均法」へ会計基準を変更すると価格の上昇局面では、売上原価を押し下げ、その分利益を押し上げる。下降局面では売上原価を押し上げる、その分利益を圧迫する働きがある。原料価格の変動幅が大きく、大量の備蓄が義務付けられている石油製品は、「先入先出法」のように、相場の変動を価格に転嫁するの時間がかかる処理法だと利益に原材料の変動させることが困難になる。

原油価格は、2015年初頭から大幅に下落し、翌2016年も続落し2017年になってようやく安定した。
原油価格が急落したから石油元売りは、大幅に利益を上げたかと思うと、事はそう単純ではない。業界最大手の旧JXHDは、2014年度決算で1070億円の純利益を上げた翌期には、2772億円の純損失を出し、翌々期も、2785憶円の純損失を出している。


  
世界経済ネタ帳


週刊ダイヤモンド 2017.9.9

原材料費である原油価格が急落しているのに、元売りは大赤字を計上している。原油価格が安定している時に元売りは利益を上げ、原油価格が下がると赤字を計上しているのである。そのなぞは、在庫にある。石油元売り会社は原油70日分の備蓄を義務付けられている。
石油元売り各社の在庫評価は「総平均法」に基づいている。期末にかけて原油価格が下がると売り上げ単価も下がる。その結果売上高全体も下がる。そうなると売上原価率が上がり、減益要因となる。逆に期末にかけて原油価格が上がると増益要因となる。在庫の影響が強ければ、本来、在庫を減らせばいいのだが、70日間の在庫が義務付けられているためにおいそれと在庫は減らせない。在庫の備蓄を義務付けられている分、利益は数千億円という単位で乱高下するのである。(週刊ダイヤモンド 2017.9.9)

投資キャッシュフローと固定資産の関係



投資は、固定資産に反映される。投資は、資金運用である。資金運用である固定資産を形成する為には、資金調達を必要とする。故に、対極に資金調達として借入、あるいは、資本的手段が表れる。つまり、投資は、固定資産と貸借取引、資本取引によって成り立っている。調達された資金は、資産として運用され、そこから収益と費用が派生する。
つまり、資産、負債、資本、収益、費用の源に投資があり、投資の在り方が市場や産業の在り方を制約する。

投資は、貸借取引、資本取引な依ってストックを形成する。そして、市場、および、経済主体に資金を供給する。投資によって供給された資金に基づいて資産と費用が形成され、それが利益の源となる。

資産、負債、資本、収益、費用の均衡が適正な利益を成り立たせる。

資産と負債・資本がストックの規模を定める。ストックの規模は、金利や利益として損益(フロー)を制約する。フローが拡大すると物価が上昇し、ストックが膨張する。ストックの膨張は、利息に上昇圧力。利益に縮小圧力となり、フローを抑制する。この相互作用によって経済主体は制御されている。フローとストックは切り離して考えられない。

投資とは、資金(資本)や資産や労働力と言った生産手段を市場に投入する事で、財を生産しそれによって収益を得たり、投資の対象となった資産値上がりによって投入した資金や生産手段以上の価値を得る事である。
投資の成果は、投資した資金や生産手段、即ち、元本の回収と投資した資金や生産手段から獲得される付加価値からなる。投資しても投資したのと同じだけの資金や生産手段を回収できるとは限らない。


法人企業統計


面白いのは、バブル崩壊後、金融危機に至るまでは設備に依っていた長期借入金が金融危機後は、土地に寄り添うよっになった事である。金融機関の融資姿勢がより土地担保主義に偏った事が窺える。


法人企業統計


法人企業統計


産業全般を見るとバブルが崩壊するのでは、設備投資を長期借入金に頼っていたことがわかる。それがバブル崩壊後、長期借入金だけに頼れなくなったことが読み取れる。

金融が土地による担保主義に偏った事は、小売業に顕著に表れている。
担保主義は、投資を抑制する。過去の事例を見ても土地の簿価の範囲に長期借入金は納まらない。過剰な部分が投資を主導してきたのである。それが、バブル崩壊後過度の担保主義によって投資の幅を狭められたのである。
その結果、投資は、内部資金の範囲に押込められ、結果的に経済成長も抑え込まれてしまう事になる。

土地によって担保価値を設定し、その範囲で融資をするのは、金融機関にとって安易な道である。安易ではあるが発展性は削がれる。かつては、金融機関が事業や産業を育ててきた。しかし、今日では、産業や事業をを育成しようという意欲は見られない。ひたすらに、安全を求めるようにさせられてしまったのである。

逆に、土地担保主義は、建設開発に変更させる事になる。なぜならば、担保として最も有効なのは、不動産だからである。
現在、少子高齢化問題から派生的に空き家、空室の増加が予測され社会問題化しているというのに、金融機関は、高層マンションの建設に血道をあげている。それがバブルを誘発し、不良債権化するのが目に見えているのにである。
それは、土地を担保にして資金を融資するのが安易な方策だからである。
これでは、失敗すべくして失敗する。破滅すべくして破滅する。自滅する事を望んでいるとしか取れない。


法人企業統計

投資キャッシュフローは、投資の構成によって営業キャッシュフローに与える影響が大きな差が出る。それは、個々の産業構造の特性も形作る。
基本的に、投資は、固定資産、金融資産、負債、そして、収益、費用の働きに反映される。固定資産は、償却資産と非償却資産の違いが営業キャッシュフローに決定的な影響を及ぼす。償却資産の代表的なものは、設備、建物等であり、非償却資産の代表的なものは、土地である。償却資産の中には、ソフトウェアや特許などの知的所有権、のれんと言った営業権等の無形固定資産も含まれる。
この無形固定資産の認識は、投資の本質を変えてしまった。



法人企業統計

全産業を見ると土地よりも設備の占める割合が圧倒的に大きい。小売業は、全産業とほぼ同じ動きをしている。
それに対して製造業では逆転している。これは、全産業に製造業が占める位置を暗示している。製造業の存在感は大きいが全産業では公平な位置づけが要求される。


法人企業統計



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産業全体の設備投資と借入金の関係をみると基本的にバブル崩壊以前は、設備投資の上昇と同じような歩調で借入金が上昇しているのに対してバブル崩壊後は、設備投資に対して長期借入金が相対的に減らされているいるのがわかる。

製造業は、バブル崩壊以前から借入金に頼らない資金調達がされていた。




不動産投資の評価基準には、原価法、取引事例比較法、収益還元法、開発法などがある。根本的にはインカムゲインを期待するかキャピタルゲインを期待するかの違いである。取引事例比較法は、キャピタルゲインを期待する手法であり、バブル形成時、バブル最盛時にもっとも用いられた手法である。それに対して、バブル崩壊後は、収益還元法が主として用いられるようになった。
バブルが崩壊するまでは、地価は、右肩上がりとする土地神話があり、土地は、持つだけでも価値があるとされた。それがバブルが崩壊すると、その土地からどれくらいの収益が期待されるかによって評価されるように様変わりした。
それは、企業の投資に対する基本姿勢にも現れている。

地価が右肩上がりだと信じられた時代は、金融機関も土地を担保に資金を融通してきた。バブルの時は、地価の値上がり分も見込んで「お金」を融通してくれた。それがバブルが崩壊すると貸し渋り、貸し剥がしへと豹変したのである。その急激な変化が日本の経済の根底を歪めてしまったのである。
また、土地神話が信じられていた頃は、持ち家に人気が集まっていたが、バブル崩壊後は、家を持たず、ライフスタイルに合わせて引っ越しができる借家に人気が集まるように変化した。何を評価するかは、人々の価値観や人生観も変えてしまうのである。

投資の在り方は、一企業にとどまらず、一国の経済の命運まで左右するのである。


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土地の簿価と長期借入金の残高の水準は、担保力を表している。製造業は、土地の簿価を長期借入金は常に下回っている。それに対して後述の不動産業は、バブル崩壊までは、借入金が土地の簿価を大幅に上回っていたのが、バブル崩壊後は、土地の簿価の範囲内に収まっているのである。


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製造業は、バブル崩壊後、土地の簿価に引っ張られているのが読み取れる。バブル崩壊後発生した不良債権に対する基準が地価に基づいていたことによると思われる。結局、担保主義がバブルの原因と言いながら、バブル崩壊は、より一層担保主義に陥ったのが窺われる。
その結果、金融から事業を評価する能力が奪われる事になる。


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製造業は、バブル期の形成、崩壊に関わらず一方的に固定資産に占める土地の簿価の比率が高まっているのがわかる。

投資は、資産と収益、そして、費用の関係の基となる。
何に投資するか、また、費用の構造は、生産する財の性格に依って違ってくる。
たとえば、生鮮食品の様な日常的に消費される財を生産する設備に対する投資と自動車のような、耐久消費財を生産する設備投資とでは、設備の質が違うのは当然である。
初期投資の額や設備を扱う人間の人件費、設備の償却期間の違い、財のライフサイクルによっても違いが出る。

生産用機械製造業は、バブル崩壊とリーマンショック時との二つの波がある事がわかる。


法人企業統計



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電気機械器具製造、即ち、家電業界は、バブル崩壊以前は、土地の簿価以上に長期借入金を増やしているのに、バブル崩壊後土地の簿価に長期借入金が引っ張られている。


法人企業統計

所謂バブル崩壊よりもITバブル後に大きく家電業界は設備投資を減少させている。







家電業界は、バブル崩壊、ITバブル崩壊と二度のバブル崩壊の際、大きく設備投資を減じ、更に2008年のリーマンショックの時も設備投資を減らしている。




電力業界は、圧倒的に設備投資の影響を受けていることがわかる。



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長期借入金の流れを見るといかに、電力にとって東日本大震災の痛手が大きかったかよくわかる。






法人企業統計


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設備投資と長期借入金の関係を見ると不動産業界の特異性が浮き彫りになる。



投資キャッシュフローは、投資の流れを現している。
投資とは、生産手段の構築を意味する。
生産手段は、産業の基礎的資金の流れを形成し、固定費の元となる。また、投資は、損益構造の基礎となる。特に製造業など巨額な設備投資を必要とする産業では、損益分岐構造の枠組みが投資によって定められる。投資は、産業の性格を確定し、収益構造の骨格を形成する。
投資キャッシュフローは、長期資金の働きを現している。
投資キャッシュフローは、貸借に係る資金の流れを基としているために、損益上には現れてこない。

投資キャッシュフローの働きを正しく認識するためには、長期借入金の増減、減価償却費、支払利息、固定資産の増減、土地と簿価との関係等を合わせて考えていく必要がある。

現在価値や長期借入金と減価償却費との関係を明らかにしなければならない。
長期借入金が減価償却費の何倍あるかを調べる必要がある。
減価償却費は、過去の投資を表している。減価償却費を見るとどの程度の投資がされたかが明らかになる。

設備投資は、設備という固定資産を増加させることを意味する。そして、設備投資をするためには、資金を調達する必要がある。資金調達の手段は、増資か、借入金をするか、内部留保を取り崩す事になる。ただ、現実の話として金融機関の融資を受けるのが一般である。

故に、投資キャッシュフローは、固定資産残高の増減、即ち、前期、当期の差によって推計される。また、財務キャッシュフローは、負債と資本の残高の増減、前期当期の差から推計される。投資キャシュフロー残高は、資金残高に対して負の働きになり、財務キャッシュフローは、正の働きになる。それは投資する事は支出を意味し、借入を起こす事は収入を意味するからである。





固定資産の増減と長期負債の増減を比べてみると概ね一致した動きをしている。



固定資産増減=土地+その他有形固定資産+建設仮勘定+無形固定資産
長期資金需給=金融機関長期借入金+社債

法人企業統計

一番肝心なのは、投資に対する効果であり、投資に対して将来どの程度の収入が見込めるかなのである。
初期投資に対する支出、特に、借入金に対する返済資金は、待ったなしに発生する。支出は固定的で確実なのである。それでいながら決算書には、長期借入金の増減といかたちでしか計上されない。つまり、目に見えないのである。
それに対して収入は不確かである。

売上の根拠は市場にある。
投資は、一定の収益、売上が一定期間維持される事が前提となって計画が立てられる。しかし、売上ほど予測するのが難しいものはない。
投資した資金を回収するためには、一定の期間安定した収入が保証されなければならない。売れなくても困るが、売れすぎても困る。
短期間で爆発的に売れたとしても後が続かなければかえって命取りになるのである。その典型が家電業界で、デジタル放送に合わせて液晶テレビに対して巨額の投資をしたメーカーが爆発的な売り上げを上げながら、次の年に経営破綻するまで追い込まれたのである。
投資とは、息の長い事業なのに、今日のように回転が速いとついていけない企業が出てくるのである。



物価は、価格によって作られる。物価は、一律一様に変動するわけではない。
パソコン(ノート)は、消費者物価指数で2015年を100とすると2000年は、7095、実に、701倍したのである。物価も全てが右肩上がりに上昇しているわけではない。そういった状況下で10年先、20年先の需要、価格、販売数量を予測するのは、至難の業である。

それに対して住居費はほとんど変わらない。

また、物価は、世相を色濃く反映する。この様に価格は、一定せず、不安定、不確かなのである。その不確かに収入を基礎にして事業計画は立てられている。この点を理解せずに、目先の利益を負えばいつかは破綻する。市場が無秩序になり、安定した収益が得られなくなれば必然的に投資は抑制される。それでも無原則な競争を続ければ産業そのものが成り立たなくなる。それは経済が破綻する事をも意味しているのである。


総務省統計局

どれくらいの売上があって、しかも、どの時点で発生するかは、全くわからない。売上には、斑(むら)があり、なおかつ、波がある。収益て重要なのは、時間である。流行になって急激に売り上げが上がっても一時的なもので終わったら、かえって長期的には資金繰りがつかなくなったり、書記に思ったように売れなくて予想外の投資が嵩んで、後々の資金負担を重くしたりもする。
その収益の予測が立たない事が一番の障害なのである。
つまり、投資キャッシュフローは、事業計画の下地となり、市場規模や採算性、総生産量、現在価値、操業度、商品のライフサイクル等を検討する必要がある。

事業計画と現実との間にギャップがある。そのギャップを補うのが金融の働きである。

なぜ、投資キャシュフローや財務キャシュフローは前期当期の差から求めなければならないのかというと、投資や財務は、貸借取引であり、決算書上に損益取引として計上されないからである。
貸借取引、資本取引は、損益上に計上されないのである。

売上債権と仕入れ債務も同様である。売買取引ではあるが決算では貸借として当期の残高が計上される。ただ、売上債権も仕入債務も実際の資金の動きはない。

しかし、借入金の返済は、実際に現金収支が生じる。現金の出入りがあるのに、決算書のどこにも計上されないのである。
貸し借りは、損益上に現れない支出の根拠となるため、価格に影響を及ぼす。超長期的な見て市場を歪めてしまう事がある。

投資とは、生産手段や資本への支出を意味する。投資キャシュフローが正の値をとるのは、過去に投資した生産手段や資本を換金している事を意味する。
財務キャシュフローは、営業キャシュフローと投資キャシュフローの資金の過不足を補うために、借入と返済の働きをしている。

表に現れない資金の流れを分析するのが財務キャッシュフローである。むろん、表に現れない資金の流れは、財務キャッシュフローだけでとらえきれるものではない。

短期資金の流れは、売買取引を基礎として形成され、長期資金の流れは、貸借取引を基礎として形成される。この点は、資金の働きを理解する上で重要な鍵となる。

長期的資金の流れは、貸し借りを元にして形成される。短期的な資金の流れは、売買を元として形成される。つまり、期間損益、期間利益は、売買によって導き出されるのに対して投資や財務と言った長期的資金の流れは貸し借りによって形成される。

キャッシュフロー上は、投資は、負として、財務は正として現れる。投資と財務は、貸し借りを主とする。投資は、固定資産を形成し、財務は、負債を形成する。

金融機関の設備投資を見てみると総貸出では、横這い状態ではあるが、極端に減少しているわけではない。
ただ、製造業、卸売業、小売業、建設業界を見てみると一様に大きく設備投資を減らしているのが読み取れる。


  
日本銀行

物価は、価格が形成する。個々の製品の価格は、一律一様に動くわけではない。
適正な価格が維持できるかどうかが投資の成否を握っているのである。
インフレーションの時は、負債は先送りすれば軽減されるが、それは、費用を下方硬直する原因となるだけなのである。
肝心なのは、適正な収益が維持されるような仕組みを市場に組み込むしかない。それは一企業の手に負えるような仕事ではないのである。

