経済の現状

日本経済の現状について

財   政



建国の理念が財政の礎である。



財政の根本は、国家理念であり、国家構想である。
国家は、誰の為に、何の為に存在するのか。
その根本が明確でなければ、財政は成り立たない。

財政は、建国の理念を具現化するための手段である。
その根源は、都市計画にある。

財政額の源は、官房学にあると言われる。しかし、国民国家の財政の淵源は都市計画である。
財政の根本は、国家理念であり、国家構想である。

財政を経済政策の僕(しもべ)としてはならない。
財政が破綻する最大の原因は、手段を目的化してしまう事である。

戦前の日本は、軍事的目的のために、今の日本は、景気対策や政治手段が財政を目的化してしまっている。
それが財政を歪める原因となっているのである。
財政は、建国の理念に基づかなければならない。
国民は、どの様な国を建設しようとしているのか。それに基づいて財政計画は立てられるべきなのである。
国家は、軍の僕でもなく、景気の僕でもなく、政治の僕でもない。国民国家が仕えるべきなのは、人民、国民であるべきなのである。
そして、まず国民がどのような生活、どの様な国を望むのか、それに基づいて財政は考えられるべきなのである。

財政の働き、第一に、所得の再分配、つまり、分配の平準化。第二に、国家の基盤整備、防災等にかかわる公共投資。。第三に、そして、景気対策。第四に、行政機能を発揮させるための行政費用の支出。第五に、金融機能。第六に、国防、教育、福祉、防災、都市計画等といった建国の理念、国家目的の実現がある。
我々は、つい目先の事に囚われて財政の本質を見落としがちである。しかし、財政の根本は、国家理念にある事を忘れてはならない。
つまり、どの様な国造りを目指しているのか、それが明確でなければ財政は語れない。


帝国書院

戦前は、富国強兵を掲げて財政の運営をした。その結果軍事費が国家財政の30%以上も占めていた。
それも国家理念によるのである。

戦後、景気対策がいつの間にか、財政目的になってしまった。その為に、大きく財政が歪められ、財政赤字を蔓延化して財政の健全性が失われたのである。

もう一つ忘れてならないのは、貨幣経済において中央政府と中央銀行は、通貨の生産、流通、循環、回収と言う働きの中核を担っていると言う点である。財政は、その中央政府の働きの核心を担っている。
財政によって政府は、市場や経済を制御しているのである。

財政政策は、合目的的な行為である。経済指標は、経済目的を実現するための重要な指針となる。故に、経済指標を経済政策に活かそうとしたら経済指標の目的は、経済政策の目的に準じる事になる。
財政政策は、財政政策の目的に従って何が問題で、何を、どの様に解決しようとしているのかを明らかにしないと実現しない。
解決策は、何が原因なのかがはっきりしないと立てられない。

我が国では財政赤字が深刻な問題となっている。しかし、肝心の赤字のどこが悪いのか。本当に赤字は悪い事なのか、その議論はほとんどされていない。ただ、赤字だから悪いと決めつけている。また、財政赤字とは、何かについて明確にされているわけでもない。財政赤字よりも財政を健全化しなければならない当事者が問題を明確に認識していない事の方が、ずっと事態を深刻にしてしまっている。

ここでいう財政赤字と言うのは、政府支出が税収を上回っている状態を言う。この様な状態は、税収があらかじめ確定しておらず。予算が単年度主義をとっている以上予期せず発生する事がある。それを考えると財政が赤字化する事が悪いのではなく。赤字が慢性化して累積する事が問題なのである。

財政赤字の弊害は、第一に赤字が累積すると政策の選択肢や幅が狭くなる点である。第二に、資金が市場に回らなくなる。第三に債務、債権の残高が大きくなりすぎて、フローとストックの均衡がとれなくなる。第四にデフォルトの危険性が高まる。第五に、財政の規律が保てなくなる。第六に、物価を制御できなくなる等があげられる。

一番深刻なのは、財政赤字が昂進して制御不能になりデフォルトする事と、デフォルトする事によって悪性インフレーションになる事である。
財政赤字が制御不能状態に陥り、財政が破たんした時、国内市場や世界市場に与える衝撃は、計り知れない甚大になる事が予測される。しかし、それが避けえないのなら、衝撃を幾分でも和らげ、被害を最小限にとどめる策を講じておく必要がある。

いずれにしても、単に赤字が悪いと決めつけるのではなく、なぜ、赤字になるのかを見極める事が先決なのである。

財政が破たんしたからと言って経済の実体まで失われるわけではない。経済の実体は生きるための活動だからである。
日本は、太平洋戦争において敗北に帰した。国土は一面焼け野原と化し、産業も完膚なきまで叩き潰された。しかし、その敗戦の中でも人々は何とか生活をし、焼け跡から再興してきたのである。
例え、国が破れたとしても人々は生きていかなければならない。その生きるための活動が経済の実体である。例え、財政が破たんしたとしても人々は生きていかなければならないのである。そして、生きていくための活動にこそ経済の実体はあるのである。

国破れて山河あり。

国民国家において建国の理念は、始まりであって終点ではない。
財政は、国民国家にとって手段であっても目的ではない。財政を帳尻を合わせるために、国家理念を曲げるのは、本末転倒である。

国家理念は、財政の前提となる。しかし、国家理念は、人為による。神から与えられた絶対的な事ではない。故に、選挙によって絶えず検証する事が求められるのである。
国家というのは、人工的な構造物、つまりは、人間が作ったものである。神から与えられたものではない。
国民国家というのは、理念を超えた何者かの存在を前提として成り立っている。それは、国民国家に対する信仰である。
神を信じぬ者は、自らを神とする。国民国家への信仰を失えば独裁者が生まれるのである。

財政は、人為的な事である。天然自然になる事ではない。人の意志があって財政の根本は成り立っている。ところが日本人は、無為自然のような事に対する妙な信仰みたいなものがある。人為的な事は悪であるといった発想である。マスコミや知識人、政治家の発言を聞いていると為政者や役人が意志を持って行動をしてはならないような事を堂々と主張する。その為か、明確な意思を示す事を日本人は嫌い、婉曲的に大事な物事を表現する傾向がある。なんでも察せよ、忖度せよでは物事は決まらない。また、誰も責任を負えない。
財政は、意思決定の過程である。明確な意志があってはじめて成り立っている。無為自然では、無為無策になるのは必然である。
為政者の強い意志が試されるのが財政であり、予算である。


財政は、放置すれば悪化する。


財政は、放置すれば悪化する。なぜならば、歳入には限りがある上に、不確実なのに対して、歳出に対する欲求は際限がなく、予算が決まれば確実に実行されるからである。

財政問題は、何も今に始まった事ではない。古来、国が作られた時から付きまとってきたと言っても過言ではない。
財政赤字は、国家の宿阿ともいえる。財政破たんは、国力を弱め、経済秩序を乱し、最悪の場合、時の体制を崩壊させることもある。
江戸時代では、財政が破たんした米沢藩は、藩領を幕府に返還しようとまで至ったのを上杉鷹山が立て直したのは、有名なの話である。財政に窮したのは、米沢藩だけではなく、幕末期には、ほとんどの藩が財政破たん状態にあり、幕府も例外ではない。財政再建が出来た藩が、財政破たんをした幕府を倒す事で明治維新を成立したともいえる。廃藩置県が上手くったのもそれ以前に藩財政が破綻していたからだとも言われている。

財政は、放置すれば破綻をする。財政の役割も原因がある。

国民国家における財政の役割は、第一に、所得の再配分、第二に、社会資本の構築、第三に、景気対策だとされるが、これらはいずれも財政を悪化させる要因である。これに、教育費や国防費、行政費用などが加わったら、余程の覚悟ない限り、支出を抑制する事は困難である。

また、このような経常的な支出の他に、一時的な支出が加わる。大地震や洪水、津波などの被害は、何百年に一度であったとしても一度起これば甚大なものとなる。時には、国家の存亡すら危うくする。

それ以上に莫大な資金が必要とされるのが戦争である。戦争は、勝っても負けても莫大な支出を被らせる。また、田畑を荒らし、産業の根底を破壊してしまう。その為に、戦争は、直接的な被害だけでなく、生産手段に対して長期的、壊滅的被害をもたらす。

歴史的に見て直接的に財政を圧迫する戦争や災害である。特に、戦争は、交戦状態でなくても軍事費は財政を圧迫し続ける。軍事力は常に軍拡競争にさらされているからである。そして、国債の発行もその多くが戦争に起因する。

生産できる物も、働ける人も限りがあるというのに、発行しようと思えば「お金」は際限なく発行できる。
その結果、歳入に限りがあるのに、歳出は限りなく広がる。財政は、強い意志がなければ抑制は難しい。故に、財政を制御する仕組みが重要となるのである。

また、財政の在り様も財政を悪化させる要素となる。財政は、単年度均衡主義に基づき、予算制度、つまり、事前に設定され、しかも現金主義である。要するに、不確かな収入に対して確実に支出する事が事前に決められて、しかも、修正がされにくいという体制である。この様な体制では支出は下方硬直的なものになる。変化が読み切れないのに、あたかも確定した事のように予算を立てれば財政がおかしくなるのは必然である。
単年度均衡主義というのは、利益を出して時期に繰り越す事さえ否定的である。また、予算も未達であるより予定通りである事を求められる。使い切れなければ時期の予算に響くのでその期の内に使い切ろうとする傾向が出る。

財政は、常に、見直し続けなければ、悪化する。また、財政には規律が必要である。
財政を見直すためには、まず第一に、建国の理念の確認をする必要がある。建国の理念こそ財の基本原則だからであり、指針の源だからである。
第二に、短期的資金(フロー)の過不足の状態を見る。第三に長期的資金(ストック)の状態を確認する。
第四に、市場の状況、即ち、拡大均衡期か、縮小均衡期かを見る。
第五に、総人口、人口構成を見る。生産人口がどれくらいいて、非生産人口との比率はどうなっているのか。日本は、少子高齢化に向かいつつある。長中期的に見て財政にどのような影響を与えるかの展望を持つ必要があると同時に、基礎的な要件としてとらえておく必要がある。人口は、消費と生産量面から構造的に分析する必要がある。
第六に、産業構造と、発展段階、現状を分析する。また、自国の資源の過不足、地価等、資産の動向を確認する。産業構造は、民間企業の部門の基盤を構成する。資金の流れと過不足、フローとストック等の観点から資金過不足をどう修正すべきかを見極める必要がある。
第七に、通貨の状態であるマネタリーベース、マネーストック、そして、通貨の流れる方向、金利、回転速度等を見る。
第八に、海外とのかかわり、為替の動向、経常収支と資本収支の関係を明らかにする必要がある。
以上の点をを調査、分析をしたうえで総合的に対策を立てるのである。
対策には、まず、原則や、基本方針を固める。所得再配分、社会資本の構築、景気対策などに対する政策、教育や社会保障に対する思想、国防や交易、エネルギー、環境対策等に対する国家戦略、産業に対する構想等を明確とする。
次に、全体の目的を損なわずに部門間の不均衡をどう是正するかを検討する。何が、部門間の調和を乱しているのかを明らかにする。全体の生産性や経済的効果を損なわないで各々の部門が何をどの程度負担するのかを明確にする。
その前提として部門間の位置や働き、関係、状態、役割分担を検証する必要がある。
その上で歳入、歳出を改善する。歳入・歳出を改善する事は、財政を健全化するための根本である。しかし、単純に歳入を増やし、歳出を減らせばいいという訳にはいかない。
歳入は、建国の理念に直結している。税の在り様というのは、国民国家にとって根源的問題であるからである。国民に対してどの様な負担をどの様に課すかそれが税制の問題である。
次に歳出を検討する。歳出は、国家理念を実現するための手段である。
歳入と歳出は、財政健全化の鍵を握っていることは間違いない。単位期間、短期資金の均衡をどの様に計るかが基本となるからである。ただし、単年度の均衡は単純に赤字か、黒字かの問題としてとらえるのではなく、短期資金と長期資金をいかに均衡させるか、部門間の不均衡をいかに是正するかと言ったより大局的に検討する必要がある。そして、最終的には、部門間の均衡を保つように計るのである。

もう一つ重要なのは、財政に対して政治家は、直接的な責任を負っていないと言う点である。民間企業で業績が悪化したら経営者は報酬を減らされる。経営者は、株主から経営責任で訴えられる危険性も多分にある。倒産すれば相応の社会的制裁、経済的制裁を受ける。
民間企業において結果責任は明瞭である。それに対して政治家は、結果に対して責任を負う必要がない。必然的に自己の利益を追求するようになる。財政は、巨額の予算を持っている。そこから既得権が生じる。その既得権が利権になるのである。
政治家は、財政が破たんしても景気が悪くなってもその事自体に責任は負う事はない。例え、財政が悪化する原因を作ったとしても選挙に勝てさえすれば容認された事になる。政治家の一番の関心事は、当選する事であり、そのために、財政が破綻しようが、景気が悪くなろうが痛痒とも感じないのである。逆に、増税の様な評判の悪い政策をとって落選する方が怖いのである。
この政治の在り方が財政を不健全なものにしてしまう。全体の国益より、特定の地域や勢力の利益代表に徹した方が選挙には強くなれるのである。財政に対して政治家に責任を持たせるような仕組みにしない限り、財政の持続的健全性は保てない。

財政の結果に対して政治家が責任を持たなければ財政の規律は保てなくなる。

財政がおかしくなるのは、結局、人間の愚かさと傲慢にある。人間は、全知全能の神にはなれないし、全てを見通す予言者になれるわけではない。人間は、自分の限界と愚かしさを自覚しなければならない。自らの限界を知った時、はじめて自分が何をすべきかを理解する事が出来るようになるのである。

なぜ、財政は、破綻しないのかという視点で考える必要もある。
現状、何も起こらないからと言って前提条件や状況、基本となる構造が変わらなければ、危機的状態である事は変わらない。
危険なのは、漠然と今までうまくいったんだから、これからもうまくいくだろう式の根拠のない楽観である。
基本的要件が変わっていないのに楽観的になる事は、財政規律を失わせる事になる。
災難や災害は、忘れた時に訪れると言われるように油断する事は禁物である。
なぜ、これほど財政の基礎構造が異常な状態なのに、表面に現れてこないのか。それは、資金の実物市場に流れてこないからです。ストックとフローは相互に関連しており、個々独立して見ていると何が起きているのかは理解できまない。
しかし、経済は、本来経済的な事であり、極めて論理的に動いている。

なぜ、財政破綻をしないのか。
現在の財政の状態や前提が崩れない限り、財政が危機的状況にあるのは、明らかである。この点の認識に差があると議論は、成り立たなくなる。確かに、現在の財政そのものには、問題がないという意見もある。

しかし、歳入を歳出が上回り、国債がGDPの二倍以上に達しているというのは、尋常ではない。
では、なぜ、財政は、破綻しないのか。そこが問題なのである。
一つは、国債を日本銀行が買入、長期金利の上昇を防いでいるからである。二つ目は、資金が市場に流れないで、日本銀行の当座預金に滞留しているからである。三つめは、円高デフレーションが物価を抑圧しているからである。四つ目は、低金利である。
ただ、これらの要件は、何かのきっかけで均衡を失ったら制御不能に陥ることを示唆している。無理があるのである。根本的な構造を前提条件を変えない限り潜在的なリスクは取り除けない。

まず前提となる部分をしっかりと分析しておく必要がある。土台がしっかりとしていない、問題設定に誤りのある分析は、最初から間違っているのである。

希望的観測や今まで問題なかったから式の問題設定は、最初から目的の意味をはき違えている。

不測の事態に陥らないように、また、不測の事態が起きたらどう対処すべきかそれに備えておくのも経営分析や経済分析の重要な目的の一つである。

財政を悪化させる本源的要因


財政を悪化させる本源的要因は、資金の過不足にある。
自由主義経済を構成する部門は、家計、非金融法人、財政、海外部門、金融からなる。
この内、家計、非金融法人、財政、海外部門は実質的部門であり、金融部門は、名目的部門である。
家計、非金融法人、財政、海外部門の経済的価値の総和はゼロ和である。
つまり、財政が黒字化する為には、家計、非金融法人、海外部門のいずれかが、赤字になる必要がある。
経済的価値は、現金収支として表現できる。現金収支は、資金の過不足を表した値である。故に、財政を悪化させる本源的要因は、資金の過不足である。

自由主義体制下で財政を悪化させる要因は、部門間の資金の過不足である。
資金の過不足は、短期的(フロー)なものと長期的(ストック)がある。短期的な資金の過不足は、貸借となって長期的な資金の過不足に蓄積される。

財政を悪化させる要因には、本源的原因、歳入面における問題。歳出面における問題の三つがある。

今日の自由経済において財政を悪化させる本源的は、国家理念、政治制度、経済体制である。財政の本源的問題は、国家の枠組みや骨格に起因している。

国家体制は、財政の方向性を拘束する。
国民国家においては、財政の働きや目的は、国家理念から発する。所得の再配分や社会資本の充実といった事は、国民国家としての性格から出ている。独裁主義国や封建的国家では、所得の再配分なんて二の次である。
戦前のように軍国主義的体制になると軍事費の増大は妨げられなくなる。

所得の再配分や社会資本の充実は、国民国家だからこそ、国家の使命として財政の基本的な働きの一つとされるのである。
そして、これが財政を悪化させる原因ともなる。

財政の本源的な要因は、第一に、部門間の資金の過不足の歪み、偏りである。資金のの働きには、短期的な働きと長期的な働きがあり。短期的な働きは、フローを長期的な働きは、ストックを形成する。短期的な資金の過不足は、貸借となんて長期的資金の過不足に蓄積される。長期的な資金の過不足に蓄積されると金利となって損益を圧迫すると同時に元本の返済として現金収支を圧迫する。あくまでも部門間の資金の過不足は結果的な事である。結果的な事ではあるが、財政の働きを制約するようになる。その為に、部門間の歪によって財政の根幹が歪められてしまう事がある。それが財政の悪化を招くのである。
財政悪化の根源的な問題は、部門間の資金の過不足の不均衡にある。ではなぜ、資金の過不足が生じるのかである。部門間に資金の過不足が生じるのかというと、それは、単年度資金収支が不均衡だからである。つまり、収入と支出が一致していない。
資金の過不足が経済を動かしているとしたら、資金の過不足その物が悪いという訳にはいかない。問題は、固定的、慢性的な不均衡なのか、資金の過不足に周期的な波があるのかである。資金の過不足が硬直的な場合は、何らかの対策を打つ必要が生じる。

第二に、あげられるのは構造的な問題である。社会保障費は、所得の再配分を目的としている。この場合、資金の過不足の是正を目的としたものであるが、その範囲や規模が国家財政の恒常的な負担となると言う点である。社会保障費は、経済的状況に拘束されない。逆にいえば、景気が悪いからと厭って減らす事が出来ない。むしろ、景気が悪いと支出が増える傾向がある。
第三に挙げられるのが、予算制度とか、税制と言った制度的な原因である。一般に予算制度や税制は、財政を硬直化してしまう性格がある。
財政を悪化させる原因で一番大きな要因は予算制度にあると言われる。
税制は、景気の変動をやわらげる効果があるとされている。しかし、それも前提条件や制度の構造による。前提条件や制度の構造が変わると税が景気の変動を増幅してしまう事がある。
単年度均衡を原則として絶対化してしまうと貸借関係そのものを否定する事になりかねない。貸借関係が否定されてしまうと財政の柔軟性は失われる。現在社会が借金の上に成り立っている事を忘れてはならない。借金を悪いとするのではなく、借金が制御できなくなるのが悪いのであり、国家理念、国家計画に基づいて資金計画を明確にし、それを予算の下敷きにするで負債を制御すべきなのである。
今日財政の問題は、国債の問題にすり替わってしまった観がある。それは、借金を借金としてきちんと直視していないからである。借金を怖がるのではなく。借金の効能をよくよく見極める事なのである。
また、現金主義に基づく現行の予算制度では、短期的資金の働きと長期的資金の働きが未分化であるために、国債を制御する事が出来ないでいる。
また、制度的問題の一つにタイムラグの問題がある。制度的に問題を認識し、それによって計画し、予算化する個々の局面においてタイムラグが生じ、問題を認識してから対策を実行するまでに時間がかかり直ぐ、対策を執行する時は、問題の本質が変わっていて整合性が失われている事がある。
第四に、基準の問題である。財政赤字の真の原因は部門間の資金の過不足の偏りである。最終的には、部門間の歪を是正する必要がある。ひずみを是正するにしても何らかの基準が必要である。問題は、その基準を何によってどの様な考え方で誰が作成するかである。
ただ単に赤字だから悪いとか、黒字だからいいというのでは、対策の立てようがないのである。なぜ、何が原因で資金不足になったのかを明らかにしない限り、根本的な解決には結びつかない。問題は尺度である。赤字を悪いと決めつけるのではなく。あえて赤字にすることも覚悟すべきなのである。
第五が組織的な問題である。
組織的な問題というのは、主として官僚制度に起因している。
官僚制度は、階層的で巨大に組織構造を持つ。組織が階層的で巨大であるために、情報の交換が円滑にされない傾向がある。

税に対価性がないと言う点である。これは、担当した仕事と成果が結びついていない事を意味する。
民間企業では、自分のやった仕事の報酬として「お金」を受け取る。報酬によって自分の仕事と成果が結び付けられている。
その為に、何らかの成果を上げる事が仕事への意欲と直接結びつけることができる。ところが官僚は、税収を自分の仕事の成果として結び付けられない。その為に国家的事業と自分の仕事を直接的、あるいは経済的動機によって認識できないのである。

官僚組織と民間企業との決定的な違いは、経済的成果に対して首長が責任を負っていないと言う点である。民間企業では、経済的成果によって経営者や社員の報酬は制約を受け、経済破綻に対しては経済的な責任も負っているのに対して、官僚制度では、経済的成果と仕事が隔絶されているという事である。会社経営では最終責任者の責任の取り方も明確に示されて行場合が多い。その為に、財政問題に対する最終責任者が不明瞭なのである。

最後に、財政を破綻させる一番の要因として財政規律の喪失を上げたい。元々、財政を破綻させる原因の一番は、戦争であり、次に、放漫財政があげられる。近代は、君主が度々戦争をし、あるいは、贅沢三昧な日々を送った事で財政を破綻させてきた歴史がある。
国民国家になってからも、財政を悪化させる一番の要因は、戦争だったし、政治家が財政を政争の具にした事で、財政が放漫になった事である。
今日の経済で最も憂慮すべき事は、経済から規律が失われつつあることである。市場経済にとって規律は最も尊ぶべき事である。しかし、多くの人は、規律を嫌い。勝手気ままに振舞いたいと考えているようである。財政を立て直すと言ってもなるべく、増税とか、緊縮財政といった厭な事は避け、穏便に済ませたいと考えている。
財政から規律が失われれば、財政は、歯止めを失う事になる。それは、財政破綻の始まりだと言って過言ではない。
財政規律の本源は、国家理念に求めなければならない。財政規律こそ、国家の独立、存亡にかかわる事だからである。

歳入面の要因


財政再建というと歳出の削減ばかりが問題とされる。しかし、財政の根源は、歳入にある事を忘れてはならない。

歳入で一番の問題は、税である。
そして、近代国家、国民国家が成立には、必ずしも背景として税制の問題がある。
「フランス革命」も、「アメリカ独立戦争」、イギリスの「ピューリタン革命」の根本には、税の問題がある。

税の次に、問題となるのは、国債である。つまり、国の借金である。
税と国債は、資金の過不足に切っても切れない関係がある。
近代国家が成立するキーワードは、戦争、国債、税、そして、財政破綻である。
この中で根っこにあるのは、財政破綻であり、財政破綻の最大の原因が戦争なのである。

税は、近代国家にとって主権や国家理念にかかわる問題である。ところが我が国においては、税を主権者の権利であり、義務であるという認識が希薄であり、御上に強制的に徴収されるという意識が強すぎる。しかし、税制度は近代国家、国民国家の基礎である。
歳入は、主権者とって最も本源的な問題である事を忘れてはならない。

この問題は、税制度の正当性や存在意義にもかかわる問題である。税制があるから近代国民国家は成り立っているともいえる。故に、国民国家の国民にとっては、税は、義務であるとともに権利でもある。

税の働きは、所得の再配分、資金の還流、国家理念を実現するための原資である。これは、近代国民国家を定義づけている。誰のための何のための国家なのかが、この三点に凝縮されているからである。だからこそ、国を守るのも国民の権利であり、義務でもあるのである。

税は、主権者のためにある。君主国なら君主のために、独裁主義国なら独裁者のために、軍国主義の国なら軍隊のために使われる。
国民国家では、税は国民のために使われる。

まず、資金源を明らかにしてから歳出を考えるべきなのである。資金のあてもないままに、使い道ばかり話しても意味がない。

短期的な面で財政を均衡させようとした場合、歳入の増加を計るか歳出の削減を計るかである。

歳入を手っ取り早く、また、直接的に増やす手段は、増税である。増税には、既存の税の税率を増やす方法と税制度全体を変える事で実質的な増税を計るやり方があり、いずれも一長一短がある。

増税以外に直接的に歳入を増やす手段は、国債である。国債を頭から否定するのは間違いである。ただ、国債を安易に考えるべきではないという事である。
政府であろうと、民間企業であろう、家計であろうと資金不足に陥ったら借金をする事は悪い事ではない。また、無借金にしなければならないとも限らない。民間企業の多くは、無借金経営ではない。要は、借金が歯止めが効かなくなって増え続ける事、借金を制御できなくなる事が危険なのである。この点を間違うと致命的な過ちを犯す事になる。

増税や国債のように直接的手段で歳入の増加を計る手段以外に、経済規模を拡大する事で間接的に歳入の拡大を計るやり方もある。間接的な手段を用いる場合は、増税ではなく、減税する場合もある。減税する事によって市場にでき割る資金を増やし、資金が増える事でインフレーションにして全体の規模の拡張を計るのである。市場に流通する資金の総量が増えれば、税も増えると考えるのである。

インフレーションには増税効果があると言われている。

危険なのは、景気浮揚策の裏側にインフレーションによって税収の拡大を計りつつ、債務の圧縮を画策する事である。
税収の減少は、税制度の歪に起因する場合がある。

歳入を増大する為に、市場が拡大均衡期なのか、縮小均衡期なのかは、決定的な前提条件となる。市場が拡大均衡期にあるか、縮小均衡期あるかでとるべき政策がまったく違ったものになるからである。

歳入の拡大を図るためには、外的な要因によるか、内的制度的な要因よるかであるが、これが別々に論じられているのが問題なのである。
景気拡大が単純に公共対策に頼れば、拡大均衡策は、歳出の拡大につながるがそれは短絡的な結論であって、景気拡大策は、公共投資によるだけではない。
むしろ、歳出の削減によって経済効率を高める事で景気を浮揚させることもできる。景気拡大策と歳出削減は、二律背反ではない。

歳入の減少の原因は、景気の悪化、税収の減少、税外収入の減少などである。
裏返してみると歳入の拡大策は、増税、景気浮揚策、税外収入の増加である。

財政には、ビルトイン・スタビライザー機能がある。
例えば、租税制度や社会保障制度などのなかに典型的なビルトイン・スタビライザーの機能をみることができるとされる。
租税制度では、個人所得税は累進税率構造をとっており、不況期には課税所得が減少することに加えて、適用される税率自体も低い水準に移行する可能性をもっている。
好況期には逆の方向に働く。法人所得税は個人所得税と異なり基本的には比例税制度であるが、課税標準である法人所得は景気の動きに対してきわめて敏感に反応して変動する。
これらによって、不況期には大幅な税収額の減少を通して民間の可処分所得を高め、したがって有効需要の重要な構成要素である消費を拡大し、好況期には逆に税収額は増大し、民間の購買力を抑制する。
社会保障制度では、とくに雇用保険にその機能が顕著にみられるが、不況期には給付金の支払いを通して民間の購買力を高め、好況期には保険金の徴収という形で民間の有効需要を吸い上げる。(日本大百科全書)

ビルトイン・スタビライザーとは景気が良くなると増税効果が発揮されて景気を抑制する働きが、景気が悪くなると減税効果が働くような仕組みが市場の構造に組み込まれている事を言う。

ビルトイン・スタビライザー機能は、累進性のある所得税は効果的機能するとされている。その意味では、消費税は、ビルトイン・スタビライザー機能が効きにくいと言える。確かに、景気の変動に左右されない、安定的な税収を確保できるという長所を消費税は持つと言われるが、所得の再配分という観点からは逆進性があるともいわれる。問題は、国家理念との整合性である。制度があって国家理念があるのではなく、国家理念があって制度は設計されるのである。

