経済の現状

日本経済の現状について

経済の仕組み



経済の仕組みは、人、物、金でできている


経済活動は、金儲けを目的としているのではない。経済は、生きるための活動であり、経済は、生きるために必要な資源を配分する事で成り立っている。故に、経済の仕組みは、生産財の分配を目的としている。市場経済では、生産財は市場を経由して消費者に配分される。消費者は、手持ちの資金で生産財を市場を通して購入する。消費者は、労働力や資産から所得を得る。故に、経済活動は、消費者に働く機会を提供する事が主たる目的となる。金儲けは手段であって目的ではない。

経済の仕組みには、目に見える仕組みと目に見えない仕組みがある。言い換えると目に見える仕組みと目に見えない仕組みが各々部分となって全体の仕組みを構成している。
目に見える仕組みとは、物理的な仕組みであり、目に見えない仕組みとは、人々の合意に基づく、観念的仕組みである。物理的仕組みとは、建物や装置、道路、鉄道、通信設備と言ったインフラストラクチャー、軍隊とか会社と言った組織、紙幣とか貨幣、手形、小切手等を言う。目に見えない仕組みは、講義でいえば物理の法則とか、貨幣制度とか、会計制度と言った法や制度を言う。今日、お金や通信と言うのは、情報化されることによって目に見えない仕組みに組み込まれつつある。
経済全体の仕組みは、目に見える仕組みと目に見えない仕組みが組み合わさってできている。

また、経済の仕組みには、人の仕組み、物の仕組み、「お金」の仕組みがある。そして、経済の仕組み全体は、人の仕組み、物の仕組み、「お金」の仕組みが組み合わさってできている。
しかも、人、物、「お金」各々の仕組みにも目に見える仕組みと目に見えない仕組みがある。

一般に経済の仕組みは、生産の仕組みと言う局面だけからとらえがちであるが、経済の仕組みには、物流や分配という働きもあり、捉えようによっては、経済にとって物流や分配は、より本質的だと言える。生産性ばかりを考えていると経済の仕組みは機能しなくなるから注意する必要がある。

経済の仕組みは、人、物、金の過不足を補う事で成り立っている仕組みである。成長経済は、不足を補う過程で成り立っている。しかし、市場が成熟した今日、物も人も金も余っている。つまり、不足を補うのではなく、余剰をいかに捌くかが課題となる。不足した物や「お金」を補うのと余剰の物や「お金」を捌くのとでは、物事の本質が違うし、施策も違う。物が不足していたら生産量を重視すべきであり、「お金」が不足していたら所得の拡大を計るべきであるが、物が余剰になったら質を重視すべきであり、「お金」が余ってきたら資金効率に重きを置くべきなのである。
「お金」は、交換価値の指標であり、名目である。「お金」その物に実体があるのではなく。「お金」が指し示す対象があって効力を発揮する。つまり価値がある。実体は物にある。「お金」は、尺度に過ぎない。

経済は、生活に必要な物を生産しそれを分配することが根幹でなければならない。生産した物が余れば、在庫として蓄える。言い換えると生産した物から消費した物を引いた量が在庫となる。それに収入と支出と貯蓄が対応する。それが本来の姿である。ところが物の動きとお金の動きが乖離し、余ったお金が需要と供給、生産と投資などを狂わせる。その結果、過剰生産であったり、過剰在庫、あるいは、物不足が引き起こされる。これでは本末転倒である。
物の経済こそが本来経済の実態を表していなければならないのである。しかし、今日の経済はお金の動きに目が奪われて物の動きが見えなくなっているのである。

物の経済と離れて「お金」は独自に収入と支出、貯蓄の関係を形成する。そして、余剰となった資金が市場価格を支配するようになったのである。そして、「お金」によって物の経済が支配される。
その結果物の質よりも価格の方が優先される。

物は有限である。「お金」が指し示す値は、無限である。故に、貨幣価値は上に開いている。価格は、暴走するととめどなく上昇する。市場は、価格の暴走を抑制する仕組みである。市場の仕組みが機能しなくなると価格は、無限に暴走する。

貨幣価値は絶対的価値ではない。相対的価値である。
物は有限であるのに対して貨幣価値は無限である。物は、上限を制約するから、貨幣価値は、内側に向かって無限なのである。1とゼロとの間に無限の数が存在するのを意味する。

物の価格は、物の価値と「お金」の単位との積である。価格の上昇や下落の原因は、物の要因と「お金」の要因の二つの要因からなる。物の価値は、必要性から生じる。物の価値は、消費者数と消費量によって決まる。必要性は、需給によって決まる。お金の単位は、物の総量と「お金」の流通総量から決まる。
経済の本質は、物にある。「お金」は、物を分配する手段に過ぎない。ところが、現代の経済は、「お金」の振る舞いに振り回されているのである。
「お金」の振る舞いを制御するために経済指標はある。

市場経済において「お金」の上では、市場は均衡しているように見える。しかし、実際の社会では、人、物、金は不均衡である。
「お金」の上では、人や物は、均衡しているように見える。しかし、実際の世界では、人、物に多大なバラツキや偏りがあるのが一般である。その偏りによって「お金」は動き、また、停滞もする。

我々は、市場の動きを「お金」の動きとして認識する。しかし、経済の実態を構成するのは、人と物の世界である。
この点を錯覚してはならない。しかし、市場の表面に現れてくるのは、「お金」の世界である。それ故に、人は、人間の世界を「お金」の世界として認識する傾向がある。しかし、実際に人々の生活、生きるための活動を支えているのは、人と物の流れである。

人が需要を決め、物が供給を決める。
需給は一致すると決めつけている。人の要求と物の都合は一致しない。故に、需給は均衡しない。

人手不足と余剰人員は、常に混在している。人手が不足している仕事と人が余っている仕事がある。人手不足の地域もあれば失業を多く抱えている地域もある。
経済学者は、仕事がなければ仕事を代えればいいと簡単にいうが、仕事はその人の人生でもある。その人その人の生き様、一生がかかっているのである。人は、仕事を簡単に変える事が出来ないから苦しんでいるのである。
人と仕事、人と資源の偏りが市場経済を動かす原動力でもあるが、同時に、人と仕事、人と資源の偏りが市場経済を停滞させてもいる。人や物、お金のどの様な働きが市場を動かし、どの様な働きが市場を停滞させているのか、それを明らかにする必要がある。

海外と交易せずに、人口も一定で、生活環境や様式も変化せず。生活に必要な資源の生産の一定で、通貨量も変化しなければ、経済的変動はない。インフレーションやデフレーションの恐れはなく、物価も安定している。ただ、人、物、金の何かが不足すると物価は、変動する。実際のところ人や物、「お金」、全てが不安定で動向が一定していない。物価は、人、物、「お金」の極めて危うい均衡の上に成り立っている。何かあれば簡単に揺れ動く。経済変動は、人が原因なのか、物が原因なのか、「お金」が原因なのかによって全く様相が違ってくる。

最近、よく問題とされるのが人口である。人口動向や人口構成の変化である。少子高齢化などが物価の変動の下地となる。人口問題の核心は、人口構成にある。全人口に必要な資源をどれだけの人間で担っていくかがカギを握っているからである。
人の問題には、生活水準や生活様式の変化等が物価にどう影響するかである。人口は、長期的な周期で変化する。しかし、生活の様式や水準は、急速に変化する事がある。電気やガスが普及していない時代と今日とでは、生活必需品の質も量も格段の差があり、その需給が物価に与える影響は、格段の差がある。
次に、生産量の問題である。資源の問題は、地理的な問題が重要な鍵となる。何らかの地下資源を持っているか、どの様な気候帯に属しているか、交通の要衝にあるかなどが決定的な要因となる。
その上で、全人口が生活する為に必要とする資源を国内で生産調達する事が可能か。もし自国内だけで生活に必要な資源が調達できなければ、海外から不足している資源を調達しなければならなくなる。不足する資源があったらどのような手段でどこから調達する手段が問題となる。
調達する手段には、交易以外に、強奪や戦争という暴力的手段も含まれるからである。根本が死活問題だからである。生きていくために、必要な資源が確保されなければ、生存できなくなるからである。
今日、一国だけで経済を成り立たせようとすること自体無理がある。

そして、最後に、「お金」の問題である。「お金」が人や物と違うのは、第一に、「お金」は、分配の手段だという事である。第二に、「お金」は、予め満遍なく配分されていなければならないという点である。第三に、「お金」は循環させなければならないという点である。
お金を循環させるためには、単に、「お金」を配分するだけでなく。それを回収すると同時に、再配分しなければならない。「お金」の順な働きは、交換にある。しかし、交換だけでは、「お金」は、循環しない。それを補う形で貸し借りがある。「お金」の流れには、偏ったり、蓄積したり、滞留する性格がある。この偏りや蓄積、滞留が「お金」の働きの効率を悪くするのである。
過不足が生じたら、貸し借りという手段を講じる。貸し借りは、ストックを形成する。資金の過不足は、ストックとして蓄積され、それが金利を通じて時間価値を形成する。時間価値が物価に決定的な影響を与えるのである。
資金の過不足を是正する手段には、貸し借り以外に税がある。税は、強制的に資金を市場から回収し、それを再分配する事によって、資金を循環するのが役割なのである。税制度は、資金の回収、再分配、循環の役割に沿って設定されなければならない。

「お金」と物の関係は、時間と伴の変化する。何らかの時点で価値を確定しなければならないが実際の価値は絶えず変化している。
そして、「お金」と物との関係によって名目的価値と、実質的価値が形成される。

経済の本質は、分配なのである。分配とは、何に対して、何を、どの様にして分配するかが問題なのである。
何を分配するのか、それは生産財である。何に対して分配するのか、それは個々の部門を通して最終的に消費者、即ち、全ての国民に対して分配するのである。どの様にして、それは、一度すべてをお金に還元し、所得として分配するのである。
「お金」によって分配された「お金」を生産財と交換する事で生産財を分配する。その手段の一つが市場である。
ただ、分配の手段は、市場だけでなく組織等もある。

分配は、生産と所得と消費の関係によって決まる。
いくら欲しい物があっても「お金」がなければ買えない。「お金」があっても、物がなければ買えない。物や「お金」があったとしても使い道がなければ人は、買わない。
生産は、物を基本とし、所得は、「お金」を基本とし、消費は、人を基本としている。
物と人は、有限であるのに対して、「お金」は無限だという事である。
人は、所得の範囲内で物を購入する。
人は、必要とする物や用益を購入する。
経済は分配の仕組みだから、割合や比率が基本となるのである。
生産量や消費量には限りがある。それが本来経済の規模を制約しているのである。しかし、「お金」には、際限がない。作ろうと思えばいくらでも作り出す事が出来る。その為に、経済の全体が見えてこない。
本来、人は、満腹になれば、それ以上、食料を求めたりしない。どんな獰猛な動物でも必要以上に獲物を捕ったりはしない。しかし、「お金」はその箍を外してしまう。
所得を増やせば、生産が増えたり、消費が増えるかと言うと一概には言えない。
問題は、経済成長を前提としていると何が何でも生産力を上げ、消費量を増やさなければ経済が成り立たないと決めつけてしまう事である。
経済は、本来、分配が目的であって成長が目的なのではない。需要に必要な資源を必要なだけ生産して必要なところに供給するの事が一番なのである。
量より質が問題なのであり、必要以上に「お金」を供給し、物を生産しても無駄なだけで経済にとってはかえって障害になる。
飢餓状態でない限り、人は、多少時間がかかって高価で、少量でも美味しいものを食べたいのである。
安くて速いだけを取り柄にする経済は、むしろ経済の退廃を招くだけである。
そうなるといかに適正な価格を維持するかが大切になる。

個別の企業が赤字だから、どうだというのか。儲かっているからどうだというのか。個々の部分ではなく、全体との関連を見なければならない。
確かに、個々の企業の業績も重要だが、産業全体で利益が上がらなくなる原因があるとしてら、一企業の力だけでは、事態を改善、打開するのは難しい。一企業の力で解決しない処にこそ経済政策は求められるのである。


なぜ、景気変動は起こるのか。


景気の変動を正しく読み解く事、それは市場経済を理解し、適切な経済政策や経営をしていくうえで不可欠なの事である。
景気の変動を読み間違え、過った経済政策をとるとると、不況やインフレーションを招く原因になったり、最悪の場合、恐慌やハイパーインフレーションを引き起こす原因となる。
景気の変動を読み解くためには、なぜ、景気の変動が起こるのかその仕組みを正しく理解する必要がある。

経済の状態は、人、物、金の均衡によって保たれている。
インフレーションやデフレーション、不況や恐慌と言った景気変動の原因は、人、物、金の不均衡に尽きる。故に、景気変動の要因は、人の要因、物の要因、「お金」の要因の組み合わせによっておこる。
景気変動を起こす人の要因には、総人口、人口構成、人口密度、人口の分散、労働力などがある。物の要因には、生産量、生産力、生産周期、消費量、消費力、消費周期などがある。「お金」の要素には、通貨量、貯蓄量、資金の過不足、為替相場、金利、経済政策等がある。
また、複合的な要素としては、物価、総所得、購買力、地価等がある。
また、需要と供給、生産と消費、労働と分配、所得と支出、フローとストック、収益と費用などの均衡によって景気は保たれている。

そして、これらの要因は密接に係りがあり、表裏の関係にある。個々の要因を結び付けているのは、「お金」の流れである。「お金」の流れは、資金の過不足によって起こされる。
また、個々の要素を関係づけているのが市場であり、また、組織である。
なぜならば、分配の手段には、市場と組織があるからである。
需要は、支出に転化し、支出は、消費を生む。供給は、生産力と操業度によって供給量が決まり、重要と供給の関係によって価格が決まる。この様に個々の要素は、互いに相関関係にある。ただ、各々の要素は独立していて一体ではない。

インフレーションを引き起こす要因は、人的な要因、物的要因、「お金」の要因があるが、一つの要因だけでなく、複数の要因が複合的に、あるいは、構造的に絡み合って働いている場合が多い。全体像を構築して要素間の力関係をどの様に構築し、分析するかによって景気の動向に対する予測は変わってくる。

経済の変動は、人、物、金の不均衡、つまり、物や「お金」の人に対する相対的な過不足に起因する。人、物、金に働く要因はいろいろあるが、要は、景気変動の中心は人だという事である。人口に対して物が不足しているか過剰なのか。一人当たりの所得が支出に対して不足しているか、過剰なのか。その関係が景気の変動の裏で働いている。

経済の根本的問題は、組織にある。


一般に現代の経済の仕組みは、市場だととらえる傾向がある。
むろん、経済の仕組みの根底に働いているのは、市場である。しかし、市場と同じくらい重要なのは、組織である。なぜならば、所得の分配の多くは、組織的になされるからである。

大体、経済体制とは、組織の問題である。
経済の根本を突き詰めると人に至る。経済の仕組みを突き詰めると人と人の関係に至る。人と人との関係を体系化し、実体化したのが組織である。故に、経済の問題の根本は組織の問題である。

経済の本質は、分配であり、分配の手段には、市場と組織がある。
組織的な働きに対する配分は、組織的になされる。市場から得られる収益は、不確かであり、不安定であるから、一旦それを組織が受け知れ、人件費として整流する事で安定した所得に変換される。
無論、市場から所得を直接得る手段も残されているが、それは、極めて、不確実で、不安定なものになる。雇用者報酬の多くは、組織的に分配される。

組織的に生産し、所得を組織的に配分する。生産された財を市場を通じて配分する。市場経済とは、市場と組織を組み合わせる事で成り立っている。市場が全てなのでも、組織が全てなのでもない。

組織は、全体と部分がある。全体は合目的的で統一的、統制的である。部分には、部分の働きがあり、その働きが相互に関係して全体を構成する。部分には、固有の役割があり、分担がある。例えば、人事、会計、情報統制、外交、後方処理と言った働きである。それらが役割を分担しながら全体を構築する。つまり、組織は、連携であり、連鎖である。そして、連携は情報系ネットワークをつくる。
組織には、分配機能、評価機能、意思決定機能がある。評価機能も意思決定機能も組織的になされる。それが組織である。
経済の仕組みの根本は組織である。故に、経済は組織的なものであり、組織効率が経済効率でもある。

組織は、ネットワークの一種である。
ネットワークとは、複数の要素が何らかの関係によって結びつけられた集合体を言う。ネットーワークと単純な集合とは違う。
集合は、何らかの共通の属性をもった集まりである。集合は、集合を構成する要素が必ずしも結びついている必要はない。
組織は、ネットワークである。単なる集団とは違う。インターネット同様のネットワークとしての構造を持っている。
インターネットには、階層(レイヤー)がある。組織にもレイヤーがある。インターネットのレイヤーは、第一層が物理的層、第二層が、データリンク層、第三層がネットワーク層、第四層が、トランスポート層、第五層が、セッション層、第六層が、プレゼンテーション層、第七層がアプリケーション層からなっている。
組織は、第一層が、社会的制度や法、第二層が、組織の規則、第三層、手続き、第四層が、職務権限と責任、第五層が職位、待遇、評価。第六層が、作業。第七層が人、個人からなる。第一層は、社会的基盤を、第二層は、組織的基盤、第三層は、職務間の繋がり、業務の流れを、第三層は、業務基盤を、第四層は、指示、命令、情報の基盤を、第五層は、意思決定基盤を、第六層が評価基盤を、第七層を人的基盤を各々形成している。

組織の経済効率は、ネットワーク効率でもある。第三層の手続きが組織内のネットワークの基礎を形成する。第四層は、人事、営業、経理と言った、業務区分、業務の枠組みを構成する。
第六層は、成果や実績として表され評価、待遇の基礎となる。第七層は、一人ひとりの技能、知識、経験、資格、履歴、年齢、性別などの個人の属性を表す。

組織には、プロトコルがある。プロトコルは形式と手順からなる。プロトコルが定式化されると礼儀作法に昇華され。事務手続きとなる。礼儀作法は、組織効率を高める働きがある。また、シンボルやイベントを形成する。

経済は、生産を意味するのでもなく、況や金儲けの事でもない。
経済は、生きるための活動であり、経済体制は、生産された財を分配する仕組みであり、経済体制の目的は、生産された物を必要とする人に必要なだけ分配する事なのである。

つまり、経済の効率と言うのは、生産性とか、成長性と言っても突き詰めてみれば組織効率のことを言う。組織、効率を高めれば、自ずと生産性も安定性も成長性も上がるのである。

この点を理解しないと経済体制の在り方を論ずることはできない。
経済体制を生産や金儲け中心で考えたら、経済の本質は見失われる。経済の本質は、人々を生かす事である。人々を生かすために生きるために必要な資源を生産し、それを分配するのである。むろん、人々が生きていくうえで最低限必要な資源が確保されなければ、経済の仕組みは維持できない。しかし、経済の根本は、生きるために分かち合う事であり、生産する事にあるわけではない。

今の経済は生産ばかりに特化している。つまり、分かち合うと言う点がどこかに行ってしまっている。兎に角、必要以上に物を生産しさえすれば万事うまくいくと錯覚している。だから、世の中に物が溢れているというのに、貧しい人が増えていくのである。

分配の手段として「お金」がある。現在の市場経済は、「お金」で動いている。「お金」は、分配の手段である。「お金」儲けは、手段であって目的ではない。「お金」が目的化すると経済は、正常な働かなくなる。

問題は、「お金」をいかに分配するかである。つまり、「お金」を分配する仕組みが経済体制なのである。「お金」を分配するのは組織であり、制度である。
「お金」は、対価、報酬として支払われるのが基本である。つまり、「お金」は、働きに応じて分配されるのが原則である。対価、報酬は、生産手段に対して支払われるのが基本だからである。しかし、報酬は、所有からも生じる。
問題は格差が生じた場合である。極端な格差は、差別の本となり、また、資金効率や生産効率も悪くする。

一人ひとりの働きと報酬とを結びつける事で、生産性を高めるとともに需要と供給を調節するのが自由主義経済なのである。
単純に生産効率を高め、あるいは利益が上がれば景気がいいとするのは、経済の本質を理解していないからである。

いくら生産効率がよくて安いからと言って働く場を奪ったら経済は衰弱していしまう。
経済は均衡なのである。

経済の根本は、人である事を忘れてはならない。人は、生産者であるとともに消費者でもある。
所得と支出を司っている。また、労働者でもあり、生活者でもある。経済の根源的原因であり、最終的目標でもある。
また、人件費は、費用という意味だけでなく、報酬、所得、生活費でもある。これらの働きの均衡によって経済は成り立っている。
均衡は、相互牽制があって成り立っている。個々のの要素は、絶対的なものでなく、相対的なものなのである。だからこそ、競争が必要となる。
人件費は、費用だから、安ければ安いほどいい。できればなくしてしまえと言うのは乱暴な話なのである。

経済は、生きるための活動であり。それも、人間らしく生きるための活動である。

経済を破綻させる最大の問題は、人の問題、特に組織の問題だという事忘れてはならない。

組織は、相対的な体系である。絶対的な体系を有しているわけではない。環境や前提条件が変化すれば組織も変化する。また、変化できなければ、環境や状況に適合できなくなる。そして、環境や状況に組織が適合できなくなることが経済を破綻させる一番の原因なのである。

組織には、発展段階や成長段階がある。その成長段階や発展段階に応じて組織原則や構造を変化つさせる必要があり、この変化に失敗した経済主体は、破綻していく。

組織は、放置すると自己増殖する性格があり、規模が無原則に拡大すると著しく効率が低下する。
また、規模が大きくなると意思決定が遅くなり、形骸化する傾向がある。ピラミッド型の階層(ヒエラルヒー)が形成される。そして、階層が深くなると、目が行き届かなくなるために、不正や既得権益が派生する危険性が増える。また、官僚主義的になり、手続きが煩雑になったり、増長したり、仕事が縦割りになり、セクショナリズムが派生したりもする。
経路が長くなる分、情報の漏洩や意思決定の負荷がかかる事にもなり、意思疎通も難しくなる。
更に、保守的になり、極力リスクを冒さないようになる。前例にとらわれ革新的な事を帰来傾向になる。事なかれ主義、日和見主義が蔓延し。他人を当てにし、責任を他人に擦り付けて、自分の責任を回避しようとする。進んで自ら責任を負おうとする者がいなくなり、無責任体制に陥り易い。俗に、大企業病と言われるのが、この種の症状である。
組織にはスケールメリットがある半面、規模が大きくなっただけ弊害も生じるのである。組織の規模は大きければいいという訳ではない。
経済効率の実際は、組織効率にある場合が多い。しかし、今日、経済効率を貨幣的にしか考えないために、いたずらに組織の肥大化を増進させてしまっている事が多い。
なぜ、市場に競争が必要なのか。なぜ、寡占独占がよくないのか。その主たる理由は、組織効率にある。
組織効率は、相互牽制によってある程度防げる。なぜならば、組織は本来相対的体系だからである。市場が単一の主体に支配されると相対的体系が保てなくなるからである。
それが全体主義的国家が破綻した原因でもある。

組織には、限界がある。それは規模の限界である。
規模の限界とは、一つは、意思統一の限界、組織的整合性の限界である。第二に、管理の限界である。管理と現業部門の乖離には限界がある。第三に、情報処理、伝達の限界である。組織が拡大すると情報伝達経路が増長になる上、複雑になるため、情報をフィードバックし迅速に処理をする事が難しくなる。第四に、意思決定の限界、構造的限界である。組織が拡大し、部門が確立すると、セクショナリズムや派閥争いなどが起こりやすくなり、意思決定が総花的になり易くなる。第五に、権限と責任の範囲の限界である。組織が大きくなると権限や責任の範囲が不明瞭となり、日和見主義的な傾向が強くなる。第六に、格差の拡大。組織の階層が深くなると必然的に配分の差が広がる傾向が出る。これらの要因は、規模の拡大に伴って組織のかかる負荷が増大していく。

組織には適正な規模があり、その規模を超えると急速に効率が悪くなる。組織の規模は、指示、命令系統の長さによる。つまり、情報伝達の速度と精度による。今日の情報技術の革新は、組織の根本を変えつつある。しかし、いくら規模の問題を克服できたとしても、組織の特性を変える事はできない。独裁的組織は、価値観を保てなくなる。なぜならば、組織の本質は分配であり、分配の基準は相対的だからである。

バブル後の経済的停滞を招いた要因の一つが、組織の肥大化にある。
経済を停滞させる原因は、金銭的な問題より、組織的問題である場合が多い。この点を勘違いし、金銭的利益ばかりを追求していると経済の抜本的な改革はできない。利益をいかに分配するか、その場合、最も考慮されなければならないのは、社会的弱者である。この世の中は、天才や優秀な人間だけで形成されているのではなく。圧倒的な多数は、平凡な能力の持ち主なのである。単に利益だけも生産効率だけを追求したら、平凡な能力を持つ者でさえ、取り残されて行ってしまう。経済は、全ての人に生きるための手段をいかに分け与えるかの問題であり、それは、高度に組織的な問題なのである。組織的問題だからこそ組織の持つ限界や弊害もよくよく理解しておく必要があるのである。

組織の限界を補うために、市場がある。組織と市場の違いは、組織は、一つの主体として統一されているのに対して、市場は、複数の主体が一つの場に存在する事で成り立っているという事である。市場の役割は、主体間の相互牽制によって組織の持つ弊害や限界を抑制する点にある。
市場も独占されれば組織と変わりなくなる。

組織もまた、相対的存在であり、相対的な関係を維持する事で抑制できる。独占寡占が経済の仕組みを非効率にするのは、組織を絶対化してしまうからである。

なぜ、三権分立が必要であり、競争が必要なのか。なぜ、独占や独裁は、防がなければならないのか。
一つは、経済も政治も相対的な事だからである。
今一つは、独占も独裁も組織を腐敗させるからである

人は絶対者にはなれない。



市場と独占


経済とは、生きるための活動である。経済の仕組みは、生きる為に必要な資源を社会を構成するもの総てに、分配する仕組みである。そして、生産財を分配する仕組みや手段によって経済体制は、定まる。
自由主義経済は、分配の手段として組織的な手段の他に、市場的手段を用いている。つまり、組織と市場が組み合わさって形成されているのが自由主義経済だと言える。

経済主体は、主体内部と外部が存在し、内部と外部とは、境界線によって明確に区分されている。そして、内的な分配手段が組織的なものであり、外的な手段が市場的な手段である。

なぜ、組織的手段以外に市場的手段を用いるのかも、そこに、自由主義経済思想の核心がある。
なぜならば、自由主義経済が確立される以前は、分配の手段としては、組織的な分配が主だったからである。現在でも分配の手段としては、市場が主で、組織的な手段は、補助的なものになりつつある。

独占禁止法は、自由主義経済の思想、精神を最も象徴的に表した法である。
気を付けなければならないのは、独占禁止法と言うのは、独占だけを禁じているわけではなく、市場が本来の機能を果たせなくなるような行為や状態全般を規制している法だという点である。
それ故に、独占禁止法は、自由主義経済の憲法だと言われるのである。
独禁法の精神とは何か、独占禁止法が守ろうとしている市場の状態、規律とは何か。それを明確にしなければ、自由主義経済の本質は理解できない。

独占禁止法を支える基本的な前提は、第一に、経済的価値は、相対的だという点。第二に、法治主義の則り市場は、規律と法に依って守られるという点。取引の正当性は、手続きによって証明される。第三に、経済主体には、内と外があり。内的な分配手段は、組織的な手段であり、外的な分配の手段は、市場的な手段だという点。第四に、市場は、相互牽制、競争によって機能を発揮するという点。第五に、貨幣制度、即ち、貨幣価値、交換価値を経済の基盤とする。国は、通貨の信認を維持する義務を負っている。第六に、政治、国家権力と経済とは切り離す。第七に、私的所有権を権利として法によって保証する。

経済的価値は相対的な価値である。経済の状態や市場環境によって経済的な価値は、定まる。
独占は、経済的価値を絶対化し、経済を硬直化させる。故に、自由主義経済体制では、独占を禁じているのである。

一つのチームでは、野球は成立しない。二つのチームでは、序列がつけられない。三つ以上の主体があってはじめて競争の原理は働く。
かと言って百チームでは経済効率は保てない。無制限、無規律な市場は、経済を制御する事が出来なくなる。

市場は、法によって守られている。法とは規制である。法は、取引の公正と規律を保ち適正な価格を維持する事が目的であるが、過剰な規制や状況、環境の変化に適さなくなった法や規制は、かえって市場の効率を低下させ、不当な既得権を成立される。
収益力が低下している時に規制を緩和すれば独占、寡占は促される。

闇カルテルや価格協定は、適正な価格の形成を妨げる。しかし、市場が無秩序な状態に陥った場合は、無意味な競争を抑制する為の協定や規制は、有益である。

競争は、価格を下げる事を目的としているのではなく。適正な価格を実現し、維持する事を目的としている。
不当な価格や過当競争は、適正な価格の形成を妨げる。

市場が無法状態に陥り、規律が保てなくなれば、過当競争、乱売合戦に陥り、結局、価格だけの競争になる。
そのような状態では適正な価格が維持できなくなる。結局品質の低下や市場の荒廃を招く。収益が維持できなくなったら、経営は継続できないのである。価格だけの競争になれば限りなく付加価値は失われていく。それを象徴しているのがゼロ金利である。金利がゼロになるのは、歴史的に見て初めての事である。金利がゼロであれば、物価も、所得の上昇も、利益もゼロに近づく。
市場が無法な状態では付加価値は生み出せなくなるのである。
海外の競争力と言うが基本的には国内の市場の秩序が一番重要なのである。

財テクのような事は、結局何の生産性もなく、キャッシュフローを生み出さないのである。

独占禁止法の精神は、豊かさの基準でもある。
競争原理主義者は、何でもかんでも規制を緩和し、あるいは規制をなくせば適正な価格は形成されると主張する。しかし、それは、最終的には、価格競争に収斂し、生産を標準化し、商品を平準化してしまう。つまり、経済的価値を質より量に偏らせる結果を招く。
独占禁止がなぜ必要としているのか。市場本来の働き役割は何なのか。競争は、絶対的原理ではない。その点を間違えると市場経済を土台から破壊する事になる。
現在、日本は、チェーンストアの外食産業とコンビニエンスストアに支配されてしまった。それぞれの店の個性や主張は、失われ、商品もサービスも画一化されている。
ニューヨークで飲むコーヒーも東京で飲むコーヒーの静岡で飲むコーヒーも同じ品質で効率的に大量生産されているような市場を豊かな市場と言えるのであろうか。
豊かさを単に量だけで測ろうとするから貧しくなるのである。豊かさは、質と量の両面から測られるべき事なのである。


名目的価値と実質的価値


現代経済の問題において名目的価値と実質的価値の乖離が決定的な働きをしている。それが顕著になったのがバブル言う現象である。
実質的価値は物に根ざした価値であり、時価として現れる。それに対して名目的価値とは、「お金」に根ざした価値であり、簿価として表される。会計上では、実質的価値は、借方(運用側)、即ち、資産、費用として現れ、名目的価値は、貸方(調達側)もすなわち、負債、資本、収益に現わされる。なぜならば、「お金」(資金)を調達し、物で運用するという関係を図式化したのが複式簿記だからである。そして、実質的価値と名目的価値の差が資本や利益を生み出しているのである。

資金の調達が負債、資本、収益に依存するという事は、資金の調達手段として負債、資本、収益があるという事である。
もう一つ注意すべきなのは、経済主体が成り立つ為には、資金が供給され、循環する必要がある。言い換えると資金が供給され資金が回っていれば経済主体は成り立つのである。
赤字になったり、損失が出たら経営主体は、破綻すると勘違いしている人が多くいるが、赤字や損失は原因となりえても経済主体を破綻させる直接の要因ではない。赤字でも経営は継続できる場合もあれば、黒字でも破産する会社はある。要するに、資金を断たれなければ経済主体は継続できるのである。これは、民間企業だけでなく、家計も、財政も、金融機関変わらない。
これが大前提である。

現在、期間損益の原則の基づいて働いているのは、民間企業、金融機関であるが、資金の働きは、家計、一般政府もほぼ同じ働きをしていると考えていい。つまり、資産、負債、資本、収益費用の相互作用と資金の調達と運用によって経済は動かされている。
故に、経済の動きを理解する為には、資産、負債、資本、収益、費用の動きと資金の調達と運用の状態を明らかにする必要がある。そして、資産、負債、資本、収益、費用の働きには、実質的価値と名目的価値の関係が深く関わっているのである。

バブルは、高度成長が市場の過飽和、ニクソンショックによって終焉し、収益力が低下したところにオイルショックや狂乱物価などによって費用や物価の上昇したことが追い打ちをかけ利益が圧迫を受けた。反面、円高や金余りなどによって資産価値が上昇し、資産時価が簿価に対して相対的に高くなった。その事で、貸借取引、資本取引によって資金を調達し、名目的収益をかさ上げする事で実質的収益の低下を補った。
結果的に貸借と損益の関係が不均衡になり、貸借の比率が上昇する。総資本回転率に如実に表れている。



法人企業統計


バブルが崩壊すると資産の実質的価値は反転し、資産価値は急速に収縮する。それに伴って実質的価値も下落し、簿価と大きく乖離する。それが不良債権の実体である。いくら不良債権を清算しても対極にある債務をそのままにしておけば、貸借関係は大きく歪みを残す事になる。不良債権を放置すれば、含み損を抱え込む上に、資金の調達力を失う。
その結果、資金は、市場に流れず回収側、即ち、金融機関に還流する事になる。長期資金の元本返済は、損益上に表れない。
その為に、実質的な収益や所得は減少し、名目的な負債や資本が累積する事になる。
本来、収益から費用を賄い、余った資金を返済に向ける事で負債と収益の均衡を保つのが原則である。収益によって費用が賄えなくなって金融取引や資本取引によって資金を調達し続ければ、負債は積み上がっていき。やがては限界を迎える。

今日の経済で何が問題なのか。それは、貸借と損益が不均衡な状態にあるという事である。要するに、所得や収益に比べて借金が大きく過ぎるのである。借金の元本の返済に企業は、名目的費用、即ち、減価償却費を充てる事で、資金が市場側に流れず金融側に流れる。
この様な時は、競争を抑制し、収益を向上させて収支の均衡を保つべきなのである。しかし、行政は、規制を緩和し、競争を煽っている。その為に、体力のない中小企業から破綻しているのである。家計は、可処分所得が圧迫されている上に、将来に対する期待が持てないため、支出を控えるようになる。例え、家計の金融資産が増加していると言ってもそれは名目的な部分であって実質的な支出は抑制されているのである。
所得や収益の減少は、納税額の減少に結び付き、財政も収支が不均衡になり、国債が累積するのである。


法人企業統計


資金繰りがつけば経営主体は、経営を継続する事は可能である。しかし、金さえ回れば経営は、健全な状態が維持できるかと言うとそうはいかない。収益によって費用を賄い、借入金を返済できないようでは、経営は、本来成り立たないのである。不採算企業でも「お金」が回れば潰れはしない。だからといって、金融機関も赤字会社に貸し続けていたら、借金が膨らむだけである。金融取引だけでは、拡大再生産につながらないのである。


国税庁 会社標本

バブル崩壊後、欠損率は、80%に迫る状態が続き、また、企業数も伸びていない。
健全な収益と費用の関係が築けないのである。
収益が柱とした経営が出来なければ経済は健全な資金の循環が維持できないのである。

これは財政も同じであり、経常的収入の不足を借入金で賄っていたら借金が累積し、ストックとフローの均衡は失われるのである。
貸借は、ストックを構成し、損益は、フローを構成するから要するに、ストックとフローのバランスが悪いのである。それは、金融機関にとっては、貸付金利と預かり金利の不均衡として現れるから、預貸率が悪化する。

先ず改善すべきなのは、損益と貸借の不均衡である。

名目的価値とは、額面、表面に表された価格に基づく価値であり、実質価値とは、物価を基とした価値である。
つまり、名目的価値と実質的価値を分けるための鍵は、物価にある。故に、物価をどの様に定義するかによって名目的価値と、実質的価値の関係は、定まる。名目的価値と、実質的価値は、「お金」と物の関係から形作られる。

実際の世の中は、「お金」の世界ではない。人や物の世界である。
経済は、人が生きるための活動であり、経済の仕組みは、人を生かすための仕組みである。
経済の仕組みを動かす手段が「お金」なのである。

石油や電気は、自動車やテレビを動かすエネルギーである。しかし、自動車やテレビを動かしているのは人である。自動車やテレビを動かすために石油や電気は不可欠である。しかし、自動車や電気に人が動かされているわけではない。

「お金」は、食べられないし、着る事もできない。「お金」その物に価値があるのではなく。実際に食べる物であり、着る服に価値があるのである。
その事を忘れなければ、「お金」は、正しい働きを発揮する事かできる。

実際の経済は、「お金」だけでできているわけではない。
実際の経済は、人、物、金の均衡の上に成り立っている。

今は、「お金」の動きだけが問題にされるが、実際の経済では、人や物の働きが重要な働きをしている。
例えば、「お金」の量だけが問題なのではなく。人口や生産量と言った人や物の量も重要なのである。
人や物の量は変わっていないのに「お金」の量が大きく変化している事もあれば、逆に、物の量が大きく増加しているのに、「お金」や人の量はほとんど変わらない事がある。そのような場合、経済に一体どのような影響が出るのか。

それらを複合的に検討しないと経済の実体はわからないのである。
貨幣的価値は量的価値であり、質的価値ではない。貨幣価値で重要なのは金額であって質ではない。経済的価値の質的な要素は、人や物の側にある。
貨幣価値は、実体がない。名目的価値である。実体は、物や人の側にあり、実質的価値は人や物にある。
名目的総生産は、表面に現れた金額を意味し、実質的総生産は、市場の実体的変化に基づいているのである。
実体は、人や物にあるのであって貨幣価値は名目的な価値である事を忘れてはならない。
「お金」に目が眩んで経済の実体を見失えば、ハイパーインフレーションや大恐慌の様な貨幣的現象によって社会全体を破綻させてしまう事になるのである。
ハイパーインフレーションがあっても大恐慌の中でも、財政が破たんしても、戦争中でも人間は生きていかなければならない。生きるための活動こそが経済の実体である。

経済の仕組みの目的は、人を豊かにし、幸せにする事である。人を支配したり、奴隷にするための道具ではない。
「お金」は、人を豊かにし、幸せにするための道具である。「お金」のために、貧しくなる者がいたり、不幸になる者がいたらそれは「お金」の使い道を間違っているからである。

経済の仕組みは、人が主役である。物や「お金」が中心ではない。経済は、人を生かすためにあるのである。経済は、物のためにあるわけでも、況や「お金」のためにあるわけでもない。物や「お金」は、従属的な手段なのである。



物のバランスシート



我々は、経済の動きを「お金」の動きで見る。
しかし、経済の実体は物と人にある。
この点を見間違うと経済の実体を見逃す事になる。

経済の状態や流れは、一般に「お金」の単位で表される。
経済の状態や流れを表す金額は、物と「お金」の単位の積である。
つまり、物の量と「お金」の単位を掛け合わせた値が経済的価値として表されるのである。注意しなければならないのは、ここで表現されるのは交換価値である。
要するに、経済には、物の流れと「お金」の流れがあり、物の流れと「お金」の流れを制約しているのが人である。物は生産を、人は消費を「お金」は分配を担っている。

物にも、生産、分配、消費の段階がある。これを表しているのがエネルギーバランスである。

その好例がエネルギーバランス表である。
流れとしては、国内エネルギー供給があり、その後、エネルギー転換/転換損失があって、最後に最終エネルギー転換がある。この様な物の流れに基づいて経済活動は実現する。
物の生産量の変化、供給量の変化、そして、中間での損失量、そして、最終消費量の変化、そして、それぞれの局面における構成の変化等を見る事で経済の実体は把握できる。

更に、単価の変化、為替の変化等を掛け合わせ運送料や加工賃、備蓄費用などを加算して経済の動きや実状を知り、かつ経済の動きを予測する事が可能となる。



一次エネルギー国内供給の推移

(注1) 生活や経済活動に必要な一次エネルギーのうち、自国内で確保できる比率をエネルギー自給率という。括弧内は原子力を含んだ値。原子力発電の燃料となるウランは、エネルギー密度が高く備蓄が容易であること、使用済燃料を再処理することで資源燃料として再利用できること、発電コストに占める燃料費の割合が小さいこと等から、資源依存度が低い「準国産エネルギー」と位置づけられている。(注2) エネルギー自給率(%)=国内産出/一次エネルギー供給×100(出所)IEA, Energy Balances of OECD Countries 2012 Editionをもとに作成

我が国のエネルギーバランス・フロー概要(2011年度、単位1015J)

(注1)本フロー図は、我が国のエネルギーフローの概要を示すものであり、細かいフローについては表現されていない。特に転換部門内のフローは表現されていないことに留意。(注2)「石油」は、原油、NGL・コンデンセートの他、石油製品を含む。(注3)「石炭」は、一般炭、無煙炭の他、石炭製品を含む。(注4)「自家用発電」の「ガス」は、天然ガス及び都市ガス。(出所)資源エネルギー庁「総合エネルギー統計」

最終エネルギー消費と実質GDPの推移

(注1)J(ジュール)=エネルギーの大きさを示す指標の一つで、1MJ=0.0258×10-3原油換算kl(注2)「総合エネルギー統計」は、1990年度以降の数値について算出方法が変更されている2。(注3)構成比は端数処理(四捨五入)の関係で合計が100%とならないことがある。(出所)資源エネルギー庁「総合エネルギー統計」、内閣府「国民経済計算」、(一財)日本エネルギー経済研究所「エネルギー・経済統計要覧」



経済成長には、物的成長、人的成長、金銭的成長がある。物的成長は、生産の拡大によって支えられ、人的成長は、消費によって促され、金銭的拡大は、所得に基づいている。そして、これらの成長は、市場経済では、市場の拡大が原動力となっている。

ただ経済成長は、一般に、自由主義経済では、貨幣の動きとして認識される。故に、経済成長というと貨幣価値、即ち、金銭上の事象として錯覚しやすい。
その為に、物や人と言った経済の実態がどのように動いていのかを、正確に掌握し制御する事が難しくなってしまっている。貨幣が表しているのは名目的な事であって、実体は、人や物にある事を忘れてはならない。

貨幣価値というのは、物量単位、つまり、原単位と貨幣単位の価格との積として表される。この事からも明らかなように、「お金」は、経済の動きを増幅する作用がある。
その為に、物や人の動きが誇張されてしまう事がある。「お金」の動きがかえって人や物の働きを弱めたり、阻害したりする。ハイパーインフレーションも大恐慌も「お金」が起こす現象である。言い換えれば「お金」がなければ、大恐慌もハイパーインフレーションも起こらない現象である。つまりは、「お金」の問題なのである。「お金」がなくても人間は生きていくことができる。人は、パンのみに生きるにあらず。ただ、「お金」があった方が便利なだけである。今日、日々の生活にお金は不可欠なものになった。しかし、それは人の意志がそうさせたのである。神の意志ではない。
「お金」は、手段である。目的にはならない。現代社会の病巣は、手段である「お金」が目的化し、万能になりつつあることである。万能なのは神のみである。「お金」は、手段なのだと割り切って、「お金」に支配されないようにする事である。その為には、実体を直視する事である。「お金」の問題は人が解決すべき事である。

現在の経済が均衡して見えるのは、会計上、つまり、「お金」の仕組みの上で均衡しているのであり、人や物の経済が均衡しているわけではない。人や物の経済は、不均衡なのである。
現在の経済は、「お金」の世界に合わせて無理やり均衡させようとしているのであって、人や物の経済に「お金」の仕組みを合わせない限り、実体的経済の仕組みは、円滑に機能しない。本来、人や物の経済を均衡させることが経済の仕組みの目的だからである。

そして、物や人がどうあるべきか、あるべき姿を明らかにしたうえで、それに合わせて「お金」の仕組みを再構築する事なのである。
物や人のあるべき関係を明らかにするのは、人の意志である。だからこそ、人の強い意志が試されるのである。
人を滅亡に導くのも繁栄に導くのも人の意志である。神の意志ではない。神は、ただ超然たる存在である。

物の動きに対して「お金」が、何に、どの時点で、どの様に作用を及ぼすかを明確にする必要がある。



自由主義経済はどのような仕組みによって動いているか




自由が経済の拡大や成長、技術革新などを前提としていたら経済成長や市場の拡大、技術革新が限界に達した時、自由は失われる事になる。しかし、自由がその真価を問われるのは、むしろ限界に達した時である。
数学は、拡散、拡大、無限の身を前提として成り立っているわけではない。むしろ、数学の本質は、収束、収縮、有限に置かれるべきである。
成熟は、衰退を意味するわけではない。成熟は、繁栄の極みである。成熟が衰退に変質するのは、状況の変化を見誤り、適切な政策がとられないからである。借金の働きも成長期と成熟期とでは違う。つまり、衰退するのは、政策の過ちによる。
成長や拡大は、量的な要素に支えられているが、成熟期になると市場は飽和状態になり、量的な拡大は期待できなくなる。つまり、量から質への転換が求められるのである。成熟期が衰退に転じるのは、量から、質への転換する事に失敗したからである。
少子高齢化は、衰退を意味しているわけではない。むしろ社会が成熟した証である。その点を理解せずにただ、少子高齢化の負の部分ばかりを問題にしたら少子高齢化の正の部分を活用できなくなる。

経済の仕組みは、人々が生きるための活動の土台を提供する仕組みである。
今日、経済制度が確立されている国では、経済の仕組みを無視したら生きていくことさえ許されない。
なぜならば、生きるための資源は、経済の仕組みを通じて提供されているからである。極端な話、空気以外の資源のすべては、経済の仕組みを活用しないと手に入れる事はできない。

故に、経済の仕組みの在り方こそ、人々の生活だけでなく、生き方をも制約している。
経済の仕組みを理解する事が経済を理解するうえで不可欠な要件なのである。
そして、経済の仕組みを自分が生きていくために、適正な仕組みにしなければ、正しい生き方ができない事になる。
経済の仕組みは、正しい生き方をするための前提条件となる。

自由主義か否かは、直接的に制御するのか、間接的に制御にするのかの差である。
直接価格を弄ったり、給与を上げ下げしようとするのは、邪道である。それは自由主義経済ではなく、統制経済である。市場や仕組み、制度によって間接的に制御するのが自由主義経済なのである。

自由主義経済を是とし、自由主義経済化に生きる者は、自由主義経済の仕組みを正しく理解する必要がある。

自由主義経済の全体の仕組みは、第一に、調達の仕組み、第二に、生産の仕組み、第三に、流通の仕組み、第四に、分配の仕組み、第五に、消費の仕組み、第六に、後始末の仕組み六つの仕組みからなる。

第一の調達の仕組みは、生きていくために必要な資源を生産、あるいは消費する目的で調達する仕組み、また、過不足を調節する仕組みである。第二に、生産の仕組みは、生きていくために、必要な財の生産を制御する仕組みである。第三の流通の仕組みは、生産された財を必要としている主体に必要なだけ、必要な時に提供するための仕組みである。第四に、分配の仕組みは、働きや権利に基づいて必要とする生産財を分配する仕組みである。第五の消費の仕組みは、分配された資源を消費するための仕組みである。第六の後処理の仕組みは、消費された後の残渣を再活用、あるいは廃棄するたるの仕組みである。

これらをの仕組みは、社会的分業を前提として成り立っている。

経済の根本が生きるための活動であり、物を生産し、生きていく樽に必要な資源を分配するのが経済の根本なのに、なぜ、「お金」が経済を支配するほどの絶大な力を発揮するのか。

それは、「お金」が経済を動かす原動力だからである。自由経済の基盤である市場は、「お金」の力で動かされている。「お金」の力で経済の仕組みが動かされているから「お金」の力に人々の生活は支配されているのである。

自由主義経済は、貨幣制度を基盤として成り立っている。
そして、貨幣経済の仕組みは、「お金」を循環させる事によって機能する仕組みである。
「お金」の働きは、「お金」の出入りによって発揮させられる。貨幣経済は、基本的には、お金の出入りによって動いていると考えていい。しかし、本来貨幣制度は、経済の仕組みを動かしている手段に過ぎない。
貨幣制度は主たる制度ではなく、本来従属的な制度である事を念頭に置いておく必要がある。