過当競争を煽るような施策は、市場経済を死に至らしめるような行為である。



バブル崩壊後、なぜ、投資が減少したのか


バブルが崩壊し、「失われた10年」とか、さらに、「失われた20年」とか言われるが、なぜ、投資が抑制されるようになったのか。それは投資行動の仕組みに問題があるからである。その点を理解しないと景気が停滞している原因は明らかされない。

投資は、事業計画を基にして実行される。事業計画は、設備投資計画、収益計画、資金計画からなる。これは、各々キャッシュフローを構成する各要素と対応させることができる。すなわち、設備投資計画は、投資キャッシュフローに、収益計画は、営業キャッシュフローに、資金計画は、財務キャッシュフローに相当する。
そして、各々、営業キャッシュフローは、投資キャッシュフローは、固定資産の増加に、減価償却費に、財務キャッシュフローは、長期借入金の需給に反映される。

注意しなければならないのは、長期借入金の返済は、会計上どこにも計上されない負債勘定の減少としてしか認識されなてと言う点である。

減価償却費は、会計上仮想された値であり、現金収支に直接関係があるわけではない。それに対して設備投資にかかる支出や調達資金に係る値は、現金収支と直接かかわっている。


法人企業統計 長期借入金・減価償却費左 設備投資 右

バブル崩壊後、減価償却費は横ばいなのに対して長期借入金の需給は、急速に減少し、1993年には、マイナスにまで落ち込んでいる。

そして、設備投資は、資金をどこから調達してきてどのように運用するかが基本にある。
資金を調達するためには、物理的、あるいは、資金的な裏付けが求められる。

資金調達の手段には、外部調達手段として増資、社債、借入金等がある。内部調達手段としては、資産の取り崩し、減価償却費、税引き後利益等が考えられる。

問題となるのは、2000年を境にして外部資金が活用されなくなってしまった事である。これが投資活動を低調にしている要因である。


法人企業統計

キャッシュフローとは、内部留保と減価償却費の和だとすると2000年頃から設備投資をキャッシュフローが上回っている。
内部留保と減価償却費の和は内部資金を表している。つまり、キャッシュフローは、内部資金を表している。
内部から調達するための費用と外部から調達する費用に差がなければ、本来は資金調達が内部資金によるか外部資金によるかは無関係であるはずである。
バブルが構成されている87年~91年までは、外部資金が上回り、バブル崩壊後は、外部資金減少しはじめ、2000年には、内部資金と外部資金が逆転している。




問題は投資意欲にあるわけではない。資金調達の手段に問題があるのである。
資金を調達するためには、何らかの裏付けが必要となる。

外部から資金を調達するためには、担保するものが要求される。
その担保するものは含み資産である。
含み資産とは、含み益のある資産を言う。含み益とは、将来の利益、未実現利益を指して言う。
資産価値の下落によって、その未実現利益が枯渇し、逆に、含み損が生じた。含み損とは、将来の損失、未実現損失を言う。
つまり、資金調達どころか資金を回収する圧力が各企業にかかったのである。

担保する対象の最たるものは保有の土地である。
バブル崩壊後、急速に地価は下がった。それに比例して企業の担保力も減少している。


ダウ式とよばれる連続性維持の為の調整を行った47都道府県の地価公示の最高価格地(住宅地・商業地)の平均価格の指数である。
昭和49年1月の地価公示47都道府県の最高価格地の算術平均より算出を開始し,昭和49年の平均価格を100として各都市の平均価格について指数化を行った。

1991年のピーク時を100としたら2005年商業地で17%、住宅地で31%まで下落している。しかも2014年現在でも商業地で32%、住宅地で21%までしか回復していない。



財務諸表に掲載されている土地、地価は、簿価である。
帳簿上の地価は、90年を境にして横ばい状態になる。しかし、地価の実勢価格は、下がり続けている。
その差が担保不足として企業の資金調達力に重くのしかかっているのである。

土地の簿価、土地に対する資金需給、長期借入金、そして、地価指数を見るとバブルの形成と崩壊の因果関係がよく読み取れる。

 

企業は、儲けた金をひたすら借入金の返済にあて、新規投資に資金を回さずに来た。というよりも資金を回したくても回せずにき
た。資金が市場に出回らないと責めるが、蛇口を絞めておいて水が出ないと騒ぎ立てるような事である。

問題は、含み損が解消し、資金を調達できるだけの含み益が生じているかである。

そうでなければ担保主義を基礎としている現在の経済状態で投資を促す事はできない。



それでも、投資を促すというのならば、担保に変わる物を作り出すしかない。
いずれにしても、それは将来の収益を担保するものでなければならないから、何らかの規制がなければ保証する事はできない。

また、バブルが弾けた事で大量に不良債権が発生し、その清算に30年後を経た2019年現在でも苦慮している。
不良債権の原因は、名目的価値と実質的価値の乖離である。名目的価値と実質的価値の乖離、フローとストックの関係を悪くしている。名目的価値と実質的価値の乖離を是正しない限り、不良債権問題は、解決されない。


財務キャッシュフローの働き


財務の重要な働きは、会計上、損益上表面に現れてこない。その為に、長期資金の働きを補足するのが難しい。
財務キャッシュフローを作成する目的は、長期資金の働きを明らかにする事である。

長期資金の働き、即ち、ストックは、貸借・資本取引に依って形成される。貸借・資本取引は、損益上に表れてこない。その為に、長期資金の働きは、補足するのが難しい。
そこで、財務キャッシュフローによって長期資金の動きを明らかにする必要が生じたのである。投資資金の調達や借入金の返済資金の動きは、貸借対照表上の増減、即ち、差額でしかとらえる事が出来ない。また、基本的に利益や資本は、差額勘定なのである。
また、例え、増減によって総額は、把握できたとしてもむどの様な目的、投資なのか、繋ぎなのか、不良債権の清算なのかと言った調達目的やどの様な手段で、どこから資金が調達されたか詳細まで精査しないと掴めない。
基本的に費用勘定のような、借金の返済や投資を意味する勘定そのものがないのである。

財務の流れは、先ず、初期投資の資金調達から始まる。そして、資金は、調達した瞬間から回収、返済が始まる。返済と返済のための原資を考えずに資金調達や投資は行うべきではない。これは、企業会計のみならず家計も財政も同じである。回収と返済と言う両輪がなければ、設備投資であろうと、住宅投資であろうと、在庫投資であろうと、公共投資であろうと投資は成り立たないのである。
資金の回収計画が営業の流れを生み、資金の返済が財務の流れを生む。それ故に、キャッシュフローは、投資キャッシュフローを要として営業キャッシュフローと財務キャッシュフローが生じるのである。

回収計画と資金計画(返済計画)は、事業の両輪であり、経済を動かす動機でもある。問題は、回収と返済に時間差がある事である。しかも、回収は不確かであるのに対して、返済は、確定しているという性格の違いがある。そして、回収と返済の性格の違いが時間差を生み出す要因でもある。

財務は、資金調達が主たる働きであるが、もう一つ重要な働きとして繋ぎ資金の調達と借入金の返済がある。繋ぎ資金が調達できず借入金の返済が滞ったり、不渡り手形を出すと経営主体は、経営を継続できなくなり破産する。
つまり、財務こそ企業の存亡の鍵を握っているのである。

財務キャッシュフローは、資金の調達、返済、配当金の支払い、自己株式の取得を表している。

故に、金融資産と金融負債、純資産の関係が重要となる。
財務キャッシュフローは、損益上に現れてこない資本取引に依る資金の流れを表している。
また、借入金から派生する資金の流れを表に出す。例えば、財務キャッシュフローでは、運転資本と短期借入金との関係、投資と長期借入金との関係、投資キャッシュフローと営業キャッシュフローの過不足をどの様に処理したか。資金をどこからどのように調達し、運用したかを明らかにする。

これらの資金の流れは、損益上に計上されないため、表に現れにくい資金の流れだという点を十分に留意しておく必要がある。

財務キャッシュフローは、投資キャッシュフローと対にして考える必要がある。投資キャッシュフローと営業キャッシュフローを基礎的な部分で結びつけているのが財務キャッシュフローだからである。投資は、固定資産の増減として表され、減価償却費として損益上に計上されるが、実際の資金の流れを反映しているわけではない。これら損益の表面上に表れない資金の動きが実は経済の仕組みを動かしていると言える。この点を正しく理解しておかないと経済の動きを理解する事はできない。

資金調達には、内部資金調達と、外部資金調達がある。内部資金調達する手段には、減価償却費と内部留保から調達する手段がある。外部資金調達は、借入金、増資、社債等から調達する手段がある。

財務キャッシュフローで一番気を付けなければならないのは、長期借入金の増減である。なぜならば、長期借入金の元本の返済は、どこにも計上されず。長期借入金の増減として表されるからである。
長期借入金の返済は、資金計画の基礎となる。長期借入金の返済が滞れば、負債は、借り換えしなければならない。資金的裏付けのない負債を増加させることになる。資金的な裏付けと言うのは、将来の収入を意味する。つまり、未実現利益である。未実現利益とは、含み資産と売上債権である。
長期借入金の資金的裏付けとなるのは、減価償却費である。そして、清算時における不動産の売却益、そして、内部留保である。一般に含み資産や内部留保は、余剰資産みたいに捉えたり、また、減価償却費は支出のない費用と言った間違った認識があるが、実際の経営では、重要な役割を果てしており、これらの手当てができなくなると資金的に行き詰まって倒産してしまう。企業経営を支えているのは利益ではなく、資金なのである。利益は、資金を調達する際の目安に過ぎない。

キャッシュフローを構成する要素を組み合わせると資金の働きを読み取る事ができる。
キャッシュフローの計算方法には、直接法と間接法がある。それぞれに資金の動きを分解するのに重要な情報を含んでいる。
直接法と間接法の基本的な差は、営業キャシュフローに対する事にある。
直接法は、実際の収支を元とした計算方法であり、間接法は、支出を伴わない費用や逆に収入を伴わない収益を調節する事で計算されている。後者は期間損益の持つ構造を明らかにする。

 


財務省によって集計された法人企業統計のような公表された決算資料から投資キャッシュフローや財務キャシュフローを計算する場合、営業キャシュフローは、当期の残高を基礎として計算されるのに対して、投資キャシュフローと財務キャッシュフローは、期首と期末残高の増減から割り出される。



日本銀行

バブル崩壊後すぐに総貸出が減少したわけではない。バブル崩壊直後はむしろ貸し出しは増えている。
貸出が減少するのは、バブル崩壊してから六年以上たった1997年以降である。
1997年には、いわゆる金融危機が表面化した年である。11月には、三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券と立て続けに破綻した。
よく1998年には、日本長期信用銀行、日本債権銀行が国有化される。
金融機関の信用が揺らいだ年と言えるかもしれない。


日本銀行

業種別に1992年を100として指数化して見てみると製造業、卸売業に対する貸し出しは、バブル崩壊すると早い時期から減少に転じているのに対して、小売業や建設業に対する貸し出しの減少には時間がかかっている。これは、不動産投資が多い業種に起因していると考えられる。
製造業と卸売業、建設業と小売業が同じような軌跡をとっているのは興味深い。





投資から始まり、収益を上げて、資金を回収する


長期資金の流れは、投資に始まり、償却と返済で完了する。
利益は、貸借と損益を結び付け、現金収支の根拠を構成する。貨幣経済の主柱は、収益にある。運用益にあるわけではない。
なぜならば、経済の実体は、所得にあるからであり、所得は、人件費、費用を構成するからである。

需要の根拠は人口であり、単位消費量である。供給の根拠は、生産手段であり、生産量である。物価の根拠は、購買力であり、単位支出である。そして、購買力の基軸は、所得である。物価は、危うい需給バランス、即ち、消費と生産、所得と支出の均衡の上に成り立っている。人、物、金の均衡が保てなくなれば、インフレーションやデフレーションがおきる。
生産と、消費の均衡が崩れても、所得と支出の均衡が崩れても物価は、乱高下する。所得は、労働か所有から生じる。雇用が減少すれば、持てる者と持たざる者の格差は拡大する。

ハイパー・インフレーションのように破壊的な物価の変動は主として貨幣的現象である。なぜならば、物や人は、有限であり、生産革命によって人口の対して物の絶対必要量は、確保されていると考えられる。それに対して、「お金」は、無限であり実体がない、名目的存在である。それ故に、貨幣価値は、暴走したら止められなくなる。

金融は虚業である。実業に金が回らなければ、貨幣価値は虚しい。物の価格も空しくなる。

投資は、産業や事業の骨格を作る。
事業は、投資から始まる。投資は、事業の前提を構成し、事業の構造を設定する。
投資は、事業計画と資金計画を前提とする。すなわち、事業は、物的要素と貨幣的要素の二つの要素によって構成されている。
営業キャッシュフローと投資キャッシュフローの関係は、投資キャシュフローによって生産手段の骨格を作り、投資キャッシュフローによって設定された生産手段によって生産した物を売って収益を上げて投資した資金を回収する。収益にかかわるのが、営業キャッシュフローであり、投資や営業の資金の過不足を補うのが財務キャッシュフローである。

資本や負債というのは、投資かかる資金を皆に出し合うのか、それとも誰かに借りてくるのかを、調達手段を意味しているのであり、それ自体が何らかの実態を持っているわけではない。その点を誤解して、資本金とか、内部留保があるのだから、それを取り崩せばいいではないかという者がいるが、資本金とか、内部留保とか言ってもそれは資金の調達し手段を言うのであり、それは、何らかの資産に運用されているのである。現金もまた資産であって、帳簿上の現金とは、調達した資金のいくらかを手持ち資金として持っていなければ、会社に資金が回らなくなるので、いくばくかの手持ちの資金として所有している現金残高をさしているのである。

財務キャッシュフローと投資キャッシュフローは、表裏の関係にある。財務は、資金調達とその後の資金計画に基づいているのに対して、投資は、収益構造の基礎となるからである。それは、資金の流れの入口と出口とを形成しているからである。つまり、資金の調達と運用を意味している。

資金の調達手段として投資家から「お金」を出してもらうのか、誰からか「お金」を借りてくるのか、何かを売って儲けるのか、その三つの手段しかないことを意味している。
なぜ、「お金」の調達手段を問題とするのかというと、「お金」を借りてきたら、「お金」を返さなければならないし、「お金」を出してもらったら、「お金」が儲かったらその分け前を与えなければならないし、何かを売るというのは、「お金」に対する代償を手渡さなければならないという違いが「お金」の調達手段から生じるからである。

基本的に貨幣に基づいた経済活動は、お金を調達してそれを運用する事に尽きる。
そして、その原点が投資キャッシュフローなのである。

家を買うというのは、単位期間の収入を基礎として計算すると過大な支出になる。それを可能とするのは、一定期間の収入を担保するからである。そして、それが投資の本質である。

物の生産と生産の関係は、常に均衡しているわけではない。人が必要とするものが不足だったり、逆に過剰になったりもする。
生きるために不可欠な食料は、特に収穫が安定していなかった。余剰な収穫があったかと思うと次の年に飢饉が来たりした。
一定の食料を継続的に確保する事、それが経済の第一義だったのである。それは今日でも変わらない。
物は溢れているのに貧乏人ばかりで一向に売れない。空き家だらけなのに買う金を持っている人は限られているこの様な事は、経済の仕組みに問題があるからである。
この様な不均衡を是正するためには負の部分をうまく活用する必要がある。そのために投資という活動がある。
投資によって収入と収支を平均化するのである。そして、投資を支えているのは、資産と負債、収入の関係である。

投資は、経済における負の部分の働きを担っている。今日の経済は、「お金」が負の部分を担う事で物という正の部分を成り立たせているのである。
結局、景気が乱れるのは、負の部分の制御がうまくいかないからである。


経済のライフサイクルとキャッシュフローの推移


キャッシュフローは、衰退期も最終的段階になる営業キャッシュフローは、負となり、投資キャッシュフローも更新投資が嵩んで負となる。そして、過去の金融資産を換金して食い潰していくようになるから財務キャシュフローは正となる。つまり、衰退期も最終的な段階では、創業期や成長期とよく似た様相を呈するのである。
成長期か、衰退期かを見分ける鍵は、状態ではなく、変化の方向、ベクトルである。
現代経済は、成長期を基準にして考えるが、成果が上がるのは、むしろ、成熟期なのである。そして、衰退期を乗り切るために体力を体力を蓄えるのも成熟期である。成熟期をいかに持続し、果実を収穫し続けるかが、経済政策の要諦なのである。
成熟期を充実し、持続させるための必須要件は、市場の規律である。成長を前提とするから、市場の規律を犠牲にしてまで競争をさせようとする。しかし、無原則な過当競争は、市場を荒廃させるだけである。