財政の状態は、国家理念を変更する理由にはならない。問題は、何を要因として、税制を変更しなければならないような財政状態になっているかである。その上で国家理念とどの様にして整合性を保つかである。御都合主義的に税制を変えると国家の理念そのものを歪めてしまう事になる。

ビルトイン・スタビライザー機能の効用は、景気がいい時は、税収が増えるという事である。裏返すと景気が悪い時には、税収が減る。この事を歳入面から見ると一つは、景気がいいと増収になり、景気が悪いと減収になる。また、最終が景気の状態によって変化し不安定になるという事である。
予算は、それを決定するまでにタイムラグが生じる。その為に、景気がいい時に増収を前提として建てた予算が執行された時に、景気が後退していて減収になったりする。

歳入は、税収だけではない。税収以外の収入の拡大も計るべきである。公の仕事は、営利事業とは違うといった妙な自負を持っている公務員を結構見受ける。それは、民間を下に見る傾向の表れである。自分のやって仕事の成果と報酬が結びついている事は悪い事ではない。むしろ、本来の姿である。
営利事業を否定するというのは、現在の会計、複式簿記、期間損益を否定する事を意味する。それは、営利事業を私的事業と錯覚している事による。私的利益を求めようと公的利益を優先しようと手段としての会計や複式簿記の本質には関係ない。問題は、利益をどう設定し、評価するかの問題に過ぎない。利益は、指標であり、手段である。目的ではない。民間企業の目的は、事業を成功させることにある。利益を上げる事ではない。

フローとは、経常的な資金の移動が観測される事象である。フローは、現金主義からみると収入、期間損益からすると収益として認識される。ストックを解消する手段は、フローにしかない。この点を忘れてはならない。

財政問題などで負債の対極に資産があるのだから、それを相殺すればいいといった意見もあるが、これは暴論である。
財政は、家計や非金融法人と違って通貨の発行券があるのだから、収入がへったら紙幣をどんどんすればいいというのは、一面しか見ていない。そんなことをしたらストックは、フローとかかわりなく際限なく膨張してしまう。それがいくいくは、フローを締め付けてしまうのである。
例えば、住宅ローンを組んで家を買たら家という資産があるから、借金はないの等しいと言っているような事である。現実は、家のローンは、所得の中から返済されているのであり、返済が滞れば家を取り上げられてしまうのである。家は担保でしかなく、使用価値は、約定通り、所得から返済されている事が前提なのである。だとしたら、所得をいかに維持すべきかが鍵なのであり、ストックどうしを相殺したところで、フローを悪くするだけである。

フローは、部門間の過不足によって流れる方向が定まる。故に、部門間の歪を是正する事で、フローを調整しないと抜本的な解決には結びつかない。

一般に貨幣価値を位置エネルギーとしてとらえがちだが、貨幣は、運動する事によってその効力を発揮する事を忘れてはならない。つまり、いくら手元に残っているかではなく。いくら使ったかによって経済的効用は測られる。部門間の負債を相殺しても経済的な効用は得られないのである。
資金の流れは、部門間を経由する度に要素を変換する。例えば、家計に所得として流れる事で生産手段としての労働力を引き出す。家計から企業法人に支出として流れる事で、企業法人から資金を財に変換すると言うようにである。

歳出面の要因


歳出面に対する不当な圧力は絶え間なくある。民主主義のコストだという考え方もある。

歳出面で財政を悪化させる要因の大きなものは、第一に、景気対策に対する過大な公共投資である。
第二に、所得再配分を目的とした社会保障費である。所得の再配分をどうするかは、国家理念の問題である。
第三に、軍事費である。歴史的に見て、国家財政に最大の圧力をかけるのは、軍事であり、極端な場合聖域化されてしまう。また、産軍複合体の温床にもなる。国防というのは常に両刃であり、外敵に向かっている刃は同時に味方にも向けられているのである。古代中国の帝国、ローマ帝国、スペイン、イギリス、戦前の日本、ソビェット、そして、アメリカ、いずれの大国も軍事費が国家の消長を左右してきた。軍事費をいかに効率よく管理するか、それは国家存亡にかかわる大事である。
第四に、大災害に対する臨時的支出である。東日本大震災の復興費用は、日本の財政に重くのしかかっている。かつて、関東大震災に対する処理の後遺症がやがては軍国主義を準備したとも言われている。
第五に、無規律な慢性的な支出である。財政規模は大きい。規模が大きいだけに常に、見直しをしていないと既得権益化してしまう。
なんだかんだと言っては、財政が政争の具に使われそれが後々大きな禍根を残す事になってきた。

歳出を利権に結び付けている政治家の罪は大きい。

財政の最終目的は、国家理念の実現にある。
国家戦略を具現化し、国家の理想や目的を実現する事にある。国防も、恒久的な平和を実現する事が目的なのであり、軍事行動も帝国主義的な覇権主義的な領土の獲得を国民国家は、本来目的としているわけではない。あくまでも、国家の主権と独立、そして、国身の生命と財産の安全のために、備えるものなのである。
国防が、かえって主権や独立を危うくしたり、国民の生命や財産を犠牲にするような事態を進んで招いたらそれは本末を転倒している。
国家戦略がなくてひたすら国防のための装備をするのは、非効率であり、無駄である。何から何を守るかが明確だから、国防の目的は維持される。さもなければ軍事費は、歯止めなく拡大すいる。肝心なのは、国防に対する基礎的原則、理念、戦略である。

軍があるから侵略的なのではない。国策的に、侵略を是としているから侵略的になるのである。根本は、国家理念であり、軍事力を持たないと憲法に決めたら、国防が実現できるというのはあまりに幼稚である。戦いたくなければ、外敵から戦いを挑まれないよう備え

歳出に対して必要なのは、明確な国家ビジョン、国家理念である。つまり、どの様な国にするのかの明確な指針なのである。
そして、それこそが本来政策の根幹をなさなければならない事柄なのである。
そりが今日では、国民に対して迎合的、受けがいい物になってしまっている。目先の利益ばかりが先行して国家百年の計が失われているのである。

最終的に問題となるのは、目的や効用のわからない無原則で無規律な支出である。
明確な国家理念や展望がなければ歳出を抑制する事は難しい。
それは、なぜ、何のために、誰のための歳出かが判然としなくなるからである。

民間企業と財政の決定的な違いは、民間企業は、結果責任が問われるのに対して、財政は、結果責任が問われないという事である。
民間企業を取り囲む環境は、激しく変化している。状況が変化すれば、素早く撤退する事も吝かではない。それに対して、財政が一番問題とするのは、予算である。予算に通るまでは、審議を尽くすが、一度予算を通ってしまうと簡単に変更する事はできなくなる。
また、それが時代遅れだったり、計画を立てた時には、それなりに正当性があった事業業も環境の変化や前提条件の変更によって妥当性が失われた事業でも、一度決められたら、そのまま実行されてしまう。

象徴的に語られたのが諫早湾の干拓事業である。干拓事業が計画された当時と大きく時代が変わり、干拓の目的も意義も変わってしまったのに、決められたからと言って実施されてしまった。その為に、諫早湾の干潟は、干上がり、貴重な資源や環境破壊が起こったのである。

東日本大震災の時、津波を防ぐ目的で築かれた防波堤の多くが役を為さず、甚大な被害を及ぼした。
原発事故によって長い間、人が住めない地域が拡大した。その為に莫大な税金が投入され、廃炉のために気の遠くなるような時間と費用を投入しなければならない。これらの内の多くが税金によって賄われているのである。この様な事に税を投入する正当性や意義をどの様に検証するのか。税金を使ってはならないというのではなく、国民の意志がどこまで反映されているかが問題なのである。




財政の目的


財政の目的は、国家の存在意義にある。
つまり、国家は、誰のために何のためにあるからである。
それを定義しているのが国家理念であり、国家理念を明文化した憲法である。

まず、第一に主権者である。誰を主権者にするかによって、国家体制を確定する。
日本は、国民を主権者としている。
次に何を国家の基盤とするかである。何を国家の基盤とするかによって権力構造が定義される。
日本は、憲法を基盤とした法治国家である。
そして、国家理念である。
日本の国家理念は、自由、平等、博愛にある。何を自由とし、何を平等とし、何を博愛とするかは、憲法の条文によって定義される。

国家の基本的役割は、国防と治安である。それは、国家の主権と独立、主権者の生命財産、権利の保護が最低限の国家の必要要件だからである。国家の主権と独立が守れなければ、国民の生命財産、権利を守ることはできない。故に、国家の主権と独立を守る事、国防と治安は、実質的必要要件である。自分の国を自分の力で守れない国は国際社会において主権と独立は認められない。

治安は、法を実現するための支出である。

国防と治安が守る事は、財政の根本である。
その上で、我が国の国家理念として財政に求められるのは、第一に、所得の再配分、第二に、社会資本の構築。第三に、公共サービス。第四に、教育。第五に、経済の安定である。

財政を今日の経済の仕組みの中に位置づけると財政の働きは、中央銀行と一対となって通貨を管理する事にある。つまり、通貨の発行と、供給、分配、再分配、回収を管理する事で、信用制度を維持する事である。そして、資金の過不足を補正して、公平、公正な分配を実現する事に財政の使命はある。
また、時間価値を創造する事で、資金の流れを作り出すのも財政の働きである。

財政が破綻すると国家目的からくる国家の役割が果たせなくなる。
つまり、国防、治安、所得の再配分、社会資本の構築、公共サービス、教育、経済の安定を維持できなくなる。

また、財政は、貨幣経済の大本である。財政は、中央銀行と強調して貨幣価値の維持に責任を持っている。
貨幣の発行、流通、回収に対して財政は、重要な役割を持たされているのである。

財政は、国家の主権と独立、国家理念を実現するための究極的手段である。

財政が破綻した時



財政が破綻したらどうなるか。

財政が破綻すると国家目的からくる国家の役割が果たせなくなる。財政は、国家の働きを発揮するための根源的手段だからである。
故に、財政が破綻すると、国防、治安、所得の再配分、社会資本の構築、公共サービス、教育、経済の安定の全てとは言わなくても多くの部分で支障が生じる事になる。例え、財政が破たんしたとしても最低限の国防と治安は維持されなければならない。今日、憲法問題で自衛隊存否が検討されているが無意味である。国防は、独立国の最低限の要件であり、国防を放棄する事は、独立を放棄する事だからである。

治安も同様である。夜警国家という言葉が示唆するように、治安の維持は、国防とともに国家の根幹にかかわる事である。故に、再優先されるべき事である。ただ財政が壊滅的な損傷を受けた場合、国防や治安も維持できなくなる危険性がある。その場合は、国家の独立や主権が維持できなくなることになる。
故に、支障をきたすのは、所得の再配分、社会資本の維持、公共サービス、教育、経済の安定である。
そして、最も深刻な損傷を受けるのは、貨幣価値の維持と金融制度である。場合によっては金融制度や市場構造は、壊滅的な影響を受ける事もある。

経済の仕組みは分配を最終的な目的として構築されている。所得の再配分は、市場取引から生じる分配の歪を矯正し、資金の過不足を是正するために有効である。そして、格差の是正にも役立っている。所得の再配分が適正に機能しなくなり、格差が拡大し、格差ゆえに、生活に困窮する層が派生すると社会は対立分裂し、場合によっては破綻してしまう。社会を維持するためには、所得の再配分が適正に行われていなければならない。

資金の過不足は、経済を動かし原動力であるが、格差を生む要因にもなる。資金の過不足からくる歪みや偏りを矯正するのが所得の再配分である。

社会資本の整備が遅れる事は、国家理念の実現がそれだけ遅れる事を意味している。災害は待ってはくれない。しかし、くれぐれも忘れてはならないのは、社会資本の整備は土建業のためにあるわけではなく。国家、国民のためにあるという事である。社会資本の建設を利権に変えてしまうのは、行税や政治の責任である。

日本は、終戦直後の一時期を除いて戦後財政破たんした経験がない。
では、全く財政破たんした事がないのかというと現代の日本は、敗戦による財政破たんから出発したと言っていい。

財政が破綻した時、どの様な事が想定されるか。
注意してほしいのは、財政の破綻、即、経済の破綻だとは言えないと言う点である。財政破たんというのは、あくまでも一般政府部門の資金収支が立ち入角なったという事を意味しているので、確かに、国民生活に深刻な影響を及ぼしはするが、国民の生活が成り立たなくなることを意味しているわけではない。財政が成り立たなくなろうと国民は生きていかなければならないのである。
ただ、その国の経済の仕組みに甚大な影響を与える事は覚悟しなければならない。
経済の仕組みの何にどのような影響を与えるのか。それは、一番に挙げられるのは、貨幣制度が壊滅的な打撃を受け、通貨の流通や物価に深刻な障害をもたらす事である。しかし、直接的に影響を受けるのは、あくまでも「お金」の面であって物の面ではない。物の経済は、貨幣制度が機能しなくなることによって間接的に影響を受けるのである。むろん、物の経済も最終的には、深甚な被害を受ける事になる。

財政の破綻は、第一段階として財政をファイナンスする。第二段階として財政規律が失われる。その結果として、財政破綻、財政インフレーションというように段階的に起こるとされている。
最も重要なのは、財政規律が保てるかどうか。それは、財政と経済政策の整合性がとれるかどうかにかかっている。国民国家の経済の弱点は、常に、財政が政争の具にされるという事である。いくら財政再建のために、増税しても政治家の人気取りのために、使われたのでは、財政再建はできない。そのようにして恒久的な歳出の芽が作られたら、かえって禍根を作る事になる。
政治家のリーダーシップが問われるところである。政治家が明確な指針と国家、国民に対する忠誠を忘れ、保身を図った時、財政規律は失われ、財政は土台から崩れる。

財政が破綻する事で、まず、真っ先に考えられるのがハイパーインフレーションである。貨幣価値を制御できなくなれば物価は制御できなくなる。その結果、ハイパーインフレーションや恐慌を招く恐れがある。
その結果、不況、倒産、失業といった社会不安を引き起こす。
また、「お金」が流れなくなり流動性の悪化したり、クレジットクランチ(信用収縮)を引き起こす。信用制度の崩壊である。土台信用制度の根本は国家なのである。
財政は、中央銀行と一対となって通貨を管理している。財政が破綻すれば金融機関に飛び火して預金封鎖、金融危機などを引き起こす。特に、中央銀行が大量に国債を購入し、金融緩和をしている今日、長期金利の上昇は、国債に対して負荷がかかる。長期金利の上昇に歯止めがかからなくなり、それがハイパーインフレーションの引き金を引きく事にもなりかねない。
貨幣価値が不安定になれば、円安などの為替の変動を引き起こす。それに伴い輸入物価の上昇に歯止めが効かなくなる。
財政が破綻すれば、公共投資、行政サービスの低下は避けられない。高度成長時代に建設された高速道路や鉄道などは老朽化による再投資の時期にさしかかっている。これらへの再投資ができなくなれば、急速に生活環境が悪化する事が予想される。
社会保障の破綻による所得の再配分機能の低下等が想定される。少子高齢化時代の今日、年金制度や介護・医療制度が破綻する事は、高齢者を見捨てる事を意味する。かつてのように、個人事業者や、農業、職人、個人商店が占める割合が圧倒的に減って給与所得者が大勢を占めている今日、会社勤めを辞めたら、他に収入を得る手段は、年金以外にない。その年金が当てにできなくなることは、死ねというのも同然である。

要するに、財政は、資金を循環させるための要にあるのである。行政府は、中央銀行と一体となって「お金」を生み出し、資金を市場に供給し、税金で回収し、資金の過不足を所得の再分配によって均しているのである。
それ故に、財政が正常に機能しなくなると通貨価値を制御できなくなる。それが最大の問題なのである。政府と中央銀行は、表裏の関係にあるから、財政破たんは、中央銀行も危機に陥れる結果を招く。
貨幣制度のが正常に機能しなくなれば、国民生活も深刻な影響を受ける。貨幣が機能しなくなる事さえありうる。
所有権や財産権などの個人の権利が一時的に停止される事もある。

財政は、国家の主権にかかわる事でもある。
債権国などからの内政干渉を招いたり、徴税権を奪われる事もあり、最悪の場合、主権や独立を失う事にもなりかねない。



財政を立て直す手段


財政を立て直す為には、財政の原点に立ち返ることが必要である。そもそも財政の役割は何なのか。主権者は、財政に何を期待するのか。そして、その根本にあるのは、建国の理念である。
戦後の日本で最も問題なのは、建国の理念である憲法を聖典化してしまい、その本質を議論してこなかった事である。なぜ、何のために、誰のために税金を活用するのか。そこに財政健全化の鍵がある。
それなくして財政再建の手段を問題にしても意味がないのである。

財政問題は、基本的に構造的な問題だという事を忘れてはならない。つまり、部門間の歪みが解消されない限り解決できない。

財政を立て直すためには、第一に、歳入の拡大。第二に、歳出の削減。第三に、債務の転移。第四に、資産・債権の処分。第五に、部門間の歪の是正、第六に、デフォルト、第七に、制度、基準の変更。第八に、財政インフレ、第九に、戦争、第十に、革命がある。
財政が悪化した時、権力者は戦争の誘惑に襲われると言われる。財政破綻は戦争の原因であり、戦争は、財政破綻の原因でもある。
いずれの手段も国民に多大な負担をかける事であり、場合によっては、国家の主権を危うくもする。一番重要なのは、財政を破綻させないように財政を運営する事である。

財政を立て直すという観点から見ると、歳入と歳出を均衡させるという事が鍵を握る。ただ、歳入と歳出が鍵を握るからと言って歳入と歳出をただ均衡させればいいという訳ではない。気を付けなければならないのは、財政を均衡させることが目的ではなく、全体を均衡させることが目的だと言う点である。木を見て森を見ずに陥り易いが、財政が均衡しても全体の均衡がとれなくなったら意味がないのである。

財政の問題は、財政の問題だけではない。財政は、経済の一部門である。財政問題は、他の部門に直ぐに波及する。また、財政問題の本質は、他の部門にある場合もある。今日の財政問題の背景には、市場の変化がある。市場が成長段階から成熟段階へと移行した事がある。また、海外の経済情勢、政治情勢の変化がある。一番の変化は、東西冷戦が終焉し、社会主義国の大多数が国際市場に参入してきた事である。また、アメリカ経済の構造的変化、EUの成立、中東問題等がある。

財政を均衡させると言っても全体との釣り合いが取れなくなり、経済全体が破綻してしまったら元も子もない。
財政を先ずどこに、どのように位置づけるかを定める必要がある。

そして、財政を悪化させている最大の原因は、経済にある事を忘れてはならない。
家計にせよ、企業にせよ、財政にせよ、海外部門にせよ、経済主体が適正な収益、所得を維持できなくなっている事が一番の問題なのである。

今日の経済状態で問題となるのは、時間価値が喪失している事である。時間価値を回復するためには、時間価値の構造を理解する必要がある。時間価値を構成する要素には、利益、金利、物価、所得などがある。どの部分から、どの様にして時間価値に働きかけるかが、経済政策の鍵となる。直接的な手段は金利を操作する事であるが、逆に、金融機関に直接的な影響を及ぼし、働きが強く出る。物価を上昇させるためには、通貨の供給量を増やす事が効果的であるが、物価の上昇には駄目が効かなくなる危険性がある。正当的な手段は収益と所得を改善する事だが、価格や賃金に直接働きかけれのは、統制経済になり、市場の自律性を損なう危険性がある。適正な収益が維持できるような環境を整備する事が至当である。

財政を見る上で前提となるのは、経済が拡大均衡状態にあるのか、縮小均衡状態にあるのか、また、拡大均衡状態から縮小均衡状態へ、あるいは、拡大均衡状態から縮小均衡状態への移行期にあたるかである。そこをどの様に認識しているかによって建てるべき対策が全く違ったものになる。

注意しなければならないのは、経済が拡大均衡期にあるから、財政も拡大均衡策でなければならないとか、経済が縮小均衡期にあるから財政も縮小均衡策でなければならないという訳ではない。経済が拡大期にあっても策としては、縮小均衡策をとる事もあれば、逆に経済が縮小均衡期にある時に、財政は拡大均衡策をとる場合もある。財政が拡大均衡策をとるか、縮小均衡策をとるかは、国家の政策や理念に基づく事であり、単に外部環境に合わせればいいというものではない。

拡大均衡策の中には、意図的にインフレーションを引き起こし、経済規模を拡大する事で累積債務を圧縮してしまうという手段がある。しかし、この手段は、全体と部門との調和を保つのが困難な点と一度経済は膨張を始めると抑制するのが難しいと言う点を忘れてはならない。
債務の移転策の中にインフレーションによる税収の拡大と債務の圧縮を計る策がある。これは、劇的な効果を表す半面、経済構造の基盤を破壊してしまう危険性がある。つまり、劇薬である事を念頭に置いておく必要がある。

財政赤字の解消をインフレーションに頼るのは、他の手段に比べて最も為政者の意志があいまいで、基本的に成り行き任せであり、一番、予測ができない。故に、実際には一番リスクが高い。

歳入を計る直接的手段に増税がある。税は、家計、企業、海外部門から直接資金を移動させる手段である。ただ、税というのは、諸刃の剣である事を忘れてはならない。税の背後にあるのは、部門間の資金の過不足の歪みである。結局、配分の問題なのである。皺寄せである。
金融政策や経済政策(公共投資や減税等)だけで財政を改善する事も景気をよくするにしても限界がある。
その時々の経済情勢を見極める事である。どんな状況、症状にも効くような万能薬は、経済対策にはない。処方を誤れば命取りになるのである。
現在のわが国で一番の鍵を握るのは、民間投資と民間消費の活性化である。民間投資と民間消費が冷え込んでいる原因を断たない限り、財政は良くならない。

増税は、税収の拡大をもたらす半面、可処分所得を圧迫する。景気にも悪い影響を与える。税制度の変更は、所得の再配分の在り方に直接的な影響を与える。

税には、税の目的があり、働きがある。その本来の目的や働きを忘れたら、税は成り立たない。
報復的な障壁となる関税は、自国の経済や市場を守る事にはならない。
関税は、不必要だとは思わない。関税の働きは、個々の国の経済情勢や経済構造を是正する事にある。
競争力で重要な働きをするのは、人件費である。同じ条件で劣悪な労働条件、不当に安い賃金の国と競争すれば、人件費が安い国が有利になるに決まっている。それでは、貧困や悪質な労働条件を輸入していると言われても仕方がない。また、安全基準や品質基準が厳しい国と甘い国にも不当に差が生じる。原材料の急騰や為替の変動は、国内の産業を大きく毀損させてしまう事がある。この様な海外との構造的、状況的な違い、変動から国内市場を守り、公正な競争を維持するために、関税を活用するのは、当然の権利である。

オリンピックやプロスポーツが国際的に成り立っているのは、中立的な機関によって共通の基準、ルールが定められているからである。しかし、そのオリンピックやプロスポーツでもドーピング問題や経済的問題に悩まされ続けている。関税を、自国の都合だけ相手国に押し付ければ紛争になるのは必然的な帰結である。

財政は、対処療法的な手段では抜本的な解決には結びつかない。一時的に改善されてもすぐに元に戻ってしまう。
財政こそ長期的視野の基に立て直す必要がある。
その意味では、単年度均衡主義や現行の予算制度は足かせになる。

財政が悪いと言っても個々の国によって事情は異なる。国家体制も、理念も、歴史も、文化も、それこそ、経済状態も違うのである。それを一律に語る事はできない。
まずそれぞれの国がよって立つ基盤を確認する事である。

究極的な手段としてデフォルトもある。デフォルトは、財政を再建するための究極的手段である。しかし、あえてデフォルトをすることも念頭に置いておくことを忘れてはならない。

デフォルトと以上に究極的な手段として革命や戦争がある。しかし、革命や戦争は、経済と言うより、社会体制、構造を根底から覆すことを意味し、どちらにしても暴力的な手段である事には変わりない。人的、物的被害は甚大であり、その後遺症も長く残る。否定はしないが、最終的な手段である事だけは、間違いない。革命や戦争でなければ解決できない事態、状況になったとしたらそれは、間違いなく為政者の責任である。

今日の財政問題の背後には、経済状況の変化がある事を忘れてはならない。財政の問題は、経済の問題なのである。そして、その経済の問題は、第一に、経済が成長から、成熟へと移行したと言う点である。第二に、重厚長大から、軽薄短小へ。第一次産業から、第三次産業へと言った経済構造の変化。第三に、ニクソンショックに始まる円高。第四に、原油の乱高下。第五に、バブル崩壊後の地価の下落。第六に、ゼロ金利による時間価値の喪失。第七に、東京の一極集中と地方の過疎化、第八に少子高齢化等である。
大地から第四の問題は、収益の悪化として現れ、バブル崩壊後の資産価値の下落は、企業の資金調達能力に影響を及ぼしている。まず、収益力を回復させる手立てを講じる事である。市場経済の要は収益にある事を忘れている。金融も含め、産業は、適正な収益が維持できなくなって疲弊しているのである。次に、土地の流動性を高めて適正な価格まで地価を上げる事である。ただ、バブルの時のような投機を煽る事は経済の骨格を破壊する事になる。重要な事は、我が国の実情に合わせて必要とされる部分に投資されるように計る事である。また、分権化する事である。財政が財政現場から乖離している事が、資金の効率を低めているのである。必要に応じて、実際に資金が活用される現場の近くにおいて政治的決定がされるような仕組みにすべきなのである。官僚組織の巨大化は、資金効率を悪くするだけである。本当に国民にとって必要な事業なのかを見極める事が肝心なのである。いずれにしても、重要なのは、この国の未来に対する明確な構想、展望である。

長期的資金の働きは、経済成長の原動力となる。長期資金と短期資金の不均衡に現在の経済の停滞の原因がある。
鍵を握るのは、民間投資、民間消費である。見かけ上において民間企業は、財務状態が改善しているように見える。しかし、それは結果論であって、民間企業は、地価の下落によって今でも資金調達力を喪失している。その結果、投資を内部資金によらざるを得なかった。その為に、見かけ上の財務体質が改善したに過ぎない。地価が低迷している限り、民間投資は、盛り上がらない。もう一つの原因は、収益力の低下である。過当競争やインターネットの発達によって安売りが横行し、民間企業は収益力が低下している。投資をしても資金を回収する見込みが立てられないのである。その為に、新規投資を躊躇っているのが実態である。民間企業が外部資金を頼らなくなったために、金融機関の利鞘も狭くなった。民間企業が収益を安心してあげられる環境を整えない限り、財政は改善できないし、金融機関の経営も安定しない。

財政は、経済状態と裏腹の関係にある事を忘れてはならない。財政政策を誤ると財政破綻だけでなく、経済破綻をも招くのである。そして、最終的な手段は、戦争であり、革命である。ただ、忘れてはならないのは、科学技術が発達した今日、我々の手には、核兵器をはじめ、生物化学兵器という最終的な兵器があるという事である。

経済の仕組みもわからないまま経済を制御しようとするのは、自動車を無免許で運転する様な事である。

戦争は、結果である。原因ではない。人は、無意識のうちに戦争の種を作り、蒔いている。
戦争で最大の原因は、財政破綻である。財政が破綻しかけた時、権力者は戦争の誘惑に襲われる。
戦争は、財政再建の究極的手段である。同時に、財政破綻の究極的原因でもある。
国は戦争によって勃興し、戦争によって滅びるのである。
外交や交易で解決できないと思った時、権力者は武力に訴えるのである。国民の爲を口実にして…。
歴史を変える事はできない。しかし、歴史から学ぶ事はできる。
人間の愚かさは歴史から学ぼうとしない事である。

神の力を手に入れたとしても人は、神にはなれない。神の力を手に入れたとしても神の力を制御できなければ、結局、自らを亡ぼすだけである。自分の物としなければならないのは、神の意志であって神の力ではない。

金融政策や成長政策だけで財政の健全化を計るのは難しい。なぜならば、金融政策も成虫政策もそれ自体が財政を悪化させる要素を含んでいるからである。金融も成長も財政も均衡問題であり、拡大均衡にしろ、縮小均衡にせよ相互の関係抜きには語れないからである。例えば住居の需要は、人口が基礎にあるのであって財政や景気対策を根幹にしても自ずと限界が生じてしまうのである。