現在の経済の仕組みは「お金」によって動いている。


経済を難しくしているのは、学者であり、会計士である。
科学は、複雑な事を単純化する作業だと心得ているが、経済学者は単純な事を複雑にしてしまっている。

貨幣経済の仕組みは、極めて単純かつ明確である。
まず第一に、自由主義経済は、「お金」を循環させることによって生産財を分配する事で成り立っていて。市場は、生産財を分配する仕組みの一部だという事である。
「お金」によって生産財を分配するためには、予め、満遍なく消費者に「お金」が行渡っていなければならない。「お金」を得る手段は所得である。所得は、労働力や何らかの用役の対価として受け取る。

経済の仕組みは、「お金」の循環によって生産を調整し、公平な分配を実現する仕組みである。

経済の仕組みは、生産を調節するという部分と、財を分配するという二つの部分からなる。生産を調節するという部分は、物的部分であり、経済の実体的働きである生産や消費を司っている。それに対して財を分配する部分は、貨幣的部分であり、名目的働きである所得や支出を司っている。生産や消費は、一方的、単方向なのに対して、貨幣は、循環的であり、双方向的である。

公平な分配を実現するためには、お金が常時、全ての消費者に一定量、供給され続ける必要がある。その主たる手段は、所得である。

現在の経済の仕組みが正常に機能するためには、「お金」が全体に満遍なく循環し続ける必要がある。「お金」が回らない部分が生じるとその部分から経済体制は崩壊していくからである。

故に、経済の動きを制御するためには、「お金」の流れる場所や範囲の偏り、「お金」の滞留。「お金」の流れる速度。「お金」の流れる方向等を常に監視する必要がある。

「お金」をどこに、どの様に流すかが問題なのである。
「お金」は、公共投資、給付金、行政経費というか形で市場に供給される。

公共投資は、社会資本投資、国防投資、教育投資、研究開発投資、医療衛生投資等がある。また、国防投資は、治安、防災、軍事がある。

供給された「お金」は、最終的には個人所得に還元される。言い換えるとすべての経費は最終的には、個人所得に還元される。

個人所得に還元されるところを起点として「お金」は、市場に流通する。
お金の流通経路と量、速度によって需要と供給を制御する仕組みが市場である。

個人所得は、消費と投資と貯蓄、公共費用のいずれかの形で支出される。
貯蓄に回されたものは、金融機関の負債となる。

資金は、一定の手続きによって生産された観念の所産である。
資金と言う物質的実体があるわけではない。我々が目にしたり、手に触れるは、資金を実体化したものであり、資金そのものではない。資金と貨幣とは別の存在である。
「お金」は、採掘されて生産される資源でも機械で生産できる物でもない。「お金」は機械で印刷すればできるものではない。紙幣は、確かに、印刷すれば、いくらでも生産できる。しかし、印刷すればすぐに「お金」として通用するわけではない。紙幣が「お金」として通用するためには、それなりの手続きが必要なのである。

「お金」資金を市場に循環させる仕組みを知るためには、「お金」の成り立ちを知る必要がある。「お金」の成り立ちを知るためには、中央銀行の仕組みを知る必要がある。

政府が国債を発行し民間金融機関や企業が引き受け、それを担保に中央銀行が銀行券を発行し、金融機関に資金を貸し出す事で市場に資金を供給する。

金融機関は、更に信用を創造して通貨を民間企業や家計に貸し出して市場に回転させ、流通量を増幅させる。

現在の貨幣経済の仕組みは、基本的に入力と出力、お金の出入りの二つの働きによって動かされている
すなわち、貨幣経済の仕組みは2進法であり、離散数であり、自然数の元とした空間の上に成り立っているのである。そして、貨幣経済を構成している要素は、人と物と「お金」である。

「お金」の出し入れは、売り買い、貸し借り、税、贈与、給付によってなされる。つまり、売り買い、貸し借り、税、贈与、給付によって「お金」は循環するのである。

市場は、「お金」の力によって動かされている。市場を動かしているのは、資金、「お金」の流れである。資金の流れを生み出しているのは、資金の過不足である。資金の過不足は資金移動によって生じる。

資金は、所得として配分される。所得は、消費と投資と貯蓄になる。投資と貯蓄は、視点を変えると負債になる。預金と負債は、ストックを形成する。即ち、所得に打ち、消費に回されない資金は、ストックとなり、蓄積される。

資金の過不足は、部門間に歪みを生む。その歪みを是正しようとする力によって市場は動かされている。資金の過不足は、基本的に貸し借りと税によって調節される。単年度の資金の過不足は、売買によって引き起こされるからそれを貸借によって均衡させる。その為に、単年度に限っては、売買と貸借は均衡している。しかし、資金の過不足は、貸借に蓄積されストックとして累積していく。

資金の過不足は、貸し借りとしてストックに蓄積する。資金は、貸し借りだけでは、債権と債務が一方的に累積してしまう。所得を再配分して資金の偏りを是正しないと資金が回らなくなる。その為に税制がある。

資金の流れには、収入と支出、借入と返済の二つの流れがある。借入金だけがストックを増加させるわけではない。
単位期間の負債と、収入は一致している。なぜならば、借入は収入でもあるからである。
収入と支出、借りと貸しはゼロ和である。借入と収入もゼロ和である。
収入の中で消費に回されない資金は、貯蓄としてストックに積み上がる。貯蓄は、金融部門の借入である。
ストックが拡大している間は、資金は市場に供給され続ける。資金を減少させるためには、負債を清算する必要がある。清算する手段の一つが資本化である。
民営化とは、期間損益主義を導入する事を意味している。
貸方と借方はゼロ和であるが、収益と費用、資産と負債はゼロ和である。
ストックが拡大し続けると資金の供給量も増え続け、時間価値も上昇していく。借入だけがストックを拡大するのではなく、貸出も借入と同量、ストックを拡大するのである。
過剰負債は、過剰資産でもある。レバレッジを聞かせるとストックは、さらに拡大する。信用取引を考えればわかる。損失が拡大したら追証がかかるのである。その時、水面下にある元本は何倍にも膨れ上がっている。名目的な担保は、保証金でも、実質的借入は、元本であり、それが現実の収支を支配するようになる。信用取引を基礎とした経済の落とし穴である。

経済を拡大発展させるのは時間価値である。時間価値は、増減として現れる。


機構と機構を動かす力は違う。


市場は、経済を動かす仕組み、装置である。「お金」は、経済の仕組みや装置を動かす原動力である。

「お金」の働きと貨幣制度の働きは違う。「お金」の働きと市場の働きは違う。「お金」の力は、「お金」を持つ者の能力を表しているわけではない。
「お金」の力と経済主体の力と、「お金」を持つ者の力を混同してはならない。
「お金」なければ家計も財政も企業も動かない。だからといって「お金」が全てではないし、「お金」の力にも限界がある。「お金」をいくら持っていたとしてもその人の人格を表すわけではない。その人の人格、真の力は、持っている「お金」を何に対してどう使うかによって定まる。

仕組みは、仕組みの機構と仕組みを動かすエネルギーと仕組みを操作する人によって働きを発揮する。
仕組みの機構は、物理的な機構と観念的機構の二種類がある。
物理的機構を動かす力は、石油、電気、ガスなどによってもたらされる。それに対して観念的機構を動かす力は、お金や情報によってもたらされる。
経済の働きを考察する際、機構としての仕組みと原動力としてのお金の働きは区分して考える必要がある。

お金の力を活用する機構とお金の力とは別次元の事なのである。そして、そこに人の意志が絡むのである。
お金の持つ力や働きと「お金」を動かしている仕組みとは別のものである。
ところが「お金」の働きとお金を動かしている仕組みとを混同してしまっている人がいる。

多くの人は、「お金」の動きや働きばかりに気をとられてその背後にある「お金」を動かしている仕組みを見落としている。
物価の上昇や不景気というのは、貨幣的現象である。つまり、「お金」の働きによって引き起こされている。しかし、その「お金」の働き、貨幣的現象を生み出している機構があるのである。そして、その機構を変えない限り、「お金」の異常な動きや暴走は止められないのである。

直接的に価格を統制したり、所得を操作しても、思い通りの結果が得られず、かえって、制御不能な状態に追い込まれるのが落ちである。
「お金」は、経済や市場を動かすための道具であり、重要なのは、「お金」を動かす機構によってどの様な仕事や効能を人々が期待している夏なのである。

「お金」の持つ力、魔力ともいえる力ばかりに目を奪われて「お金」の奴隷になったり、「お金」をひたすらに貯めても「お金」を思い通りに活用できなければ、虚しいだけである。
石油や電力、ガスと言ったエネルギーを活用して何を実現したいかが本旨なのであって石油や電気、ガスそのものを得ても何の意味もないのである。石油や電力、ガスを自分の期待通りに活用しようと思ったら、石油や電力、ガスを活用する仕組みを構築する必要があるのである。

我々は、自由主義経済下で生活をしている。自由主義経済は、市場経済、貨幣経済を基礎として成り立っている。市場経済、貨幣経済では、お金の流れが経済の仕組みを動かしている。しかし、「お金」を動かしている仕組みやその仕組みの目的、仕事を正しく理解していなければ、「お金」の力や働きを制御する事はできないのである。

原子力にせよ、電力せよ、石油にせよ、制御する技術が伴っていなければ、装置そのものを壊しってしまう事がある。自動車だって使い方を間違えば凶器となるのである。
神の力を手に入れたとしても人は神になれるわけではない。それが偉大な力であればあるほど、使う者の心が貧しければ使い手自身を傷つけ、破滅させてしまう。力が強ければ強いほど、それを持つ者の心こそが問われるのである。


お金を循環させる仕組み



経済とは過程である。
「お金」が流れる過程で分配の仕組みは作動してきた。その過程をなくそうとしている。
「お金」がこれまでは仕事を作ってきたのである。その「お金」が仕事を奪おうとしている。
経済の仕組みの役割は、「お金」の流れを作り、「お金」を循環させることにある。経済は、「お金」の流れを作る事で支えてきた。その「お金」の源を堰き止めたから「お金」が市場に流れなくなった。
「お金」が市場に流れなくなったことで、市場はカラカラに乾いてしまい。今や市場は砂漠のようになってしまった。

市場は、「お金」を循環させることで、物流を起こし分配を促進する仕組みである。
「お金」の流れの逆方向に流れる物流がある。
物は消費されると価値を失う。それに対して「お金」の名目的価値は失わせない。

経済の仕組みは、「お金」を循環させる仕組みである。
いかに「お金」を廻すかが最大の課題なのである。「お金」は自分の意志があって流れるわけではない。「お金」の流れを誘導するのは、人である。「お金」の流れを放置すれば、「お金」は、一方的に流れていてしまう。「お金」は、「お金」を引き付ける性格があるから、当然、偏りや歪が生じるのである。「お金」は、本来循環する性格がない。「お金」の流れは、水の流れに似ていて高いところから、低いところに一方的に流れていく。
つまり、「お金」を循環させるためには、それなりの仕組みや装置が必要になるのである。
その仕組みや装置が金融機関であり、財政である。この点を理解しないと財政や金融の働きを理解できない。また、企業や家計も「お金」を循環させる仕組みの一翼を担っている。

「お金」は、資金の過不足によって動かされている。資金の過不足を補うように貸し借りが生じる。この貸し借りが資金を循環させるのである。売り買いが財を流すのを促すのに対して貸し借りは、資金を循環させる。そして、売り買い、貸し借りによって生じた資金の偏り、歪みを是正する働きをするのが税である。忘れてはならないのは、放置したら「お金」は回らなくなり、垂れ流し状態に陥るという事である。

所得の再配分は、貧富の格差をなくすという事だけでなく、むしろ、資金を循環させるという働きの方が重要なのである。確かに、貧富の格差、所得格差を緩和するという事も重要だが、それ以上に資金の循環を促す事が重要なのである。なぜならば、資金が循環しなくなったら市場は自壊してしまうからである。

貨幣制度は、お金を循環させる仕組み、構造がなければ成り立たない。
お金が市場に出回らなくなったら市場は機能しなくならないのである。
つまり、「お金」を循環する機能が働かなくなったらお終いなのである。
「お金」を循環させているのは、市場取引である。
リーマンショックの時、それが起こり市場が機能不全に陥ったのである。
市場は、取引による連鎖反応によって動いている。取引の連鎖反応が「お金」を循環させているのである。

市場取引は、売り買いと貸し借りによって成り立っている。つまり、売り買い、貸し借りによって資金を循環させる仕組みが市場なのである。

「お金」を循環させる仕組みは、第一に、「お金」の供給する仕組み、第二に、「お金」の分配する仕組み、第三に、「お金」の流通、循環させる仕組み、第四に、「お金」の回収する仕組み、第五に、「お金」を蓄える仕組み、第六に、「お金」を貸し借りする仕組み、第七に、「お金」を決済する仕組みからなる。

金融機関の役割は、「お金」の循環を促す事である。「お金」は、資金余剰のところから資金不足のところに流れる事で循環する。しかし、何もしなければ、余剰に資金を持っている主体は、資金不足の主体に資金を回したりしない。なぜならば、確実に資金が回収されるという保証がないからである。金持ちは、貧乏人にお金を貸したりはしないのである。それを仲介するのが金融機関本来の役割である。力はあるけれど資金が不足している主体に力はないけれど余剰の資金を持っている主体から資金を回すのが金融機関の役割なのである。金融が本来の役割を果たさなくなると、「お金」は、淀み、停滞し、偏って循環しなくなるのである。

「お金」を循環させる仕組みは信用制度の上に成り立っている。市場は、信用制度があるから成り立っているのである。

「お金」を循環させる仕組みの役割は分配にある。「お金」が循環する動きによって財が循環する。
分配の仕組みは、所得と資産に依拠している。所得と資産は、労働と私的所有権を根拠としている。
分配の仕組みの一部に市場の仕組みを活用しているのが市場経済である。市場は、分配の仕組みを補助する仕組みの一つである。
分配の仕組みには、市場の仕組み以外に組織的(制度的)仕組みがあり、一般言われる市場経済は、この二つの仕組みが組み合わせられてできている。

分配は、所得と支出によって完了する。所得と支出は表裏をなしている。即ち、ある主体の支出は、取引相手の所得となり、ある主体の所得は、取引相手の支出となるのである。それが取引の原則を構成する。

市場全体は合目的的な仕組みである。
また、全体を構成する部分の仕組みは、合目的的な仕組みであり、独自固有の構造と性格を持っている。
部分は、それ自体独自の目的を持ちながら、集合して全体を構成する。個々独立した部分が集まって全体が形成されると、全体は、全体で固有の目的を持つ様になる。全体と部分は、主体的に行動する事によって関係を築き整合性をとろうとする。引力と斥力が調和したところで均衡は維持される。

人が集まって会社やお店を作り。会社が集まって産業が構成され。人や会社やお店が集まる事で市場が形成される。いくつかの市場が集まって市場全体が構成されるのである。会社や市場を構成する人も企業も市場も主体的に動くから全体を構成する事が出来る。市場は、個々の主体が離合集散を繰り返す事で活動するのである。

部分と全体の関係を作り、結び付け、活動させる手段が「お金」の役割なのである。

経済を動かす主体は、段階的に個人主体、家計主体、企業主体、公的主体、海外主体から成り立っている。

自由主義経済が正常に機能するためには、全体を構成する仕組みと部分を構成する仕組みの整合性がとれていなければならない。


財は、貨幣の流れによって分配される



「お金」の出入りによって物の過不足を均衡させる仕組みが貨幣制度である。物の過不足を均衡させる過程で「お金」の過不足、資金の過不足が生じる。それを均衡させようさせる働きを活用して物の過不足を均衡させるのである。

貨幣制度というのは、貨幣の流れによって財の流れを作り、財の流れによって財を分配し、あるいは、財の効用を発揮させる仕組みである。
即ち、貨幣制度とは、貨幣の流れ、循環運動によって生産と消費を制御し、尚且つ、生産財を分配する仕組みである。
つまり、貨幣の流れは必ず逆方向の財の流れがある。そして、表面に現れる「お金」の値によって経済の働きを制御するのが貨幣経済である。

財の流れを作るのは、財の過不足である。「お金」の流れを作るのは、貨幣の過不足である。
つまり、経済の仕組みを動かす原動力は、財や資金の過不足である。

「お金」は情報であって「お金」その物に経済的価値があるわけではない。
「お金」が象徴するのは交換価値であって、希少価値や使用価値ではない。
この点を忘れ「お金」その物に経済的価値を置くとひたすら金儲けに走ったり、蓄財を目的としたりする。「お金」は持っているだけでは効用を発揮しない。使わなければ役に立たないのである。

「お金」その物に個性があるわけではなく。「お金」は匿名なものである。お金一枚一枚は、全て同じものでなければならない。「お金」が個性を持つと「お金」き基準としての役割を果たせなくなるからである。

貨幣経済を構成しているのは、経済主体である。経済主体は、お金の収入と支出の量によって働いている。お金の収入と支出は、お金が循環する過程で生じる。故に、お金の収入と支出を制御する構造によって貨幣経済の仕組みは動かされていると言える。この様な仕組みには、経済主体の内部構造と、経済主体の外部にあって市場を構成する外部構造がある。

経済は、生産だけで成り立っているわけではない。経済の中核は、むしろ分配にある。故に、総所得が核になるのである。
分配効率と生産効率は必ずしも一致しているわけではない。生産効率ばかりを追求すると分配効率が損なわれることがある。

生産と分配と支出この均衡が重要になるのである。


資金の移動は、財の移動によって作られる。


資金の移動は、財の移動によって作られる。
財には、生産財と労働、権利がある。生産財の中で無形の財は、用役とする。権利は、債権と差異を産む。
財は、貨幣価値に換算される事によって経済価値を形成する。これが財の貨幣価値への変換である。
市場経済では、財の貨幣価値への変換は、市場取引によって実現する。

財の動かす力は、第一に、財の過不足。第二に、財の分配。第三に、財の消費。第四に、財の生産がある。

経済は、生きるための活動であり、生きるために必要な資源を人々に遍く配分する仕組みが経済の仕組みなのである。
故に、経済の仕組みの本質は、分配にある。
経済は、分配のための仕組みであるから、過程が重要になる。「お金」が流れる過程で財が配分されていくのである。
国民経済計算では、経済の過程に財の生産、変換、交換、移転又は消費の段階を設定している。そして、それぞれの局面における増減と残高を計算している。
「お金」は、流れる過程で生産活動と消費活動、貯蓄活動の三つの活動を生む。

また、「お金」が流れる過程でいくつかの部門を構成する。部門を段階的に経由する事で、「お金」と財は、分配される。
「お金」が流れる過程で形成される部門の主たるものは、財政、非金融法人、家計、そして、海外部門である。
更に、資金の過不足を調節する機関として金融機関が構成される。即ち、国内の部門は、財政、非金融法人、家計からなり、国内の財の過不足を調整する機関として海外部門が働いている。
そして、部門間の資金の過不足を金融機関が融通しているのである。金融機関の手段には、貸借と資本がある。

市場経済では、分配のための手段が「お金」であり、分配のための根拠も「お金」なのである。故に、「お金」は、市場経済では不可欠な要素である。

「お金」は、収入として配分され、支出として使用される。収入は、何らか財や権利への対価として得られる。債権は、権利の一種である。

現在の「お金」の大部分は、紙幣による。紙幣を管理するのは、発券機関であり。今の日本では中央銀行のみが貨幣を発券する権利を独占する事で統括的に管理している。発券機関は、制約がなければ無制限に紙幣を発券する事が出来る。ただし、「お金」は分配のための手段であるから上限が閉じていなければ尺度して市の機能を果たせない。なぜならば財は有限だからである。総量に占める割合が特定できなければ、尺度としての基準は満たせない。故に、通貨の発行量には何らかの制約を設定する必要がある。
紙幣の本質は、借用証書である。つまり、貨幣は、負債を根拠とし、それにより負債を形成する。つまり、上限を設けなければ、負債は、無制限増幅する。

「お金」の流れは、水の流れに例えられる。水の流れに沿って街は建設され、文明がおき、田畑は耕かされる。水は雨となって大地に降り注ぎ、小さな流れとなる。小さな流れが寄り集まって川となり、川は、集まって大河となる。大河は、海にそそぐ。海に注がれた水は、蒸発し、雨となって山々を潤す。この水の流れと同じように「お金」の流れは、いろいろな産業を育み経済を動かす。「お金」が循環できれば経済は豊かになれる。しかし、この循環がうまく機能しなければ、市場は砂漠と化し、経済は動かなくなるのである。

資金の過不足は、負債として市場に累積する。市場取引だけでは、負債は一方的に蓄積される傾向がある。故に、「お金」を市場に循環させるためには、貸し借りだけでは不十分である。何らかの形で負債を生産する必要がある。
貸し借りを清算する手段は、基本的に売り買いである。貸し借りが清算できなければ、債権・債務は累積していく。

基本的に資金の過不足を、売り買いによって清算するとしたら一定の収益を維持する事か前提となる。つまり、現在の市場経済は、収益を核として成り立っている。この点を正しく理解しておく必要がある。

収益は、量と単価の積である。市場が成熟し量の伸びが鈍ったり、減少し始めたら、単価によって収益を確保する必要がある。市場が成熟しているのに、過度の競争をしいれば適正な収益が維持できなくなり、市場は、縮小均衡へと向かう。市場が縮小均衡に向かい債務を収益によって清算できなくなると負債は、市場に累積されるようになる。


経済は双方向の働きによって成り立っている。


経済主体は多面的な存在であり、一面だけ見ただけではその動きや働きを理解する事はできない。
主体に働く作用は、主体の内に向かって働く作用と、主体の外に働く作用とからなる。

これは、認識の問題である。経済主体は、主体であると同時に間接的認識対象である。自分の顔を直接自分が見る事はできないように主体は、自己を直接認識できない。主体が自己認識をするためには、何らかの媒体、例えば、鏡を必要とする。これが認識の作用反作用を生む。故に、主体は、自分の働きを双方向の働きとして認識する。

「お金」の働きは経済主体に対する入金、出金によって発揮される。この入金、出金は、経済主体の内と外の関係を前提として成り立つ。入金出金の差は、何を主体としているかの視点の違いに過ぎない。入・出金は、全体から見ると一対であり、等価・同量である。故に、全体として入出金量の総和はゼロになる。入金・出金も認識の作用反作用から生じる。

現実に「お金」を動かすのは、取引である。取引は、売り買いを基礎に資金が不足した場合、金融取引である貸し借りが生じる。取引は、売り手と買い手があって成り立っている。同様に金融取引も、貸し手と借り手がいて成り立っている。そして、売り買いは貸し借りは、一対でもある。売り手がいれば買い手がいる。売り手だけでも、取引は成り立たないし、買手だけでも取引は成り立たない。同様に、貸し手がいれば借り手がいる。貸し手だけでも、借り手だけでも金融取引は成り立たない。そして、全体で見ると売り買い、貸し借りの量は、均衡しており、市場全体ではゼロ和になる。一つの取引の売り買いは、等価である。一つひとつの取引は、支払われる金額と等価の財で成り立っている。つまり、等価交換である。
基本的に市場に財を流すのは、売り買いである。そして、売り手と買い手は、同じ主体である。売り手は、買い手にもなる。買い手は、売り手にもなる。一つの主体が売り手でもあり買い手でもあるという関係が「お金」を循環させる。
この市場取引も作用反作用の関係を生む。

経済評論家等の意見を聞いていると生産者と消費者を分けて考えよう、分けて考えさせようとする風潮がある様に思える。
先日も、テレビのニュースで過当競争による価格の下落は、生産者には厳しいが消費者にとっては、ありがたいみたいな事を言っていたが、消費者と生産者は一体な主体である。生産者は、消費者であり、消費者は生産者である。つまり、一つの主体を視点を変えて認識しているに過ぎない。生産者に厳しい事は、消費者にとっても厳しい事であり、消費者にとっていい事は、生産者にとってもいい事なのである。
安く売るためには費用を削減しなければならない。費用の一番大きな部分は人件費である。人件費は、費用であると同時に所得でもある。社会全体で人件費を削減すれば所得や雇用が失われる。費用を削減する事が経済的というが、それは、生産性の効率という観点から見た場合である。分配の効率を考えれば適正な費用を維持しなければならない。
マスコミの人間は消費者の味方のようなふりをするがその結果、雇用が減ったり、人件費が削減されたり、労働条件が悪化する事は見て見ないふりをする。あるいは、労働条件が悪化するのは、経営努力が足りないからだと批判する。

消費のための支出と生産によって得られる所得の均衡する処が適正価格なのである。
価格も、費用も、適正さを求めるべきであり、ただ安ければいい、低ければいいというわけにはいかない。大切なのは均衡である。

生産者と消費者を区分して考えようとするのは、安売りや過当競争、規制緩和を正当化する時に使われる常套句であるが、独占禁止法には不当廉売の条項もあるのである。独占禁止法が制定された当初は、独占も問題だが、それと同じくらい不当廉売にも弊害があるという認識があったのである。特に、大資本による不当廉売は、不公正な競争の基になるという認識があった。

生産の対極に消費があり、労働の対極に分配があり、需要に対極に供給、収益の対極に費用がある。これらの事象は一対となって機能を発揮している。
生産と消費は一対としてみなすから経済の働きを測る事が出るし、数値化する事もできるのである。
生産と消費を一対と見なすからその関係や過程が重要となるのである。ある意味で経済は、生産から消費に至る過程に成立していると言える。同様に、経済は、労働から分配に至る過程で、あるいは、需要と供給の関係によって形成されると言える。

経済現象は、基本的に双方向である。なぜならば、貨幣取引は、交換を前提としているからである。
財と「お金」を交換する事で売買取引は成り立っている。つまり、売りと買いが一対となって取引は成り立っている。貸は、借と一対で成り立つ。収入は、支出と一対で成り立っている。
「お金」の流れは、必ず、逆の財の流れがある。「お金」の動きや働きだけを見ていても経済の実体を理解する事はできない。「お金」とその逆方向に流れ値財の働きや動きの双方を見ないと経済の真の働きを理解する事はできない。
ところが、多くの人は、経済の一面だけを見て経済を理解しようとする傾向がある。

双方向だから、複式簿記によって表現される。国民経済計算、国民所得会計では、水平的複式記入と垂直的複式記入を用いるのである。

経済は、本来、双方向の働きの均衡の上に成り立っている。一種の作用反作用の法則だと思えばいい。
「お金」の働きは主ではなく。従である。「お金」は、基本的に手段であって目的にはならない。
「お金」で食料を手に入れることはできても「お金」を食べて腹を満たす事はできない。「お金」で、服は買えても、「お金」で寒さは防げない。
「お金」の働きは、裏働きなのである。表で働くのは、人であり物、即ち、財である。

売上の反対方向に買上が、借りの反対方向に貸しがある。売り買い、貸し借りは本来一つの事であり、それを視点を変える事によって発生している事柄なのである。
同様に、収入と支出、入金と出金、受けと払い、受けと渡し、債権と債務がある。

これらの働きは本来一つの事象を逆の視点から認識しているのだから総和はゼロになる。つまり、貨幣経済は、総和がゼロになるように設定されているのである。

物価が上昇したからと言って景気がいいとは限らないし、物価が下がったから不景気だと決めつけるわけにはいかない。物価が上昇しても所得が増えなければ生活は苦しくなる一方である。収益の働きは、費用と対比されて初めてわかる。物価も所得と比べなければ効能はわからない。


生産と消費



資金は、循環しなければならない。
最終的に資金を循環させているのは人である。なぜなら、人は、生産者と消費者を兼ねているからである。つまり、人は、生産と言う入り口と消費と言う出口を担っているからである。そして、労働と言う生産手段を所得に変換し、消費に支出を変換する事で資金の循環を担っている。ただ、問題なのは、生産者と消費者は同一ではなく、所得と支出も同一ではないという点である。生産年齢人口と消費者、即ち、全人口は一致していない。つまり、限られた人口に所得を分配し、全人口の支出に応えるという図式になるのである。
また、物を消費した後の余りとお金を支出した後の残高とは、同じ性格のものではないという事である。物を消費した後の余りは、一般に不要なものであるが、お金を使った後の残金は、有用な物である。
物は、生産から消費へと直線的に流れるのに対して、「お金」は、所得と支出によって循環している。

現実に「お金」を動かすのは、取引である。取引は、売り手と買い手があって成り立っている。そして、売り買いは一対でもある。売り手がいれば買い手がいる。売り手だけでも、取引は成り立たないし、買手だけでも取引は成り立たない。
売り手と買い手は、一体である。売り手は、買い手でもある。これが「お金」を循環させる。
「お金」を循環させるのは、売り買いの釣り合いとフローとストックの均衡である。

生産された物から消費された物を引くと在庫になる。在庫は劣化する。
所得から支出を引くと貯蓄になる。貯蓄は劣化しない。
収益から費用を引くと利益(資本)になる。

物は、使い道がなかったり、残ればゴミである。「お金」は、残れば宝になる。この違いが資本主義や貨幣経済の根本にある。残った「お金」が、資本や、資産、負債に転じるからである。残ったお金も劣化させればいいという思想がある。しかし、それでは、「お金」は、市場を循環しなくなる。「お金」は、資金の過不足を補うように市場を駆け巡るからである。貸し借りが成立しないと資金を市場に循環させる事が出来なくなる。

問題は、生産と消費の均衡である。そして、生産と消費の均衡が所得と支出の均衡に結び付いているかどうかなのである。現代は、飽食の時代と言われ、過剰な生産財が市場に溢れている。過剰な生産が過剰な資金を生み出し、それが市場に累積しているのである。必要以上に生産しても必要以上には消費ができないのである。その為に、経済は消化不良を起こしている。

必要以上に作られた物は、捨てられる。しかし、余った「お金」は、資金、資本として蓄積していくのである。
物は、消費されれば価値がなくなる。しかし、「お金」は、使っても、使っても持ち主が変わるだけでなくならない。

経済は、最終的には消費に至る。消費は必要性から生じる。
現在の経済は、生産に偏り過ぎている。供給によって需要が作られると言った転倒した考え方が主力になっている。
しかし、本来は、消費があって生産がある。

自然界においては、獰猛な虎やライオン、鷲鷹だっては、必要以上に狩りをしたりはしない。無駄な事は極力しないのである。それによって自然界の均衡は保たれてきた。自分の快楽のために動物を狩るのは人間くらいなものである。消費できる以上の物を生産したりはしない。
つまり、生産と消費は、常に均衡を保つように抑制されてきた。

それに対して、現在の経済は、まず生産ありきであり、経済の核となる指標は、生産性に置かれている。しかも、大量生産型経済が主流である。まず大量生産があってその生産物を消費する事で経済が回っているところがある。
大量生産型経済は、量を中心とした経済である。質が軽んじられる。大量生産は、大量販売、大量消費を前提として成り立っている。
一方において食べきれないくらい食べ物を工場生産し、大量に廃棄している。他方で、資源の枯渇や飢餓が問題となる。生産と分配と消費の均衡が保たれていないのである。

大量生産型経済は、必然的に過剰設備、過剰負債を生み出しやすい。

そして、生産と消費の不均衡は、絶えず経済状態を不安定にしている。

経済性というと生産性や効率ばかりが指標とされるが、かつては、経済性を表す言葉として節約、倹約という概念もあったのである。
今は、使い捨てが推奨されるが、かつては物を大切にする事が美徳だったのである。だからこそ、「もったいない」という言葉が重んじられてきたのである。節約や倹約は、道徳なのである。
そして、物を大切に消費する事が生産にもつながった。ご飯を残したりするとお百姓さんが作ったお米を粗末にするなと叱ったのである。
今は、飽食の時代である。余った食べ物を大量に廃棄しても心が痛んだりはしない。生産と消費は結びつかないのである。

経済は、生産だけで成り立っているわけではない。消費も経済を構成する重要な要素である。経済は、生産と消費が両輪として成り立っている。消費では質が重んじられる。生産と消費の均衡がとれてはじめて経済は、安定する。

消費には波がある。生産にも波がある。消費の波は、生活のリズムによって形成される。
消費の波は、経済の基礎となる波を形成する。消費の波は、寝食による一日の波、また、休日や仕事の基礎となる一週間の波、支払や賃金による一か月の波、季節等の四半期の波、そして、半期の波、単位期間の基礎となる一年の波と言った短期の波と生病老死、住宅や教育などによって作られる長期周期の波がある。狭義の消費の波は短期の波を指し、長期の波は、投資によって形成される。
生産の波は、財の特性による。財には、季節変動があるものがある。また、財は、生産設備や供給設備の状態、操業度、原材料の調達力に制約される。

財の流れは、生産から消費、そして、一部が在庫と言う一方通行に流れる。それに対して「お金」の流れは循環する事を前提としている。「お金」は、使用しても消費される事なく、蓄積していくのである。それ故に、「お金」の流れは、偏りを生みやすい。放置すると「お金」の巡りを悪くし、資金効率を低下させる。一種の動脈硬化を引き起こすのである。

生産側から見た総所得は、雇用者所得、営業余剰・混合所得、固定資本減耗、生産・輸入品に課せられる税からなる。
そして、支出側から見た総支出は、民間最終消費支出、政府最終消費支出、総固定資本形成、在庫品増加、財貨・サービスの輸出である。



国民経済計算書

経済は、生産から消費までの過程にある。生産側から見ると営業余剰・混合所得、雇用者報酬、生産、輸入品に課せられる税、固定資産減耗からなり、消費側から見ると在庫品の増加、民間最終消費支出、政府最終消費支出となる。要するに、収益、賃金、税、そして、資産に収斂するのである。これは、生産から消費に至る側面を表している。また、労働と分配への側面でもある。生産と消費が物的側面なら、労働から報酬(分配)は、人的側面、所得かに支出は金銭的側面を意味する。

経済を基礎を形成するのが生産と消費である。生産は所得の本となり、消費は支出を形成する。
消費は需要を生み、生産は供給力に基づく。消費量と生産量が需給関係を作る。
経済は、生産から消費に至る過程に生じるといえる。生産から消費に至る過程でどのような局面が生じ、どの様な働き、仕事が生まれるかによって経済は決まる。

生産から雇用が生じ、雇用は、労働を元としている。労働を提供するのは家計であり、家計は、消費を生み、支出の基となる。この一連の流れの中で経済は、生成発展する。
生産の拠点は、職場であり、消費の拠点は家庭である。職場から財政、法人、海外部門が派生する。

生産と消費、労働と分配、需要と供給とが組み合わさって経済の仕組みは構築される。その一本の柱が生産と消費である。

生産と消費は経済の基本であり、経済の在り様を決める。
生産は、経済の実質的な部分である。経済は、生産に始まり消費に終わる。物と「お金」との決定的な違いは、物は、取引が成立した後は、基本的に劣化し、消費されるのに対して「お金」の名目的価値は失われずに、再利用され循環するという事である。むろん、物の全てが劣化し、消費されるわけではないが、物の流れは、「お金」の流れの様な循環的を前提としたものではない。財は生産されて消費されるのである。故に、物の経済は、生産に始まり、消費で終わる。逆にいうと消費にかかる時間によって財は、区分できる。用役、消耗品、耐久消費財、備品、償却資産、非償却資産等、消費にも質がある。また、消費によって生産も変化する。

財は、消費されるために生産されるが「お金」は、交換の手段として循環する。


総務省統計局


第一次産業は、農業、漁業、林業といった原材料や食料と言った基礎的生産物、必需品に係る産業を言う。
明治から大正期にかけて第一次産業は、全就業者の過半数を占めていた。つまり、人口の半分によって生活の基礎となる者を生産してきた。つまり、過半数の人間によって生活必需品を生産していたことになる。
それが今日では、一割を切ってきている。ここが重要なのである。一割の人間で全人口が生きていくのに必要な物を生産しているとしたら、残された九割の人間は、何によって生活をしてくのか。
故に、経済問題の本質は、生産効率でも、金儲けでもなく、分配なのである。
この点をよく理解しておかないと経済の本質は理解できない。一次産業の生産効率があが、これまでの五分の一の人手で全人口の生活を支えていくことができる。問題は、そのようにして生産された物をどの様にして分配するかなのである。
現代社会は、生産財で溢れている。しかし、いくら大量に商品を生産できたとしてもそれを消費者に分配する手段がなければ、宝の持ち腐れになる。
だからこそ、生産と所得の関係が鍵を握る事になるのである。

消費は、支出に転換する事で効用を発揮する。

労働と分配


経済の本質は分配である。生きていく為の活動が経済である。生きていくために必要な資源を分配する仕組みが経済の仕組みである。この事を明確にしておかないと経済の仕組みによって争いが起こり、多くの人が犠牲になったり、極端なインフレーションによって生活が成り立たなくなったり、貧困によって生活ができなくなるような事態を引き起こす。
経済の仕組みは、人々が生きていくために必要な活動を支援する事が根本的目的なのである。

「お金」は、基本的に分配の手段である。交換は、分配のという働きを実現する為に必要な要素の一つである。「お金」が分配の手段という性格がインフレーションやデフレーションを引き起こす主因である。
市場において「お金」に分配という機能を発揮させるためには、一定の条件が満たされている必要がある。
「お金」が市場で分配という機能を発揮するたるの要件とは、第一に、市場を構成る人全員に、必要最小限の「お金」が満遍なく行渡っている。第二に、必要な「お金」が必要とされる時に絶え間なく供給されている。第三に、必要な資源が、必要な時に、必要なだけ市場から調達できるという三点である。

第一に、「お金」が満遍なく分配されていなければ、経済は成り立たない。次に、絶え間なく供給され続ける必要がある。
「お金」は、何らかの働きに対する対価として分配される。働きの対価として支払われる事で生産と働きが結びつくのである。
経済で一番重要なのは、生産と働きを結びつける事なのである。生産と働きが結びついていて、働きが所得に反映されれば、生産と所得が直接的に関係づけられる。生産と所得が直接的に結びつく事で、生産を働きによって制御する事が可能となる。そして、所得は消費のための原資であるから、働きと所得とを結びつけることで間接的に生産と消費を制御するのである。

経済は、家計、企業、財政、海外、金融の五つの部門から成り立っている。厳密にいえば、「対家計民間非営利団体」があるが、政治的な影響力は別にして経済的には、影響力が小さいから度外視してもいい。
各部門の働き、役割は、家計は、消費の単位であり分配の根拠となり、労働力の源となる。企業は、生産の単位であり、収入と個人所得を整流する。財政は、公共サービスを提供し、共有資産(社会資本)を構築し、所得を再配分する。金融は、「お金」を供給し、過不足を是正し、還流する。海外部門は、国内の財の不足を補い。国家間の決済を準備する。
経済の目的は、分配にある。その分配の根源は、即ち、分配する相手は、全ての人民である。つまり、満遍なく全ての人に富を分け与える事が経済の仕組みに求められることなのである。
その為にはどの様な手段によって何を根拠とすべきなのか。それが経済の機構、仕組みの設計思想となるのである。
国民経済、自由経済では、分配する手段は、所得である。必要な資源を市場で所得に応じて調達させることで公平な分配を実現する。それが自由経済の根本思想であり、国民国家の理念なのである。全ての国民に公平に所得を行渡らせる事、それが、国民国家を実現するためには必須となる。それ故に、所得を与える根拠として全ての人が等しく所有する労働力を基準とするというのが自由経済の基本理念である。
それは、最終的には、賃金労働に所得の基準を収斂させるという考え方になる。その場合、私的所有権との兼ね合いが重要となる。なぜならば、私的財産も生産手段となり、所得を生み出すからである。この二つの資金源をいかに調和させるかが自由主義の肝となる。

経済は、生きるための活動であり、経済の仕組みは、人を生かす事が目的なのであり、金儲けや生産効率を上げるのは、人を生かすための手段であって経済の目的ではない。
故に、生産効率を上げたり、利益を追求する事よりも人に仕事を作る事が経済では、重要なのである。
現代経済の錯覚は、利益を追求する事を目的化し、分配という働きを忘れている事にある。
いくら生産性がよくなっても、無人化したら、分配という働きは発揮されないのである。

給付反対給付が市場経済、貨幣経済では原則である。経済基準は、相対的基準であり、相反するの働きの方向と量、関係によって定まる。故に、給付反対給付によって経済的価値は測られるのである。
労働力と言う生産手段の対価として所得を分配する事によって公平な分配を実現する事を基本としている。ただ、所得は、労働以外の他の生産手段からももたらされる。
それが持てる者と持たざる者の格差の原因となり、不労所得の原因ともなっている。ただ、この問題は、私的所有権の問題にも絡み、短絡的には結論が出せないでいる。

人にとって体が資本というのは、労働の本質をよく表現している。
貨幣経済では、全ての経済主体は、無一物であるように初期設定される。人は、無一物で生を受ける。この世にある物は全て借物である。この肉体だって借物に過ぎない。最後には返さなければならない。それが根本思想である。ただ、自分の肉体は、無条件で神から借り受けたものである。体が資本というがなにも担保せずに資金を調達できるのは、労働力だけである。
そして、この労働力こそが全ての権利の根源である。古来より、働かざる者食うべからず。労働は、最も尊ばれる事である。労働こそ自己実現の手段である。だからこそ労働の質が問われるべきなのに、量ばかりが問題とされている。

働きに応じて取り分、評価が決めるそれが原則である。それが、自己実現につながる。自分の働きと成果、それが評価に直接結びつかないと阻害が生じる。同一労働同一賃金というのは、量に特化している。質が見落とされているのである。しかし、労働で重んじられるべきなのは質であって量ではない。なぜならば、人間性は量では測れない、質的な要素が多くを占めているからである。

経済は生きるための活動であり、経済の仕組みは、生きるために必要な資源を分配する事である。
その為の手段が「お金」であり、仕組みの一つが市場である。
分配の仕組みには、組織と市場があり、目的や思想に応じてどちらを活用するかは任意に選択され組み立てられる。どちらかが絶対という事はない。

今の政府は、労働は苦役だと思い込んでいる様に、決めつけている様に思える。
ひたすら労働時間を短縮し、休日を増やす事を考えているとしか思えない。

労働と言うのは自己実現の手段である。また、一己の人間として与えられている唯一の生産手段である。最大の財産ともいえる。
この事を忘れて労働を語る事はできない。

労働は、一人ひとりに与えられた権利である。自分に与えられた能力を最大限に生かして自己実現を計る。だからこそ、労働を強制されたり、思うように時間がとれなかったり、自分の意にそぐわない仕事をさせられる様な体制は否定されるべきなのである。
そういう意味では、職業選択の自由がない封建体制や全体主義体制は、批判されてしかるべきである。
しかしも反面に定年退職を強制したり、働く時間を一意的に規制したり、労働の評価を一元化したりするのは、労働者の権利をかえって阻害する事になる。

労働と言うのは、安全かつ衛生的で安心して働ける環境、労働条件を整える事なのである。
労働に対する適正な評価を保証する事が肝要なのである。

労働は、個人に与えられた究極的な生産手段である。財の源、始原である。
そして、労働の成果は、分配の根拠となり、報酬を保証する。

労働、評価、分配の流れは、経済の一側面を形成する。そして、それは、所得、支出、消費の流れに結びつく。
この流れは、家計に発して生産主体、財政を経由、また消費主体である家計に変える。
家計は、生産手段としての労働を提供する事で所得を得るのである。そして、所得は、支出を制約し、最終消費を形成する。

評論家や学者には、安売りが横行する事は、消費者にとっていい事だと無条件に奨励する者がいるが、消費者は、同時に、労働者であり、生産者であり、所得者であるという事を忘れてはならない。過当競争や生産の効率化が行き過ぎると雇用の減少に発展する事もあるのである。

完全雇用を前提とした議論は、完全雇用が成り立つ市場を前提としている。しかし、世界には完全雇用が成り立たない国が沢山ある事が問題なのである。

生産と消費が物を中心とした考え方であるのに対して、労働と分配は、人を中心とした捉え方である。また、労働と分配は、家計を根源とした捉え方である。そして、労働と分配は、所得と支出の元となる要素である。
家計は、労働力と言う生産手段によって所得と言う対価を得る。その所得の範囲内で生産財の分配を受けるのである。問題なのは、働いて所得を得る人口と分配しなければならない人口が一致していないという事である。全員が働いて所得を得ているわけではなく。限られた人の所得で多くの人が分配を得ている。つまり、所得は単純に個人に還元できない。所得は生活費でもある。一人の所得で何人が生活しているか、一律一様ではない。故に、所得の単位が個人であるのに対して、消費の単位が個人ではなく世帯となるのである。所得と消費の単位が違う事は、未婚者の増加の一因でもある。


所得と支出


貨幣経済下では、需要と供給、生産と消費、労働と分配を結び付けているのは、「お金」の流れである。
故に最終的に、所得と支出に収斂する。

所得と支出は、一体であり、表裏をなしている。所得は入りであり、支出は出である。
「お金」の出入りによって経済主体は機能する。
「お金」の出入り、即ち、入出金は、経済主体に内と外との境界線を画定する。経済主体の内と外の領域が確定される。経済主体は、内部取引と外部取引を成立させる。
経済主体は、無一物に初期設定されている。

一般に、経常所得、経常収入の範囲内で支出を抑えようとする。経常所得から支出を差し引いて余りがあれば、それを貯蓄に回し、経常所得や経常収入が不足した時にそれまで蓄えた貯蓄で補う。また、一時的な支出が嵩んだり、住宅や設備に投資する場合に蓄えを取り崩すのである。
ただ、通常は、経常収入の範囲内で支出をのが原則である。
この様な経常収入は、安定的に一定額が入金されることが望ましい。経常収入が不確実、一定していないと生活設計ができないからである。
もう一つ、定収がないと借金が難しいという問題がある。
故に、経済は、定職があって低収入が得られることが前提で成り立っている。
また、経済の安定的基盤は、経常所得と経常収入を中心にして考えられる。
経常収入は、収益の根拠である。
所得、収入は、分配の手段である。所得と収入、支出は「お金」によって実現する。「お金」は、分配の手段である。
ただし、経済の実体は、財の生産と消費である。生きる為に必要な財を生産し、それを消費者に分配する。それが経済の仕組み本来の目的である。
生産と消費の中間にあって生産と消費を結び付けているのが、分配の手段である「お金」である。
注意しなければならないのは、生産量と消費量は有限なのに対して「お金」は際限がないという点である。
分配の手段である「お金」は、割合が鍵を握る。生産と消費は、所得の分散と幅、平均によって決まる。分散に偏りがあり、分散の幅が大きすぎると配分に偏りが生じ、適正な分配が実現できなくなるからである。
後重要となるのは、所得の範囲内で生活の資源、財が手に入れる事が出来るかである。財の価値は価格によって表される。
こう考えると所得、物価、支出が経済の要なのである。

「お金」の出入りによって物の過不足を均衡させる仕組みが貨幣制度である。物の過不足を均衡させる過程で「お金」の過不足、資金の過不足が生じる。それを均衡させようさせる働きを活用して物の過不足を均衡させるのである。

入金と出金が経済を動かしている。個々の経済主体は、残高と入金と出金と残高という関係によって記録される。これが原点である。

日本の伝票制度には、三伝票制と五伝票制がある。この伝票制度は市場経済の働きを象徴的に表している。
三伝票制は、入金伝票と出金伝票、そして、振替伝票からなる。振替伝票は、内部取引の際に使われる伝票である。つまり、経済主体は、入手金と内部取引によって機能している事を三伝票制は表している。五伝票制は、入出金伝票、振替伝票の他に売上伝票と仕入伝票が加わる。この事は、売り買いを他の取引を区別する事を意味している。つまり、売れ上げと仕入れが市場取引の基礎を構成しているのである。
いずれにしても、「お金」の出入りだけが経済主体を動かす事が出来る。そして、「お金」が表象できるのは量だけであり、質は含まれない。質が含まれないから「お金」は、尺度しての機能が果たせるのである。

入出金は、内部取引と外部取引を成立させる。例えば、売上は、外部取引は、売りと買いが交錯する事によって成り立つ、取引の経済的価値の総計は相殺されてゼロ和である。それに対して、内部取引では、買いと売りが関連付けられる事で利益を上げる。売りと買いとを結び付けているのは財である。この事は、取引の実体は、「お金」ではなく財にある事を意味している。「お金」には、匿名性があるのに対して、財には、匿名性がなく、一般に個々の財は見分ける事が可能である。

内部取引は、付加価値を生み出す過程である。付加価値は、時間価値である。即ち、付加価値は時間の関数である。内部取引が付加価値を生み出す過程であるから、期間損益は、内部取引を測定する為に考案されたのである。それが会計制度の骨子である。