経済で最も充実しているのは、成熟期だという事を忘れないでほしい。成長ばかりを追い求め、市場の成熟を否定しているから、最盛期を逸してしまい。市場を荒廃させ、一気に衰退させてしまっているのである。

キャッシュフローと利益は違う


今の経済をおかしくしている原因の一つが利益に対する認識にある。
高度成長時代では、増収増益が当たり前のような受け止められ、いつの間にか増収増益にする事が目的化してしまった。しかし、収益や利益は、経済の状態を測る指標の一つに過ぎない。

よく、利益は、意見。キャッシュフローは事実と言われる。だから、キャッシュフローを重んじろというのは短絡的である。利益を見る時、どの様な目的で、何を測るための指標なのかを明らかにしなければ、利益は無意味だというだけなのである。利益そのものが無意味だとしているわけではない。この点を間違ったら経済の状態を正しく知る事が出来ない。

経済は成長が全てではない。経済状態によっては、増収増益ではなく、減収増益、増収減益、場合によっては、減収減益もありうるし、増収増益でない方が正常だという局面もある。
何が何でも増収増益でなければならないという思い込みが経済を間違った方向に向けさせてしまうのである。

その好例が、高度成長が終焉した1970年代以降の日本経済である。そのような間違いから抜け出すために、キャッシュフローが導入された。利益を絶対視する経済から抜け出すためにキャッシュフローと言う概念が導入されたはずなのだが、それが正しく理解されているとはいいがたい。キャッシュフローの働きを正しく知るためには、キャッシュフローと利益との関係を明らかにしておく必要がある。



増収は、市場が拡大していることを意味し、減収は、市場が縮小していることを意味する。増益減益は、収益と費用の関係を意味している。
一律に増収でなければならないという事になると限りなく市場が拡大し続けなければならない事になる。しかし、経済的事象は限りある事を前提として成り立っている。人の世には限りがあるのである。限りある人の世で限りない発展を前提とするから世の中がおかしくなる。戦争や恐慌、ハイパーインフレーション等は、限りある世の中を限りない事にしようとするから争いが絶えなくなるのである。人生にも限りがある事を忘れてはならない。








産業全体の売上の推移の枠組みは、製造業が中心になって作っているのがわかる。



製造業と一口に言っても個々の産業が何に影響を受けるかは、一律一様ではなく、多様である。
故に、経済政策は、一様、包括的、一括的な施策ではなく、個々の産業の特性や置かれている状況に合わせてきめ細かな対策を立てる必要がある。
金融政策や財政政策だけで対応しようとしたり、馬鹿の一つ覚えに規制を緩和すればいいというのは、乱暴な話である。




市場構造と言うのは、基礎となる部分、社会資本となる部分に、水道、そして、ガス、電力と言ったエネルギー産業、そして、最近は、通信事業、交通(鉄道、飛行機、バス、運送等)があって、その上に食料産業があり、これらがライフラインを形成する。その上に住宅があり、そして、衣料、医療、教育、娯楽などの産業が乗っかっていると言う構図で成り立っている。
この様な市場経済が景気の動向を左右する。どこに位置するかによって産業の在り方にも違いがある。

例えば食料品である。食料品の原点は、漁業や農業である。漁業や農業で生産されたものを卸、小売りと流れていき。最後は家庭や料理屋に流れていく。この間に多くの付加価値を生み出しているのである。経済の実体は過程にあるのであって結果にあるわけではない。
中間にある過程を抜いたら経済は成り立たなくなるのである。



不動産業界の売上は、事あるごとに大きく振幅していたのが、バブル崩壊後は収束に向かっているのが見て取れる。








石油の売上は、中東で戦争があるたびに影響を受けている。






不動産業界では、営業利益と経常利益の乖離が大きく、一見同じような動きをしていても、キャッシュフローに与える影響は想像以上に大きいと思われる。

キャッシュフローと利益は違う。
ただキャッシュフローの計算は、利益を元として始まる。

利益は、目的ではなく、指標である。目的は、企業経営を継続する事である。企業経営を継続する事によって財を生産し、所得を分配する事が目的なのである。
だから、赤字だから悪いという訳ではない。赤字になる原因が問題なのである。赤字になる理由によっては、それが正常な結果である場合もある。悪い赤字ばかりではなく良い赤字もあるのである。黒字だからよくて赤字だから悪いと決めつけていたら経済の実体を見極める事も適切な手立てを講じる事もできなくなる。

だから、利益でなければいけない、損失を出したから悪いと短絡的には決められない。

その点、現金収支は赤字という訳にはいかない。経済の基本は残高主義であり、マイナスという事はないのである。現金がなくなり、不足すればお終いである。経営破綻は、損失が出て赤字に陥ったからではなく。資金繰りがつかずに資金が不足する事によって起こるのである。それが利益は、意見、指標、キャッシュフローは事実と言われる由縁なのである。

まず、利益は、指標であり、意見だとしたら、利益をどの様に定義し、利益を算出する為の根拠を明らかにすべきなのである。この点をあいまいにしたままで、公共事業は利益を出す必要がないとか、民間企業は利益を出せなければ存在意義がないと言っても始まらないのである。なぜ、何によって利益を計算するのか。それが肝心なのである。


法人企業統計

製造業は、経常利益と営業利益の振れ幅が違う。
収益や利益に何が貢献しているかを見極める事が重要である。
かつては、収益が落ち込んでいる時に金融費用がかさむなどという事もあったのである。




キャッシュフローは、現金収支を言う。
現金収支は、収入から支出を引いた値であり、負の値をとることは許されない。
利益は、収益から費用を引いた値である。負の値をとる事もある。ただ、負の値をとった場合は、利益とはせずに、損失とする。つまり、損益の概念は、利益と損失の二つの概念からなるが、現金収支は、現金残高という事実しか認められていない。

収入と収益とは違う概念である。
支出と費用とも違う。
収益には、収入を伴わないものもあるし、費用には、支出を伴わないものもある。
収入には、収益とみなされないものがあり、支出には、費用として計上されないものもある。

利益と現金残高は同じではない。
利益は、収益と費用の差額である。
そして、利益は、投資や融資を前提とした指標であり。また、徴税のための基準である。

この点を理解しないと税の働きも理解できない。税は利益処分の一つとして現在は、処理されている。しかし、税を費用の一種ととらえる税負担は決して軽くない。収入と支出、収益と費用の時間的関係を理解しないと税負担は、経営を圧迫し、経済活動を阻害する原因となる。

肝心なことは、経済的価値を生み出すのは時間価値であり、収入と収益、支出と費用の時間構造を理解しないと経済を理解できないという事である。



企業法人統計 財務省

損失が出ても破産するわけではない。しかし、資金繰りがつかなくなれば、黒字でも破産する。利益は目安であり、残高不足は、現実である。
要するに企業は、費用対効果、投資対効果の結果によって破産するわけではなく、資金不足によって破産するのである。「お金」が回っているうちは経済主体は破綻しない。

これは公営事業が営利目的でなくても成り立つ事で実証されている。


なぜ経済主体は倒産するのか。


企業のみならず政府も、家計も、経済主体が倒産するのは、支出が収入を上回った時である。第一に、支出が収入を上回る原因は、費用が収益を上回るた場合。第二に、過大な設備投資で借入金の返済が滞った時。第三に、運転資金が不足した時の三つが主たる原因となる。
いずれの場合も資金の供給が断たれることが直接の原因となって経済主体は、破産する。
政府は、紙幣の発行権をもっているから、資金の供給を断たれるという事は理論的にはないが、経済が立ちいかなくなって実質的に破産状態に陥ることは歴史的に多くあった。

経済的に破たんすることを防ぐためには、この三つの要素が破たんしないようにする。すなわち、第一に、単位期間内の利益を維持する。第二に適切な投資を行う。第三に、運転資金の釣り合いを保つ事なのである。

経済主体が破産する三つの要因は、キャッシュフローの三つの働きに呼応している。
それ故に、経営を継続させるためには、キャッシュフローを監視することが求められているのである。

借入金の増減は、財務キャッシュフローに現れ、減価償却費は、営業キャッシュフローを増やす。減価償却費は、固定資産の増減、投資キャッシュフローから導き出される。

重要な点は、収入と支出の釣り合いである。

収入は、借入金、資本(元金)と現金収入を言う。支出は、貸付金と現金支出である。
間違ってはいけないのは、収入と収益は同じ意味ではないし、支出と費用は同じ働きをしているわけではない。
実際のお金の動きをどこまで追跡でき再現できるかが、経済にキャッシュフローが果たしている役割を解明するためには、カギを握っているのである。

収入と支出の釣り合いが問題としているのは、単位期間内の収支である。しかし、期間損益の中には、過去の取引の結果も含まれている。例えば、負債や資産の多くは、過去の借金が累積した部分があり、当期の現金収支ではない部分がある。

収入に含まれる借入金というのは、当期借入金を指し、支出には、当期投資に支出された部分を指す。
また、売上債権と買付債務は、現実の金銭の受け払いを伴っていない。貸し借りと言っても通常の借入金や貸付金のような現金のやり取りがないのである。

資本金の中にも過去に出資された部分や過去の利益を含んでいる。

収入と支出の関係が経済を動かしている。しかし、収入と支出を抑えただけでは、「お金」の働きを認知することはできない。「お金」の働きのいくつかの部分は、収入と支出の時間差によっ生じる。
よく減価償却費は、支出が伴わない費用だと勘違いしている者がいる。支出の伴わない費用はなく、減価償却費も同様である。特に、減価償却費は、先払い費用であって後払い費用ではないという点を忘れてはならない。
逆にいえば、む収入を伴わない収益もないのである。

企業が倒産する理由は、資金繰りがつかなくなることにある。資金が回っていさえすれば、赤字であっても企業は倒産しない。逆に、黒字であっても資金繰りがつかなくなれば、企業は倒産する。所謂、黒字倒産である。
そして、この事は、企業のみならずあらゆる経済主体に言えるのである。
なぜ、黒字倒産になるのか、その多くの原因は、損益上に現れてこない資金の出入りが関係している。
目に見えないところで深刻な事態は進行するのである。
この点は民間企業だけに限らず家計も財政も同じである。しっかりと資金の流れを掴んでおかないと経済的に破たんしてしまう。

長期資金の中には、損益上に現れてこない動きがある。その動きを見落とすと思わぬ落とし穴にはまり込む。
現在の経済の問題の陰でこの長期資金の働きが決定的な働きをしている事がある。
なぜならば、現在発生している重大事項の多くが長期資金の働きによるものだからである。





法人企業統計


事業計画とキャッシュフロー


キャッシュフローを見る場合、営業キャッシュフロー、投資キャッシュフロー、財務キャッシュフロー、相互の関連をよく見なければならない。

事業計画には、損益面からとらえた利益計画。資金面からとらえた資金計画。生産面からとらえた設備投資計画、採用面から人員計画がある。
損益は、販売から事業の適否を評価する。資金計画は、資金の調達と運用面から事業計画を評価する。設備投資計画は、生産面から事業計画を評価し、人員計画は、費用対効果の面から事業計画を評価する。この様に、事業計画は、一面的に判断できる事ではない。

特に、事業計画を立てる時は、収益の長期的な見通しとキャッシュフローから資金の調達と返済と言った資金計画は欠かせない。どちらも不可欠な事である。
そして、事業の成否は、初期設定の段階に織り込まれている場合が多い。巨額な初期投資をした場合は、待ったなしに資金の返済が始まるのである。しかも、それは損益上表面に現れてこない。
減価償却費は支出のない費用だなんてとんでもない考え違いが横行しているのである。減価償却費と借入金の元本の返済が直接的に結びついていないというだけで、減価償却費は自由になる資金だなどと思ったら、大変な間違いを犯してしまう。

事業計画は、損益と貸借、そして、投資キャッシュフロー、営業キャッシュフロー、財務キャッシュフローが相互に作用しながら事業を動かしているのである。

事例を想定して資金の流れをキャッシュフローに表してみると経済の構造が見えてくる。
例えば、初年度、2億円を元手として8億円を借り入れし、土地に4億円、設備に6億円投資したと仮定する。税は税引き前利益に対して50%とする。
投資キャッシュフローを核にして資金の流れを単純化すると以下のようになる。

投資キャッシュフローの推移
 年  初年度 一年度   二年度  三年度 4年度  五年度   六年度  七年度  八年度
 営業CF    税引き前純利益  0  0  0.5  1  2  2  2  2  2
 租税公課  0  0  -0.25  -0.5 -1   -1  -1 -1  -1 
 減価償却費  -1  -1 -1   -1  -1 -1 0
 投資CF  固定資産(土地) -4  0  0  0  0  0
 固定資産(設備) -6  1  0  0
   財務CF  運転資本  0  0.75 1.4  1.9 1.9  1.9 1.9 1.9
 長期借入金  -1  -1 -1   -1  -1  -1  -1 -1 
 資本  0  0  0  0
 資本(内部留保)  0 0 0.1  0.1 0.1   0.1 0.1  0.1 
 過不足  0  -1  -0.75  -1.4 - 1.9  -1.9  -1.9  -1.9  -1.9

減価償却は、固定資産の増減として現れる。減価償却費として計上された部分は、利益を下げる。税は、利益を対象として課す。故に、減価償却費が引かれただけ課税額は低くなる。
設備投資にかかった資金は減価償却費に関係なく長期借入金の支出となる。金利分は、費用の増加になって利益を減らす。
利益は、借入金の返済に直接向けられるものではない。利益は、利益処分の対象であり、利益処分には借入金の元本の返済は計上されていないのである。
利益処分から配当金や役員報酬は支払われるため、税引き前利益が上がったとしても借入金の減少にはつながらない。資金が不足した分は、増資できなければ借入金を増加させる。
借入金を減らすのは、内部留保された部分である。そのために、借入金は、内部留保を積むか、増資をしない限り増え続ける事になる。

設備投資、すなわち、償却資産の働きは、減価償却費として計上されるが、その裏に長期借入金の返済が隠されている。上の表では、減価償却費と長期借入金の年間の返済額は一致したものに仮定しているが、実際は、償却費は任意に設定されるため長期借入金の返済と一致しているわけではない。

事業を見る場合、収益曲線と利益曲線、資金収支曲線を見ないと実際の資金の流れは理解できない。たとえ表面的には、利益が出ていても資金収支が悪化している場合がある。そして、産業全体の資金収支が悪化している場合は、放置していると業界全体の経済状態が破たん状態に陥り、負債が急激に拡大する。さらに、利益は金利に左右される。この点を考慮に入れると、長期借入金の元本の返済がはかどらなくなった場合、多くの企業の経営が立ちいかなくなる危険性がある。金利が今日のように低い時はいいが、これが、1%、2%と上昇局面に入ると急速に経営状態を圧迫する事になる。

確かに、減価償却費はいろいろと問題がある。しかし、減価償却費をなくすと、経済効果が測定できなくなる。要は、減価償却費の働きを正しく理解する事が大切なのである。

 
企業法人統計  財務省

現代日本のキャッシュフロー



日本全体では、キャッシュフローの現状はどうなっているのか、日本の経済のこれからを予測するためには、それを明らかにする必要がある。

現代日本のキャッシュフローの問題点は、フローとストックの均衡の悪さである。それが部門間の歪を拡大している。

一国のキャッシュフローは、部門間の資金の過不足と国家間の資金の過不足として現れる。資金の過不足は、経常収支と資本収支として表される。
部門間の資金の過不足も国家間の資金の過不足も総和はゼロ、即ち、ゼロ和になる。
故に、キャッシュフローは、総額と部門間の過不足として表される。

日本のキャッシュフローを見る時、一部門、一局面だけを取り上げても理解できない。全体像を理解する必要がある。財政赤字だと言われても財政が赤字だとそれに見合う黒字に他の部門がなていなければ成り立たない。