経済は、分配であり、所得格差は絶対的な事ではなく、相対的な事である。
故に、上限と下限、平均と分散、幅と構成、率と差が問題となる。



金融と財政


金融と財政は、表裏をなしている。その要にあるのは、政府と中央銀行の関係である。
それは、「お金」の本質から発している。「お金」、今日、「お金」の大部分を占めている表象貨幣の根本は、借金である。お金を発行するためには、借り手と貸し手を分離、独立させる必要がある。政府は、一般に国債を発行して金融機関から借金をする。中央銀行は、国債を担保として紙幣を発券するのである。直接、政府に中央銀行が「お金」を貸してもいいがそうすると「お金」の発券の上限が確定できなくなり、貨幣単位としての「お金」の働きを果たせなくなる。そこで、間に金融機関を介する事で、「お金」の流通量の上限を制約しているのである。ただ、この上限も恣意的に設定される事であるから、中央銀行の意志でいつでも変更する事が出来る。

金融は、経済の仕組みの裏にあって部門間、経済主体間の経済の過不足を調整する。

現在、日本銀行は、「異次元の金融緩和」政策に従って大量の国債を購入して市場に資金を供給している。市場に大量の資金を供給する目的は、物価上昇、即ち、インフレーションを起こす事で国の債務を解消しようとしていると考えられる。国の債務を解消するために、借金を増やしているのだから、劇薬である事は間違いない。脱デフレを合言葉にしてとられているのが何よりの証拠であるが、一向に物価は上昇してこない。ただ、国の借金だけが増えている。なぜ、物価は上昇してこないのか。それはいろいろな原因が考えられる。
それ以前に、市場環境が財政に対してどの様な影響を与えるのかを明らかにしておく必要がある。

「お金」は分配の手段である。分配は空間的、時間的である。「お金」が分配の手段としての効用を発揮するためには、第一に、交換価値を持たなければならない。第二に、交換価値としての基準でなければならない。第三に、名目的価値は不変でなければならない。第四に、匿名性を持たなければならない。
これらの働きを発揮するためには、第一に、資金が市場に十分に満たされている必要がある。第二に、貨幣としての信認が保たれる必要がある。第三に、貨幣が満遍なく行渡っている必要がある。第四に、流動性が保たれなければならない等の条件が満たされていなければならない。

以上の条件を満たしていれば、「お金」は、正常に機能する。「お金」が正常に機能しているのならば、「お金」の流通量は、「お金」の価値、即ち、物価に直接的に反映するはずである。しかし、大量に「お金」を大量に供給しているのに、物価は一向に上昇してこない。この謎に、現在の日本経済が置かれている状況が隠されている。

中央銀行が大量に資金を供給しているのにも物価が上昇してこない原因として考えられる事は、第一に、資金が金融市場に滞留して市場に供給されていない。実物市場に資金を供給する手段は、投資である。資金を流通させる手段は、消費である。投資にも消費にも、資金が回らないために、資金の効用が発揮されない。第二に、資金が効率よく活用されていない。資金が効率的に活用されない原因は、所得と支出が不均衡にある。第三に、需要と供給が不均衡である。需要と供給の不均衡は、人、物、金の不均衡によって生じる。例えば、物余りな状態だという事、あるいは、人不足である。物余りというのは、供給過多である。供給過多になる原因は、市場の成熟や市場の過飽和状態である。人不足というのは、需要不足である。また、生産年齢人口が全人口に占める割合も重要になる。第四に、資金が適正に配分されていない。例えば、格差の拡大である。第五に、フローとストックが不均衡である。いくら資金を供給してもフロー、つまり、消費に回らないで資金が貯め込まれてしまっているという事が考えられる。

2013年に日本銀行は、消費者物価前年比上昇率2%を2年程度で実現する事を目標とし、マネタリーベース及び国債・ETFの保有額を2年間で2倍に拡大、長期国債の買い入れ残存期間2倍以上に延長する方針を打ち出し、マネタリーベースが年間約60兆円から70兆円に増加するように調節とし、実際に実行した。しかし、2018年に至っても物価の目標は達成できていない。日本銀行は、石油価格の下落や円安などを理由に挙げているが、それだけが原因とは思われない。むしろより構造的な問題が潜んでいる。この点を解決しないと財政の改善には結びつかない。

まず第一に言えるのは、今日の経済情勢や財政問題の原因をデフレーションにあると言い切れるかである。デフレーションは、ある意味で結果である。根源的な原因ではない。デフレーションが問題だとするならば、何がデフレーションを引き起こしたか、その原因が鍵を握っているのである。
根本的な原因を明らかにしないでデフレーションが悪いとしてインフレーションにしようとしても物事はそれほど単純ではない。熱が出たから、熱さましを飲ませればいいというのでは、根本的病巣を見逃してしまうようなものである。

大体、金融政策や公共投資、増・減税といった手段だけでは限界があるのである。なぜならば、財政問題の根本は、部門間の資金の過不足の歪だからである。

もっとフローとストックの不均衡に目を向けるべきなのである。フローとストックは、時間的再配分によって生じる。問題は、時間価値にある。時間価値は、フローとストックを関連付けているからである。時間値、即ち、フローは付加価値を形成する。ストックが増大すると付加価値は、圧迫される。なぜならば、時間価値の基数は、ストック、負債と資産だからである。負債と資産の相対的な拡大は、付加価値を圧迫するのである。債権債務と収益の割合を適正に保つ事が物価を安定させることになる。
単純に増税をすればいいとか、景気を良くすれば解決できるとか、歳出を削減すればいいというわけにはいかないのである。何がどの部分にどの様に作用するのかを見極める事が先決である。

付加価値は、資産や負債、即ち、ストックを基数として派生する。故に、金利や利益、物価、所得は比率として表される場合が多い。付加価値は、所得の範囲内、即ち、フローの幅に収まらなければ、資産や負債は、収束せずに発散してしまう。時間価値は、フローとストックの比率に制約される。財政の一番の難問は、いかに資金の過不足を収束させるかなのである。
故に、所得に占める消費と貯蓄の比率が重要となる。家計が所有する金融資産の厚みが大きいからいいというのは錯覚である。

支払利息が可処分所得を上回るようになれば借金は雪だるま式に大きくなり、抑制は効かなくなる。税が可処分所得を上回れば、民間企業は成り立たなくなる。公的負債が大きくなれば、民間に対する投資は抑制される。給付が所得を上回るようになると資金の生産効率は低下する。消費よりも貯蓄が大きくなると社会的債務が増大し、時間価値、即ち、付加価値(利益、金利、所得、物価、税等)を圧迫する。
税にせよ、所得にせよ、資金が活用されるのは、フローの幅の範囲内だからである。故に、資金効率が低下すると資金の回収も制約される。

フローとストックは、短期資金の働きと長期資金の働きをいう。つまり、民間消費と民間投資の均衡が財政の健全性を保つためには欠かせない要件なのである。

資金効率という観点からすると生産年齢人口と総人口との比率が重要になる。今後少子高齢化が昂進すると言われている。
そこで問題となるのは、現金収入を自力で得られない人口、(生産年齢に達していない人口、何らかの病気や障害によっ働けない人口、専業主婦)と現金収入はあっても年金の様な給付即ち、何らかの対価としての所得ではない収入が総収入に占める割合が増える事になる。これは、財政の負担を確実に増やす事になる。生産年齢人口が総人口に占める割合が上昇する事は資金効率を下げる事になる。
これらの観点を前提としながらどの部門にどの様に負担を分担するかが、財政を健全化する為の方策なのである。

財政は、金融機関と一体になって今日の貨幣制度を支えているという事を念頭に置いておく必要がある。中央銀行が心臓部ならば、政府は中枢である。
今日、財政の働きを景気対策に偏った使い方をする傾向があるが、根本は、資金効率を高める事にある事を忘れてはならない。
資金効率は、実体経済、つまり、人や物、海外交易と名目経済、「お金」との均衡によって成り立っている。「お金」は、虚構である。実は、人や物の空間にある。「お金」は、交換価値、即ち、経済的価値を数値化する事で効用を発揮する。つまり、「お金」の働きは量にある。それに対して質を司っているのは、人と物である。故に、貨幣経済で問題となるのは密度である。人と物が要求する価値に対して通貨の価値が薄まってしまう。
市場が拡大均衡の方向に向かっているにあるのか、縮小均衡の方向に向かっているのかでとるべき施策は変わってくる。

元々、「お金」は、負の働きをしているのである。貨幣経済は、正と負が一対になって機能する仕組みである。そして、負の空間を担っているのが、金融であり、正と負の空間を結び付けているのが行政府と中央銀行である。

世の中一般に、「お金」に対する極端な考え方が流布している。財政に携わる者は、とかく「お金」を卑しむ傾向がある。逆に民間経済では、「お金」を極端に尊ぶ考え方をする者がいる。所謂、金の亡者、拝金主義者である。どちらも「お金」の働きの本質を見誤らせてしまう。
「お金」は、経済を動かす手段である。それなりに大切だが、必要以上に崇める事はない。

財政にとって「お金」の働きを正しく認識する事は、原点である。単純に財政赤字をなくせばいいと言った短絡的思想では、かえって赤字を増やしてしまうのが落ちである。財政が貨幣経済で果たしている役割を先ず理解しておく必要がある。

財政の本質とは何か、魂とは何かを突き詰めれば愛情でしかない。国家、国民に対する愛情、郷土に対する愛情、家族に対する愛情、同志、朋友に対する愛情がなければ、財政は、ただの「お金」の問題に過ぎなくなる。
ところが戦後のわが国では、国家、国民に対する愛情を頭から否定してしまっている。国に対して忠誠を誓う事は、犯罪だとも体制や学校でも教えている。反体制、反権威、反権力と言ってさえいれば、一端の知識人として認められた。反体制の人間が総理にすらなった。それは、負け犬根性、植民地根性が染み透った証左である。皇国史観と自虐史観、どちらが是か非かではなく。自分の歴史観を持つべきなのである。過去を総括したいのなら、自分の考えですべきである。今の日本で問題なのは、自分がないという事である。それは財政に一番現れている。先ずどのような国にしたいのかがあって財政の是非を論じるべきなのである。
何も必要以上に自国を賛美、美化する事はない。ただ、誇りだけは失ってはならない。反体制者こそ強い愛国心を持つべきなのである。それでなければ、反体制は単なるエゴ、利己主義である。
愛情があるからこそ、国民に犠牲や負担を強いる事が出来る。
戦後、国に対する愛情というものを忠誠というものを一方的なものとして、マスコミや教育喧伝してきた。しかし、真の愛情は、双方向の事である。一方が一方に対して強要できる事ではない。第一に、戦後の日本の主権者は国民である。国家に対する愛情は、自分も含めた国民に対して向けられる想いなのである。この点を忘れたら、財政は、単なる「お金」の話に終わってしまう。国民から預かった「お金」を何に対してどの様に使うか、それが財政なのである。

財政の根源が「お金」の問題であるからこそ、国家、国民に対する愛情が問われるのである。


財政と経済政策


財政を経済対策の手段にしてはいけない。財政を経済対策の手段にしてしまうと、財政の主体性も規律も失われる。
財政は、財政である。だからこそ、中央銀行を行政府から独立させる必要があるのである。

また、財政赤字の問題と同様、景気の悪化、企業収益の悪化や家計の悪化の根底には、部門間の歪みがあるのであり、部門間の歪を是正しない限り、景気をよくする事はできない。

そして、景気を左右するのは、市場の状態によるのであり、財政や金融政策は、市場の状態を改善するための手段として有効でも、財政や金融政策だけで市場の状態を改善できるものではない。

市場の根本は、取引であり。生産、所得、支出、消費、投資、そして、貯蓄と借金の均衡に基づいている。生産、所得、支出、貯蓄と借金の関係を変えられない限り、景気を制御する事はできない。

財政や金融政策によって景気を制御できると考えるのは、危険な思想である。
景気と言うのは、市場的現象であり、財政や金融は、あくまでも補助的手段である。
リフレーション政策を主張する人が力を得ているが、そもそも、リフレーション政策は、適度なインフレーション状態を保つ事を軸としている。適度なインフレーションを維持するという事は、通貨と物価の関係の上に成り立っているのであり、根本は、生産、所得、支出の関係や構造に収斂するのである。ただ公共投資を増やし、金融緩和をすればいいという訳ではない。
リフレーション政策と言っても主軸は、市場をどの様にするのかであって、財政政策や金融政策は、その延長線上で考えられるべき事である。
また、財政政策や金融政策は、市場の状態、前提条件によってその効果は、制限される。同じ財政政策や金融政策でも市場環境、状態、制度的な前提が変われば効果は変わってくる。
一番、重要なのは、適正な収益、所得をいかに実現するかにあって、それは、需要と供給の関係から測られる事なのである。
闇雲に公共投資を増やしてもそれが民間企業の収益に影響を与えられなければ効果は、期待できない。公共投資が効果を発揮する為には、雇用を増やし、所得を適度に分散させる事に結び付かなければなない。公共投資が特定の階級だけを所得の偏りを生むようでは効果は発揮できない。また、投資が投資で終わり、資金が市場の供給されなければ、財政赤字を増やすだけで終わる。
投資が投資で終わっている限り、公共投資によって資金は、市場に供給される事はない。もう一つ重要なのは、現金収支は、部門間均衡によって保たれるのであり、国債によって景気対策と言う目的だけで公共投資を増加させることは、部門間の歪を拡大するだけである。

財政は、市場の僕ではない。また、財政を市場の僕にしてはならない。


財政を健全化するためには


財政を語る時、やれ増税派だ、リフレ派だ、緊縮財政派だと色分けをする傾向がある。とにかく、財政の根本を理解しようともせずに、増税ありきだの、景気を良くすれば解決とか、何でもかんでも歳出を削減してしまえというのは、乱暴な話である。問題の本質は、財政の健全化であって健全な財政とは何かである。その為には、財政の役割を明確にしておく必要がある。

先ず確認しなければならないのは、財政を健全化する為の手段は、今考えられるのは、「増税」「歳出削減」「経済成長(インフレレーション)」の三つしかない。

現在、財政の健全化は、喫緊の事だとされている。財政状態は最悪の状態にあり、このまま放置すれば財政は破綻してしまうと言われている。
ただ、財政を健全化するというが、健全な財政とはどのような状態を言うのか、それが明確にされているとは言いかねる。
財政は、赤字だから悪いと決めつけているように思える。しかし、赤字だから悪いと短絡的に決めつけられるであろうか。
赤字になるにしても、赤字になる原因や理由がある。その原因や理由を明らかにしないで、赤字だから悪いと決めつけるのは、早計である。
健全な財政とは何かを明確にしなければ、財政の健全化を図るなどという事はできやしない。

今の議論は、最初から財政は赤字だから悪い、だから、赤字を何とかしようという事に終始しているように思える。
しかし、財政は、赤字だから悪い、黒字だからいいとは限らない。
健全な赤字もあれば、不健全な黒字もある。企業経営にも言える事だが意図して赤字にすることもある。逆に意図していない、想定外の黒字もある。赤字にしろ、黒字にしろ、最初から意図的に赤字にしたのか、黒字にしたのか。また、状態を想定できたか否かによって解釈の仕方も変わってくる。

健全な財政と言うのは、健全な状態を指して言う。健全か否かの判断は、状態によって判断されるのである。状態と言うのは、相対的であるから、その状態にしている背景や状況、前提条件によって判断は大きく変わるのである。
だからこそ、何が健全な財政状態なのか、どの様な状態が不健全な財政状態と言うのかを明確にする必要があるのである。そして、何が原因で不健全な財政状態にする原因なのかを明らかにする必要がある。

財政を不健全な状態にする原因には、第一に、部門間の歪みがある。第二に、経済が拡大均衡期なのか、縮小均衡期なのか、または、移行期なのかといった財政が置かれている環境や経済の成長段階、周期的な要素などの前提条件に起因する事象がある。第三に、原油価格の高騰、為替の変動、災害の様な一時的な要因や突発的要因によって作られた状態がある。第四に、歳入構造に問題がある場合が考えられる。第五に、歳出構造に問題がある場合がある。第六に、制度的、手続き的に臨機応変な対応が取れなくて手遅れになる事も考えられる。第七に、国債等のストックの働きによることがある。ただ、このような場合も単純に借金が悪いと決めつけない事である。負債がどれくらいあって、その負債は、返済可能か。返済が必要なのか。また、負債の何が問題となっているのか。利息の様な付随的な問題なのか。負債そのものの問題なのか。その辺を一つ一つ検証していく必要があるのである。

今日、財政を健全化しようといった場合、ひたすら赤字を削減する事にばかり、議論が集中しがちである。しかし、赤字の原因がわからないと何をどう削減していいかわからない。
一部門の均衡ばかりを考えて全体の均衡を疎かにすると一つの部門の均衡は実現できたとしても全体の均衡が失われてしまう危険性を生じさせてしまう。財政の健全化は、財政だけの問題ではなく。経済全体の問題でもあるのである。
いかに全体に与える影響や衝撃を少なくして財政を均衡させるかが対策の要であって、財政の均衡ばかり考えていたら財政の均衡のみならず全体の均衡も失われてしまう。

財政を健全とする手段は、前提条件によって違ってくる。部門間の歪が原因ならば、部門間の歪を改善するような、構造的な取り組みをしなければならないし、段階的問題ならば、財政の状態や変化、推移を監視、管理する必要が生じる。一時的な要因ならば、その原因となった事象に対してどの様に対処するかを決める必要がある。特例を作るか否かが鍵を握る。歳入に問題があるならば歳入構造、特に、税制を見直す必要がある。また、経済状態が原因で歳入が伸びないならば、景気回復を優先すべきになる。歳出が問題となるならば、予算の在り方を検討しなければならない。公共投資の在り方も見直さなければならない。累積した国債が、財政を圧迫しているのならば、国債の削減を考える必要がある。また、国債を何に投資するか公共事業を見直す必要がある。

この様に財政の健全化と言っても対策は一様ではない。熱があるから解熱剤を飲ませればいいといった対処療法では解決できないのである。発熱の原因、どんな病気が隠されているかを診断して治療を施さなければ、処方そのものが有害になる事もある。財政も同じである。誤診は致命的な事にもなるのである。

現在、日本銀行が国債を大量に購入している。しかし、いつまでも、国債を大量に買い増ししていくことはできない。明らかに限界がある。いつかは、国債の購入量を減らし、また、やめ、なおかつ削減していかなければならない時が来る。所謂、出口戦略である。しかし、これは、日本銀行の問題と言うより、その前提となる財政の問題と言った方が正しい。今日、日本銀行が大量の国債を購入し続けているのは、財政が均衡を保てない状態にあるからである。財政問題と言う大前提の解決策が見えてこない限り、日本銀行の出口戦略は、着手すらできないのである。日本銀行が出口戦略に着手すらできないうちに日本銀行の経営そのものがおかしくなったら本末を転倒してしまう。

前提となる条件が変わらなければ、いくら日本銀行が手立てを尽くしても効果は上がらないのである。財政問題の主役はあくまでも財政を担う行政府の問題である。この点を間違うと金融部門の均衡も失わせてしまう。
行政府の長が賃金や価格、金融政策に直接介入するのは、個々の部門の自律性を失わせ、全体の均衡を崩してしまうる危険性がある。確かに、財政を健全化する為に金融機関が金融機関としてなすべき事はある。しかし、それは個々の部門、個々の金融機関が自らの責任を持って決断すべき事であって他の部門が強要すべき事ではない。

財政を健全化するためには、いくら歳出を削減しても、また増税によって歳入を増やしても、あるいは、公共投資を増やしても、金融政策を施しても抜本的な解決にはならない。

なぜならは、財政状態は、財政だけによって作られているわけではないからである。
財政は、各部門との相対的関係によって形成される。
各々の役割、分担、負担、働きをどう調整し、それに応じた収支をどうするのか、貸し借りをどの様にするのかによっって決まるのである。

必要な費用を削ったら、その費用がもたらす効用を期待する事はできなくなる。
例えば人件費である。人件費の効用は、費用と言うだけでなく、所得でもあり、生活費の元であり、購買力でもあり、消費であり、投資のための原資であり、収益源であり、評価でもある。いたずらに人件費を削減すれば、費用と言う効用のみならず、他の効用も同時に失うのである。

経済的行為は、一方向なものではない。負の効用があれば正の効用もあるのである。重要なのは、振幅の幅であり、方向性であり、強弱であり、量であり、周期であり、分散であり、代表値(平均値、中央値、最頻値等)であり、構成、関係、働き、変化である。

今日の財政状態を招いたのは、バブル経済が限界に達した時、強引にバブルを潰そうとして、円高不況で収益が思い通りに上げらくなっている時、金融を引き締め、土地取引を規制し、不良債権を強引に処理し、規制を無原則に緩和して過当競争を煽り、資本取引に介入して、企業間の連携を弱くし、景気が悪くなると掌を返したように金利を必要以上に下げ、金融機関の力を削いだことである。
それによって民間企業は、外部から資金を調達できなくなり、結果的に黒字主体へと転換せざるを得なくなった。
更に、不況が回復できないからと後付け的に金利をゼロ、マイナスにまで下げ、公共投資を目的や構想もないまま積み増しした。結果、市場から時間価値が喪失した。企業はますます実質的な利益を上げられなくなったのである。そして、金融機関は、利息収入を期待できなくなった。それらがまわりまわって財政を不健全な状態にしてしまったのである。この現実を直視ない限り、財政の健全化は計れない。

バブル期に一時的に財税が黒字化したのは、なぜなのかを検討すべきである。バブルに対して否定的な意見ばかりが目立つが、バブルが発生するには発生する必然性がある。バブルの時は、円高が昂進していながら、財政は、偶然に改善されたのである。問題は意図的に改善されたという訳ではない事である。
バブルに対しては、悪い評価しかないが、バブル期に財政が健全化したのも事実なのである。バブルが悪いのは、土地という生産性が低い資産資金が集中的に投下された事である。それは、ゴルフ場に象徴される。ゴルフが異常に熱狂しゴルフ場開発によって国土が乱開発されたうえに、バブル崩壊後は巨額な価格で取引されていた会員権が紙切れに変じてしまった。結局、円高によって生じた余剰資金を空費してしまったのである。それでバブルが悪い円高が悪いというのは問題点のすり替えなすぎない。

財政が健全であるかないかは、単に経済的な効用からの測られるものではない。
財政は、国家理念を実現するための手段なのである。

大切なのは、国家を通じて国民は何を実現しようとしているのか。また、国家に何を期待しているのかである。そして、その根本にある構想や事業に対して各部門が何を分担し、何を負担していくかなのである。
財政が赤字だからといって闇雲に事業を減らし、費用を削減するのは、本末転倒である。

問題は、我が国がどこを目指し、今どの様な段階にあってどの様な状態を前提としているかである。
目先に景気対策にとられて行きつく先を忘れてしまったら、財政は彷徨い続ける事になる。

また、赤字は悪いというだけでなく。借金が悪いと決めつけがあるように思われる。たとえば、電力会社や鉄道のように巨額な初期投資を必要とする産業は、必然的に巨額の負債を負う。しかし、それが、時間がかかったとしても収益によって返済する見通しが立っていれば、悪質な負債とはしない。そして、それを判定する為に、期間損益が設定されているのである。問題は、負債の多寡ではなく。それが返済可能か否かなのである。また、返済手段の問題でもある。これもまた、財政が健全な状態にあるか否かの判断基準である。

なぜ、財政は赤字の状態にあるのか。それを明らかにしない限り、財政の健全化は測れないのである。

なぜ、財政は赤字になるのか。



なぜ、財政赤字は、生じるのか、その機構、構造、要因を理解しなてと財政赤字は、解決できない。
財政赤字が生じる機構と財政を黒字にする機構は、同じ機構、仕組みである。
経済を構成する部門には、財政と家計、そして、非金融法人、金融法人、海外からなる。
財政赤字を引き起こす要因は、資金移動である。
資金移動は、貸借、売買、贈与(相続)、税によって引き起こされる。
貸借は、所有権の移動を伴わない資金移動であり、返済を前提としている。それに対して、他の資金移動は、返済を伴わない。
資金移動は、何らかの取引を仲介して実現される。市場取引量の総和はゼロに均衡する。
即ち、経済構成する部門間の取引量の総量はゼロ和になる。
資金移動は、資金の過不足を生じさせる。その部門間の資金の過不足の不均衡が、財政赤字の原因である。

財政赤字は、資金の過不足の歪が引き起こすのである。

個々の部門の赤字、黒字は過不足を現す。全体の過不足は均衡しているから財政赤字は、財政部門が資金不足主体である意味をしている。
それは、財政部門の他に、黒字主体が存在している事を意味する。

注意しなければならないのは、財政や家計でいう赤字と言うのは、資金不足主体という事である。損益上の赤字と言う意味ではない。

財政赤字を引き起こす構造は一様ではない。全体の総量がゼロ和であるから財政が赤字の場合、必ず財政以外の部門の中に黒字である部門がなければならない。故に、財政赤字の働きを理解するためには、財政赤字を引き起こす構造を知る必要がある。

現在の市場経済は、四つの空間と時間軸によって成り立っている。一つは、世界市場によって形成される空間、二つは、通貨圏によって形成される空間、三つめは、売買取引によって形成される空間、四つ目は、貸借取引によって形成される空間である。それに時間軸が組み合わさる事で市場経済は、構成されている。
それぞれの空間の取引量の総量は、ゼロ和に均衡し、閉じている。
また、単位期間内における貸借の増減と売買収支とはゼロ和に均衡している。

売買取引と、貸借取引は、複式簿記を基礎文法にして成り立っている。
市場取引は、売り買い、貸し借りからなる。売り買い、貸し借りには、対称性がある。
取引は、単位期間によって損益取引と貸借取引、資本取引に区分される。短期間内のおける資金の過不足は、損益として計上され、その残高は、貸借に蓄積され、残高は、時間価値に還元される。
貸借取引は、金融市場を売買取引は、実物市場を形成する。

財政赤字を理解するためには、実物市場を構成する家計、財政、企業、海外部門の組み合わせを見てみる必要がある。
財政を赤字とした場合、他の部門の組み合わせは、七通りある。財政を黒字にする組み合わせも七通りある。金融は、この十四通りの形を補正するように貸借上で働く。

  
国民経済計算書

時間価値において重要な働きをするのは、残高と単位期間における増減である。なぜならば、単位期間の効用を示す比率は、残高を分母にし、単位期間の増減を分子とするからである。
残高は、長期資金の働きを形成し、単位期間の増減は、短期資金の働きを形成する。

また、売買取引は、経常収支を構成し、貸借取引は、資本収支を構成する。
経常収支と資本収支は、資金の流れを介して表裏の関係にある。

個々の経済主体、各部門の資金の過不足は、貸借の残高として長期資金に蓄積する。各部門の働きが硬直的だと一方的に貸借の残高として負の働きが積み上がっていく。
残高は、時間価値の分母を形成し、増減は、時間価値の分子を構成するから残高が増大すると分子である時間値を圧迫するようになる。時間価値とは、利益であり、金利であり、物価であり、所得の増加率であるから、利益も、金利も、物価も低下する。金利や利益、物価の上昇率が低下すると資金の過不足を調整する機能が低下し、資金の循環を悪くする。

為替は、国家間の資金の過不足を均衡するように変動する。

残高が累積が高じると社会の仕組みや制度を破壊する。常に、累積した債務を清算するようにしないと社会の強度が保たれない。

財政赤字を改善する場合は、財政赤字の働きを正しく理解したうえで、他の部門との関係を理解しなければならない。

例えば民営化と言うのは、公共部門の負債を民間に転移する事を意味している。民営化する事によってどのような効果を期待するのか、その点を明らかにしておかないと民営化しても実効力は上がらない。

財政赤字を改善したいからと言って財政だけを問題にしていたら真の解決には結びつかない。
バブル崩壊後、日本の財政赤字が深刻化した背景には、民間企業が黒字主体に転換したという事がある。
また、それ以前の財政赤字は、家計に預金残高が積み上がっていたという事も一因なのである。
言い換えると非金融法人を赤字主体に家計の貯蓄を減らすように仕向ければ自ずと財政は黒字化する。
その為には、なぜ、非金融法人は、黒字主体になったのか、なぜ、家計は、貯蓄を貯め込まなければならないのか、その点を明らかにする必要がある。


   
国民経済計算書

注目すべき点は、バブル崩壊以前は、金融の働きは、GDPに対して均衡を維持していた。しかし、バブル崩壊後、金融の働きは、GDPに比して大きくなっている。これは、実物経済に対して金融市場が前面に立ちつつあることを意味する。名目的働きが実質的働きに優ってきたのである。

財政赤字に対して企業、家計、海外各部門がどうかかわってきたかが、重要なのであり、金融はあくまでも補助的働きしかできない。
金融を主役にしたら、資金の流れを制御できなくなる。