経済主体は、最初、無一物である事が前提とし設定されている。貨幣経済では、初期設定は、ゼロに設定される事を原則としている。
これは、経済主体全て、家計も、金融機関も、民間企業も、財政も海外部門も初期設定はゼロである。
故に、全ての部門は、資金調達から始まるのが貨幣経済の原則である。
資金を調達したくても全ての経済主体は、当初無一物である事が前提である。故に、何らかの権利や労力を担保して資金を調達するのが一般である。例えば、家計は、労働力を提供する事で資金を調達する。株式会社は、株主の権利を売って資金を調達する。金融機関は、預金という形で他の部門から借金をして資金を調達する。資金を調達し、中央銀行は、国民から与信によって紙幣を発券する事で資金を調達する。国家は、国債を発行するか税を徴収する事で調達する。
要するに融通手形みたいなものであり、お互いに貸し借りをする事で資金を最初は調達するのである。問題は何を担保するかである。会計上経済主体は最初無一物である事を前提としているから担保すると言っても無形の労力か権利しかないのである。
貸し借りは、「お金」の流れに沿って同量の債務と債権を発生させる。
体が資本というがなにも担保せずに資金を調達できるのは、労働力だけである。

基本的には、部門間の貸し借りによって資金は作られる。つまり、貨幣経済は、借金から始まるのである。経済を動かしているのは、「お金」の貸し借りに始まる揺らぎである。この揺らぎが収束すると経済は、動かなくなる。この働きは熱力学のエントロピーに似ている。

「お金」の働きは交換にある。「お金」は、交換価値を象徴した物である。
「お金」の働きは、量的なものであり、質的なものは含まない。質は、物にあり、あるいは、人が生み出すのである。
「お金」の本質は、情報であって、「お金」その物に価値があるわけではない。
故に、取得と支出で問題となるのは、総量とお金の流れた先と速度、回転である。
そして、所得と支出は、資金の流れを生みと同時に、資金の過不足を生じさせる。

そして、入金と出金による資金の流れによって生産と消費、労働と分配、需要と供給は結び付けられる。資金の流れは一筋であるから、全ての取引の経済的価値はゼロ和となる。即ち、生産と消費、労働と分配、需要と供給は市場取引によって均衡する。

所得と支出は売り買いによって実現する事を基本とする。
何によって収益を得て何に支出されるか、それが経済の基本である。

所得と支出は、内的な取引を生み出す。経済主体と取引相手との間では同量の価値の交換となるが、内的には所得と支出は一致しない。
所得から支出を引いた残りが残高として貯蓄される。所得に対して支出が多く、残高が不足した時は、他の経済主体から借りるか、貰うかしなければならない。残高がなくなれば経済行為は持続できなくなる。そういう仕組みなのである。

資金の過不足の偏りを均すのが金融の働きである。ただ、金融機関の働きは、資金の過不足を貸し借りによって是正する事であり、資金の偏りそのものを矯正する事ではない。資金の過不足を直接矯正する手段は税である。
資金の過不足は、貸借上に蓄積される。

資金の働きには、長期的働きと短期的な働きがあり。資金の働きは、資金の動きによる。資金を動かすのは、資金の過不足である。
短期的な資金の働きは、フローを形成し、長期的な資金の働きはストックを形成する。


需要と供給


バブル崩壊後の長い景気停滞で問題とされたのは、過剰設備、過剰雇用、過剰債務である。この三つの過剰を解決しないとバブルの後遺症から立ち直れないと言われている。では、過剰、過剰というけれど何を基準として過剰とするのか、それが問題なのである。
過剰か、不足かを測る基準は、需要にある。いくら財を生産してもその財に対する重要がなかったり、不足したら、財は過剰になる。
過剰設備にせよ、過剰雇用にせよ、過剰債務にせよ、根本は需給関係にある。需要を供給が上回れば過剰であり、需要を供給が下回れば不足している。そして、需給関係が現在の経済の根幹を構成しているのである。

経済を成長、発展させる要因は何か。先進国と言われ、経済が発達した国と経済がいつまでたっても全段階にとどまっている国との差はどこにあるのか。それがわかっているようでわかっていない。
第一に言えるのは、資源が豊富で、また、農業や漁業の様な生きていくために必要な産業が盛んな国なのに必ずしも経済が発展していないのに、資源に恵まれずに農耕などには適していない、産業らしい産業がないのに経済が発達した地域もある。
それは、経済を発達させる一番の要素が交易にあるからである。交易の要に位置すれば経済は、発達する。では、交易とは何によって生成発展するか。交易は、需給関係によって作られる。そして、需給関係の基にあるのが需要なのである。
もう一つ、経済を発展させるために、重要な要素は、仕事である。供給が仕事を生み出す。その仕事が、需要を掘り起こすという事で、供給を重視する思想もある。しかし、その思想も核となるのは、需要である。なぜ、仕事が重要となるのか。それは、仕事が所得を生み出すからである。需要と所得が結びつくことによって経済は、成長発展するのである。

現在の市場経済は、需要を基礎に成り立っている。需要とは必要性を基としている。
経済の成長を引っ張っているのは、需要である。近年、供給を重視する傾向が出てきたが、需要がなければ、いくら供給力を強めても経済は活性化できない。
この点を錯覚している人が多いように思える。供給力を強めるのも潜在的な需要を発掘する事が目的なのであってただ供給力を強めればいいというのはお門違いである。

需要と供給関係が財の経済価値を定める。
経済的価値とは、物価、物の値段である。そして、需要と供給は、売上に反映される。
我々は、企業業績を見る時、売上に注目する。しかし、売上は、名目的価値であり、実質的価値は、物の数量や顧客数などにある。
売上を表す数量は売上高だけではない。売上数量や顧客数なども売上を表す数字である。
需要を表す数量も売上高だけではない。販売数、消費量、人口、市場規模等数多くある。
供給を表す数字も生産量、商品在庫量、原材料の在庫量、仕掛品の数量、生産能力、操業度などがある。
需要と供給は、実体的に把握しないと理解できない。

市場で財の価値を決めるのは、需要と供給である。需要は財の必要性に基づき、供給は、財の生産力に基づく。
市場取引では、財の経済的価値は、需要と供給の力関係によって市場取引で決定される。

財の経済的価値を定めるのは、財の需要量と供給量、そして、「お金」の総量である。需要は人的量で供給量は、物的量、「お金」の総量は、貨幣的量である。つまり、経済的価値を決めるのは、人、物、金の三つの要素である。

需要と供給を生み出すのは、基本的に財の過不足である。

需要と供給は、広い意味にとらえれば、人にも、金にも、物にもある。しかし、需要と供給は、本来、物の中心概念である。需要と供給は、「お金」、即ち、価格によって測られる。しかし、「お金」は、尺度であって需給そのものを意味しない。「お金」の需給はまた違う意味で用いられる。
ただ、経済の根本は、物の需給で決まる。

生産と消費も本来的に物を根拠とした概念である。経済の実体は「お金」ではなく、人と物にある。

需要と供給の背後にあるのは、生産と消費であるが、ではなぜ、生産と消費と言わないのかと言うと生産と消費、需要と供給が必ずしも一致していないからである。
需要を決めるのは消費であり、供給を決めるのは生産であるが、生産量と供給量は同じではないし、供給量と供給力も同じではない。同様に需要量と消費量は必ずしも一致していない。
生産量と供給量に差が出るのは、生産されたもの総てを市場に供給できない事情があり、消費が全て需要に反映されない事情がある。
その事情の要因は、第一に、物理的理由がある。第二に、時間的理由がある。第三に情報の非対称性がある。
物理的理由とは、物流の問題がある。つまり、生産したものを市場に供給するためには、市場まで運搬したり、貯蔵したりしなければならないが物を運んだり、貯蔵するための許容量を生産量が越えてしまうと生産量より供給量が少なくなってしまう。同じ理由で時間的な制約を受ける場合がある。また、生産設備がいくらあっても操業度によって生産が抑制される場合がある。
需要の全てが消費に回されるのではなく、一部が貯蔵されたりする。
また、情報の非対称性によって生産の全てが必要な時に必要なだけ必要な場所に供給されていないと言う点にある。同様な事は、消費と需要の関係にも言える。
この様に、需要と消費、供給と生産は必ずしも一致しているわけではないが、基本的には、需要と供給の背後には、生産と消費がある。

問題は、今日の需要と供給は、生産側の都合によって作られた需要であったり、供給であったりするという事である。それは生産体制が大量生産によるという事に起因している。本来は、需要が供給を制約するのだが供給によって需要が作られる事が増えてきた。それは、一度生産設備を作ったら操業度によって経済的価値が左右されるからである。それが経済本来の姿を歪めてしまっいてる。つまり、大量の無駄なを生み出し、浪費の原因となっているのである。

景気のために経済があり、金儲けのために事業があるといった本末転倒な状態が常態化してしまっている。金儲けはあくまでも手段であって目的ではない。

需要を決めるのは、人である。人が何を、何時、どれくらい、どの様に求めているかによって需要は決まる。
供給を決めるのは、物である。何をどれくらい生産できるかが供給を決める。
値段を決めるのは、金である。需要と供給に対してどれくらいの「お金」が準備できるか、支払えるかで値段は決まる。
故に、需要で決定的な要素は人口である。供給で鍵を握るのは、供給力、生産量である。値段を左右するのは、通貨の流通量、総量である。

経済が発展成長発展させる要素は、需要と所得とが結びつく事である。これが経済発展した国と経済発展できない国の決定的な差である。
また、経済が成熟した国が陥る罠でもある。つまり、いくら資源があっても需要がなければ、経済発展は望めないし、また、需要があっても所得がなければ経済発展はできないという構図がある。

競争力がないから経済が発展しないのだとひたすら生産性の向上に努め、それがかえって経済の活力を削いでいる事に多くの先進国は気が付いていない。それが先進国が斜陽する原因なのである。
過剰な供給によって市場が飽和状態に陥り、需要が減退し、さらに、市場の成長に合わせて生産性を向上させた結果、所得が減少することで経済が衰退しはじめているのである。つまり、市場の成熟が需要と所得の両方を弱めてしまっているのである。
いくら競争力をつけても、生産性や効率を高めても結果的に需要を減退させたり、所得を失わせたら本末転倒なのである。
新興国が経済発展をする契機は、新たな市場の出現により需要が喚起され、それによって仕事が増えて所得が上昇する事による。基本的に経済成長を引き起こすのは余剰生産である。余剰生産された部分が所得を結果的に高めるのである。その捌け口があるうちは、経済成長は続くが、余剰部分が本であるから、いずれは市場は飽和状態に陥って頭打ちになるのである。
真の経済発展の鍵は市場が飽和状態になった後の構造的転換にかかっている。市場が飽和状態になると需要が量から質へと変化していくからである。その変化に適合できれば、質の高い経済に止揚できるが、適合できなければ経済は衰退していく。
量的拡大は、質的変化を促す。
今の日本は、ひたすら、規制緩和と競争を煽る事によって市場が成熟したというのに、量のみを追求している。その結果、経済は、衰退へと向かっているのである。

収益と費用


収益と収入、費用と支出は同じではない。
収入と支出は、単純に終始関係と残高から導き出される。それに対して収益や費用は、その背後に、貸借関係と資本が隠されている。つまり、収益や費用は、資産、負債、純資産との相互関係の上に成り立っている。

収益と費用は、損益を形成し、資産、負債、純資産は、貸借を構成する。
損益はの基礎はフローであり、貸借の基礎はストックである。
つまり、損益は、フローの働きを貸借は、ストックの働きを表している。

費用は、下方硬直的である。費用の上昇は収益に先立って起こり、費用を削減するにしても収益に追従して起こるという性格がある。
資産にも、価値がなくなっていく資産と価値が残り、価格が変動する資産がある。前者は、価値を償却しなければならないが、後者は、資産価値を継続的に計測し続ける必要が出てくる。償却資産は、減価償却費として減価する部分が費用計上されるのに対して資産化される部分は、資金調達における担保となる。資産価値が上昇している時は、資金調達力を増加させる作用があるが、一旦、資産価値が低下し始めると資金調達力を削ぐ作用がある。
金融資産のように名目的価値に依拠している様な資産もある。名目的価値とは、取引額、あるいは、簿価をさす。

収益と費用の関係は一定ではない。経済環境や前提条件によって変わってくる。

収益は、市場経済の柱である。収益を蔑ろにしたら市場は荒廃する。世の中の風潮は、収益をあまり尊重していない。ひたすら、収益を圧縮させ陽とする施策がとられている。市場経済のもう一方の柱が費用である。費用に対する見方も冷たい。収益を軽視する風潮は強いが、費用に至っては、蔑視どころか、無駄無用として限りなくなくしてしまえ、あるいは、費用の根幹である人件費をなくして無人化してしまえという考えが大勢を占めつつある。だから市場から活力が削がれていくのである。

今日、市場経済が行き詰まりを見せている原因は、利益至上主義にある。利益ばかり追求してきたから経済が回らなくなったのです。利益は指標にすぎない。
肝心なのは、収益と費用の関係である。利益は、費用対効果を測る指標である。重要なのは、収益と費用の内容である。ひたすら、費用を削減していったら、所得が圧縮されてしまう。所得は分配の要であるから、経済は、縮小均衡へと向かう。それは、利益を目標としているからである。利益は、指標であって目標ではない。
基本的に負債は、収益の範囲内で解消するのが原則である。しかし、長期借入金の返済額は、費用計上されない。その為に、資金繰りと利益が一致しないのである。このこと自体が問題と言うより、この事を正しく認識していない事が問題なのである。
利益以上に利益を得る為の過程が重要となる。

現状、利益が第一で、収益と費用、費用対効果などを吹っ飛ばして、利益さえ上げればいいという考え方が主流になりつつある。しかし、忘れてはならないのは、利益は、適正な収益と費用を導き出すための指標に過ぎない。
市場経済の根幹は、収益と費用である。そして、費用は、経済の中枢である分配を担っているのである。拡大均衡か縮小均衡かで収益や費用に対する認識にも差が出る。

市場の状態、前提によって収益と費用の関係にも差が生じる。

成長期の市場と成熟期の市場、衰退期の市場では、収益と費用の関係は全く違ったものになる。
成長期は、市場が拡大しているから、その分費用の増加にも寛容になれる。人件費の増加も収益の拡大が吸収してくれる。しかし、市場が成熟し飽和状態に陥ると費用の増大を吸収しきれなくなり、費用を削減する事によって利益を確保しようとする。

市場も成長期においては、競争をしていれば一定の成績が期待できたが、市場の拡大が止まり、逆に収縮しだすと競争から闘争へと販売の仕方も変わってくる。

成長には、成長するための経費が掛かる。成熟して基盤が出来てくると成長にかかる経費がいらなくなる。その為に、惰性でも一定の利益は確保できるようになる。
経済が成熟したら、何もしなくても儲かるようになる。むしろ何もしない方が儲かるようになる。しかし、何もしなければ、衰退を準備する事になる。だから、人は足掻くのである。

むやみやたらに経費を削減したり、成長のための投資を怠れば、経済は、発展の余地がなくなる。現在の日本が落ち込んでいる状態は市場が成熟したからである。それを成長期のまま、あるいは成長を前提とした政策を惰性でとり続ければ、結局、衰退を準備する事になる。

適切な収益と費用を維持するためには、市場の仕組みを整えて規律の保てるようにすべきなのである。
その為には、市場を適切な規模に維持する必要がある。

経済的価値は、絶対的価値ではなく。相対的価値である。だからこそ相互牽制を聞かせるために競争が必要なのである。しかし、それは無原則な競争であってはならない。一定のルールの基に統制された市場であるべきなのである。ルールのない争いは、競争ではなくて闘争である。
百チームでは多すぎるし、一チームではゲームは成り立たない。二チームでは勝負にならない。どれくらいの競技者の数が適正なのか、それが問題なのである。




フローとストック


ストックは、ある時点における貯蓄、貯蔵品の残高である。フローは、ストックを変化させるある一定期間の経済活動を言う。ストックには、人的要素、物的要素、資金的要素がある。
フローは、財と資金の流れによって構成される。フローの歪はストックに集積される。
そして、フローは、金利や負債の返済、地代、家賃、運転資金、人件費などの維持費用と言った付加価値や費用、時間価値などストックから派生する要素によって制約されている。

故に、ストックで重要となるのは、配分と比率であり、フローで重要になるのは、幅とストックとの関係である。それを現しているのが期間損益である。

注意しなければならないのは、フローとストックにも、人、物、金がある点である。人のストックは、人口や労働力を意味し、物のストックは、生産力や在庫、資源の埋蔵量を意味する。

現代人は、資金が生み出すフローとストックに目を奪われて人や物のフローやストックが作り出す空間や構造を見落としがちである。
少子高齢化を問題とするが、根本的に人口や人口構成が経済に与える影響、金銭面だけでなく、人間関係や社会構造などに与える影響をどう受け止めて、どう対応していくかを明らかにする必要がある。少子高齢化は問題だ。温暖化は大変だと騒いだところで何の解決にも結び付かないのである。
まず、基礎となる人や物のフローとストックを明らかにし、是々非々を論じる前に、きちんと自分の考えをまとめる事である。周囲の人間が少子高齢化は問題だと言えば少子高齢化は大変だと騒ぐのではなく、大体、中国が少子高齢化したのは、一人っ子政策の結果であり、一人っ子政策を採用した時は、人口爆発の方が深刻にとらえられていたのである。温暖化問題も付和雷同するのではなく。まず自分のよって立つ思想を明確に持つ事である。
経済の実体は、人と物にある。「お金」の問題で人と物本来の在り方を変えてはならない。

ただ、貨幣経済においては、資金の過不足、資金の流れ作り出すフローとストックが市場の基礎を作る。まず、資金のフローとストックの関係を明らかにする。

フローは、単位期間の資金の過不足を現す。単位期間の資金の過不足は、貸し借りによって補填される。貸し借りは同量の債務を発生させる。債務は、蓄積され、ストックを形成する。る。故に、単位期間内の資金の過不足の量と貸借の量は一致する。
資金の過不足は、貸借によって補填されストックを形成する。債務は、金利として時間価値を形成する。
ストックは、金利と元本の返済の二つの流れを作り出す。
金利は、時間価値を形成する。金利は、債務の元本に対する利率であるから元本の大きさに比例して大きくなる。債務が増加すると時間価値を圧迫するようになる。
元本は、期間損益に反映されない。問題は、元本の返済が表面に現れてこない事である。資金移動の大きな部分は、債務の増減が占めているからである。



フローは国民経済計算書 ストックは資金循環表

短期の資金の過不足は、長期の資金の過不足に累積する。長期に資金の過不足は、金利としてフローに現れる。故に、金利は、短期の過不足によって制約を受ける。可処分所得を支払利息が上回るようになると借入金制御できなくなる。

  
フローは国民経済計算書 ストックは資金循環表

フローは、期間損益を構成し、ストックは、貸借を構成する。
また、キャッシュフローにおいては、営業キャッシュフローがフローの働きを表し、投資キャッシュフローと財務キャッシュフローはストックの働きを表す。

短期資金の働きによって生じた資金の過不足は、長期資金に貸し借りとして蓄積される。貸し借りは、債務と債権を構成する。
短期資金の働きは、フローを形成する。フローは、収益と費用の基となる。長期的資金の働きは、ストックを形成する。
債務と債権は、金利、減価償却費を派生させてフローの働きを制約する。このフローとストックの関係が資金の流れ前提の働きを制約するのである。

フローは、付加価値を形成し、ストックは、付加価値の基礎を形成する。
利益と金利は、投資対効果を表し、減価償却費は、設備投資を元として計算され、運転資金は、資金繰りを反映している。
即ち、利益は、収益と費用の関係から導かれ、支払利息は、長期借入金、債務の働きを反映し、減価償却費は、投資、即ち、債権を反映し、運転資本は、売上と仕入れの関係を反映している。仕入と在庫は、原価に反映される。

経済の均衡は、フローとストックの平衡にある。ストックが大きくなるといわゆるレバレッジ、「てこの原理」が働き利息が上昇する。利息が上昇すると必然的に利益を引き上げ、名目的な収益も上昇する。それは、所得や物価に反映し、インフレーションを引き起こす要因となる。

ストックの働きで重要なのは、率と幅の関係である。ストックの厚さが率に働き、幅を押し上げるのである。

長期的資金の働きは、経済成長の原動力となる。
鍵を握るのは、民間投資、民間消費である。

紙幣の元は、債務である。国債は政府の債務である。紙幣の源は、国債である。紙幣は、預かり証書であり、借用証書である。

発券機関は、無制限に紙幣を発行しようと思えばできる。本来紙幣の根拠は借金なのである。問題は、誰から発券機関は、借金しているのかである。それは、借用証書の相手先、つまり、紙幣の使用者である。紙幣の使用者とは、言い換えれば国民である。国民であるけれど、紙幣は、交換する代物がない。かつては金貨との交換が約束されていたが、現在は、約束されていない。何を担保しているかと言うと国家の信用である。
極論すれば国家は、国債に頼れば税金もいらなくなる。しかし、なぜ、国家は、税金を徴収するのか。実は、そこに現在の貨幣制度の本質があるのである。

なず第一に、税と言う還流機構がなくなれば、政府は、通貨を制御する権能も手段も失う事になる。第二に、貨幣の働きは、尺度だという事である。尺度は、単位があって成り立っている。単位は、区切りであり、何らかの基準に基づいて全体を設定しなければ、単位を区切る事が出来ないという事である。第三に、税による所得の再分配をしないと蓄積された資金の過不足を解消する事が出来ないという事である。資金の過不足は、一方的に蓄積する傾向がある。蓄積された資金は、資産格差の要因となる。資産格差は、社会的不平等や階級の原因となる。
それ故に、ストックの偏りを是正する様な機構を経済の仕組みの中に組み込むと同時に、税と言う強制力によって資金の過不足を是正する必要があるのである。ただ、税と言うのは、権力的手段である事を忘れてはならない。個人の財産権や所有権に常に抵触した権能だという事を忘れると基本的人権を国家がないがしろにする事にもなりかねない。税は両刃の剣なのである。
第四に、資金の過不足は部門間に生じるという事である。部門間の資金の過不足は、税という強制的手段でしか是正できない部分がある。例えば家計に蓄積された資金を財政に移動させる手段としては、税が最も直接的で速く効果が表れるという点である。
第五に財政資金の調達を借金に依存すると紙幣の流通量が一方的に増加し、制御する事が出来なくなると言う点である。つまり、最初から資金の流量を制御する事を放棄する事を意味している。物価は、需給関係と流通する通貨の量によって定まる値であるから、通貨を一方的に増やすような仕組みにしてしまったら、物価の暴走を止められない。
第六に、政府が通貨を循環させる仕組みの中に組み込まれていなかったら、貨幣制度に対して、つまり、経済に対して何の関係も果たせない、役割も影響も持てなくなる。つまり、税制度があるから、政府は、経済を制御する事が出来るのである。

紙幣は、社会全体の負債を形成する。それ故に、紙幣の発券は、厳しく制限され、管理される必要があるのである。

フローとは、経常的な資金の移動が観測される事象である。フローは、現金主義からみると収入、期間損益からすると収益として認識される。ストックを解消する手段は、フローにしかない。この点を忘れてはならない。

財政問題などで負債の対極に資産があるのだから、それを相殺すればいいといった意見もあるが、これは暴論である。
財政は、家計や非金融法人と違って通貨の発行券があるのだから、収入がへったら紙幣をどんどんすればいいというのは、一面しか見ていない。そんなことをしたらストックは、フローとかかわりなく際限なく膨張してしまう。それがいくいくは、フローを締め付けてしまうのである。
例えば、住宅ローンを組んで家を買たら家という資産があるから、借金はないの等しいと言っているような事である。現実は、家のローンは、所得の中から返済されているのであり、返済が滞れば家を取り上げられてしまうのである。家は担保でしかなく、使用価値は、約定通り、所得から返済されている事が前提なのである。だとしたら、所得をいかに維持すべきかが鍵なのであり、ストックどうしを相殺したところで、フローを悪くするだけである。

フローは、部門間の過不足によって流れる方向が定まる。故に、部門間の歪を是正する事で、フローを調整しないと抜本的な解決には結びつかない。

一般に貨幣価値を位置エネルギーとしてとらえがちだが、貨幣は、運動する事によってその効力を発揮する事を忘れてはならない。つまり、いくら手元に残っているかではなく。いくら使ったかによって経済的効用は測られる。部門間の負債を相殺しても経済的な効用は得られないのである。
資金の流れは、部門間を経由する度に要素を変換する。例えば、家計に所得として流れる事で生産手段としての労働力を引き出す。家計から企業法人に支出として流れる事で、企業法人から資金を財に変換すると言うようにである。


経済は、現金収支上の赤字主体と黒字主体がある事で動いている


経済を動かしているのは、資金の過不足である。資金の過不足が資金の流れを作るのである。
では資金の過不足は、なぜ生じるのか。

資金不足が生じるのは、手持ちの「お金」に対して支出が上回るからである。逆に、手持ち資金を支出が下回れば資金は余剰になる。
手持ち資金の資金源は、預金と所得による。資金が不足した場合は、誰からか貰うか、借りるしかない。そして、余った資金は、誰かに預けるか、貸すことになる。これが、自由主義経済の原則なのである。

負債は、負の概念の上に成り立っている。現在の経済は、資産と負債の均衡の上に成り立っている。正と負は、何らかの基準に対して過不足を言う。負と言う概念は、何らかの中心点が定められることによって成立する概念である。中心点が定まるとその中心点に対する方向が生じる。つまり、正と負と言う概念は、方向と強く結びついた概念でもある。
ひれは、負債を考える場合、重要な前提となる。
経済的な負は、対極に同量の正の存在を想定する事で成り立つ概念であり、その中心点の違いによって現金収支と期間損益の差が生じる。
現金収支は、取引における財が表す方向を正とし、「お金」表す方向を負とするのである。
経済を動かしているのは、資金の過不足である。資金の過不足は、正と負の揺らぎを生む。その振幅が経済を動かしているのである。

経済ではボラティリティ(volatility)、幅が重要な意味を持つ。その幅の根拠が差なのか率なのかで経済に対する見方は変わる。早い話、単利的か、複利的かの違いが好例である。単利的世界は、差を基礎とした世界であり、複利的世界は、率を基礎とした世界なのである。この違いは、決定的な差になる。

いくら財産を持っていても会計に計上されていない物は経済的価値が認められていない。つまり、会計制度の上に立つ市場経済上は無価値である。
資金の過不足によって市場が動く以上、資金不足主体と資金余剰主体が生じる。現金収支上、資金不足主体は赤字主体であり、資金余剰主体は黒字主体である。

経済は、赤字主体、即ち、資金不足主体と黒字主体、即ち、資金余剰主体があって資金は流れる。
また、売り買い、貸し借りがゼロ和であるから、現金収支上の赤字主体が生じれば必ず黒字主体が生じる事となる。
そして、資金不足主体と余剰主体とを取り持つのが金融機関である。

赤字、黒字と言っても期間損益上の損失か、利益かという意味と借越か、貸越かという意味がある。

一般には、黒字が正しくて赤字が悪いと言った思い込みがあるが、黒字か、赤字かは、位置の問題であり、善悪の問題ではない。黒字主体が必要なように赤字主体も必要なのである。黒字主体というのは、資金余剰主体であり、赤字主体は、資金不足主体である。
また、損益上で赤字だとしても、赤字がいいか悪いかは、赤字になる原因によるのである。一概に赤字だから悪いとは言い切れない。

赤字主体と黒字主体が交互に周期的に入れ替わる仕組みがを採用するか、恒久的に変化しない体制を全体とするか問題である。ただ、赤字主体と黒字主体を固定的なものとした場合、どこかの時点で清算しなければならなくなる。それが戦争のような暴力的、破壊的手段に選らなければならない場合も生じる事を覚悟する必要がある。

資金不足主体と余剰主体とは均衡している必要がある。
不足主体と余剰主体を均衡させる手段は貸し借りである。

市場取引は、貸し借り、売り買いで成り立っている。貸と借り、売りと買いは均衡している。故に、市場取引の総和は常にゼロである。
故に、赤字主体と黒字主体は常に均衡している。ゼロ和なのである。

資金の過不足を調節する機関が金融機関である。
余剰資金を持つ経済主体から資金が不足している経済主体へ資金を融通するのが金融機関である。

借りて不足の場合、金融機関が借り手になり、貸し手不足の場合は、金融機関が貸し手となる。現在の市場は、借り手不足である。故に、金融機関が借り手となり、更に、不足している部分を政府が借り手となって補っているのである。この兆候は金融機関の預貸率となって現れる。


部門間の資金の過不足が経済を動かしている


市場を動かす力は、部門間の資金の過不足によっておこる。部門間の資金の過不足をもたらすのは、資金の動きである。

市場で資金を動かすのは、取引である。取引には、売買取引と貸借取引がある。資金を移動させる行為には、他に、税と給付と贈与がある。
ただ、市場で資金を動かす力は、基本的に売買取引と貸借取引による。

売買取引も貸借取引も基本的には時間の関数であり、時間価値によって形成される。
市場には実質的市場と名目的市場がある。実質的市場は、売買取引からなる。名目的市場は、貸借取引によって形成される。
実質的市場は、家計、企業、一般政府、海外部門からなる。名目的市場は金融市場である。金融市場は、各部門の基礎を形成する。
実質的市場と名目的市場は表裏関係にある。

実質的市場は、短期的資金の働きにより、名目的市場は短期的資金の働きからなる。

個々の部門の短期的資金過不足は、貸借によって均衡する。貸し借りは、長期的資金に蓄積される。
長期的資金は、時間価値の元金となる。時間価値は、元金と利率の積として表せる。
時間価値は、所得によって制約を受ける。

基本的に市場は、家計、企業、一般政府、海外部門がゼロ和で均衡している。しかし、財政が均衡を保てなくなると金融市場が異常に拡大する事がある。金融市場の拡大は、損益上の不均衡が貸借上に及ぶことを意味する。貸借上の不均衡は、長期資金の働きが短期資金を圧迫する事を意味する。それは時間価値の働きを弱めてしまう。

つまり、所得で不足する部分を借り入れで補う事を意味するからである。それが講じると暴力的な力によって貸借関係を解消せざるを得なくなる。それが一番避けなければならない事態である。

経済を動かす力は、部門間の資金の過不足によって生じる。資金の過不足を産むのは、資金移動である。
景気の波と状態を見るためには、資金の過不足の振れ幅と部門間の動きを見てみる事である。
バブルが形成された1988年から1991年の間、景気が拡大していたのがわかる。バブルが拡大している時は、そして、民間企業が資金不足に陥っており、逆に、一般政府には資金が余剰にあった事を表している。バブルが崩壊後1992年から1996年にかけて景気が縮小しこの間大きく一般政府が資金不足に陥っている事がわかる。逆に民間企業は、余剰式が拡大している。この傾向は以後持続する事になる。この点を鑑みれば何が財政赤字の原因かが明確となる。
ただ、なぜ、民間企業が資金余剰になっているかを理解しないと部門間の歪は解消できない。部門間の歪が大きくなった時にどのような政策をとられていたかが謎を解く鍵となる。



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バブル崩壊するまでは、家計が資金の余剰主体を一手に引き受けていた。プラザ合意後、一般政府が資金余剰主体となり、バブル崩壊まで資金余剰主体だった。この時、一時的に財政は改善の方向に向かった。
ところがバブルが崩壊すると一転して資金不足主体になる。

つまり、円高が昂進し、バブルが拡大している時、財政は健全な方向に向かっていたのである。ここに財政を黒字化するための方策が隠されている。むろんバブルを起こせというのではない。バブルが形成されていた背景を単に否定的にとらえるだけでなく客観的、公平に検証する必要があるというのである。
何が何でもバブルは悪いと決めつけてはいないだろうか。その点でいえば背景として円高が昂進したと言う点も見落としてはならない。円高は悪いというのも根拠なき決めつけではないのか。逆に円安にすれば財政は改善するというのも思い込みかもしれない。問題は、前提となる状況、条件をどう評価するかである。
いい点もあれば悪い点もある。それは結果が示している。我々は歴史から学ばなければならない。


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民間非金融法人は、バブル崩壊まで資金不足主体だったのがバブル崩壊後黒字主体へと急速に変換していく。
1999年にゼロ金利まで金利が低下しても資金を外部から調達しようとする動きは見えてこない。
非金融民間企業が資金余剰主体となったのは、結果論である。つまり、資金余剰主体になりたくてなったわけではない。
地価が下落して資金調達力が低下し、外部からの資金調達が困難になったから投資を控え、資金を内部調達した。内部調達と言うのは、減価償却費、内部留保の取り崩し、そして、もう一つ忘れてはならないのは、経費の削減である。バブル崩壊後合理化がすすんだりである。
また、この事は、金融機関の収益力も低下させた。

民間企業の財務体質の改善が不況期、つまり、収益力が低下している時に実現したという事実も見落としてはならない。
個々の企業が財務体質を強化しようとしたことが財政を悪化させ、経済政策を抑制させ、景気を停滞させたと言える。
しかも、企業の財務体質の改善を促したのが、金融機関であり、行政だと言う点である。これは、悲劇を通り越して喜劇的ですらある。自分たちの採った政策が金融も行政も経営を悪化させる一番の要因となったのである。



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家計は一貫して黒字主体である。問題は、その黒字幅だが、バブル崩壊前後を頂点として急速に黒字幅を縮小していく。家計が黒字幅を圧縮されている背景には、非金融法人の黒字幅の増加がある。
家計の黒字が他の部門の資金不足を補填してきたともいえるし、逆に、他の部門を資金不足にしてきたともいえる。これは捉え方の違いである。
ただ、景気の拡大は、資金の過不足の振れ幅による事を考えると家計の黒字が悪いとは言いけれない。ただ、一方的に累積すると時間価値を圧迫するようになるという事だけは注意すべきである。
バブルの形成期に大きく黒字化している事にも注目してみる必要がある。

家計が黒字主体であり続けるのは、家計が現金主義に立っているという事が考えられる。現金主義であるが故に、残高主義てもある。残高主義というのは、所得の範囲内に消費は、抑えられ、一定の残高を保ち続ける事が要求される。残高は、必然的に貯蓄に向けられるから家計の貯蓄は、望むと望まない関わらず累積していくことになる。家計の貯蓄が切り崩されるのは、年金生活に入って収入に限りが出始めてからである。
つまり、常に、家計部門は、現金残高を持ち続けなければならないようにできているから家計の黒字は減る事がないのである。



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海外部門は、80年代に入って資金不足主体へと転じていく。海外部門の資金不足も民間企業の余剰資金体質への転換と無関係ではない。
財務体質の改善が必ずしも景気を良くするわけではない事の証である。
何が海外部門の資金不足を招いているのかを見極める必要がある。その点で、大きく海外部門の資金が不足したのが大規模な為替介入をした時だというのがヒントになるかもしれない。



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ここで示しているのは、フロー即ち、資金の過不足の増減を示しているが、単年度の資金の過不足は、貸借によって補われる。そして、債権、債務として長期資金に蓄積されていく。
長期資金に蓄積された債権、債務は金利として時間価値に反映される。時間価値は利率として表現されるが、債務の増加は、利率を圧迫する。金利は、1991年にバブルが崩壊した後、1999年にゼロ金利に、そして、2000年には非金融法人が外部資金調達から内部資金調達へと資金の流れが転換し、収益は、横ばいなのに、自己資本率は上昇し、総資本回転率は、低下し一回転を割り込むようになる。拡大均衡型経済から、縮小均衡型経済へと移行していったのである。




自由経済は貨幣制度を基礎として発達した



貨幣制度を土台にしているという事は、貨幣経済を基盤としている事を意味する。貨幣経済は、お金を循環させる仕組みによって成り立っている。
お金が流れていない所では、貨幣経済は成立しない。貨幣経済が成り立つ為には、経済体制に属する部分には、隅々にまで貨幣が行き渡っていなければならない。先ずこれが前提となる。
貨幣経済が成立する為には、全ての生産財は、一旦、貨幣価値に換算されている事が前提しなる。貨幣経済体制下では、貨幣価値に換算されていない対象は経済的価値をもたない。

自由主義経済は、市場経済を基盤としている。かつては、市場経済と貨幣経済は別々の体制であったが、今日では、貨幣経済と市場経済は表裏一体の関係にある。
貨幣が流通する所に市場空間は形成される。

貨幣経済は、段階的に発達する。その段階ごとに個別の問題がある。
黎明期では、「お金」を流通させ、浸透させる事が主となる。市場に広く貨幣が出回っていないと貨幣制度は正常に機能しない。また、消費者が必要な資金を所持していないと貨幣制度は成り立たない。そして、消費者がお金を支出しなければ市場は成り立たない。また、絶え間なく、消費者に資金が供給され続けなければ市場は機能しない。更にすべての経済的価値は、一旦市場で現金化される必要がある。これらが貨幣制度が成立するための前提条件である。
故に、貨幣制度の初期の段階では、先ず資金が市場に満遍なく行渡るように仕向けなければならない。
この段階では、狭い範囲でお金が流通する為に、資金が過剰になったり、不足したりする。それがインフレーションやデフレーションを引き起こす原因となる。この段階で鍵を握るのは、国債、税制、通貨の発行権である。

市場取引によって経済的価値を換金する。その前提となるのは、租税の金納であり、それ故に、貨幣制度にとって税制度の在り様は、決定的な働きをする。

成長期に入ると今度は、貨幣を社会全体に浸透させる必要がある。その為に効果的なのが公共投資や戦争である。残念な事に戦争は、貨幣制度の確立にとって決定的な働きをしている事が歴史的には度々ある。
もうひとつ成長期において重要な働きをするのが民間投資や住宅投資である。民間投資や住宅投資といった投資によって資金は市場に供給される。

成熟期に入ると次に重要になるのは資金を循環させる事である。
投資は、更新投資や再投資と言う形をとるようになり、市場に流通する資金の量は、一定に保たれるように制御する事が求められるようになる。この段階では、雇用の確保と雇用の質が重要になる。気を付けなければならないのは、雇用の質や投資の質は、成長期とは質が変わっているという事である。

また、成長の段階に応じて部門の資金状態、資金の余剰主体か資金不足主体かも変化していくという事である。

貨幣制度を土台としていると言っても貨幣制度は目的ではない。貨幣制度は手段であって、主だはなく、従である。貨幣制度というのは、あくまでも裏方である。貨幣制度によって経済制度が支配されたら、貨幣制度は本来の役割を果たせなくなる。

貨幣制度というのは、市場を機能させたり、財を分配させたり、人々の生活を成り立たせるための手段なのである。
ところが、貨幣制度が浸透するにしたがっていつの間にか経済が貨幣制度に振り回されるわうになり、争いや格差、差別の元凶のようになっている。

成長段階の初期では、民間企業が、成長段階から成熟段階へと移行する機関は、財政は、往々に資金不足主体に陥る事がある。ただ、部門間の資金の過不足は、市場の状況や成長段階をよく見極めて判断すべきであり、機械的に不足している、あるいは、赤字だから悪いと断定できる事ではない。

「お金」が「お金」、本来の働きをしなくなっているからである。
貨幣制度を正常に機能させるためにも「お金」本来の働きを明らかにする必要がある。



「お金」の働き


「お金」は、数と量と尺度(基準)から成り立っている。「お金」の働きは、取引によって発揮される。取引の働きの根本は交換である。故に、「お金」は、交換のための手段である。

「お金」の働きには、第一に、価値の数値化がある。第二に、価値の統一。第三に、価値の演算可能化。第四に経済の動きの可視化、第五に、物との市場取引、交換取引を通じて貨幣価値は、交換価値を象徴し、貨幣価値の単位を設定する。第六に、貨幣は、物の流れの逆方向の流れを作り、物の流れを促す働きがある。物の流れを正の流れとすると「お金」の流れは負の流れでありお金は負の価値を形成するのである。第六に、貨幣は負の空間を形成する。第七に、「お金」は、価値蓄積する性格がある。第八に、「お金」は、経済的価値を数値情報化する。

経済的価値の価値の数値化は、価値の統一や,価値の演算可能化、価値の可視化の前提となる。

価値の数値化は、価値の量化を意味する。
価値の量化は、異質な価値を同質化する働きをする。すなわち、牛や自動車、労働が生み出す経済的価値を量的に測定し、貨幣価値に統一する働きが「お金」にはある。
牛と自動車の価値を足したり、サービスと時間の掛けたりする事を可能とするのである。

市場取引によって貨幣価値は、価格という形で表現される。貨幣単位は、絶対的価値ではない。物理的単位は、前提条件によって一定の量を特定する事が出来る。それに対して貨幣単位は、物理的単位のように一定の量を単位として他の対象に影響されることなく、特定する事ができない。貨幣単位は、相対的単位であり、絶えず環境や状況の変化に合わせて変動している。今日の百円は、明日の百円と同じ価値を持ってい居るとは限らない。価値を決めるのは、市場取引によってであり、買手と売手である。

貨幣は、交換手段であり、貨幣価値は、交換価値であり、交換によって成り立っている。貨幣そのものが価値を持っいるわけではない。貨幣は、貨幣が指し示す対象があって成り立っている。
そして、貨幣価値、財と交換する金額によって財の経済的価値を数値化する事であって、経済的働きは、交換する財によって発揮される。実質的な経済的価値や働きは財にある。つまり、貨幣価値は名目的価値なのである。

財は有限であるのに対して、数値的尺度である貨幣価値は、無限である。有限である財の価値を無限である貨幣価値で測るためには、貨幣単位の上限を制約する必要がある。

価格は、金額的要素と数量的要素を掛け合わせたものである。

「お金」は、負の価値を形成する。貨幣価値は、陰、すなわち、負の価値である。紙幣の本質は、借用証書であり、借用証書である紙幣は、借金を前提としている。つまり、貨幣価値は名目的価値であり、負債に属するのである。

民間企業は、投資をする事で資金不足の主体となる。それを利益を上げる事で長期的に資金を均衡させていく仕組みが資本である。財務を短期的に均衡させようとすると市場全体が資金不足となる。個々の企業が一斉に財務体質を健全にしようとすれば、市場に資金が流れなくなる。
基本的に経済は付加価値の創造にある。つまり付加価値が得られなくなると経済は活力を失っていく。付加価値とは、金利、利益、地代等である。なかでも利益を否定したら付加価値は成り立たない。ところが現代の経済政策は利益を否定するような方策を持っている。

「お金」は、経済的価値を名目的な価値として蓄積する性格がある。現実の財は、時間とともに劣化するものが多い。石油のように備蓄できるものも備蓄する為に費用が掛かり、必ずしも価値を保存できるとは限らない。その点、「お金」は、腐ったり、錆びたり、壊れたり、劣化したりしない。もともと「お金」は、貴金属のように保存がきくものを素材としていたのである。

また、「お金」によって、経済価値は、情報化されるという事である。そして、「お金」の情報化は進化している。
金貨や銀貨のように「お金」そのものに価値があった時代から、「お金」が金や銀と言った基準となる資源との交換を前提とした兌換紙幣の時代に、そして、価値を証憑している紙幣へと不換紙幣の時代となり、そして、更に、紙幣すら失われて情報の時代へと変化しつつある。それによって「お金」の働きの本質が変化してきている。

「お金」は、没個性である。「お金」は、匿名である。それは「お金」の働きに由来し、また、「お金」の働きを性格づけている。

「お金」は、尺度であるから、「お金」その物が価値を持つ事は許されない。「お金」は、偽造を防ぐための識別番号以外個性を持たないようにされている。
同時にお金は匿名である。所有者が特定されないようになっている。なぜならば、「お金」が表象しているのは、交換価値であり、「お金」は交換手段だからである。
「お金」のこの性格が「お金」の情報化を進化させるのである。

「お金」の単位は、離散数である。

貨幣は経済的価値を数値化した


貨幣によって経済的価値が数値化されたことによって今日の経済、特に会計制度の基礎は築かれた。以後経済は数学となったのである。
今日の経済は、数学そのものである。

貨幣を前提とした経済を確立したというのは画期的なことなのである。
何が画期的かというと価値を数値化する事である。貨幣は、経済的価値を数値化する事に成功した。数値化するとは、数の持つ性格を抽出する事を意味する。貨幣によって経済的対象を数値化するという事は数の性格を経済的対象に付加する事を意味する。貨幣価値は、自然数であり、離散数である。経済的価値を貨幣価値に置き換える事で、対象に自然数や離散数の正確を付加する事が可能となるのである。
貨幣は、価値を数値化する事によって対象を制約し、制限する。なぜならば、貨幣価値は、数値化される事によって有限となるからである。例えば、値段が百円のリンゴは、百円に制限されるのである。
又、数は、対象の多元的価値を一元化した上で、分割し、再構築する働きがある。つまり、所得として一括的にお金を支払い、それを必要に応じて必要な量だけで取り出して財と交換、変換するという操作を可能としたのである。
また、数値化する事で異質な対象を演算が可能となったのである。
例えば、リンゴの価値と労働の価値を足したり引いたり、時間と労働量を掛けたり、サービスと人数を掛けたりすることが可能となったのである。
そして、貨幣価値を実体化するのは、所得であり、所得は支出となって効用を発揮する。故に、支出の構成、有り様によって経済状態は定まるのである。お金は使われる事で始めて働きを発現する。例えば、月、三十万円の所得を得るものは、月々三十万円という交換価値、市場で財と交換する権利を得るのである。この様な権利は、交換価値を貨幣価値として数値がすることではじめて可能となった。この事が画期的なのである。しかも、交換する権利を貸し借りすることも可能となったのである。
経済的価値を貨幣化する事で、お金として交換する権利を統括的に配分し、支出の時に再配分する事が可能となったのである。この事が経済の多様性を可能としたのである。

貨幣は数値情報である。経済的価値を貨幣化する事で、経済を一つの情報系として体系化することが可能となった。経済体制は情報系である。

貨幣によって経済的価値を数値化された事で、経済的価値を足したり、引いたり、即ち演算する事が可能になった。また、労働力と生産財の価値を比較したり、自動車と船とを交換したり、料理と飲み物を足したりと言った異質のものの価値を一元的に処理する事が可能となったのである。この事によって市場取引を数字として計測する事も可能となった。
更に、経済体制を一つの体系に統合する事が可能となったのである。

また、価値を一元化する事で財を統一的に管理し、配分する事も可能となった。
多様な労働を給与や賃金という数値で現わす事も、比較する事も、評価する事も可能となった。質的な事を量に置き換える事を可能としたのである。


「お金」を流す力


現在、日本の経済が停滞している原因は、市場に「お金」が流れなくなったことにある。

現在の経済の仕組みは、「お金」が循環する事で成り立っている。言い換えれば「お金」が円滑に循環しなくなると経済の仕組みも有効に機能しなくなる。では、「お金」は、常に円滑に流れているのかというとそうとは限らない。時々、詰まったり、偏った流れになったり、過剰になったり、不足したりして流れが滞る事が往々にある。最悪なのは、「お金」が流れなくなることである。

なぜ、「お金」が流れなくなるのか。「お金」が流れる、流れないは流動性の問題である。お金が流れなくなるのは、流動性が低下するか、なくなるかである。流動性がなぜ低下するか、また、流れなくなるのか。その原因は、いろいろ考えられる。一つは、資金の粘度である。粘度とは密度である。第二は、過程、装置、仕組みである。第三は、資金の通り道である。
資金には、粘度がある。俗にいう流動性である。流動性とは、現金化の速度である。現金化に手間取れば、粘度は落ちる。
お金が流通するためには、手順や段取りがある。それは、金融制度や市場制度の仕組みや装置にかかわる問題である。つまり、構造的な問題である。お金は、投資によって供給され、収益によって回収され、費用によって分配される。資金の過不足は、貸借取引や資本取引によって補填される。構造的な問題で一番は、格差の拡大である。
もう一つ、「お金」を循環させるために、「お金」を通す道がある。その「お金」を通す道が狭くなったり、塞がったりすると「お金」は流れなくなる。所謂、血栓であり、動脈硬化である。「お金」の流れる道は、可処分所得によって確保される。つまり、「お金」の通り道を狭くするのは、金利とか、元本の返済、税、社会保険料等の固定的支出が蓄積し増幅する事である。金利や元本の返済、税、社会保険料等は、社会的債務を基数としているから、社会的債務の増加は、「お金」の通り道を狭くする。また、収益の低下も可処分所得を圧迫する要因になる。
これらの原因を取り除くことが「お金」を潤滑に流す事になるのである。