資金の過不足は、水平方向にも、垂直方向にも、市場取引においても零和に設定されているのである。フローの余剰資金は、ストックに蓄積されている。

部門には、家計、企業、財政、海外部門、金融からなる。経常収支は、売買取引の結果を表し、資本収支は貸借・資本取引の結果、残高を意味する。

部門間の資金の過不足を鳥瞰してみると、2013年現在、短期では、家計と対家計非営利団体、非金融法人企業、海外部門が資金余剰で一般政府と海外部門が資金不足主体となり。長期的に見ると家計と海外部門が資金余剰主体であり、財政、非金融法人、金融法人が資金不足主体となっている。

現実には、一方的に財政が負債を引き受け、その結果、部門間の歪み、偏りが拡大している。
2000年以前は、企業法人部門が資金不足主体で、資金余剰主体の家計から企業法人部門に投資等の形で資金が流れている構図が成り立っていたが、2000年を境に企業が短期的に見て資金余剰主体に転じその分市場に資金が還流しなくなったのである。その結果、財政が資金不足主体となり、一般政府の負債が拡大し続けているのである。財政赤字を改善する為には、この部門間の歪を改める必要がある。

キャッシュフローの概念に基づいた現金の流れには、経常的な流れ、投資に基づく流れ、資金繰りによる流れの三つに分類される。この三つの流れと会計上の損益の働きとを結びつける事で、今日の経済の働きは見えてくる。

特に、長期的資金の流れを明らかにする事が、経済を立て直す上で鍵となる。

三つのキャシュフローは、状況に応じて正と負の値をとる。正の値をとるか、負の値をとるかで、資金の流れる方向を読み取る事がある。キャッシュフローは、流れる方向と量、組み合わせによって働きが明らかになる。
キャッシュフローの組み合わせとは、営業キャッシュフロー、投資キャッシュフロー、財務キャッシュフロー各々が正の値をとるか負の値をとるかによって決まる。それぞれに正と負の値があり、三つの区分があるから、組み合わせの形は、八つある。
例えば、営業キャシュフローが正の値で、投資キャッシュフローが負の値で、財務キャシュフローが正の値である。因(ちな)みに、この形は、キャッシュフローが正常に機能している事を現している形である。

現在日本の全産業のキャシュフローの形は、第一に、営業キャッシュフローが正の値である。そして、第二に、投資キャッシュフローが負の値である。第三に、財務キャシュフローが負の値である。

キャッシュフローはゼロ和である。



キャッシュフローを見る場合、注意すべき点は、キャッシュフローは基本的にゼロ和だという事である。
キャッシュフローがゼロ和になるのは、市場取引がゼロ和前提として設定されている事による。
別に、偶然、零和になるとか何かの原理に基づいてゼロ和になるというのではない。
初期設定によって市場取引はゼロ和になるのである。逆に、零和になる項目は、その初期設定がゼロ和に設定されていると考えていい。
市場取引の性格と会計の文法となる複式簿記の構造による。

キャッシュフローがゼロ和になるのは、現金残高を前提としている事による。「お金」は、抽象的な概念である。嘲笑的な「お金」は、現金によって実体化される。現金として実体化する手段として、現金は、物に置き換えられる。つまり、「お金」は、物として実体化される事で効力を発揮する。その為に、「お金」は、物としての属性を持っている。物であるから、なくなれば使用する事が出来ない。この属性は、現金が情報化されても引き継がれている。故に、会計は残高主義なのである。

もう一つ重要な事は、取引は一人では成り立たないと言う事である。市場取引が成立する為には、必ず相手がいる。売り手がいれば買い手がいる。買い手がいれば売り手がいる。貸し手がいれば借り手がいる。
そして、市場取引は等価を前提としている。つまり、逆方向で等価な働きを前提として市場取引は成り立っている。売りと買いは一対であり、貸しと借りも一対である。

一対の反対取引を前提として市場取引は設定されている。市場取引を基礎としている複式簿記は、市場取引の働きに基づいて構成されている。つまり、複式簿記は、一対の反対取引の片割れを記録する事で成り立っている。
つまり、市場取引全体を構成する個々の取引自体がゼロ和であるから、必然的に市場取引の総和もゼロになるのである。

市場取引は、現金収支と期間損益の二つの構造を持っている。そして、現金収支も期間損益もゼロ和を前提としている。現金主義は、実際の市場取引に基づき、期間損益は、複式簿記の原則によって個々の取引が成立した時点でゼロ和に設定されている。

市場取引は、売り手と買い手、貸し手と借り手がいて成り立ち、売り方と買い方、貸方と借方を足すとゼロになるように設定されているからである。
市場構成する個々の取引の和は、ゼロに均衡する。故に、全てを足してもゼロとなる。

また、貸し借りと売り買いは、表裏をなすから総和はゼロになる。
資金不足部門があれば、資金余剰部門がある。資金不足があれば、同量の資金余剰が発生する。
そして、単位期間の資金の過不足は、貸し借りとして長期資金に蓄積する。
蓄積した過不足は、金利として時間価値に反映される。金利は、所得の幅によって制約を受ける。

これが大前提となる。

これに基づいて複式簿記は、設定されている。

また、複式簿記は、経済主体の現金の収支による経済的変動を記録する為の手段である。
経済主体の経済行為には、外部取引と内部取引がある。外部取引とは、他の経済主体との取引を言う。内部取引とは、経済主体内部の「お金」の動きから発生する取引である。期間損益は、内部取引に基づいて記録されたもの」をょ言う。
外部取引は、売り買いは、等価の財と「お金」と等価の資金移動である貸借、資本取引をいう。故に、外部取引の和はゼロ和になる。
外部取引は、対称性があり、内部取引は、非対称である。

内部取引は、初期設定は、開始仕分けによって空集合、即ち、ゼロに設定される。内部取引は、閉鎖仕訳(決算仕訳)によって一回一回リセット(清算)され。開始仕訳によって再設定される。
創業時においては、貸借・資本取引に依って同量の債権債務を始点として複式簿記は、設定される。そして、全ての取引は、貸方、借方に分類され、貸方、借方は等価であるように記帳される。故に、会計上貸方、借方の総和はゼロになる。
内部取引は、貸借・資本取引はゼロ和になるが、期間損益は、零和にはならない。その為に差額勘定が発生する。差額勘定とは、利益と純資産に計上される。

経済主体は、その属性によって部門を形成する。この部門間の資金の過不足によって資金は還流する。
また、国際間の取引も複式簿記の原則に従うために、通貨間、国際間の取引もゼロ和となるように設定される。

この国際間、部門間、売買いと貸し借りがゼロ和である事によって経済の枠組みは作られる。
故に、経済指標の重大な要因は、総量と増減の幅にある。
つまり、債権債務、資産負債として蓄積された総量と可処分所得の幅が問題となるのである。

現在の我が国は、企業、家計が資金余剰主体であり、財政と海外部門が資金不足主体である。
財政部門の累積された債務、国債が巨額で、歳入を返済額が圧迫し、歳出を制約して財政の均衡が保たれない状態にある。
これを解消するためには、総所得を増やすか、総支出を減らすか、財政部門の債務を他の部門に転化する以外にない。

現代経済を考える上でゼロ和という概念が、重要な鍵を握っている。特に、期間損益と現金主義を理解する上にもゼロ和は、鍵となる。ゼロ和と言っても何に対してゼロ和となるのかが解らないと、ゼロ和の働きを理解する事はできない。
現金主義でゼロ和が鍵となるのであるから、キャッシュフローを考える上でもゼロ和が重要になる。何と何がゼロ和となるか。そして、なぜゼロ和となるのか。ゼロ和の意味は何かを正しく認識する事が、健在の動きを読み解く際の鍵となる。

無論、ゼロ和が鍵を握っているからと言って何でもかんでもゼロ和によって解決しようとするのは危険であるし、無意味な事でもある。大体、期間損益は、ゼロ和にはならない。



経済の動きを予測する為には、「お金」の流れを補足する必要がある。


市場経済を実際に動かしているのは、「お金」の流れである。「お金」の流れは、資金の過不足によって生まれる。
故に、経済の状態を制御するためには、「お金」の流れの動向と働きの相関関係を常に、掌握しておく必要がある。
資金の状態とは、資金の過不足の偏りを意味する。資金の過不足の偏りがわかれば資金の流れる方向を予測する事が出来るようになる。資金の過不足の偏りを理解するためには、資金の流れを補足する必要がある。資金の偏りが一方向に向かっている場合は、注意する必要がある。
ただ、資金の流れを作っているのは、資金の偏りである事も忘れてはならない。資金の偏在をなくし、平らにしてしまうと資金は流れなくなる。
つまり、資金の過不足の増減運動を調節するのが経済の仕組みを制御する事なのである。

現金の流れを捕捉することは、経済の動きを予測する為には欠かせない事である。
故に、キャッシュフローは重要なのである。

経済の状態を表す数値の動きは、キャッシュフローに良く現れる。
なぜ、キャッシュフローが重要なのか。それは、貨幣経済の仕組みは、お金の力で動いているからである。

お金の流れに偏りや停滞が生じるとお金は円滑に流れなくなり、経済が正常に機能しなくなる。だから、お金の流れを常に監視して偏りをなくしておく必要がある。

だからこそ、キャッシュフローを抜きに経済政策は語れないのである。

資金の働きは、費用対効果、投資対効果によって測られる。資金の調達と運用の均衡が重要なのである。
費用対効果は、収益構造によって、投資対効果は、資金計画と採算予測によって評価できる。
資金の短期的な働きと長期的働きの整合性をとる事が経済政策の要となる。

資金の調達手段には、収益的手段と負債的手段、資本的手段がある。
資金の運用手段には、消費的手段と貯蓄的手段、投資的手段がある。
資金調達の基本は、収益的手段であり、収益の範囲内で消費が行われるように調整するのが基本である。
収益の範囲を消費が越えると貯蓄を取り崩すか、負債的手段、あるいは資本的手段を講じる事になる。
その場合、資金不足が長期的資金に蓄積される事になる。

資金の流れは、一般に調達側から運用側へ流れる時は、規模が拡大し、逆方向に流れる場合は、規模が縮小する。
資金の流れを補足する事は、市場が拡大しているか縮小に向かっているかを見極める上で重要な指標となる。


外部資金を調達するか、内部資金に依存するか



事業を始めるには、どれくらい手持ち資金があるか、どれくらい「お金」を持っているかが問題となる。元手がどれくらいあるかが、事業の鍵を握っている。そして、その「お金」をどの様に調達したかが資金の性格を決める。お金がいくらあると言っても筋のわからない「お金」は使えないのである。そして、事業を始めるためにどれくらいの資金が必要なのか。
そして、実際は、手持ち資金は、どれくらい必要で、資金をいつどれくらいをどこからどの様に調達したか。それを何処に、どの程度、どの様に使ったか。つまり、運用したかを明らかにしなければならないのである。
資金調達、資金需要、資金運用の関係が財務キャシュフローの根本を構成している。

資金調達には外部調達と内部調達があり。資金需要は、固定質投資と運転資金からなり。資金運用は、現金・預金、有価証券、その他の投資からなる。一般に用いられるキャッシュフロー概念とは違う。
しかし、一般で用いられるキャシュフロー概念と資金需給を引き比べると資金の流れの特徴がよく見えてくる。

資金の調達先は、外部と内部がある。外部は、金融機関や投資家等から資金調達を言うのに対して、内部資金というのは、経営主体の内部から資金を調達する事を言う。

内部資金調達には、内部留保や減価償却費を活用する事によって資金を捻出する事や資産を売却したり、経費を削減することなどによって、また、企業間信用を活用する事で資金を調達する事を言う。

「法人企業統計」に表れる、全産業、産業毎、規模別、金融機関のキャッシュフローを見ると数値がいかに正直かがよくわかる。
日本経済が現在置かれている状況は、ニクソンショックが根本にあると考えられる。ニクソンショックによって世界経済は、新たな段階に入り、そして、リーマンショックは、ニクソンショックによって構築された新たな秩序が根本から覆されたと言える。

「企業法人統計」では、キャッシュフローに相当する部分は、資金需給に表される。
資金需給は、資金調達、資金需要、資金運用として表される。

資金の需給で分岐点となった重大な点がいくつかある。
それが、外部資金調達の分岐点となった1991年と外部調達資金がマイナスになった1997年である。
この二点によって資金の流れは明確に変わったと言える。

後で、フリーキャッシュフローについて述べるが、フリーキャッシュフローは、内部資金と外部資金にもかかわる事なので、少し触れておきたいと思う。
フリーキャッシュフローというのは、いろいろな定義があるが簡易にとらえると減価償却費と税引き後利益の和を指し、一般に支出を伴わない収益を指す。そして、新規投資をこの範囲内で行えば無難であるという認識がある。しかし、これは大変な誤解で、この様な費用の対極にあるのは、収入を伴わない収益であり、これらの関係によって生じる資金の過不足は、貸し借りによって賄われる。そして、減価償却費の対極にあるのは、長期借入金の返済と配当である。この関係を理解しないと投資に意義が理解されなくなる。
フリーキャッシュフロー内に投資を限定したら投資は、更新投資のみに限定され、純粋の新規投資は抑制される。それは、投資が内部資金の範囲に抑え込まれることを意味し、総所得を抑制してしまう。

  

社内金融として表される内部資金は、内部留保と減価償却費である。

2000年を境にして資金調達は、内部資金調達に依存するようになる。
資金の流れる方向が変わったのである。

お金の出入りが、経済の仕組みを動かしている。



慢性的にキャッシュフローが不足し続けると社会全体が借金体質に陥る。
おかしな話であるが、世の中の企業全てがキャッシュフローを改善しようとすると金融が借金依存体質になる。つまり、貸出先が喪失するのである。
キャッシュフローを改善する為には、原因を知る必要がある。
経常的キャッシュフローの不足は何が原因の第一は、収入、収益、突き詰めると、可処分所得の不足である。第二に、過剰生産である。第三に、過剰投資である。第四に、過剰雇用である。第五に過剰負債である。
例えば景気がいい、売上があるからキャッシュが回っていると考えるのは早計である。売上が上昇している時は、特にキャッシュフローが悪くなる場合がある。同様に景気が過熱しても実際は現金が不足している場合もあるのである。

お金は経済の仕組みを動かす道具である。

貨幣経済の仕組みを動かしているのは、お金の入りと出である。即ち、収入と支出である。故に、経済の均衡は、収支によって保たれている。収入だけを計ったり、支出を抑えるだけでは経済は良くならない。要は、収入と支出の均衡なのである。
個々の主体から見れば、収入と支出は別のことであるが、全体から見ると収入と支出は表裏一体のことである。出す者がいれば受け取る者がいる。借りる者がいれば貸す者もいる。
収支、売買、貸し借りは、均衡している。この様な取引を外部取引という。外部取引は、対称的で、尚且つ、均衡している。それに対して損益取引や資本取引を内部取引という。内部取引は、非対称である。
その点を忘れたら、経済の仕組みは理解できない。支出が収入を上回っているのか、収入が支出を上回っているのかその状態が意味することが重要なのである。支出が収入を上回っている主体に収入が支出を上回っている主体にお金を貸すである。逆に視点から見ればお金が不足している主体は、お金が余っている主体からお金を借りるのである。この関係が成り立たなくなると経済の仕組みは破綻する。これが大前提である。

要するに、お金の出入りを把握する事が肝心なのであり。その為には、どれくらいのお金が残っているかではなく。どこからお金を手に入れて何に支払ったのかが重要なのである。つまり、お金の働きを明らかにする為には、お金の流れを掴む必要があるのである。
資金の働きで決定的な役割を果たすのは、資金の過不足によって生じる資金の流れであって資金の有り高ではない。
お金は循環する事で働きを発揮するからである。