財政を語る上で忘れてはならないのは、金融の働きとのかかわりである。財政は、通貨と国債との関係を通じて深く関わっている。通貨の本質は、裏側に、国債、即ち、国家の負債が関わっているからである。
また、財政には、金融機能がある。税とか、給付、社会保険、社会保障等の手段によって所得の再配分を通じて資金の過不足を均す。これは財政の金融機能である。また、公共投資も直接的な投資だけでなく、民間企業を通した間接的な投資もある。
金融が長期的資金の過不足を補う働きがあるのに対して、財政は、短期的な資金の過不足を補う役割がある。

経済政策は、各部門間の残高を一定期間に均衡するように調節する事を目的とすべきなのである。単に赤字であるか、黒字であるかではなく。振幅と総量、構造、偏りを調節するように考え方を変えない限り、市場を制御する事はできない。
その為には、個々の部門は、自分の利害だけでなく、全体の利害との整合性をとるように行動する事が要求されるのである。

全体は部分のために、部分は全体のはために働く。それが神の意志である。


財政と部門の関係


市場経済を動かしているのは、部門間の資金の過不足による。
基本的に家計部門と民間法人部門の短期的では、交互に資金不足部門と余剰部門とを入れ替わり、通常は、財政部門は、中立的、即ち、均衡した上に置かれるようにし、資金を供給する時に財政部門を資金不足部門とするよう調節する。
財政部門は、期間損益(プライマリーバランス)を視座に入れて運用する。
海外部門は、国際分業の観点に立って経常収支と資本収支が均衡するように調節する。
金融部門は、中立的立場を維持するように制御する。
絶対に赤字は悪いと決めつけるのではなく。資金と損益の関係をよく見て判断するように心がけるべきである。

経済の赤字部門、赤字主体と黒字部門、黒字主体が交互に入れ替わる事で資金のストックとフローの均衡は保たれている。この入れ替わりが円滑に機能しないと、ストックが一方的に累積され続ける事になる。そして、ストックの一方的累積は、資金の巡り、即ち、フローを圧迫する様になる。

経済の発展段階、市場の状況、外部環境等によって黒字主体と赤字主体の構成は、入れ替わる。
その時の状況や前提条件に応じ黒字主体と赤字主体の構成をいかに組み合わせるかが、経済政策の一番の課題となる。
経済主体が赤字か、黒字かは、資金の過不足から生じるので、その主体だけで解決できる事ではない。
要するに誰が赤字を負担するかの問題である。
個々の経済主体の内的問題は、それとは別次元の問題である。

企業が赤字になるかどうかは、内的な要因だけで決まるのではなく。外部要因にも大きく影響を受けているのである。
故に、経営主体の内的な努力だけでは解決できない事がある。財政赤字も、財政だけでは解決できない要因が多くあるのである。

内的、外的だけでなく、企業経営には表裏がある。企業経営の表に現れる部分が損益ならば、裏で働いているのは、貸借である。部門間の関係を知るためには、表に現れている損益関係だけでなく、底辺で働いている貸借関係も明らかにしていく必要がある。
金融は、貸借上、即ち、裏で働いている。

財政が赤字になる絡繰りは、家計や企業、海外部門との関係にある。その関係の前提は、その国の資源、人口、地理的要件、歴史的要件など複数の要素が絡み合って構成されている。故に、一概には言えない。
我が国は、四面を海に囲まれ、資源も乏しく、人口密度も高い。そういう中で我が国の経済は、原材料を輸入し加工して輸出する事で成り立ってきた。また、戦争によって東京をはじめ大都市は灰燼に帰し、ゼロからの再建を余儀なくされた。そういう特質を前提として日本の財政構造を見てみなければ、今日の財政赤字の解決策は立てられない。

財政部門が赤字になるのは、家計や民間企業、そして、海外部門が財政を赤字にしなければならない問題を抱えている場合が多い。家計や、民間企業、海外部門の何が財政を赤字とする要因となっているのかを考えないと財政赤字を解決する事はできない。財政の内部要因によって財政が赤字化する事例がないわけではないが、その場合でも他の部門に何らかのかかわりがある場合が多い。
たとえば、家計の所得が多いのに、社会保障制度が手厚いために、財政が赤字になるといった例である。
財政上の理由だけで増税をしたり、減税したり、公共投資を減らしたり、補助金を削減しただけでは、期待通りの効果を得られることは難しい。
どこの部門をどの様にしたら財政資金の過不足を解消できるかを考えるべきなのである。

80年代のアメリカは、双子の赤字と言われ、海外部門と財政部門が資金不足主体であった。それは、アメリカがそうしたくてしたのではなく。戦後体制による歴史的な結果である。それを改善したいのならば、歴史的経緯を紐解く必要がある。

日本経済は、家計部門が70年代から一貫して大幅な黒字主体だった。それに対して1997年まで非金融法人は、赤字主体だったのが98年を境に2000年代に入ると黒字主体へと転換した。
それに対して財政は、バブル期を除いて常に赤字主体だった。

  
国民経済計算

日本の経済構造は、常に、家計が大きく黒字であり、民間企業と一般政府が赤字主体という構図で成り立っていた。

赤字国債は、1965年度の補正予算で1年限りという期限付きで戦後初めて発行された。その後は10年間は赤字国債の発行はなかったが、1970年代に入ると、71年ニクソンショック、73年第一次オイルショックによってマイナス成長になり、それを脱却する手段として1975年に再び発行され、それ以降1989年度まで赤字国債は発行されたつづけた。1990年度にはその年の臨時特別公債を除く赤字国債の発行額がゼロになり、1993年度まで発行額ゼロが続くものの、1994年度から再び発行されその後に至っている。

ニクソンショックで急速な円高に伴って景気は停滞し、プラザ合意で円高不況によって日本の経済構造は、低成長、成熟型へと変質した。円高は、収益力の低下を招いたが反対に資産価値の上昇も招いた。収益力の低下の反面、資産価値の上昇は、企業の資金調達力を強め、その結果、バブル期には、民間企業が大きく赤字幅を広げる事で、財政は黒字化したのである。
ところがバブルが崩壊すると一転して民間企業は、資金投資を控え、内部資金調達をして財務体質を強化し、結果的に黒字化した。そして、不良債権処理のために厳格な担保主義を行政は、金融機関に要請した。その為に、民間企業は、新規投資のための資金調達の手段を封じ込められ、代わりに財務体質は改善された。皮肉な事にそれに伴って財政も赤字へと転落した。
資金源が収益力から資産価値へ、そして、内部資金へと移っていくことで、財政の赤字は慢性化したのである。


国民経済計算書

高度成長時代は、市場の拡大によって過剰な投資をしても収益によって賄う事が出来た。それによって企業は赤字主体でもやってこれた。収益の拡大が経済成長を促し、経済成長が所得や資産価値を上昇させた。
東京オリンピックを契機とした公共投資が呼び水になって経済成長を促したのである。しかし、市場が成熟し、負債が蓄積した今日、高度成長と同じ事をやっても効果は上がらない。ただ、債務、債権を増加させるだけである。
量から質への転換が必要なのである。

この様な時代の公共投資は、次の事態の礎になるようなインフラストラクチャーに向けられなければならない。ただ、目先の景気浮揚策に資金を投入する事は、かえって経済を混乱に導くだけである。何よりも長期的視点が求められるのである。何よりも均衡の取れた投資が肝心である。

また、海外部門も80年代に入ると赤字主体となり、非金融法人の黒字化を促進させている。
海外部門の赤字、黒字も一国で解消できる事ではない。世界市場の中で均衡を保つように各国が協力して国内経済の運営をする必要がある。そうしないと資金の偏りは一方的に拡大してしまう。

民間企業の黒字化が進むにつれて家計の黒字幅も圧縮されつつある。

バブル期に財政が黒字化したのは、非金融法人が大きく赤字幅を広げたからである。

バブル崩壊後、財政が、なぜ、赤字化したか。民間企業が黒字になるように仕向けたからである。簡単にいえば民間企業の収入が増えてその分、財政の支出が増えたのである。
財政を黒字化するためには、民間を赤字主体にする必要がある。

先にも述べたように、民営化をするのは、公的機関の負債を民間に置き換える事を意味する。

財政赤字を解消する為には、民間企業に生産的投資を促すように仕向けるのが効果的なのである。
民間企業に生産的投資を促すためには、金利を下げたり、量的な金融緩和をするだけでは効果は期待できない。
民間企業の収益力を上げ、時間価値を回復する事が最も効果的な施策である。

海外部門も80年代に入ると一貫して赤字化している。
世界市場の取引量の総量もゼロ和である。赤字国と黒字国は、均等しているのである。この事を忘れて黒字が良くて、赤字が悪いと決めつけると世界市場の偏りを是正するのが困難になる。赤字国と黒字国が固定すると債務が増大し、交易に支障が出るのである。
故に、為替は、黒字国と赤字国を調節するように変動する。

為替の変動がない場合は、何らかの形で赤字と黒字を調節する機構を組み込まないと累積債務問題は解消しない。

家計や、法人、海外部門との資金の過不足を調節するのが財政であり、その手段が、税金、公共投資、所得の再配分である。
家計に積み上がった資産をいかに引き出すかが財政を黒字にするために不可欠な事である。その為には、家計を担う国民が安心して資金を国に委ねる事が出来る環境を作る事が大切なのである。そこに、年金制度や介護制度、医療、各種社会保険制度の効用がある。国民が信頼できる、安心して自分の生命や財産の運用を任せられるから資金を拠出するのである。さもなくば、結局、税金と言う強権をもって資金を徴収せざるを得なくなる。
本来、年金制度や社会保険、補助金と言った福利厚生策は、家計を財政に資金を移動するための施策でなければならないのである。

財政の働きは、所得を均す役割もある。

財政の収入的基盤を形成するのが税制度である。
赤字だから、増税すればいいというのは短絡的である。増税は、家計や企業を赤字主体にする意味がある。つまり、どの部分の所得を減らすかという問題である。

もう一つ重要なのは、法人に課す税金は、損益上の利益に対するものだと言う点である。利益は、所得ではない。

財政赤字と言っても絶対的な事象ではない。他の部門との関りから生じる相対的な事象である。財政赤字を絶対化してしまったら財政赤字を解消する事はできなくなる。その事だけは忘れてはならない。

時間価値は、世界市場と国内市場双方から影響される。それは、世界市場は、世界市場内部でゼロ和均衡し、閉ざされていて、国内市場は、国内市場内部でゼロ和均衡し、閉ざされているからである。

基本的に市場は、家計、企業、一般政府、海外部門がゼロ和で均衡している。しかし、財政が均衡を保てなくなると金融市場が異常に拡大する事がある。金融市場の拡大は、損益上の不均衡が貸借上に及ぶことを意味する。貸借上の不均衡は、長期資金の働きが短期資金を圧迫する事を意味する。それは時間価値の働きを弱めてしまう。

つまり、所得で不足する部分を借り入れで補う事を意味するからである。それが講じると暴力的な力によって貸借関係を解消せざるを得なくなる。それが一番避けなければならない事態である。


財政の働き


財税には、人的働き、物的働き、資金的働きがある。人的働きは、所得の再配分や教育、行政であり、物的働きは、公共資本の形成であり、資金的働きは、公共投資、税制度等による資金の供給と回収である。

なぜ、土木のような仕事が公共投資に適しているかと言うと、失業対策としてこれまで有効だったことである。同時に土木業が産業や社会のインフラストラクチャーを構築する手段だったこともある。
特別な技術を必要とせず、単純肉体労働が占める部分が大きい。
経済を活性化する為に常に有効な手段とは限らない。公共投資が資金供給の手段として有効か否かは、前提条件によって変わるのである。

財政は、現在の経済を構成する部門の一つである。財政は、財政単独で成り立っているわけではなく。他の部門との相互作用によって成り立っている。

個々の部門に各々固有の役割がある。財政にも財政固有の役割と役割に基づく働きがある。
家計は、主として消費と労働力の供給を担い、企業は、生産の雇用を担い、海外部門は、世界市場との交易、通貨の評価を担い、財政は、社会資本の構築と分配の構成を担っている。

財政の基盤は、国家機能に基づいている。つまり、国家の固有の働きを実現する手段として財政はある。その為に、国家固有の働きによって財政は規制されている。家計や民間企業、海外部門に各々役割があるように、財政にも役割があり、それが財政の働きを性格の基礎となっている。もう一つ、財政の性格を制約しているのが財政の在り方である。この三点から財政の働きの性格は、作られている。

財政の働きは、財政の役割に基づいていなければならない。

国家固有の働きは、国家の独立と主権にかかわる働きである。国家の独立と主権は、主権者の権利と義務に基づいている。
国家の独立と主権は、主権者が守らなければならない。国家の独立と主権を自分の力で守れない者、守ろうとしない者は主権者にはなれない。
国家の主権、主権者の権利と義務は、権力と権威、体制によって守られている。故に、財政第一の働きは、権力、権威、体制を維持する為の費用である。

自国の独立と主権を他国に委ねている国は、独立国としては認められない。自国の独立と主権を他国に委ねている国は、植民地か、衛星国である。つまり属国である。その国の主権者の権利と義務は保障されない。当然、その国の通貨も正式には通用しない。

戦後の日本人は、反体制、反権威、反権力、非暴力を前提としてこの世界が成り立っているように、教え込まれ、かつ、信じているようだが、主権者が反権力、反権威、反体制と言うのは、自己否定に過ぎない。自分の国、自分の家族、自分の生命財産は、自分の力で守る事が大前提なのである。
誰も守ろうとしない国は、守り切れない。自分の幸せは、自分の力で守る事である。国家の安全も治安も守られている時は平和でいられる。国家の安全や治安が守れなければ平和ではいられない。平和は力づくで守るものである。
自分の力で守れない自由は、家畜の自由でしかない。独立と主権を委ねた者の意志によっていかようにでもなる。その様な自由は真の自由ではない。隷属する者に自由はない。

第二に、財政の役割は、主権者の生活が成り立つようにする事である。国民国家の主権者は国民である。故に、全ての国民の生活が永続的に成り立つような体制仕組みを構築維持するのが財政の役割である。
現在の国民生活は貨幣制度の上に成り立っている。故に、貨幣の信用と供給を保障するのも財政の役割である。また、貨幣を市場に循環、制御、管理するのも財政の役割である。
また、国民の生活を成り立たせるためには、生産財を適切に、遍く分配しなければならない。国家の隅々にまで国民が必要とする資源を供給できる環境、状態を維持するのも財政の役割一つである。
市場を動かしいるのは、資金と資源の流れである。この様な流れは、資金の過不足によって起こされる。資金の流れを生み出すのは、差であるが、格差が広がると貨幣の流れ、ひいては、資源の配分に偏りが生じ、資金の流れが円滑にできなくなる。資金が円滑に縦貫するような仕組みづくり、環境を整備するのも財政の重要な役割である。

財政の働きには、第一に、所得の再分配(分配の平準化)。第二に、公共投資(国家の基盤整備、防災等)。第三に、景気対策。第四に、行政費用の支出(行政機能の発揮)。第五に、金融機能。第六に、建国の理念、国家目的の実現(国防、教育、福祉、防災、都市計画等)がある。

財政の働きとして、所得の再配分、公共事業、景気対策の三つがあげられる。しかし、現実には、これら三つの働きに明確な区分がされているわけではない。特に、景気対策としての働きを公共投資に求めすぎる傾向がある。
所得の再配分、公共事業、景気対策は、分けて考える必要がある。なぜならば基盤となる理念や構造が違うからである。

所得の再配分は、所得格差の是正が主とした役割である。経済の働きは、必要な資源を調達、あるいは生産してそれを国民一人ひとりに遍く必要に応じて分配する事にある。格差が広がりすぎると経済が機能しなくなる恐れがある。それ故に、所得格差を是正する役割を財政は期待されている。
所得の再配分には、直接的手段と間接的手段がある。直接的手段には、給付や税があり、間接的手段には、公共投資等がある。
また、再配分には、空間的再配分と時間的再配分がある。空間的再配分とは、地理的な格差を是正するための手段である。地方交付金等が用いられる。

一般に所得の再配分は、税や給付のような直接的手段を指す場合が多い。

税は、資金移動の手段の一つである。税は、家計から財政へ資金を移動するための手段である。
税は、市場売買にとらわれず必要と思われる場所から必要に応じて資金を調達し、移動する事が可能である。
格差が拡大する事は、資金の流動性を悪化させ、生活する為に必要な資金を得る事が出来ない層を生み出し拡大する危険性を生じさせる。
それは、社会不安を増幅させ国家体制を根底から覆しかねない大事なのである。

所得の再配分、公共事業、景気対策の他に、あまり触れられることはないが金融の働きがある。金融の働きとは、市場への資金の供給、信用の創出、通貨価値の維持、資金の融通などである。

財政の金融的な働きに関しては、国債ばかりが取り上げられるが借款もある。日本は、巨額の資金を多くの国に貸し付けている。
資金移動と言う観点からしても資金の借入ばかりを問題にせず、貸付も扱うべきなのである。
国家は、国家目的によって資金の過不足を是正する事が可能である。また、金利も民間の金融機関のように営利に囚われる必要はない。民間の金融機関が営利を目的としているために限界がある。その限界を補うように民間企業が貸せないような対象に対して資金を供給するのも、財政の重要な役割のはずである。

財政は、所得を広く配分する役割もある。それが失業対策である。所得を広く配分する為に、仕事を作り出す必要もある。しかし、失業対策だけを目的とした事業は、かえって資金の効率を低下させる。明確に展望、国家計画に基づいて雇用を生み出す必要がある。

公共事業や金融政策、福祉政策等が大きな資金移動を引き起こす事がある。問題は、公共事業や金融政策、福祉政策などが明確な理念をもって行われたか否かである。単に景気対策とか、バブル対策と言うだけで無自覚に無意識に行われた政策が収拾のつかない経済的混乱を引き起こす事である。
現代日本人は、為政者が何らかの意志や構想をもって政策を実行する事を嫌う。特に、反体制、反権力主義者は、体制や権力が何らかの意志を持つ事を極端なほど嫌う。しかし、それでは、国は保てないし、社会秩序は失われるのである。

終戦直後に生まれた世代は、戦争を嫌うあまり、いかなる体制も権力も認めようとしない傾向があるが、反体制も体制、反権力もまた権力なのである。体制や権力のどこが悪いのかをしっかり見極めたうえでいかにあるべきかを問うべきなのである。さもなくばやたら社会を混乱させ、人々の生活を台無しにしてしまうだけで終わってしまう。



国土交通省 単位1兆円


財政制度、財政原則の問題点



もう一つ、これは見落とされがちだが、実際は、財政赤字を考える上で忘れてはならない事がある。
それは、財政の制度的な在り方による制約である。財政の役割は、財政の働きを制約する。財政が行政費用を担っているという事から行政の在り方が財政に対して重要な影響を及ぼすのである。
まず第一に、財政は、単年度予算制度に基づいていると言う点。第二に、単年度均衡主義に基づいている。第三に立法主義だとい点にある。第四に現金主義た是という事である。第五に、反対給付のない、誰が受益者か特定できない事業が一般となり、費用対効果の測定が疎かにされやすくなると言う点である。第六に、公益事業は、営利事業ではないという事である。つまり、利益を目的としていない。

これらは財政に深刻な制約を持たせる。まず財政にとって予算が財政的なもの決定的な役割を果たすようになると言う点である。また、財政は、全て事前に法によって定められ、法的な制約を受けるという事である。また、財政的支出は、一定の手続きを経なければならくなりそのために、即時性がなく、柔軟性が失われ、硬直的なものになり易い点である。これらは、深刻な制約を財政の性格に組み込む事となる。

なぜ、収入と支出は予め均衡するように設定しておく事が難しいのか。それは、収入が不確かな物なのに対して、支出が確実だからである。
又、収入が市場の実質的変化を反映し、支出が名目的な要求に基づいているからである。収入は、予測の基づき、支出は計画に基づく。
民間企業では、予算は予算であり、予算に支出上拘束はない。しかし、財政上の支出は、予算に拘束される。故に、支出は固定的なものになる。それに対して収入は景気の動向に左右され不確かで変動的である。支出は確実で固定的なのに対して収入は、不確実で変動的なうえ、単年度均衡主義だから繰越金を基本的に認めない。単年度均衡主義という事は、原則として国の借金を認めない事を意味する。
この事が自己矛盾しているのである。つまり、通貨は、国の借金の基づいて発行されるからである。国が借金をできなくなれば通貨の発行が制約される。これでは財政が資金不足になるのは必然的なのである。
してはならないとされる借金をするから対策が立てられないのである。最初から計画的に借金をすれば資金の過不足は、時間の経過に従って解消される。不確実な歳入を確実なものと仮定して予算を立てる事がそもそも問題なのである。

また、問題や異常な事を認識しても、それから問題を分析し、対策を立て、手続きを踏んで執行するまでにかなりの期間を必要とすると言う点である。その為に、ほとんどの問題が手遅れになるか時期を逸してしまう。また、対策が事前に漏れて効果が薄くなる例をも生じる。臨機応変な対応が取れないのである。
責任者や担当者も自分の仕事と成果、実績とを結びつけにくく達成感や実感、意欲が持ちにくく。無責任な体制に陥り易い。

市場経済を構成する前提は、第一に、経済主体は、予め時間的に均衡するように設定されている。第二に、収入は、分配を公平にする事を前提として設定されている。第三に、収入と支出の主体は、一体である事である。第四に、支出は、収入の範囲内で行われる事である。第五に、市場取引の基本は、税を除いて売買と貸し借りである。第六に、変化に対しては機動的に対応し、評価は結果に基づいて行う。要するのに事後主義だという事である。
この六つの点を前提として市場は成り立っている。逆にいうと市場はこれらの要因から生じる制約も受けている事となる。
そして、財政も市場経済の制約から逃れる事はできない。

財政支出が外部要因である経済の状態に合わせて柔軟に対応できないと財政は破綻する。
そうなると単年度均衡を計るのは難しいという事になる。

予算は一度決められると容易には変更できなくなり、硬直的なものになりやすい。変化に対して即時的な対応が取れない。これほど変化が激しいというのに、機動的な対応ができない仕組みになってしまっている。財政のほとんどは、固定費的な性格を持ち、変動費が少ない。と言うより基本的に変動費はない。一度決められた予算は、余程の事がない限り執行される。状況が変化したり、時代にそぐわない事が明らかなっても変更できなくなる。また、仕事に対するフィードバックがない分、担当者のモチベーションが保てず俗にいうお役所仕事と言う非効率性に繋がる。
これらは、財政赤字の伏線でもある。

この様な硬直的で、即時性がなく、一定の手続きを必要とする財政は、即効性のある施策よりも超長期的な展望、構想に基づいた事業を下敷きにし、環境や状況の変化に対しては、予算に幅を持たせることで対応せざるを得なくなる。逆に環境が激しく変化する様な事態には、民間企業によって対応しなければならなくなるのである。それが民間に赤字負担を背負わせて財政は、極力単年度均衡、即ち、黒字か、悪くてもゼロに均衡させるという考え方に陥る原因なのである。

通貨の安定は、世界市場の均衡の問題であって主として経常収支、為替に収斂する。それに対して、物価と所得は、国内市場の均衡の問題である。

また、財政が単年度均衡主義をとっている事も財政を機動的に活動する事を阻害している。
財政が単年度均衡主義をとるためには、他の部門も同様に単年度均衡主義を採用するか、交互に赤字、黒字を繰り返さないかぎり債務、債権関係は解消する事が出来ずに貸借上に残高が積み上がっていく。積み上がった残高は、時間価値を圧迫し、働きを弱めていく。
全ての部門が単年度均衡主義をとった場合、長期的資金が働かなくなる事を意味する。そのような事をしたら経済は活力を失って衰弱してしまう。
元来、公共投資と言うのは、長期的資金の働きによらなければならないし事業である。財政そのものが単年度均衡主義にそぐわないのである。
国家百年の計と言われるように国家的事業は、超長期的事業である。それ故に、単年度均衡主義とっている限り、財政を長期的に均衡させることは不可能なのである。
また、単年度均衡主義は、歳出を硬直化させるために、機動的な財政出動も阻害する。計画的な景気対策、臨機応変な景気対策を講じる事が出来なくなるのである。

バブル崩壊後、財政を均衡化させるためには、積み上がった家計の貯蓄を取り崩しながら企業を不良債権を段階的に清算して、地価の急激な下落を防ぎつつ、規制を見直して市場の競争が過熱しないようにしてバブルで荒廃した市場を養生して企業の収益力を回復させる事だったのである。
しかし、実際にとられた施策は真逆な事だった。それが空白の十年、二十年と言われる今日の日本の状況を生み出したのである。適切な処置がとられていれば財政の負担はかなり軽減されていたはずである。また、部門間の歪が是正されなければ財政の根本的な解決はできない。故に、単年度均衡主義の問題は財政の根幹にかかわる問題の一つだと言えるのである。

プラザ合意、オイルショックは、経済が成熟化し、成長力が低下した時に襲ってきた。その時に、本来、経済構造の変換をすべきだったのである。その根本は、成長から成熟への変化に対する転換でなければならず。拡大均衡型から、縮小均衡型へ、量から質へ転換だったはずなのが、金融市場の拡大によって見せかけの拡大均衡策をとった事が原因なのである。そのような見せかけの成長策がバブルを引き起こしたのである。そして、今でも量の追及を計っている。それは同じ過ちを繰り返す事になる。

今日財政を健全化するためには、家計に積み上がった債権、貯蓄を取り崩して他の部門に配分する必要がある。家計の貯蓄を取り崩す手段としては、税、投資、そして、過去の債務の清算、物価上昇策等が考えられる。
家計の貯蓄を取り崩す事には、かなりの抵抗が予想される。容易な事ではない。しかし、財政が破綻し、あるいは経済が混乱すれば外的圧力によって暴力的、強圧的に行われる事になる。それは破滅的結果を招きかねない。予測不可能な事態なのである。
抵抗や負荷が少ない手段を主体的にとることが最善の施策である。

なぜ、資金を取り崩す事を渋るのか。それは老後やいざという時の出費に不安があるからである。国や、社会、家族を信じる事が出来ると思えば、喜んで自分のために「お金」を供出する。税や物価上昇などを当てにして国民が安心して生活できる環境を作ろうとする努力を怠れば、結局、家計の黒字は解消されずにその分、他の部門が資金不足に陥るのである。自業自得と言えば自業自得である。



赤字は、部門間の歪が原因



財政赤字は、資金の過不足の偏りや歪が原因で起こる。

資金の過不足の偏りや歪が生まれるのは、それなりの原因や理由がある。
経済は、無数の経済主体からなり、経済主体は、幾つかの部門に分類される。主たる部門は、家計、民間企業、財政、海外部門に集約できる。
家計は、消費と労働力の提供を司り、民間企業は、生産と雇用を司り、財政は、所得の再分配や社会資本の形成を司り、海外部門は、交易と為替の安定を司っている。
そして、これらの部門の働きの裏で、金融が資金の過不足を調整しているのである。
国内の市場取引、売買取引の総和は、ゼロ和であり、また、世界市場の売買取引の総和は、ゼロ和である。
注意しなければならないのは、売買取引と損益取引とは違うという事である。
また売買取引の総和も貸借・資本取引の総和もゼロ和である。単位期間内における資金の過不足と貸借の増減の総和は等しい。
資金の過不足の残高は、貸借に債権と債務として蓄積される。蓄積された債権と債務は、時間価値に反映して単位期間の現金収支に作用する。

そして、貸借取引と資本取引は、市場の下部構造を構築する。
海外部門は、世界市場と国内市場とを接続し、世界市場の資金の過不足と資源の配分を調節する。その為に、世界市場は、売買取引、貸借資本取引の総和はゼロ和であり。単位期間内の資金の過不足と貸借・資本取引の総量の和は一致、即ち、ゼロ和に設定されている。
世界市場と国内市場は、水平方向に、実物市場と資本市場は縦方向に働いている。

資金の過不足は、部門間の資金の過不足に集約できる。
財政赤字を引き起こす部門の組み合わせには、七通りある。同様に財政黒字になる組み合わせも七通りある。
家計、民間企業、海外部門、全てが黒字になる場合の数が一通り、家計、民間企業、海外部門のいずれか二つが黒字になる形が三通り、家計、民間企業、海外部門のいずれか一つが黒字になる形が三通りである。

資金の過不足の形の裏で、部門間の貸借、資本取引が、実物市場の裏側で働いて資金の過不足を調節している。
資金の過不足に従って金融市場は形作られるために、単位期間内における部門の貸借・資本の型は、資金の過不足の型と対称型になる。