現代の経済は、「お金」が循環する事によって機能している。バブル崩壊後も、リーマンショックの時もお金が潤滑に流れなくなったことによって経済が機能不全に陥った。

経済の仕組みは、「お金」が循環する事によって機能している。言い換えると実物市場に「お金」がうまく循環しないと経済の仕組みは機能しなくなる。
「お金」が流れなくなれば実物市場は機能不全状態に陥る。

だとしたら「お金」が流れなくなる原因がわかれば対処する事ができる。
しかし、「お金」が流れなくなる原因というのは、単純ではない。

金利を下げれば、必ず、お金は潤滑に流れる訳というわけではない。また、お金の供給量を増やせばお金は流れるという訳でもない。

バブル時には地価の上昇によって実需がうせてしまった。今回は、資産価値の大幅な下落によって資金が実物市場に流れなくなった。いずれにしても資産価値が一定の限界を超えて乱高下すると資金の出口をふさいで資金が実物市場に流れなくなってしまう。

まず、「お金」は何によって流れているのかを明らかにする必要がある。
第一に、「お金」を流しているのは、市場取引である。
つまり、何らかの生産財と「お金」を交換する事によって実物市場で「お金」は循環している。
市場取引は、根本的に売買を基礎としている。売り手と買い手の関係が崩れる事で「お金」の流れが変わる。
売買取引の根底にあるのは物の流れである。物の流れがお金の流れを生むのである。
第二に、貸し借りによって「お金」は流れる。貸し借りは、資金の過不足を補う目的で生じる。しかし、「お金」を貸したい相手は、「お金」に不足しているとは限ららず。「お金」を必要としている主体は、「お金」を借りる要件を満たしていない場合が多い。
第三に、「お金」はストックとフローの関係によって流れる。
例えば、バブル時のように地価が、個人の支払限界を超えた事で実需がうせてしまった。そのために実物市場に「お金」が流れなくなった。
バブル崩壊後は、逆資産効果によって担保価値が低下したことで投資が抑制されその分、実物市場に「お金」が流れなくなった。
第四に、取引の各段階、すなわち、収入、貯蓄、支出の過程である。また、生産、物流、在庫、分配、消費の過程である。いつ、どこで、何を、どれくらい、必要としているのか。各々の局面の市場構造はどうなっているのかが、「お金」の流れに重要な働きをしている。
収入が少なくなれば、消費は減退し、その分、実物市場に「お金」が流れなくなる。生産や物流といった過程の一部の市場が寡占独占であった場合、極端にお金の流れが抑圧的になったりする。
収入が貯蓄に向けられるか、支出に向けられるかによっても景気の質が変わってくる。
第五に、所得である。すなわち、「お金」は、労働のような生産活動の対価として流れる。定収入が保証されているか、いないかによって資金の流れる勢いに差が生じる。
雇用の量だけでなく正規採用か、派遣かといった雇用の質も重要となる。
また、勤労所得が、不労所得かによっても資金の流れに差が生じる。
少子高齢化は、所得の質を変える。生産労働人口と非生産労働人口の比率によっても所得と国民産出高(national output)と総所得に質的違いが生じる。所得の質は、支出の変化にも左右される。
第六に、金利である。金利とは、時間価値を意味する。時間価値は、物価と金利、所得の力関係の問題である。金利がいくら低下してもそれ以上に物価が下がったら実物市場に「お金」は、流れなくなる。
第七に、利益である。利益を上げるという事を悪だとする思想がある。儲けは搾取だというのである。しかし、このような考え方が「お金」の流れを悪くしている。適正な利益が保証それるから、「お金」は流れるのである。適正な利益が確保されなくなれば、売買取引をする意味がなくなる。売買取引が成立すなくなれば、「お金」は流通しなくなる。適正な利益は、費用対効果によって測られる。利益を悪だとする思想は、費用を悪だとする思想にもつながる。費用を悪だとする者は、費用を目の仇にして削減する事を追求する。
費用こそ経済効果そのものである。費用がなくなれば同時に、経済効果も失われる。
経済が成熟してくると量から質への転換が求められる。量から質への転換は、高級化を意味する。
量から質への転換は、適正な価格が維持されはじめて可能となる。価格とは、質と量の両面から決まる。
金額は、量を現す。質を表すのは、その物自体である。故に、量から質への転換は、金額的要素ではなく物質的要素へと転換する事を意味する。
商人は、高く売る事を考えるべきなのである。ところが現代社会は、高く売る事を悪だとする。何でもかんでも安売りをすればいいと考えている。そのために、利益が失われ、市場に「お金」が流れなくなる。高く売るというのは顧客をだます事ではない。品質や技術、サービスを高めて付加価値をつけ顧客に納得してもらう事である。安売りばかりを善とすれば、粗悪品や平均的な物ばかり横行し、また、雇用が失われることになる。市場が成熟したら高く売れる物を追求すべきなのである。
また、利益が資金の流れを作る。過少な利益も問題だが、過剰な利益も資金の流れを悪くする。過剰な利益は、資金や所得の偏りを生み出し、かえって資金の流れを悪くするからである。
資金の流れは価格差によって作られる。
第八に、「物」と「お金」の関係である。総産出量と通貨の流量の関係である。
経済の根本は、産出量、総人口、生産労働人口、資金の流通量である。これらの要素の均衡が資金の流れる方向や速度に影響をする。
物と「お金」の関係は、実質と名目の差としても現れる。
名目的価値が上昇している場合は、価格が下がる物は当然だが、価格が据え置きな物も実質的には値下げになる。それがデフレーション効果である。
名目的な価値は複利で上昇するために、実質的価値は大きく変動する事になる。
表面的には変わってないように見える事象も裏に回れば大きな地殻変動を起こしている場合がある。
名目的な値が上昇していても実質的産出高の総量が変わっていなければ所得の総量は増えているとは言えない。増えるのではなくて細かくなるのである。
名目的に上昇している事でも、実質的には細分化されている場合が多い。なぜならば、名目的価値は、無限に開いているが、実体経済というのは、有限な世界だからである。
第九に、需要と供給の力関係の問題である。すなわち、必要量と供給量の平衡、釣り合いである。
第十に、生活水準の差である。最低限の生活を維持するための要件が満たされているかいないかが重要な指標となる。
全体の水準が問題なのである。全体の生活水準は、一定の平衡状態に向かう傾向がある。それが、資金の流れに影響するのである。
第十一に、市場の状態である。渇いた市場と過飽和な市場とでは「お金」の流れ方が違う。成長市場と縮小市場でも「お金」の流れる量と方向が変化する。経済が成熟してくると市場は飽和状態に陥ってくる。経済の仕組みも成長型の仕組みから成熟型の仕組みへと切り替えていかなければいかない。成長型経済から成熟型経済への切り替えは、量から質への転換を意味する。
成長型経済の仕組みから、成熟型経済の仕組みに切り替えがうまくいかないと、「お金」は市場から溢れ出してしまう。
第十二に、欲求の問題がある。人々の欲求、欲望がお金の流れを作り出す。欲望は、必要性でもあり、需要の源でもある。
資金の流れははやりすたりによって変わってくる。消費者が何に価値を見出すかが、資金の流れに影響するのである。
人々が何を求めているのか。どのような人口構成かによって「お金」の流れる方向が変わってくる。
第十三に、生産力である。生産力は供給の源となる。
第十四に、投資による資金の流れである。誰が、何に投資するかによって資金の流れは変わってくる。公共投資か、民間投資かによっても変わってくる。

問題は、これら「お金」を動かす要件のどこかに問題が生じるから「お金」が流れなくなるのである。

売り買い、貸し借りは資金の流れの下地を作る。



経済はどのようにして破綻するのか。再建方法は。


経済が破綻するというのは、どの様な状態を指すのか。
経済が破綻するというのは、経済の仕組みが機能しなくなる状態を言う。経済の仕組みの目的は、人々の生活を成り立たせる事であるから、経済の仕組みが機能しなくなるという事は、生活が成り立たなくなることを意味する。
生活が成り立たなくなるというのは、分配がうまく機能しなくなる事である。
分配が機能しないというのは、分配そのものが出来なくなる状態、分配に極端な偏りが生じる場合、分配の機能の一部が機能しなくなる状態である。
分配そのものが機能しなくなるというのは、物や金が流れなくなって状態である。
分配に極端な偏りが生じるという場合は、所得に偏りが生じる場合と所有に偏りが生じる場合の二つがある。分配に極端な偏りが生じると社会が分裂状態になる。
分配の機能の一部と言うと例えば、市場が機能しなくなる。財政が破綻する。物価が異常に高騰する。雇用制度が破綻する。「お金」が市場に流れなくなる。生産を制御できなくなる等である。
市場が機能しなくなるというのは、市場取引が成立しなくなり、物価が制御できなくなる事である。

では、経済の仕組みが機能しなくなるのは、何が原因で起こるか。それが鍵を握っている。
経済の破綻は、何が引き金になるか。いろいろと考えられる。長期金利の上昇、国債が札割れになる。為替の変動。物価の急激な上昇、景気の過熱、災害・事故・戦争と言った災害、政策や会計基準の変更、税制の改訂、財政破綻等、引き金になる事は多くある。これだという決め手や明確な予測をするのは難しい。ただ、経済を破綻させる根源的な原因は、表面に現れるこれらの現象ではなく。水面下で蠢く力であり、構造の変化である。
我々は、表面に現れる現象に目を奪われがちだが、真の原因は、現象の背後に隠されている構造にある。この点をよく理解していないと対応を間近う事になる。対処法的な対策では根本的な解決には結びつかない。
何が経済破綻のキッカケになるかは判然としていない。為替の変動、原油価格の高騰、地価の上昇、あるいは下落。金利上昇、あるいは、戦争や災害等、何がキッカケで経済が破綻するかは予測がつきにくい。ただ幾つかの予兆が現れる事は確かだ。その予兆を見逃さない事が肝心となる。
経済破綻を引き起こす真の原因は、表面に現れるこれらの事象ではない。水面下に隠されている大きな資金の流れの歪と時間価値の乱れである。
何が引き金を引くかが重大なのではない。何かのキッカケで事態が破綻してしまう状態である事が問題なのである。そのような事態を放置し続けている事が問題なのである。

経済の仕組みは、構造的均衡の上に成り立っている。故に、経済の仕組みが機能しなくなり原因は、主として均衡が保たれなくなることにある。不均衡が昂じると経済の仕組みが機能しなくなり、経済が破綻する。言い換えると経済の仕組みが壊れてしまうのである。経済の仕組みを成り立たせているのは第一にに、人、物、金の均衡である。そして、第二に、債権と債務の均衡。第三に、市場の均衡。第四に、フローとストックの均衡。第五に、資金の過不足の均衡。第六に、名目的価値と実質的価値の均衡。第七に、需要と供給の均衡。第八に、生産と消費の均衡。第九に、所得と支出の均衡。第十に、雇用と労働人口との均衡、第十一は部門間の不均衡である。
つまり、これらの均衡が破綻した時、経済の仕組みは破綻するのである。

生産と消費には各々個別固有の波がある。生産の波は不確かであるのにたいして消費の波は確実性が高い。生産と消費の波の非対称性は、常に、生産と消費を不均衡な状態にするリスクをはらんでいる。ただ、生産と消費の不均衡は、ある程度は、市場の仕組みで緩和する事が出来る。

経済の仕組みを基盤から破壊してしまうようなリスクは、「お金」を原因とした不均衡である。なぜならば、人や物は有限であるのに対して「お金」は無限に拡散する危険性があるからである。つまり、制約を失うと制御不能な状態に「お金」は陥らせてしまう。

バブル崩壊後、先ず、債権と債務の不均衡が生じる。そして、それは名目的価値と実質的価値、フローとストックの不均衡を招き市場の不均衡へと発展する。その根本原因に資金の過不足が隠されているのである。この様に一度生じた綻びは対応を誤ると経済の構造全体に伝播して経済の仕組みそのものを土台から破壊してしまう。

累積する債務と債務から派生する金利が生産手段である資産価値や生産手段が生み出す所得を圧迫する事で、資金の流れに歪みが生じ、時間価値が乱れるのである。その兆しは長期金利に現れる。

現在の我が国の経済が破綻する予兆は、先ず、長期金利に現れるとされている。
長期金利が上昇すると、国債の価格が低下し財政が逼迫する。長期金利が2%を超えても国債の買い手がつかないと国債価格は、漸次上昇を始める。

景気が良くなれば物価の上昇を招く。物価の上昇は、金利に対して上昇圧力となる。ゼロ金利政策を続ければ金融機関が持たない。ゼロ金利政策をやめれば財政が持たない。

そして、部門間の不均衡も見逃してはならない。家計、企業、財政、海外交易間に生じる不均衡は、放置するとフローとストック、債権と債務、名目と実質、市場の不均衡に発展する。

金融政策や成長政策だけで財政の健全化を計るのは難しい。なぜならば、金融政策も成長戦略もそれ自体が財政を悪化させる要素を含んでいるからである。金融も成長も財政も均衡問題であり、拡大均衡にしろ、縮小均衡にせよ相互の関係抜きには語れないからである。例えば住居の需要は、人口が基礎にあるのであって財政や景気対策を根幹にしても自ずと限界が生じてしまうのである。
例えば住宅である。景気対策として住宅を建てても、実需が続かない限り、自ずと限界がある。なぜならば、人口に限りがあるからである。金融政策で金利を上げ下げしても人口に影響が出るわけではない。実体経済の基礎となっているのは人口なのである。
住宅投資を経済に活用しようとしたら、人口と住宅事情を勘案しないと解決できない。ただ、住宅投資が増えれば経済が活性化されるだろうと考えるのは、バブルを再燃するだけである。

現在の様なゼロ金利政策をとり続けていたら金融機関の経営は成り立たなくなる。ゼロ金利政策をやめれば大量の国債を持つ日銀も市中銀行も大量の不良債権を抱え込む嵌めになる。ゼロ金利政策をやめれば財政も急速に悪化する。しかし、いつまでもゼロ金利政策を続けているわけにはいかないし、国債を買い続ける事にも限界がある。そうなればいずれは出口戦略を模索する事になる。
その時が一つの分岐点になると思われる。

金融機関にとって国債価格は、両刃の刃である。長期金利が上昇しなければ、金融機関の収益は、悪化する。長期金利が上昇すると金融機関にとって手持ちの国債が不良債権化してしまう。長期金利が上がっても下がっても金融機関の経営内容に打撃を与える事になる。
いずれにせよ財政改革や社会保障改革の抜本的な施策をとられないで長期金利が上昇すると財政、金融双方が深刻な毀損を負う事になる。特に中小金融機関や地方の金融機関は、致命的な損傷を受け、金融再編が加速する事が予測される。
更に、長期金利に歯止めがかからず3%、4%と上昇すると金融機関の国債の投げ売り、円の急落、資本の海外への逃避、銀行に対する取り付け騒ぎ、家計が金融商品を投げ売り、金融危機が深刻化する。そして、いよいよ政府の資金繰りが怪しくなり、国債の日銀引き受けなどによって物価が急上昇する。
気を付けなければならないのは、市中を経由して国債を日銀が買い取るのと、直接日銀が買い取る場合との差は、通貨の発行量の差となる。日銀が国債を直接引き取るようになると急速に通貨の発行残高が増加する可能性がある。

政府と中央銀行の勘定を統合し、統合政府によって国債を解消してしまえというのは、貨幣制度の仕組みを理解していない暴論である。国債の対極には、通貨発行残高と日銀当座残高があり。その対局には、市中金融機関の預金があり、その対極に貸付金と預け金があり、その対極に民間企業の負債と資産、家計の預金がある。国債、当座預金と現金残高、貸付金と借入金、そして、預金とは結びついているのである。国債を消去すれば瞬時で他の勘定に伝播する。最終的には、国民の予算で清算する事になる。それが預金封鎖であり、資産課税、銀行の一斉休業、取引所の閉鎖、金融取引の停止、資本規制等である。都合が悪いから償却してしまえというのは、あまりに短絡的である。そのつけは回りまわって国民が払わされる。将来の収益が望めない者に土地を担保に「お金」を貸すから貸付金が焦げ付くのである。
しっかりとした収益計画、それは、伝統的産業だからそれが可能なのである。単に成熟した産業だからと競争を煽って構造不況業種にしてしまうのは愚策である。

結局、国であろうと、民間であろうと、借金をしたら返さなければ、そのつけは、借りた者だけでなく、貸した者にまで及ぶ。つまり、連帯責任の上に成り立っている。経済的な借りは返さなければ貸した者にも累が及ぶのである。人がいいでは済まされない。

経済的不均衡を解消する手段は、債務を圧縮するか、資産、物価を膨張させるしかない。

日々の経済活動、日常生活は、経常的な資金の流れ(キャッシュフロー)を生じさせる。経常的な資金の流れは、利益、地代家賃、金利、借入金の返済、人件費(所得)、公的支出(税や社会保険料)に配分される。この中の利益、人件費、地代家賃が可処分所得を形成する。経済の不均衡は、これらの配分に現れる。

経済的危機は、最初は好景気を装って忍び寄る。目の前の好業績に目を奪われて背後に迫る危機に人々は気が付かない。気が付いていたとしても目を瞑る。
物価は、徐々に段階的に加速していき、一時的に制御不能な状態に追い込まれる。しかし、最小的には、どこかの水準に落ち着く事になる。どの程度の水準で落ち着くかは、前提条件や状況によって違ってくる。

この様な状態にどのように対処すべきなのか。
まず第一に、健全な投資を増やす事である。第二には、資金の流れを制御する事である。第三に、明確な展望や構想を持つ。
明確な展望や構想を持ち。その上で実情を冷静に分析し、前提となる条件を確認して、未来を予測する事である。その上で、状況に応じて適切な投資、対策を講じていく事である。

金利の上昇も物価の上昇もどこかの時点で加速されていく事が予測される。その場合、名目的価値と実質的価値の上昇速度の差と乖離が鍵を握る事になる。

いよいよ、金融が破綻すると預金の取り付け騒ぎ、金融機関の倒産、銀行の一斉休業、預金引き出しの一部制限、預金封鎖、預金凍結、資産増税などの一連の処置がとられる事になる。また、物価が高騰すればデノミも考えられる。

経済指標が好転した時こそ覚悟しなければならない。

国債の出口戦略では、財政が問題となる。国債の出口戦略に一番感応するのは、長期金利だからである。
財政問題が解決されていなければ、長期金利が上昇したら財政の資金繰りがつかなくなる危険性がある。しかし、景気が過熱したら、長期金利は上昇する。また、インフレーションを嫌えば金利を上げざるを得ない。
国の借金を清算する為に財政インフレーションが考えられる。しかし、悪質なインフレーションのキッカケを作るのは財政インフレーションである。
しかし、正統的なやり方で財政を健全化しようとしたらデフレ財政をとらざるを得なくなる。

金融機関にたまった余剰資金を掃き出すには、健全な貸出先を見つけるしかない。さもなければバブルの二の舞になる。結局最終的には、有望な貸付先を見つける事にしかなく。有望な貸付先と言うのは、この国の未来にとって必要不可欠な産業なのである。何がこの国の未来にとって必要不可欠化は、国家戦略、建国の理念に基づくのである。
投資は、金をいくら儲けるかではなく。この国の未来にとって何が必要かによって求めるべきなのである。
高齢化社会を前提としたら、高齢化社会をいかに充実した社会にするか。それこそが有望な貸付先なのである。目先の利益ばかりを追っていたら見えてこない。
真の資金需要がどこにあるのか。それを見極める事である。

経済は、「お金」だけで成り立っているわけではない。金銭的に行き詰ったとしても人は生きていかなければならないのである。むしろ、金銭的に行き詰るといきていけない状態が問題なのである。
生きていくために何が必要なのか。その事を忘れない事である。

経済の仕組みを動かしいるとしたら、経済を破綻させる最大の原因は、「お金」が流れなくなる事である。



なぜ、「お金」は流れなくなるのか




現在の経済は、「お金」が流れる事によって維持されている。そのお金が流れなくなったのであるから、危うく世界経済は、息の根が止まりかけたのである。

リーマンショックは、世界経済に深刻なダメージを及ぼし、その後遺症に世界は今でも苦しめられている。
リーマンショックの何が深刻なダメージを世界経済に与えたのかというと資金の流れが止まった事である。
今の日本経済が長い間低迷から抜け出せずにいるのは、金融市場に「お金」が滞留して実物市場にお金が流れないのが一因である。
ではなぜ「お金」は、金融市場に滞留して実物市場に流れなくなってしまったのか。

お金が流れなくなる理由は第一に、流動性がなくなる事である。第二に、資金を流す仕組み、システムに何らかの齟齬が生じた場合である。第三に、お金を流通させる道が狭くなるか、塞がる事である。

何らかの理由で取引が成立しなくなると「お金」は流れなくなる。
第一に、流動性がなくなると「お金」は動かなくなる。
第二に、市場が機能しなくなると「お金」は流れなくなる。
第三に、貨幣の信認が失われると「お金」は流れなくなる。
第四に、価格が維持できなくなると「お金」は流れなくなる。
第五に、フローとストックの均衡が保たれなくなると「お金」は流れなくなる。
第六に、流通するお金の量が不足すれば、「お金」は、流れなくなる。
第七に、「お金」の流れに滞留する箇所が生じると「お金」は流れなくなる。
第八に、投資が滞ると市場に「お金」が供給されなくなり、「お金」の流れが悪くなる。
第九に、資金の調達力が弱くなると資金は流れなくなる。
第十に、資金需要がなくなると「お金」は流れなくなる。

流動性が失われるのは、信用制度が機能しなくなることが原因である。
取引が成立しなくなることで、まず第一に考えられるのは、売り手、買い手がいなくなれば取引は成立しなくなり、「お金」は流れなくなる。売り手、買い手がいなくなるというのは、市場が成立しなくなるからである。

貸し借りは、信用制度が崩壊すれば成立しなくなる。

市場が消滅したり、信用制度が崩壊する事があるのか。

将に、リーマンショックの時それが起こった。
リーマンショックの時は、信用制度が崩壊したから、資金の貸し借りが一時的にできない状態に陥ったことが原因とされる。

流動性の問題は、「お金」だけとは限らない。物の流れにも言える。飢饉の様に物が極端に不足した時にも「お金」は、流通しなくなる。「お金」の価値がなくなるのである。享保の飢饉の時、首に百両を掛けた餓死者がいたという記録がある。

「お金」が流れなくなるのは、「お金」その物に問題があるだけでなく。「お金」の通り道に問題がある場合がある。
要するに、「お金」が流れなくというのは、本当に、「お金」が流れなくなる事だけでなく、「お金」が流れにくくなったり、あるいは、「お金」が逆流する事も意味する。

「お金」が流れなくなると「お金」が過剰に滞留したり、溢れ出したりして経済に悪影響を及ぼす。「お金」が過剰に滞留するのは、「お金」の通り道が塞がるか、細くなるか、あるいは断たれるかが原因である。

「お金」が通る道とは何によって形成されるか。「お金」の通り道を作るのは、付加価値である。付加価値とは何か。それは基本的に所得を意味する。特に可処分所得を言う。

可処分所得というのは、自分が自由に使える所得の幅を言う。名目的所得と可処分所得とではどのような違いがあるかというと、固定的支出つまり、自由にならない支出ががあるからである。自由にならない支出とは、税金、社会保険料、借金の返済や利息等を言う。固定的な支出、自由にならない支出が増えると可処分所得の幅は狭くなる。つまり、固定的支出の原因を突き止める必要がある。
固定的支出の第一は、税や社会保険料と言った公的費用である。財政状態が悪くなり、増税されたり、社会保険料が値上げされると可処分所得は狭くなる。
固定的支出の第二は、借金に係る支出、即ち、元本の返済額と利息である。これは過剰債務の問題である。

過剰債務は、個々の個人や企業だけの問題ではない。社会全体が過剰債務の状態に陥る事がある。現在の日本は過剰債務に陥っている可能性がある。金利は、時間価値を形成する。金利は、元本と利息の比率である。元本が大きくなると利息が可処分所得を圧迫するようになる。社会全体が過剰債務状態に陥ると時間価値全体が圧迫されるようになる。それは、利益や物価、収益や雇用にも影響を及ぼすようになる。

過剰債務の弊害は、特に今日の日本の財政に対して顕著に表れている。長期金利の動向は、財政にとって死活問題である。

適正な所得とは、適正な幅を意味する。幅は、差でと比率によって決まる。それは、「お金」の働きは、分配の手段であるからである。
適正な所得が維持されているかは、何を見ればわかるか。適正な所得が維持されているかどうかを測るのは、利益であり、金利であり、物価であり、収益であり、雇用である。

「お金」は流れる事で効用を発揮する。「お金」の流れは、「お金」を使う事で起こる。「お金」の流れは、所得によってはじまる。所得、つまり、収入がなければ「お金」を使いたくても使えないからである。
「お金」の流れを作りたければ、適正な所得を必要な部分に流す。そして、一定の幅を所得は保つ必要がある。一定の幅というのは、支出を納められるだけの幅という意味である。

自分の所得では支払いきれないほど価格が上昇したら実需は消えてしまう。
逆に、地価が急速に下がれば担保力を失い借金をすることができなくなる。
バブルとバブル崩壊がいい例である。

基本的にフローとストックの関係は、支払い能力に依存している。故に、個々の部門は、フローとストックの均衡の上に成り立っている。家計も、企業も支払能力の限界に金利が達すれば負債を減らす方向に動く。ただ、問題なのは、国債である。国債は、支払い能力の限界を超えても借金を増やす事が出来る。それは、通貨の発行権を握っているからである。しかし、そのつけは、いずれ国民が支払わされる事になる。

投資、金融、損益



経済は、資金の過不足によって動かされている。
空間的資金の過不足は、部門間の貸し借りによって時間的資金の過不足は、投資によって、収支によって生じる資金の過不足は、貯蓄と運転資本によって調節されている。

資金は、投資によって市場に供給される。投資によって債権と債務が生じる。

そして、資金の経常的な動きは、収入と支出と貯蓄と貸し借りからなる。

お金の流れには、投資に関わる資金の流れ、資金計画に基づく資金の流れ、期間損益に対する資金の流れに区分できる。これら三つの働きが複合されて景気は形成される。
投資は主として設備投資と償却、設備投資な対すると資金調達と返済、資金の回収と資金の過不足の調節に関わっている。

財務は、資金の調達に関わる資金の働きを意味し、投資は、資金の運用に関わる資金の働きである。調達とは名目的(お金)な事であり、投資は実質的(物)な事である。
期間損益は、付加価値に関わる資金の働きを意味する。

期間損益に関わる資金の流れのはたらきを計測する指標が利益である。
利益は、国民経済計算では営業余剰という。投資による結果は、固定資本形成として表現され、固定資本減耗として表現される。

投資によって資金は、市場に供給される。売買によって資金は、市場に循環する。
投資は貸借に基づき、損益は、売買に基づく。貸借は資本取引であり、損益は、損益取引である。

損益取引は、付加価値を形成する取引から成り立っている。投資と財務の流れは資本取引に関わる運動であり、そこから付加価値は、生まれない。地代家賃、金利は損益取引に属する。
つまり、付加価値は余剰なのである。余剰は、通貨が流れる過程で生じる。通貨の流れが止まれば付加価値は消滅する。

現金主義も期間損益も貨幣制度を基礎として成り立っている。
この様に、自由主義経済は、貨幣制度を土台にしている。

産業の基盤は、初期設定、即ち、投資によって定まる。初期投資が実行された瞬間から期間損益と現金収支との間に乖離が生じる。
現代経済は、基本的に借金経済、つまり、借金によって成り立っていて、借金が「お金」の流れを形作る。

期間損益と資金の流れ(現金収支、キャッシュフロー、資金計画)の差は、減価償却、非減価償却、借入金、金利、、税金、収益(売上)、税引後純利益にあらわれる。よくこの点を見極めないと手取り収入よりも支出の方が多いなんて言う事態がおこる。不動産投資などは、顕著に現れるが、一般では企業にはなかなかつかみにくい。その結果、黒字倒産などという事が起こる。また、産業全体では構造不況業種などと言われる状態になり、なかなか抜け出せなくなる。

初期投資を構成するのは、土地などの非償却資産と建物や設備といった償却資産である。初期投資に必要な資金は、資本となる自己資金と負債になる借入金である。資本と言うのは、永久国債みたいなもので借入金が変質したものと言える。
問題は、借入金は、約定通り、計画的に返済しなければならないと言う点である。計画的に返済するためには、収益の中から相応する一定金額を債権者に対して支払続ける義務を負う事となる。債権者への支払いは、元本と利息からなる。問題なのは、この元本の返済部分である。利息は費用として収益から引かれるが、元本の返済は、損益上計上されない。
その為に、現金収支上支出される元本の返済は、収益から差し引く事が出来ない。では、借入金に対する支出はどの様に処理するかと言えば、償却資産として一定額を費用計上する事によって対応する。それに対して非償却資産の支払い原資は、内部留保と純利益から捻出する事になる。この内部留保と純利益は課税対象としてみなされ、税が差し引かれる為、税引き後利益と税引き後内部利益から借入金の返済に充てられることになる。仮に、借入金の返済や納税額が確保できないと、新たな借入を起こさなければならなくなる。その際、担保されるのが地価の値上がりである。これが含み経営の実態なのである。

地価の上昇によって派生する含み益を担保にして、借り換えをすることで、含み経営は成り立ってきた。しかし、地価の下落は、含み益を減少させる。バブルは、バブル形成期には、含み益を拡大させ、地価の下落によって急速に企業の資金調達力を悪化させたのである。それが不良債権の実態でもある。
資産の売却は、損を確定させる。その為に、資本は既存されたまま、負債だけが残る事になる。
含み損益は、未実現損益である事を忘れてはならない。
未実現損益は、本来、経営主体を清算した時に確定する。日銀が満期まで国債を保有するのと同じ。地価が下落している時に生産する必要はない。
それを架空の売買取引を設定してでも確定させようとしたのである。それが貸し渋りや貸し剥がしを生んだのである。本来、借入金の返済や金利は、フローの問題である。故に、収益がある程度確保されれば、問題とされないはずだったのである。それが、地価の下落によって担保力が下がり、借り換え資金を確保できなくなった。それが貸し剥がしである。なんてことはない、資金の回収を計らなくても、運転資金を絞めれば企業の息の根は止まるのである。
また、含み損が派生した事でその為に、企業は外部から資金を調達できなくなり、内部資金を頼るようになった。見かけ上は、財務体質がよくなったように見えるが実体は、金詰り状態なのである。

借金が成立する要件は、一定期間、一定の収益、所得が保証されている。元本を担保とする資産を保有している事である。定収入が保証されるか、担保となる資産がある事で借金は成り立っていると言っていい。
巨額な投資をした企業は、投資した資金を回収するためには、長期にわたって安定した収益が保証されなければならない。競争原理主義者はこの点を理解していない。投資した資金は、資本という「お金」で保存されていると思い込んでいる者がいる始末である。収益が続かなければ、投資した資金は回収できない。しかも、いくら利益を上げても借入金の返済に充てられる資金は限界が決められているのである。一定の金額を越えたら費用としては認められない。
安定した収益を前提とする一方で収益は、先の読めない不確かなものである事も明らかなのである。短期間で投資した資金を回収し、返済したいと思ってもできない、他方で長期にわたって収益を確保しなければならないけれど、収益の本となる売り上げは、気まぐれで不確かなものである。企業を継続を前提としたものであるとするならば、この点をよく理解して経済の在り方を長い目で見ないと、国家経済を支える産業は衰退してしまう。
過当競争によって企業の収益力を奪い、資産価値の下落と、強引な不良債権処理によって、所得と資産からの資金調達が枯れれば産業は成り立たなくなるのである。

また、会計基準の変更も利益に大きな影響を及ぼす。
利益に影響を与える会計基準には、減価償却費の計算法や在庫棚卸の評価法などがある。

利益を検証する為にキャッシュフローを併用しなければならない理由は、未実現利益や繰延勘定、評価勘定、費用性資産、固定負債の返済等によって資金の働きの実際を見失わないためである。

バブル崩壊後、資産価値の下落と収益の悪化が同時に起こり、それが景気を長期にわたって停滞させる原因となった。

市場の性質、経済の位相が変化したのである。それはバブル崩壊という現象だけでなく、その後にとられた政策も深く影響している。

  
企業法人統計

注目してほしいのは、支払利息、長期借入金残高、金利の関係である。金利は、第二次石油危機の際、急騰した後下げているのに対して借入金残高も支払利息も一貫して上昇している。そして、プラザ合意後バブルが形成されるまで支払利息も金利も借入金残高も伸びているが、バブル崩壊後金利の下げと同じように支払利息も下げているのに、借入金の残高は、1998年まで増加し続けているのである。2000年以降借入金は減少しているが、2003年頃には底を打ち以後横ばいか若干上昇している。金利がゼロに近づくにつれて時間価値が働かなくなっている証左である。


インフレやデフレが意味すること



インフレーション、デフレーションは通貨の密度の問題である。
通貨の密度は、人、物、金の均衡によって保たれる。
インフレーションやデフレーションは、人、物、金の不均衡によって起こる。つまり、密度の問題である。インフレーションは、密度が薄くなる事で、デフレーションは濃くなる事である。

インフレーションとデフレーションは貨幣的現象だと言う点は共通しているが、インフレーションを引き起こす要因とデフレーションを引き起こす要因は別である。ただ、人、物、金の不均衡によって引き起こされるという要因だけは共通している。
インフレーションを引き起こす主因は物不足がある。物不足の背景は、必要な資源に対して人が多い場合である。つまり、物不足は人と物との関係によっておこる。しかし、物不足だけでインフレーションが起こるわけではない。物不足と言っても間に「お金」が介在しなければ、インフレーションは、起こらない。インフレーションは、貨幣的現象なのである。物不足が発生した時、「お金」が介在しただけでインフレーションが起こるわけではない。物不足の時に、大量の通貨が市場に出回っていると物価は、上昇し始める。

豊作豊漁貧乏という事がある。物が過剰に市場に供給されると物価が急速に下がる。しかし、物が過剰に生産されただけでデフレーションになるわけではない。過剰に生産された物が市場に出回らない限り、物価は下がらない。過剰に生産された物を市場に供給、即ち、売らなければならない理由があるから、物価は、下落するのである。売らなければならない理由というのは、第一に投資した資金を回収する必要がある。どうしても投資した資金を回収しようとするのは、投資資金の中に多額の借入金が含まれているからである。その為に、損益分岐点を根拠に一定量を早期に捌こうと考えるからである。
第二に、廉価で量販しようとする業者がいる、即ち、競争の原理が働くからである。
第三に投資の減退による資金の供給が細る事である。投資が細ればそれだけ資金の供給も細り、物価に対して下げ圧力がかかる。
これらの事が回りまわってデフレーションを起こす。

「お金」は、基本的に分配の手段である。交換は、分配のという働きを実現する為に必要な要素の一つである。「お金」が分配の手段という性格がインフレーションやデフレーションを引き起こす主因である。
市場において「お金」に分配という機能を発揮させるためには、一定の条件が満たされている必要がある。
「お金」が市場で分配という機能を発揮するたるの要件とは、第一に、市場を構成る人全員に、必要最小限の「お金」が満遍なく行渡っている。第二に、必要な「お金」が必要とされる時に絶え間なく供給されている。第三に、必要な資源が、必要な時に、必要なだけ市場から調達できるという三点である。

第一に、「お金」が満遍なく分配されていなければ、経済は成り立たない。次に、絶え間なく供給され続ける必要がある。
「お金」は、何らかの働きに対する対価として分配される。働きの対価として支払われる事で生産と働きが結びつくのである。
経済で一番重要なのは、生産と働きを結びつける事なのである。生産と働きが結びついていて、働きが所得に反映されれば、生産と所得が直接的に関係づけられる。生産と所得が直接的に結びつく事で、生産を働きによって制御する事が可能となる。そして、所得は消費のための原資であるから、働きと所得とを結びつけることで間接的に生産と消費を制御するのである。

分配という働きは、割合を意味する。割合は、全体と部分から成り立つ概念である。
分配では、全体量と配分量が鍵を握る。そして、この全体と部分の働きと関係がインフレーションやデフレーションを引き起こす要因なのである。

一人ひとりの所得の平均と分散と総量との関係によって市場は成り立っている。
そして、一人当たりの所得の平均と分散と需要と供給の関係が崩れるとインフレーションやデフレーションと言った現象を引き起こすのである。

インフレーションやデフレーションは、基本的には貨幣的現象である。インフレーションやデフレーションは、基本的には貨幣的な現象ではあるが、原因には、物的原因や人的原因が絡んでいる。
インフレーションもデフレーションも「お金」がなければ起こらない現象なのである。その意味では、インフレーションもデフレーションも貨幣的な現象なのである。しかし、インフレーションやデフレーションの背後には、人、物、金の関係が隠されている。

インフレーションは、通貨の流量が絡んでいるというのが専らである。
しかし、それでは、これ程金融緩和によって資金を大量に市場に供給しているのに、物価が上昇してこない理由がつかない。いくら市場に資金を供給してもそれが金融市場に滞留して実物市場に流通しなければ、資金は、効用を発揮しないのである。要するに、「お金」実物市場に出回らないから物価は、上がってこないのである。

インフレーションを引き起こすのは、通貨量だけではない。
以前は、インフレーションもデフレーションも貨幣的現象だと思われていたから金利を操作すれば制御できると考えられてきた。ところがゼロ金利時代になると金利を操作する事が出来なくなる。そこで金利に代わって通貨の供給量を操作すれば景気を制御できるとされた。
そこで異次元と言われるほどの資金を市場に供給したのに、いっこうに物価は上昇する気配を見せない。

インフレーションやデフレーションは、人、物、金の関係によって引き起こされる。
「お金」の問題としては、実物市場に過剰に資金が流れたり、また、資金が流れなくなることがインフレーションやデフレーションの原因とされる。
物の問題は、物の極端な供給不足や過剰な供給、また、人の問題としては、人手不足や逆に失業者の増加などが原因としてあげられる。いずれにしても、複数の要素が絡み合ってインフレーションやデフレーションは起こると考えられている。

今日、問題とされているのは、デフレーションである。
バブル崩壊後の長い停滞や財政の悪化はデフレーションが原因であり、財政を悪化させても、まず、デフレーションから脱却すべきだとされ、異次元の金融緩和策がとられたとされている。しかし、本当にデフレーションが原因なのか、それともデフレーションは結果であって真の原因は別にあるのではないのかなのか意見が分かれるところである。
いずれにしてもデフレーションを引き起こしている原因を突き詰める必要がある。治療を開始するためには、まず、病気の原因を突き止める必要があるからである。熱が上がったから
デフレーションの何が問題なのか。デフレーションによってどのような影響が出ているのか、それも検証する必要がある。

従来は、デフレーションよりもインフレーションの方が深刻な問題だとされてきたのである。それは、戦後は、高度成長時代は、右肩上がりの経済状態でバブル崩壊まで深刻なデフレーションを経験してこなかったである。しかし、高度成長が終わり、景気が後退し始めるとインフレーション以上にデフレーションが深刻になってきた。
ただ、注意しなければならないのは、インフレーションとデフレーションは表裏の関係にあり、その背後に隠されている要因には共通したところがあるという事である。対処の仕方を間違うと一転して悪性のインフレーションを引き起こす事になりかねない事を忘れてはならない。目先の対処療法では、真の問題解決にはならないのである。

デフレ、デフレと言うが本当にデフレなのか。デフレが意味することは何なのか。
物によって物価の動向は違うはずなのである。
価格が上昇している物もあれば、下落している物もある。横ばいの物、長いこと変わらない物もある。その働きは相対的であり、相対的だから産業の消長に影響している。
ところがインフレだ、デフレだという言葉が先行し、本来、物の生産や分配が人々の必要性に応えているのかという本源的な問題はおざなりにされている。高級な家が余っているというのに、一方で、町に、ホームレスがあふれていいるなどと現象が併存する。生活に必要な物の価格が下落して、産業として成り立たなくなったりしている。必要な産業なのにである。なぜ、それは貨幣の動きが経済の実態にそぐわなくなったからである。


経済における時間の働き



付加価値は、時間価値を形成する。時間価値は、付加価値である。付加価値は、経済の動きを形作る。時間価値は、「お金」を動かす原動力である。
時間価値は、ストックとフローを結び付ける働きをしている。故に、付加価値は、フローとストックを結び付けている。即ち、借入金は、金利に、固定資産は、減価償却費に、土地は、地代家賃に、投資は、利益に、費用は、物価の上昇率に、所得は税に転換され、フローを構成する。ストックの拡大は、時間価値を増大させる。フローの幅は、時間価値を制約する。必然的に比率が重要となる。比率には、ストックとフローとの比率、前年との対比、構成比等がある。そして、前年との増減は、資金の需給を表している。
そして、付加価値を構成する要素は、相互に働きかける。その基礎となるのは、フローの幅である。フローの幅は、ストックとの関係によって相対的に決まる。
物価は、付加価値を構成する要素間の働きの均衡の上に成り立っている。


企業法人統計

金利は、バブル崩壊後一方的に下げている。負債そのものは、バブル崩壊後99年頃まで上昇し続けている事がわかる。
金利と借入金残高の関係は、支払利息に影響する。利息の働きが時間価値の中で力を弱めているのが現れている。


企業法人統計


減価償却費率は、固定資産の動きとは関係なく一定しているように見える。
減価償却費率は、バブル崩壊後、若干低下するが基本的に一定しているとみなしていい。


企業法人統計

しかし、資金需要と減価償却率を見てみると大きな乖離がみられる。特に、長期借入金に対する資金需給は、1990年を境にして大きく変化している。プラザ合意後大きく長期借入金にたいする資金重要は上昇していたのが1990年に一転して急降下している。プラザ合意後の資金重要の流れがバブル形成の背後で働いていたと思われる。
よく見てみると二段階で下げ幅が広がっているのが読み取れる。1994年から98年にかけて持ち直していたのが98年から99年にかけてもう一段下げたのがわかる。要は、98年から99年にかけてどの様な政策がとられたかである。


企業法人統計

資金の過不足に与える影響として減価償却費と長期借入金との関係が非常に重要になる。実質的な資金の影響を考えた場合、固定資産との関係より重要になる。
1997年は、11月に三洋証券、北海道拓殖銀行、山一証券、徳陽シティ銀行が経営破綻し、一種の金融危機の状態であった。そして、長期借入金は、98年を頂点に急減しているのである。それに対して減価償却費は一定の水準を保っている。




固定資産は、固定負債の動きは、1997年頃までは相関関係にあるように見える。1998年に金融危機が表面化すると大きく乖離してしまう。見かけ上固定資産は、一定の水準を保っているように見えるがこの間、不良債権の水準が拡大しているのが窺える。



バブル崩壊後、固定資産と長期借入金の名目的関係が乖離しているのが読み取れる。




付加価値と分配



経済の仕組みは、分配にある。分配の手段の要は、賃金、所得にある。そして、分配の原資は、付加価値にあるとされる。それ故に、労働分配率は、特別な意味がある。

分配の原資が付加価値にあるとするならば、先ず付加価値を明確にする必要がある。付加価値に対する考え方には、二種類あり、その考え方は、付加価値の計算の仕方を見ると解る。

付加価値を算出する仕方には、二種類あり、一つは、控除方式と言い、付加価値は、売上から外部購入価値を引いた値とする考え方であり、もう一つは、加算方式として分配先に着目して人件費、経常利益、減価償却費、支払利息、賃貸料、税金を加算する方式である。
つまり、売上から外部調達した部分を差し引いた部分が付加価値だとする考え方と外部から調達したものに価値を付加した部分と言う考え方である。

売上から原材料費、外部購入価値を差し引いた部分が付加価値を構成するというのが控除方式で売上総利益、粗利益を意味し、中小企業庁方式がこれにあたる。
加算方式には、「日銀方式」の付加価値=経常利益+人件費+金融費用+租税公課+減価償却費
「経産省方式」、粗付加価値=実質金融費用+当期純利益+人件費+租税公課+減価償却費
「財務省方式」、付加価値=役員報酬+従業員給与手当+福利費+動産・不動産賃借料+支払利息割引料+営業利益+租税公課等がある。

付加価値の構成や推移を見ると経済の変遷や構造が見えてくる。

経済の仕組みの本質は分配にあるのだから、付加価値の構成を見るとその時の経済状態がよく現れる。特に、労働分配率は、その国や産業、企業の状態を写す鏡のような働きをしている。

経済対策を考える場合、何を改善しようとしているのか。景気がいいというのは、企業収益の向上を意味するのか。市場取引の拡大を指すのか。雇用を改善しようとしているのか、財政を改善しようとしているのか、交易を改善しようとしているのか、物価を抑制しようとしているのか、経済成長を計ろうとしているのか。その辺の優先順位や方針、目的を明らかにしておかないと政策の是非を評価する事はできない。
結果によって動機付けをすることはできない。失業率が低下したと言っても最初から雇用を改善するつもりで行われた政策なのか。景気を良くしようとしたら結果的に失業率が低下したのか。その辺が問題なのである。
労働分配率と言っても物的な生産手段に対する費用の比率が高いのか、人的な生産手段に対する費用の比率が高かったのか、いずれの問題なのかが重要なのである。設備投資にかかる支出と人的投資にかかる支出のいずれが大きいかが労働分配率を左右する。しかし、経済全体で見れば総所得の増減が決定的な働きをしているのである。
物的投資にかかる支出と人的投資にかかる支出の関係は、相対的なのである。賃金の低い時は、相対的に労働分配率は低く、賃金が上昇すれば労働分配率は上昇してくる。
しかし、それは労働効率の向上を意味するわけではない。経済効率だけを追求していたら労働分配率の真の働きを理解する事はできない。質の高い仕事は必然的に労働分配率を高めるのである。
資金の働きを解明する際、何が何に対してどう関わっているのか。それが非常に重要になってくる。
垂直的関係、例えば、負債と金利、減価償却費と固定資産等と水平的関係、例えば、減価償却費、支払利息、人件費、税等の相互作用が利益にどの様に影響しているかを検証する必要がある。
例えば、長期借入金残高、金利、支払利息の関係である。

意図をもってやった政策なのか。ただ結果だけを問題としているのか。肝心なのは、動機である。結果がいいから万事うまくいったという訳にはいかない。逆に、結果が思い通りにならなかったからと言って動機や目的をうやむやにしたら政策の意図が失われる。
景気をよくするといても、どの様な状態を指して言っているのは、あらかじめ明確にできないのなら、景気をよくするという事自体無意味である。
財政を再建する目的で増税しても、増税した分、政治的理由で支出したら何の意味もない。むしろ、財政再建と言う目的からしたら逆効果である。政策とは合目的的な行為なのである。


経済産業省 「合計」は鉱業・採石業・砂利採取業、製造業、電気・ガス業、情報通信業、卸売業、小売業、クレジットカード業・割賦金融業、物品賃貸業、学術研究・専門・技術サービス業、飲食サービス業、生活関連サービス業・娯楽業、個人教授所及びサービス業(*)の計であり、「サービス業(その他のサービス業)」及び「その他の産業」を含んでいない。

水平的力関係を見る場合、付加価値に対する分配率が鍵を握っている。特に、労働分配率が核となる。
労働分配率を見る場合、分母の構成が重要となる。
上記の経済産業省の例では、給与所得総額と福利厚生費、営業利益、減価償却費、動産・不動産、租税公課が分母となり、分子は、給与所得総額と福利厚生費の和である。

企業法人統計における付加価値の式は以下のとおりである。

[平成18年度調査以前]
付加価値額=営業純益(営業利益-支払利息等)+役員給与+従業員給与+福利厚生費+支払利息等+動産・不動産賃貸料+租税公課
[平成19年度調査以降]
付加価値額=営業純益(営業利益-支払利息等)+役員給与+役員賞与+従業員給与+従業員賞与+福利厚生費+支払利息等+動産・不動産賃貸料+租税公課
  (注)役員賞与は、平成18年度以前では利益処分項目として調査を行っていたが、平成19年度調査以降は費用項目として調査を行っている。また、従業員賞与は平成18年度調査以前では従業員給与も含めて調査を行っていたが、平成19年度調査給与に含めずに単独項目として調査を行っている。