収支は資金の需給関係。



収入と支出は、資金の需給関係と言える。
企業統計法人における資金需給は、前期と当期の差を言う。
資金の需給関係は、資金調達と資金の運用状況によって関係によって決まる。
資金調達は、外部調達と内部調達からなる。外部調達は、増資、社債、借入金からなる。借入金は、短期借入金と長期借入金によって構成される。
内部調達は内部留保と減価償却費からなる。
内部留保は、利益留保、引当金、特別法上の準備金、その他の負債(未払金等)の期中の増減額の集計したものを言う。利益留保は、その他の資本剰余金、利益剰余金、その他(土地の再評価差額金、金融商品に係わる時価評価差額金等)、自己株式の年度の増減額を言う。
資金需要は、固定資産投資と運転資金からなる。
固定資産投資は、設備と土地、無形固定資産に対する投資からなる。
運転資金は、在庫投資と企業間信用差額、その他からなる。
企業間信用差額は、与信超、即ち、企業間の貸借関係をいい、売掛金と受取手形の和と買掛金と支払手形の和の差を言う。売掛金と受取手形は、売上債権であり、買掛金と支払手形は、仕入れ債務である。企業間信用差額とは、売上債権と仕入れ債務の差である。売上債権から仕入れ債務を引いた差が正の場合は、運転資金とされ、負の場合は、受信超と見なされ内部留保に含まれる。
運転資本のその他は、短期貸付金等のその他流動資産と繰延資産の和である。
資金調達に対して資金需要の過不足は、資金運用によって補われる。資金運用は、現金・預金、有価証券、その他の投資からなり、有価証券には、流動性の高い一時保有有価証券と固定性の高い、投資有価証券がある。又、その他投資は、長期貸付金と投資不動産などを指す。(「法人企業統計年報特集(平成23年度調査)」 財務省 高浪政夫)

運転資本の増減と短期借入金の増減

法人企業統計

運転資本の減少は、運転資金の不足を意味しているからその分短期借入金によって補っている。この点は、営業キャッシュフローで述べている。
問題は、運転資本の過不足の原因であるが、主として売上と在庫が関係している。

景気の拡大期は、売上の上昇に伴って債権の回収が進み、また、在庫の回転も速くなる。売上の上昇に伴って債務も増加する傾向が出る。

大きく運転資本が減少したのは、第一次石油ショック時と第二次石油ショック、およびバブルが発生した時、そして、リーマンショック直前である。
オイルショック、バブルが形成されている時は、在庫の現象と債権の縮小が顕著である。在庫は、単価と数量の積であり、数量の伸びはさほどではないから単価の要因が大きい事がわかる。それに対してバブル崩壊時、リーマンショックにおいては、在庫の需給が急速に縮んでいる。さら、リーマンショック時は、債権が急速に膨れあがり、債務が急速に縮小している。

営業利益と営業キャッシュフローの関係


経営の要は、収益にある。この点を誤ると経済の本質を理解する事はできない。
先ず、経営主体は、収益を上げる事が前提である。そして、収益の質を測る指標が利益である。
利益は、収益から費用を引いた値である。利益を裏付ける資金の流れが営業キャッシュフローである。
利益は、費用対効果を表している。
営業キャッシュフローは、資金の過不足を表す。利益がなくても経営主体は潰れないが、現金が底をつけば経営は行き詰まる。

営業利益は、単位期間内における取引の結果を現し、営業キャッシュフローは、短期資金の働きを現している。
営業利益と営業キャッシュフローは、運転資本と減価償却費の分だけ捻じれる。

全産業

法人企業統計

企業間信用差額は、経常的取引の過程で生じる企業間の貸し借りを言う。売上債権を売れ上げを計上していながら、代金を受け取っていない取引をいい、仕入れ債務は、物を受け取っていながら支払いが済んでいない取引を言う。キャッシュフロー上、売上債権は、代金を受け取るまでは、売上から差し引く必要があるし、仕入れ債務は支払が終わっていないのだから加算する必要がある。

国民経済計算書とキャシュフローでは、国民経済計算書の消費と営業キャッシュフロー、投資と投資キャシュフロー、貯蓄と財務キャッシュフローと対応している。




企業間信用差額(与信超)=(受取手形の増減額+売掛金の増減額+受取手形割引残高の増減額)-(支払手形の増減額+買掛金の増減額)ただし、値が負の場合(受信超)は内部留保に含む。

受信超=企業間信用差額(与信超)=(受取手形の増減額+売掛金の増減額+受取手形割引残高の増減額)-(支払手形の増減額+買掛金の増減額)の値が負の場合。

与信超の場合は、市場が拡大していることを表し、受信超は、市場が収縮していることを表している。



単位 1兆円


信用供与率は、受取手形、売掛金、受取手形割引残高の和を支払手形と買掛金の和で割った値である。
基本的に信用供与率は、100%以上である。




消費の質が肝心である。



現代社会は、何でもかんでも安ければいいと思い込んでいる節がある。安ければいいという発想そのものが貧しい。価格は、収入と支出の均衡の上に成り立っている。買い手に有利なだけでは売り手は破産する。買い手と売り手との力が均衡する所で価格は安定すべきなのである。消費者が善で生産者は悪だという図式は偏見である。問題は、消費の質である。

消費の質を考えずに、廉価だけを追求すれば、支出が抑制される。支出は裏返せば収益である。収益構造は、費用構造である。費用構造は、支出構造である。支出構造は所得構造でもある。つまり、闇雲に費用を削減すれば収入が抑制される結果を招くのである。廉価ではなく適正な価格である。それを維持するために、期間損益は成立したのである。

消費の質とは何か。それは、消費行為の実態を見ないと解らない。

消費の質を考える前に、「お金」と消費の関係を明らかにしておく必要がある。
まず第一に、「お金」は、消費されない物。「お金」は、「お金」以外に使い道のないものだという事である。
基本的に物の経済は、生産と消費と在庫と言う関係で成り立っている。それに対して、「お金」の経済は、所得と支出と貯蓄で成り立っている。どこが違うかと言うと第一に、在庫と貯蓄である。在庫には物理的性格があり、時間とともに劣化するという点である。生鮮食品は、腐敗するし、流行りのある服は、陳腐化して価値が劣化する。それに対して、「お金」の名目的価値は劣化しない。時間の変化に対しては、時間価値として金利を生み出す。だから、貯蓄は、資本となりうるのである。
第二に、「お金」は、「お金」以外に使い道がないという事である。「お金」として使われた後、余った「お金」は、「お金」として累積される。それが借金、負債の原資になる。つまり、余った部分が負債と資本を形成するのである。
第三に、「お金」は、一方的に流れのでは効用を発揮しない。「お金」は、循環する事で効用を発揮する。物は、消費される事で使い尽くされる。それに対して「お金」は、支出される事で消滅する事なく、価値をそのまま保持して他の経済主体に流れていく。つまり、「お金」は、「お金」として使われるだけで、消費されない。「お金」の価値は失われないのである。だから、消費ではなく支出である。

故に、物の消費で重要なのは、質であり、支出で重要なのは量である。ここに量と質との転換がある。この転換が適正になされないと、生産に投入された労力と労力の対価としての所得との関係が不均衡になる。
消費と支出との関係は、消費の質と支出の量の問題でもある。生産と所得、消費と支出、在庫と貯蓄この関係が市場の根底にはある。

消費と支出との関係が所得の外枠を形成する。所得の外枠として大事なのは、所得のサイズ・規模である。
消費は、生産手段による。消費の本となる生産財が、大量生産によるものなのか、手作りによるものなのかと言った質によって決まるからである。生産財の単価の高低が所得や収益に反映される。

同時に生産された物が消費されないと在庫になるが、基本的に在庫は、保存できない。保存できても保存料がかかる。つまり、余りは無駄となる。しかし、「お金」は、残る。余った部分が資本を形成するようになる。つまり、余剰の本質的な意味が違うのである。過剰に生産され余った物は、捨てられる。廃棄される。しかし、「お金」は、再利用される。再利用されて蓄積していくのである。
この「お金」の性格が資本主義の根底にある。

物は、使い道がなかったり、残ればゴミである。「お金」は、残れば宝になる。この違いが資本主義や貨幣経済の根本にある。残った「お金」が、資本や、資産、負債に転じるからである。残ったお金も劣化させればいいという思想がある。しかし、それでは、「お金」は、市場を循環しなくなる。「お金」は、資金の過不足を補うように市場を駆け巡るからである。貸し借りが成立しないと資金を市場に循環させる事が出来なくなる。
ただ、余った「お金」が一方的に積み上がると資金の流れを悪くする。動脈硬化を起こして資金の流れを悪くするのである。

今日、問題なのは、消費の質と支出の量が不均衡になっている事である。消費の質は、生活の質である。普及品が求められているのか、高級品が求められているのか、生活の質を高めようとしているのか、量を優先しているのか、それによって支出の量は変わってくる。ところが、今日の経済では、生産者も消費者も高くても品質のいいものを求めているのか、品質が悪くても安いものを求めているのか、それが曖昧にされていて、量と質、両方を求めている。その為に生産と所得が不均衡になっているのである。

劣化しないのは、「お金」だけではない。石油だって土地だって劣化しない。「お金」は、劣化しないだけでなく、「お金」以外に使い道がないのだ。金本位時代は別である。金には、「お金」以外の使い道があった。つまり、「お金」に物としての使い道があったのである。いまは、「お金」は、「お金」、物としての属性をかなぐり捨てた。物としての属性をかなぐり捨てる事で「お金」の本質が顕になった。「お金」には、「お金」としての使い道しかないのである。「お金」は物ではないのである。




キャッシュフローには過程がある。



キャシュフローには、一定の過程がある。キャッシュフローの働きを理解する為には、その過程を予め頭に入れておく必要がある。

事業は、先ず初期投資がある。
その初期投資の為に資金調達がある。
最後、投資した資金を収益によって回収する。これらの三つの行為が資金の流れを創り出す。
即ち、初期投資が投資を形成し、資金調達が財務の流れを形成し、収益による資金の回収が経常収支を構成する。
この三つの資金の流れを土台にして期間損益を理解する必要がある。

事業を立ち上げた初期は、潤沢な資金が用意されている場合が多い。と言うよりも、初期投資には資金が必要とされる為に、纏まった資金が準備されているのが一般である。さもないと最初から資金不足に陥り事業継続する事が不可能になる。

借金は、手持ちの資金量を過大に見せる働きがある。いわゆる、梃子の効果である。元金を何倍にも膨らませる事で巨額な初期投資を可能とするのである。しかし、資金の多くは純資産も含め自己資金ではなく、外部からの借り物である。その点をしっかり理解しておかないと自分の力を過大に見積もる事となる。
例えば、住宅ローンや自動車ローン、いろいろな割賦販売は、一見、自分が金持ちになったような錯覚を起こさせる。事実、家や自動車、家財と言った物を豊富に手に入れる事はできる。しかし、支出は支出であり、借金は支出の繰り延べに過ぎないのである。そして、ローンや割賦は借金の一種なのである。
しかし、その後月々の返済に追われ自由にできるお金が減る。終いには、自由にできる金がなくなってしまうのである。この様に可処分所得が少なくなっても一定の所得が確保されている場合は、生活が破綻する事はない。しかし、当てにしていた所得が得られなくなったり、失業などによってまったく所得がなくなると途端に借金の返済によって首が回らなくなる。極端な話、借金がなければ倒産はしないのである。
これは、企業のみならず家計も財政も同じである。それが借金の怖さである。
ただ、考えてみれば、お金がないという理由だけで命まで奪われる事はない。命まで失うのは、食料や水といった生きていく為に必要な資源が手に入らなくなった場合だけである。ところが、多くの人がお金が返せないと思い詰めて自分の命を絶ってしまうのである。それは何か、現代社会はお金が全てであるように錯覚し、或いは錯覚させられているからである。それでは人はお金の為に生きている事になる。そして、現代社会は、人がお金を支配するのではなく、お金が人を支配すると言った転倒が起きているのである。

貨幣経済の仕組みは、お金が流れることによって動いている。お金の働き、お金の入りと出、即ち、入金、出金によって発揮される。入金、出金は、常に二つの主体の間において成立する。二つの主体の間をお金が出入りすることによって貨幣経済の仕組みは動いている。
つまり、貨幣経済の仕組みにおいては、お金の流れる方向、お金の流れる量、そして回転が鍵を握っている。

支出と収入は、表裏の関係にある。故に、全体ではゼロ和となる。視点を変えると入金は、出金であり、出金は入金となるのである。入出金は認識の違いから生じる。元は同じ事なのである。
収入と支出、収益と費用、貸し、借りも同じである。

取引の基本は、売り買いと貸し借りである。
貸し借りで「お金」を供給し、売り買いで「お金」を活用する。

投資された資金は、長期的資金の流れの裏付け、根拠となる実質的流れと資産を形成する。
実際の資金調達の流れは、貸し借り、貸借によって名目的な流れ、財務キャッシュフローを形成していく。

営業キャッシュフローは、与えられた生産手段に基づいて形成される経常的な資金の流れを指して言う。
つまり、売り買いを基礎として実体的な物と金の分配を担っている。営業キャッシュフローからも貸し借りは生じるが、それは、経常的な活動の過程で生じるものであり、故に、売上債権、仕入れ債務、棚卸を構成する。
又、費用性資産である償却費も含まれる。

投資キャッシュフローは、生産手段(ストック)に対する収支を言う。

財務キャッシュフローは原則として資金の過不足を補う目的で派生する。財務キャッシュフローはあくまでも補助的、補完的、手段であって主たるもの、目的にはならない。

故に、市場全体の取引を集計したキャッシュフローと個々の産業、企業のキャシュフローをつなぎ合わせてみると資金の流れの全体像が浮かび上がってくる。


フリーキャッシュフロー



三つの流れ以外にキャッシュフローを分析する上では、フリーキャッシュフローも重要な指標の一つである。

フリーキャッシュフローを営業キャッシュフローと投資キャッシュフローの和としてグラフにすると下のグラフになる。


法人企業統計

フリーキャッシュフローとは、純現金収支である。
純現金収支とは、事業経営の柱となる現金の動きである。
フリーキャッシュフローとは、本業から稼ぎ出されるキャッシュフローのことを言う。

ただ、フリーキャッシュフロー公式に定義された概念ではない。
それ故に、フリーキャッシュフローにはいろいろな概念見方がある。

一つの考え方は、フリーキャッシュフローは、自分たちが自由に使えるお金という考え方である。
もう一つの考え方は、当該企業が本来の活動によって生み出したキャッシュフローという考え方である。

この考え方の違いは、計算の仕方に現れる。
簡易な計算方法としては、「営業キャッシュフロー」から設備投資や企業買収などに供された「投資キャッシュフロー」を引いた値として考えられる。
しかし本来の考え方は、考え方は、営業純益に償却費を足して、設備投資と増加運転資本を引いた値という事になる。

ここでは、フリーキャシュフロー=営業利益+減価償却費-租税公課-ソフトウェアを除く設備投資-企業間信用差額-在庫投資(棚卸の調査対象年度中の増減額)をいう。

 

1990年バブルの絶頂期に、フリーキャッシュフローは、不足するのである。企業は、稼いだ金以上に投資していたことがわかる。
それがバブル崩壊後、急伸している。この事は、逆に資金効率が低下した事を意味する。

フリーキャッシュフローのフリーという意味は、フリーキャシュフロー債権者に金利を支払ったり、債務の償還を行ったり、株主に配当支払う事が経営者の裁量で自由になるキャッシュという意味である。
経営者が自分の裁量で投資を決められる範囲、原資を計算するという意味もある。

フリーキャッシュフローとは、自分の自由に出来る所得だと考えると、可処分所得だとも言える。
フリーキャッシュフローを超える部分は、借入に頼らなければならない。

フリーキャッシュフローは、フリーキャッシュフローとは、経済活動によって産み出される返済などの制約を受けない資金である。つまり、経済運営、経営資源として核となるべき現金収入である。

フリーキャッシュフローの計算式は、税引き後営業利益に償却費を足してその値から設備投資と正味運転資本増減額を引く。

フリーキャッシュフローの用途は、借金の返済や投資の原資、元手、自己資金、手持ち資金である。
多少の乱高下はあったとしても全業種のフリーキャッシュフローの残高は、余剰である。
余剰なのに、それが設備投資が伸びないのは、手持ち資金以上の投資が抑制されている証拠である。
何が原因で投資は抑制されているのか。それは資産価値、特に地価の下落である。
資産価値の上下は、資金の流れる方向を特定するのである。

キャッシュフローを家計に当てはめると、例えば、日常的な支出は、可処分所得の範囲に出で行われる。そして、住宅とか、自動車などの高額な支出は、金融機関からの借入に頼る事となる。この様な流れは、基本的に企業も財政も同じある。

営業キャッシュフローは、収益と費用の基礎となる現金収支であり、家計で言えば、日常的な収支の部分を指して言う。

投資と借入金は対極的関係にある。
長期的資金の流れは、時間の関数によって費用を変化させ価格を操作する事が可能である。つまり、償却費のような事を用いて利益を操作する事が可能なのである。
時間をどう認識し扱うかが価格や利益を決めると言ってもいい。
その点を正しく理解しないと公正な競争も偏りのない分配も実現的ない。