赤字が部門間の資金の過不足の歪から生じるとしたら、個々の部門が赤字か、黒字かが問題なのではない事がわかる。
赤字や黒字が、一過性のものなのか、慢性的なものなのか、赤字が継続的な事だとしたら、どれくらいの期間なのか。
黒字や赤字の幅、総量、水準(平均値等)、分散である。赤字か、黒字かの問題以前に、赤字や黒字の幅、総量の方が重要である場合が多い。
なぜならば、黒字主体から赤字主体への転換期には、全体の幅が縮小し、それが市場を縮小均衡型にしてしまう危険性があるからである。かといって急激な変化は、市場そのものを破壊する危険性がある。

例えば、我が国では、リーマンショック前後に市場の収縮がみられる。

赤字国の問題は、黒字国の問題でもある。

経済の段階は、時間的変化に基づき、市場は、拡大均衡と縮小均衡を繰り返す事によって資金を循環させている。
個々の部門の赤字か黒字かは、一局面、位相を現すので普遍的・絶対的な事柄ではない。相対的な問題である。
そして、時間的変化、空間的組み合わせによって債権や債務を解消するようにしないと金融市場・資本市場は際限なく増殖し続ける事になる。債権、債務は、資金の総量を決めるから。金融市場。資本市場の増殖を止められなくなる事は、資金の供給量を抑制できなくなる事を意味する。

また、資金移動には波がある。資金移動の波を正しく理解し、調整する事で資金の過不足を制御する事が出来る。資金移動の波は、制御できなくなると市場を破壊する危険性がある。

財政赤字だからと言って歳出を削減すればいいというのは、短絡的すぎる。
歳出を削減して黒字になったとしても国家の経済構造に致命的な瑕疵を作ったら元も子もない。
問題は、財政を赤字にしている背景の構造である。
どの部門をどの様に変える事が最も効果的で、効率的か、また、現実的で速いかを明らかにする事である。

資金の過不足は、時間的、空間的に解消されるようにしなければならない。貸借上に蓄積された債権や債務は、時間価値を抑制するようになり、資金の流れを阻害する。また、社会の格差を拡大して硬直化させ、階級化、階層化の原因となる。階級化や階層化が昂進すると社会の分裂を引き起こす。

部門間の均衡がとれなくなると本来、実物市場の裏側で作用すべきな金融市場が表面に現れてきて、資金の正常な流れを圧迫、阻害するようになる。過剰になると市場が正常に機能しなくなり、最悪の場合、経済体制や市場が破壊される。

日本は、高度成長時代、企業が資金不足主体となって経済を牽引し、その分、家計や財政、経常収支が黒字化していた。それが、経済が成熟化し円高になるに伴って企業の資金需要が弱まり、財政が資金不足主体を引き受けるようになってきたのである。増税によって財政の資金不足を補う事は、家計から財政へ資金を移動する事を意味する。また、公営企業の民営化は、負債を財政から民間企業へ転換する事を意味する。単純に公共事業は、非効率で、民間企業は、効率的だから民営化すると考えるのは、短絡的である。
公共投資も直接投資か。間接投資かによって資金の過不足に違いが生じる。

どの様な構想、展望をもって、どの様に構造を変えるかを、明確にせずに、単純に経費を削減すればいい、民営化してしまえというのは、乱暴な話である。

社会保障制度と言うのは、家計の負担、金銭的なものも含め、行政、即ち、財政に転嫁する事を意味している。また、年金なども一部は民間企業から財政へ転換する部分を含んでいる。

逆に財政が破綻すれば、社会保障や社会保険、年金制度も破綻する。社会保障や、社会保険、年金制度が破綻すれば必然的に社会保障や社会保険、年金制度にかかっていた費用が、家計へと転移される。財政を破綻させずに、社会保障や社会保険、年金制度を維持したいと思えば、増税、保険料の値上げ、年金の支給額の削減、受益者負担の増額などをしなければならなくなる。これは、家計から財政への資金移動である。
基本的にどの部門が負担するかの問題なのである。そして、負担する部門によって質的な変化が生じる。
公共部門が担えば、公共性や公平性、均一性が優先される。民間が担う事になれば、格差が生じ、多様性や個性、特異性が求められるようになる。

もう一つ重要になるのは、家計へ負担が増加する事は、家計を担う個人の倫理性が問われる事となる。公的な部分に個人的な部分を委ねると個としての特異性が削がれる結果を招くことがある。高齢者や介護が財政では、制度や設備の問題に特化し、人としての倫理とか、道徳と言う側面が削がれるようにである。公が優先するか、私が優先されるかそれはどの部門に重きを置くかによって違ってくる。
大家族制に基づく体制では、現在、高齢者の面倒や介護と言った部分を家族、家計が主として担ってきた。社会保障制度の充実は、実際は、家計の負担を財政に移す事を意味しているのである。必然的に増税の様な歳入を増やす事を考えないと家計と財政の均衡が保てなくなる。問題はその手段である。

家計から財政へ資金を移動するにしても、消費を活発化する事で資金移動を促す策と、財政の穴埋めとして家計から財政へ資金を移動するのとでは、実際の施策も効果も違ってくる。

ハイパーインフレーションは、国債に対して増税と同じ効果があると言われるのは、物価上昇によって税収が上昇するのに対して名目的価値である国債の額面は変わらないから相対的に国債の負担を軽くする反面、物価上昇は、家計の支出を増やす。つまり、物価上昇は、家計の支出水中を高め、その対極として税収を増やす事で、家計の資金を財政に移動する効果があるのである。その意味で大幅な物価上昇は、増税と同じ効果が期待されるのである。

資産価値の上昇は、同時に債務の増殖を意味する。債務の増大は、資金の流動性を圧迫する。バブル経済によって一時的に財政の資金不足は解消したがバブル崩壊後の長期停滞を招いた原因だともいえる。余剰資金が生じた時、その資金をどの部分に回すかによって将来の経済は定まる。
目先の利益に目が眩んで、投機的な部分に資金を回せば市場は賭場と変わらなくなる。少子高齢化が叫ばれているというのに、地価の高騰を当てにして、不動産投資を煽れば、バブルの二の舞になる事は必定である。この国にとって何に投資をすべきなのか。それを見極める事が肝心なはずである。
金融とは、資金が不足しているところに余剰な資金を融通する事なのである。だからこそ、国家構想が下敷きである必要がある。
一体何を目的として、どの様な効果を期待しているかによって採るべき施策は違ってくるのである。
軍に資金を投資すれば軍が、産業に金を回せば産業が、土地に資金を回せば土地が、教育に金を回せば人が、育つのである。
財政を立て直す事以前に何に資金を回すかが未来への鍵を握っているのである。

急激な資産価値の下落があった時に、1991年のバブル崩壊時にとられたような厳格な担保主義は、産業の息の根を止めてしまう危険性がある。資金調達の道を閉ざしてしまうからである。含み益を資金源に投資をしてきた体制は、含み益を失ったとたん流動性が失われてしまう。バブルのような急激に資産が下落した場合は、収益性に基づいた融資基準に切り替える必要がある。景気回復期における引き締め策は、景気回復の足を挫き、景気回復の芽を摘んでしまう危険性がある。
問題は、長期短期の資金の働きを精緻に監視する事なのである。

明確な展望や意図があってとられた政策ではなく、ただ、状況の変化や環境の変化に対処しただけで何の意図も感じられない、無自覚な政策程始末の悪いものはない。なぜなら、想定外の事象に対処したり、政策の結果起きた事態を制御する事が出来ないからである。ただ規制を緩和し、不良債権を処理すれば改善すると根拠なく思いこんだ結果、経済を抜き差しならない淵に追いやってしまっても何の罪悪感も持たないのである。肝心なのは、百先、二百年先を見通した国家構想である。

資金は、必要なところに必要なだけ流れればいいのである。不足するのも問題だが、必要以上に供給されても資金効率を低下させるだけであり、いずれは、物価によって調節されてしまうのである。
現代の経済は、基本的に貨幣的現象だと言っていい。つまり、貨幣が引き起こしているのである。故に、貨幣の過不足は、決定的な要因となる。

ただし、第一次体制後に起こったハイパーインフレーションは、貨幣的要因だけで起こったわけではない。貨幣の動きの背後で物や人の経済が作用している。


双子の赤字



1980年代、アメリカは、経常収支、財政収支いずれも赤字だという状態に陥った。一般に、経常収支と財政収支が両方とも赤字の状態を双子の赤字という。双子の赤字という表現は、一般にあまりいい意味では捉えられていない。それは、赤字は悪い。経常収支と財政収支、両方とも悪いから深刻だと短絡的にとらえているのに過ぎない。
基本的に市場全体で取引される経済の総量の和は、ゼロ、すなわちゼロ和なのである。経常収支、財政収支が赤字であるならば、家計と民間企業いずれかの部門は黒字なのである。
故に、赤字が問題なのではなく、赤字の原因や全体との均衡が問題となるのである。

まず重要なのは、国内で資金は足りているかである。家計、民間企業が黒字で財政と均衡していれば、資金は、足りているから、海外から資金を調達する必要はない。1980年代のアメリカが問題なのは、家計や民間企業の黒字幅が財政の資金不足を補いきれずそれを海外から調達せざるを得なかったと言う点である。つまり、資金不足の状態だったと言う点にある。単純に経常収支も財政収支も赤字だから大変だという訳ではない。

財政が赤字になると資金需要が増加する。その時、国内に資金需要を満たすだけの資金がなければ金利が上昇し、国内の民間部門、家計や企業の資金需要を抑制する。この時、海外からの資金流入がなければ、資金不足と金利上昇によって不景気に陥る。ただ、海外の投資家から見ると深刻な政情不安や災害などがなく経済基盤に問題がなければ金利の上昇は魅力的だから、資金不足の国に資金は流入する。
1980年代、アメリカは、財政赤字が高金利をもたらし、高金利に惹きつけられた海外資金がドル高をもたらし、ドル高が国内の製造業の競争力を奪い、経常収支の赤字をもたらすという悪循環に陥っていたと考えられる。
当時のアメリカは、民間部門に十分な資金が蓄えられておらず、政府部門の資金需要を賄いきれなかったことが原因だと考えられる。(「国債リスク」 森田長太郎 東洋経済)

双子の赤字と言うのは、アメリカが宿痾のように言われ続けてきた事柄でもある。アメリカが、双子の赤字に陥るのには、原因がある。
財政収支と経常収支がともに赤字の状態を指す。なぜ、財政収支と経常収支が赤字になるのか。そこには、アメリカの持つ根本的な経済構造がある。

第一に、アメリカは、基軸通貨国だと言う点である。第二に、軍事大国だと言う点である。この二点は、双子の赤字を考えていく上で外せない事である。それは、アメリカが国際社会の中で果たしている役割が影響している。

基軸通貨国であるアメリカは、決済資金であるドルを世界市場に供給し続けなければならない。この負担は、アメリカの財政に少なからず影響を及ぼしている。なぜならば、巨額の資金移動をしつづけなければならないからである。また、ドル市場が自国外に形成される事をも意味する。それは資本取引の影響が増大する事にもなる。

双子の赤字という事は、広義でいえば、財政、海外以外の部門、即ち、家計か、民間企業のいずれか一つ、あるいは、双方ともが黒字だという事を意味する。それが成り立たないとしたら、もう一つ考えられるのは、金融収支。資本収支が黒字だという事である。
アメリカは基軸通貨国で、軍事大国という事は、アメリカの経済構造を歪める最大の原因である。
本来ならば、海外部門と財政が資金不足だとしたら、他の部門である家計か民間企業がこの資金不足を補う形でなければならない。ところが必ずしもそのような形にはならないで、歪みをそのまんま引き摺っていて、その歪みを金融収支、資本収支で糊塗している。
この状態は、日本の財政赤字とは違った意味で深刻な事態を引き起こしつつある。

経済を構成する部門がどのような関係にあるのかは、一様ではない。
個々の経済主体の在り様は、他の部門との力関係によって決まる。この点を理解せずに闇雲に赤字を解消しようとしてもいい結果は得られないし、赤字を黒字に変えるという目的を達成できたとしても、経済全体を良好な状態にできるとは限らない。
元々黒字や赤字にするのは、構造的な問題であって、対症療法的な対策では、一時的な回復に終わってしまう事が多い。
なぜ、財政赤字は良くないのか、どこをどの様にすれば赤字を黒字に転換するのかその機構を明らかにして対策を立てる必要がある。
その典型がアメリカの双子の赤字である。

日本が財政赤字に悩んでいるのに対して、アメリカは、財政収支、経常収支の赤字に悩まされている。
日本の財政赤字は、家計の黒字が大きいうえに、民間企業の黒字化が大きく作用している。民間企業が更に黒字化し、家計の黒字幅が縮小しないと海外部門、即ち、経常収支も赤字化し、日本も双子の赤字が生じる事になる。

アメリカの双子の赤字も対極にある部門のどこが黒字なのかを照合して見ないと真の原因は掴めない。
また、経常赤字は、同時に資本黒字を意味する。なぜ、資本黒字が成立するのか、その背景や構造も明らかにしないと双子の赤字の原因も理解できず対策も立てられない。

国内市場における貯蓄と投資の取引量の総和はゼロ和均衡する。財政赤字は政府部門の貯蓄不足を意味する。経常赤字は、その裏返しに資本収支の黒字がある。これは海外部門の貯蓄超過を意味する。
政府部門の貯蓄不足が、民間部門である企業と家計の貯蓄超過によって十分に穴埋めできていない場合、海外部門は貯蓄超過になる。つまり経常収支は赤字になる。それが「双子の赤字」なのである。

1990年代には、英国も双子の赤字である。インドネシアも2011年から双子の赤字になった。

双子の赤字の原因は、同じ国でも環境や時代が違えば構造も働きも違うし、国が違えば構造や働きが違う。

80年代の双子の赤字の原因は当時のアメリカ大統領のレーガンが行った「レーガノミックス」によるものだと考えられている。レーガノミクスは、サプライサイドを重視した政策を意味する。
レーガン大統領の政策は、歳出削減、大幅減税、規制緩和によって 「小さな政府」 を指向し、その反面、軍備拡張によって財政拡大策によって供給量を増やして長期停滞のアメリカ経済を立て直すというものであった。
しかし、社会保障費の削減などが思うような効果を上げられないで減税による収入の減少によって財政赤字になったが、同時に、金融面では金利は高騰し、ドル買いが行われて経常収支は大幅な赤字に陥り、貿易面でもドル高になり、輸入が増えたため経常収支はさらに赤字になったのである。
その影響で、日本は円安で大幅な経常黒字になったと言われる。そして、この黒字が日本の後、プラザ合意の伏線となり、プラザ合意後の円高不況が引き金になってバブルを招いたと言える。

1987年のブラックマンディは、双子の赤字が背景となって引き起こされたとも言われている。

現在の日本の問題は、資金不足ではなく。金余りである。そして、金余りを引き起こしているのは、民間部門の資金需要が弱い事による。(「国債リスク」 森田長太郎 東洋経済)
ただ、金余りだから大丈夫だと考えるのは、短絡的である。金余りなのに、有望な貸出先が見つからないという状態が問題なのである。
民間の資金需要を弱くしているのは、バブル崩壊後の政策と経済状況の変化である。
バブル崩壊後地価が下落し、その結果、民間の資金調達力が喪失し、収益力が低下しているという状態が深刻なのである。

前提条件の変化


財政政策を考える場合、前提条件の変化は、必ず考慮しなければならない。
高度成長時代と低成長時代の今日とでは前提条件が違う。
それは、公共投資などの効果にも決定的な差を生じさせる。

重要なのは、消費の質が変化してきた事である。高度成長時代と今日では、生活水準に大きな差があり、消費の質も変化してきている。
雇用も正規採用、年功序列型から非正規採用実力主義へと変化してきている。

投資には、公共投資、民間投資があるが、それぞれの効用も変化してきている。この様な市場の性質や構造の変化は、自ずと財政の性質や構造に影響を及ぼす事となる。
この様な前提条件の変化こそ財政を考えていくうえで決定的な要因となる。

公共投資の効用も前提条件である状況が変化すれば大きい違いが出る。
終戦直後の日本の公共投資と高度成長が終わった後の公共投資とでは、自ずと効用が違う。根本の本質が同じではないからである。

日本は、敗戦後、焼け野原から日本を再建してきた。その意味では、ゼロからの再出発である。
東京オリンピックー後の不況に際し、景気を刺激する目的で1965年に赤字国債が発行された。
ゼロからの出発だったから、日本各地で新幹線、高速道路と建設ラッシュが続き、高度成長期は、赤字国債を発行しなくても、持続的な経済成長を維持できた。
また、その日の生活、食べる物にも事欠いた時代であったから国民の旺盛な消費意欲に支えられて民間企業も力強く成長していった。併せて戦後の技術革新、家電、自動車産業が経済成長を促進した。

為替は、開戦時に「1ドル=4円」だった円相場も終戦後1949年に固定相場で「1ドル=360円」に定められた。
1971年のニクソンショック以降は、ずっと円高傾向で1995年や2011年には、「1ドル=80円」を切る勢いだった。

社会インフラストラクチャーが確立されていないで、生活基盤が脆弱だった時は、公共投資が絶大な力を発揮した。
しかし、市場が成熟してきた今日、公共投資の効果は限定的なものになっていきている。それ故に、投資の効果を十分に見極めたうえで次世代の経済基盤に対する投資を行う必要があるのである。

住宅で見てみると1960年代は、雨露を凌げればいいという状態であった。それから、公団住宅や団地なのど、ある一定の生活が保障できる住宅を大量に供給する時代になる。それから持ち家政策がとられ、住宅ローンが花盛りとなる。そして、バブル時代へと突入するのである。
問題なのは、生活水準の向上に伴って住環境の質的向上が計られてきたかである。
バブル崩壊後結局量の時代へ逆行しているように思われる。
量から質への転換は、国家構想や都市計画のようなものを下敷きにする必要がある。しかし、今日の住宅は、明確な都市計画もないままに成り行きに任されているように思える。

その結果、東京に対する一極集中が進み。少子高齢化によって地域社会の荒廃が進む結果を招いている。
環境問題や資源問題、温暖化対策などを鑑みると次の時代に対する明確な構想を行政は、国民に示す必要がある。

意図して東京に集中するというのならまだしも、意図せずに東京に集中する、意図に反して東京に集中するという状態が悪いのである。
重要なのは、為政者の意志である。意志が明瞭であれば、国民は、自分の考えに合わせ政治家を選ぶ事が出来る。

部門間の資金の流れ、やり繰りを考える場合、その背後にある部門の前提条件の変化や経済のあるべき姿を思い描く必要がある。


財政と期間損益


財政をわかりにくくしている一因は、財政が現金主義に則っているという事である。
その為に、第一に、市場経済との整合性がつけにくいという事がある。第二点目に、長期資金の働きと短期資金の働きが区分しにくい点がある。

もう一つ、財政を赤字にする原因に、制度上の問題がある。つまり、単年度均衡主義と予算制度である。これらの制度によって財政は、硬直的にならざる得ない。その為に、経済環境の変化に適応しにくい性格を財政は持っている事を留意しておく必要がある。

民間企業が期間損益を導入したのは、現金主義だけでは、資金の働きを解析する事が不可能だからである。
現金主義と言うのは、収入と支出と残高が問題になり、残高がある限り成り立っているが、残高が不足したら、破綻してしまう考え方である。水面下にある借金がどれくらいあるかは、破綻しないとわからない。サラリーマン金融で生活を破綻する者は、借金がどれくらいあるのかもわかっていない者が多い。月々の支払いが滞らなくならない限り、資金繰りに窮しない限り、経済実態ははたから見とわからないのである。
今日の財政が置かれているのが、そういう状態である。財政は、破綻しない限り、真の実態はわからないのである。

それに対して、期間損益では単位期間内における資金の働きを損益と貸借に分けて表に表すようにする仕組みである。そして、利益によって経営状態がわかるようにしている。負債が大きくても収益と費用が均衡していれば利益を計上する事が出来る。利益は、経営状態を測る指標、いわば体温計のようなものである。

市場経済には、表に現れる部分と裏で働いている部分がある。表に現れるのは、売買取引を基礎とした短期的資金の働きで、損益として現れる。裏で働いているのは、貸借取引や資本取引を基礎とした長期的資金の働きで貸借上で処理をしている。
経済主体には、この表に現れる部分と裏で働く部分の二つの働きが同時に作用していて、この二つの働きを均衡させることによって経済主体は維持されている。

財政でいえば、国債は負債であり長期的資金の働きを示す。税収は、収益で短期的資金の働きを表している。問題は、国債による収入と国債の償還であるが、これは、貸借取引であり、期間損益では、損益上に表されない。この区分が財政では明確にされていない。税収と国債の借り換え資金を比較しても期間損益では意味をなさないのである。

期間損益では、歳入から国債による収入を引いた部分と歳出は、国債の借り換えや償還による支出を除いた部分を比較する事で、費用対効果を測定しているのである。

プライマリーバランスという概念があるが、プライマリーバランスと期間損益とは、基本的な考え方が違う。期間損益と言うのは、費用対効果を収益を基本として測定するための手段であるが、プライマリーバランスは、現金しゅきほに則った概念であり、国債の増減を測る為の基準である。

プライマリーバランスを表す式は、(歳入-公債金)-(歳出-国債費)である。

プライマリーバランスを一つの目安にするのはいいが、プライマリーバランスを目標とするのは、危険である。なぜならば、プライマリーバランスは、資金の働きを表す指標でも経営状態を表す指標でもないからである。単に、借金を均衡させるための指標に過ぎない。


統計局

負債が増える事ばかりを問題にするとかえって硬直的な施策しか取れなくなる。
期間損益と言うのは、売買取引によって生じる短期的な資金の流れと貸借取引によって生じる長期的な資金の流れを区分して経営状態を明らかにする事を目的とした手段なのである。
負債の多寡ばかりを問題にしているわけではない。

部門間の働きを分析する時、表面に現れた短期的資金の働きだけでは、実体を解明する事はできない。売買取引の根底には、貸借取引、資本取引が隠されており、その均衡を測らなければ、部門の働きを理解する事はできない。

世界市場で経済の根本を糺そうとするならば、共通の尺度を用いる必要がある。それが貨幣である。

飛行機の高度を上げる事は善か悪かを論議することは愚かである。飛行機を上昇させるすべきか、下降させるべきかは、飛行機の目的地は何処で、今どこを、どの高度で飛んでいるか。又、天候や他の飛行機の位置などによって決まるのである。速度や方向も同様である。
ただ言えることは、飛行機は上昇し続ける事も下降し続ける事もできないという事である。なぜならば、飛行機が飛行できる範囲は有限だからである。財政も同じである。為政者の重要な仕事は、財政赤字が是可否かを論じることではなく。財政の働きの限界点を明らかにする事なのである。

高度の値は、尺度によって違ってくる。メートルとフィートでは同じ高さでも値は違うのである。況んや貨幣価値は相対的価値である。
同じ尺度で測らない限り、自分がどこにいるのかもわからなくなる。
ところが往々にして財政の状態を違う尺度で測って比較対照している事がある。

世界は、戦争に向かって飛行しているのか、平和に向かって飛行しているのかそれが問題なのである。
平和を望むのならば、平和な状態をいかにして持続させるかを考えるべきなのである。

財政問題を解決するためには、自分が今、どこに向かっていて、どこにいて、どの様な状態にいるのかを明確に知る必要がある。
同じ尺度で考える必要がある。

財政をよくするためには、また、市場経済との整合性をとるためには、期間損益主義を導入する必要がある。



資金運用には内部資金と外部資金がある



設備投資のように資金運用する際の資金には、内部資金と外部資金がある。
内部資金というのは、手持ちの資金の中で運用をする事を意味し、外部資金というのは、借入のような外部から資金を調達することを言う。内部資金の主たるものは、減価償却費と利益を貯蓄したものである。
投資を内部資金に依存していたら、過去の蓄積を取り崩しているにすぎず、所得を増やす事にはならない。個々の企業の財務体質は見かけ上よくなったとしても景気全体が良くなるとは限らないのである。仮に、財政赤字が悪いとするならば、かえって民間企業の黒字は、財政を悪化させることにもなりかねないのである。

民間部門は黒字化されても支出が削減されるから全体として所得は減少するのである。だから、民間部門が黒字になったからと言って景気がいいと思うのは早計である。黒字が是で、赤字は否だと言った短絡的な発想では、経済の動きを理解する事はできない。
正と負の間を緩やかに振幅をさせるように仕向けることが経済を安定させることなのである。

日本の財政赤字の根本原因のひとつは、民間企業が外部から資金調達をしなくなったことによる。外部より資金調達をしなくなったというより、できなくなったのである。

しかし、見た目では、民間企業の財務体質がよくなっているように映る。
無借金経営を理想とする者がいるが、無借金経営が示しているは、資金効率が悪いという事を示唆している場合もある。

この様に、財政の赤字は財政だけを見ていても解明できない。
財政を赤字にしている要因に民間企業が資金を外部から調達できなくなったことである。そして、外部から企業が資金を調達できなくなった理由を明らかにして、それを改善しない限り、財政赤字は解消できない。最も財政赤字を赤字だから悪いと決めつけるのも問題である。

財政赤字の原因は、なにで、その財政赤字が何が、何にしたいして問題なのかを明らかにしないで、赤字だから悪いとしていたら、根本的な解決にはならない。

これは家計の黒字にも言える。家計が持つ金融資産の大きさをよく取り上げるが、その大きさが経済に対してどの様に作用しているかを明らかにしている例は少ない。単純に家計は、金融資産を多く持っているからいいと考えがちであるが、その対極に金融機関が負債を積み上げている可能性がある。

活用されていない資金は、かえって経済の負荷をかけたり、インフレーションに原因になったりするのである。資金効率が悪いのである。

バブル崩壊後、拡大均衡から縮小均衡へと転換した。そして、2000年以降は、資金調達が外部調達から内部調達へと変化した。その結果、企業の財務体質は、外見的には大幅に改善しているように見える。しかし、内実は、リストラによって経費を削減し、内部留保を食いつぶしているというのが実態である。それを民間企業は、内部留保を貯め込んで、積極的な投資をしていないと責めるのは、お門違いである。投資がしたくてもできないというのが、実情なのである。それは市場が拡大均衡から縮小均衡へと向かったからである。


なぜ、民間企業は、黒字化したのか


財政が赤字化した、即ち、資金不足主体となった背景としては、民間企業の黒字化、即ち、資金超過主体となった事が上げられ。財政を黒字化する為には、家計か、企業、海外部門のいずれかを赤字にする必要がある。国内に限れば、家計か、企業かのいずれかが赤字にならないと黒字化はできない。財政が赤字化した原因の一つは、企業が資金超過主体になった事があげられる。

民間企業は、2000年以降、資金調達が外部資金調達から内部資金調達へと変換している。それに伴って資金不足主体から資金超過主体へと変質している。2000年以降の財政赤字の背景には、この資金の流れの変化が影響している。

民間企業は、なぜ黒字化したのかと言うと、それは、皮肉な事に企業業績が悪化したからである。
第一、黒字化したと言われても一般に黒字化すると言われても民間企業は、それまで赤字だったのかという疑問を持たれると思う。
その答えは、民間企業は、バブル崩壊後、空白の時代と言われるまでは、資金不足主体、赤字主体だったのである。しかし、多くの企業は、高度成長時代は、増収増益じゃあなかったのかと疑問をもたられ方が多いと思われる。
ここで注意すべきなのは、財政赤字と言った場合の赤字の意味は、資金不足という意味で赤字であって、期間損益上の赤字と言う意味ではないという事である。期間損益上利益が上がっていても資金収支では、資金不足に陥っているという事よくあるのである。むしろ、期間損益は、現金収支上の赤字を解消する手段として発達してきたともいえる。資金不足では、資金調達が円滑にされないのである。
非常に煩わしいのだが、現金収支上の赤字と期間損益上の赤字とは、意味が違うのである。ところが往々にして混同して使われる。
民間企業は、基本的には、現金収支上では、2000年前後まで一貫して赤字主体、期間損益上は、黒字主体だったと言える。
現金収支上の赤字と言うのは、資金不足である事を意味し、損益上の赤字と言うのは、単位期間内における収益より費用が上回っている事を意味する。そして、ある意味で期間損益と言うのは、単位期間における資金不足を説明するための基準だと言ってもいい。