財務省 企業法人統計を基に算出

この中で人件費に相当するのは、役員給与、役員賞与、従業員給与、従業員賞与、福利厚生費の部分であり、労働分配率が意味するのは、営業純益、支払利息、動産・不動産賃貸料、租税との分配関係、力関係である。これは付加価値を構成する要素の力関係を意味し、その分母となる部分の働きを暗示している。要素間の均衡が破れた時、経済は制御不能に状態に陥り暴走するのである。

労働分配率は、60年代、70年代を通じて右肩上がりに上昇しニクソンショック後に一時急激に下げるも第一次石油ショックに急上昇し、狂乱物価、第二次石油を経て70%から80%の高率を保っている。こうやってみると日本経済は、労働集約的、付加価値、費用の過半を人件費が占めている事がわかる。また、経済の本質的な部分も透けて見える。経済は、結局、所得、人件費に還元されるのであり、市場が成熟してくると人材の質が経済の質を決めるのである。
業種間でも小売業界が60年代、70年代は比較的高めに出ていたのが、バブル崩壊後は業種間の差もなくなったように見える。むしろ製造業の分配率が高めに推移している。
国家間の競争力も所詮は、人件費によって決まる。生産側は、低い人件費によって競争力を保ち、消費側は、高い所得に支えられている。
経済の下支えをしているのは、俗にいうコモディティ産業であり、労働集約的産業である事を忘れてはならない。

結局、経済の問題は雇用の問題に収斂するのであり、雇用は、所得の多寡と失業率の問題が鍵となる。所得をとるか雇用をとるかは、個人の問題であると同時に国家の問題でもある。
個人事業者の役割をどう考えるかにも影響される。それこそが国策なのである。突き詰めれば市民とは何か、労働者とは何か、外国人をどう受け入れるべきかと言った国家理念にも突き当たる。



法人企業統計

経済を考える場合、付加価値と人件費の関係は、重要な意味を持つ。付加価値は、人件費の基礎を構成しているからである。要は、配分の問題であり、付加価値が増えなければ、勢い分配の問題が主たる課題となるからである。人件費が伸び悩めば個人所得も停滞する。それが経済の外枠を決めるのである。

付加価値額(百万円) 付加価値率 労働分配率 労働生産性(万円)
  鉱業、採石業、砂利採取業 11,490 53 9 6,829
  製造業 4,599 21 47 1,145
  電気・ガス業 44,653 23 21 3,395
  情報通信業 4,024 38 57 1,023
  卸売業 2,478 7 54 934
  小売業 4,417 19 50 489
  クレジットカード業、割賦金融業 10,822 35 31 1,554
  物品賃貸業 5,900 23 23 2,185
  学術研究、専門・技術サービス業 4,427 23 56 1,058
  飲食サービス業 4,221 44 63 225
  生活関連サービス業、娯楽業 2,091 43 48 492
  個人教授所 2,695 36 61 343
  サービス業(*) 3,241 48 71 442
「サービス業(*)」は、廃棄物処理業、機械等修理業、職業紹介業、労働者派遣業、ディスプレイ業、テレマーケティング業、その他の事業サービス業の計である。
経済産業省 平成27年経済活動基本調査

卸売業は、付加価値率が極端に低い。次に小売業だが小売業と製造業とはそれほど大きな差があるわけではない。労働分配率は、サービス業が総じて高い。これは暗に産業構造を示している。

一般に付加価値率は、極端な乱高下はしないものである。さもないとなかなか経営を安定させるのは難しい。ただ、例外的に、付加価値が安定せず、なかなか産業としての基盤が定まらない業界もある。その典型が石油業界である。

石油・石炭業界の付加価値と人件費の関係を見てみる。基本的に石油・石炭業界以外の産業は、一定の傾向や水準を維持しているが、石油。石炭業界は、付加価値が激しき変動している。石油。石炭業界の特殊性が付加価値の変動をみるとよく解る。

  

これだけ付加価値が変動すると必然的に労働分配率も一定しない。長期的な展望や計画が立てられなくなる。石油、石炭業界は、元々国家戦略や政策の具とされ、その時代その時代の国家戦略や軍事戦略、国際情勢に振り回されてきた。しかし、エネルギーは、国家の礎ともいえる産業であるから官民一体となって安定供給に努めるべきなのである。

ただ、石油業界と言うのは、極めて特殊であって通常は、付加価値率は、ある程度一定であり、変化するにしても緩やかなものである。

注目すべきなのは、1990年を100として人件費を指数化すると1994年から95年を頂点として人件費が減少している事である。特に製造業にこの傾向が顕著に見える。



法人企業統計

部門間の資金の過不足を見るためには、物価、金利、所得、為替、地価等が、各々の部門の資金の過不足にどのようにかかわっているかをら明らかにしていく事である。

経済の仕組みの主たる役割があるとしたら、分配の要である費用は、経済の仕組みの要でもある。費用は、無駄とか、無用だとか、不必要なものと言うのは間違いである。費用こそが経済の要なのであり、闇雲に費用を削減したら、経済は機能しなくなる。
利益は、余剰収益である。利益を追い求めて費用を邪魔物扱いするのは本末転倒であり、適正な費用を確保する為の収益を測る指針が利益なのである。


法人企業統計

利益率は、一見売上高と相関関係がないように見える。一つの要因は、利益は、差額勘定であり、金利とか減価償却費の様な他の要素との関係から導かれることにある。それ故にも為替の変動、原油価格の高騰などの影響を直接受ける事になる。
しかし、それだけに経営状態を直接的に表しているともいえる。
第一次石油危機後急速に下げた後、時々の市場の状況に影響されている。
この様に時間価値は、その基礎となる要素との関係を見ながら働きを明らかにしていく必要がある。

国内総所得が横ばい状態だと時間の働きが効かなくなる。すなわち、時間の作用が陰の状態となるのである。
それは、時間価値を構成している要素の基数の力関係が時間価値を通じて現れていると考えていい。そして、この相互作用が経済を動かしているのである。

高度成長時代は、時間の働きによって経済は動いていたと言っていい。
時間の作用がなくなると、経済は、時間の働きに替わる新たな活力が必要となる。

時間の働きとは、利益、物価上昇、金利、地代・家賃、所得の上昇、資産の上昇、市場の拡大、人口の増加によって発揮される。

時間の働きは、時間価値によって形成される。時間価値の核となるのは金利である。現在の日本は、ゼロ金利時代である。
ゼロ金利時代というのは、時間の作用が陰となった事を意味している。
必然的に経済成長もゼロになる。

時間の働きが発揮されなくなると負の働きに支配されるようになる。物価上昇も止まり、地代家賃も、資産価値も所得も上がらなくなる。利益も抑制されるようになり経済は縮小均衡へと向かう。

経済というの本来時間的な行為である。経済に対して時間が陰の働きしかできない。それが現在経済の根本的な問題である。
また、時間の働きを止めること自体が悪いのではなく、無自覚に時間の働きを止めるのが問題なのである。

時間の力は、拡大する時にだけ働くわけではない。縮小時にも働いている。
現代の経済は、成長拡大のみを前提として成り立っている。故に、縮小均衡時には有効でなくなるのである。
成長や拡大が止まる事が悪いのではなく。成長や拡大のみを前提として成熟縮小時の方策を建てていないのが問題なのである。
一方的に拡大し続ける経済は、貨幣価値の密度を薄めてしまう。
時間の働きというのは、周期、回転運動を主としています。本来拡大縮小を定期的に繰り返す方が経済としては安定がいいのである。

資産価値が急激に膨張する現象をバブルという。バブル現象を引き起こしているのは時間価値の性格である。
時間価値の形成基礎が複利であるならば時間価値は、必ずどこかの時点で、幾何級数的に膨張する。それがバブル現象である。
バブル現象が妨げられないとしたら幾何級数的に膨張した時にそれをどの様に制御し、変換するかをあらかじめ準備しておく必要がある。制御する仕方は、デノミのように名目的な変換をするか、市場に何らかの仕組みを組み込んでおくか等である。

市場の性格が変化すると不良債権の定義が問題となる。資産価値を基礎とするか、収益力を基礎とするかによって不良債権の意味は全く違ったものになる。
資産価値が下落している時に、担保主義をとれば、必然的に資金の調達力は弱まる。
収益還元主義に価値観を切り替えないと投資を拡大する事はできない。大体、バブルを発生させた原因の一つは、担保主義にあるのである。


自由主義経済の基礎は、資産と所得である。


自由主義経済を構成する基礎的要素は、所得と資産である。
資産は、生産手段を意味し、所得は、収益、収入を意味し、どちらも市場経済の基礎となる部分だからである。
投資は、資産となり、投資した資金を収益によって回収される。

何に投資をしたか、そして、投資した資金が回収されるか、そのために収入が確保されているか、それが家計でも、企業法人でも、財政でも一番問題となるからである。
そして、資金の調達源が所得と資産価値だからである。借金の返済は、基本的に所得の範囲内に収まる様でないとお金は回らなくなる。資金が不足したら資産を担保にして「お金」を借りる。収入も資産も無かったら現代の社会では生きていけないのである。

このうち、経済成長にかかわる要素は、所得である。資産の値上がり益は、直接的に経済成長にはかかわらない。
市場に資金を供給するのは負債である。資金は、所得の拡大を促す。負債を担保するのが資産価値である。故に、資産は間接的に経済成長を支えている。
ただ、経済成長を直接的にかかわっているのは、所得である。所得は支出と表裏の関係にある。
代表的所得である雇用者所得は、経営から見ると人件費である。人件費とは費用である。費用である人件費は、収益の範囲内で支払われる。
雇用者所得は、費用と収益の関係によってもたらされる。
適正な収益を上げて収益の範囲内で給料を払うのである。

プラザ合意後、急速な円高で不況に見舞われ、本業で思うように収益が上げられなくなった日本の企業の多くが、株や土地と言った投機的な金融取引によって収益の不足を補おうとした。それがバブルを引き起こしたのである。しかし、このような投機的取引は実体を持たない。故に、バブルがはじけると資産価値は際限なく下落し多くの企業は、底なし沼に嵌ったような状態に陥った。

お金を取り扱う金融機関も収益が柱である事に変わりはない。金融機関の収益の柱、基本業務は、業務純益、利鞘にある。金融機関も利益減は収益である事が原則である。
国民経済計算において土地や金融資産の取引は、所得としてみなされていない。それは資産の転移であり、全体取引の中で相殺されている。
借入金の元本の返済も所得としてみなされない。故に、金融機関にとって元本の返済を受けても利益としてみなされない、営業余剰して認識されない。
金融機関にとっての収益は、金利と手数料である。支払利息が稼げなければ、金融機関の営業余剰が出ないのは明らかである。
ゼロ金利、金融緩和は、金融機関の収益を圧迫しているのである。適正な金利を保てなければ金融機関の経営も成り立たなくなる。

国民経済計算書

内閣府


5000万円を貸し付けて金利が年1%を切ると利息は、年50万円にも届かなくなる。金利は悪だとする考え方はあるが、事実上金利がなくなった現在、むしろ金利の働きがよくわかる。金利の低下は、デフレ効果の一因ともなり、デフレ効果によって市場が縮小し、経済が停滞しているのである。
金利の影響が経済に反映しないとしたら、この様な金融の状態は、市場になにも影響しないはずである。しかし、現実は、リーマンショックの事例を引くまでもなく、金融の動向は、深刻な影響を市場に与えているのである。金利も単純に低ければいいというのは錯覚である。

経済を動かしている基本的要因は、資産と所得である。借金とか、蓄えを取り崩す事で得られる収入は一時しのぎに過ぎない。
本業が儲からないからといって投機的取引に活路を見出してしまうと、本来の役割が果たせなくなる。
本業で利益が出せる環境を整える事が何よりも求められる事なのである。
資産の値上がりによる利得は、付加価値とはみなされない。
この点を正しく理解していないとお金が流れる理由も流れなくなる理由も理解できない。

国民経済計算書の根幹は付加価値である。



国民経済計算書は付加価値を基礎にして計算される。国民経済計算書でいう、経済成長は、付加価値の増加を指して言う。付加価値を基礎と経済成長を計られる。
故に、国民経済計算書では市場の上面に現れる経済成長をとらえる事はできる。
しかし、市場の表面に現れてこない経済の働きは、表面に現れた経済現象から推測する以外にない。
経済を実際に動かしているのは、資金の動きである。資金を動かしているのは資産と所得の関係であり、また、資金の過不足を調整しているのは、金融である。資金の動き、資産と所得の関係、金融の働きを明らかにしないと経済を操作する事はできない。国民経済計算書の経済指標は、それを前提とした経済指標なのである。
付加価値だけを追っても資産(ストック)の働きは、見えてこない。
付加価値を生み出している水面下の資金の動きが見えないからである。

国民経済計算書で付加価値を構成しているのは、雇用者報酬、固定資産減耗、営業余剰・混合所得、間接税である。
企業会計における付加価値を構成しているのは、金利、人件費、減価償却費、利益、税である。
雇用者報酬と人件費、固定資産減耗と減価償却費、営業余剰と営業利益がそれぞれ対応しているが、まったく一致しているという訳ではない。
付加価値を構成する要素は、基数によって派生している。金利の基数は、負債であり、税の基数は、財政であり、人件費の基数は、所得であり、利益の基数は、売上であり、売上の基数は、物価、そして、減価償却費は、固定資産を基数としている。付加価値は、この基数の働きと深く結びついており、基数間の働きを抜きには、経済の変化の意味を読み解くことはできない。

付加価値を分析する場合、絶対数の変化、構成比率の変化。基数との関係が重要な鍵を握る。
例えば、人件費なら人件費総額の変化。人件費率の変化。基数である人口との関係等である。

全体の売上は、総生産から割り出す。

いずれの付加価値も、資金の流れを表していないし、付加価値だけでは資金の流れを直接的に把握する事はできない。
経済の実体を把握するためには、表に現れる総所得だけでなく、その裏で働いている資金の動きを明らかにする必要がある。

資金の流れは、資金調達と資金運用として現れる。

資金調達は、売上、借入金、資産、遊休資産の処分による。

総所得は、20年以上も横這いである。それは利益や所得が横ばいだという事を意味している。
利益が上がらなくなれば、企業は、費用を削減するが、投資を抑制し、資産を処分したり、資本を増強したり、内部資金を取り崩して資金不足に対処しようとする。
この様な動きを察知するのに、利益だけに頼っていると上っ面しか見えなくなる。
利益を生み出す仕組みを知るためには、収益と費用の関係を知る必要があるし、利益を生み出している貸借の構造を明らかにする必要がある。
利益が上がらないのは、収益が減少したからか費用が上昇したからか、それとも、同時に収益が減少し費用が上昇したのかのいずれかの理由である。利益だけ見ていたら、収益に問題があるのか、費用に問題があるのか、双方に問題があるのかわからない。
総所得というのは、付加価値を基礎としている。収益や売り上げを基礎としているわけではない。
利益だけでは、経営の実体や経済の実体を理解する事はできない。たとえ利益が向上したとしても人件費を減らし、減価償却費を削減し、投資を抑制したら全体の所得を増やしたことにならないからである。経済成長を促す為には、市場が拡大均衡の傾向を持つ必要がある。
この様な施策は縮小均衡策であり、拡大均衡策にはつながらないからである。問題は、企業が縮小均衡策をとらざるを得ない状況環境なのである。
なぜならば、基本的に利益は、収益から費用を引いた値である。
利益計算(損益計算)には、損益式と財産式がある。損益式は、収益から費用を控除、引いた値である。もう一つが財産式、期首純資産から期末純資産を控除、引いた値である。どちらにしても期間損益は、期中のフローの結果を現した値である。
また、資金の働きや流れを窺い知る事はできない。

問題なのは、資産の値上げ、値下げ効果が利益や経済にどのような影響を与えているか。長期借入金の返済額と残高の変化が資金の流れにどのように影響をしているのか。金利の経済にどのような働きをしているかを明らかにする必要がある。そのためには、付加価値分析だけでなく、より広範囲の構造分析が必要とされるのである。

国民経済統計(GDP)は、複式記入に基づくが最終的には、現金主義である。
国民経済統計(GDP)の基本式は、期首ストック+期間純フロー+調整項目=期末ストックでこれは、基本的にキャッシュフローを表した恒等式である。
また、総支出=消費+投資+政府支出+純輸出でこれも現金収支を表した恒等式である。
つまり、複式記入によって期間損益、現金主義どちらにも対応できるように設計されている。基本的には、現金収支を基礎としている。



経済の仕組みは収益を核にして動いている。


2018年現在の日本経済は、奇妙な均衡の上に成り立っている。一見、経済は均衡しているように見えるが、しかし、それは、本来あるべき姿の均衡ではない。景気は回復しているかの様に思えるがその一方で、歪み拡大しているのである。
歪みが拡大しているというのに緊張感や危機感のなさが不気味なのである。まるで何事もなかったような。政治家も、官僚も、経営者も、メディアさえもがあたかも認知症に陥ったかのごとく沈黙している。自分に都合のいい数字だけを羅列して、財政も、出口戦略について何も語ろうとしない。
しかし、肝心な事はなにも片付いていないのです。財政も、国債も、憲法問題だって、何もかも片付いていない。

景気が悪くなると公共投資によって景気をよくしようとする。しかし、公共投資だけで景気を制御できると考えるのは、危険な思想である。市場経済を支えているのは、経常的収入であり。それは、収益であり、所得である。
景気と言うのは、市場的現象であり、公共投資は、あくまでも補助的手段である。
リフレーション政策を主張する人が力を得ているが、そもそも、リフレーション政策も敵適度なインフレーション状態を保つ事を軸としている。適度なインフレーションを維持す目という事は、通貨と物価の関係の上に成り立っているのであり、根本は、生産、所得、支出の関係や構造に収斂するのである。ただ公共投資を増やし、金融緩和をすればいいという訳ではない。
リフレーション政策と言っても主軸は、市場をどの様にするのかであって、財政政策や金融政策は、その延長線上で考えられるべき事である。
また、財政政策や金融政策は、市場の状態、前提条件によってその効果は、制限される。同じ財政政策や金融政策でも市場環境、状態、制度的な前提が変われば効果は変わってくる。
一番、重要なのは、適正な収益、所得をいかに実現するかにあって、それは、需要と供給の関係から測られる事なのである。
闇雲に公共投資を増やしてもそれが民間企業の収益に影響を与えられなければ効果は、期待できない。公共投資が効果を発揮する為には、雇用を増やし、所得を適度に分散させなければならない。
公共投資が投資で終わっている限り、公共投資によって資金は、市場に供給される事はない。もう一つ重要なのは、現金収支は、部門間均衡によって保たれるのであり、国債によって景気対策と言う目的だけで公共投資を増加させることは、部門間の歪を拡大するだけである。

所得がないのに、金持ちになれるのはおかしい。バブルの時代は、資産家の貧乏人が続出した。可処分所得以上に支出があったら、貯蓄を取り崩すか、借金をするしか収入を得られない。本業が儲からなければ資産を売ったり、経費を削減するしかない。いずれも生産性がないのである。まっとうな収入がないからと言って博打で生計をたてるようなものである。そんな生活続くはずがない。真面目に働いて所得を得るわうにすべきであり、国は、働く場所を提供できるような施策をとるべきなのである。
経済の核となるのは、経常的な収入なのである。

経済の仕組みは、経常収入から経常的支出を引いた値の部門間の差によって動く時計みたいなものである。故に、部門間の経常収支と経常支出の差をいかに調和させるかが経済の仕組みを動かすための要点となる。
ただ一意的に過不足が決まるのではない。一定の周期で過不足が入れ替わることが望ましいが、なかなか、過不足は入れ替わらない。そうなると債務が家事用に累積した部門て逆に余剰の債権が蓄積している部門とに乖離してしまう。
成り行きに任せていれば資金の不足は解消されるわけではない。自由放任に任せたら資金の過不足の偏りは拡大していってしまうのである。

現在の日本経済を停滞させているのは、総所得の低迷である。経済成長は、GDP、すなわち、総所得によって測られる。総所得とは、所得の総和である。だとしたら所得とは何かを明らかにしなければ抜本的解決の糸口は見いだせない。
所得とは収入を意味する。しかし、所得は、即、収入と定義するわけにはいかない。
所得というのは実質的に自分が自由に使える収入。収入の中には、自分が自由にならない部分も含まれているのである。経済を活性化する鍵を握っているのは所得である。所得の正しい意味を理解する上で重要なのは、収入、所得、収益、利益の意味を正しく理解しておく事である。

そして、所得を考える上では、収入とは何かを理解する必要がある。
では、収入とは何か。収入を定義すると、収入とは、財やサービスの対価として受け取るお金、あるいは、「お金」の量をいう。現在の税制度では、所得とは、この収入から必要な経費を差し引いた純収入を言う。

収入を平準化しようというのが会計の根本思想である。
収入を平準化しようとする過程で収益と言う思想が生まれる。ここで注意しておかなければならないのは、収入と収益は違うという点である。収入と収益の違いが判らない人が結構いる。収入と収益の違いが判らないと、期間損益上の利益と損失の意味を理解する事はできない。

そして、今日の経済は収益を支柱として構成されている。
「お金」の流れは、資金の過不足によって作られる。それが現金収支である。
「お金」の働きは、期間損益によって作られる。期間損益と現金収支は相互に関連しているが同じ事ではない。

収入のは、資金調達を意味し、資金調達には、借入金によるものも含まれる。それに対して、収益には、借入金は含まない。基本的に収益は、売上を意味する。売上は、数量と単価の積である。
この点が重要なのである。
物の流れは、売買によっておこる。貸し借りからは物の動きは生れない。経済は、物を分配する場であるから、貸し借りからは、実物市場の働きは発揮されない。「お金」は使えば、なくなる。つまり、不足する。不足した資金は、新たに所得によって補充するか、借りるしかない。つまり、所得が不足した時貸し借りが生じる。所得によって借りた金が返済されれば、資金は、常に均衡する。しかし、短期で返済できない借金もある。短期的に返済できない負債は、長期負債を構成する。長期的負債の主たるものが投資に対する借金である。返済できない負債は、長期的資金として蓄積される。
収益によって、あるいは、所得によって一定の返済ができなくなると負債は増大する。今日の経済の問題は、長期負債が際限なく増殖している事に起因している。

その主因は、収益や所得の範囲内で負債の返済ができなくなっている事である。その要因は、収益や所得の低下にある。収益の低下の原因は、量的な要因と価格的要因がある。市場が成熟してくると量の拡大が制約を受ける。量が伸びなくなったら、価格によって調整されるべきだが、現代の政策は、価格の上昇を許さない。その結果も市場は縮小し、デフレーションに陥る。その上収益の範囲内で返済ができなくなるから負債が累増する。

物の生産と生産の関係は、常に均衡しているわけではない。人が必要とするものが不足だったり、逆に過剰になったりもする。
生きるために不可欠な食料は、特に収穫が安定していなかった。余剰な収穫があったかと思うと次の年に飢饉が来たりした。
一定の食料を継続的に確保する事、それが経済の第一義だったのである。それは今日でも変わらない。
物は溢れているのに貧乏人ばかりで一向に売れない。空き家だらけなのに買う金を持っている人は限られているこの様な事は、経済の仕組みに問題があるからである。
この様な不均衡を是正するためには負の部分をうまく活用する必要がある。

故に、物に生産、分配、消費、貯蔵という働きがあるのに対して、「お金」に収入、所得、支出、投資等の働きがあるのである。そして、その働きは、売り買い、貸し借りによって発揮される。

「お金」は、経済における負の部分の働きを担っている。今日の経済は、「お金」が負の部分を担う事で物という正の部分を成り立たせているのである。
結局、景気が乱れるのは、負の部分の制御がうまくいかないからである。

成長期は、作れば売れる状態である。しかし、市場が成熟してくると市場が飽和状態に陥り、生産財が余ってくる。成長期と成熟期とでは、競争の質が違うのである。これを一律に処理しようと矛盾してくる。
市場が成熟して来たら、単純な大量生産型産業から多品種少量の成熟型産業へと脱皮する必要が迫られる。そういった状況の変化を踏まえて量を重視すべきか、価格かを重視すべき。価格と品質のどちらを優先すべきか。それによって大量生産型産業を優遇するか、多品種少量型産業を育成するのか。何を優先するかを明確にする必要がある。
その上で雇用と所得との平衡を保ちつつ経済政策を調節する必要がある。何でもかんでも規制緩和、競争の原理は愚策であり、かえって寡占独占を招く危険性がある。

どこまでも高くへと昇ろうとする。だから失速するのである。しかし、飛行には、限界がある。目的地が近くなってきたら高度を下げなければならない。
飛行機だって一定の高さに達したら水平飛行に移らなければ役に立たない。環境や状況の変化に合わせて操縦する事が求められるのである。

収益は、数量と単価の積である。
市場が成熟し量的な拡大が望めなくなれば、収益の拡大は、価格によるしかなくなる。いかに適正な価格を形成し、維持するかが大切になる。それを無理やり競争をさせ収益の悪化を招くのは、論外である。結局、品質を低下させ、負債を累積させ、雇用を悪化させる結果を招く。

収益を調節する手段には、価格統制、規制緩和、規制強化、独占禁止法による制約、市場の封鎖、取引の停止、取引規制、不況カルテル、価格協定、登録制、競争入札、参入規制などがある。規制悪論、何でもかんでも規制緩和すれば上手くいくと思い込んでいる人が大勢いるが、経済政策に絶対という事はない。手段の是々非々は、状況や目的に応じて判断されるべき事である。
価格統制は、価格に直接働きかけて過度の競争を回避し、物価の上昇を抑制したり、乱売合戦、価格競争などを抑制し、市場の規律を守る目的でする。ただ、価格統制は、市場の競争原理が働かなくなり、適正な価格が形成されなくなる危険性がある。問題は、いかに市場の規律を保ちつつ、適正な競争を維持するかにある。

規制緩和は、規制によって市場にかかる負荷を軽減し、競争を促す効果が期待できる。
規制強化は、逆に、規制によって市場に負荷をかけ取引の過熱を覚ます効果が期待できる。
規制の変更は、前提条件、環境や状況の変化によって適性を欠く規制を変更する事で取引による市場の歪を矯正する効果がある。

独占禁止法による手段は、独占寡占による市場の歪を抑制する事を目的としている。気を付けなければならないのは、事実上、経営主体の数の問題だけでなく、市場の状態や寡占独占状態にしてしまうような取り締まる事を目的としている。寡占独占状態にするような施策には、不当廉売なども含まれる。

市場が過熱して収拾できない状態に陥ったら市場を閉鎖したり、取引を停止するという非常手段も取られる。一種のブレーカーである。

競争力、競争力と言うが学者や評論家、政治家は、競争力を新規事業や技術革新に求めるが、新規事業や技術革新が経済全体に占める割合は、狭いのである。経済の根幹にあるのは、俗にいうコモディティ産業である。また、現在新規事業、技術革新と言われる分野もいずれは、コモディティ化するのは必須なのである。

資金調達を担保しているのは、資産と収益力である。資産価値を下げ競争を煽って収益を抑圧すれば、外部から資金調達ができなくなり、内部資金調達に頼ざるをえなくなる。必然的に市場は、縮小均衡へと向かう事になる。

収益を改善するためには、適正な価格を維持する事にある。故に、独占禁止法でも不当廉売や過当競争は、禁止されていたのである。その為に、価格は適正な水準を割り込み、市場は、過当競争によって荒廃してしまったのである。

経済の低迷を脱するためには、まず、収益を立て直す事である。何でもかんでも、規制緩和、競争をさせろというのは、余りに見識がなさすぎる。適正な価格が維持されなければ、結局、経済の劣化を招くのである。

現在の経済の低迷状態は2000年後に始まっている。要するに経済を長い低迷に陥れた要因は、2000年前後にとられた政策なのである。
バブル潰しと称して土地取引の規制緩和、出資規制、金融引き締め、強引な不良債権処理これらが市場の底を割ってしまったのである。この点を反省して政策を変更しない限り、低迷から抜けきることはできない。


経済の実態は、収入と支出の均衡によって測られる。


経済は分配の仕組みだから、割合や比率が基本となるのである。
いくら欲しい物があっても「お金」がなければ買えない。「お金」があっても、物がなければ買えない。物や「お金」があったとしても使い道がなければ、必要でなければ人は、買わない。
生産は、物を基本とし、所得は、「お金」を基本とし、消費は、人を基本としている。
物と人は、有限であるのに対して、「お金」は無限である。
人は、所得の範囲内で物を購入する。人は、手持ち資金の範囲内で必要とする物や用益を市場で購入する。重要な事は、どこで、どの様にして、いつ「お金」を手に入れるかである。
注意しなければならないのは、物と人は、有限であるのに対して、「お金」は無限だという事である。

利益は、指標であって目的ではない。本来の効用は、収益と費用にこそ求められるべきであり、経済を支えているのは、収益と費用の関係である。そして、収益は名目勘定であるのに対して、費用は実体的勘定である。いの核は、費用対効果にあるのである。

利益は指標と言う実体のないものであるのに、利益を目的化した事が間違いなのである。利益は、指標であり、指標として有効なのである。

利益を目的化するから、費用を目の仇にして削減する事を目的としてしまう。その結果、経済は実体を失って虚構となるのである。

経済は、収入と支出の均衡によって保たれている。収入と支出の関係は、直接的に経済に反映されると言っていい。

国内総生産(GDP)を所得・生産側で構成するのは、国内要素所得と純間接税と固定資産減耗である。このうち、純間接税と固定資産減耗は、キャッシュフローを構成する所得ではない。実際にフローを形成するのは、国内要素所得である。それが総生産に占める割合が所得の働きの根拠となる。なぜならば、経済の本質は分配にあるからである。
また、国内総生産(GDP)を支出・消費側から見ると最終消費支出と総資本形成、純輸出である。総資産形成と純輸出は、消費支出を実現するものではない。故に、資金フローを実現するのは、国内要素所得と最終消費支出である。
市場の表面に現れる景気は、国内要素所得と最終消費支出によって作られる。また、分配という観点から見ると総生産に占める国内要素所得と最終消費支出との関係を見る必要がある。

国内要素所得/国内総所得,国内最終消費/国内総支出

国民経済計算書

国内要素所得が国内総生産に占める割合を見ていると80年、90年、2000年と継続して低下している。
これは実質的な所得が低下している事を意味している。それに対して90年代は、最終消費支出は上昇しており、98年以後は、所得を上回る支出をしている事になる。
注意すべきなのは、所得は、名実ともに減少しているのである。

日本経済は、基本的に80年代、90年代は、消費を所得が上回っていたといえる。90年代に入ると所得は横ばい状態になったのに対し消費は緩やかな上昇を続けていた。その結果1998年から1999年にかけて消費と所得は交わり2000年以降消費が所得を上回るようになる。交差するのは、1998年~2000年にかけてであるが、分岐点となったのは、1991年と思われる。



国民経済計算書  単位 一兆円 内閣府

これを民間最終消費、家計現実最終消費と雇用者所得の観点で見ると国内要素所得は、1994年から、雇用者報酬は1995年から減少し始めている。
総生産に占める国内要素所得は、80年代、90年代、2000年代を通じて減少傾向にあるのに対して消費支出は、80年代当初は、減少傾向にあった80年代から90年代等はいると上昇傾向に入る。1999年から一時横ばい状態にはなるがその後上昇へと転じている。
所得や支出が総生産に占める割合の変化は、名目的な所得や支出の変化というよりも総生産との相対的関係によるとみられる。つまり、働きの実際を示していると言える。


  
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また、国内要素所得は、雇用者所得と営業余剰・混合所得との和である。
民間最終所得は、民間最終消費支出と政府最終消費支出の和、あるいは、家計現実消費支出と政府現実消費支出の和からなる。

最終消費支出に家計が締める割合は、一定しているが国内要素所得に占める雇用者報酬は上昇している。裏返してみると所得に占める割合で営業余剰・混合所得が低下しており、それだけ、民間企業の収益力が陥ることを示している。


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国内要素所得の推移を見ると所得全体が縮小傾向に陥っている事がわかる。内訳を見ても営業余剰・混合所得が圧縮されている事が見て取れる。


 
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総資本形成がバブル崩壊後低下しているのに対して、資産減耗費、即ち、償却費が上昇している。
2008年、総固定資本形成と資産減耗費は交差するがそれ以前から資本の減少は始まっている。その分岐点は、1991年である。


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日本経済は、所得の減少を過去からの蓄えを食いつぶす事で遣り繰りをしている事が見て取れる。
つまり、民間企業は、収益力が低下しているうえに、外部から資金を調達できない状態に陥り、資産・資本を取り崩して経営を継続している状態が20年以上も続いている。それが、失われた20年の実態なのである。

いずれにしても、大きな分岐点の1つが1990年、もう一つが2000年にある事が読み取れる。

物(資産・費用)の価値は、取引実態があって決まる。それに対して「お金」(負債・収益)は名目的価値で額面によって定められている。資本と利益は差額勘定である。物の価値は、取引によって決まるために常時変動している。それに対して名目的価値は、額面に定められている額は不変である。例えば、資産価値が上昇すれば価値総体が上昇するために資本に余力が生じる。費用が減っても利益に余剰が生じる。逆に資産価値が減少したり、費用が上昇すると資本や利益にゆとりがなくなり圧迫を受ける。
物の価値の拡大と縮小が経済を動かす原動力なのである。

資産価値の減少と収益力の低下が背景にあると考えられる。
円高不況が引き金になって資産価値の急激な上昇、即ちバブルがその反動の資産価値の急速な低下、それに伴って収益の低下が起こり、民間企業は、投資を控える事となった。収益の低下は、資金繰りの悪化を招き、遊休資産の経費削減によって収益の確保を計ろうと一斉に大多数の民間企業が走った。第一資産価値の大幅な減少は、土地の担保力の依存していた民間企業の資金調達能力を急速に衰えさせたのである。新規投資は結果的に控える事になった。
第一に、バブル潰しとして土地に対する融資規制による株価も含めた資産価値の下落。不徹底だったために、政策に綻びが生じた。資産価値の下落によって企業の資金調達力の低下。第二に、金融の引き締めによる資金繰りの悪化。第三に、規制緩和による過当競争と収益力の低下。第四に、急激な円高による対外競争力の低下。第五に、会計原則の変化に伴う、経営体質の変化。第六に、円高や規制緩和によって物価の上昇が抑制された。第七に、正規採用から不正規採用への転換による雇用の質の変化。第八に民間企業が外部から資金調達ができなくなったことで、赤字主体から黒字主体に転換し、その分、財政が赤字化した。
さらに追い打ちをかけたのが、第九に、強引な不良債権処理による資産価値の下落を加速した。第十に金融緩和、低金利、ゼロ金利、マイナス金利による金余り現象。時間価値の喪失である。金融機関の収益の低下である。第十一に、規制緩和によって市場が寡占、独占に陥りつつある。

図式化してみると資産価値の急激な現象は、総資本の圧縮圧力となり、元々円高不況で体力を失くしていた民間企業の収益力、資金調達能力を衰弱させた。見かけ上の財務体質は向上したが、実質的な資金調達能力は弱まった。そのために、企業は資金調達を外部資金調達から内部資金に切り替えた。収益力を弱めたもう一つの原因は、規制緩和による過当競争である。

GDP・GDI、消費支出と現実消費

国民経済計算 内閣府

個人所得が実質的な総所得の中核を構成する。


実質的な総所得の基礎は、個人所得にある。

生産側から見た総所得は、雇用者所得、営業余剰・混合所得、固定資本減耗、生産・輸入品に課せられる税からなる。
生産側に占める雇用者所得は、50%以上を占めている。また、雇用者所得は、民間最終消費に直結しているからである。



国民経済計算書    内閣府 単位一兆円

経済の仕組みの本質は分配にある。
分配は、絶対額より、比率に現れる。
故に、絶対額の推移だけでなく、比率の推移を調べる必要がある。


国民経済計算書    内閣府


個人所得の総量は、労働人口と平均所得の積によって導き出される。
個人所得を増やす為には、労働人口を増やすか、平均所得を上げるさせるかのいずれか、あるいは双方が必要がある。
支出から見た場合、市場規模が基礎となる。市場規模は、消費者人口と単位消費量の積で表される。
問題は、労働人口と消費者人口、平均所得と単位消費量の均衡である。所得を貨幣的側面だけから見ていたら総所得は改善されない。労働人口と消費者人口、平均所得と単位消費量の不均衡が景気を悪化させるのである。そして、人口も、単位消費量も「お金」の問題ではない。人や物の量の問題である。
又、平均収入だけが問題なのではなく、分散も重要な働きをしている。それは、総所得の働きは、人口構造や労働構造、消費構造、偏りなどに深く影響されるからである。人口や消費にある程度の厚みがないと「お金」は円滑に循環しなくなる。そのためには、生産や収入の均衡が求められるのである。
労働人口と消費者人口の問題は、少子高齢化や失業率と深く関わっている。平均所得を向上させても労働人口が減少し、消費者人口が拡大していたら総所得の増加にはつながらない。また、生産量が伴わなければ単位消費量の改善にはならない。

総所得は、お金の問題だけに還元する事はできないのである。人や物こそが経済の根底をなしているのである。
いくら所得を増やしても国民の厚生が改善されないと経済は豊かになれない。そこに求められるのは量だけでなく、質なのである。収入だけ増やしても生産や仕事が伴わなければ経済的不均衡を増大させるだけである。

名目GDPに雇用者報酬が占める割合は、50%前後で安定的に推移している。それに対して、非金融法人の営業余剰・混合所得、即ち、営業利益の割合が低下し固定資産減耗、即ち、減価償却費の割合が上昇している。
名目GDPは、91年にバブルが崩壊した後横ばい状態が20年以上続いている事になる。

非金融法人の分配部分を拡大してみると全体に占める非金融法人が占める分配は大きく変化していないが営業余剰・混合所得と固定資本減耗が占める割合は、大きく変化している。固定資本減耗が占める割合と営業余剰・混合所得の割合が入れ替わっている。これは、収益による分配より、減価償却や内部留保を取り崩す事によって得られる利益に取って代わられている事を意味している。






所得は対価として支払われるのが基本



所得は何らかの対価として支払われることが前提である。
なぜならば、経済は基本的に双方向の働きによって成り立っているからである。
双方向の働きがあって経済の均衡は保たれている。
所得は何に対する対価として支払われるかが、経済にとって重要な意味がある。
所得は何の対価かというと第一に、労働に対する対価。第二に、生産手段に対する対価。第三に権利に対する対価が考えられる。

所得には、労働の対価として得る所得、土地や権利、資金から派生する所得、年金や保険料、補助金といった公共機関からの給付金がある。
これらの所得の中で直接、生産にかかわる所得は、労働の対価、生産手段に対する対価として支払われた所得である。労働も生産手段の一種として考える事もできる。
社会的効用は、労働の対価、生産手段に対する対価として支払われた所得によって発揮される。
生産的所得は、労働の対価、生産手段に対する対価として支払われた所得を言う。なぜならば、人的生産手段は、労働でしか得られないからである。
年金や保険料、補助金等の給付金は、所得の再分配であり、付加価値を生み出すものではない。
生産的労働だけが財の生産に寄与するという事であれば、生産的所得によって生産された財を総所得で分配する事になる。
そして、総所得は総支出でもある。
すなわち、労働で生産された財を総支出によって最終消費者に分配する事になる。

故に、問題となるのは、生産労働と総所得の比率、個人所得の幅と分配の偏り、総所得と総生産、総支出の関係である。

経費の削減は、生産労働を縮小する働きがある点を見落としてはならない。

気を付けなければならないのは、総所得には、地価の値上がりや金利は含まれていないと言う点である。

現在の経済の仕組みを動かしているのは、「お金」である。
しかし、経済の実態は、人や物にある。
なぜなら「お金」は虚構である。「お金」そのものに実体があるわけではない。

「お金」の流れの働きを理解するためには、物の動きを正しく理解する必要がある。


全業種・全規模

企業法人統計 財務省

消費のための支出と生産に基づく所得との相互作用によって「お金」は、循環するのである。消費だけでも経済は成り立たないし、生産だけでも成り立たない。一人の人間が生産者と消費者を兼ねる事で、生産と消費は均衡するのである。生産は生産、消費は消費として区分したら、経済の均衡は保てなくなる。所得の範囲内で支出を抑制しようという働きが経済全体の調和を保っているのである。

労働の対価して支払われるから報酬は、社会的評価と結びつくのである。一般に人は、社会的な評価に基づいて自己実現する。
人としての生き甲斐や価値は、自己実現によって確立される。その最も有効な手段の一つが労働である。
労働は、自己実現のための手段なのである。


資産の対極に負債がある



貸し借りと言うのは、一つの取引を主体を変えて表現しているのに過ぎない。Aと言うは企業がBという言う企業から1億円を借りるという取引は、Bと言う企業からAという企業へ1億円貸すという取引を視点を変えて言い換えているのに過ぎない。貸し借りを合わせると相殺されてゼロになる。それがゼロ和である。資産を購入するためには、外部から資金を調達するか、あるいは、内部に蓄えておいた資金を取り崩すかして資金を工面しなければならない。資産の増加は、負債の増加か純資産の減少を意味する。つまり、資産の増減は、負債の増減、純資産の増減を意味するのである。

資産は、調達した資金の運用先を示す。資金の調達手段には、負債取引、資本取引、損益取引がある。資金の調達手段の中で損益取引は、費用と対比されるため残された負債取引と資本取引が資産に対比される。つまり、資産の対極には、負債と純資産のいずれかが関わっているのである。

資産は基本的に生産手段を指す。
資産を持っているだけでは収入は生まれない。
資産は、資産そのものを売るか、資産を担保にお金を借りないと収入にはならない。
資産に税を課すというのは、資産を売買したと仮定する事で成り立っている。実際に売れるとは限らない。そこに問題がある。自分が住んでいるとか、売れ残った物と言った資産まで売れたと仮定され、現金を徴収されたら、借金をしない限り払えなくなる。

もう一つ注意しなければならないのは、現預金も資産だという事である。「お金」や預金も持っているだけでは収入にはならない。

財産にかける税としては相続税や、固定資産税がある。相続税は、実際に取引があった事を前提とするのではなく、取引があった事を仮定する事で課す税である。
つまり、相続人と被相続人との間で実際に金銭の遣り取りがあるわけではない。

収入と所得の違いを明らかにしたいならば、所得税を考えるとわかりやすい。
所得税は、所得を実務的に定義しているからである。所得税を分析すれば、所得と収入の違いを実体的に明らかにする事ができる。
収入を対象とした税には、所得税、法人税などがある。
ただ、法人税は、利益に対して課税するものであり、純粋に所得にかける税とは言い切れない。

収益というのは、収入ではない。売買取引が成立したと仮定し、それを前提とした現金収入を想定した上に成り立ち概念である。必ずしも現実の現金収支と一致しているわけではない。利益は、更に売買取引が成立したと仮定し、更にその上で現金支出を想定する事により成り立っている。

負債から金融資産との差額を部門別にひき比べて資金の過不足をみる。第一に総量は、ゼロ和である。つまり均衡しているという事が前提である。



日本銀行 単位 1兆円

持続的に資金が家計に金融資産として蓄積されているのが読み取れる。非金融法人は、バブル崩壊後、負債が減少している。それに対して、その分一般政府が負債を膨らませている。

バブル崩壊後、総所得が伸び悩み、土地の相場が下落しているのに、引き続き資産負債残高の幅が拡大し続けている。それが問題なのである。
相対的にいうとバブル崩壊後地価の下落によって担保力が低下して外部から資金調達が困難になった非金融法人の負債残高の幅が急速に縮小しているのに対して、財政赤字が拡大している一般政府と海外部門の債務は上昇している。雇用者所得が伸び悩んでいるのに家計の資産は引き続き上昇している。つまり、収入が横ばいで資産価値が下がっているのに、借金が増えているのが今の日本の現状なのである。そして、借金を減らしているのが非金融法人で借金を増やしているのが、一般政府と海外部門である。反面、資産を拡大しているのが家計と金融機関である。
この状態をどう考え、どの様に対処すべきかを策定するのが為政者の仕事である。


三面等価



国民経済計算には、三面等価という概念がある。要するに、生産(付加価値)、分配(所得)、支出(消費)は、個々の局面を見るとそれぞれ違いがあるが、総量は一致するように設定された概念なのである。
つまり、国内総生産、国内総所得、国内総支出は、一つの事象を違う局面で見ているに過ぎないのである。そして、国内総生産は、経済の成長度合いを測る指標なのである。

三面等価は経済の働きの実態を知る為には、非常に深い含蓄がある。
三面等価は、「お金」の流れが三つの働き、生産、分配、支出を発生させている事を意味している。

経済の働きは単純ではない。いくつかの要素が組み合わさって一つの働きを構成している。
経済には、生産から消費に至る過程。収入から支出に至る過程。労働から分配に至る過程がある。これらの過程を関連付けているのが「お金」の流れである。
「お金」の流れは、資金の過不足を生じさせる。資金の過不足が経済の仕組みを動かしているのである。

なぜ、三面等価のような事が成り立つのか。第一に、「お金」の動きは、双方向な働きを派生させ、なおかつ、個々の取引の経済的価値総和は、ゼロとなるからである。第二に、「お金」は、循環する事で機能を発揮する事である。

「お金」の働きは、双方向の働きによって成り立っている。財の流れの反対方向に同量の経済的価値を持った「お金」の流れがある。
取引は、売りに対して買いがあり、貸しに対して借りがある。売り買い、貸し借りは常に一対になって成り立っている。

一つの視点、例えば売手から見れば売りは売りでしかないが、買手の視点を加えると売手の売りは、買手の買いになる。売り買い、貸し借りは一つの取引だから、合わせると経済的価値は相殺されてゼロになる。それがゼロ和である。
一対で経済的価値は成り立つのだから、一つの流れの総和は、逆の流れの総和と一致している。所得の流れと支出の流れの総和は一致している。生産の流れと消費の流れは一致しているのである。

市場取引では、一つの取引に対して必ず反対取引が想定される。贈与のように「お金」の移動がない取引でも反対取引が想定される。
唯一の例外は税と給付である。税と給付は、所得の再分配と資金循環を目的としているからである。

貨幣価値は、「お金」を循環させる事で制御されている。「お金」は、一方的に流されているわけではない。
単に行政費用を支払うだけの目的ならば、税を徴収する必要はない。必要なだけお札を刷ればいいのである。
しかし、その様な事をしたら貨幣価値は維持できない。貨幣は、循環する事で機能を発揮するからである。それは、貨幣の働きが分配の手段にあるからである。資金の過不足が生じると同量の貸し借りによって常に資金の過不足は解消されなければ市場は均衡を保てない。
貨幣価値は、流通する貨幣の量と貨幣と財双方の需要と供給によって成り立っているのである。だから、貨幣は、閉じた空間でしか機能しないのである。部門間の資金の過不足の和は補い合って常にゼロとなる。貨幣価値の総和は零なのである。

これらの前提に立っているから三面等価が成り立つのである。

三面等価の働きを理解すれば経済の動きがわかるようになる。
要するに何をどうすれば、所得、付加価値、消費の総量は変わるのか、また、全体を構成する部分の構成や比率、働きがどの様に変わるのかがわかれば経済の変動に備える事が出来る。所得の総量の増減、個々の要素の比率と変化が人や物の関係にどの様にに働くかが鍵を握っている。
それ故に、全体の増減、構成や比率、働きが、生産や分配、貯蓄にどのような影響を与えるかが明らかになれば、経済の異常な動きに対しても対策を立てる事もできる。

三面等価というのは、経済現象を生産という局面、所得という局面、分配という局面から認識しているという事を意味する。つまり、元の経済現象は一つなのである。
生産局面は、生産から消費という過程によって経済を捉え、所得は、収入から支出という過程から経済を捉え、分配は、各部門に対する配分の過程から経済を捉えている。
現実の経済は、これらの局面が組み合わされ事で成り立っている。

故に、経済は、一つの局面だけ見ても理解する事は難しい。複数の局面を組み立てる事ではじめて経済の構造は立体的に見えてくる。

重要なのは、第一に、生産、分配、支出の局面。第二に、消費、投資、貯蓄といった支出の用途、使い道。第三に、家計、非金融法人企業、政府、海外等といった経済主体。第四に、個人所得、事業者収入、税といった資金の調達源。第五に、資金の流動性、資金の蓄積、すなわち、フロー、ストックの量である。
そしてこれらが関連づけられる事で経済の構造が浮かび上がる。