大量生産、大量消費は劇的に固定費を下げる。劇的に固定費を下げるから価格や利益に重要な影響を与えるのである。単純に利益だけ見ていたら、資金の流れと利益との整合性は理解できない。長期資金の働きとその時点その時点の利益とを結びつけ働きを理解しないと利益本来の機能を理解する事はできない。

フリーキャッシュフローは、損益上に現れた科目から導き出されるものである。
それ故に、財務キャッシュフローが除かれているのである。
フリーキャッシュフローの範囲内で投資をしていたら、経済成長は出来ない。

景気の方向性や状態の基調、基底を構成するのは長期資金の流れである。

先ず、純利益の変化を確認する。その後現預金残高の動向を見る。

そして、収益と付加価値を検討する。付加価値の外枠は粗利益である。収益と粗利益の関係を理解しておく必要がある。


所得の変化が経済にどのような影響を与えるか



総収入の変化が経済全般に及ぼす影響を知る事である。総収入の変化には、総収入が拡大から停滞に変化した場合、拡大から縮小に変化した場合、逆に停滞から拡大に転化した場合、縮小から拡大へと転化した場合等である。
市場の拡大が止まり、停滞、あるいは縮小に向かった場合をどの様な経済状態に陥るかである。
例えば、貸しビル業を例に考えた場合、開店当初部屋がすべて埋まったとしても家賃の上昇が止まっている場合、それ以上の収益を望むことはできない。逆に市場が縮小していて家賃が下落した場合、収入は、開店時点を境に減少することになる。それに対して借入金の返済は、固定的に発生する。費用は、減価償却費をはじめ固定費が一定額継続的にかかる事となる。また、利益に対する納税支出もかかる。
収入の上限が固定されているのに、固定費の拡大は止まらない。そのために、実質的な投資を抑制して名目的費用によって収入の減少を補おうとする。さらに費用や支出を抑制する事を優先するために、市場全体の効用は低下し、費用や支出が減少されることによって実質的所得が抑制され、可処分所得が圧縮される。
現金収支と損益は、別の原理が働いている事を見落としてはならない。
現金主義の時代の感覚と期間損益主義とでは、投資と現金収支において決定的な差がある事を忘れてはならない。
つまり、現金主義に基づく場合、例えば、かかった費用の内、自前の費用、自分の土地を使ったとか、建物は古くからあるものを改造したという場合は、投資として資金の流出がなくても期間損益の場合は、資本として計上しなければならなくなる。また減価償却費として一定期間にわたって費用計上することが要求される。
投資をしなければ新たな費用は派生しないし、見かけ上の費用を削減することもできる。その事によって見かけ上の利益が上がり、価格の押し下げ要因として働く。
この様な前提に基づくと現実の現金収支ではなくて期間損益、即ち、費用対効果によって経済効果がられることになるのである。つまり、期間損益主義では、現金の支出がなくても費用は計上される場合があり、逆の場合もあるのである。
それは、現実の現金の流れより資産や負債、資本と収益、費用の関係によって経済が動かされている事を意味する。この点が重要なのである。
営業キャッシュフロー、投資キャッシュフロー、財務キャッシュフロー、そして、費用と収益の関係は、この点を考慮しないと理解できない。
経済全般で見ても現在の日本の様に名目的な収益の拡大が止まると、資産や負債から生じる費用や支出の圧迫が高くなる。そして、それが実質的可処分所得を減少させるのである。この様な効果が市場の収縮に加速度をつけてくる。
現代の日本経済が底なし沼の様に陥っているのは、収入の停滞によって資産や負債、費用の負の働き強まっている事に起因している。この点を改善しない限り、日本経済は、内圧によって押しつぶされてしまう。
見かけ上の利益は、増加していても実際的な現金収支は、常に、負である状態に陥る。企業はさらなる利益を求めて過当競争に陥り、現金収支を悪化させる。そして、資金繰りが悪化して突然死を迎えるのである。これは、市場全体の未来を暗示している。



資金の流れは、経済の在り様を決める。



ニクソンショック、オイルショック、プラザ合意、バブル、リーマンショックと日本経済には、経済の在り様の節目となる様ないくつかの出来事がある。
我々は、外に現れた現象に目を奪われがちだが、実際はその背後で大きな変動が隠されている事がある。

オイルショックによって高度成長は終止符を打たれたと言われる。
オイルショックは、高度成長の終焉と言われたが、ニクソンショックやオイルショックによって高度成長は、終止符を打ったのか。それともそれ以前に高度成長は終わっていたのか。

高度成長は、一般に1952年から1972年までの間を指し、この間、実質的GDP年平均成長率は、9.2%を記録した。




しかし、粗鋼の生産量は60年代後半には、横ばい状態に入り、市場が飽和状態に達していたのが読み取れる。



高度成長の牽引役だった家電製品も70年代前半にはほぼ飽和状態に達してしまう。
これらの事を鑑みてみると市場が飽和状態になるにつれて成長率は鈍化していると思われる。
市場が飽和状態なって成長率が低下しているところをニクソンショックやオイルショックが直撃したとみられる。



ニクソンショックやオイルショックの背後で何が起こったのか、キャッシュフローから検証をしてみる。
その上で、何が終わり、何が始まったのかを改めて明らかにしていきたい。

市場が大きく変化する時には何らかの前段的な動きがあるものであり、その動きをキャッチする事は、市場を制御するうえで重要な鍵を握っていると思われる。

オイルショック


オイルショック、終わりなのか、始まりなのかという疑問がある。

オイルショックは、高度成長に終止符を打った事件と言われるが、それ以前に高度成長そのものは、オイルショックに関わらず終焉していたと思われる。オイルショックは、高度成長を終わらせたのではなく、高度成長にとどめを刺しただけではないのかと私は考える。

オイルショックを考える場合、忘れてはならないのが起こる2年前に、ニクソンショックがおこり、急激な円高になった事である。
確かに、オイルショックは、高度成長のとどめを刺したような出来事ではあるが、それと同じくらい、否、オイルショック以上に高度成長にとどめを刺した出来事としてニクソンショックは考えられるのである。
一概にオイルショックだけが高度成長を終わら差た出来事ではない。そして、石油価格と為替は、以後、経済の節目節目に大きくな影響を与え続けているのである。

ニクソンショックとオイルショックが同じ時期に勃発した事こそ、象徴的なのである。

一口に、オイルショックと言われるがオイルショックは、1973年の第一次オイルショックと1979年の第二次オイルショックの二回にわたって起きている。

一般に、高度成長の息の根を止めたと言われるのは第一次オイルショックである。

オイルショックになる以前に、1971年にニクソンショックがあり、1973年の列島改造ブームによって地価の上昇は、始まっていた。そのような前提に従って、オイルショックによって物価上昇に火が付き、狂乱物価という現象になった。
これらの事を考えるとオイルショックが高度成長の息の根を止めたというよりも、むしろ、高度成長の終焉を告げる象徴的な出来事と捉えた方が妥当なのかもしれない。

もう一つ特筆すべきなのは、1965年に戦後初の赤字国債が発行された後、十年間発行されてなかった1975年に発行され今日に至っている事である。ある意味で財政問題はここから始まったともいえる。赤字国債、財政問題もオイルショックの副産物と言える。

我々は、オイルショック、石油の高騰ばかりに目を奪われがちであるが、オイルショックを引き起こした背景には、日本経済の質的、構造的な変化が隠されている。
石油危機に以前に、日本列島改造などによって物価の高騰は始まっていたのである。そこに追い打ちをかけるように石油危機が起こったのである。


バブル



バブルと言う現象を分析する時、大前提となる事がいくつかある。

バブルを引き起こす要因は、資産価値の変動、収益力、負債、そして、金利等である。また、資産価値を大幅に動かす要因として為替の変動がある。これらの点を念頭に置いておく必要がある。

バブルの形成と崩壊において何が悪いのか。それは、収益、費用、資産、負債、資本の均衡が悪い事である。本来、負債は、利益の中から清算すべきなのに、収益が上がらない事で、負債を生産するだけの利益が得られない事がバブルを解消できない一番の原因なのである。

まず第一に、収入の調達手段には、損益的手段と資本・負債的手段があるという点である。第二に、資本・負債的手段による資金の調達と運用は、損益上に計上されないという点である。
第三に、損益上に計上されるのは、資産が費用化された場合と負債から派生する金利といった付加価値である。つまり、ストックがフロー化された時である。

バブルの形成と崩壊の前後にどの様な前提条件が変わったのか、明確にする必要がある。
前段階としてあるのは、高度成長の終焉、ニクソンショックによる為替が固定相場から変動相場に変化、そして、為替が円高傾向になる。更に、オイルショックの発生、狂乱物価、プラザ合意によって円高の流れが加速され、金融が緩和され、資産価値の高騰とバブルの発生、消費税の導入によって税制の枠組みが変わった等である。
90年代に入ると総量規制、金融引き締め、バブル崩壊、資産価値の下落、会計基準の変更、金融ビックバン、金融危機、金融再編、雇用制度の変更、少子高齢化の顕現等である。
2000年代になるとゼロ金利、金融緩和、大規模為替の介入、不良債権の清算、財の悪化、リーマンショック、異次元の金融緩和へと続く。
何が市場に働く力の本質や産業構造を変えたかである。それを見極める必要がある。バブルの形成と発生の背後でどのような変化があったのか、それが肝心なのである。

プラザ合意後の急激な円高がバブルの伏線になる。
急激な円高は、輸入物価のみならず、国内生産物の価格も抑制する。その為に、市場価格に下方圧力がかかり物価全体が抑圧され、収益力の低下につながる。また、輸入品は、価格に転嫁するまで時間がかかるのに対し、輸出品は、直ぐに価格に反映される。これも、収益に対する下方圧力となる。

円高によって、不況になり収益力が衰える一方で資産価値が上昇した場合、経費などの削減によって利益の向上をはかる。しかし、費用を削減しても効果が上がるのには時間がかかる上に、費用の削減は、収益力の低下に結びつく危険性がある。また、全体的に見ると所得の低下を意味する。
その時、資産価値が上昇している場合は、手っ取り早く資金を調達しようと思えば資産・負債的手段を講じる事である。ただ、資本・負債的手段によって得た収入は、収益として計上する事が出来ない。その為に名目勘定を使って収益の嵩上げをしないと損益上赤字となる。
借入金によって得た収入は、損益上には、計上されない。資産価値が上昇した事によって生じた資金の調達力によって損益上に表れない資金が市場に供給されるのである。名目的収益で表面を取り繕えば、実体の伴わない利益が計上される事になる。

忘れてはならないのは、負債・資本的手段で得た資金には、金融費用が掛かる。つまり、損益上に表れない多額の資金から派生する金融費用や償却費によって所得が圧迫を受け、それが限界を超えると経済が成り立たなくなる。
円高によって資産価値が上昇し、円高不況で収益が悪化したのを補う形で負債が累積し、それが、支払金利を増加させ、所得を圧迫するようになる。更に、元本の返済が上乗せされる事で、金融費用の負担に耐えられなくなる。その時バブルが弾け、資産価値が下落すると資金繰りがつかなくなり、なおかつ、不良債権が発生する。


国民経済計算書 ストック

要するに長期的な資金の動きは、損益の表面には現れないという事である。資本・負債取引、資産取引に伴う現金収支は、表からは見えない。
経常的な収支は、所得や収益の範囲内で賄われるのが原則である。借金で得た金を生活費に回したり、投機、博打で儲けた金で借金の返済をしようなんてまともではない。そのまともでない事がバブルの時代に起こったのである。

バブル期は、収益がそれほどいいという実感がないのに、奇妙な熱狂があったのは、損益上に表れないところで資金の供給があったのに、バブル崩壊後、企業業績が好転しているはずなのに、景気がいいという実感がないのは、資金が回収方向に流れて市場に出回っていないからである。

負債・資本的手段で資金を供給しても家計消費は伸びない。なぜならば、負債・資本的手段は、所得や収益に直接影響しないからである。表に現れない「お金」の動きであるから「お金」だから裏金になりやすい。

バブルと言うのは、実体のない活況、生産性のない浪費と言った現象が現れる。それは、損益上に計上されない資金供給がされるからである。生産性を伴わない浪費は、社会を頽廃化する。

高度成長は、市場の成熟とともに徐々に成長力が低下していった。そして、経済が成熟するのにともなって経済の性質も変わってきたのである。変わらなかったのは、生産者であり、行政である。
市場の根本的状態が変わったのである。何でも右肩上がり、成長、拡大を前提とした従来の手段、やり方では通用しない。
従来のやり方を強引に推し進めれば、経済は破綻してしまう。量から質への転換が計られる必要があった。大量生産から多品種少量へ。普及品から、高級品へ。工業製品から手作りへと経済の性格を変える事が求められていた。その兆候として人々は争ってブランド品を求めたのである。
高くてもいいものを大切に長く使う。それが本来の在り方である。いいものを大切に使う事は、資源を守り、環境を維持する事にも役立つ。
大量生産、大量消費は、資源の浪費や無駄遣いを奨励する事を意味している。
まるで吐いてまで、料理を食べさせようとしてるかが如くである。その結果、飽食の時代を生み出してしまった。欲望のままに生きる餓鬼道そのものである。

高品質化、多品種少量、多様化を促すべきところを、無理やり消費者に、生産者も、行政も、メディアや、流通業者まで大量生産、大量販売、大量消費、廉価を押し通そうとした。その結果、安売り合戦、過当競争が始まり地方の商店街は衰退し、大型スーパー、郊外型ショッピングモールと移行した後、いずれもが衰退していくことになる。
そして、シャッター街、ショッピング難民などを現出させてしまったのである。商店街が枯れ、市場が砂漠化しているのである。
また、大資本による大規模な投資は、結局、資本の回収を難しくさせ、結果的に産業の衰退も招いた。

収益力が低下している時に規制を緩和すれば寡占、独占が促進される。

成熟し、量的な拡大が望めなくなったら質的な拡大に期待すべきなのである。それをやたら技術革新だと変化ばかりを追い求め高度成長期同様の投資をし続けていたら破綻するのは目に見えている。量産品や安物ではなく、多少高価でも、生産するのに手間暇や時間をかけ付加価値の高い物の市場開拓に力を入れるべきだったのである。
ところが、バブル期に、潤沢に得た資金を従来型の大量生産型投資に振り向けた。その結果、招いたのが、過剰設備、過剰負債、過剰雇用である。

また、高度成長の終焉は、金融制度の根底をも揺さぶった。
高度成長時代は、金融を要とした間接金融が主体だったのが徐々に企業が直接市場から調達する直線金融へと移行していった。

金融サイドから見るとバブル形成期は、オーバーローン、そして、収入の裏付けのない収益を当てにした融資の拡大。そして、バブル崩壊後は、経費削減によるリストラの強要、そして、貸し渋り、貸し剥がしといった強引な資金の回収。債務処理を後回しにした不良債権の清算。費用を伴わない利益の拡大は経済成長をさせない。強引な資金の回収や不良債権によって市場に資金が流れなくなり、市場を収縮させた。それが金融機関にとって自分たちの首を絞めてしまったのである。健全な市場や産業を育成するゆとりがなかったと言える。

それは、象徴的な事ではあったが本質的な事ではなかった。本質なのは、市場が飽和状態に陥り、拡大から縮小に転じた事である。だから、物の経済から「お金」の経済へと変質したのである。
そして、高度成長の終焉はバブルを準備したのである。

高度成長から低成長時代へ、量から質への転換点においてバブルは膨らみやがて破裂した。

バブルの前には、プラザ合意に基づく、急激な円高があった。同時期に逆オイルショックと言われるような現象も起きている。
価格は、数量と単価の積である。価格は、和ではなくて積だという事が重要となるのである。
円高による収益力の低下と資産価値の高騰が背景にある。この二つの要素がなければバブルは形成されなかった。
もう一つ忘れてはならないのは、借入金による収入も支出も会計上差額勘定でしか計上されない。つまり、表面に現れない上、損益には直接的な影響を及ぼさないのである。この事によって表面に現れないところに隠された大きな資金の流れが発生するのである。これが、表面に現れる収益以上の好景気や不景気を引き起こしているのである。