企業が現金収支上、資金不足主体、赤字主体なのは、企業経営と言うのは、常に一定の負債を抱え続ける必要がある事を意味している。それは、資金の流量は、負債によって維持されているからである。無借金経営と言うのは、一見、理想的に見えるが、それは、資金の有効活用がされていないという事をも意味する。設備投資によって一定の期間で更新される資産は、減価償却費によって費用化されるが、土地のように非償却資金は、負債の借り換えや資本と言う形で継承される。その負の部分が一定の資金を市場に還流させているのである。
だから、単純に赤字は悪い、借金は悪い、費用は悪いと決めつけたら、資金の真の働きを理解する事が出来なくなる。

まず、戦後、赤字国債が発行された期間は、三回ある。

赤字国債は、1965年度の補正予算で1年限りという期限付きで短期間発行された。その後は10年間は赤字国債の発行はなかったが、1971年ニクソンショック、73年第一次オイルショックによってマイナス成長になった事を背景として1975年から1989年度まで、そして、1994年度から再び発行され2018年現時点まで継続され国債の発行を止める目処はたっていない。そして、2013年には、異次元の金融緩和によって日本銀行が年間八十兆円の国債を買い増し続けるている。

1965年の赤字国債は、東京オリンピック調後の景気不況策として時限を切って発行され、それなりの効果を上げたとみられている。この時の国債は、短期間だったうえ発行限度額を公債発行対象経費枠内にするという制約があった。

問題は、1975年以降の赤字国債である。1975年以降の背景を見てみるといくつかの共通項が見える。

第一に今日の経済体制は、高度成長時代に形成されたと言う点。第二に、急激な円高が進んだと言う点。第三に、投資が一巡し、市場が飽和状態になり、成長期から成熟期に移行した産業が増えたと言う点。第四に、企業の収益力が低下してと言う点である。そして、第五に、資産価値が乱高下したと言う点、第六に、国債を発行されたのは、景気低迷期で、国債は、景気浮揚策として発行されたと言う点である。

注意すべきなのは、物価の動向、原油価格の動向、為替の変動である。
基本的に考慮しなければならないのは、1975年も1994年も根底に円高による不況があったという事、そして、三回とも不況が引き金になっいていると言う点である。
円高が根底にあったからと言って円安に誘導すればいいというのは短絡的である。円高になるのは、円高になる要因があるのである。それは国際収支の関係から生じるのであり、一国の問題としてとらえていたら解決する事はできない。

民間企業が黒字化したというのは、投資などの長期資金の需要が減退し、単位期間内の現金収支の帳尻があった結果、内部資金調達によって結果的に資金余剰主体に転換してきた事を意味するのである。
ここで重要なのは、経済が成熟した事で、市場が飽和状態に陥り、投資が減退した結果、経済が拡大均衡から縮小均衡へと変換したと言う点である。拡大均衡から、縮小均衡型へと経済が変質した場合、量から質へと市場の在り方を変換していくことが求められる。

問題となるのは、バブルが崩壊した時にとられた策であり、地価の暴騰に対して徹底的な地価の抑制策がとられた。ストックインフレを抑え込むために、厳しい金融緊縮策が講じられた。経済を活性化する為に、規制緩和策がとられた。バブルのつけを解消するために強引な不良債権処理が行われた。雇用の流動性を高めるために、非正規採用に対する規制が緩和された。これらの政策は、個別にみるとそれなりの妥当性があるように見える。しかし、その結果、長期にわたる資産価値の下落が起こり、企業の収益力は落ち、個人消費は冷え込み、新規投資は抑制されたのである。
その結果企業は、外部資金調達が困難になり、資金を内部に求めるようになったのである。それは、金融機関の経営を圧迫し、金融機関の再編を後押ししたのである。これが空白時代を作り出した。木を見て森を見ていない政策の末路である。



歳入と歳出


財政は、国家理念を実現するための手段である。
財政は、経済の僕ではない。根本は国家理念であり、経済対策は、二義的な事である。
根本を忘れたら財政の本旨を守る事はできない。況や財政を立て直す事はできない。
財政赤字が深刻化してから、経済のために、財政があるように錯覚している必が増えた。その証拠に財政論議が国家理念から離れて経済の事ばかりになってしまっている観がある。それは本末転倒である。財政の根本は、国家の目的を実現する事にある。

歳出も歳入も国家理念を実現する目的に沿ってなければならない。
国家理念とは、主権者の意志に基づく。国民国家の主権者は、国民であるから、財政がまず守らなければならないのは、国民の権利と義務である。そして、国民国家の目的は、国民の福利を実現する事になる。

その為に、第一義にあるのは、国防、治安、防災である。
国防、治安、防災を実現するためには、それぞれが何から何を守るのかを明確にする事である。
国防、治安、防災は、主権者の権利と義務から形成される。国防のための国防、治安のための治安、防災のための防災となったら、国防も治安も防災もその本義が失われてしまう。
国防、治安、防災は、国民の生命と財産を守る事を第一義としている。次に国民の権利と義務を守る事である。その為には、国家の独立と主権を守らなければならないのである。そのために、必要な資源と組織を維持するための費用を負担するのは最低限、財政が失効しなければならない事項である。

日本は、戦後長きにわたって平和な状態に置かれてきた。日本が平和な状態に置かれてきたというのは、幸運によってであり、自分の力によって平和を維持してきたわけではない。ただ、幸運によって日本周辺の状態が平和だったというだけである。それでも、平和な状態が半世紀以上続いたため、平和な状態が自然なのだという錯覚を起こしている日本人が多い。その為に、敵を明確に意識する事が出来ない。しかし、国を守るためには、敵を明確に意識してそれに備える必要がある。国防には際限がない。故に、何から何を守るのかを明確に定義しておく必要があるのである。
治安に関していえば、犯罪ありきでは、国民国家の治安の意味は理解できない。何が犯罪かは、法治主義国においては、法によって定義される。法は、正規の手続きによって立法府で定められる。それに基づいて治安の在り方が検討され、予算が組まれる。
防災は、国防と同じくらい重要である。そして、防災は、百年の計をもって実現する。東日本大震災が来るまで、日本人は、驕っていた。油断していたのである。いくら自然科学が進歩してもそれだけで自然災害から国民を守ることはできない。災害からいかに国民を守るかは、こっが第一義に取り組むべき課題である。

公共投資は、国家建設のための投資である。行政費用は、国家理念を実現するための費用である。社会保障は、所得を再分配して、国民の権利と義務を維持する為の費用である。

これらの目的に沿って歳出と歳入は、計られなければならない。
金融政策や景気対策は、国家理念を実現するための遠大な計画の上に建てられなければならない。
先ずどのような国を作るのか、確固たる理念を確立することが先決なのである。

国家建設を進める上で公共投資を遅らせたり、行政費用を増減させ、また、福利政策を加減する事によって景気を制御すべきなのである。

道路を作るのは、景気対策を目的としているのでも、産業を補助する事を目的としているのでもない。
国民の福利を実現するように、生活を向上させ、利便性をよくするために計画的に道路は建設されるべきなのである。
無目的で無原則な公共投資ほど財政にとって有害なものはない。
まず公共投資を採用するにあたっては、どの様な目的で、どの様な効用を狙って、どれくらいの予算で、どの時点で、いつまでに実行するのか。それを明確にし、公開して国民の審判を受ける必要がある。景気対策と言うのは、その上で考えられるべきなのである。
景気対策ありきの財政では、財政の健全性は保てない。
ただ、国家百年の計と言うように、計画的に国家建設をしようとしたら長い年月を必要とし、莫大の費用を賭けなければならない。だからこそ、単年度単年度の予算を加減すれば景気対策の活用する事が可能となるのである。

その為にも、個々の政党は、まず超長期の国家構想を持ち、それを明確にしたうえで、国民の審判を仰がなければならない。
目先の利益だけで公共投資をすれば期待した効果が得られる保証はない。
また、経済対策の基本は、どの部門に、何を、どの程度負担させるかにある。それによってどの部門をどの程度の赤字、あるいは、黒字にするかを案分するかにある。それを調節するのが行政の仕事なのである。
行政が直接動かす事が出来るのが、財政であり、間接的に規制できるのが民間企業である。最終的な目標となるのが消費者である家計である。そこに財政の働きがある。海外部門は、国内経済の水準を定め、金融は、資金の過不足を融通する。この様にした、経済の仕組みは形成されていいくのである。

財政を見る時、オール・オア・ナッシュング的認識では役割の案分ができない。経済の働きは、基本的にゼロ和なのである。資金不足の主体、部門があれば、資金余剰の主体、部門がある。赤字の解消は、どの主体、どの部門と、役割を、どの様にして入れ替えるかの問題なのである。

財政赤字のどこが悪いのかを明確にしておく必要がある。ただ財政赤字は悪い悪いというだけでは、問題の解決にはならない。財政赤字である事によってどの様な弊害が生じるのかを正しく理解しておく必要がある。
財政赤字そのものが悪いわけではない。財政赤字が慢性化すると資金が市場に回らなくなると言う点と、フローとストックの均衡が保てなくなると言う点にある。その結果、物価や、金利、所得などを制御する事が出来なくなるのが問題なのである。

赤字であるか、黒字であるかは、結果である。全体の総和は、その時点その時点ではゼロ和なのである。成長、拡大、縮小、過不足は、時間の関数である。故に、部門間の関係と位置、そして運動量を調節する事が行政の役割になる。
例えば、公共投資のどの部分が財政が担い、どの部分を民間が担い、どの部分を家計が担うかの問題であり、財政赤字はその延長線上にある。

例えば高齢者の世話を誰が見るかである。家族、即ち、家計が負担するのか、介護制度、つまりは、国家財政で負担するのか、民間の介護施設、即ち、民間企業が負担するのかの問題なのである。それは一概に決めつける事はできない。その時の経済情勢、社会情勢、価値観や道徳などの問題でもある。

公共機関、公共事業の民営化は、公共機関の持つ負債を民間部門に付け替える事が目的なのである。確かに、公共機関、公共事業の効率化という目的もあるが、それだけでは、財政赤字の改善にはつながらない。公共機関、公共事業の赤字部分を民間に付け替える事が主目的なのである。なぜ、民営化すると効率化が計れるのか、その辺の絡繰りもよく理解しておく必要がある。
一つは、公共機関の負債を民間に付け替える事、もう一つは、期間損益を導入する事の二点に民営化の目的はある。
財税が赤字かどうかが問題なのではなく、赤字が慢性化する事が問題なのである。慢性化すると負の部分が蓄積され、それに呼応して資産価値が上昇し、時間価値(利益率、金利、物価の上昇率、所得の上昇率等)が圧迫されるようになる。資金の流れに負荷がかかる事によって資金のめぐりが悪くなり、経済を制御する事が困難になるからである。一定の周期で蓄積された負の部分を清算できるような仕組みにしておく必要がある。

また、特定の部門の負債が増大すると資金の流れに偏り、歪みが生じる。それは、社会を分断したり、階級を構成したり、格差を拡大する原因となる。資金の偏りは、不労所得を増大する。それによって社会の生産性、効率も低下させてしまう。それが問題なのである。一部門の赤字だけを問題にしても、解決はできない。財政赤字だけ取り上げて対策を講じてもかえって財政赤字を拡大させてしまう事になりかねない。
タイミングよく、赤字部門と黒字部門を交代させることが肝心なのである。

歳入と歳出を比較する場合、歳入から国債金を除くだけでなく、歳出からも国債費を引いた方が財政の効果を見るのに適している。

  
統計局

バブルは、マイナス面ばかり強調されがちだが、バブルによって新規国債を発行しなくても済むところまで財政が改善された事を忘れている。むしろバブル崩壊後の政策の方がより深刻な事態を引き起こしている。
バブル崩壊後の空白は、バブル潰しの時の荒療治の方が影響していると考えられる。

民間企業の役割、働きに対する誤解がバブル崩壊後の施策の下地になっている可能性がある。


  
統計局


歳出の目的には、大きく分けて行政費用、産業振興費用、社会インフラストラクチャー・防災、所得の再分配、教育、国防・外交等がある。
所得の再分配は、各種の社会保障や地方交付金の様な地域間格差の是正などが含まれる。

  
統計局

国債を除いた歳出の構成がその国の政策を表している。それは根本にある国家理念を具現化する者でもある。
70年代中旬から社会保障費の増加が著しいのが見て取れる。また、バブル崩壊後国土保全費、産業経済費が一時的に増加したのがわかる。
逆にバブルの形成期には、地方財政費が増えていて、バブル崩壊後急速に減少したのがわかる。



また、地方財政費が大きな比重を占めている。財政を黒字化するためには、何を削減すべきかが重要な意味を持つ事になる。その優先順位を決めるのは、将に国家観なのである。

歳出には、裁量的支出と制度的支出がある。裁量的支出と言うのは、決定権者に一定の決定権が与えられている支出であり、制度的支出と言うのは、支出の増減が制度的に組み込まれている支出である。
前者の代表的な支出は、教育費や軍事費である。後者は、年金制度である。

歳出を抑制する場合、前者は即効性があるが後者は、長期的に見ると大きな影響力を持っている。

財政は、税によって成り立っている。



国家財政を支えているのは税金である。
なぜ、税金はなぜ支払わなければ、又、なぜ徴収しなければならないのか。そこが問題なのである。
現代社会においては、税金がある事は、所与の事、自明な事、当たり前の事のように捉えられ、改めて問い直す事すらされなくなった。
ただ、財政支出を賄うだけなら、お金を刷ればいいだけである。しかし、そんな事をすれば、すぐにインフレーションに陥ってしまう。
そこに税金の働き、その裏側にある財政の働きが隠されている。

財政にも、資金の過不足を調整する働きがある。
財政が資金の過不足を補正する手段には、一つは、公共投資がある。もう一つは、税と給付によって所得を再分配する事である。
金融が主として長期的資金の過不足を融通するのに対して、財政は、短期的資金の過不足を補正する性格がある。

一般に税金に対して誤解している人が多い。それが税金に対する悪い印象を蔓延させているのである。税金に対する悪い印象は、納税にも重大な影響を与えている。納税は、本来義務であるけれど、同時に、権利でもある。なぜ、納税は権利なのか、その意義を正しく知る必要がある。
まず第一に税というものに対する認識に錯誤がある。
今日、税の目的は、第一に、行政費用をまかなう為。第二に、所得の再配分。第三に、景気の調整機能の三点が挙げられる。しかし、これはあくまでも便宜的に税を徴収する目的を述べているに過ぎない。税の働きから目的を定義しているわけではない。
先にも述べたように、行政費用をまかなう目的ならば「お金」を必要なだけ刷ればいいのである。
税は、所得の再配分だと言うが、なぜ、所得を再配分しなければならないのかについて機能的な説明がされていないのである。
所得を再配分するにしてもなぜ、再配分しなければならないのかは、道義的な問題としてしかとらえていない。
同様に、景気の調整機能というが、税を徴収する事で景気に対してなぜ、また、何が、どのような影響を与えるのかが判然としない限り無意味な事である。
なぜ、税金を徴収するのかが問題なのではなく。税金が貨幣制度に対してどのような役割、働きをしているかが重要なのである。

つまり、税の目的を知る為には、税の働きを明らかにする必要がある。
その前に確認しておかなければならないのは、税金というのは、貨幣的事象だという点である。
税金は、金納を前提として成り立っている。税金というのは、貨幣的事象なのである。
この点が税金の働きを知る上で重要となる。

現在の経済の仕組みは、「お金」を循環できるようにはなっていない。水が高いところから低いところに流れるだけでは水の循環は起こらない。高いところから低いところに流れるだけでなく。水は蒸発して雲となり雨となって大地に降り注ぐから水は循環するのである。水と同じように「お金」もただ流すだけでは市場を循環しないのである。
「お金」を吸い上げ、撒き散らす仕組みが必要なのである。

「お金」を円滑に循環させ続けるためには、債権、債務の関係をどこかで解消できなければならない。そうしないと債務は、一方的に蓄積されていく事になる。

資金の過不足は、貸し借りとしてストックに蓄積する。資金は、貸し借りだけでは、債権と債務が一方的に累積してしまう。所得を再配分して資金の偏りを是正しないと資金が回らなくなる。その為に税制がある。

債権、債務の関係を解消する手段の一つに所得の再配分がある。所得の再配分は、税と給付と、公共投資で成り立っている。

税の根本が所得の再配分にあるのならば、誰から、何に対し、どの様な考えに基づいて徴収し、誰の何に対して再配分するのか。それが重要になる。そして、この税の在り方は、国家理念そのものを具現化しているのである。

国民所得会計の2008SNAの標準基準では、国民経済の経済活動の流れを生産、分配、消費、そして、貯蓄の各段階において資金の動きを部門や働き毎に仕分けている。
更に、所得の分配を、所得の第一次分配、第二次分配、現物所得の再配分、所得の使用の四段階に分類している。
税を設定する場合は、個々の税の目的や働きに応じて、どの局面で、何を課税対象としてどの程度の配分にするかを決める必要がある。
現行の日本の税制は、第一次配分の段階で生産・輸入品を対象とした税を課し、第二次所得配分の段階で所得・富等を対象とした税を課し、貯蓄段階で、資本に対する税を課している。
生産や輸入品を課税対象とした代表的な税は、間接税を意味し、消費税である。また、付加価値税も、これに属す。その他に、関税、不動産取引税のような資本取引税、金融取引税。固定資産税、事業税、自動車税、自動車重量税、印紙税、環境税、産業廃棄物税などの法定外目的税などが含まれる。
所得、富等に課せられる経常税は、直接税を指し、所得税、法人税、住民税などを指す。
また、資本税は、非経常的で不定期な税で家計や企業が所有する資産に対する税で相続税や贈与税などを言う。
第一次所得分配は、生産及び、輸入品を対象として、第二次所得の配分は、所得と富を、そして、資本は、不定期、不経常に発生する資産移動を対象としているという事がわかる。次にこれらの税の何に対してどの様な効果を期待するかが問題となる。

会計処理上では、所得のような直接税が第二次配分に分類され、消費税が先行するように処理されるが実際の市場の動きは、所得が先行する。資金の流れの歪をどの段階でどのように修正するかが鍵である。

税金は民間の資金を政府に吸い上げる仕組みである。つまり、民間の資金を政府に移動させる機構である。
税の仕組みは、売買取引や貸借取引の働きを補う役割がある。本来、金融と言うのは、資金の過不足を補うように動かなければならないが、営利目的だけだと、資金の過不足を不均衡にしてしまう。社会的弱者に資金が行渡らなくなったり、利益が見込めない分野に資金が回らなくなったりするからである。この様な不均衡を是正するような形で税は設定される必要がある。
その為に、所得格差に応じた税制度や利益や収益に応じた課税等が用いられるのである。つまり、税制度は、その国の国家理念を基にして構築されている。

また、このような税制度は、資金を還流させる役割もある。
なぜ、税制度が必要なのか。税という仕組みがなくても資金を供給する手段はある。早い話、国債によって行政費用や公共投資を賄う事はできるし、今日でも、そのような思想はある。しかし、そのような仕組みでは、資金は循環しなくなる。貨幣制度は、市場を循環する事で機能している。
また、一定量の資金を循環させることによって貨幣価値の安定を図っている。循環する資金が制御できなくなったら貨幣価値を安定させることはできなくなる。この事は、税と国債の関係を制約している。
ただ一方向に資金が流れるだけでは、仕組みとして完結しないのである。税によって資金を回収し、それを公共投資や行政費用として還流させるから資金は、市場を循環するのである。そのポンプとしての役割を税制度は果たしている。財政は、国家経済の心臓部である。


物納か金納かによって税の働きは全く違う


古代の税制は、租庸調。租とは、米、庸とは、賦役、調は、布を意味する。すなわち、物やサービスである。
物納は江戸時代まで続いていた。

税は、金納される以前は物納を前提としていた。税の働きは、金納と物納とではまったく違う働きがある。
物納の場合の税は、貨幣制度に直接的な影響を与えないという点と、納められる物の特性に制約されているという点が税金と決定的に違うのである。また、物納である場合、租税は直線的で単一的な働きしかしない。金納する事で税ははじめて双方向の働きをする事が可能となるのである。

物納の場合は、生産物を直接、収奪することを意味するが、金納の場合は、収入から取り分を取る。配分の問題となり。又、市場を経由する事で、交換価値の問題となる。収入を前提とする事で所得の概念が成立したのである。物納の場合融通がきかないのである。

かつて税は、権力を維持する為の経費である。
物納というのは、産物を権力者が直接的手段で搾取していた事を意味する。
この様な権力による搾取を目的とした税制度は金納を原則にするようになってから変質した。それまでは物納か、一部物納が残っていた。税の金納によって何が変わったかというと貨幣制度の一翼を担う基盤的制度となり、貨幣制度を国家経済の基盤へと発展させたのである。
貨幣制度は、お金が循環する事によって機能する仕組みである。税制度は、産物を支配者の為に搾取する事を目的とした者から、貨幣を循環させる為の仕組みの一部となったのである。
しかし、この変化を正しく理解していない為政者が多くいる。そのために、貨幣制度が正常に機能しないのである。

物納、あるいは、物納と金納を交えるというのと全て金納にするというのは、決定的に違う。税をすべて金納にする事によって貨幣制度は確立され、定着するのである。税全てが金納にされるという事は、全ての経済的価値が金銭によって測られる事を意味するからである。この事によって物的空間と貨幣空間が独立した空間として画定するのである。

貨幣制度は、「お金」を分配し、回収する仕組みである。
税金制度というのは、貨幣制度の一部である。
市場は、取引を通じてお金を貫流する仕組みである。


法人企業統計

税が物納から金納に変わった事で、「お金」が市場に浸透し、今日の貨幣制度は完成した。
もう一つ重要な事は、「お金」が市場に浸透した事で経済の質が変わった事である。経済の質と言うのをもっと厳密にいえば経済価値が貨幣価値に取って代わられたことを意味する。貨幣制度がも貨幣経済が定着する事で、経済的価値は、数値に還元され、統一的場を持つ事が可能となった。経済的価値は、貨幣価値に還元される事によって数値化され、統一的な基準で演算する事が可能となったのである。そして、世界的規模て市場の統合がすすめられた。
その根本に税の物納から金納の転換がある。

労働と言った無形の用益も船も、電気と言ったエネルギーも金銭的価値に還元し、統一的に演算処理が可能となったのである。
それは社会の枠組みを経済取引によって取り払う事になる。
それは同時に一国の出来事が市場を通じて他の国々に素早く伝播してしまう事をも意味していた。


税の目的は、行政費用を賄う事ではない



税というのは、財政の要である。税の目的は、国家の目的を陰で支えている。
税を考える事は、財政を考える事であり、国家とは何かを実体的に定義する事である。
税の取り扱いを間違うと革命や内乱、クーデターを引き起こす原因ともなる。
税を考える事は国家を考える事である。
税というのは本来合目的的な事であり、単純に割り切れる事ではない。
税は、行政の費用を賄うというだけが目的なのではない。第一に、税には、「お金」を循環させるための手段という役割がある。第二に、景気対策という側面がある。第三に、国家の基盤を建設するための原資という働きがある。第四に所得の再分配という役割があり。そして、第五に行政費用の原資という働きがある。

行政費用を支払うだけの目的ならば、税を徴収する必要はない。必要なだけお札を刷ればいいのである。
しかし、その様な事をしたら貨幣価値は維持できない。第一に、貨幣は、循環する事で機能を発揮するからである。第二に、貨幣の働きは分配の手段だからである。第三に、貨幣価値は、流通する貨幣の量と貨幣と財双方の需要と供給によって成り立っているからである。第四に、貨幣は、閉じた空間でしか機能しないのである。つまり、市場に流通する財の総量も貨幣の流量も有限である。第五に、取引は等価を前提に成り立っているから、市場全体では、貨幣価値の総和は零になる。
これらの事を前提とした結果、三面等価が成り立つのである。
つまり、財政というのは、資金を循環させる為の機関なのである。だから税は制度を土台として働いているのである。税は制度でなければ機能しない。
好きなだけは国家なり、金融機関が「お金」を一方的に必要なだけ、供給し、税という形で回収しなかったら、通貨の総量を制御する事が出来なくなるのである。「お金」を税という形で回収することで「お金」の流通量を制御する事が可能となる。
だとしたら、どの様な形、仕組みによって税を課すことで、「お金」の流通量を制御することが可能なのか。それが税政を考えるうえで最も重要な事となる。資金の供給量と回収量をいかに均衡させるか、それは仕組みとその時々の施策の両面から検討すべき事柄なのである。

物納の場合、資金の供給と回収という働きに税制度がまったく介在していないのである。
それが今日の税金の働きを惑わしている。そして、その延長線上にある財政の働きも見えなくしているのである。

税の働きで一番重要なのは、所得の再配分である。市場における資金移動の手段は、専ら、売り買いと貸し借りによって実現される。
売り買い、貸し借りだけでは、資金の過不足に歪みや偏りが生じる。そこで、売り買いや貸し借りで生じた資金の過不足の歪みや偏りを補正する為に税を活用するのである。

関税は、海外部門から資金を財政に移動する行為である。懲罰的に関税を用いると不当に市場を歪めてしまう。完全は、本来国内の市場を保護する目的で活用されるべきであり、為替の変動や労働条件の違い、物価水準の違いを是正したり調整する事で不公正な競争が起こらないようにする仕組みである。関税自体が不公正であった場合は、市場の歪みを増幅する事になる。

徴税人は、それこそ聖書の時代から嫌われ者だった。フランス革命の時も徴税請負人の多くが処刑されたとも聞く。
しかし、近代国家、国民国家において納税は、義務であるとともに権利でもある。
なぜ、納税は権利なのか。それは、納税者だからこそ、国民国家においては参政権が与えられるからである。その点をよく理解しないと税の働きを正しく理解することはできない。

納税は、国民の義務であり、権利であるから、税の使い道に対して国民の合意をとる必要があるのである。
国民国家における税は、国家権力によって収奪されるものではない。国民の権利であり、義務なのである。




税の仕組み



税の働きを知る為に重要なのは、税の仕組みである。つまり、税を徴収は、お金を循環させる仕組みの一部の働きを表しているのに過ぎない。税制度は、税制度だけを見ていたらその働きを明らかにする事はできないのである。

第一に、税の働きと売買、貸借の働きとの違いは、双方向の働きを持たない一方的ない資金移動だと言う点である。その為に、市場取引の影響を受けない。市場取引の影響を受けないという事は、売買取引や貸借取引による資金の過不足の歪を是正する手段として有効だという事を意味する。つまり、税は、所得の再分配の手段として有効だという事である。これが一番の税の働きだともいえる。

第二に、税は、反対給付を伴わないために、反対給付に係る費用を負担しないで済むという事である。税が公共財に使われる理由がこの点にある。軍隊や警察、消防、学校、研究所と言った反対給付に基づかない事業に対して税による歳入は不可欠なのである。

第三に、税は、広く一般に国民が負担するため、巨額の資金を一度に集める事が出来る。故に公共投資の資源として有効だという事である。巨額の資金を集中的に投資する事が可能であるから、市場に資金を供給する手段として極めて有効だという点である。
つまり、税は、所得の再分配、公共財、公共投資に対する財源としての働きを持っているのである。

多くの国は、近代貨幣制度を導入する以前は、慢性的な財政難に苦しんでいたのである。
それは、貨幣の分配と回収という働きに税制度が関わっていなかったからである。
その点は、日本も他の国と変わりない。その状況を脱した国だけが近代化を実現しと言っても過言ではない。
そこで決定的な働きをしたのが税の金納である。すなわち、税金である。
日本は、維新直後は、財政は破綻状態だったのである。それが明治維新後、短期間で財政を確立させた。むその背景には、税の金納と近代貨幣制度の働きが隠されている。又、借金の働きを見落としてはならない。日本は借金によって救われもし、又、借金によって破綻も下のである。借金こそ戦争の原因なのである。しかし、何処の国の政府も借金によって戦争を起こしたとは認めたくない。それは戦争に勝っても負けてもである。
国家財政にとって税を金納にする事は特別の意味がある。

税を金納することによってすべての経済的価値を一旦貨幣価値に還元することが可能となったのである。ただそれは同時に、お金の供給と回収を調整することによって流通量を調節しないと経済が制御不能な状態に陥る事を意味している。
「お金」の供給と回収の帳尻が合わなければ、財政は破綻する。単に、財政は、黒字であればいいという訳ではない。財政が黒字という事は、お金の供給より回収が上回っている事を意味しているのに過ぎない。問題は、経済を安定させるために必要な「お金」の量をいかに維持するかなのである。