国内総生産


三面等価は、経済の働きの結果を意味する。生産、所得、支出は、経済の状態を表すだけでなく、調和も意味する。一つの要素だけが突出しても全体の調和は保てないのである。
今日、効率というと生産効率を指して言うが、分配にも、支出にも効率がある。生産効率ばかりが追求されると分配や支出の効率が損なわれ、経済全体の調和が失われてしまう。支出の効率とは、費用の効率であり、消費の効率である。支出の効率は、量よりも質が重要である。

要するに、今の社会は、「お金」の儲け方ばかりに偏って「お金」使い方が忘れ馴れているのである。

国内総生産は、生産という側面から生産された経済価値の全体を集計した値である。総生産とは、付加価値を集計した値である。
国民経済計算書では、産出から中間消費を差し引いた値を総付加価値、粗付加価値とする。粗付加価値を一国単位で集計したものが総生産である。総付加価値から固定資本減耗を引いた値が純付加価値である。純付加価値を集計した値が国内純生産である。
生産で重要なのは、過程である。
付加価値とは、時間価値でもある。

固定資本減耗は、一般に減価償却費と同じだと考えられがちであるが、固定資本減耗は、物的劣化とか、陳腐化とか、災害や事故による損害等といった物的概念であり、時価主義に基づかなければならないのに対して減価償却は会計上の概念であり、取得原価主義に基づくため一緒にはできない。
また、固定資本減耗は、測定が難しい。故に、一般に総付加価値を基礎として総生産は計算されている。

我々は、生活に必要な物や欲しい物があると「お金」を出して市場から買って手に入れる。「お金」は、手持ちの資金の中から出す。手持ちの資金が足りなければ、蓄えを取り崩すか、借りるか、それとも、「お金」を出してもらう。経常的に使う「お金」は、働いて稼ぐか、物を売って稼ぐ。余ったお金は、預金などの蓄えにまわす。要するにこれが基本なのである。
そして、国民経済計算では、始めは、誰も「お金」を持っていない、即ち、ゼロから始める事を前提としている。故に、最初は、全員、資金不足なのである。
手持ち資金の中から支出をする。手持ち資金の基本は、所得と貯金である。そして、所得は、物を売るか働くかで得る。基本は、収入の範囲で支出をするが足りなければ借金をする。余れば預金をする。収入の中から税金や社会的費用が差し引かれる。この循環が経済の基本である。個人も企業も基本的には同じである。
働いたり物を売って得る収入は所得である。民間企業であれば売上、支出は費用である。そして、この流れは、常に資金不足を前提としている。必要とする資金が常に不足する状態だから人は生産活動に従事するのである。人は働かなければ生活ができないようにできている。むろん例外はある。幼児や高齢者、病人などは扶養家族として基本的には、家族の稼ぎに依存している。面倒を見る家族がいなければ社会が変わって面倒をみる。
そして、この流れに沿って経済活動を観察するのが国民経済統計である。

国内総生産を所得(分配)という局面から見ると、「雇用者所得+営業余剰+間接税-補助金+固定資本減耗」、つまり、個人所得、現金残高、税からなっていると考えていい。これは、雇用者所得は家計に、営業余剰と固定資本減耗は、法人企業に、税と補助金は、財政と各部門への分配を含意しているのである。
分配は、部門に還元され、部門間の資金の過不足に集約される。
営業余剰と固定費減耗を足すという事は、キャッシュフローの残高を意味する。つまり、事業収入を意味する。注意しなければならないのは、事業収入というのは、現金主義的概念であり、期間損益的概念ではないという点である。つまり、利益とは直接結びついていない。
要は、資金がとのような経路でどの程度流れているか、流れに偏りがないかが鍵を握っているという事である。

国内総支出面から見ると総支出は、「最終消費支出+総資本形成+輸出-輸入」、つまり、消費と投資と政府支出と輸出と輸入の差額からなる。

本来、生産や消費、労働や分配は、人や物の問題である。「お金」の問題ではない。しかし、物の動きや人の動きは、複雑で簡単に全体像をつかむ事が出来ない。それ故に、貨幣価値という数値に置き換えて経済の動きを監視しているのである。しかし、経済の実体は物や人にある。
ただ単に数値としてのみ国内総生産、国内総所得、国内総支出を見ていたら、この辺の働きは見えてこない。
所得と支出は微妙に関わり合っている。しかし、取引の実態はわからない。実態は生産財にある。この点を間違ってはいけない。
支払われた賃金だけ見ても働きは見えてこない。ただ賃金の多寡だけである。
値段だけ持ても商品の品質まではわからない。
名目的部分、すなわち、お金は、あくまでも分配上の問題であって実態があるわけではない。価格は、その時点での市場の名目的な実勢を表しているのであってその物自体の実質的価値を表しているわけではない。価格はあくまでも陰であって実体は物自体にある。問題は陰に驚いたり、踊らされて実体を見失う事である。

経済成長は総所得に依存している


経済は所得を中軸としている。所得は付加価値である。

所得は、時間価値を表す。つまり、付加価値を表している。
時間価値は増減として表される。単位期間内で増えたか減ったかが時間価値を形成するからである。

経済成長というと誤解を生じやすいが、経済成長は、拡大均衡を意味している。しかし、経済は、常に拡大均衡しているわけではなく。一定の臨界点を超えると縮小均衡へと転換する。経済は、拡大均衡と縮小均衡を繰り返しながら生成発展しているのである。
重要なのは、経済が拡大均衡局面にあるか、縮小均衡局面にあるかである。
その局面によって採るべき施策が変わるからである。問題を検討するにせよ、対策を立てるにせよ何事も前提条件が鍵を握っており、前提条件を確認する必要がある。

経済成長の基礎は所得にある。経済成長を促そうとしたら、所得を伸ばす事を考えなければならない。
経済成長が総所得に依存しているというのならば、経済成長を促す為には、総所得を増やさなければならない。総所得を増やす為には、個人所得、現金残高、間接税収入を増やす以外にない。

所得を増やすためには、収益力をつける事である。収益力は生産手段の質にかかわる。生産手段とは、固定資産である。
ところが現在、採られている政策は、債務の改善に重点が置かれ、その為に資産が劣化している。それが収益力の低下を招いているのである。
例えば、産業の成長を促すならば企業収益の安定を画するべきである。
何を目的とするかを定め、それに対して何に対して何をどの様にするかを決める。これが鉄則である。何を目的とするかは、どの様な状態にするを明らかにする事である。例えば、経済を正常な状態、成長できる状態にする事を想定するならば、市場の拡大を目的とし、企業の収益力を向上させるためにはどのような策を立てるかを検討すべきなのである。企業の収益力を高める事と競争力を高める事や財務内容を改善する事とは同じわけではない。

ただ経済成長は、単に所得だけの問題ではなく、生産性の問題、付加価値の問題でもある。そこに三面等価の含意がある。所得だけを増やしても生産性が伴わなければ、実体の伴った経済成長とはいえないのである。

産業革命以後、大規模事業を可能ならしめたのは、技術革新だけでなく、小口の資金を広く不特定多数から調達する手段を確立したことによる。それには、複式簿記を土台とした近代会計の確立、期間損益の確立が大きな役割を果たしている。 期間損益の確立は、負債の概念の成立も促している。それが資本主義の礎となっているのである。
負債、減価償却と言う思想は、貨幣制度が市場に浸透していることを前提として成り立つ。

経済問題は、現象論的に捉えて対処療法ばかりを講じても根治する事はできない。現象の背後に潜む仕組みを明らかにしないかぎり根本的な解決はできない。


資本主義は会計的思想である。


民主主義が議会制度と深くかかわっているように、資本主義は、会計制度と深くかかわりあっている思想である。
ある意味で近代会計制度が資本主義を生み出したともいえる。

資本主義は、市場を基盤としている。経済の仕組みの本質は、分配にある。
分配を適正に行うための手段として「お金」がある。それが貨幣制度の本質である。「お金」は分配のための道具である。

「お金」が富の象徴となっることで人々が「お金」を用いる目的を見失い、「お金」が分配を仲介するという本来の働きが阻害されている。
お金が正常に機能するためには、「お金」の役割を正確に理解しておく必要がある。
正確には、全体として物が不足しているか余っているかはわからない。しかし、偏りが生じ、部分的に物が余ったり、不足していることは確かである。要するに分配がうまくいっていないのである。
住宅がいい例である。空室、空き家が氾濫している一方で新築のマンションが大量に供給され続けている。家が余っているというのに、町はホームレスであふれている。家が不足しているわけではない。ただ分配がうまくいっていないのである。
分配を阻害する要素は、格差、市場構造、貨幣制度、会計制度、財政、経済政策などである。
中でも格差の拡大は、適正な分配を阻害する深刻な要因である。

格差を防ぐ手段として私的所有権を制限しようとする思想が台頭してきた。その一つが社会主義であり、もう一つが資本主義である。社会主義も資本主義も方向性は同じである。生産手段と所有を分割して格差を抑制することを基本としている。
即ち、公的機関(企業も含め)によって所得を均質化することを究極的目的としている。



市場は、現金主義と損益主義の二重構造でできている。



経済は、収入と支出の均衡によって成り立っている。安く買うというのは、支出の効率を言う。ただ、効率のよい支出というのは、適正な収入が保証されている事によって成り立っている事を忘れてはならない。つまり、経済は、収入と支出の均衡の上に成り立っている。しかし、支出は収入を上回る事はできない。それ故に資金の過不足は、貸し借りによって調節されているのである。
ただ安ければいいという発想は、収支の均衡を無視している。

現金主義と期間損益主義の二重構造によって市場経済は制御されている。

現在の経済の仕組みは「お金」によって動いている。経済の仕組みを動かしているのは資金過不足である。
しかし、現金収支だけでは「お金」の働きを明らかにする事はできない。
現金収支でわかるのは、いくら入金があっていくら支出があったか、そして、残高はどれくらいあるかである。
現金収支では、借金による収入も売上による収入も区別できない。
また、借金の元本の返済資金に対する支出も費用に対する支出も区別できない。
借金が何に使われていて収益は何によって生み出されているのかもわからない。
いい例が財政である。財政は、現金主義である。故に、国債がどのような使われ方をしているか取引を通じて検討する事が出来ない。
故に、単位期間内の「お金」の働きを損益によって裏をしたのが損益主義である。

市場取引には、売買取引と貸借取引がある。貸借取引には、金融取引と資本取引がある。
財と「お金」を交換する事で分配を実現するのが売買取引である。売買取引は、貨幣の効能を発揮させる取引である。
それに対して、資金の過不足を補って支払を準備するのが貸借取引と資本取引である。貸借取引も資本取引も支払を準備するものであって資金の効用を発揮する取引ではない。売買取引は、損益に結び付くので、損益取引ともいう。

「お金」の働きには、短期的働きと長期的働きがある。
短期的取引は、経常的な営業活動、売買取引を基礎とし、売買取引から生じる資金の過不足を補う形で貸借取引がある。この様にして生じる貸借は短期負債で対応するのが原則である。
それに対して投資に伴う資金不足に対応するのが、貸借取引と資本取引である。投資資金は、単位期間内の収益で処理する事が難しいから清算するためには、長期間かかるのが一般である。故に、長期的資金の働きを形成する。
短期的働きは、売買取引を中心とした働きであり、長期的働きは、貸借取引を中心とした働きである。

現金主義では、現金の出納と残高を計算するだけで、資金を多面的にとらえられるようにできていない。現金主義は、少なくとも取引を資産、負債、収益、費用と仕分けしてそれを関連付けて経済の状態を捉えられるようにはできていないのである。
損益取引と貸借取引、資本取引を通じて資産と負債と収益と費用を関連付けて検討する事が現金主義にはできない。
現金主義は単式簿記的な論理によってしか取引を解析できないのである。
それに対して損益取引と貸借取引、資本取引を明確に分けて考え、費用対効果を測定する事が期間損益の目的なのである。
ただ、問題は、期間損益は、単位期間内の損益を中心として計算されているために、貸借取引と資本取引が損益上に計上されないという欠点がある。それを補う目的で近年キャッシュフローが重視されるようになってきた。

2017年度のトヨタの売上高は、27.6兆円、ホンダが14兆円、日本郵政が13.3兆円、日産自動車が11.7兆円、NTTが11.4兆円、日立9.2兆円と10兆円を超える、あるいは、10兆円に迫る売り上げを上げている企業がある。10兆円なんて言われてみおよそ実間の湧かないような巨額の数字である。この様な巨額な数字も元を質せば自動車、一台一台、商品一つひとつの売上を積み上げた数字である。1個1個を積み上げていくと考えると際限がないように感じてしまう。
しかし、経済の実体は有限であり、上に閉じているのである。全体を1としたら必ずゼロと1との幅に収まる。この事を前提として経済的価値は成り立っている。
経済の実体は人や物にある。人や物は有限である。自ずと限界がある。それに対して貨幣価値は、限界がない。有限な人や物で成り立っている経済的価値を際限のない貨幣価値で測ろうとしたら、何らかの制約を上限にかけないと内に向かって無限に拡散してしまい、収束できなくなる。
かつては、金と貨幣単位を結び付ける事で貨幣価値の上限を制約した。現在は、紙幣の発券量を制約する事で貨幣価値を管理している。

売上高が倍になったとしても販売数量が倍になったとは限らない。しかし、多くの人は売上だけしか見ない。上場企業は増収増益を求められるが増収増益をしたからと言って実体が進化しているという保証はない。むしろ会計操作によって空疎になっている事すらある。この様な事象は、会計幻想である。人は、「お金」によって幻覚を起こす事がある。貨幣価値の総量が拡大したとしても実体経済は変わらない場合がある。重要なのは、経済の実体であって「お金」ではない。

全体が上に閉じているから、個々の部分を構成する単位が設定できる。経済の全体が上に閉じていない、無限だとしたら経済を構成する単位は定まらない。なぜならば、貨幣単位は分配を目的とした単位だからである。
そして、貨幣単位は自然数である。分数も小数も基本的には使用しない。負の値もない。ただ、差額勘定として負の値はとる。しかし、元となる勘定の資産、負債、収益、費用は負の値はとらない。なぜならば必ず残高がなければならないからである。
利益は、負の値をとるのは、利益は、全体を表した指標ではなく。部分を表した指標だからである。

故に、現金主義であろうと損益主義であると経済的実体の全体は一つである。問題はその全体を数値によって認識できるかである。そこに統計の役割がある。

経済を構成する要素は、集合を形成する。複式簿記では、市場取引によって生じた要素の集合を、一定の性格や働きによって部分集合に仕分けする。仕分けされた部分集合の関係と働き、比率によって経済は動いている。
経済の仕組みを動かしているのは、お金の過不足、移動であるが、ここで気を付けなければならないのは、貨幣の働きは、量的な働きに限定されている事である。質的な働きには、「お金」の働きは基本的にかかわっていない。

一つの企業の決算書は部分集合でしかない。産業全体の状態は、全ての企業の働きを集計して見ないとわからない。経済政策は、産業全体の状態を明らかにして、産業に対してどの様な働きを期待しているのかによって作成されなければならない。表面に現れた数値を追いかけているだけでは適切な処置はできない。

期間損益では、総資本や総資産収益や費用を構成する個々の要素の比率が重要な意味を持っている。
故に、期間損益にせよ1とゼロの間で成り立っているといえる。
全体は1としたら、基準はゼロである。
全体を1とし、基準をゼロとした後、その上で、一定の単位で単位を刻む。刻んだ部分を構成する単位も1である。つまり、全体を明確にしないと部分も形成できないのである。1にも全体の1と部分を構成する単位の1の2つの1がある。
つまり、何を全体とし、何を基準とし、何を単位とするかによって全体の構成は決まる。
何を1として、何をゼロとするかは、始点と終点の違いを意味する。視点と終点が定まれば全体の幅も確定される。
例えば、売り上げ全体を1としたら、利益は利益率として表現される。総資産を1だとしたら、固定資産や在庫も比率によって表現される。

貨幣の働きは、ゼロ以上のところで働き。ゼロで調和する。故にゼロを基準にして1を上限とする。そのゼロと1との間に無限が形成されるのである。また、1単位をどう設定し、どう取り扱うかが、市場経済の鍵となるのである。

経済的価値は、何らかの時間的、空間的差、距離によって形成される。
この差は、現金収支を起点として取引の成約、財やサービスの受払、お金の収支の間にある時間差によって生じるのである。経済的価値はこの時間差によって生じる。そして、この時間差、過不足を補う為に派生したのが貸し借りである。

現金の動きと働きの相互関係を知るためには、現金主義と期間損益主義、双方を組み合わせて検討する必要がある。
期間損益と現金収支がどこで交わり、何に対して影響しあっているかを知る事である。
長期資金の働きをつくる貸借取引は、資金の過不足によって形成される。貸借取引、資本取引は負債と資産、純資産を構成するとともに、金利、減価償却費として時間価値、付加価値を派生させる。金利は、支払利息として期間損益上、費用として計上される。金利と減価償却費が費用に占める割合が利益にどう還元されるかが現金収支と期間損益に要となる。また、資金収支では、借入金の元本の返済と減価償却費の関係によって資金不足が生じる。その資金不足を何によって、何を担保して塞ぐかが資金繰りに重大な影響を及ぼす。担保する物は資産の裏にある。

今は、金利が異常に低い。その為に支払利息が利益を圧迫する例はあまりない。しかし、金利が大きい時代は、支払利息が経営を左右したのである。

石油・石炭業界

法人企業統計

石油・石炭業界

法人企業統計


人は、朝三暮四と猿を笑うけれど人だって猿と大して変わらない。猿を笑える義理ではない。

お金の働きを測る目的で期間損益は作られた



お金の働きは、個々の取引だけを見たのでは解らない。お金の流れを理解しないと真のお金の働きは解らないのである。
お金の働きを明らかにする手段の一つに期間損益がある。
お金の流れを見ただけではお金の働きが明らかにならないので、お金の働き、単位期間に分解し、成果配分を可能としたことが、期間損益を実現させたのである。
大規模事業は、初期投資、設備投資を単位期間に配分する事で形成される。次に、資金の過不足を調節する運転資金の流れ、そして、投資した資金を回収する経常的流れ。経済主体を制御し、経済全体の調和を保つためには、この三つの視点で資金を捕捉する必要がある。
初期投資にかかる費用を単位期間に配分する手段が減価償却である。そして、単位期間の働きを目に見える成果とするのが利益である。この減価償却と単位利益を確立することで近代の市場経済は成立した。

経営にリスクはつきものである。なぜならば収益は不確実だからである。

悪循環は悪循環である。ただ悪循環も見方を変えると違う側面が見えてくる。つまり何が悪循環を引き起こしているのかその仕組みを見極めれば、悪循環の働きも見えてくるのである。
要は、経済の状態は鏡なのである。赤字は黒字の鏡であり、黒字は赤字の鏡。経済は対称性があり、悪循環も好循環の鏡なのである。

経済の本質は、生産と分配である。「お金」の問題ではない。「お金」は、生産と分配を仲立ちする手段である。生産は、供給に分配は需要に反映される。
生産性の向上は、社会的効用を上げる。それぞれの働きによって経済を動かしている。
「お金」は、交換によって生産と分配とを仲立ちしているのである。

期間損益で中心になるのは、収益と費用である。そして、収益と費用の働きを表す指標が利益である。利益は、多ければ多いほどいいという錯覚がある。しかし、利益は、費用対効果を測る指標であり、単に多ければいいという訳ではない。利益は、収益と費用の差額として表される場合と収益に占める割合として表される場合がある。

一般に利益が出た場合黒字と言い損失が出た時に赤字というがそれは、期間損益を基礎とした場合である。財政の場合、資金不足がでた場合を赤字と言い、資金余剰になった時を黒字という。即ち現金主義なのである。現金主義の場合、残高は常に正の値を保たなければならないために、赤字になった時は、借金などですぐに赤字を補わなければ債務超過となっとて破産してしまう。


期間損益は、収支の平準化と費用対効果の測定を目的としている


基本的に社会に出た時は、無一物である事が前提である。むろん、何も持っていないというのは稀で親から生活が軌道に乗るまで援助してもらっているのが一般的である。しかし、自由経済は、無一物から始まる事を前提としている。実際に無一物では直ぐに生活ができなくなる。だから、働いて取得を得ようとする。しかし、収入を得られるまでに時間がかかるのが普通である。一定の収入が得られるまでは、親に生活の面倒を見てもらうか、「お金」を借りるしかない。最初は誰もが資金不足なのである。これが前提である。収入が得られるようになっても生活が安定するまでは時間がかかる者である。定職に直ぐにつければいいが、定職に直ぐにつけるとは限らない。

大体、収入よりも支出が先に来ることが多い。
必要な物や欲しい者があると、手持ち資金の中から「お金」を出して買おうとするが一生懸命働いて「お金」を貯めてから欲しい物を買おうとするものである。
個人商店は、景気の変動をもろに受ける者である。景気がいい時はいいが不景気になるとその日の金に事欠くこともある。変化は、時間の関数である。

買い手にお金が売り手に財やサービスが必要な時に、必要なだけ用意できることが前提となる。
第一に、買い手が必要な手持ち資金を常に用意してある事が前提となる。しかし、買い手が何もせず手持ち資金を準備しておく事は不可能である。第二に、売り手は常に財やサービスを提供できる状態にある事が前提となる。
しかし、買い手は手持ち資金を何らかの手段によって準備しておかなければならないし、売り手は、必要なだけの財やサービスが要求された時に提供できるとは限らない。第三に、ある一定時点に全ての財やサービスが提供できるとも限らない。つまり、生産や消費に時間がかかる財やサービスがある。典型的なのは労働サービスである。
すなわち、貨幣価値の本質は時間価値である。

例えば、就職をした最初の月は、月給日まで無収入である。もし手持ち資金がなければ前借りをするしかない。
賃金は、労働という役務を提供して一ヶ月程度遅れて支払われるのである。
この時間差、時間的距離が、経済的価値を生み出すのである。一定時点における市場の現金収支の総和は常にゼロに設定されている。時間差が働かないと損益は計上されない。故に、現金収支だけでは、資金の働きは表現できないのである。

期間損益には、収入と支出を平準化すると言う目的と、単位期間内の費用対効果を測定するという二つの目的がある。

期間損益と現金収支とは長期的には、一体になるように設定されなければならない。なぜならば、期間損益の正当性は、現金収支に依って保証されていなければならないからである。その為には、期間損益と現金主義は、時間的に閉じた関係に設定されなければ正しい機能は発揮できない。

基本的に収益は不確かであり、費用は確実である。現金主義でいえば、収入は不安定で支出は確実に発生する。
それでは、安定した生活が営めない。それで収入を一定にさせる機関が経営主体である。経営主体は、民間企業を指している場合が多いが、政府機関も同様である。つまり、収入を整流して一定化させる機関が経営主体だともいえる。
収入が安定すると借金もしやすくなる。貸しても計画的に返済させることが可能となるからである。
経済成長は、借金に依存している部分がある。この借金を裏で支えてきたのが定収である。

収入を平準化するためには、収益の波からくる収入の波を均す必要がある。経常的な収入を均す働きをしているのが運転資本である。
運転資本は、売上から派生する売上債権と仕入れから派生する買入債務、そして、在庫からなる。これらは、景気の変動を吸収する緩衝材の役割を果たしている。

この売上債権と買入債務を裏付けているのが与信であり、期間損益である。期間損益によって単位期間の損益を計算し、それに基づいて取引業者や金融機関が信用取引を与えるのである。それ故に、運転資本の動きは景気の変動をよく反映している。

自由主義経済を安定化する役割を経営主体が果たしている事を忘れてはならない。自由主義経済は、自律的な民間企業によって支えられているのである。民間企業の経営が成り立たなくなったら自由経済は破綻してしまう。

期間損益は、損益部分と貸借の部分から構成される。損益は、単位期間の資金の働き、フローを表している。貸借は、単位期間の資金の貸借、ストックを表している。経済の仕組みは、資金の過不足と資金の流れによって動かされる。資金の流れがフローを作り、資金の過不足がストックを構成する。この現金収支が資金の働きを生み出す。
資金の流れが作り出すフローと損益の働とは一致していない。例えば、収入と収益は、同じではない。収入には、借入による資金も含まれるが、収益には含まれない。収益に含まれるのは、損益上の取引しか含まないからである。逆に収益には、未実現収益が含まれるが、収入には含まれない。
期間損益の核は、収益である。収益は、基本的に数量と単価の積として表される。
資金の過不足によって蓄積された債務は、期間損益によって清算される。損益によって解消されない債務は、累積されるからである。
これは、総資産回転率によって測る事が出来る。
ただ、問題なのは、負債の元本の返済が損益上に計上されないために、実質的な長期資金の流れが表面に現れてこない事である。つまり、長期的債務がどれくらい蓄積しているかは、損益上で測れない。
基本的に負債は、収益の範囲内で解消するのが原則である。しかし、長期借入金の返済額は、費用計上されない。その為に、資金繰りと利益が一致しないのである。もう一つ前提としなければならないのは、現金収支と期間損益にズレがある点である。

収益によって負債を返済するのが原則である。負債の返済原資は、減価償却費と税引き後利益になる。税引き後利益と減価償却費が長期借入金の返済額を下回ると債務は累積する。
国民経済では、固定費減耗と営業余剰が債務の返済の原資となる。

故に、債務を圧縮する為には、収益の確保が至上命令になる。
家計では、月々の所得が借入金の返済額を下回った場合、借金の累増を止められなくなる。財政は、歳出が歳入の範囲に収められなければ国債が増加する。故に、家計では、所得、財政では、歳入が借金を抑制する為の鍵となる。

現在の経済で問題なのは、社会の債務が拡散的に増大している事である。時間的に均衡し、収束点が明らかならば問題ないが、収束点が見えないまま債務が拡大している。この様な状態は、持続できない。
その一因は、市場の量的な拡大が止まった事にある。市場は、有限である事を前提に成り立っている。なぜならば、市場は分配の場だからである。
市場の量的な拡大が期待できなくなったら、収益や所得は、単価を上げる事で確保される。現代の経済のもう一つの問題点は、量的な拡大が期待できなくなった時に単価に下げ圧力がかけられている事である。

単価が保たれていれば、生産手段を効率化し費用を削減したら利益は向上する。更に単価を上げられれば収益や所得の向上が期待できる。市場競争を絶対視し、過当競争を煽れば最終的に価格競争に陥る。過当競争に陥れば、適正な価格が維持できなくなる。適正な価格を維持するためには、市場の規律と規制が必要とされる。市場の規律が守られなくなり、泥沼のような競争に陥れば、際限なく債務は財務は、増大していく。

お金は流れることで効用を発揮する



「お金」は、循環する事で効力を発揮する。「お金」を循環させるのは、売買取引と貸借取引、そして、税と給付の働きによる。
つまり、資金の過不足を補おうとする働きによって「お金」は流れるのである。資金の過不足を生み出すのは、経済主体に対する「お金」の出入りである。

「お金」は流れ続けなければ効力を発揮しない。
「お金」が流れなくなると経済は、破綻する。自由主義経済において最も恐れなければならないのは、流動性の喪失である。脳卒中に似ていて「お金」が短時間でも流れないと流れなくなった部分が壊死して障害が残る事すらある。心筋梗塞のように「お金」の心臓部の機能がマヒしたら即死してしまう事もある。とにかく、「お金」は流し続けなければならない。
「お金」は滞留したら効力を発揮できなくなる。つまり、継続的にお金が流れるような仕組みを作る必要がある。
この様な「お金」が円滑に流れ続けるのを妨害する要因は、偏りである。

「お金」の流れを制御している部位が金融機関と政府機関である。金融機関と政府機関は、経済の血液ともいえる「お金」を生み出しその流れを制御している。制御の手段は、金融機関は、資金の過不足を貸借によって調節する事である。政府機関は、税と給付による所得の再配分と公共投資などによる資金の供給、そして、国債による通貨の創造である。

地獄の沙汰も金次第というくらい今の世界は、「お金」がなければ成り立たない。しかも「お金」は、満遍なく全ての生活者に行渡らせなければならない。「お金」が回らなくなった部分から社会制度は壊れていく。故に、流動性が失われるのは、社会にとって、即、死を意味するのである。
また、「お金」が効力を発揮するためには、「お金」に信認がなければならない。いくら「お金」が循環しても誰も「お金」として認めなければ、何の意味もないからである。
つまり、貨幣制度要求されるのは、「お金」を循環させる事、「お金」を満遍なく必要とするだけ行渡らせる事、そして、「お金」の信認を守る事の三.である。

「お金」を供給する働きをしているのは、貨幣の発行、発券機関である。日本では、政府並びに中央銀行である。即ち、硬貨に関しては、政府機関が発行し、紙幣に関しては、中央銀行が発券している。
現在、物価は、金利と通貨の流通量を調節する事で制御している。

紙幣の発券機関、日本では中央銀行である日本銀行は、金利を上げて下げたり、国債を売り買いする事で、資金の流量や付加価値の水準を制御してきたのである。問題なのは、その仕組みが壊れてきた、と言うより、当事者が壊している事である。
日銀は、公定歩合を操る事で、金利を操作し、通貨の流量や付加価値、時間価値を制御してきた。それが、変動為替制度に移行する事によって機能しなくなると次に長期金利を誘導する事で、通貨の流量や付加価値、時間価値の水準を調節してきた。ゼロ金利政策は、それすら無効にしてしまった。そこでとられたのが量的緩和である。しかし、その量的緩和も国債の異次元の買い付けによって機能しなくなりつつある。問題なのは、通貨の流量や付加価値の水準を制御できなくなった時、市場がどう反応するかである。

金利が機能しなくなったら、金融機関の経営は成り立たなくなる。金融機関の経営が成り立たなくなれば、「お金」の流動性が失われる。リーマンショックの背景として従前の金融取引が成り立たなくなり、投機的な取引によって金融機関が利益を上げなければならない状態に陥った事が考えられる。つまり、利鞘が稼げなくなったのである。

重要なのは、お金の流れる経路である。
お金の働きは、分配である。分配と言う事は、満遍なくお金が行き渡りかつ、出入りを繰り返せる状態を作り維持する事が前提となる。お金の出入りと物の分配を結びつけ、制御するのが経済主体である。
お金の流れを操作し、景気を制御するためには、お金の流れる経路を確保、維持する事が重要となる。

「お金」には、経常的な流れによる短期的な働きと投資に基づく長期的な働きがあり、各々その流れる経路が違ってくる。その違いによってそれぞれの働きを制御する機関も仕方も変化するのである。



お金の効力は出入りによって発揮される。



基本的にお金の効力を発揮するのは、出入りであり、量と回転である。
「お金」の働きは、経済主体に対する入出によって発揮される。要するに、入金と出金が経済の仕組みを動かすのである。
入金と出金が、経済主体を資金の過不足な状態にする。資金が不足した場合は、資金を獲得する手段を講じる、資金が余ってきたら、所持金の中か必要な「お金」を出して財を買うのである。この売り買いが財と「お金」の流れを生む。
要するに、「お金」の働きは極めて単純なのである。
残高、入金、出金、残高、これがお金の基本的動きを表している。

「お金」で一番重要なのは額、即ち、量である。貨幣価値は量的価値であって質的価値ではない。
それが、「お金」の持つ欠点と言えば欠点である。ただ、「お金」は量に特化して質的な部分に関わっていないから「お金」は「お金」としての機能を果たしているのである。Aという人の持つ100円とBという人の持つ100円が質的に違ったり、価値が違ったら、「お金」は基準としての役割を果たす事はできない。貨幣価値は、量的価値であり、実体を持たない名目的価値である。

つまり、「お金」は、抽象であり、象徴なのである。

お金の財とを結びつけお金を環流させ、財を分配する場が市場である。
市場に置いては、競争の原理が働いている。しかし、競争は絶対ではない。競争は、「お金」の働きを効率的にする。しかし、競争が「お金」を動かしているわけではない。

市場においてお金の効力を発揮させるのは、取引である。市場取引を構成するのは、売り買い、貸し借りの二つの行為である。売りと買いは、同じ行為を視点を変えたものである。貸しと借りも同様である。故に、売りと買い、貸しと借りは一対の行為と見なす事が出来る。売りと買い、貸しと借りは、取引に作用反作用の関係を成立させる。

貸し借りの流れによって債権と債務が生じる。貸借関係が成立し、通貨が流れると通貨の流量と同量の債権と債務が派生する。債権は資産を形成し、債務は負債と資本を形成する。債権と債務の量が通貨の流量を制約する。債権と債務は常に均衡し、それが複式簿記の前提となっている。

貨幣経済の原点は、貨幣の発行と、市場への供給にある。
その上で、貨幣の流量を調節する事で、景気を制御するのである。景気とは、市場の状態を言う。


貨幣制度における財政の働き



政府は、貨幣を供給し、通貨量を制御する事によって貨幣制度を維持、管理する義務を国民に負っている。通貨を発行する事は、国家の権利でもあり義務である。同時に、通貨制度を成立させるのは、国民の義務であり権利である。


紙幣は、「お金」を具現化した物である。「お金」は、経済的価値を測る尺度である。「お金」を具現化した紙幣は、一定の手続きによって生産された観念の所産である。
「お金」と言う物質的実体があるわけではない。「お金」は、実体のない観念的な存在である。「お金」を物に買えて実体化したのが貨幣であり、貨幣の一種が紙幣である。我々が目にしたり、手に触れるは、「お金」を実体化した貨幣であり、「お金」そのものではない。「お金」と貨幣とは別の存在である。その証拠に「お金」は、必ずしも物を媒体にしないで、電子信号や情報と言う形で取り扱う事が出来る。近年、「お金」は、増々情報化されつつある。
「お金は手続きによって生産される。」
「お金」は、採掘されて生産される資源でも機械で生産できる物でもない。「お金」を生産するのは手続きである。「お金」は機械で印刷すればできるものではない。紙幣は、確かに、印刷すれば、いくらでも生産できる。しかし、印刷すればすぐに「お金」として通用するわけではない。紙幣が「お金」として通用するためには、それなりの手続きが必要なのである。

政府が国債を発行し民間金融機関や企業が引き受け、それを担保に中央銀行が銀行券を発行し、金融機関に資金を貸し出す事で市場に資金を供給する。
国債を担保とする事で銀行券の発行量に制約を設け、同時に財政にも連動させる。

通貨の総量を制限する為には、何らかの制約をおく必要がある。つまり、何らかの制約条件によって貨幣制度は成立する。
金本位制度下では、支払準備金の保有量である。
今日の貨幣制度は、政府と発券銀行との貸借関係によって紙幣の制約条件を設けている。故に、政府と発券銀行は、個々独立機関とするのである。
政府機関と、発券機関を相互に独立した者とする事によって貸借関係が成立し、通貨の量に制約を課す事が可能となるのである。

金融機関に仲介させないで、行政府と中央銀行の間で相対取引をさせると相互牽制が効かずに、銀行券の発行量の箍が外れ、通貨の流量が制御不能になり。また、財政規律も失われる。ゆえに、間に外部機関をかませる事で銀行券の発行量を制御するのである。
国債、財政、通貨、金利がこの仕組みによって結びつけられている。

金融機関は、更に、貸付金を預金に還元し、信用を創造して通貨を増幅させる。また、貸付金は、民間企業や家計に対して投資され、民間企業や家計の負債を形成する。これら一連の手続きによって預金、貸付金、負債、国債、通貨、金利が完結づけられ、家計、財政、民間企業が関連付けられる。この様にして、家計、財政、民間企業、金融の各部門は、関連付けられる。

政府の働きは、通貨の信認を保つ事と、通貨の循環を制御し、回収する事である。発券機関の役割は、通貨の供給と付加価値を付加する事である。付加価値とは時間価値であり、金利によって付加される。

お金は、貸し借りから生まれる。貸し借りだからお金は循環する。売り買いでは、回収手段がないからお金は一方向に流れて循環しなくなり、発散してしまう。

「お金」を流すのは、資金の過不足である。現代社会は、生きる為に必要な資源は、お金を使って市場から手に入れなければ生きていけない仕組みになっている。「お金」は、使えばなくなる。なくなれば資金が不足する。資金が不足したら、「お金」をどこからか調達してこなければならなくなる。この様な行為の繰り返しが「お金」を循環させるのである。
よく「お金」を循環させるのは、個人の利己心だととんでもない錯覚をしている経済学者がいる。「お金」を循環させているのは、個人の利己心などではない。人の生活が「お金」を循環させているのである。現代社会は、「お金」がなければ生活できない。つまり、生きられないのである。

政府機関が、税を強制的に徴収する権利は、通貨を循環させ、通貨の総量を制御させなければいけないという義務によって担保されている。この義務を放棄したら、税を徴収する権利は、消滅する。
公的な行為や所得の再配分は、二義的な義務である。なぜなら、貨幣を循環させ、総量を制御するというのは、貨幣制度の本源的な働きであるのに対して、公的な行為と所得の再配分は政治的な要件だからである。つまり、公的な行為と所得の再配分は、税に依らない他の代替え手段があるからである。

厳密に言えば、公的収入は、市場の状態、即ち、景気を反映したものであった方が効果的である。

税は、どの様な局面で、何を対象に、どの程度の資金を回収するかの問題である。

公的支出を利権化するのは、国家国民に対する背信行為である。なぜなら、貨幣の循環を硬直的なものにしてしまうからである。
支出は、収入との均衡によって制御されるべきなのである。

武力による侵略には、体をもって抵抗する事が出来る。しかし、経済的な侵略は目に見えない形で侵略してくる。だからこそ、強い意志をもってはねのけなければならない。

国家財政は、国家の生命線を握っている。財政主権こそ国家の主権、独立の本源である。政治家は、挙って財政に責任を負わなければならない。人気取りのために、政治対策として財政を利用するのは、国政を愚弄する行為である。一命を賭して守るべき事である。
国家財政に責任を持たない宰相は、亡国の宰相である。



税の働き



税は国家の在り様を定め、大枠を構成する。
税の根本の役割は、所得の再配分である。そして、国家目的、建国の理念を実現するための原資、国民の生命と財産を守る為の原資。故に、国民国家の国民にとって税は、義務であると同時に権利でもある。国民であるための証でもある。
その証拠に税は、かつて参政権の根拠とされていたのである。

資金の過不足は、貸し借りとしてストックに蓄積する。資金は、貸し借りだけでは、債権と債務が一方的に累積してしまう。所得を再配分して資金の偏りを是正しないと資金が回らなくなる。その為に税制がある。

現在の経済の仕組みは、「お金」を循環できるようにはなっていない。「お金」を円滑に循環させ続けるためには、債権、債務の関係をどこかで解消できなければならない。そうしないと債務は、一方的に蓄積されていく事になる。

債権、債務の関係を解消する手段の一つに所得の再配分がある。所得の再配分は、税と給付と、公共投資で成り立っている。

税の根本が所得の再配分にあるのならば、誰から、何に対し、どの様な考えに基づいて徴収し、誰の何に対して再配分するのか。それが重要になる。そして、この税の在り方は、国家理念そのものを具現化しているのである。

税は、資金の流れの歪みや偏りを是正する手段の一つである。
税は、家計、民間企業、海外部門など他の制度部門から財政部門への現金、あるいは、現物の強制的、一方的な支払である。

税は、資金の流れや過不足の歪を是正する事が目的である。日本は、余剰資金が家計に溜まり、民間企業、海外部門の資金不足が解消されつつあってその分、財政が資金不足に陥っている。財政の資金不足を金融的手段で融通しているのが現在のわが国の構図なのである。それが極限に達すると財政は、破綻してしまう。
家計に蓄積している金融資産を財政に回せば、財政上に累積した負債は、解消できる。負債に税金はかけられないから、資産に税をかける事になる。その手段としては、資産税と相続税である。しかし、単純に資産に税をかけても対極にある負債が手つかずに残れば、今度は、家計に負債による負担が増えるだけである。バブルが崩壊した後の民間企業が不良債務の解消に苦しんでいまだに不況から抜け出せないようにである。

税の最大の問題ては、経済や市場に対する税金の働きや役割が正しく理解されていない、あるいは、明確にされていないと言う事である。
それはなぜ、税金が必要なのかにも繋がる。納税は、義務であると同時に権利でもある。
国民国家においてなぜ、納税は権利なのか。それは、国民国家における税の意義に係る。かつて、税は、参政権と結びついていたからである。
この点を忘れたら国民国家における税の本質が理解できない。封建主義国家と、国民国家とは税の本質が違う。つまり、税は、主権者のために働いているのである。

税には、資金を回収し、それを市場に還流するという働きがある。資金は、循環する事で機能を発揮する。一方的な流れでは、資金は効力を発揮できないのである。また、市場の流れる資金を整流化する役割がある。即ち、偏りや歪を是正して市場に満遍なく配分するという役割がある。
これらの点を前提として税の効能を考える必要がある。

税の役割は、「お金」の働きが求められる。「お金」は、社会全体を巡って人々に必要な資源を全ての人に配分するための手段である。その為には、全ての人に「お金」が行渡らなければならない。
また、資金の働きは、資金の過不足と資金の移動に依存している。税は、資金の過不足の偏りを是正し、資金の動きを潤滑にする働きがある。

税をなくし、「お金」を満遍なく国民に配布すればいいというのは、所得は、所得、消費は消費として所得と消費との関連性を断つのと同じである。所得と消費が関連付けられているからこそ「お金」は、分配の手段として機能するのである。国民から税金を徴収し、公共投資や給付としてそれを市場に還流するから「お金」は、社会を循環する事が出来るのである。

税の働きは、資金の過不足の是正や「お金」の流れの偏り、所得による配分の歪みを是正する事である。
税の目的は、第一に、所得の再配分、第二に、社会資本、インフラストラクチャーの構築、第三に、行政費用、第四に、国家理念、国防や教育等を実現する等の原資の調達である。

税は、強制的徴収である。故に一方向の働きである。
この様な税の働きが許されるのは、一つは、お金を循環させるという目的があるからである。もう一つは、通貨の総量を抑制するという事である。

この二点がなければ一方的、かつ、強制的にお金を徴収する行為は許容されない。

この様な税の働きは等価ではなく、不公平な事である。それが前提である。故に、国家権力のみがこれを行う事が赦される。即ち、政治の働きである。

お金の総量は、有限でなければ、効力を発揮しない。お金の量に際限がないのならば、国は、税など徴収しないで無制限に通貨を発行すればいいのである。
通貨の総量に制限があるから、価値が確定するのであり、通貨に制限がなければ、お金は価値を持たない。お金の価値は、分配の基準だからである。

税は、何を課税対象とするかによって性格が変わる。
課税対象、資産とするのか、収益、所得とするのか、収入とするのか、利益とするのか、取引とするのか、消費とするのか、人数とするのかによって経済現象の何と連動して動くのか、安定性は保てるのかといった性格が決まる。

国民所得会計の2008SNAの標準基準では、国民経済の経済活動の流れを生産、分配、消費、そして、貯蓄の各段階において資金の動きを部門や働き毎に仕分けている。
更に、所得の分配を、所得の第一次分配、第二次分配、現物所得の再配分、所得の使用の四段階に分類している。
税を設定する場合は、個々の税の目的や働きに応じて、どの局面で、何を課税対象としてどの程度の配分にするかを決める必要がある。
現行の日本の税制は、第一次配分の段階で生産・輸入品を対象とした税を課し、第二次所得配分の段階で所得・富等を対象とした税を課し、貯蓄段階で、資本に対する税を課している。
生産や輸入品を課税対象とした代表的な税は、間接税を意味し、消費税である。また、付加価値税も、これに属す。その他に、関税、不動産取引税のような資本取引税、金融取引税。固定資産税、事業税、自動車税、自動車重量税、印紙税、環境税、産業廃棄物税などの法定外目的税などが含まれる。
所得、富等に課せられる経常税は、直接税を指し、所得税、法人税、住民税などを指す。
また、資本税は、非経常的で不定期な税で家計や企業が所有する資産に対する税で相続税や贈与税などを言う。
第一次所得分配は、生産及び、輸入品を対象として、第二次所得の配分は、所得と富を、そして、資本は、不定期、不経常に発生する資産移動を対象としているという事がわかる。次にこれらの税の何に対してどの様な効果を期待するかが問題となる。

会計処理上では、所得のような直接税が第二次配分に分類され、消費税が先行するように処理されるが実際の市場の動きは、所得が先行する。資金の流れの歪をどの段階でどのように修正するかが鍵である。

消費税は、価格に直接的に働きかける。それに対して、所得税は、所得を、法人税は、利益を課税対象とする事で、間接的に市場取引に影響を及ぼす。逆に所得、国民会計上は、雇用者報酬や営業余剰に直接影響する。資金の過不足と言う観点に立てば、所得税の方が有効である。ただ、所得税は、所得を掌握するのが難しい。また、十五三といった収入上の不公平感を生じさせやすい。

市場経済における税の働きをどう位置づけるべきなのかによって市場における税の働きや役割は変化する。
市場の歪を是正する手段には、税制がある。その他には、収益に働き掛ける手段がある。

所得税は、直接税に属し、所得に直接働きかけて収入の歪を是正する働きがある。ただ極端な累進課税は、労働意欲を低下させる傾向がある。

法人税は、一般に所得税の一種とみなされるが、厳密に言うと純粋な所得税ではない。法人税が課税対象としているのは、課税所得である。課税所得は、利益と一致していない。利益は、収益から費用を引いた値であるが、課税所得は、益金から損益を引いた値である。ただいずれにしても国民経済統計では、営業余剰にかかわる。

税は、基本的に現金主義でも期間損益主義にもよらない。独自の基準に基づいて設定されている。その為に、深刻なダメージを経済に与える事がある。特に、所得税、法人税等の働きに及ぼす影響は注意する必要がある。
例えば、期間損益上は、費用とされる取引も税制上は損金と見なされない取引がある。また、借入金の返済のような支出は、期間損益上も是正場にも支出とはみなされない。
また、債権、債務の認識の違いから課税所得と利益との間に乖離が生じる事もある。それが、長い間蓄積すると決算を歪め、経済に目に見えない負荷をかける事がある。

民間企業では、法人税は、必要経費とは見做されていない。会計上の税金の位置づけは、利益処分である。しかし、税金の働きは限りなく経費に近い。また、税の性質からすると会計上の働きとしては贈与ともとれる。法人税は、経営に与える影響が不明瞭なのである。
利益処分だとすると借入金の返済に影響を及ぼす。一般に理解されていないのは、長期借入金の返済原資の一部は、利益に含まれているという事である。
必要経費だとすると見ようによっては、過大な経費となる。また、反対給付がない、対価性がないとしたら経費というよりも贈与だともいえる。
ただ、原則として税は、社会経費だととらえるのが妥当であろう。そうしないと貸し借り、売り買いという範疇から外れてしまうからである。
むしろ、危険なのは、費用という概念からかけ離れ、現金主義に偏りすぎる事で、会計原則から著しく逸脱されてしまう事である。所得を課税対象とした場合、所得を絶対額としてその所得に対する比率として税負担を考えがちであるが、所得本来の目的が分配なのであるから税率というのは、分配に対する原則から導き出せれるべき事なのである。

消費税は、消費税と言っても取引税の一種として考えられる。消費税は、間接税で市場取引全体に働きかけ、資金の回収する働きがある。
消費の特徴は、市場取引全体に働きかけ、景気を反映する性格がある。
消費活動を抑制する効果がある。また、逆進性と言う性格もある。

また、消費税の税率の変更が経済に深刻な影響を与える事も一般によく知られている。

代表的な資本税には、相続税と贈与税がある。資本税は、ストックを対象とした税である。これは、直接貯蓄されたひずみを是正するために効果的だが、私的所有権を侵す危険性がある。また、資本に対する課税は、事業の継承権、経営権に係る問題を引き起こす。

関税とは、輸入品に対する税で内生品を保護する効果がある。内生品の保護は、背後の雇用の問題がある場合が一般的である。しかし、関税は、両刃であり、輸入物価の上昇や報復関税による輸出抑制を招く恐れがある。

税は、古来から思想なのである。税の在り方を巡って権力闘争が生じ、戦争や革命にまで発展した歴史がある。税を経済に与える影響を考慮せずに導入すると国家そのものの存在意義まで否定されてしまう事さえある。


現在の経済は、紙幣を基盤としている



現在の通貨制度は、表象貨幣、即ち、紙幣を基盤としている。すなわち、現在のお金は、紙幣を核として形成されている。紙幣以外の貨幣も基本的には表象貨幣である。故に、お金の中心は紙幣だと思っていい。