非金融資産・金融資産・負債残高

国民経済計算書

バブル崩壊は、日本経済の枠組みを変えてしまった。
我々は、地価や株価の暴騰とその後の急落と言った現象に目を奪われがちだが、もっと根源的な変化は、市場の構造の枠組みが変わってしまったと言う点にある。現象の背後でどの様な構造変化が起こっているかを明らかにしなければならない。その為には、負債と非金融資産との関係を見ていく必要がある。

基本的に金融資産と負債は、同じ動きをしている。
金融資産と生産資産の並びを変えてみると違った様相が見えてくる。




バブル崩壊後、急速に生産資産が減少したのに対して負債は、むしろ増加している。負債が減少に転じるのは、リーマンショック前、2005年から2007年にかけてである。この時、市場は、ミニバブルの様相にあり、総所得も上昇しているのである。
また、よく見ると生産資産と言っても急速に減少したのは、有形非生産資産であって生産資産も、むしろ、増加傾向にある。
バブル崩壊で急速に価値を下げたのは、有形非生産資産である事がわかる。
有形非生産資産と言うのは、大部分が土地である。土地は生産されない。故に非生産資産なのである。つまり、非生産資産の増減は、量の問題ではなく、価値の問題だという事である。
ここにバブルの本質がある。

貸借・資本取引は損益上に計上されないから、借入金も借入金の元本の返済も損益には計上されない。
借入金によって資金は調達できても収益の改善に結び付かないので、企業は、名目的収益と名目的費用で対応した。名目的収益、名目的費用は、実質的な現金収支を伴わない勘定である。

即ち、名目的収益とは、非貨幣資産の益出し、費用性資産(減価償却費等)の過小評価、未実現利益の計上、繰延勘定の調節、評価勘定(棚卸資産の評価基準の変更等)等を指し。そして、名目的費用とは、即ち、減価償却費や資産、資本の評価損、評価益。未実現損失の計上等を指す。これらは、非資金的勘定である。

資金的裏付けのない取引、期間損益に係らない取引、経常的収支に係らない取引、即ち、名目的取引は、総所得を増やさない。これらはキャッシュフローの表裏となっている。

損益の表面上は、資金裏付けのない勘定によって取り繕い、裏で、損益に表れない収入や支出で補ってきたのである。結局バブルが崩壊すると実質的な部分は生産されたのに、名目的な部分は取り残されてしまった。それが不良債権の正体であり、不良債権というものの実体は、不良債務だったのである。不良債務の処理も名目的費用や勘定を活用するしかなかったのである。

バブルの本質と言うのは、生産的な事象に基づいているのではなく、非生産的な事象によって引き起こされている。損益に計上されない資金の動きと資金の動きの裏付けのない損益によって、実体のない債権と債務が膨れ上がり、債権価値の下落とともに債権と債務の関係が不均衡になった事が原因なのである。

資金の実体がない取引で調節するしかなかったから、総所得は伸びなかったのである。

生産資産残高

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この様なバブルの性格は、資産の構成にも現れる。
資産は、バブル崩壊後、生産資産から金融資産へと比重を移しているのが見て取れる。
負債は、基本的に金融資産を構成しているのである。


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1990年は、1991年、地価が崩壊する前夜である。そして、株価は、前年の1989年大引けで日経平均38,915円を記録した後、1月4日の大発会で東京証券取引所の大安値を記録し、これが株価の崩壊の始まりとなる。
1990年の国民資産の動きを見ると非金融資産と金融資産が対照的な動きをしている。金融資産は、マイナスに転じているのに、生産資産は、まだ、プラスを維持している。
金融資産と負債とは、ほぼ同じ動きをする。


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また、非金融資産の動きからも地価の動向が決定的な働きをバブル形成・バブル崩壊に及ぼしている事がわかる。負債と金融資産は表裏の関係にある。

非金融資産の動きに対して、プラザ合意とバブル崩壊が決定的な働きをしている事がわかる。


国民経済計算書

注目してほしいのは、対GDP比、地価の下落に対して負債残高が減るどころか増えているという事である。

これは、債務と債権の不均衡、ひらきを象徴している。つまり、不良債権は処理されたが不良債務がそのまま温存されている事をも意味している。これが今日の日本の市場の根っこにある。債権と債務の実質的な開きが埋まらない限り、本格的な経済の再生は、覚束ないのである。


国民経済計算書

景気を立て直すためには、実質的取引、即ち、市場が収益を確保できる状態にするのが先決なのである。不当な過当競争や価格に特化した乱売合戦を防ぎ、荒廃した市場を健全にする事である。その為に、かつては、不況カルテルを許していた。無原則に規制を緩和するのは、意味のない消耗戦を企業にしいる事になる。
次に資産価値を上昇させ、債権と債務の均衡をはかる事である。不良債権だけを処理すると不良債務が取り残されてしまう事を忘れてはならない。不良債権を処理する場合は、同時に、対局にある不良債務も処理する必要がある。

その上で、先端技術や発展途上産業に対して戦略的、選択的に規制を緩和し、成長を促すべきなのである。何でもかんでも規制観穂をすればいいというのではなく。規制を緩和すべきところは規制を緩和し、あるいは、規制を強化すべきところは強化すべくなのである。より柔軟な頭の使い方が求められる。規制緩和は駄目というのが石頭なら、何でもかんでも規制を緩和してしまえというのも石頭なのである。


内閣府 国民経済計算書

バブルは、物の経済から「お金」の経済への転換点だと言える。

本業が儲からない、収益が上がらないからと言って借金して金利を払う状態は正常とは言えない。蛸が自分の足を食べているようなもので、実質的な経済には何ら影響を与えない。ただ、長期にわたって放置すると付加価値の構成を歪め、経済の仕組みの基礎を破壊してしまうだけである。



国民経済計算書

資本取引の全体の基本となる部分を構成しているのは、金融資産で金融資産に負債は対応している。
また、非金融資産の動きで有形非金融資産、即ち、地価は、ほとんど影響していないのがわかる。
この事から逆に、実質的な経常取引の実態が見えてくる。ストックがフローに与える影響も推測できる。


国民経済計算書

1998年を境に資本取引の在り方が大きく変化したのがわかる。そして、それを決定的にしたのが2000年である。
2000年以降資本取引では、現金預金も借入金もマイナスに転じている。


国民経済計算書


資本取引の中でも、株式は独特の動きをしている。
株が最も動いた年は、1996年である。1996年は、橋本内閣が発足した年である。
前年の1995年には、阪神淡路大震災、地下鉄サリン事件と世紀末を象徴するような事件があり、そして東京協和・安全信組事件があり。翌年の1997年には、三洋証券破綻、北海道拓殖銀行の北洋銀行に営業権譲渡、そして、山一証券の自主廃業へと続いた年である。
また、1996年は、金融ビックバンの元年と言うべきとしでもある。
それに伴って会計基準も大きく見直される事となる。税効果、キャッシュフロー、連結、退職給付、金融商品等と会計の枠組みを変えてしまう様な改革の始まりの年でもある。

この様な年に大きく株式が変動していたという事実が何を意味するのか、それを解明する事は、バブルの正体、そして、バブル崩壊後の対策の何が問題だったのかを解く糸口となる。


国民経済計算書

国民経済計算書における資本取引において総負債・正味資産に占める正味資産の比率を見ると2001年は、明らかに異常値である。
2001年に何があったかと言うと、海外では、アメリカ同時多発テロと言う歴史を塗り替えるような大事件があった年である。国内では、小泉内閣発足し、骨太の改革が始まり、金融の世界では、量的緩和が実施された年である。
また、2001年は、大蔵省が財務省と金融庁に分割された年でもある。


国民経済計算書

2001年の異常値を除いてバブル後の変化を拡大してみると1999年を境に劇的な変化をしているのが見て取れる。
1999年は、ゼロ金利政策が採られた年である。ただ、それは、一旦すぐに解除された。
なぜ、正味資産が総負債・正味資産占める割合が異常な値を示したのかと言うと資本取引上の総負債・正味資産がマイナスにまで急落した事にある。前年の2000年は、総資産・正味資産が減少した中で正味資産が上昇したため、300%を超える異常値を示している。


国民経済計算書

2000年を境に市場に働く力の方向が変わったと言える。

日本経済は、バブル崩壊後、翻弄され続けている。これほど激しく揺り動かされたら、市場の基盤部分が破損してもおかしくない。要するに市場が壊れてしまっているのである。
経済では継続性が重視される。政治や官僚の都合で基礎的部分の継続性が損なわれると経済そのものの基礎が失われことにもなりかねない。制度改正をする場合は、継続性を十分に留意する必要がある。ただ、この継続性が損なわれてもその弊害は、短期間で表に現れてこないことが多く。潜在的な病巣が形成されてしまう事がある。それが癌細胞の様に経済の仕組みを破綻させていく事がある。がん細胞の種を蒔いた者は、自覚していない場合が多く。厄介なのである。

バブルよりもバブル崩壊後の政策が今日の経済状態を造り出したことが見て取れる。

バブルと運転資本



経済現象は、体制が出来上がった時の初期設定に制約される。日本の場合、それが1940年体制である。(「戦後経済史」野口悠紀雄著 東洋経済)

1940年体制とは、第一に、機能別、目的別、階層的に組み立てられた金融機関を基礎とした間接金融。護送船団方式、横並び主義。第二に、重厚長大型産業窓の基幹産業に傾斜した産業政策。第三に、産業別ではなく、企業別組合である。第四に、経済成長、市場拡大を前提とした産業育成。第五に、農地改革などによる自営農の育成。第六に、株の持ち合い。第七に、政財官の協調体制等である。

アップルのCCCが「マイナス20日」となっているという記事が2012年1月17日の日本経済新聞に掲載された。CCCとは、「運転資金調達期間」をいう。

CCCは、産業の資金構造をよく表している。小売り業界が製造業や全業種から見てCCCが小さいのは、小売業界が流動性が高い産業である事を意味している。


法人企業統計

鉄は国家なりと言うが鉄鋼業の指標は、景気の変動によって大きく左右される。
特に、在庫は、第一次石油危機の時、大きく増加している。また、リーマンショックの時は、在庫、売上債権、買入債権共に増えている。


法人企業統計




なぜ、運転資金調達期間が問題となるのか。
それは、運転資金を担保する資産が不足しているからである。運転資金を担保する資産が不足する事で、運転資金の調達が困難になり、健全だと思われていた企業が突然死する例が多くみられるようになったことが背景にある。
長期資金から生じる資金不足は、主として借入金の返済に係る事である。だからこそ、利息よりも借入金の返済がより深刻なのである。なぜならば、利息は費用として処理する事が出来るからである。それに対して借入金の返済は、費用として処理する事が出来ない。即ち、収益の中から賄う事が出来ないのである。では、どの様にして処理するのか、償却資産は減価償却費として費用処理する事が可能である。しかし、非償却資産である不動産は、処分するまでは清算できない。故に、その部分は、借り換えする以外に手段はない。借り換えする際の資金を担保するのが不動産の資産価値、含み益と内部留保である。この点を理解しておかないと含み益と内部留保の働きが理解できない。
含み益と内部留保は運転資本をも担保している。

バブル崩壊が直撃したのは、この含み益と内部留保である。それ故に深刻なのである。

  
法人企業統計 右 金融機関借入金(当期固定借入金)


法人企業統計

バブル崩壊後、民間企業は、財務体質の強化に努め、内部留保を貯めて新規の設備投資を控えたと言われるが、それは結果的に事であって、いくら設備投資をしたくても資金的な裏付けがなくて外部から資金を調達できなくなっていたために、新規の設備投資を控えたというのが実態である。その結果、財務体質は見かけ上は良くなったが、実体は決して内容が伴っているわけではない。それが日本の産業の競争力を弱めてしまっているのである。

収益力が低下している時に規制を緩和すれば寡占、独占が促進される。
バブル崩壊後、収益力が弱った企業の競争力をつけるとして規制緩和を行った、その結果、寡占独占が進む事になる。


リーマンショック



リーマンショックの問題とは、流動性の枯渇、つまり、「お金」が市場に回らなくなったことである。市場は、「お金」が循環する事で機能する仕組みである。「お金」が循環しなくなったら市場は機能しなくなる。それがリーマンショックである。

リーマンショックは流動性の危機である。

リーマンショックの背景には、グローバル化の影響が隠されている。
振り返ってみるとリーマンショックの予兆がないわけではない。一つに、世界的な金余り現象である。
世界的な金余り現象は、浮動資金を生み出し、それが、世界市場を揺り動かしている。

日本でも、2004年、それまでにない大規模な為替介入があっり、為替は大きく円安に傾き、それが企業業績を押し上げた。
その結果、2004年から2007年にかけてミニバブルのような現象が起こっている。
金余りの原因はいろいろと考えられる。ただ、基本的には、低金利と金融緩和による過剰債務、過剰負債の蓄積がある。
フローとストックの不均衡である。行き場を失った資金がストックインフレーションを引き起こしているのである。

住宅価格の高騰は、日本だけでなく、アメリカでも静かに進行して、いわゆる住宅バブルの準備をしていた。そして、それがサブプライム問題を引き起こし、リーマンショックの引き金を引くことになるのである。

リーマンショックが起こると全業種は大きく売り上げを減らす事になる。何がこれほど急速に売り上げを減らしたのか。なぜ、アメリカで起こったリーマンブラザースの破綻によって遠く離れた日本の産業がこれほどのダメージを受ける事になったのか。それが問題なのである。

全業種・全規模2007年~2011年旬

法人企業統計

リーマンショックの何が一番問題だったのか。なぜ、あれほど深刻な事態に陥ったのか。それは、流動性が一気に枯渇した事にあると言われている。問題は、何が流動性を枯渇させたかである。
金融業界は、中央銀行を中心としたネットワークである。
ネットワークだという事が他の業界と決定的に違う事である。確かに、製造業や大企業も何らかの系列やネットワークを持っている。しかし、業界全体が一つのネットワークの下に制御されているという業界は、産業は、金融業界をおいて他にない。しかも、このネットワークは、国内にとどまらずに国際的なネットワークの中に組み込まれているのである。

金融業界がネットワークの上に成り立つというのは、金融と言う仕事の性格、決済を基本業務としているという性格からきている。
金融業界がネットワークだという事は、金融業界が一つの全体と部分から成っている事を意味する。即ち、金融機関は、一つの全体を共有する事で成り立っているのである。つまり、ネットワークが機能しなくなったら金融そのものが成り立たなくなるのである。
ネットワークが機能不全に陥りかけたのが、リーマンショックである。そこにリーマンショックの深刻さがある。
金融ネットワークは、グローバルなネットワークである。アメリカ国内で起こった事件も瞬く間の内に世界中に広がる。リーマンショックの時それが典型的に現れた。

リーマンショックがもたらしたのは、金融の劇的な変化である。
ゼロ金利政策、果ては、マイナス金利政策がとられるようになる。

2007年~2011年旬

法人企業統計

企業間信用と短期借入金とは、時間の時間的ズレによって共振しているように見える。

全業種・全規模2003年~2009年旬

法人企業統計

リーマンショックが起こる直前から企業間の信用力は大きく低下しているのがわかる。それに伴って短期借入金が上昇している。

全業種・全規模2003年~2009年旬

法人企業統計

経済は、一律一様に変化しているわけではない。経済の基盤となる構造が変化しているからである。市場取り囲む環境や状況の変化は、経済の在り様そのものも変えてしまう。また、経済の働きの性格や関係までも変化させてしまう。そのような変化に合わせて制度や政策を変えていく必要があるのである。
飛行機は、同じ高度を同じ速度でいつまでも飛んでいるわけではない。離陸時と巡航時、着陸時で飛行機の操縦は自ずと違うのである。また、飛行条件や状況環境も違う。嵐の時と平静の時とは自ずと飛び方も違ってくる。
経済も同様である。離陸から着陸まで同じような体制で、同じように操縦しようとしたら失速してしまうのは当然である。経済成長のみを前提とした経済運営は、最初から墜落する事を前提として飛行するような事なのである。

ニクソンショック、オイルショック、プラザ合意、バブルの発生と崩壊、リーマンショックと我々は、表に現れた現象に囚われがちである。しかし、真の原因は、表面の下に隠された水面下にあるものである。表面に現れた現象ばかりを追い求めると真の原因を見失ってしまう。