もう一つ重要なのは、税を何に対して課すかである。

税は、何を課税対象とするかによって性格が変わる。
課税対象、資産とするのか、収益、所得とするのか、収入とするのか、利益とするのか、取引とするのか、消費とするのか、人数とするのかによって経済現象の何と連動して動くのか、安定性は保てるのかといった性格が決まる。

課税対象を何にするかは、税に対する考え方によって決まる。
今日、税は、普通税と目的税に大別されている。
更に普通税は、第一に、収入に課すもの。第二に、財産に課すもの。第三に、消費に課すもの。第四に、流通に課すものの四つに区分される。このほかに、法人事業税や人頭税のような外形標準課税がある。
何に対してしてどのような税を課すかは、税の働きを知る上で必須の事である。

現在の税制度の根幹は、所得と消費にかける税である。どちらもお金の循環過程にかける税である。

経済成長は、GDP、すなわち、総所得によって測られる。総所得とは、所得の総和である。では所得とは何か。
所得とは収入を意味する。しかし、所得は、即、収入と定義するわけにはいかない。

ここで重要なのは、収入、所得、収益、利益の意味を正しく理解しておく事である。

所得を考える上では、収入とは何かを理解する必要がある。
収入とは何か。収入とは、財やサービスの対価として受け取るお金、あるいは、「お金」の量をいう。
所得とは、この収入から必要な経費を差し引いた純収入を現在の税制度では言う。

税の性格は、課税対象によって左右される。

所得を対象とした税には、所得税、法人税などがある。所得にかける税として代表的なのは、所得税である。
法人税は、利益に対して課税するものであり、純粋に所得にかける税とは言い切れない。
財産にかける税としては相続税や固定資産税がある。相続税は、実際に取引があった事を前提とするのではなく、取引があった事を仮定する事で課す税である。
つまり、相続人と被相続人との間で実際に金銭の遣り取りがあるわけではない。

市場の歪を是正する手段として、税制がある。

所得税は、直接税に属し、所得に直接働きかけて収入の歪を是正する働きがある。ただ極端な累進課税は、労働意欲を低下させる傾向がある。

法人税は、一般に所得税の一種とみなされるが、厳密に言うと純粋な所得税ではない。法人税が課税対象としているのは、課税所得である。課税所得は、利益と一致していない。利益は、収益から費用を引いた値であるが、課税所得は、益金から損益を引いた値である。ただいずれにしても国民経済統計では、営業余剰にかかわる。

消費税は、消費税と言っても取引税の一種として考えられる。消費税は、間接税で市場取引全体に働きかけ、資金の回収する働きがある。
消費の特徴は、市場取引全体に働きかけ、景気を反映する性格がある。
消費活動を抑制する効果がある。また、逆進性と言う性格もある。

代表的な資本税には、相続税と贈与税がある。資本税は、ストックを対象とした税である。これは、直接貯蓄されたひずみを是正するために効果的だが、私的所有権を侵す危険性がある。また、資本に対する課税は、事業の継承権、経営権に係る問題を引き起こす。

関税とは、輸入品に対する税で内生品を保護する効果がある。内生品の保護は、背後の雇用の問題がある場合が一般的である。しかし、関税は、両刃であり、輸入物価の上昇や報復関税による輸出抑制を招く恐れがある。

所得が伸びれば、所得税は増えるし、投資が盛んになれば固定資産税は、伸びる。消費が盛んになれば消費税は、増加する。利益は不確かだが、消費は確定的だから、所得税より、消費税の方が収入は安定している。

収益というのは、収入ではない。収益が悪化していても現金収入が増えていれば課税される。その場合、借入金の返済は、度外視されるばあもある。売買取引が成立したと仮定し、それを前提とした現金収入を想定した上に成り立つ概念である。必ずしも現実の現金収支と一致しているわけではない。利益は、更に売買取引が成立したと仮定し、更にその上で現金支出を想定する事により成り立っている。利益が上がっていても資金不足陥っている時は、納税をするために、借金をしなければならない事もある。


国税庁

税金の使い道



また、税の働きを知る上で忘れてはならないのは、税の使い道である。
税の使い道というのは、すなわち、税の出口を意味するからである。つまり、支出である。
徴税が入り口なら、税の使い道は、出口である。収入と支出をいかに均衡させるかが財政の要諦なのである。

税の使い道を収支という観点から見てみると税の使い道は支出として現れる。その場合、単なる消費という意味だけでなく、所得の再分配という役割も加味される。

所得の再分配は、支出面だけでなく。収入面からも計られる。

税の使い道には、基本的に投資と消費、貯蓄が想定される。投資には、実物投資と資本投資がある。実物投資とは物的投資であり、資本投資とは、金融投資、資金投資である。

公共投資の本来の目的は、景気対策にあるわけではない。
公共投資の根本は、国家理念、国家構想に求めるべきなのである。
どの様な国造りをすべきなのか。それが根本になくて単に金の使い道としてばかり公共投資を考えるのは本末転倒である。
景気対策というのは、二義的な問題である。根本のどの様な国とするのかについての議論をそっちのけにして、景気対策としてのみ公共投資の意義を検討するから物事の本質が見えなくなるのである。
公共投資の根本は国家百年の計にあるのである。

「お金」の使い道は、その国の運命を左右する。
何に税金を使った、どれくらい使った、どれくらいの割合を使ったか、また、何に使うかどれくらい、どの程度の割合使おうとしているのか、それは国家の理念を実体的に表すのである。だから、予算は、立法的処置になる。

財政を圧迫する最大の要因は、軍事費である。
孫子も日に千金を費やして、然る(しかる)後に十万の師挙がると言っている。
国防費は聖域となる事が多い。しかし、軍事を適正に制御できなければ財政の健全性は保てない。
ひいてはそれは戦争の原因ともなるのである。

戦前の日本は、富国強兵が国是であった。
故に、軍事費が国家予算の6割、7割にも昇ったのである。

226事件で高橋是清が暗殺されたのも軍事予算を削減した事が原因だとされる。
国家理念、国家構想を体現するのが国家予算であり、国家財政である。

アメリカ独立戦争、フランス革命、多くの革命が税の問題が引き金になっている。

なぜ、国債や紙幣が軍事と絡むのか。それは、国債や紙幣を必要としているのが軍事費だからである。
日常的な生活を維持し、分配するだけなら、農作物や狩猟の獲物で事足りる。要するに余剰な付加価値はいらないのである。
付加価値を生み出すのは、古来より軍事である。
この点を考えないと財政の本質は見えてこない。
だからこそ、国家理念が問われるのである。国家とは何か、国家は何を目指すべきなのか、そこに財政の根源はある。



国家とは何か



国家構想、国家理念が基礎となって財政は成り立っている。
だからこそ憲法が重要な意義を持ち。
国会の権能と手続きが重要となるのである。

財政規模は、国家の役割に対する理念から導き出される。社会福祉を重んじる理念を国是とする国は必然的に財政は大規模になり、自由市場を前提とする国、いわゆる夜警国家観に基づく国は、財政は小型化する。根本にあるのは、国家に対する考え方、国家に何を期待するかである。

財政は、国家理念を具現化した事である。
税制の問題も財政赤字も根本に国家理念に基づいて対処されなければならない。
ところが、今日の財政は、景気対策や財政赤字を解消する為だけの財政に堕している感がある。
それが、かえって景気や財政赤字を悪化させる結果を招いているのである。

国家理念は、国家財政の規模を規定する。財政規模が大きいか、小さいかの問題ではなくどのような国家理念に基づいているかが問題なのである。
国民生活の多くの部分を国家に依存する理念に基づけば必然的に財政は大規模になり、税負担も重くなる。
生活の基盤を家計に置けば、個人の自己責任が大きくなり、税負担は軽くなる代わりに、家計の負担は増大する。一番拙いのは、どっちつかずの体制である。国家に面倒を見て狙いたいけれど個人の負担も軽くしてほしいという理念を国民が持てば間違いなく財政状態は悪化する。いずれは、国民がそのつけを払わされるのである。

大多数の国民が国に面倒を見てほしいけれど個人負担は軽くしてほしいといった姿勢では、俗にいうサラ金地獄に国民は陥り、借金による負担は増大する。最後には破産せざるを得なくなる。虫が良すぎるのである。

1965年に特例国債を一年にかぎり、発行し、1975年に再発行された頃から日本は、なし崩しに財政赤字に苦しんできたといえる。
なぜ、財政赤字が発生し、なぜ、財政赤字を容認したのか。その理由を明確にしてこなかったことにも一因がある。
なぜ、財政赤字は、生じ、なぜ、財政赤字は累積しているのか問題はそこにある。

大体、お金の発行は、売り買いから始まるのではなく、貸し借りから始まるのである。売り買いは物々交換の延長線上にあり、貨幣取引は、お金の貸し借りによって始まる。紙幣は、借用書や預り書が変化した物なのである。

お金は得ただけでは、即ちが収入があったとしても効用を発揮するわけではない。
お金は使う、即ち、支出されることで始めて効用を発揮する。
我々は、通常、働いて得たお金を使って物を売り買いする。そして、お金が足りなくなるとお金を借りてきて一時的に補充する。
故に、我々の頭では、最初に売買取引があり、お金が不足するとお金を借りるという意識が働く。
しかし、実際は、お金は、売り買いからではなく、貸し借りから生じるのである。
売り買いがあって貸し借りがあるのではなく。貸し借りがあって売り買いが生じるのである。
なぜなら、お金は最初から社会に存在する物ではないからである。
市場は最初は物々交換から始まる。取引手段の一部に実物貨幣が使用されるようになる。
実物貨幣が表象貨幣にすり替わることで近代の貨幣制度は完成する。但し、表象紙幣は、貸し借りによって生じるのである。その過程で、負債も私的負債から公的負債へと変化していくのである。

即ち、貨幣的事象は、貸し借りから始まる。
何らかの事業を興そうとするとこの関係は明らかになる。誰でも事業を興そうとしたら、先ず資金をどこからか調達してこなければならない。商売としての生産的行為には、お金がかかるのである。
だから、何らかの形で元手を調達する必要となる。この元手が資本の原形となる。経営主体は、最初資金がない事が前提となるのである。資金調達の形は、貸し借りである。

そして、貸し借りによって資金は循環する。


財政は、「お金」の使い道で決まる


何に税金を使うかによって財政の意義は決まる。

財政を利権に結び付けてはならない。財政こそ、国家理念を実現する唯一の手段である。
財政に係る者は、志と使命感が求められる。

税金が正しく使われなければ国家経済は立ちいかなくなる。
財政は、歳出によってその性格が決まる。歳出は、国家理念を体現しているのである。
今日、我が国では財政は、経済的な事としてしか語られていない。

確かに、財政は、深刻な状態にある。しかし、財政を深刻な状態にしているのは、経済ではない。政治であり、行政である。政治であり。行政だからこそ改善の余地があるのである。

何に金を使うのか。人材育成に金を使うのか、産業を発展させるために金を使うのか。国を守るために金を使うのか。
事を育てるというのならば何に金を使うか。産業を興すためには何に投資すべきか。国を守るためには、何をすべきなのか。

歳出は、国家理念に基づいて合目的的な事でなければならない。国家理念は国是であり、国事行為は、全て国是に基づくことが前提となるからである。
故に、歳出の目的を明確にされなければならない。

日本の予算ではこの目的や意義に対する議論がされないでただ財政が赤字か黒字かが議論されている。全体の国家構想がないままに、重箱つつくように個別の事象を問題としている。
国家目的を実現するのは、政府だけではない。国家目的を実現する為に、財政、家計、企業が応分の負担を分かち合う事が前提なのである。教育や国防、高齢者や社会的弱者の世話を誰が、どの部分をどの程度、どの様に負担するのか、それが、税の問題であり、歳出の問題となるのである。

行政費は、法を維持するための費用であり、教育費は、国民を育てるための費用、国防費は国民を外敵から守るための費用、国土保全費は、自然環境や生活環境の改善と保護のための費用であり、社会保障費は所得の再配分のための費用である。これらの費用は、国家理念に基づかなければならない。

今の議論で一番問題なのは、オール・オア・ナッシュングで全体像が見えない事である。細部ばかりを取り上げて全体の構想や目的が見えてこない。つまり、大義がないのである。

教育に関しても学校教育だけが問題とされて、家庭の躾、かつての、徒弟制度的な職場教育、祭りや祭礼を通じた地域教育、青年団、消防団と言った社会教育等が全く無視されているか、酷い場合、頭から否定されている。学校教育が全てであり、教育は、学校に任せればいいのであり、家庭の躾はしてはならないような決めつけているようにすら見える。地域の伝統や風習、家庭などの独自の教育を否定している。しかし、それでは教育費が破綻するのは目に見えている。また、教育も偏向的なものになり、劣化する。家庭には家庭、地域社会には地域社会、学校には学校、職場には職場の考え方があり、いろいろな価値観の中で子供たちは自分の価値観を確立し、磨いていくのである。封建主義や軍国主義にしたのは、家庭や地域社会だけの責任ではない。学校にも責任がある。しかし、学校だけが責任を負って勝手に独自の思想で子供たちを教育するのは、洗脳であって戦前の教育と何ら変わりはない。
教育について家庭も、職場も、地域も、学校も各々立場役割を分担する必要がある。教育費の無償化と言うのは、授業料を無償化するという意味だけではない。

教育を受けるのも権利ならば、教育を受けないのも権利である。だからこそ、義務教育が必要なのであり、義務教育の範囲と目的を明確にする必要がある。
学校教育の主権は、学校にあるわけではない。いわんや、個々の教師にあるわけではない。父兄や地域社会、そして、何よりも生徒たちにこそあるのである。学校教育は、主権者の委託を受けて学校や教師が執行する事であって父兄や地域社会の考えに反する事を勝手に学校関係者がやるのは国是に違反している。国家や国旗に対してどの様な考えを持つかは、教師個人の思想であり、それを妨げる事はできないが、教育の現場に持ち込むのは、明らかに違法である。

高齢者の世話や病人の面倒を見るのも各々の部門が応分に負担する問題である。高齢者の問題が制度や設備に限定されるのが問題なのである。高齢者の介護は、家族の問題であり、地域社会の問題であり、職場の問題でもあり、そして、公共機関の問題でもある。高齢者の問題は、親孝行とか、長幼の序とか倫理観の問題でもある。コミュニティーの公序良俗の問題でもある。それを制度や設備の問題として短絡的にとらえている限り、問題の本質的な解決はできない。それは、人生の問題でもある。
人は物ではない。用がなくなったら邪魔者扱いをすることこそ問題なのである。今の世の中では、仕事は、苦役であり、労働は悪だという前提に立っているようにしか見えない。
労働と言うのは、自己実現の手段でもある。一人ひとりの国民の人生そのものである。それを国家の都合だけで奪う事こそ問題なのである。かつて、個人事業者や職人、農民などは働ける限り働き、それを喜びとしてきた。労働は尊い事であり、その人その人が人生の中で経験し蓄えてきた技術や知識を凝集したものである。それを無価値、無意味な物としてしまう。
日本人の一番の錯覚は、国民国家の主権者は国民であり、国民一人ひとりの福利を計る事が目的であり、政策や財政によって国民一人ひとりがどのような影響を受けるかを検証しなければ国民国家としての使命を全うできないという事を忘れている事である。

財政問題と言うのは、財政が国家目的を実現するためには、何を、どの程度、どの様に負担するか、そのための財源をどの様に確保するかの問題なのである。それを理解していなければ、財政の健全かなんて最初から実現できない。

国民国家は、理念的な国なのである。

国を守るという事


何から何を守るのか、国防を任じる者は、それを明確にする必要がある。
日本人は、先の大戦を自分達の手で総括すべき時が来たのである。

古来、国防にかかる費用、即ち、軍事費は、国家の存亡を左右するほどの大事であった。この事実を現代日本人は、直視すべきなのである。

日本では、戦前は、統帥権によって戦後は、平和憲法によって軍事に対して国民が軍事に係る事は禁忌であるか如く扱われてきた。戦前は、軍事を神聖視し、戦後は、忌事のように扱ってまともに議論する事を避けてきた。

しかし、国防費は、国家経済をいい意味においても悪い意味でも左右してきたのである。経済発展は、軍事産業が担ってきた部分がある。反面、軍事費が財政を歪める原因となった事も歴史的事実である。

軍隊があるから、侵略的になるわけではない。軍隊の存在と、侵略主義とは、直接的な関係はない。自国を守る事は権利であるとともに義務である。なぜならば、自国民の権利と生命財産の保護は、国家の権利であり義務である。国家の権利と義務は、国家の主権と独立の根源である。自力で自国民の権利と義務、生命財産を守る事の出来ない国に国家としての権能は認められないからである。

戦争は、敵対国が侵略する意思を持てば防げない。自国の意志だけで戦争は防げないのである。敵国に侵略する意志を持たせない事が戦争を抑止する事なのである。自国だけが戦争をしたくないと思うだけでは戦争は防げないのである。

守る事も守らせることもできない法は、法としての機能を発揮できないように、誰も守ろうとしない国は、国家として機能する事はできない。
故に、国防は主権者の義務でもあり、権利でもある。国防を最初から放棄したら、それは主権を放棄する事である。

重要なのは、国防思想である。戦前の様な軍国主義も極端な思想だが、非武装も極端な思想なのである。思想というより信仰に近い。

非武装というのは、一種の思想であり、信仰である。武装を放棄すれば平和になるというのは、勝手な思い込みである。なぜならば、我が国を侵略する意図を持つ勢力が現れたら、我が国の意志だけで侵略は防げないからである。自分たちが非暴力、非武装を誓っても敵対する国にとっては、関係のない事である。我が国が、戦う意思がないと言っても相手が戦意を喪失するわけではない。羊が狼に向かって戦う意思のない事を訴えても狼が許してくれるわけではない。
我が国が戦後侵略されなかったのは、背後のアメリカの武力があった事と、地理的にアメリカが戦略上譲れない処にに位置にしてたからである。

侵略者、外敵に対して無抵抗、非暴力を主張する事は、相手に対して無条件の隷属を意味するだけであり、平和主義を意味する事でも、民主主義を意味する事でもない。その結果、最も被害を受けるのは、弱者である。
相手に隷属する事は、自分だけの問題ではなく。自分の家族や友人、隣人の問題でもある。自分が戦うことなく隷属する事は、自分の家族や友人、隣人の権利、生命財産を差し出す事でもある。最愛の家族や子供たちを守るのは、最低限の権利であり、義務である。
自分が一番大切な人を虐げられたり、汚されるのをただ黙って受け入れる事は、人としての尊厳を否定する事である。妻子や友人を見捨てて逃げると公言している評論家や小説家がいたがそれは、ただ卑劣なだけである。天下国家を論ずる資格はない。
小鳥でさえ、雛を守るために、身を挺して外敵に挑む。

国防とは、現実である。観念ではない。理想や願望で平和や独立が守れるわけではない。
犯罪のない社会は、確かに理想ではあるかもしれない。しかし、法があるから犯罪は、成立するのだ。法をなくせばいいというのは本末転倒である。警察があるから犯罪が起こるわけではない。警察をなくせば犯罪がなくなるわけではない。消防をなくせば火災がなくなるわけではないし、医者がいなくなれば病気がなくなるわけでもない。
いくら我が国が戦争をしたくないと言っても我が国に対して戦うための意志と手段を持つ国や勢力が現れれば、戦いは仕掛けられるのである。
問題は、自国の国民、家族や友人、仲間を守る意思があるかないかであり、自分で自分を守ろうとしない者を誰も助けてはくれないのである。
誰も、守ろうとしない国を守り切れるものではない。
独立と主権を守れなければただ隷属するだけである。隷属したら平和が守れるわけではなく、主人のために戦わされるだけなのである。それが現実なのである。
周辺に攻撃の意志と手段を持つ国がある限り、国防のための手段を持つのは権利でもあり、義務でもある。

平和とは、状態を指す言葉で、非暴力とか、非武装と言うのは、手段である。平和は、非暴力や非武装を意味しているわけではない。
目的を実現する為に、非暴力や非武装に徹するというのは、一種の宗教的心情である。しかし、他国の侵略によって被害を被るのは、社会的弱者である。

防衛費と言うのは、平和を守るための費用である。
陰略をするのも軍ならば、侵略を防ぐのも軍である。平和を破壊するのも軍ならば、平和を守るのも軍である。
そして、軍事産業が国家経済に果たしてきた役割を無視してはならない。軍事は、技術革新や経済発展に多大な影響力を持ってきた。それは明白な事実である。
ただ、軍事産業が巨大となり、軍事費が巨額になると経済そのものを歪めてしまう恐れがある。重要なのは、国防思想である。何から何を守るのかそれを明確とする事なのである。

軍事に功罪がある事は事実である。しかし、軍事を現実として受け止めない限り、何もかも絵空事になる。
自分で自分を守れない者に自由なんて守れないし、そもそも、自由になんてない。他国に守られた自由なんて家畜の自由でしかない。

戦争があるたびに、技術革新が起こり、また、経済がリセットされてきた。国債も紙幣も元を糺せば戦費である。
財政を破綻させ、経済を混乱させてきたのが戦争ならば、経済を立て直しする契機になったのも戦争である。
平和を維持するためには、戦争の働きをよく知り、戦争に頼らなくても経済が刷新できる体制を敷く事なのである。
民主主義が革命によらないで体制を変える事の出来る仕組みを考案したようにである。

国防予算は、国防の重点をどこに置くかによって定まる。
国防の重点をどこに置くかは、国家戦略にある。国家戦略は国家理念を基礎としている。

何を守るべきなのか。国の主権者の生命と財産、権利である。そして、主権者の生命と財産、権利は国家の独立によって保証されている。故に、国防の究極的目的は、国家の独立を守る事にある。
国民国家の主権者は、国民であるから防衛費は、主権者である国民を誰からどの様に守るかによって規定される。
国防思想には、積極的防衛と消極的防衛、攻撃的防衛と防御的防衛、能動的防衛と受動的防衛、直接的防衛と間接的防衛がある。
日本の国是は、消極的防衛、防御的防衛、受動的防衛にある。
今の日本を侵略国家として見るか否かは、国家理念や防衛体制、防衛装備、国防予算を見ればわかる。他国を侵略したり攻撃をするためには、それ相応の準備や期間が必要なのである。国民に対して秘密裏にこれらの準備を進められるはずがない。なぜならば、日本の国是は国民国家であり、民主主義なのである。

独立国には、どの様な権能があるのか。
国際社会の中でどのような役割を演じなければならないのか。

世界市場によって国々が結びつけられた今日、一国の判断の影響は、一国だけにとどまらない。
内政干渉だと喚き散らしても、その国の政策が相手国の安全や経済を脅かし、その国の国民の生活や国家の存亡にかかわる事態を引き起こすようならそれは不当だと主張するわけにはいかないのである。

自国民の力で自国の主権を守れない国を国際社会は独立国として認めない。
この常識が今の日本には通用しない。
通用しないから国防に対してまともな議論ができない。
国防は日常的な事であるのに、非日常的な事のように議論されている。
それこそが国を危うくする元凶なのである。

国家の主権と独立は、国防組織によって守られる。
戦前は、統帥権によって、戦後は平和憲法によって国防を論じる事は禁忌とされてきた。
それは動機は違っても結果的に同じである。自衛隊の是非を公の立場で議論すべき時が来たのである。
それが出来なければ独立国とは言えない。
また、それが出来なければ財政も成り立たないのである。国防費は財政の大きな部分を占めている事を忘れてはならない。

そして、軍事産業は、全産業の中においても枢要な位置にあるのである。軍が利権と化すことほど危険な事はない。ただ、軍事産業は、国家機密の最たる部分であり、聖域化する危険性を多分に孕んでいる。
軍事産業は、兵器産業である。いくら平和利用と言っても限界がある。軍事産業に携わる者が死の商人と言われる由縁である。
ただ、軍事産業は、公共事業の典型でもあり、景気に果たしている影響も無視できない。これらを考慮しながら軍事に係る者は、強い節度と信念を持つ必要がある。



何を教育するのか


どの様な目的によって誰をどの様に教育するのか。それが大切なのである。
戦後の日本では、国家が理想、理念をもって教育に携わる事を否定してきた。政治的に、また、思想信条において、信仰においても中立的であらねばならないという思想による。しかし、中立的であらねばならないというのも思想の一つなのである。

中立とか、公正とか、公平といった概念ほど曖昧模糊とした思想はない。そのような曖昧模糊とした概念では教育はできない。できないから、中立とか、公正とか、公平といった概念を隠れ蓑にして偏った思想を教育しようという勢力が現れるのである。
そのような勢力によって戦後の教育は大きく蝕まれてきた。
大体、国民国家こそ思想に基づいて建国されているのである。まず国民国家として建国の理念を明確すべきなのである。

自由とか平等という概念は、言葉に実体があるわけではなく。制度や政策によって実現されるのである。

現在の教育行政の欠陥は、学校教育ありきで組み立てられている事である。
学校教育さえしておけば、大丈夫。学校教育が全てであるように思われる点である。それが学歴社会を産む原因となっている。
学校教育は、教育行政のほんの一部でしかない。教育は、学校だけで行われるわけではないし、学校教育にも限界がある。

今日、教育と言うと学校教育ありきであるが、つい最近まで家庭の躾や社会教育が占める教育に部分が大きかった。職業教育も徒弟制度の様な仕組みを通じて技術は継承されてきた。また、教育技術が目覚ましく進歩した部門は、企業教育である。落語や講談、歌舞伎と言った演芸を通じた教育もされてきた。演芸は単に娯楽のみを目的としていたわけではない。スポーツでチームワークを学んだり、旅に出て見聞を広めたりもした。本来、教育の場を提供してきたのは、教会であり寺院である。
徒弟制度の欠点、短所、弱点のみを上げて頭から否定する教育関係者がいるが、どんな教育、学校教育にも短所、欠点、弱点はある。一部の欠陥を上げて全否定するのは乱暴である。
無神論的、唯物的教育が科学的だと錯覚をしている者がいるが、無神論も唯物論も思想の一つである事を忘れてはならない。それも極端な思想である。公平無私中立的な教育などないし、あったとしても意義も目的もない教育である。つまり、公平無私中立的では、教える事ができないのである。なぜなら教育の根本は思想だからである。思想のない教育なんて魂のない骸のようなものであり、ただ醜悪なだけである。

もっと悪いのは、今の学校は、予備校化しつつあることである。教育の本質が失われ、形骸化した証拠である。

行政が最も携わるのは、義務教育の部分であり。なぜ、義務教育が行われるのか、なぜ、教育は義務なのかという事がわからないと義務教育の本質は理解できない。
教育が義務とされるのは、国民国家である事に深い関りがある。
国民国家は、国民による国民のための国家である。この様な国民国家は、理念的国家だというのが一番の特徴である。
つまり、国家理念に基づいて作られた国であり、法治国家である事が前提となる。
理念国家だという事は、国家の理念を正しく理解していないと国民国家は正しく機能しない事を意味する。
国民国家の国民として最低限理解しておかなければならない事があり、また、それを理解するのに必要な知識や技術を習得しておく必要がある。
民主主義を国是とする民主主義国の仕組みや理念、守らなければならない法、権利と義務、選挙の意義と目的等等を習得しておかなければ国民としての義務を果たす事が出来ない。故に、教育は義務であり、そして、権利でもある。つまり、義務教育の裏付けがあって国民として権利は保証されるのである。国民として当然守らなければならない法を理解せずに、国民としての権利は主張できない。国民としての権利を主張するためには、まず義務教育を受ける必要がある。つまり、義務教育は、国民としての資格を売るための条件の一つである。
この点を理解しておかないと何を義務教育として学ばなければならないのかを明らかにする事はできない。
義務教育において反体制、反権力、反権威的な事を刷り込むのは、国家に対する反逆、国民に対する犯罪である。それは、国民国家が国民を主権として成り立っているからである。

義務教育に対して国家が負担するのは、国民義務だからである。国家に負担を要求するのは国民の権利である。
この様に、義務は権利であり、権利は義務である。

人としての価値観や社会人としての常識は、家庭や社会が受け持つのが一般的である。初等教育、中等教育、高等教育それぞれに目的も役割も違う。初等教育は、社会生活を営む上で必要な知識や技術、中等教育は、国民国家の国民として必要最低限しておくべき事を身につけておかなければならない技術や知識を学ぶところである。
高等教育は、国家理念に基づいて為されるべき事である。
要するに、何を行政が負担し、何を家庭が負担し、何を地域社会が負担し、何を企業が負担するかの問題である。
教育全てを行政が行う訳ではない。また、不可能であり、やらせるべきでもない。