紙幣の源は、国債であり、預かり証である。紙幣は、当初兌換紙幣だった。それは、紙幣と引き換えに金貨や銀貨と言った実物貨幣に両替してくれたからである。
紙幣は、借用書が始まりなのである。つまり、紙幣の本質は支払い準備である。

1971年8月15日、アメリカは、ドルと金との交換を停止した。俗にいうニクソンショックである。この時から紙幣は、兌換紙幣から不換紙幣、信用紙幣へと変質したのである。
紙幣は、兌換紙幣時代は、金などの実物を担保としていた。現在は、何も担保とせず、国家の信用の上に成り立つ借用証書である。つまり、政府に対する信用貸しから紙幣は、成立した。
実物貨幣は、物としての価値を持っていたが、表象貨幣である紙幣は物として価値はなくなった。純粋に交換価値を表しているだけである。

そして、紙幣は、負の存在であり、実体となる物や用役と対になる事で効用を発揮する。紙幣は使わなければただの紙片、印刷物に過ぎないなのである。
陰陽でいえば、紙幣は陰である。この点をよく理解しないと市場経済、貨幣経済、資本主義経済の本質が見えてこない。
貨幣価値と言うのは負の価値を形成しているのである。貨幣が流通すればするほど負債は増える。負債と言うのは、負担だとばかり考えていたら、自由主義経済は成り立たなくなるのである。

「お金」は、生産財と「お金」の交換を通じて財の流れを作り、生産財を分配する。それを純化した形態が不換紙幣なのである。

物としての実体を失った紙幣は、紙幣の持つ額面に価値がある事になる。紙幣の額面は、名目的価値を構成する。実体は、紙幣が指し示す対象にある。紙幣は、交換という効用以外、何の効用も持っていない。使用価値は、紙幣と交換する対象が持っている。額面が表象するのは、情報である。つまり、紙幣の本質は情報である。

紙幣は、負債である。負債であるから担保する物によって制約を受ける。言い換えると負債とする事で紙幣に制約を付けるのである。
紙幣というのは、借用書のような物です。かつては、金を担保に国民から借金をした。それが金本位制度である。不換紙幣である今日の紙幣は、信用紙幣、つまりは信用貸しによる借用書のようなものである。信用を担保しているのは、国の借用証書である国債である。
今は、支払い準備通貨、或いは、国債を担保に中央銀行が金融機関から借金をして紙幣を発行している。金融機関は、預金という形で預金者から借金をして、国や民間企業に貸付をしている。

実物資産の裏付けのない金融資産は負債である。借入金が金融機関に返済されても新たな貸出先が見つからない場合、預金として金融機関に滞留するが、それは、金融機関から見て負債なのである。負債のままで置けないので、金融機関から見て資産になる国債によって運用するのである。金融資産は、他方から見ると負債と同じなのである。

現在の自由主義経済では、生産財は、全て貨幣価値に換算される事になる。農産物で自家用の産物でも一旦貨幣価値に換算する事が原則となる。相続の際も相続の対象となる物は、全て貨幣価値に換算される。そして、負債と相殺されて正味財政が計算される。この事は、資産の裏側に負債がある事を暗示している。紙幣と言うのは、借用証書の延長線上にあるのである。
つまり、現在の自由主義経済は、負債の上に成り立っている。

バブル時代の不良債権がどうなったかというと民間不良債権が金融機関の不良債権に転移し、更に政府の不良債権に転移したのである。

金融資産は、支払い準備であり、資産とは言え負債である。

紙幣は、情報伝達の一手段である。紙幣は物としての実体を持たなくなった時から情報伝達の手段と化したのである。情報産業や情報技術が今日、紙幣は、デシタル信号に取って代わられようとしている。それは、紙幣が情報伝達の手段だという事を象徴している。

紙幣と税、財政の関係を考える時、堂島の米市場は大変参考になる。
江戸時代、日本は鎖国をしており、閉鎖された経済市場を形成していた。それがまず大前提である。
経済学で江戸時代の貨幣を取り上げる時、小判や銀貨、銭の様な鋳造貨幣経済ばかりに注目する。明治時代になると忽然と紙幣が現れ、兌換紙幣時代に突入した様に捉えられている。しかし、堂島の米市場における米切手があったからこそ、兌換紙幣が受け入れやすかったと考えられる。
そして、同時に米市場は、日本の税制や財政を考える上でも学的点が多くある。
第一に、江戸次第は、米本位制度のような状況だったという事である。米本位であるために、米相場が幕府や藩財政に決定的な働きをしていた。今日では、商品は安い方がいいと考え方が支配的であるが、租税を米で治めていた時代は、米価は、直接、幕府や藩財政を左右するだけでなく、武士階級の家計を直撃していたのである。同時に、財政が米相場によって左右され、極めて不安定だったという点である。
米価が安くなりすぎると幕府財政、藩財政も成り立たなくなるだけでなく、武士の生活も破綻してしまう。この場合の米価は相対的価格である。それ故に、米価が安くなりすぎないような配慮、操作もされた。何でもかんでも安ければいいという訳ではない。
そのような状況の中で米切手が発達し、米切手によって先物市場のような近代的な金融技法が成立した事は瞠目すべき事である。(「大阪堂島米市場」高槻康郎著 講談社現代新書)
米切手は紙幣の原型ともいえる。


目に見えないところで危機は増大している。



市場経済を動かす力は、資金の過不足によって生じる。資金の過不足を均衡しようとする力が資金を動かし、その資金移動が財を逆方向に流しているのである。
損益として表面に現れる資金の動きは、資金の偏り、即ち、資金の過不足を生じさせる。その資金の過不足を調節するのが金融、即ち、貸し借りである。貸し借りは、ストックを形成する。損益の流れは、フローを形成し、貸し借りはストックを形成する。このストックとフローの関係によって経済状態を形成されるのである。ストックは、長期資金の働きであり、資金の過不足は、資産と負債に蓄積される。また、負債から金利が生じて収益を圧迫する。負債は、資金源であるとともに、負荷にもなる。

現代社会の病巣は、目に見えない所で、実体的裏付けのない負債が増大している事なのである。そして、負の部分が実の部分を侵食している事である。

なぜ目に見えないところで負債が増大しているのかというと、債権と債務を切り離して考えるからである。債権と債務を切り離して考えてしまうのかというと、債権と債務が直接的にかかわっていないからである。バブル崩壊後も不良債権、不良債権と債権ばかりが問題とされたが。債務の問題は、忘れ去られていた。そして、強引に不良債権が処理された結果不良債務の問題が取り残されてしまったのである。しかし、実体は、不良債権というより、不良債務の問題だったのである。いかに過剰債務を処理するかの道筋をつけないままに債権だけを処分したら実体のない債務が蓄積してしまう。

借金の怖さというのは、借金をした時は、まとまった金を手にする事が出来、気が大きくなってしまう事である。しかし、その後、一定期間、決まった時に、決まった額を利息分も含めて返済し続けなければならないという事である。その間に借りた金と利息も含めた以上の収入がなければ、損失となり、期日までに返済が出来なければ破産してしまう事になる点である。
これは、個人だけでなく、企業も国も同じである。
それ故に、借金の返済額と収入を常に対照し予め確実に支払えるよう資金を用意しておく必要があるのである。給与所得のように月々一定の収入が帆書されている者はいいが、個人事業のように収入が不確実な者は、常に資金の過不足を把握して資金繰りをし続けなければならなくなる。一度回り出した歯車は止められないのである。それ故に、単位期間の資産、負債、収益、費用の状態を把握する必要が生じ、期間損益が確立されたのである。

しかし、期間損益は、あくまでも単位期間内における費用対効果を測定する目的で設定されていて貸借に係る取引の働きはあくまでも残高から推測する以外にない。具体的にいうと長期負債の返済の動きは、損益上には現れず貸借対照表でも増減としてしか現れないという事である。
その為に、長期資金の働きが表面に現れてこない。しかし、現実の経済では、長期資金の働き、動きが決定的な働きをしている。

かといって逆に、期間損益ではない現金主義に基づく財政は、短期資金の働きと長期資金の働きが区分できずに、資産、負債、収益、費用の関係から資金の状態を把握できず、財政状態を制御できずにいる。
国債の返済が単年度の予算にどのような影響を及ぼすのかが把握できず、国債の適切な水準を測りかねているのである。正直、財政の状態は、本当に悪いのか、悪いとしたら何をどの様にすべきなのかそれを測る基準がないのである。

民間企業ならば資産、負債、収益と費用の関係と純資産の残高から、負債を減らすべきなのか、費用の何を削減すべきかを推し量る事が出来るが、現金主義である財政は歳入と歳出を対照して残高から効用を推測する以外にないのである。

つまり、損益主義にも、現金主義にも盲点があり、その盲点による障害が経済の制度全体を危機的な状況に陥らせているのである。

支払いを分割すると一回一回の支払いが少額で済むため、何か得した気分になる。しかし、借金は、借金である。借金というのは、結局、支払を延べ約利しているのに過ぎない。しかも金利付きであるから、実質的な支払額は、名目的な値段を上回る。又、返済は待ったなしにかかる。つまり、自由になる金、可処分所得か圧縮されるのである。過剰になれば、月々の返済によって自由に使える金がなくなり、最悪返済額が所得を上回る事になる。
所得が増加している局面においては、月々の返済額は、圧縮される事が期待できるが、所得が減少したり、途絶えると破産してしまう。
逆に言うと借金がなければ破産はしないのである。これは財政も企業も同じである。

そして、この資金の流れが資本主義の問題の根底にあるのである。
なぜならば、借入金の返済という流れは、期間損益上は何処にも現れてこないからである。キャッシュフロー計算書からもなかなか実態はつかめない。

債務の生産は、基本的に収益の範囲内で行うの原則である。債務の解消を新たな借金で賄えば、負債が雪だるまに増えて、支払利息が増大し、キャッシュフローを圧迫する事になる。そうなると市場を資金が循環しなくなる。
利益の効果は、ストックとフローの平衡によって測るべきである。
利益ばかりを追求したら、経済の実体は見えてこない。肝心なのは、収益と費用の関係である。利益は、費用対効果を測る指標である。重要なのは、収益と費用の内容である。ひたすら、費用を削減していったら、所得が圧縮されてしまう。所得は分配の要であるから、経済は、縮小均衡へと向かう。それは、利益を目標としているからである。利益を重視しすぎると、費用対効果の関係が忘れられてしまう。費用は、悪い事ではない。経済にとって必要不可欠なのである。費用があるから経済は成り立っている。問題は、個々の費用の内訳と性格である。
基本的に負債は、収益の範囲内で解消するのが原則である。しかし、長期借入金の返済額は、費用計上されない。その為に、資金繰りと利益が一致しないのである。このこと自体が問題と言うより、この事を正しく認識していない事が問題なのである。
利益以上に利益を得る為の過程が重要となる。利益は、指標であって目標ではない。


借金をしなければ



借金がなければ破産をしないという事を見落としてはならない。これは家計も、企業も、財政も変わりはない。
では借金をしなければいいではないかと考えがちであるが、そうはいかない。なぜならば、紙幣は、金融資産としての性格を持ち、金融資産は、負債の一種なのであり、負債を否定したら貨幣経済そのものが成り立たなくなるからである。

要は、負債は、不可欠な要素であり、積極的に活用すべきだが、取扱を間違うと破滅すると言う事である。
現代社会は、借金によって成り立っているようなものなのである。なぜならば、法人企業というのは、また、一般政府も基本的に無所有な主体だと設定されているからである。一般政府も法人企業も必要な物は、全て、「お金」も、物も、人も外部から調達し、最終的には総て清算する事を前提としているからである。一般政府も法人企業も所有する物全て借物なのである。

必要な「お金」が準備できなくなったらどこからか資金を調達してこなければならない。お金は常に流れているのである。この流れを止める事はできない。止めたら、経済は破綻してしまうのである。資金が回らなくなったらいかに威勢がいい企業でも破綻してしまう。「お金」が回らなくなったら、経済は成り立たなくなる。
収益は順調なのに、ある日突然、経営破綻する。また、景気が突然変調をきたす。リーマンショックが好例である。
それは、この貸借に関わる資金の流れによるのである。
資金の流れによって収益とは関係ない部分でジワジワと進行し、見かけ上は、順調なのに、ある日突然資金の流れが止まって機能不全状態に陥る。お金の流れる道が狭まり、お金の働きが限定的、硬直的になる。場合によっては、お金の流れる道が詰まってお金が流れなくなるのである。
大切なのは、借金を敬して遠ざけるのではなく。借金の実体を知り、借金を味方にする事なのである。

何らかの経済主体と発券主体との貸し借りによって紙幣は、市場に供給される。故に、紙幣の流通量は、発券機関の貸借上に残高として現れる。
発券主体の負債として紙幣は発行される。故に、紙幣を担保する物は、貸借の側の総資産に表れる。純資産は、担保にはならない。なぜならば、純資産が指し示す対象は資金の調達先だからである。
現在では、国債と貸付債権が相当する。信用度からすると国が保証する国債の方が確実である。故に、今日では、国債を担保して紙幣を発行している。
また、支払準備通貨が他の通貨との担保となる。今日、支払準備通貨とは、基軸通貨である。基軸通貨の強味は、支払準備通貨である事に由来する。
日銀は、日銀ルールを以てかつて国債の買い入れを制限していた。それは、日銀券と国債が相互に担保しあっていた事を意味する。国債を無制限に買い入れる事は、日銀券の制限を無制限に拡大する事を意味する。それは日銀券の信用を毀損する。

資本主義というのは、一定の負債を維持しながら応分の費用を負担し続ける事で財の分配をしていく仕組みなのである。
それは、継続企業を前提とした時点から前提とされた事である。

現在の経済で問題なのは、必要以上に負債が拡大している事なのである。負債が異常に増殖し、負債を制御できなくなってきている。その為に、「お金」が回らなくなってきているのである。

返せるあてもないのに借金をしたり、また、返済能力がない事がわかっているのに、借金をさせる。収益と費用、資産、純資産と負債とを均衡させることが大事であり、この均衡が守られていない事が問題なのである。「お金」を廻すためだけに借金をしたり、資金効率が悪いのに、嵩だけを大きく見せかけようとして無理なレバレッジをかける。この様な行為が、ストックを急激に増幅していくのである。
返済の速度が所得を上回れば、負債は、収束する事が出来なくなり、発散していく。

あくまでも借金の効用は、収益、費用、資産、利益との均衡の上で測られなければならない。
また、資金の過不足は、単年度、市場取引だけでは清算できない。市場取引だけでは、一方的に負債が累積される危険性がある。時間的均衡、垂直的均衡、水平的均衡、部門間の均衡をはかりながら着地点、均衡点を定める必要がある。

基本的に借金は、借金の返済が企業なら収益の範囲内、家計なら所得の範囲内に、財政なら歳入の範囲内に収まるように設定する。さらに言えば、適正な費用、付加価値を維持できるのに、必要なだけの収益を確保へする必要がある。
支出が収益や所得、歳入を上回ると借金の累積を止める事が出来なくなるからである。
市場が成熟して量的な拡大が期待できなくなったら、価格を上げる事で企業収益を維持しないと所得や税の本となる収益は、確保できない。市場が成熟しているのに、市場を活性化すると言って競争を煽る政策をとれば、量が伸び悩んでいるのであるから、安売り合戦になってしまって利益が確保できなくなる。


経済は、貸借と売買で成り立っている



ストックは、貸し借りによって形成され、フローは、売り買いによってなる。

通貨の効力は売り買いによって発揮され、通貨の過不足の調節と流量は貸し借りによって補われる。

個々の経済主体は、貨幣を循環させる事によって維持されている。経済主体の働き、現金の収支によって発揮されている。即ち、現金の収支は、資金の循環運動の一局面として捉えるべきなのである。ここの経済主体の現金収支だけを捉えたら経済主体の役割を解明する事は出来ない。

紙幣は、政府と投資家との貸し借りによって成立する。まずその為には、独立した発券機関の存在が前提となる。通貨を必要としている主体に対して独立した発券機関が通貨を発行して供給する。市場に供給された通貨を税と公共投資によって市場に循環させるのが中央政府の役割である。


日本銀行 単位 一兆円


日本銀行 単位 1兆円

流通量と付加価値の、時間価値を付加するのが中央銀行の役割だが、現在日本の中央銀行は、この働きが機能不全状態に陥ろうとしている。現在の財政危機の根本はそこにある。
マネタリーベースが2015年、4月末時点で300兆円を超えた。日銀の国債保有残高も日銀ルール、発行権残高の範囲内という制約を外してから際限なく上昇している。このままで行くと、マネタリーベースも国債の保有残高もGDPを超えるのも時間の問題だと言われている。何が危険なのかというと貨幣の発行量の有限性が失われる事である。又、ゼロ金利の解除が事実上不可能となり、時間価値が喪失する事である。この二点は貨幣の循環という働きを止めてしまう可能性がある。つまり、お金が回らなくなるのである。


日本銀行 単位 兆円

マネタリーベースが急上昇してもマネーストックはあまり変化しない。緩やかに上昇しているだけである。



日本銀行 単位 兆円

マネタリーベースの変化とマネーストックの変化の差が信用乗数に現れていて信用乗数は、急速に低下している。


日本銀行

財政問題は、収支の問題ではなく、経済規模と経済構造の問題である。生産、分配、消費の均衡の問題である。

なぜならば、財政は、内的要因よりも外的要因に左右されるからである。それ故に、内的要因ばかりを優先すれば、財政の均衡は保てない。外的状況に合わせて柔軟に対応できるよう体制に改革する必要がある。

その為には、強制的な徴収である税的手段より、事業収入に重点を移す必要がある。民営化というのはその一環から生じる一つの手段である。しかし、それ以前に期間損益的発想を財政は、取り入れる必要がある。

単年度の公共投資を控え、経費も抑え、増税をしているのに、なぜ、借金が増加し続け、自由に使えるお金もなくなり、支出も抑制できないのか。それは、収益が伸びないからである。収益の源は付加価値である。付加価値を維持するための仕組みが機能していないのである。
それは、収入構造と支出構造の不整合による。構造的歪みなのである。
財政主体の構造だけ見ていても構造的歪みは見えてこない。構造的歪みは経済の仕組み全体から生じるているのである。経済主体は、個別に存在しているわけではない。増税をすれば片付くと言う事でもないし、支出を削減すれば良いと言うことでもない。要するに、経済本来の目的を逸脱していることに夜のである。公共投資は、景気を浮揚させることが目的ではないし、税は、財政の赤字を補填することを目的としているわけでもない。各々が本来の働き、役割を果たせば経済の仕組みの歪みは自ずと解消されるのである。
第一に、政治家が利己的目的として経済政策を行うのではなく。公の立場に立って経済政策を行う事こそ原点なのである。

単年度の収支だけを問題としても本質的解決は出来ない。それ以前に、根本になければならないのは、国家理念であり、国家構想である。

戦前の国家予算において、軍事費は、戦時中とはいえ明治38年には、82%、昭和19年には、85%を超えているのである。日米戦争以前でも昭和12年から7割以上を占めるようになっていた。国家予算は、根本は国家理念である。その事を忘れてはならない。先ずどの様な国を作ろうとするのか、国民の意志があって始めて財政の是非は問われるべきなのである。

負債や貯蓄、投資の増減は消費の結果なのである。最終的には、消費の有り様が経済の有様を決めるのである。

お金は、最終的には、個人所得という形で分配される。分配された所得の範囲内で人々は、生きる為に必要な資源を市場から調達する。生きる為に必要な資源は、市場取引によって価格が設定されお金と交換される。価格は、需要と供給の働きによって決まる。価格の水準が物価を形成する。
消費のあり方は物価の構成に制約される。
消費構造の変化に合わせて生産構造や所得構造を変動させるのが経済の仕組みである。その基盤を構造を変化させるのが行政であり、お金の流通量を制御し、更に、所得再分配をするのが財政である。

生産財を消費者に分配する手段が「お金」である。「お金」を配分する手段が所得である。所得を得る手段には、資本と労働があるのである。いずれも時間価値に転じて、付加価値を形成する。



自由主義経済は、市場の上に成り立っている。


自由主義市場は、市場の上に成り立っている。
しかし、なぜ市場取引によって自由は成り立つのか、また、市場とは何か、市場にはどのような働きがあるかは、明らかにしていない。
ただ何となく市場というものを捉えているのに過ぎない。
市場の働きを正しく知らないと市場を適正に活用し、経済を制御する事はできない。

市場は場である。場とは、何らかの力が働いている空間を言う。市場は、人為的場である。市場は、自然の場、物理学的な場ではない。市場は、人為的な力が作用している空間、場である。人為的場には、市場以外にスポーツのフィールドがある。つまり、市場は、スポーツのフィールドのような場である。
市場は、売買取引をする場である。売買取引とは、「お金」を媒体として財を交換する場である。財を交換する場とは、分配する場を意味する。市場には、「お金」の力が働いている。

市場は、規律と法が保たれないと機能しない。なぜならば、市場は、規律と法の働きによって成り立っているからである。規律と法がなくなれば、市場でなくなる。市場を成り立たせているのは、規制である。故に、無駄な規制、無意味な規制は、市場取引にとって障害となり、市場の機能を阻害する。だからといって規制をなくしたら市場そのものが成り立たなくなる。市場緩和というのは、無駄や無意味な規制を排除し、効率的な市場を実現する事を意味するのであり、必要な規制をなくすことではない。

市場に働く規律や法は、一定の手続きによって任意に設定される。市場の規律や法は、重力や磁力の様な所与の働きではない。

市場は、契約によって成立している。
市場は、売り手と買い手と財と「お金」によって成り立っている。売り手には、売り手の立場に立った取引があり、買手には、買い手の立場に立った取引がある。

「お金」が流れる逆方向に財は流れる。市場取引は、「お金」と財の受渡によって成立する。
市場取引は、売り取引と買い取引が一対になって成立する。一つの取引で交換される財と「お金」の価値は等しい。取引は、「お金」の授受と財の受渡によって成立する。「お金」の授受と財の受渡は、同時にされるとは限らない。「お金」の授受を決済とする。「お金」の授受と財の受渡の双方が確認された時、取引は完了する。

財は、無制限に供給されるものではない。財は有限である。「お金」は、無限に創造できる。故に、「お金」は何らかの制約を設けないと、その機能を発揮する事が出来ない。なぜならば、「お金」は、分配の手段だからである。

交換価値に特化する事で貨幣、「お金」は成立した。「お金」は、物としての使用価値を削ぎ落したのである。

市場は、会計制度の上に成り立っている。

市場は働きである。市場の働きは、競争によって発揮される。

市場には、経済を支配する力はない。市場に過度に期待するのは間違いである。市場は失敗しないし、市場は、放置すれば自然に均衡する事もない。市場が失敗するのではなく、人が失敗するのである。市場によって均衡するのではなく。人が均衡させるのである。市場は絶対でもなく、完全でもない。
故に、市場にルール、規制は必要である。

経済政策は、相対的であり、合目的的である。規制緩和も相対的で、合目的的な施策である。絶対的な原理ではない。
なぜ、規制を緩和するのかと言うと、一つは、草創期で企業が乱立状態の時、企業を淘汰する目的で規制を緩和し、競争を促す目的で規制を緩和する。二つ目は、市場が停滞し、成長が鈍化した時、技術革新などを促すために、規制を緩和する。三つめは、規制によって既得権益が派生し、余剰利益が過大になった時。四つ目は、組織の効率が低下し、組織が肥大化した時。五つ目は、相互牽制が働かなくなり自浄機能が働きが低下した時。六には、仕事が慢性化し、組織が保守的になり、革新を受け入れなくなった時。変化に対応しきれなくなった時等である。
逆に規制緩和の弊害は、一つは、過当競争が激化し、適正な収益が上げられなくなる。最終的には価格が全てになる。第二に、組織が生産効率ばかりを追い求めるようになり、分配や労働条件、雇用といった面が疎かになる。第三に、雇用の標準化、平準化が極端に進められる。第四に、余剰人員の捌け口がなくなる。第五に、独占も寡占が進む。第六に、貨幣的価値観が優先されるようになる。第七に、市場が荒廃する。第八に、組織の効率化、合理化が極限にまで求められる。第九に、競争力がすべてに優先される。第十に、質より量が優先される等である。
故に、市場が成熟期になった場合、成長期と同じ規制では市場を制御できなくなるが、かといって規制を闇雲に緩和すればいいという訳ではなく、況や、なくしてしまえというのは暴論である。
高度成長期、あらゆる産業が独占を怖れていろいろと制約を受けていたのが、今は、嘘のようである。その結果、石油も、金融も、電気も、寡占独占状態に陥りつつある。
寡占、独占状態にしたのが競争原理主義者だから皮肉なものである。なぜならば、独占は、競争を全否定した状態だからである。

市場は、規制があって成り立っている事を忘れてはならない。規制がない状態が自由だと錯覚している者がいるが、それは無法状態を意味する。スポーツは、ルールを前提とする事で自由が保障されているのである。だからこそ、スポーツマンには遵法精神が求められる。
問題は、規制の在り様であって時代や状況、環境の変化に適合しなくなった規制は、改廃すべきではあるが、規制そのものをなくしてしまえとか、ひたすら緩和すればいいというのは暴論である。
規制の目的には、経済的な目的。安全性を保つ目的。治安を維持する目的。国防的目的。国民の権利を守る目的、環境保護の目的等がある。

経済的な規制のなかで、市場の機能に最も関係していると思われるのが独占禁止法である。
独占禁止法には、二つの中心となる概念がある。一つは、文字通り、独占寡占の禁止である。もう一つは、不当廉売である。
そして、市場に規制を招く一番の要因は、過当競争である。

過当競争の一番の弊害は、市場が荒廃させる事である。市場を荒廃させるとはどうい事かと言うと第一に、財、商品やサービスの質を低下してしまう。第二に、販売員のモラルを低下させる。モラルハザードの問題である。第三に、労働の質の低下である。第四に、結果のためには手段を択ばない風潮が高まり、不正や犯罪を誘発しやすい環境になる。第五に、利益中心主義になり、拝金主義に陥る。第六に、市場の傾向が一定方向に傾き、流されやすくなる。赤信号皆で渡れば怖くないという状態になり易い。リーマンショックやバブルの時代は、収益第一主義に陥り、営業員のモラルの低下を招いたと言われる。第七に、質の低下によって仕事が没個性的になり、マンネリ化する。財の標準化が進むのである。第八に、寡占独占状態では、適正な利益が維持できなくなるという事である。回転率や販売数量を大きくする人によって規模を大きくする事で利益を上げようとした場合、どうしても利益が圧縮される傾向がある。大量生産、大量販売、大量消費を前提としすると商品の持つ本来の価値を損なう事にもなりかねない。つまり、質より量が求められる事で結果的に質が低下し、経営が成り立たなくなるのである。過当競争は、悪化が、良貨を駆逐するという状態を招きやすい。

規制と言うのは、宴会に水を差すような事と言われるが、常軌を逸した宴会を抑制する者がいなくなれば、群衆は制御する事が出来なくなる。とかく、規制する物は嫌われる。
制御できない状態に陥った時。
適正な収益が維持できないような状態に陥った時は、不当廉売を規制する必要がある。

独占、寡占状態になってしまう場合である。かつては、石油業界も金融業界も建設業界も寡占独占には過敏なほど制約されてきたが、いつの間にか寡占状態に陥ってしまった。独禁法の精神などどこ吹く風である。これは、将来に禍根を残す事になる。

経済的規制の中には、産業保護を目的としたものもある。産業を保護する事はないというのは、反体制主義者の常道である。しかし、産業を規制によって保護しなければ、個々の企業は、自力で自分たちの権益を守らざるを得なくなり、その結果、横暴になる。それは法を否定する事であり、法による支配を否定すれば暴力による支配にとって代わられる事を理解していないだけである。

資産価値が下落し、流動性が低下した場合には、何らかの規制が求められる。リーマンショックが好例である。

急激な為替の変動は、産業をの経営基盤を直撃する事がある。プラザ合意後の急激な円高は、バブルを引き起こし、その後の日本経済の本質を変えてしまった。
為替だけでなく、金利や地価、物価の急激な変動は、企業の経営、特に中小企業の経営を不安定なものにする。この様な変化から残業を守るために、一時的に競争を抑制するような規制は必要とされる。バブル崩壊後無防備な状態に置かれた多くの企業が、通常の営業以外の理由で淘汰されてしまった。

法や制度の変更も一時的に企業経営を窮地に追い込むことがある。バブル崩壊等が好例である。

地震や洪水と言った災害や事故、テロ、戦争等による急激な変化の際に規制が必要となる場合がある。好例がオイルショックや東日本大震災の時である。
経済活動には、危険はつきものである。火災や事故、公害などから国民の安全性や保安が維持できなくなる事が予測される場合は規制すべきである。
環境が著しく汚染され、国民の健康に被害が及ぶことが予想された場合は、規制する必要がある。

競争力の基礎的条件に極端な格差があって公正な競争が阻害されている場合である。
貧困の輸出等と言うような事態も引き起こす。現在の市場は、世界に開かれている事を前提として成り立っている。公正な競争を実現するためには、各国の市場が同じ条件でなければならない。同じ条件を実現しようとしたら市場を閉ざすしかなくなる。
開かれた市場で公正な競争を実現するには、国家間の差が違い過ぎる。各国の市場の前提条件を一致させようとすれば、政治体制も、経済体制も、また、宗教や生活水準、経済政策や、為替制度、貨幣制度、思想や教育水準にまで及ぶからである。故に、も何らかの規制をかけて極力同じ条件に近づけるようにしないと公正な競争は維持できない。
中には、劣悪な労働条件によって低賃金を実現している国や地域もある。かと言って直接その国の労働条件を改善できないとしたら貧困を輸出していると言われても仕方がない場合がある。
労働環境を劣悪なものにしないためには規制が必要となる。
また、安全規制や薬などの認可にも国家間に違いがあり、その差を埋めるためには、時間がかかる。野放図にしてしまえば、国家の自主独立にもかかわる問題に発展してしまう。

伝統的な技術や知識などが維持できない、あるいは海外に流出してしまう恐れがある場合も規制が求められる。
これらの中には、国防上に重大な危機を及ぼす場合がある。現在の日本人は、この問題にあまりにも鈍感で、国際問題、外交問題を引き起こす要因にもなっている。

平等という言葉を都合よく使う傾向があるが、なにもかも同じする事を平等と言うのではない。平等と言うのは、人間本来の在り方、存在の問題であり。その点からすれば個々人の差、国家の差を前提として成り立っている。皆、同じだとするのは、かえって不平等を招く。
子供、若者は違う。女性と男性は違う。寒い国と熱い国は基盤が違う。資源を持つ国と持たない国とでは違う。体制が違えば政策も違う。その差を前提としなければ平等など成り立たないのである。
先ず違いを正しく認識する事から平等は始まるのである。

市場は場である。



市場は、場である。場とは、一定の働きや法則に支配されている空間である。市場は、人為的場である。即ち、人によって作られた空間である。
場である市場には、一定の法則や力が常時働いている。法則や働きの効力がなくなったら市場は、市場としての機能を失う。人為的空間の市場に働く法則とは、一定の手続くによって制定された法や規則である。

人為的空間である市場に働く法や仕組みは、契約によって人為的に作られる人である。自然になる事ではない。一定の手続きによって制定される事である。自然の成り行きに任せればいいというものではない。
市場を成り立たせるのには、為政者の強い意志である。為政者がどのような構想や展望、考えを持っているかが市場では決定的な働きをするのである。

市場に働く力を規定するのは、市場の法や仕組みが作り出す構造である。故に、市場の働きを制御するためには、法の力を活用し、仕組みを操作する必要がある。

市場に働く力の方向は、市場を支配する法や仕組みを操作する事によって変える事が出来る。

人為的に操作されなくても市場独自の働きによって市場の下部構造の変化し、また、前提条件が変わってしまい市場に働く力の方向が変化する事がある。市場に働く力の方向が変わると市場の性格も変化する。為替の変動などが典型である。
物価を押し上げる方向に働いていた力が、逆に物価を押し下げるような方向に変わると、例えば借金の働きは、変質する。物価が上昇する方向に力が働いていた時は、借金の負担は軽減する方向に作用していたのが、物価を押し下げる方向の働きに転じると借金の負担は大きくなる。当然、同じような施策をとっていたら正反対の結果になる。

また、一時的に一定方向の力が市場を支配する事がある。
例えば、バブル期における地価である。プラザ合意後の円高である。このような力の背後には、その力が働くようになる何らかの構造的変化が隠されている場合がある。構造的な変化を伴っている場合は、一時的な変化で終わらず、恒久的な変化であり根本思想まで変えなければ対処できない。

そして、このような働きは、他の要素にも波及する。プラザ合意後の円高圧力が収益を圧迫して、財テクを促しバブルを準備したようにである。
表面に現れた事象にばかり目を奪われて背後にある構造的変化を見逃すと決定的な過ちを犯す事になる。

また、通常なら一過性の変化でも経済環境を一変させてしまう事がある。例え、一時的な力の方向の変化に見えても力の強さや期間、方向性、他の要素に与える影響、関係などをよくよく見極める事が大切なのである。

市場に働く力は、本来は、常に一定方向を向いているわけではなく。条件や状況、環境によって変化している。つまり、風のようなものである。
企業経営では、その時、その時にどちらの方向に風が吹いているかを見極める事が重要となる。

場を構成する要素が通常は、バラバラの方向を向いて働いているのが、何らかのきっかけによって一斉に一定方向に働くことがある。この様な動きは、市場の構造を破壊してしまう事もある。どの様な切っ掛けや状況の変化がこのような現象を引き起こすのかを明らかにしておく必要がある。市場の暴走を防ぎいかに市場の規律を守るかが、為政者の一番の仕事である。

市場の暴走を防ぐためにも留意しなければならないのは、金儲けが目的なのではなく。仕事を与える事が目的だと言う点である。金儲けが経済の目的だと錯覚したら、市場の暴走を防ぐ手立てがなくなってしまうからである。金儲けが目的だと錯覚したら、人間は、見境がなくなり、自制心を失い、欲望や快楽に身を委ねる事になる。いかに、生活に必要な物資を分け与え合うか、それが経済の本義なのである。

完全自由競争は前提とならない。


市場は、完全自由競争を前提としたら成り立たなくなる。
自由競争と言うのは、一定の前提条件の下で成り立っているのであり。何の制約もないところで自由競争は成り立たない。

市場は観念でなく現実である。花市場では、色とりどりの花が取引されているし、魚市場では新鮮な魚が売り買いされている。市場には、各々特徴があり、それぞれの掟があり、歴史がある。市場は観念の所産ではなく。人々の生活の中から生み出された場である。

完全競争の前提は、第一に、生産者も消費者も無数に存在する。第二に、個人は、価格決定権を持たない。第三に、価格は、生産者にも消費者にも所与と前提する事である。

完全競争市場とは、第一に、財が同質である事。第二に、売り手と買い手が無数に存在する、第三に完全情報、即ち、市場に関する情報を全ての参加者が保有している。第四に参入・退出の自由といった四つの条件を同時に満たす市場を指す。
無論、このような市場は現実には、存在しない。存在しない事を前提とするにしても、市場の働きを説明するのには適していない。

完全競争市場は、昔も、今も、これからも存在しえない。あるとしたらオリンピックのようなスポーツの世界だけだ。なぜならば、完全競争を実現させるためには、個々の市場を成り立たせている前提条件が違い過ぎるからである。

市場が成り立つのは、市場の歪や不均衡な状態を前提とするからである。需要と供給は、放置すれば一定した点に均衡するという事を前提とするのは、危険である。市場は、常に、均衡点を求めて揺れ動いているのであり、その揺らぎが市場の仕組みを動かしているのである。

生産と消費は放置すれば一致しなくなる。生産は、生産、消費は消費である。生産と消費を結び付けているのが市場である。
元々、生産と消費は、別次元の事象である。
市場取引によって生産量と消費量を一致させることはできないし、最初からそんなことは前提としていない。

市場取引だけでは生産と消費を一致させることはできない。
生産と消費は一体ではないのである。生産は、必然性から求められ、消費は必要性の結果なのである。

必要な物を必要なだけ生産するという事は至難な業である。

第一に、消費者の嗜好、求めるものは日々変化している。それに対し、財の生産の条件は、消費によって定まりのではない。
農産物は、天候に左右されるし、工業製品は、製品にして売ってみなければ、どれくらい売れるかわからない。しかも、製造設備を建設して製品にするまでには、時間も、労力も資金もかかるのである。
事前に完璧に予測ができるのならば、何も市場を通さずに計画経済にした方が効率いいに決まっている。

故に、完全競争市場を前提としたら経済は成り立たなくなる。なぜならば、完全自由競争が市場で成り立つ為には、必要とする財が必要とする時に、必要なだけ供給されている事が善でなければならないからである。しかし、財は常に過剰か不足している。

始めから、人・物・金は偏在し、歪みがある事を前提とすべきなのである。その歪みや偏在こそが市場形成する重要な要因の一つである。

また、現実の市場では、情報は非対称なのである。そして、情報の非対称性を前提として市場は成り立っている。情報が非対称だから、市場は成り立つのである。お互いにわからない、不明なところがあるから市場は成立している。全てがあからさまになってしまえば市場競争など意味がないのである。
それ故に、現実の市場は規制されなければ成り立たない。

完全競争市場は、昔も、今も、これからも存在しえない。完全競争市場は、例えば、スポーツのようなもので、全ての前提条件が一致している場合にのみ成立しうる。それが理想的と言えば理想的だが、非現実的であり、また、良い状態ともいえない。

なぜならば、現在の市場は、世界に開かれている事を前提として成り立っている。完全競争市場を実現する場合は、各国の市場が同じ条件でなければならない。さもなければ、鎖国のように閉ざされた市場を前提とする事になる。しかし、これはあまりに非現実的な設定である。
かといって国際市場で完全競争を実現するには、国家間の差が違い過ぎる。各国の市場の前提条件を一致させようとすれば、政治体制も、経済体制も、また、宗教や生活水準、経済政策や、為替制度、貨幣制度、思想や教育水準にまで及ぶからである。

完全自由競争は理想的状態でもない。むしろ、弊害の方が多い状態である。なぜ、完全自由競争を理想的な状態と想定するのか。それは、論者が無理やり自分の理論に現実を押し込めようとしているのに過ぎない。
経済学で問題になるのは、現実を無視していきなり前提条件を想定する事である。経済は、現実であり、実体のある事を忘れてはならない。

完全競争市場を想定するためには、強固な規制が必要となる。自由競争を標榜する者は規制緩和主義者が多い。彼らの多くは自由の真の意味を知らない。故に、彼らの主張には弊害が多い。

現在、市場は、完全競争市場に近づきつつあるように思える。商品は、標準化され、個々の商品固有の属性や個性が剥ぎ取られ、価格だけ全てであるような状態になりつつある。それは、ただ効率のみを突き詰めた結果である。本来市場は、自己実現の場でもあり、個々人の主張があってはじめて色彩を発揮する。また、労働は、規格化され単一労働単一賃金と時間だけが労働の成果に対する基準になりつつある。人としての属性が一切顧みられなくなる。それは、社会が共同体、コミュニティーとしての属性を失いつつあることを意味する。

無駄もまた、経済である。効率のみ突き詰めたら息苦しく、生きづらい社会になってしまう。それは、経済の本旨ではない。経済とは生きるための活動なのである。生きるというのは、人間らしく、自分らしく生きると言う意味でもある。


市場は、いくつかの小さな市場が組み合わさる事によって形成される。



取引にはいくつかの段階があり、その段階のいずれかの局面に支障がある場合、「お金」は流れにくくなる。
経済は価格だけで成り立っているのではない。市場は、「お金」を流通させ、物を流通させる事だけが働きなのではない。「お金」を分配し、生産財を分配する場でもある。価格だけを競わせたら、市場本来の働きが失われてしまう。
市場は、生活の場なのである。

市場に「お金」を流通する誘因は、利益にある。適正な利益が取れなくなると「お金」は市場に流通しなくなる。「お金」が流通しなくなるどころか産業そのものが破綻してしまう。
お金を流すためには、お金を流すための道、すなわち、何らかの幅がなければならない。お金を流すために必要な幅とは何か、それが利息であり、収益であり、利益である。利息や、収益、利益といった一定の幅が取れなくなると「お金」は潤滑に流れなくなる。

幅というのであるから、上限と下限がある。
この上限と下限を制約するのは、フローとストックの関係や可処分所得と支払能力と物価の幅である。
例えば、家を買うためには、自分の収入の幅と家の価格の幅が重なり合わなう必要がある。
自分の支払い能力の上限を家の価格の下限を上回れば、家を購入する事はできない。支払能力の上限は、所得の幅に制約を受ける。所得の幅、地価の幅、支払い能力の幅、支払期間の幅等、経済状態は、幅と幅の関係によって決まる。

幅が重要だから差や比率が問題となるのである。

名目的価値と実質的価値の幅も景気に重要な影響を与える。負債は、「お金」の問題であり、名目的価値に制約を受け、資産は、「実物」の問題であり、実質的価値の影響を受ける。
バブル崩壊後地価の下落によって手持ち資産の担保価値が失われ資金の調達力がなくなった結果、企業は、資金真調達源を外部資金から内部資金へ移行せざるを得なくなった。それによって投資がフリーキャッシュフローの範囲に取り込まれ、新規投資が抑制されたのである。それがバブル崩壊後の景気回復の足かせとなった。



市場は、重層的な構造を持つ


市場は、重層的な構造を持っている。それは、産業の重層構造による。
産業は、エネルギー、交通、通信、倉庫、ライフラインといった産業や生活の基礎となる層を根底としてその上に、生産、物流、販売(分配)、消費、金融、教育といった個々独立した産業が重なるようにして形成される。
そして、それぞれの産業が作り出す市場によって市場全体は、重層的な構造になっている。ただ、この構造は絶対的な構造ではなく。市場を取り囲む環境や状況の変化に応じて更新されている。
更に、金融市場や労働市場があらゆる市場の背景に存在する。
それによって市場は、水平的な構造と垂直的な構造が複雑に入り組んで形成されている。

市場の構造は歴史的な背景がある。そして、その歴史的背景抜きには、市場の構造は語れない。

市場は、直線的構造、線形的構造をしているわけではない。市場は、空間であり、場である。
空間としての働き、場としての構造を見ないと経済の変動を予測する事はできない。

価格を統制したり、所得を固定しても経済の実体を制御する事はできない。
また、計画を立てても計画通りにならないのが経済である。

電力や原子力はそれ自体を直接制御する事はできない。電力や原子力を活用して期待通りの成果を上げようとしたら、電力や原子力を制御する機械、機構が必要となる。

「お金」も同様である。「お金」を活用しようとしたら、「お金」の流れや働きを制御する仕組みが必要なのである。
その仕組みを有効なものにするためには、市場が作り出す場の働きを明らかにする必要がある。


価格の構造


経済的問題に対して妙な正義感を持っている人に出会う事がある。特に、学者やジャーナリスト、官僚、教育者等にこういう人がいる。経済は、あくまでも経済であり、経済的の倫理観というのは、経済のルールに基づいている。安ければいいとか、金利は悪だとか、金儲けは悪いというのは、それは独善に過ぎない。自由、競争。自由、競争と自由や競争を意味もなく宗教的な原理や科学の法則の如く絶対的真理と思い込んでいる人に多く見られる。一種の信仰のようなものなのかもしれない。

価格は、財の商品価値を表している。商品価値とは、交換価値である。経済的価値には、使用価値と交換価値がある。価格は、その中の交換価値を示している。よく引合いに出される事だが、空気がなければ人は生きていけるが、空気は、働かずとも手に入り、交換価値がない。だから、空気に価格はつかない。空気は商品にならないのである。つまり、商品価値は、交換価値を意味しており、「お金」の正体は、交換を仲介する手段、道具なのである。

価格は、価格として単独に決定される事ではない。需給、所得、経済環境等、複数の要素を市場取引によって統合する過程を経て決定されていく。勝手に売り手が価格を設定しても取引は成り立たないのである。

価格は、所得と支出の関係によっ形成される。支出は消費を形成する。消費は支出の範囲内で行われるからである。自家消費の物も経済活動の一環として見られていたが、自家消費は現在は、経済活動としては認められず、市場価値に置き換える事が税制上要求されている。
経済は、双方向の働きによって成り立っている。

物価は、価格の変動として現れる。
価格は、所得と消費とを結び付ける過程で形成される。所得を所得、消費を消費だけでとらえていたら価格の働きは理解できない。
価格の妥当性を考える場合、価格が所得や消費に対してどの様な影響を与えるかを正しく理解しておく必要がある。

価格に対して廉価を絶対的基準としているメディアの人間や学者がいて安売り業者は、全てにおいて正義の味方であるかのように主張する人がいる。しかし、安売り業者は基本的に薄利多売を前提としている事を忘れてはならない。薄利多売を絶対的だとすると価格の持つ意義が偏ったものになる危険性がある。価格は、表しているのは、売値だけではない。価格が構成する要素を吟味する必要がある。適正な価格が維持されなければ、例えば、品質保証とか、アフターサービスとか、保守と言った部分がないがしろにされるようになるし、市場も荒れる。雇用も失われたり、労働条件が劣化したりする。メディアや評論家は、ただ表面的な事を見て好き勝手な事を言うが、その結果、シャッター街が増えたり、ブラック企業が栄えたりする。
また、安売りを奨励するのはデフレ政策である事も忘れてはならない。
政策の整合性が重要になる。インフレ政策をしようとしている時に、デフレを推進するような政策をとれば、政策の整合性は保てなくなる。
重要なのは、為政者がどのような市場環境を望んでいるかである。何の構想もなく行き当たりばったりの政策をとる事が最も有害なのである。

価格の効用の一つは、比較対象である。価格は相対的であるから機能を発揮できるのであり、絶対価格は、価格としての効用が、硬直的、限定的となる。絶対価格となるような統制価格や絶対価格を生み出すような独占体制は、価格の相対的働きが発揮できないために、市場の機能が働かなくなるのである。

価格の妥当性は、市場だけで判断できる事ではない。まず第一に、情報の非対称性がある。第二に、消費者、販売者、生産者では、価格に対する考え方や立場、都合、役割が違うという事である。第三に価格の構造的問題がある。

今一番問題となるのは、インターネットの発達によって価格情報が一方的に流されているという事である。しかも、その情報に必ずしも双方向性があるわけではないと言う点である。間違った情報や偏って情報が一方的に流される危険性を防げない。この点を充分に留意しないと正確に判断はできない。インターネット上に流されている情報は必ずしも真実だとは限らないのである。なかには、悪意に満ちたものもある。

価格は、消費者には消費者の都合や考え方があり、販売業者には、販売業者の思惑、生産者には生産者の計算がある。さらに、情報産業の考え方がこれに加わるので、価格は安ければいいといった単純な正義感だけで判断された困るのである。

販売業者には販売業者の思惑がある。所謂、目玉商品として仕入れ価格を下回る価格で売り出す業者もいる。

生産者は、生産者の思惑がある。今の時代は、早い周期で新製品が開発され、売り出される。流行り廃りも早い。また、生産設備の進歩によって短時間で大量に生産する事が可能になった。その為に、売れ残り製品や過剰生産品が出て、原価を割った販売で市場に出回る事もある。

経済学者やジャーナリスト、官僚、教育者の中には、民間企業は、詐欺師、ペテン師ばかりで、金の亡者、金儲けばかりしか考えていないと決めつけている者がいる。そういう人間の中には、金儲けや収益は悪だと経済的倫理と人道的倫理観とを一緒くたに考えてしまっている者が見受けられる。経済道徳と人道的道徳とは、同じではない。金を儲ける事や金利をとる事は、悪だとされたら、経済的合理性は確立できない。

価格を構成する重要な要素の一つに原価がある事を忘れてはならない。そして、原価の中で中心的な働きをしているのが人件費である。人件費の性格は、費用という性格だけではない。人件費には、第一に、費用。第二に、報酬。第三に、所得の三つの側面がある。
費用は、企業の費用対効果を表し、利益に反映される。報酬という性格は、自己実現、自己評価に結び付けられる。所得は、支出と貯蓄、投資の原資となり、納税根拠となる。また、消費、生活費の原資でもある。
故に、価格はこの三つの働きから測られるべき物であり、単に費用という側面だけで考えるべき事ではない。