市場が成熟し、高度成長が終わった時、量の経済から質の経済へと転換すべきだったのである。それに失敗した事がすべての発端である。
量から質への転換は、決して楽をすることではない。逆に困難を伴うものである。なぜならば、質への転換は、より高い技能、技術、知識、経験を求められるからである。しかし、それはより人間らしいさその人らしさを求める事でもある。
力による成長からより円熟した技術や技能による成熟した社会への変貌である。そして、成長の限界が見えた時、単なる競争からチームワークや技能を必要としたスポーツへと経済は進化させなければならないのである。
成長だけを追い求めていたらいつか限界に至る。真の進化は、成長が終わった時から始まるのである。若い経済から後なの経済へ。成長から成熟へと変化が遂げられるかがその国の運命を決めるのである。


金融資産、現金・預金の増減


キャッシュフローは、最終的には現預金に収斂する。

異次元の金融緩和によって大きく金融機関が現預金を伸ばしたのがわかる。
金融機関が限預金残高を伸ばしたというよりも資金が金融機関に滞留していると考えるべきである。



現金で対比してみると現金残高を伸ばしたのは、家計であり、金融機関ではないから金融機関が増やしたのは預金であることがわかる。










キャッシュフローから見た経済の現状


全業種、全規模のキャッシュフローから現在の経済状況を鳥瞰してみる。
まず営業キャッシュフローが正で投資キャッシュフローが負という形は、成熟した経済状態を表していると一般では考えられる。
問題は、財務キャッシュフローの変化である。

営業キャッシュフローが、正で拡大しており、財務キャッシュフローも正、投資キャッシュフローが負という形は、成長期後期から成熟期の初期に現れる相である。営業キャッシュフローが拡大している中で積極的に投資もしている事を表している。
それに対して営業キャッシュフローが正で財務キャッシュフローが負、投資キャッシュフローが負という形は、成熟期後期に見られる相であり、営業キャッシュフローが減少に転じると経済は衰退へと向かう相である。
営業キャッシュフローで稼ぎ出した資金を借金の返済へと向けている。

つまり、日本経済は新しい段階に突入したとも言える。

一番顕著な動きをしているのは、財務キャッシュフローである。財務キャッシュフローは、プラザ合意後急速に上昇した後、バブルが崩壊すると急落している。
財務キャッシュフローは、バブル崩壊後急落して1994年にはマイナスにまで落ち込むも、97年頃一番底をつけた後、98年から再度急落している。

投資キャッシュフローは、負であるが、内部資金調達によるもので、外部からの資金調達は、2000年を境に負となっている。
これがバブル崩壊後の経済の実態である。

民間企業は外部から資金調達を実質的にできなくなり、資金の調達先を内部に求める事になる。資金の内部から調達する手段は、内部留保、減価償却費、経費削減、資産の売却などである。なぜ、内部から資金を調達しなければならなくなったのか。それは、資産価値の下落によって担保価値が低下し資金調達力が失われた事による。

要するに、実物市場への資金の供給口が締められ、金融市場に資金が滞留している状態である。そこへ、どんどん資金を供給し続けたら、いずれは、破裂してしまう。
かといって一時に蛇口が明けられ、市場に資金が溢れ出したら、物価の上昇を制御できるかどうか、不明である。余程、慎重にかからなければならないが、やらないという訳にはいかない。
長期金利の動向がカギを握っていることは間違いない。

営業キャッシュフローは、この間も拡大をし続けており、一見、景気は回復しているように見えるが、総所得は横ばい状態の中で営業キャッシュフローが拡大している。問題は、その要因である。

営業キャッシュフローを構成するのは、利益、運転資本、減価償却費、支払利息、租税公課である。

バブル崩壊後、減少しているのは、利益と支払利息、租税公課である。横ばいなのが減価償却費である。
注目すべきなのは、営業純益である。営業純益は、バブル崩壊直後は減少するが、93年に底を打つとその後上昇に転じている。

収益が横ばい状態なのに営業キャッシュフローが上昇するのは、経常的費用が圧縮されている事を意味する。つまり、経済が縮小均衡に陥っているのである。この点は、資金の調達先が内部資金に依存する事になった事からも推測できる。

今日、バブルの負の面ばかりが強調されるが、財政がバブルの時に健全化した事を見落としてはならない。
国鉄民営化もバブルがあって軌道に乗ったという側面もある。
バブルで問題なのは、投資先を間違った事である。その為に、我が国は千載一遇のチャンスを逃し、チャンスを逃しただけでなく、その後の後遺症に苦しんでいるのである。

今、経済のかじ取りを間違うとわが国だけでなく、世界経済の基盤まで壊しかねない。健全な投資こそが、今、我が国が陥っている状態を脱出させる唯一の手段なのである。

今現存する歴史伝統のある都市は、都市固有に文化や秩序がある。
家内が外国の街には、建物一つひとつに個性があるのに、街全体は整然としている。それに対し日本の街には色がないと言った。建物と言っても、ただ単なる箱ものに過ぎない。家も、ビルの中の一室に過ぎなくなってしまった。居酒屋も個性がないビル群の中の部屋に過ぎない。風情など微塵もない。東京も地方都市もまるで変わらない。東京で飲むコーヒーの味と博多で飲むコーヒーの味とニューヨークで飲むコーヒーの味に変わりがない。それが経済だというのだろうか。それでは経済は生活とは無縁なものになってしまう。経済は、生きるための活動だというのにである。経済から人間の匂いが失われてしまう。
現代日本大都市には、東京にせよ、大阪にせよ、個性がない。色がない。焼け野原に、無秩序に乱雑に建てられた箱の集まりに過ぎない様に思える。計画性もなにもない。それは戦後の日本を象徴しているようにさえ見える。敗戦である。半世紀以上たった今も日本は敗戦を引きずっている。今の日本には、思想も節操もないのである。
京都には色がある。その色が人々を引き付けるのである。街は、文化である。人々の生活の場でもある。街が無味乾燥になれば、そこに住む人々の心も荒廃してしまう。
だからこそ、経済の根本には都市計画がある。都市計画が拡大して国家構想となる。経済は、無政府主義的な事ではない。経済の根本には投資がある。
未来に向かって、子孫に対して何を投資するか。それこそが我々に求められている事である。投資にこそその国の品位が現れる。



全業種 全規模 単位兆円
6 7 8 9 10 11 12 13 14 15 16
PL 売上 1566 1580 1508 1368 1386 1381 1375 1409 1448 1432 1456
売上原価 1220 1240 1184 1044 1056 1051 1052 1077 1103 1075 1087
売上総利益 347 340 324 324 329 330 323 332 345 357 369
減価償却費 44 44 44 41 39 38 35 35 38 40 38
営業利益 49 49 29 28 39 39 40 49 53 56 59
支払利息 10 9 10 11 9 9 8 9 7 7 6
経常利益 54 53 35 32 44 45 48 60 65 68 75
税引き前利益 49 47 22 23 34 36 40 57 60 61 68
法人税 19 20 14 14 15 15 15 18 18 18 18
税引き後利益 28 25 7 9 19 19 24 38 41 42 50
CF 現金売上 1553 1578 1539 1376 1388 1368 1375 1400 1442 1436 1448
現金仕入れ 1210 1241 1214 1051 1058 1040 1054 1069 1101 1079 1080
営業キャッシュフロー 68 68 52 59 58 55 61 78 78 85 89
与信超、受信超 3.3 2.1 -0.6 -0.8 -1.3 1.9 1.9 1.3 3.5 0.3 0.4
運転資本 -9 -8 5 12 0 -6 -2 -6 -6 0 -3
投資キャッシュフロー -44 -44 -28 -33 -33 -33 -34 -37 -39 -42 -43
財務キャッシュフロー -2 4 13 -4 -10 -1 3 1 2 1 5
BS 現金預金増減 1 -5 0 2 6 0 6 5 13 13 12
金融資産増減 6 0 -2 15 5 11 13 20 17 5 -16
売上債権増減 13 2 -31 -8 -2 13 -1 9 5 -5 7
在庫増減 6 6 -5 -11 1 4 0 5 3 0 3
固定資産 44 44 28 33 33 33 34 37 39 42 43
総資産 1390 1354 1403 1437 1446 1471 1437 1527 1569 1592 1648
長期借入金増減 1 1 7 5 -6 1 3 4 6 0 8
短期借入金増減 -2 3 6 -10 -4 -3 1 -3 -4 1 -3
買入債務増減 10 0 -31 -7 -1 12 -3 7 2 -5 7
純資産増減 60 50 30 54 46 45 53 66 67 58 20
法人企業統計

最近、政府は、借金をしても対極に資産があり、貨幣の発行券がある政府は、紙幣を刷れば無限に借金を繰り替えす事が出来るから自国内で資金が調達できる限り財政は破綻しないと言う珍説を唱える政治家や経済学者、評論家が増えている。彼等が決まって取り出すのが貸借対照表だが、期間損益は、貸借対照表だけで成り立っているわけではない事を彼等は故意にか忘れている。それに振り回される方もどうにかしているのだが、振り回される廻される方も期間損益の基本的な構造がわかっていない。

元々、期間損益主義は、期間損益を中心としたビジネスモデルである。貸借は、損益を裏から支えているに過ぎない。フローによって市場の仕組みを動かすというのが本来の在り方で、貸借は、支払準備をするのが基本的な機能である。
フローに障害が生じるのは、ストックの肥大化である場合が多い。それは、人間の体によく似ていて肥満が原因で血管を詰まらせる様なものである。

市場経済は、期間損益を原則とした経済体制である。期間損益は、あくまでも、損益に基づくのであり、貸借はその基礎となる部分に過ぎない。損益とは、収益と費用、そして利益の関係によって成り立っている。費用対効果を柱としている。適正な費用を測る事こそ期間損益の根本なのである。費用は、分配の要である。費用を否定したら期間損益そのものが成り立たなくなる。その点に対する理解が失われてきた。故に、経費削減が一番の目的となったりする。しかし、費用をなくしてしまうば経済の存立意義も失われてしまう事を忘れている。
そして、「お金」の源は借金である。借金の返済は、収益による。借金は、基本的には資本移転に過ぎない。貸借は損益には計上されない。この事が貸借の働きの意味を表している。期間損益の主役は、収益と費用と利益なのである。これは政府も変わらない。
資金さえ回れば政府はいくら借金をしても破産しない。確かに破産はしないかもしれないが、費用構造が歪んでしまう。適正な費用(金利、原材料、人件費、償却費、地代・家賃、税)や利益を維持できなくなり、分配機能に支障が生じるのである。

なぜ設備投資は、盛り上がらないのか。それは、収益計画が立てられないからである。
金融機関も収益計画が立てられないから投資に資金が供給できない。要するに無原則な規制緩和によって安売り業者が横行し、適正な利益が上げられないから投資を控えるのである。そうなると金利をいくら下げても投資は盛んにならない。為政者やマスコミには、金儲けは悪い事だという先入観がこびりついている様にすら思える。
為政者の多くは勘違いをしている。競争力をつける事や廉価に販売させることが目的なのではない。適正な収益を上げて、その中から、所得を分配し、他の経済主体の収益を維持させ、金利を支払い、税を納め、投資された資金を回収する。それが役割である。適正な収益が上げられなければ、税を納める事が出来ず、所得を分配する事も金利を支払う事も投資された資金を回収して借金を返済する事も取引相手の収益を維持させることもできなくなる。利益はあくまでも目安であり、本来重要なのは、費用対効果である。
産業の無人化は、分配と言う観点からすると最悪の選択である。

経済破綻は、単に財政破綻のみをいう訳ではない。デフォルトさえしなければ、経済に支障はないというのは、あまりに幼稚である。専門家が言う事ではない。物価や金融機関、為替、企業利益や投資等にどの様な影響が出るのか総合的な観点から考察すべき事なのである。いくら財政が破綻しなくても急激な物価の上昇や金融破綻が防げなければ、経済破綻は避けられないのである。

本来経済の仕組みを動かしているのは、「お金」である。ただ「お金」の動きだけ見ていたら、「お金」の働きが見えてこない。それ故に、期間損益を編み出した。ところが期間損益を編み出したら期間損益の指標に囚われて経済のしくみ本来の目的が見失われた。そこで原点帰りの様にキャッシュフローがまた見直されたのである。

経済の仕組みを動かす力は「お金」の流れによって生み出される。「お金」の流れが生まれる原因は、「お金」の過不足である。部門間の「お金」過不足で清算されない部分はストックに蓄積される。放置すれば、ストックの歪は拡大する。ストックの歪を是正するのが財政や金融の役割である。しかし、今日、財政内部の歪みが収束できないほど拡大しつつある。そして、その歪みを一手に引き受けているのが金融機関である。
問題は、この構図がいつまで維持する事が可能かである。維持できなくなれば、金融機関は、機能不全になる事になる。
金融機関が機能不全に陥ったらどういう状態になるのか。それはリーマンショックの時、証明された。

財政問題を語る人の中には、いくら借金をしても自国内で「お金」が回っている限り、紙幣を刷りさえすれば財政は破綻しないし、金利も上がらないと決めつけている。しかし、財政破綻、デフォルトだけが経済破綻を意味しているわけではない。金融危機や破滅的なインフレーションも経済破綻である。また、戦争や革命も経済破綻の結果、延長線上にあると言える。

金融機関のゼロ金利や金融緩和は、モルヒネの様な劇薬である事を忘れてはならない。慢性的に使えば、中毒になり、確実に金融機関を蝕んでいく。

経済政策を間違わないためには、経済を動かしている仕組みを正しく認識する必要がある。

成長絶対主義的な考え方がさも当たり前のように横行している。しかし、経済の状態は、成長だけではない。成長が止まり、成熟した状態になる事もある。本来、経済が求めるのは安定であり、安定した期間が長い程、国民生活は向上する。成長か、安定かを議論もせずに、成長ありきで経済政策をたてようとすれば本質的なところで過ちを犯す。
例えばGDPが拡大しているとしても何によって拡大しているのか。名目なのか、実質なのか。人口は増えているか、減少しているか。人口構成に変化はないか。生産量は増えているか。出荷量はどうか。消費量に結び付いているか。在庫はどうか。
経済成長は、生産年齢人口と消費量、そして、物価の積である。生産年齢人口が減少に転じ、消費量が減退したら物価の上昇に依らなければ経済成長は望めないのである。
規制緩和や安売りの奨励は、典型的デフレ政策も物価抑制策である。ゆえに、無原則な規制緩和、安売り政策をやめない限り経済成長は望めないのである。脱デフレを標榜にしながらデフレ政策をとるのは、政策的整合性がとれない。矛盾した政策である。故に、経済成長は望めない。

経済の根っこは、人や物の実体である。実体に大きな変化がなければ、成長と言っても貨幣的な現象でしかない。表面的な変化はなくても実体的な変化があれば、経済は変動しているのである。経済成長と言っても何によって成長しているように見えるかが重要なのである。

経済の働きは、同じ働きでも前提条件や状況の変化によって全く違った働きになる。
日本人の悪い癖に、一つの前提に立つとその前提を普遍化してしまい、前提そのものを確認したり、見直そうとしない事である。そして、その多くが悪しき前例となる。
あの時は、上手くいったからとか、今までうまくいってきたからと言うだけの理由で、同じ施策をとり続けたり、競争の原理みたいに絶対的法則のように崇めてしまう。かと思うと、依然やったけどうまくいかなかったからとか、前例がないという理由だけで始めから駄目だと決めつけてしまう。
経済は、相対的な事象である。最初からいいとか、悪いとか決めつけないで、前提条件や環境、状況を確認し見直しことが鍵なのである。

2019年現在日本は、最悪の事態を想定する段階に入ったと感じる。最悪の事態を想定すべきと言うのは、それは、最悪の事態になると言っているのではなく。最悪の事態を想定すべき時だという事です。
地震が来るか見ないかを議論すべき時ではなく。地震が来た時を想定して対策を立てる必要があると言っているだけです。
治にあって乱を忘れずで、先ず、何をもって最悪と為すのか。
ハイパーインフレーションにはならないとか、財政は破綻しないとか、一面だけ取り上げて、だから大丈夫だと主張する人たちがいるが、最悪の事態とは、ハイパーインフレーションや財政破綻ばかりを指すわけではない。要は、経済の仕組みが機能しなくなる状態を言うのである。
例え、財政が破綻しなくとも経済の仕組みが破綻してしまえばそれまでであるし、経済の仕組みが機能しなくなれば財政も成り立たなくなるのである。
金利水準や国債残高、GDPどれをとっても異常なのである。何も起こらない確率の方がずっと低い。
だからこそ、最悪の事態を想定する必要があるのである。





       

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