また、価格は、生産過程を反映したものでもある。生産過程とは、原価を構成し、費用対効果を反映している。
原価は、生産部分だけに派生するわけではない。販売部門には、配送とか、広告費とか、在庫費用、包装費、販売費と言った費用が掛かる。また、消費には消費の費用が掛かる。要は、どこが負担するかの問題なのである。

費用には費用の構造がある。費用の構造こそ、経済の基礎を作る。費用は、決して無用な事ではない。
費用には、損益構造がある。収益と費用の構造、費用の性格、固定費、変動費の関係によって変わってくる。また、製造形態、大量生産品か受注生産品か、工場生産か、手作りかといった事によっても違ってくる。総合原価計算か個別原価計算かと言った原価計算の仕方でも違う。

労働条件や賃金によって人件費は違ってくる。経費削減と安い人件費を求めて生産拠点を移動させることは、自国の雇用を犠牲にして、貧困や劣悪な労働条件を輸入する事にもなる。無条件で安売りを善とする論者は、人権は悪だとしているようなものである。

それを競争原理主義者は一律に価格だけで競争させよう、規制を緩和すれば解決するとしている。馬鹿の一つ覚えである。何でもかんでもアスピリンを飲ませればいい、痛み止めで対処すればいいと言っているような医者と変わらない。

固定費と変動費の関係は、期間損益を検討するための基礎となる。しかし、固定費と変動費には、絶対的な基準があるわけではなく、変動費と固定費の区分には、曖昧な部分が多く含まれている。また、変動費と固定費の関係は、総合的な観点から見た場合で、単価に置き換えると変動費と固定費の関係は逆転する。

損益分岐点を見越して生産をすると過剰生産の原因ともなる。また、固定費の中で減価償却費の計算式や期間の設定を違えると、長期的に見て資金の回収が不可能になる場合もある。

価格は、これらを統合的に見て設定されるべきものである。
単純に価格協定のような事を悪だと決めつけるのは、危険である。問題は、価格の妥当性であり、価格決定の透明性を情報公開によってどこまで担保できるかなのである。

安売りは善で、何が何でも競争をさせろ、そのためには何が何でも規制を失くしてしまえというのは、経済的合理性を無視した暴論であり、その暴論がまかり通っているから、経済は安定しないのである。景気が不安定になり、経済が破綻した先にあるのは、暴動、飢饉、戦争や革命と言った惨禍である。それを承知して競争、自由、規制緩和を奨励しているのかどうか、疑わしい限りである。

また、価格の設定も、売り手と買い手の直接取引によって決まるだけでなく、定価販売や入札などがある。入札もただ安ければいいという訳ではない。かつて、システム開発において付帯販売を期待して異常に低い価格を設定したシステム開発会社が問題となった事がある。
安ければいいというのではなく、原価や効用に見合って価格であるか否かが重要なのである。
価格による情報にのみ頼った経済は、質的な情報が疎かにされる危険性がある。

経済的価値は、相対的価値であり、人道的な価値観と同等に語る事はできない。

数は、単一な意味を持つわけではない。一人の人を表す数字も身長、体重、年齢等、複数の数字が組み合わせって構成されている。
価格は、値段だけで成り立っているわけではない。消費量、生産量、市場規模、原価、配送料、保険料、支払い条件などいくつかの要素が複合されて形成されている。
数そのものが相対的であり、単一で成り立っているわけではない。少なくとも数は、数が指し示す対象が前提となる。値段は、単一で成り立っているわけではない。需要と供給、収益と費用、生産力、政治的状況や経済的環境などが絡み合って価格は成り立っている。

収益と費用は、相対的関係である。収益も費用も絶対的なものではない。経済的価値は、収益、費用、負債、資産との相関関係によって定まる値である。例えば、収益は、売上であり、売上は、需要と供給だけで決まる事ではない。収益は費用との関係、費用は生産手段や仕入れ、負債との関係から導き出される。生産手段の効用は、資産価値や負債との関係によって決まる。

経済的価値は、単価と数量と時間の積によって定まる。数量には、消費者数と消費量からなる。
売上は、売買取引によって獲得した「お金」を集計した値を言い、費用とは、経済活動で消費した事であり、資産は、生産手段に投入した「お金」を集計した値であり、負債は外部から調達した「お金」を集計した値であり、純資産は、外部から獲得した「お金」の集計した値である。
故に、経済活動には、貨幣的と数量的要素と時間的要素がある。
価格だけを見て経済的事象を判断するのは危険である。経済を「お金」の動きだけから判断したら、経済の本質は見失われる。
何でもかんでも安ければいいというのは、余りにも見識がない。廉価の裏にある事、高価な物の意味を理解すべきである。

安さは、わかりやすい反面、落とし穴もあるのである。異常に安いものは、安いなりの裏がある。

以前は、定価というのが当たり前だった。何にでも定価があって定価があるから安心して買えた。今は、定価というのは、ほとんどないかあっても有名無実である。価格は店毎に違うし、季節によっても、地域によっても違う。新製品が出れば安くなる。定価なんてあってないようなものである。しかし、以前は定価が決まっているのが当然だった。
定価というのは、思想である。定価が普及する以前は、価格は決まっていなかった。一回一回の取引で価格は決まっていた。その為に、目利きのできるものと、そうでない者とでは値段は大きな差が出た。なかには詐欺師みたいなものがいた。それを誰でも安心して買い物ができるような②と定価販売を導入したのが三井越後呉服店の「正札現金掛け値なし」である。「正札現金掛け値なし」で顧客の安心感を高めて薄利多売の走りだと言われる。今と真逆の発想である。定価販売を打破する為に価格破壊とダイエーの中内が定価より大幅に値引きをして現在の薄利多売の販売方法を導入したのである。
この様に時代によって価格に対する考え方は違ってくる。ただ言える事は、商売の基本を外したら成り立たなくなる。

定価販売をすれば予め販売数量や売上だが設定できる。予め設定された販売数量や売上に基づいて生産計画や資金計画も組める。生産計画や資金計画を立てられれば,自ずと投資計画や事業計画も立てられる。単価が設定できなければ、予算は組むの難しい。ただ、定価が設定されると市場が飽和状態になった時、定価が暗黙の協定価格になりかねないという弊害がある。現に、清涼飲料や書籍のように定価があるものは、価格が標準化される傾向がある。

定価にするというのは、収益の安定化をはかる事につながるし、価格破壊は回転率を高める事を目的としている。
問題は、何に主眼を置くかである。今の為政者やマスコミは、消費者の味方を気取って競争を煽り、少しでも値段が高いと悪徳業者のように扱う。ただ、経営を安定化しようとするのは、経営者として当然のことであるし、少量販売に徹して信用を重んじる業者がいてもいいはずである。何でもかんでも競争を煽って安売りを誘うのは品が悪い。単純に大量生産、大量消費を信奉しているに過ぎない。
定価販売がいいか、悪いかではなく。その背景にある意義や目的、働きを理解したうえで何が良くて何が悪いかを判断すべきなのである。
定価販売は、メーカーの言いなりだから悪いではなく。メーカーが定価で販売したいとしたらなぜメーカーは定価販売をしたいのか、逆に販売会社はなぜ安売りをしたいのかを一方的に判断するのではなく、双方の立場を勘案しながら、経済全体に与える影響も考えて判断すべきなのである。経済の問題は経済の問題であって倫理観の問題ではない。それはまた別の次元の問題である。

経営主体は、収入と支出を整流するという働きがある。市場では、収入や支出には、波があり、一定していない。収入の波は不規則で、不確かなのに対して支出は、規則的で確実性が高いという傾向がある。それが資金の過不足を生む要因でもある。
資金の過不足は、予測がつきにくいために、残高が尽きる事がある。残高がなくなったら、自分以外から資金を調達しなければ生活ができなくなる。これでは生活はいつまで経っても安定しない。経済主体は、定収によって収入を安定させる働きがある。定価も同様の働きがある。
定価を定める事で、収入を安定化させるとともに一定の利益を確保する目的が定価にはある。定価を定める事で収益計算も可能となり、事業計画も立てやすくなる。競争原理主義者は、このような事情は一切認めようとしない。とにかく安ければいいという立場に立つ。これでは経済はいつまでたっても安定しない。



市場の規律が失われると適正な価格は維持できなくなる



価格を破壊するのは、市場に規律が失われることによる。市場の規律を保つ事が景気を維持するためのカギとなる。それ故に、独禁法が定められたのである。独禁法は、単に、独占や寡占を否定しているだけでなく、不当廉売による過当競争も否定しているのである。つまり、独禁法は、市場の規律を失わせる事を禁じているのである。その独禁法が廃れたことで、市場は荒廃してしまっている。
何を競わせるかが問題なのであり、安ければいいというのは、市場経済を否定する行為である。

適正な価格を維持するためには、過当競争を規制などによって抑制する方法と過当競争を放置して独占、寡占状態にさせる以外にない。さもないと市場の規律は失われ企業は共倒れする事になる。
ただ独占、寡占状態を許せば、市場そのものが終焉してしまう。

貿易の不均衡が問題になると内需拡大が叫ばれる。しかし、どうすれば内需が拡大するかは、示されたことがない。要するに、お金を使えと言った上っ面の議論に終わってきたのである。
内需拡大をするという事は、国内市場の整備を意味する。国内の市場で適正な価格が維持され、利益が上がるように仕組みを整える事である。そうすれば自ずと国内の市場取引は活発になる。ところが内需拡大するために、規制緩和をしなければならないという結論にどういう訳かなってしまう。馬鹿の一つ覚えに規制緩和・規制緩和である。その結果、安売り合戦、過当競争が始まり市場が荒廃してしまう。なぜ、規制を緩和する必要があるのか、市場を活性化するためには、その意義と目的を明らかにする必要がある。

市場は一つではない。複数の独立した市場が組み合わさって全体を構成している。
部分を構成する市場は、一律一様ではなく、それぞれが固有の仕組みを持っている。また、部分を構成する市場も調達、製造、物流、販売等、いくつかの階層から成り立っており、その階層ごとに個々独立した市場を構成している。また、市場は、発展段階によって様相を変える。さらに、市場は、海外などの他の市場の影響もうける。

部分を構成する市場は、それぞれのおかれている位置や状況、発展段階に応じて仕組みを変えなければならない。その仕組みの原理を担っているのが規制である。

商品の性格、市場の発展段階、外的環境などによって規制を変えていく必要がある。規制緩和とは、この様な市場の要請に基づいて行われる事であるが、その前提となるのは必要性である。
緩和すべき市場もあるが、反対に、規制を強化すべき市場もある。
規制を強化すべき部分もあれば、規制を緩和すべき部分もある。

なぜ規制を緩和するのか、その目的は、なぜ、規制するのかという目的と表裏をなしている。なぜならば、規制を緩和する目的と規制をする目的は同じだからである。
規制を緩和するのも、規制をするのも、その目的は、適正な価格を実現する事にある。
特定の人間に利益を供与する事でもなければ、低価格を実現する事でも、競争を煽りことでもない。
適正な価格とは、適正な費用を負担したうえで、環境の変化に対応する事の出来る利益を上げる事、そのうえで、消費者の負担を最小限に抑える事を実現した価格である。

また、「お金」の働きの要素の一つに乗数効果がある。乗数効果というのは、通貨の流通量の基数を規定する効果である。乗数効果は、貯蓄と投資の均衡があって有効になる。一般に、乗数効果は、貯蓄面から考えられている。しかし、実物市場においては、投資によって乗数効果が成立する。貯蓄と投資の均衡は、通貨の流れを見るうえで重要な意味を持っている。



市場取引に働く負荷


「お金」は、流れる事で効用を発揮する。それは電流と同じである。そして、電力は負荷によって効用を発揮する。
「お金」の働きも同じである。

「お金」の支出と収入、財やサービスの受け取りと引き渡しが一時に、一斉に行われたら市場取引に負荷はかからない。
なぜならば、市場取引の総和はゼロだからである。

市場取引で生じる負荷はいわば摩擦のような事である。
摩擦が起こらないことを理想だなんて錯覚している者もいるが、大体、摩擦があるから、いろいろな仕組みは機能するのである。

市場全体では、収入と支出、生産と消費、需要と供給は一致していてゼロ和になる。
しかし、一つの取引で、取引の成約、お金の遣り取り、財やサービスの受け取りと引き渡しが同時に一斉に成立する様なことは現実的ではない。現実には常に何らかの過不足が生じ、成約、お金の支払いと受け取り、財やサービスの受け取りや引き渡しの間には時間差が生じている場合が一般的である。
取引は、制約、財やサービスの受け渡し、そして、お金の支払いと受け取りの間には、何らかの時間差がある。そして、その時間差が収益や費用を生み出し、資産、負債、資本の素となるのである。そして、この時間差によって収益と費用に差が生じ、一定の期間内では損益が発生するのである。しかし、時点時点における市場の現金収支の総和はゼロである。

市場に働く負荷の大本は、時間価値である。つまり、付加価値である。
その典型は金利である。金利は、債務を元本として発生する一種の熱である。金利や利益は、経済に働く熱量である。

現代人は錯覚している。何でもかんでも効率化すれば経済はうまくいくというのは錯覚である。
経済にも無駄な部分が必要だし、無駄な部分があるから経済は成り立っているともいえる。
全ての工程を無人化してしまったら経済は成り立たなくなるのである。
人が働くところがあるからけいざいはなりたっているということを忘れてはならない。
働かなくなるのは楽だと思うのは思い違いである。働いているから人は生きられるのである。人は働かせてもらっているのである。この世から仕事がなくなったら人は居場所を失ってしまう。経済とは、壮大な無駄の上に成り立っているともいえる。



国内市場と海外市場



市場には、国内市場と海外市場がある。国内市場は、内需を形成し、海外市場は、外需を形成する。
自給自足できれば、海外交易は必要としない。要するに、海外交易は、国内に不足する物資を調達する事を目的としている。
海外交易の目的は、海外から不足する資源と資金を調達する事である。更に付け加えて言うと貨幣水準を確定する事である。
海外交易は、国内市場と海外市場の接点において生じる。

日本は、江戸時代鎖国をしていた。鎖国というのは、一部の例外を除いて海外との交易を禁止する事である。
それは一国において国民の生活に必要な資源をすべて賄う事を前提とする、すなわち、自給自足体制を前提としているのである。
しかし、国際分業が進み、食料やエネルギーといった資源の自給率の低いわが国では、鎖国のような体制を敷けないのは自明な事である。

交易というのは、不足する必要な資源を物や「お金」と交換して調達する事を意味する。
「お金」の働きは、売り買い、貸し借り、授(さず)け受けによって発揮される。
それは海外交易において如実に表れる。

国際市場全体の総和は、ゼロ和である。
個々の取引は対称的であり、ゼロ和である。
貸し借りはゼロ和である。売り買いもゼロ和であり、授け受けもゼロ和である。
経常収支と、資本収支、外貨準備高の和はゼロ和である。
この様なゼロ和の関係が海外市場と国内市場との整合性を保っているのである。


経済は、成長段階で構造性格を変える。



経済は、成長段階に応じて構造や性格を変化させる。
例えば、市場が成熟すると成長段階とは経済の在り様は変化する。経済の変化は、第一に市場の変化として現れる。第二に、投資の在り方の変化。第三に、所得、収益の構造の変化。第四に、支出、費用の変化。第五に、雇用の変化。第六に、消費の質の変化。物価の変化。第七に、負債の変化。第八に、資産の変化。第九に、為替の変化。第十に資本の変化等である。

第一に、市場は、経済が成熟するにしたがって、定常・飽和状態に陥っていく。定常的、飽和的状態になると競争から格闘へと企業の姿勢は変わる。市場は、拡大均衡から、縮小均衡へと転換する。
第二の投資の変化とは、市場が定常・飽和状態になると新規投資から更新投資、借り換え投資へと変化する。
また、第三に、所得、収入は、伸び悩み、収益は圧縮される。また、収益が圧迫されると右肩上がりの所得、収入、収益も保証されなくなる。
第四に、支出構造の変化である。経済が成熟するにしたがってし借金の返済や社会保険料といった固定費が増大し、可処分所得が圧迫されてくる。
第五に、市場が定常、飽和状態になると、労働集約型から資本集約型へと変質し、共同体的体制が、機能的体制へと変化する。
第六に、住宅投資といった家計投資が一巡すると、投資が借り換え投資に変化する。それに従って消費者の嗜好が量から質へと変化していく。また、右肩上がりに上昇してきた物価が、デフレ傾向へと変化する。
第七に、デフレ傾向に経済がなると負債の負担が大きくなる。
第八の資産の変化とは、実物資産から名目資産、金融資産へと変化する。また、名目的価値と実施的価値が乖離するようになる。
第九に、市場が成熟化し、所得水準が上昇してくると必然的に為替も変化する。それによって交易収支も変化する。
第十に、名目的価値と実施的価値が乖離し始めると資金調達が、外部調達から内部調達へと変化する。

成長期と成熟期では、利益の働きが違う。まず第一に収益構造の働きが違ってくる。収益構造は、売上と費用の関係によって構築される。
売上は、販売高と単価の積である。販売量と言うのは、顧客数と単位当たり消費量の積である。
成長期と成熟期の決定的な差は、成長期は拡大均衡型であるのに対して成熟期の市場は縮小均衡型という点にある。
利益の質の差と言うのは、成長期では、利益は販売力によって差がつくのに対して、成熟期は、効率、経費節減によって確保されるといった点に現れる。
成長期は、単純に販売数量を伸ばせば売り上げも上昇する。市場の拡大に伴ってに伴って所得も上昇する。
しかし、成熟期になると市場が飽和状態になり、販売数量は伸び悩み、場合によっては、減少に転じる。必然的に売り上げもよくて横這いで放置すれば下落する。つまり、成熟期に入ると市場は拡大均衡から縮小均衡に転じるという事を意味する。
それは、例えば成長期では普及率が重要なのに対して成熟期では占有率が重要になると言った点に現れる。
上場会社は、成長期には常に増収増益を求められてきたし、増収増益を上げる事も容易かった。しかし、成熟期になると増収は、物価の上昇による部分以外期待できなくなる。
そうなると減収増益へと目標を転じる必要が生じる。実質的な増収は占有率を高めないと望めなくなる。故に、成長期で競争だった企業間の関係が成熟期では闘争へと変質する。成熟期になるとゼロサムゲームに変質するのである。
顧客数は有限である。故に、販売数量は、顧客数によって制約を受ける。顧客数は、何を顧客の単位するかによって市場規模は特定される。例えば、人口、世帯数、企業数などである。家電製品の多くは一家に一台とと世帯単位で市場は形成されてきた。
一旦、市場が飽和状態に陥ると新規需要は期待できなくなり、更新か、買い替え需要が基本となる。成熟期に変化してくると利益は、費用を削減し、生産効率を上げる事によって増加を見込むようになる。
成熟期では、利益率を高める事によって利益の絶対額を確保する以外にない。利益率を高めるという事は、生産効率を上げて経費をいかに節減するかにかかってくる。
費用は、分配の要であるから費用が圧縮される事は、総所得の減少を招く。それを考慮して経済政策はとられるべきなのである。

同じ収益、費用、利益でもその働きは、市場の発展段階によって違ってくる。また、設備や借金の効能も変質する。経済とは生き物なのである。何が何でも規制緩和、競争をさせればいい、成長を促せばいいと一律に考えるのはあまりに楽天的すぎる。

経済が拡大成長している時は、競争していればよかった。しかし、経済の成長が止まり、市場が縮小し始めたら拡大期の様にはいかなくなる。

市場の性格が変化すると不良債権の定義が問題となる。資産価値を基礎とするか、収益力を基礎とするかによって不良債権の意味は全く違ったものになる。
資産価値が下落している時に、担保主義をとれば、必然的に資金の調達力は弱まる。
収益還元主義に価値観を切り替えないと投資を拡大する事はできない。大体、バブルを発生させた原因の一つは、担保主義にあるのである。

人口も生産量も伸び悩むようになったら単に成長率を問題にするだけでは、経済の実体を理解する事はできない。むしろ、市場規模が変わらずに、物的、人的要因が変化したら構成比率を問題にすべきなのである。

量から質へと住宅市場が変化していくならば新築を追っても意味がない。住宅の量から質への転換が計られるからである。少子高齢化時代になれば、新築需要は減少する。また、住宅市場が成熟すれば新築住宅よりも改築や、増築、中古住宅などの需要が高まるからである。また、家の質によっても市場は違ってくる。

イギリスには、建物の減価償却と言う思想がない。石造りの家と木の家の文化の違いである。石造りの家は、資産価値は変わらないが、木造の家の価値は劣化していく。

木造建築は建て替え需要が定期的に起こるが、石造りの家は、建て替えではなく、改築需要が主となるのである。この様に市場は、財の質によっても変わってくる。
ところが、金融は、担保にこだわって高層マンションに資金をつぎ込んでいる。集合住宅でも、空き室、空き家が目立ち始めているのにである。これではバブルの二の舞になるだけである。

経済が成熟してくるとスケールメリットは本来失われていく。なぜならば、大量生産から多品種少量生産へと変質していくからである。
安価で短時間に大量生産する。粗製乱造時代から良品を時間をかけて生産し、大切に消費していく。そういう経済に切り替わっていくからである。
皆同じ服を同じように切るのではなく。各々が、自分の好みで自分に合った服を選ぶ。それが量から質への転換を意味する。

しかし、今の日本では、市場が成熟しスケールを追う時代ではないのに、スケールを大きくせざるを得ない。それは、過当競争になるような政策をとられていて量から質への転換がうまくいっていないからである。量から質への転換は、良質な収益を確保する事が前提となる。規制を緩和し、競争を促すだけでは、収益の劣化を促すだけである。

市場の構造や性格の変化に応じて経済政策は決められるべきなのである。
経済に普遍的、絶対的な政策はない。



相転移


市場は、時として相転移とも思われるほど劇的な変化をすることがある。

市場の相転移とは、市場の働きの性格を本質的に変えてしまうような出来事である。
市場の働きの性格は、市場に働く力の方向、市場の状態、市場の構造変化等によって引き起こされる。
そして、そのような変化を引き起こす力のは、人的な行為と偶発的な事象等がある。

特に、市場の質的な変化は、相転移を引き起こす重大な要因となる。

市場は、成熟に従って飽和状態になる。飽和状態になれば、需要の質が変わる。
耐久消費財は、買い替え需要か、改造、改善需要、あるいは、余剰需要へと変質してくる。
例えば、自動車は、モデルチェンジ。住宅は、リフォーム。家電製品は、二台目、三台目といった様に要求が多様化してくる。
それに従って安く、早く、大量にから、高くてもいいから、自分にあったものを時間をかけて選ぶ、個性的な市場へと変質させていく。顧客の要求の変化、市場の成熟に合わせて市場を転換できるかどうかが、その後の景気を左右するのである。
大量生産、大量消費から多品種少量生産、高品質、高級品、継続的な消費へと市場構造を変えていくことが産業政策の要となる。

装置産業の様な産業で商品格差もない場合、損益分岐点が重要となる。損益分岐点を越えられるかどうかは、利益率と販売数量によって決まる。そして、この二つはも背反的な事である。つまり、利益率を確保するか、数量を確保するかの二者沢一な問題に集約される。市場が拡大している時の数量の確保は、競争的なものだが産業全体の収益が頭打ちになるとシェア争い、闘争的な事に変質する。こうなると限りなく、利益率は低下し、追加費用まで利益は圧縮されてしまう。余力を持てる利益が確保できない状態では、再投資が困難になり長い目で見て産業の健全な発展が望めなくなる。
量的な拡大は、質的な変化を引き起こす。
現代の政策で一番の問題点は、闇雲に規制を緩和し、競争させれば経済が活性化す目と思い込んでいる事である。公正な競争を促すためには、必要な規制をかける必要があるのである。むろん、拡大期の規制とは、質の違うものにする必要はある。

相転移を正しく認識し、適切な手段を講じないと破局的な事態を招く。

石油市場の相転移を引き起こした陰には、戦争が常に絡んでいる。
第一次石油危機の陰では、第四次中東戦争、第二次石油危機の時は、イランのホメイニ革命、そして、湾岸戦争の時も、イラク戦争の時にも石油価格の傾向に大きな変化を引き起こしている。



相転移を起こしたのではと思われる分岐点が日本経済には、何度かある。
例えば、ニクソンショック、第一次オイルショック、第二次オイルショック、プラザ合意、バブル崩壊、リーマンショック等である。

重要なのは市場が相転移を引き起こしたきっかけが何か、その背景でどのような変化が起こっていたのか。そして、その結果、その後どのような変化を引き起こしたかである。

現代日本経済の問題点は、相転移ともいえる変化を引き起こしていながら、その自覚がない事である。

相転移を起こした時点で何が起きたのか、それを解明する事は、経済を構成する基盤、構造を明らかにする事につながる。

相転移を引き起こす要因としては、物価、金利、所得、資産価値(地価、株価)、為替、財政、石油価格、市場制度(規制、会計制度、税制等)などがある。

また、直接的な要因だけの働きで相転移が起こるわけではなく。相転移を引き起こす背景、土壌の変化も見落としてはならない。
バブルという現象も地価や株価の上昇という現象のみに囚われていたらその真因を理解することはできない。その直前にあったプラザ合意を引き金とした円高不況、さらに言えば、第一次石油危機、第二次石油危機、ニクソンショック、貿易摩擦などの要因が複雑に絡み合ってバブルという現象を準備したと言える。
ただし、その背景として1973年頃に高度成長から低成長時代へと突入したという事が伏線としてあった。つまり、ニクソンショックとか石油危機が直接的契機とはなったが、それ以前に相転移を引き起こすような土壌は形成されていたと言える。

線形的にこれらの問題を同時に処理する事には、困難が伴う。従前のやり方には限界がある。立体的、構造的、図形的、時系列的に問題を処理する事が必要となる。それには、人工知能を活用する事が有効である。

2000年を境にして非金融法人の資金調達が外部調達主体から内部調達主体へと変わった。それに伴って非金融法人は、資金不足主体から資金余剰主体へ非金融法人に変わって一般政府機関が資金不足主体へと入れ替わった。そして、総所得は以後二十年以上にわたって横ばい状態へと変わる。
また、経済成長と売上や雇用者所得との相関関係が失われる。それは時間価値が作用しなくなったことを意味する。
何らかの作用によって相転換が起こったと考えられる。
2000年に相転換を引き起こした要因は何か、それを解明しないと適正な対処はできない。相転換そのものが悪ければ元の状態に戻す努力をすべきであり、相転換を受け入れるのなら、相転換をいかに有意義な方向に向けるかを考えるべきである。いずれにしても相転換を引き起こした根本原因を解明する必要がある。

背景にあるのは、収益力の低下と資産価値の暴騰の後の暴落である。

今の市場経済を成り立たせているのは、借金である。貨幣経済は、借金だと言ってもいい。借金が成立する要件、一定期間、一定の収益が保証されている。元本を担保とする資産を保有している。借入金によって資金を調達し、収益によって資金を回収して、利益を上げ。費用によって分配し、借金の元本を返済する。この回転が経済を動かしているのである。まず収益、所得が保証されなければ根底から崩れてしまうし、借金を担保している資産価値が維持されなければ、つなぎ資金や運転資金も調達できなくなる。それがバブル崩壊後に起こったのである。

現在の問題点は、企業の資金調達力が低下した事である。自由主義経済の根本は、収益と雇用者所得にある。雇用者所得の源は、収益であるから、収益力が自由経済を支えていると言える。その収益力が低下した事と、本来収益によって資金が調達できない時は、借金によって資金を調達しなければならないが、その裏付けが担保力である。資産価値の低下は、担保力を弱める。つまり、収益が低下している上に、資産価値が低下した人で担保力も低下しているというのが根本原因なのである。だとしたら、どうしたら収益力を上げる事が出来るかを明らかにする事なのである。

忘れてはならないのは、高度成長時代とは違って市場が過飽和にあると言う点である。高度成長時代は、単に競えばよかった、お互いにウィン・ウィンの関係が築けた。成熟した経済体制下では、全体が伸び悩む中での成長という事になり、それは競争ではなく戦い、お互いにシェアの食い合いになると言う点である。
市場の拡大によって収益の増加が望める時代は高度成長の終焉とともに終わったのである。この点を忘れたらバブル崩壊後の経済状態を説明することはできない。

バブルが崩壊し、資産価値が暴落した時にとられた政策が総量規制、規制緩和、金融引き締めとその後のゼロ金利、金融ビックバン、強引な不良債権処理、独禁法の緩和、会計改革等である。
収益力が低下して所得が減少した。それが市場を収縮させると同時に資金の流れる方向を変えたのである。プラザ合意によって円高が急伸し、それに伴って資産価値、即ち、地価や株価が急上昇した時、ブラックマンデーなどの影響もあって金融の引き締めがおくれた。それがバブル現象を膨らまし、それを強引に破裂させ、崩壊に導いた結果、市場の相転換が起こり、資金不足主体が非金融法人から財政へと移動した。それが市場の収縮と財政赤字の膨張を引き起こしているのである。問題はそれを是とするか否とするかであり、財政赤字を単純に解消しようとして増税しただけでは問題の抜本的解決には至らない。それ以前に、財政赤字が悪い事なのかどうかも検証する必要がある。意味もなく財政が赤字になるわけがないのである。
まず、日本経済の在り様を描き、それに基づいて何を是として、何を否とするかを定め対策を立てるべきなのである。ただ対処療法的な施策を繰り返していたらかえって症状を悪化させるだけに終わる。

どの様な事にもプラスの面とマイナスの面がある。また、一企業だけで対処できる事とできない事がある。行政は、そこを見極めて行政がすべきことと企業が自分たちの力で解決する事を分担しなければ、産業を長く維持、発展させることはできない。

その為には、何を守らせ、何を競わせるかを明らかにする必要がある。それが公正な競争を保証するのである。

利益が上がったとしても収益を伸ばした結果なのか、それとも、人件費を削減した結果なのかは、表面に現れた利益だけを問題にしていたらわからない。規制を緩和し、競争力をつけたとしても、その結果、雇用を削減し、所得を低下させたとしたら、経済全体から見ると逆効果である。
企業経営は、利益を上げる事だけが目的なのではない。

神の力を信じて何もかも市場に委ねてしまうのは乱暴である。市場は人が作ったものであり、神のなせる業ではない。人のものは人へ、神のものは神へ。
価格を統制したり、権力の力で賃上げをしようとするのは邪道である。価格や所得は、その価格や所得だけて働いているわけではない。構造的な全体の中の部分に過ぎない。

人としてどの様な生き方を是とするか、どんな生活を保障すべきなのか明確な指針がなければ経済政策の意味なんて何もない。それでは、どんな政策を採用したとしても無意味になる。だからこそ哲学が必要なのである。究極は人の道である。

経済の根本にあるのは、一つ、嘘をついてはならない。二つ、奪い取ってはならない。三つ、盗んではならない。四つ、騙し、欺いてはならない。五つ、許しもなく他人の物を壊してはならない。六つ、約束や契約、誓いは守らなければならない。七つ、法を犯してはならない。八つ、人の権利は尊重しなければならない。九つ、傷つけてはならない。十、汝殺すなかれ。そして、助け合い、分かち合う事。即ち、経済の根本も、人倫の道なのである。

80年代から90年初頭までに発生したバブルは、ニクソンショック、オイルショックによる収益と費用の均衡が崩れた事に端を発し、1985年のプラザ合意による円高が本業の収益力にとどめを刺したことが直接的原因となった。つまり、為替の変動と原油の高騰による従来の費用対効果の関係が崩れた事である。本業で収益が上げられなくなった多くの企業は、財テクに走り、それによって株や土地という資産に過剰な資金が流れ込んだのである。資産に過剰に投入された資金は、収益と負債の関係を歪める事になる。

市場に働く場の力の性格が変わったら、それに対応して市場の構造も、制度も基準も変えなければならない。地価の異常な高騰や下落は、それまでの処理では対応しきれないのである。まともなやり方では処理できなくなり、非常の処置をとったからといって、その者たちを犯罪者にしていたら経済は成り立たなくなるのである。かつて日本銀行から不良債権を処理し、後始末をしたら、その事を理由にして摘発された。それでは、誰も火中の栗を拾おうとはしなくなる。
ただ、赤字は悪い、損失は悪いと、借金は悪だと、限界や負の部分を認め、受け入れなければ経済環境が変わったら対応できなくなる。問題なのは、何が原因で赤字になり、損失が派生し、借金をしなければならなくなったかである。
そして、それが合理的なものであるならば、それを受け入れるべきなのである。



なぜバブルは発生するのか。


自由経済は、数学的経済である。自由主義経済で生起する現象は、数学的現象である。
この点を前提としないと経済現象を解明する事はできない。

数学的現象である経済は、初期設定と前提によって決まる。

バブルは市場の歪や偏りから生じる。

日本経済が長期低迷に陥ったのは、バブルの発生と資産価値がブラックホール化したことである。
自由主義経済は、資産、負債、資本、収益、費用の均衡の上に成り立っている。この均衡が破れるとバブルは発生する。

フローとストックの均衡、収益と費用の均衡、正と負の均衡、資産と負債の均衡が保たれなくなった時、バブルは発生する。

バブルはストックの上で起こる。
フロー上で起こるのは、インフレーションとデフレーションであり、インフレーションもデフレーションもお金と物との関係によって実体的に引き起こされるのに対して、バブルは金融市場を舞台として実体の伴わない現象である。

貨幣価値は、全体を1としたら上限に対する制約が外れたら1とゼロの間で無限に発散する。
インフレーションで怖いのは、際限なく物価が上昇する事である。
物は、有限であるのに対して名目的価値である貨幣価値は、制約を失えば、無限に発散する。

一番の問題は、収益と費用の関係が壊れる事である。特に、費用の中で利益を操作できる部分が曲者なのである。利益が上がれば、それでいいという風潮は、費用の本来の働きを損なう危険性がある。まず収益と費用の関係が崩れ、収支に影響が出始めると売上収入以外のところから資金を調達しようとする。そうすると次、負債と資本との関係に歪みが生じる。収益と費用の関係から思うように資金調達ができなくなると負債によって資金調達を測るようになるからである。負債と資本の均衡が保てなくなると資産と負債との関係が崩れ始める。資産価値を上げる事で資金を調達しようとするからである。市場が成熟し、収益が停滞し始めると収益、費用、資産、負債、資本の関係に歪みが生じそれがバブルの原因となる。そして、バブルがはじけるのは、収益、費用、資産、負債、資本の歪が極限に達した時である。そうなると膨張してきた資産や負債が、反転して収縮し始める。それがブラックホール現象である。拡大してきた市場が内側に崩壊していくのである。





豊かさの実感


利益ばかりを追求して豊かさを追求する事を忘れてしまった。だから、貧しくなる。
豊かさを追求すれば、おのずと技術は進歩する。技術の進歩ばかりを求めても虚しい。技術だけを進歩させても豊かさには結びつかないからだ。
安さばかりを追求しても品質の向上には結びつかない。安さを求める動機は、量販だからである。品質の向上を目指すならば、それなりの価格を求める必要がある。価格の維持が出来なければ、品質やサービスの向上には結びつかない。

事業は、人が求めるところに成り立つ。金儲けのために、誰も住むあてのない家を建てても、誰も行かないところに道を通しても事業は成り立たなくなり、結局、虚業になってしまうのである。

豊かさが実感できるのは、自分がどれくらい自由になれるお金を手に入れられるかに掛かっている。いくら名目的な所得が上がっても、実質的に自由に使える金が増えなかったら、豊かさを実感する事は出来ない。
つまり、可処分所得をどれくらい確保できるかにかかっている。
増税や負債の増加は、可処分所得を圧迫する要因である。いくら名目的な所得が増えても税や借金の返済が増えれば、実質的な所得は縮小する。
総所得が増えずに可処分所得が減少している状態は、社会全体が貧困化している事を意味している。また、貧困というのは相対的な状態であるから、格差の拡大も又、貧困化を意味する。
貧困は、社会全体に深刻な緊張をもたらす。

お金を循環させる原動力は、差である。差が価値を形成し、価値がお金を循環させる。差には、空間的差と時間差がある。
差によってお金は流れるが、逆に極端な格差は、お金の流れに偏りを生じさせ、お金が上手く循環できないようにしてしまう。

経済を動かす原動力は、差であるが、困った事にこの差は一意的には決まらないのである。能力に応じてといっても才能こそ個人差が激しく。何を根拠に動作を付けるかは甚だ難しい。それこそどんなに才能があったとしても成功者、今日では金持ちになれるとは限らない。小説だの、科学や、芸術を考えればいい。どんなに、後世名作といわれる作品でも、売れるとは限らない。不道徳な小説でも売れ際すれば、少なくとも金儲けにはなる。多くの芸術が極貧の中で死んでいったのに、ただ世渡りが上手いだけで平凡な作品しか残せなかったものでも、遺産を多く残した者もいる。真面目な職人より賭博師のような冒険家が強奪さながらに富を奪った者ほうが、社会階層が上になる。

しかも富の偏りは一方的に蓄積する傾向がある。経済の活力を生み出すのが差だとして、経済の活力を奪う偏りの源も差なのである。
また、所得の一方的な偏りは、資金の流れを阻害する。格差は、資金の流れを悪くする。また、格差は、社会を分裂させる。社会の分裂が恒常化されると階級が形成される。富が世代を超えて累積されると資産が所得を生むようになる。それは、持てる者と持たざる者の間に、大きな溝を作る。それは、資金の流れも分裂させる。

貧しさと言うのは、相対的である。絶対的な貧しさと言うのはない。資源が乏しく目立った産業のない国にも金持ちはいる。どんな国にも貧富の格差は生じる。問題は、格差の程度である。超える事の出来ない格差は、人々の生きる意欲まで奪い去る。また、経済を沈滞化させる。全く格差のない社会では、経済活動を活性化できない。しかし、極端な格差社会は、人々から意欲を奪い取る。
経済が活力を保ち為には、格差は、一定の幅に収まるような仕組みにする必要がある。

人々を豊かにする事が経済本来の目的なのである。ところが技術革新や新規事業は、必ずしも人々を豊かにしていない。それは経済の本質を「お金」だと錯覚しているからである。「お金」は、人々を豊かにするための手段に過ぎない。真の経済の目的は、人と物との関係から生まれる。どの様にして人々が望む物を生産し、公平に分配するかが経済の根本だからである。


経済は人を生かす事である


経済は、人を生かす事である。「お金」儲けではない。「お金」は、経済の本質ではない。「お金」が暴走したら、人と物の関係に立ち返る必要がある。「お金」のために、戦争になったり、国を亡ぼしたり、身を持ち崩すのは、自業自得とはいえ愚かな事である。

「お金」が暴走すると、どの様な事態が起こるのか。例えば、大恐慌のような事やハイパーインフレーションである。大恐慌やハイパーインフレーションは、どのような事が原因で起こるのか。第一に、「お金」が実物市場に供給されなくなる事である。第二に、「お金」の流れる量が極端に不足したり、過剰になる事である。第三に、流動性、即ち、「お金」の流れなくなったり、止まる事である。第四に、通貨の信認が揺らぎ、実質的価値と、名目的価値が極端に乖離する事である。第五に、「お金」のストック、蓄えが不足するか、過剰となるかである。つまり、資本の過不足である。第六に、時間価値の働きが異常に強くなったり、逆に弱くなる事である。第七に、人と物と「お金」の関係が不均衡になった時。特に、極端な偏りや格差は、資金の流れに定常的な歪を作ってしまう。第八に、財政が破綻し、通貨を制御できなくなった時。第九に、交易の不均衡や為替の大幅な変動によって物価が制御できなくなった時。第十に戦争や災害等で極端な物不足になった時である。

「お金」が暴走し、制御不能な状態に陥った場合、貨幣制度や市場経済を一時停止し、統制的体制を敷く必要がある。
貨幣制度や市場制度を再構築するには、デフォルト、金融再編、銀行の一斉休業、銀行口座の凍結、預金の引き出し制限、取引所、市場の閉鎖、産業再編、通貨制度(為替制度)の変更、外国資本規制の変更、金本位制度などをとっていた場合は本位制度の離脱、金融政策(一般に金融引き締め)、税制度の見直し、歳出削減、増税といった財政の立て直し、といった手段がある。

問題は、社会制度や経済の仕組みが壊れ、破綻した後である。新しい社会をどの様に再建するか。第一に、社会制度も経済の仕組みも人為的な構造物だという事を自覚するべきである。社会制度も経済の仕組みも放置すれば自然になる物ではない。人が自分たちの意志で設計し、作り上げていく構造物である。第二に、現金主義と期間損益主義を正しく理解し、その法則に基づいて適正に動く仕組みにする事である。第三に、基本的に貨幣経済、市場経済、自由主義経済は、資金の流れによって動く。資金の動きは、資金の過不足に基づいている。資金が円滑に流れるような仕組み、一定の周期で作動する仕組みにする事である。

「お金」が暴走するのは、資金の仕組みによる。なぜ、資金の仕組みによって「お金」が暴走するのか。それは、仕組みそのものに原因がある場合、仕組みの操作を誤った事によるかの二つの要因が考えられる。いずれの場合も無知によるのか、故意によるのかで本質的な違いがある。無知による場合は、過失だが、故意だとしたら犯罪だからである。

しかし、無知によったとしても「お金」の暴走が引き起こす惨禍は、悲惨であり、場合によっては、戦争や革命、内乱を引き起こす原因となる。戦争や革命、内乱は、例え、経済的要因が第一の要因ではないとしても経済的要因が働かなければ起こらない。平和を維持したければ、先ず経済を動かす法則を明らかにする事なのである。さもないと、人を生かすべき経済が人を殺してしまう事となる。

現在の最大の問題点は、教条的に一律一様な対策、第一に、金融を引き締め。第二に、金融再編。第三に、歳出を削減して増税する。第四に、経常収支の改善、第五に、外貨準備の積み増し、第六に、IMF等海外部門の支援等を適用としている事である。
しかし、経済危機の原因は、一律には片づけられない。むしろ対策が硬直的になること自体が経済を悪化させてしまう。
先ず個々の経済危機の前提条件を確認る必要がある。

まず第一に、一般に経済の問題点は、経済の仕組みによる要因と間違った政策による要因とが混在している。何が経済の仕組みを要因としているか、何が間違った経済政策によるのかを見極める事である。
特に、現在の経済は、現金主義と期間損益主義か無原則に混在している状態である。その為に、資金の働きと動きが区分できない状態にあり、何が経済の仕組みに起因し、何が金貨損益主義に起因しているかが、判然とできない状態にある。

経済の仕組みの中で格差は、経済の仕組みを分裂させ、資金の流れを分流してしまう。格差をいかに是正するかは、経済の仕組みを健全に保つ意味で重要な意味を持つ。それは社会制度、政治体制にも至る問題である。

建国当初や終戦直後は、物不足の時、過剰に「お金」を供給した事でハイパーインフレーションを引き起こしている。

金融機関の役割は、資金余剰の主体から資金不足の主体へと資金を融通する事である。ところがバブル崩壊時に金融機関は、地価の下落によって資金調達力を失った資金不足主体から資金を回収し、資金調達力に余力を残していた資金余剰主体へと資金を融通した。それは、金融機関そのものを自己否定する事にもなり、以後の景気の深刻な後退と財政悪化を招いたのである。

2018年現在、日本は、財政金融共に破綻の瀬戸際に立たされている。同じ過ちを繰り返さないためには、余程覚悟をして事に臨む以外にない。期待できない事に期待せず、先ず、足下からしっかり固めておく必要がある。無意味な争いは避けるべきである。

問題は、経済が破局的な状態を迎えた時、どの様に対応し、混乱が去った後にどの様な経済の仕組みを再構築するかにある。
その時、忘れてはならないのは、経済の仕組みは歴史的産物であり、過去の状態を引き摺っているという点である。

経済が危機に陥った時、政治体制が重要となる。危機に際して、集権的な体制で臨み、危機が去った後は、分権的体制に戻せる。前提条件に従って体制を選べる仕組みにしておく必要がある。その観点から見ると、民主主義体制は、いろいろな問題点があったとしても最適な体制と言える。独裁体制は、危機に対しては有効だとしても恒久的体制としては不適正である。なぜなら、恒常的な状態は、自由である事が最も効率的だからである。



生きる事それが経済の本質である


我々には、錯覚がある。財政が破綻したり、ハイパーインフレーションになったり、大恐慌になったりしたら世の中は終わってしまう。世界は滅亡してしまうといった極端な考えにおびえているように思える。

しかし、財政が破たんしても、ハイパーインフレーションになっても、大恐慌になって、戦争中でも大震災の後でも人は生きていかなければならないし、どんな時でも人々の生活がある。そして、幾多の苦難を人々は潜り抜けてきたのである。

財政が悪いからと悲観ばかりしていても未来は切り拓けない。
諦めたり、投げやりになったりせずに被害を最小限にとどめその先に目を向けるべきなのである。

今、何を為すべきなのか。何ができるのかを一人ひとりがただ自分に問うことである。
この国の未来にとって何が必要で何が必要で、何を残さなければならないのかを…。
それが避ける事が出来ない事ならば、必要最小限の被害にとどめ、次の時代に向けてしっかりとした基礎を固める。
その為には、我が国の長所、欠点を明らかにして次の時代に、また、日本や地元に対してどの様な展望、構想を持って臨むか、それを示してほしいとただそれだけなのである。
迫りくる危機を眼前にしながら手を拱いてみている事が私にはわからない。
大切なのは、明確な指針を立てる事である。我々は、その指針に基づいて対策を立てる以外にない。

嵐が近づいているというのが明らかならば嵐に備えるのは当たり前な事であるし、また、それをしなかったら人としての義務を怠ることだとと思う。
いかに嵐に耐え、そして、嵐が過ぎ去った時に、どの様な世界にするのか、そのビジョンがなければ、日本は土台から崩れてしまい。立て直す事さえできなくなる。

どんな時にもどんな状況でも生き抜く事を考えるのが経済です。人は、「お金」のために生きているわけではなく。生きるために「お金」を必要としているだけなのである。

問うべきなのは、一体、自分たちは、どの様な国に、どの様な社会にしたいのかである。単純に経済的合理性や効率性を重んじていたら経済の本質を失う事にもなりかねない。
利便性がいい社会と言うのは、曲者である。利便性がいいというだけでは、人々生活を片付けられたら堪らない。人が生きるという事は、生きるという事なのである。その人その人の個性や人生、生き様が集約された場でなければ意味がない。
我々が必要としているのは、生活空間であり、工場でも、倉庫でもない。人々が生きている空間、生きられる空間である。それは、単に効率が良くて生産性が高い空間ではなく。人々の安心して生きられる空間、人々が自己実現のできる空間、自分らしい仕事が選べる空間、人と人との関係が作れる空間、子供を産み育てられる空間、愛し合える空間、人々が癒される空間、人それぞれの生活が大切にされる空間、文化的空間である。
今、高齢化時代が間近に迫っている。高齢化社会にあった社会を我々は構築しようとしているであろうか。高齢化社会を前に我々が問題としているのは、倫理観の問題ではない。倫理観以前に制度や設備ばかりを問題としている。
制度や設備について問題にはしているが、果たしてそれが、高齢者が安心して生活できる社会に結び付いているであろうか。第一に、年金制度は破綻に瀕し、介護制度も限界に達しようとしている。商店街は廃れ、シャッター街となっていて買い物難民が懸念されつつある。定年退職後安心して勤められる先もない。医療負担はますます増える。税金も増える。家族はバラバラである。親孝行等望みようがない。高齢者を狙った悪辣な詐欺が横行している。本当に、高齢者が安心して生活できる社会を築こうと努力しているだろうか。

我々の上の世代とこれからの世代とでは、退職金の意味が違ってくる。第一に、我々の上の世代は、生活が優先された。これからの世代は、生活感がなく、学校生活の延長線でしかない。生活感がある世代にとって定年退職も人生の一通過点に過ぎないが学校の延長線でしかない世代は、定年退職によってすべてを失う。仕事も、経歴も、経験も、技能も、資格も、地位や名誉もすべて失い。一介のフリーター以下になる。フリーターは、それでも、若さがあるが、定年を過ぎた人にはその若さもない。定年退職後では、正式に転職もできなくなる。定年を過ぎた人を正社員に迎える企業は少ないからである。それでいて退職後二十年も三十年も生きていかなければならない。

経済とは、生きる事である。自分の経済とは、自分がどう生きるかによって決まる。それを前提とした社会をどう築くかが鍵なのである。




       

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