教育は、財政、家計、企業、それぞれの部分各々の役割や必要に応じて分担し、協力して行うべきところである。

学校教育は、教育全般の中の一部を分担しているのであり、極めて特殊な環境、特殊な事だという事を忘れてはならない。学校の成績が悪いからと言って全人格を否定されるものではない。
学校教育は、社会に出るまで一定期間、社会人になるための準備としてある事を忘れてはならない。社会人として不適格者を学校が育てているとしたらそれは教育行政の破綻を意味している。

  
学校基本統計


少子高齢化によって大学に進学する年齢にあたる18歳の人口は、1992年205万人と天井をうった後、年々減少し、2015年には、120万人とピーク時と比べて85万人も減少している。
人口が大きく減少しているというのに、大学の数は、逆に上昇している。18歳の人口がピークを迎えた1992年には、523校だった大学数が2015年の時点で779校に増えている。


学校基本統計

人口が減少しているのに、大学の数だけ増えたら教育の質が劣化するのは、必定である。
重要なのは、大学へ行くことではなく、大学で何を学ぶ、社会に出てどの様に役立てるかである。
日本人には、変な錯覚があって学問は実利的な事ではない、実利に結び付けてはならないとい思い込んでいる節がある。その為に実業学校や専門学校を一段低く見て、純粋学問を妙に尊ぶくせに実社会に出たらまったく大学で学んだことを評価しない。それは、教育と実社会とを切り離して考える傾向があるからである。
その結果、数学や簿記が経済や商業の試験科目から外されたり、また、授業から度外視されたりする。
商業でも実際の交渉術や話法は、学問の対象とはみなされていない。学問と言うのは実利的な事ではないという思い込みがあるからである。


Times Higher Education、THE

問題解決能力は、問題意識に基づいている。問題意識と言うのは、試験に出された設問を理解する事を意味するのではなく、現実の社会や現象から問題点を発掘し、それを設問に置き換える能力を言う。試験に出された設問には回答があるが、現実の問題には必ずしも正解があるわけではなく。回答を作り出す、創作していくという創造的な行為なのであるが、日本の学生は、与えられた問題を与えられたように解くことに長けても自分で問題を発見し、そこから新たな解を見出すという能力に欠けている。

2009年には、大学の進学率は、50%を超えている。二人に一人は大学に行く計算になる。進学率が高くなったから人材が育つとか、能力が高くなるとは限らない。むしろ、無目的に意欲もない学生が増える事は弊害でしかない。
大学を出ても常識もなく、まともな人間関係も築けないのなら大学へ進学する意味がない。

かつて養老孟子は、著書の中で大学に行くと言ったら、馬鹿になるよと言われたものだと書いている。
昔は、教育を受けられるものが限られていた。それは、特権階級や身分制度を下敷きにしていたと言われるが、反面、本当に学問がしたい者や向上心がある者だけが大学を目指したのである。だからこそ苦学生と言う言葉も生まれた。
今は、誰でも名ばかりの試験を受ければ大学に進学する事が出来る。しかし、教育の意義は失われつつある。大学は、社会人になるための猶予期間でしかなく、大学を卒業する事で社会人としての素養を身につけているという保証にはならないのである。
むしろ、社会人として、また、職業人としては、早く社会に出た者の方が社会で揉まれて磨かれてさえいるのである。

学歴社会と言うが学歴そのものの権威が失われているのである。

教育費は、歳出の中に常時一定の比率を占めている。
財政が破綻すれば必然的に切り詰められることになる。破綻するまでもなく、財政を立て直さなければならないのならば、大幅に見直す必要がある。そういう時に、無意味に余分なところに資金を投入するのは、重大な過ちである。
重要なのは、教育に対する理念である。何に対して重点的に資金を投入するのか。人材が重要であればあるほど的を絞って集中的に党化する事が求められる。金を賭ければいい教育ができるという訳ではない。
学習意欲のない者を強制的に教育しても効果は上がらないのである。

目的や働きによって費用対効果を測り、本当に必要な支出に絞るべきである。特に継続的な支出は、その根本に立ち戻って予算の効用を見直すべきなのである。利権や既得権益にしないよう心掛けなければならない。

無原則に学校を増やすのは、学歴偏重を増長させるだけである。かつては、教育は、公的機関、主として、財政が負担するだけではなかった。家庭でも、職場でも応分の負担をしてきた。というよりも教育は社会の中に組み込まれていたのである。これは老人介護も然りである。何でもかんでも国や自治体に任せてしまうというのは、家庭や職場を社会から分離してしまう事になる。
学校にのみ教育を任せてきたから、教育が偏ったものになり、ただ、進級させる事のみが目的化してしまった。その結果、教育本来の目的や意義失われてしまったのである。中学、高校は予備校化してしまい。全人格的教育はなおざりにされてきた。その結果、登校拒否や引きこもりと言った社会に順応できない人間を大量に生み出しているのである。
教育は学校だけが担うものではないし、学校だけに担わせる事でもない。教育本来のあるべき姿は、人間教育なのである。

勉強が嫌いでやる気もなく、能力もない人間を無理やり進学させて高等教育を受けさせる必要があるのか。
現在は、徒弟制度的な体制を封建的と否定するが、教育の手法として企業内教育の技法が著しく発達している事を認めようとしないのは、教育者として傲慢である。企業教育の技法の中には、学校教育にとって有用なものはいくらでもある。

学校教育が社会と隔絶したところで行われれば、それは社会を根底から覆す事にもなりかねない。ただ、教育者の中に潜む革命家からすれば望むところなのかもしれない。
しかし、財政という観点からすれば、体制を覆すために財政負担を厚くしているとしたら、自殺行為である。教育は、学校や教育者のためにあるわけではない。

財政の健全化を図るのならば、量から質へと転換する必要がある。
その典型が教育である。少子高齢化が前提となっている。大学に進学する年齢である18歳の人口は1993年205万人で頂点に達しそれから減少を始めて2017年には、120万にと1993年から見て4割以上も減少したというのに、大学の数は、1988年490校だったのが2017年には、780校と逆に2倍弱に増えている。大学の入学も全入、つまり、応募数が受検者を上回る時代になる。問題は、学生や教育の質である。結局学生数が減ることが予想されているというのに、学校の量を増やし、挙句に、教育の質を落としてしまっている。
何の展望もないまま、成り行き任せにして財政の健全性が保てない事が問題なのである。本来なら、人口の減少を見越して、大学の数を減らし、その分、研究や施設に資金を回して教育の質、ひいては、学生の質を高めるべきなのである。
教育の質を高めるためには、教育に対する考え、即ち、哲学や理念を確立する事が求められているのである。
財政が建国の理念に基づくと言われる由縁である。

教育こそ、高邁な理想や理念が求められる。それが利権や既得権によって形骸化し、堕落するのが問題なのである。それは財政の不健全性と同根の事柄である。財政を単に赤字だと問題にする以前に、何に対して、どの様に資金を使うか、その根本を忘れてしまえば、財政が健全であるかという議論そのものが無意味になるのである。

教育者にとっても、政治家にとっても、官僚にとっても、何に志すかが重要なのである。志のない教育は魂のない教育であり、単なる骸に過ぎない。魂のない骸は醜悪なだけである。

国土保全費、及び、開発費とは


国土保全費、および開発費は、公共事業の要である。
公共投資は、景気対策ありきであってはならない。公共投資は、国家建設の手段である。国防の一種である。
それ故に、国土開発費は、国家理念、国家構想、国家戦力に基づかなければならないのである。

公共事業を利権に結び付けると国土が荒廃する。それは、亡国につながる。
国土保全費や開発費が問題となるのは、公共投資がもっぱら景気対策としてのみ語られている事にある。
景気が悪いから公共投資をして、景気が悪くなったら、あるいは、財政が悪化したら公共投資を削減するとしたら、公共投資本来の目的が損なわれるのは当然の事である。一番大事なのは、何のために、なぜ、その公共投資をするのかそれを検証する事なのである。

近年では、諫早湾の開拓やダム建設の是非が問われ、何のために、巨額の資金を投じる必要があったのか意味不明の公共投資も見られる。
また、時代や状況の変化によって見直しを必要としている事業もある。公共投資によって環境破壊や公共の福利に反するような事態が起こっている場合もある。不必要な道路を作った事で生態系が壊される事もある。

巨額な資金が投入されるのであるからより慎重な監視をする必要がある。
公共投資は、既得権益の巣窟となり易いのである。

東日本大震災は、多くの教訓を残した。東日本大震災によって失われた多くの尊い犠牲者のためにも、我々は、後世にその教訓を生かしていかなければならない。それが残された者の責務である。

国土保全、開発こそ国家戦略に基づいて構築されなければならない。
なぜならば、公共の福利の礎となるからである。

国土保全や開発と言うのは、社会のインフラストラクチャーの整備や骨格を作り上げる部門である。また、自然環境の保護や災害に対する備えもしなければならない。単なる失業対策ではないし、高度な技術や経験を必要とし、そのような技術や経験を継承していかなければならない。土建屋と言うのは、悪い印象が持たれがちであるが、それは、国家に対する明確な構想を持たずにただ道路を作ったり、ダムを作ったりする業者が横行したり、金儲けのために政治を悪用したりするからである。
本来、土木建築と言うのは、国造りを言うのである。古来、中国の皇帝は、治水事業に長ける者だった。

国土開発は、長い年月を必要とする。長い年月をかけて営々と築き上げていく大事業である。だからこそ国家が担うべき事業なのである。
人々は、洪水や飢饉、地震などに苦しめられてきた。人々を苦しみから救うのが国土保全、開発の本旨である。
しかし、国土保全には、多額の資金を必要とする上に、景気対策としては、手っ取り早いそのために、公共投資として有効活用されてきた。
巨額の資金が継続的に投入されるために既得権益化し利権と化してしまった。
しかし、国土保全、開発に携わる者には、高尚な理念と使命感が求められるのである。

公共投資に景気の起爆剤、カンフル剤の働きを期待するのはいいが、慢性化すると麻薬のような中毒症状を呈し、財政を悪化させる原因となる。公共投資は、景気対策と言うより、本来の役割を重視すべきなのである。

超長期的構想に基づいて建設の速度を調節する事によって年々の景気を対策に活用すべきなのである。
それは、国民の壮大な夢や理想に基づいて構想されるべきなのである。

社会保障は、所得再配分の費用である


財政が破綻して最も深刻な被害を受けることが予想されるのは、社会保障制度である。
社会保障制度は、所得の再分配の費用である。

社会保障は、社会の根本的機能の一つである。つまり、社会的機能の本質的な部分でもある。
なぜならば、人間は一人では生きられない、集団や社会を構成する事で生存してきたからである。
また、人間は、成長し、独立するまでに一定の期間を必要とし、また、歳をとったら他人の介助なしでは生きていくことが困難だからである。
この様な互助的な働きによって国家は成り立ってきたともいえるのである。

社会の互助的な機能は、法や社会の規範、倫理の根源でもある。
また、家族の絆でもある。

経済の仕組みの本質は、分配にある。つまり、所得の再配分は、今日の経済の仕組みの根幹にかかわる事なのである。この点を忘れてはならない。
所得の再配分は、貨幣制度を成り立たせるために重要な働きをしている。「お金」が円滑に、かつ満遍なく流通させるための手段として所得の再配分は、有効なのである。
「お金」の働きは、適正な配分を実現する事にある。適正な社会的配分を実現するためには、「お金」が効率的に配分されることが望ましい。効率的というのは、必要な部分に、必要なだけ、資金が配分される事である。
所得の再配分の目的は、資金の過不足を均すことにある。故に、所得の再配分の目的は、格差の是正、流動性の維持し、資金効率を高める事、そして、社会的弱者の保護にある。

近年、所得の再配分の手段としてベーシックインカムが取り沙汰されている。ペッシックインカムの考え方は、働きと収入とを切り離す事を意味する。一種の社会主義思想と見なす事が出来る。しかし、この考え買ては、経済の双方向的働きを否定する事にもなる。ベーシックインカムは、所得でない収入を意味する。つまり、反対給付がないのである。
経済は、収入と支出、貸し借り、売り買い、収益と費用の様な双方向性によって成り立っている。の双方向性が失われると経済の仕組みは、制御できなくなる。故に、ベーシックインカムは、経済の仕組みを根底から破壊する危険性がある。

今日の社会保障は、制度や設備と言うハードウェアの問題に限定している。しかし、社会保障で重要なのは、人間関係とか、家族の絆、道徳と言ったソフトウェアの部分である。この点を抜きにしたら、社会保障そのものが成り立たなくなる。

高齢者問題とは、いかに、豊で充実した老年期を送れるかの問題であって制度や設備の問題ではない。いかに素晴らしく、豪華な施設には入れても誰も会いにも来ない状態が果たして幸せと言えるのか。

どんなに高度な設備や施設を作ってもそれを運用できる人間がいなければ虚しいだけである。冷たい仕打ちやいじめにあっても何も抵抗もできない環境がいいのか。これらは倫理観の問題であって設備や制度の問題ではない。

財政が破綻するとこの所得の再配分機能が利かなくなる。そうなると社会的弱者、年金生活者や失業者、生活保護家庭の生活が成り立たなくなる。また、格差の広がりも是正できなくなり、所得格差や財産の偏りが生じる。
所得格差や財産の偏りは、社会を分断し、資金効率を悪化させる。最終的には社会的不平等を蔓延させて暴力的な手段で社会は破壊される。

社会保障は、大きな政府を志向するのか小さな政府を志向するのかという国家の根幹にかかわる考えを具現化する問題である。
社会保障を厚くする事は必然的に大きな政府になるし、夜警国家と言うように政府の働きを最小限にしようとすれば小さな政府を志向する事となる。ただこの問題も社会保障にかかわる負担をどの部門が担うのかの問題である。

大きな政府だから、財政が破綻し、小さな政府は財政が破綻しないとは限らない。大きな政府は、それだけ収支の幅が大きくなるから破綻しやすいと言えるかもしれないが、国の制度がしっかりしていれば、社会福祉を充実したから財政は破たんしたとは言えない。一番いけないのは、どっちつかずになって出費ばかりが嵩む場合である。

まず第一に言えるのは、社会保障と言うのをどの様にとらえるかは、国家に何を期待するのかを問うているのである。
子供や両親、そして、社会的弱者をどの様に考えるかが社会保障の問題である。
国家は、国民の面倒を見るのが当然だと考えれば、社会保障は当然である。日本の場合、その点が不明瞭なのである。キリスト教やユダヤ教、イスラム教には、同胞の面倒を見るのは当然だとする思想が根底にある。イスラム教の一夫多妻制度の根源も同胞愛にある。社会保障の根本は、隣人愛であるが、日本人には、その発想が乏しい。ともすると社会福祉の思想そのものが輸入されたものである場合がある。そうなると福祉政策の本質が形骸化してしまい、既得権のように扱われる危険性がある。

社会保障に相当するものは政府だけが担う事ではない。かつては、家族が担っていた。そして、今でも家族に負うべきところが大きい。また、子供のうちから親の面倒を見るように仕向けるのは、人としての課題である。つまり、価値観の問題である。だからこそ、欧米では宗教が深く関わっているのである。
ところが日本では既得権のように思われ、結局は「お金」の問題にすり替えられようとしている。それが家庭崩壊や家族の絆を断ち切る原因にもなっているのである。孤独死の問題は、単なる社会現象としか伝えられていないが、実際は、財政の問題として、また、家族の問題としてより深く考える必要がある。

財政が悪化したからと言う理由で単純に社会保障費を削減すればいいというのは、乱暴すぎる。社会保障が果たしている社会的な働きをどの様に評価し、どこが負担すべきなのか、仮に行政の部分が削減された場合は、それをどの部門がどのように分担していくかを明らかにしておく必要がある。財政が破綻すれば、結局家計が負担せざるを得なくなるのである。問題は、必要な保障がどの部門も引き受けられなくなり、高齢者や社会的弱者が何の保障もなく放り出される事なのである。財政が破たんしても財政に代わって引き受ける部門がハッキリしていれば、被害があったとしても最小限にとどめる事が出来る。

財政が破綻すれば真っ先に切り捨てられ、見捨てられるのは、高齢者や社会的弱者なのだからである。
社会保障の問題は、人の生き様、人生を考える事なのである。

社会保障の本質は、制度や施設の問題ではなく、コミュニティー、家族、個人の倫理観の問題だという事を忘れてはならない。なぜなら、我々は、人間なのである。だからこそ、国として、地域コミュニティーとして、家族として、人として何をすべきなのか。何ができるのか、各々が何を分担し、何を負担するのか、それは国家、社会の根本的な問題なのである。


行政費は、法を維持するための費用である。


行政費は、法を維持するための費用である。
国民国家は、基本的に法治国家である。なぜならば、国民国家の主権は国民にあるからである。
つまり、権力は、一部の家族や個人、勢力に帰すのではない。
国民国家の主権は、国民と言う集団に委ねられる。
故に、国民の意志を反映するための何らかの手段、装置、仕組みがあって国民国家は成り立っている。
それが国家制度である。
国家の運営は、選挙によってえらばれた政治家が国民の信託を受けて執行する。
国民国家の正当性は、手続きによって保証される。手続きとは法である。
この様な国民国家は、法に基づく制度によって維持される。
故に、国民国家は法治国家である事を前提としている。
そして、法を維持し、執行する為には費用がいる。法を維持し、執行するたるの費用が行政費である。

法は立法府によって制定され、行政によって執行され、司法によって守られる。
法の番人警察によって治安は維持される。

国家の運営は、行政府と言う国家権力によっ実現される。
法は、国家権力からも国民の権利と義務を守る。

法は、国家権力からも中立でなければならない。

夜警国家と言う言葉が示すように、国家が最小限持たなければならない働きは、治安の維持と国家の独立である。
それはある意味で国家の本質を意味している。また、国家が国家として成り立つ為の必要最小限の働きが治安の維持と独立の維持だともいえる。


国債の働き


予定される歳出に対して実際の歳入が足りなくなれば、政府は、借金をしなければならなくなる。
政府の借金を国債という。歳入の主たるものは税収である。税収以外に国家事業に基づく収入がある。借入金による収入も歳入の一部である。

政府の借金は、家計や企業の借金という意味だけでなく、お金の供給という働きかせある。つまり、政府は、「お金」の供給源でもあるのである。故に、国債を単純に家計や企業の借金と同じものだと思い込むと重大な過ちを犯す。

国債は、政府の借金である。政府というのは、行政府である。
国家が、行政と民間企業、家計、海外主体からなるとしたら、国債は、政府の他の経済主体に対する借金である。
借金は、借り手のみでは成り立たないのである。
そして、貸し借りは常に均衡している。
問題は、均衡である。

国債を問題とする時、借金だから悪いと短絡的に考えている人がいる。借金だから悪いというが紙幣は、元は借用書、つまり、借金がもとにある。もっと直截的にいうと紙幣の根源は、国債が変形したものである。つまり、紙幣とは借金なのである。全ての借金を返済したら理屈の上では紙幣は消えてなくなる。それでは困るのである。
借金だから悪いというのではなく。借金の量と割合、そして、それから派生する時間価値、即ち、利息の問題なのである。

現在の経済は、貸し借り、売り買いからなる。貸し借り売り買い以外に贈与という形もある。

贈与は一方的な働きしか持たない。故に、ゼロ和の関係が成り立たない。双方向の働きがなくゼロ和の関係が成り立たないという事は、経済的価値が成り立たない事を意味する。物や用益とお金とが結びつかないから、物や用益の経済的価値を確定できないのである。また、双方向の働きがない事によって貨幣の流通量を制御する事も出来ない。

故に、贈与という行為は、基本的には、経済行為としては認められていない。故に、贈与に対しては、税が課せられる。
これは相続でも同じである。

故に、贈与という行為も対極に反対取引を想定する事が必要となるのである。

補助金や給付金には、贈与という側面がある。
それが財政を悪化させる一因でもある。

お金は、国が借金をすることで資金を市場に供給する事によって世の中に流通するのである。

表象紙幣の本質は、借金である。紙幣と銀貨や金貨との本質の違いは、その点にある。紙幣は、元々、兌換紙幣、つまり、現物と交換できるという前提付きで発効された証書である。つまり、紙幣は、それ自体が価値を持っているわけではなく、価値を表象している証書に過ぎない。この延長線上に国債がある。裏返してみると国債の延長線上に紙幣はある。

国債が貨幣化する絡繰りは、中央銀行が絡んでいる。今日の中央銀行の起源は、国債を担保として紙幣を発行する事にある。国から国債を引き受けるその担保として紙幣の発行権を得たのである。だから、中央政府と中央銀行は、表裏の関係にある。
行政府と中央銀行との関係が制約となって通貨の供給量に上限が設定される。

中央銀行が国債を直接引き受ける事が通貨の発行権の制約をなくすというのは、中央銀行が国債を引き受けるためには、本来限界があるからである。その限界は、中央銀行以外の金融機関との関係によって生じる。
つまり、中央銀行が直接でなく、間接的な形で国債を引き受けようとした場合、中間に市中銀行を介在させなければならない。金融機関は、手持ち資金がなければ国債を購入する事が出来ないからである。金融機関に余裕資金がなくなれば、国債を購入する事が出来なくなるからである。

ただ、国債を購入する資金を中央銀行が貸せばその制約も有名無実化する。そうすると中央銀行は、通貨発行の制約を失う事になる。
中央銀行が国債を無制限に引き受ける事を財政ファイナンス、マネタイゼーションと言う。これは、中央銀行では禁じ手の一つとされている。
なぜ、財政ファイナンスは禁じてなのか。それは、通貨は、分配の手段だからである。分配は、一つの全体が確定する事によって成り立つ。全体が確定していなければ部分は成立しないからである。通貨の総量に上限がなくなれば、通貨は、分配の基準としての機能を果たせなくなる。つまり物の貨幣価値が際限なく上昇してしまうのである。

紙幣を行政府が直接発行するのではなく、中央銀行が発行するのも同じ理由である。行政府が資金不足に陥った時は、一定の範囲内で国債を発行し、借金の形で資金を調達するのである。行政府が直接紙幣を発行するのは、自分で自分から借金をするような行為で、制限を設ける事が出来ないからである。

かつては、手持ちの何らかの現物の交換を前提として通貨の発券量を制約してきた。それが兌換制度である。現在は管理通貨制度を採用し通貨を何らかの基準で制約する事で通貨の品質を維持している。

国債と通貨は表裏の関係にある事を忘れてはならない。今日の通貨は、国債によって担保されているのであり、国債の発行残高は通貨の上限を画定し、通貨は、国債の発行を制限するという関係にあるのである。しかし、いずれにせよ、歯止めを失えば、通貨は際限なく発券できるようになる。


経済現象は不可逆である。



経済を難しくしているのは、経済現象の多くが不可逆的事象だという事実である。
歴史は繰り返すというが、では、過去にさかのぼってやり直せるかと言うとそういう訳にはいかない。
覆水盆に返らず。ガラスを割ってしまったら、お終いなのである。

異次元の金融緩和をすれば、異次元の金融緩和を始める以前には立ち返れない。
公開先に立たずである。それが経済である。

経済は、基本的に因果関係で結ばれている。
なぜならば経済活動は時間の流れ方向に沿って手順に従って起きるからである。

物事には、順序、段取りがある。この順番を間違うと経済は期待した効果が上げられなくなるのである。
故に、経済的事象では過程が重要となる。過程が意味を持つ事さえあるのである。

損益の均衡を保つ為には、所得を再配分する事が必要とされる。それは個人だけでなく、企業も、国家も、全ての経済主体が対象となる。再配分しなければ、歪みが拡大して経済状態を修復不可能なほどに歪めてしまう。再配分の為に有効な手段の一つが税制である。

通常の取引で是正できない所得の偏りを是正するのが所得の強制的な再配分、即ち、税である。

戦後、日本は、焼け野原から這い上がってきた。焼け残った工場を除いて何もなかったのである。焼け野原から経済を再建すると言う事は、文字通りゼロから始めるようなものである。
それが戦後復興、高度成長の推進力である民間投資を促した。その高度成長が頂点に達した所から日本経済に陰りが見えてきたのである。
投資が一服し、市場が飽和状態になった時、損益上の減価償却が終わった設備の中には、借金の返済が終わっていない資産が多く含まれていたのである。要するに、費用として計上されない支出が派生する。それは損益上は利益が上がっているように見えてキャッシュフロー上では表に現れない支出が生じていることを意味する。それが、一斉に生じると経済主体の資金繰りを悪くするのである。
これは家計や財政では固定的支出が増加して可処分所得の割合が低下している状態としても現れるのである。
売買取引より貸借取引の割合が大きくなることでもある。つまり、見かけ上は、お金が余っているように見えても、実際に市場に流れているお金が不足している状態に陥っているのである。その為に全体としての実質的総所得が伸び悩む。

財政赤字を産み出しているのは、この様な経済構造にある。

どこが赤字を引き受けるかそれが問題



問題は、何処(どこ)が赤字を引き受けるかである。それは、赤字になるのではなく。赤字にするのである。そして、黒字の主体は、赤字の主体にお金を貸さなければ資金の循環は止まる。

財政赤字、財政赤字と言うが、現金収支はゼロサムだとしたら赤字主体があるという事は、黒字主体がある事を意味している。
この場合、気を付けるべきなのは、赤字というのは、期間損益上の赤字という意味ではなく。
現金収入の不足を意味していることである。期間損益上の赤字というのは、費用が収益を上回った状態を言う。収益と費用はゼロサムではない。故に、赤字主体があれば黒字主体があるとは言えないのである。
財政が赤字と言う事は、民間部門か、海外部門のいずれかが、黒字と言う事である。民間も財政も赤字で、海外部門だけが黒字というのは、考えられないことはないが、それは、過去の資産を食いつぶしているとか、余程資源に恵まれていないかぎり、長続きはしない。大体が、財政が赤字で民間が黒字という形になる。

何処を、時間的に空間的に、黒字にするか、赤字にするかの問題が、また、赤字や黒字の幅や変化の方向の問題が赤字は是か否かの問題にすり替わっている。
ゼロ和だから赤字があれば黒字がある。問題は、何を赤字にして何を黒字にするか。何時赤字にして何時黒字にするかである。
財政を黒字化したいと思うのならば、民間を赤字にすればいいのである。貸し借りの裏付けが収益であれば、所得は拡大するが、資産であれば、所得は収縮する。
貸し借り裏付けとは、担保を指す。借金は将来の収入を担保している場合と資産価値を担保しているかによってその性格に差が出るのである。そして、資産は、ストックを収益はフローを生み出しているのである。そして、利息は、フローの過程でストックを基にして派生する。つまり、利息のような時間価値は、ストックの働きをフローに現わす事でフローとストックを結び付けているのである。

それ故に、問題になるとしたらなのは、ストックとフローの均衡がとれなくなる時や場合である。ストックとフローの均衡がとれなくなると、即時間価値に反映してしまう。高度成長時代は、ストックは増大したが、それを上回るフローの増加があった。高度成長の終焉にさしかかり、ストックの厚みが増すとフローの流れは悪くなってきたのである。時間価値である利益率も金利率も限りなくゼロに近づき、最期はマイナスにまで落ち込んでしまった。

市場が拡大均衡期と縮小均衡期では、ストックやフローの働きには質的な差が出てくるのである。

日本経済は、1990年、バブル崩壊後、地価の下落によって担保不足に陥り、外部資金の調達の手段が断たれた。その結果、内部資金の範囲内で経営する事を余儀なくさせられた。それは支出を抑制し、負債を圧縮する事を意味する。それは縮小均衡策である。全ての企業が縮小均衡策を採用した結果、民間は、資金余剰となり、財政は資金不足に陥り、所得、市場は縮小したのである。

考えようによっては、財政赤字は、民間の黒字化を追求した結果だとも言える。バブル以後、民間が黒字化すればするほど財政や経常収支は赤字化したのである。
しかも、民間部門が黒字だと言う事になると民間部門の景気がいいように思えるが、実際はそう簡単な話ではない。
民間が黒字化したというのは、借金をして投資をしたくても、地価が下落して、借金する為の担保が不足したから借金ができず、利益が上がってもひたすらに借金の返済に追われた結果である。しかも、設備更新の資金も内部資金を取り崩して工面をした。では、返済資金はどうしたかと言えば、ひたすら、経費節減に励んだのである。これでは、所得が収縮するのも当たり前である。民間は黒字化し、借金は減ったけれどその分全体の所得は減少した。
そして、民間が黒字化するという事は財政が赤字化する事になるのである。
民間が黒字化になるといっても、民間の収入、所得が増えるとは限らない。逆に、支出を削減することでも収支を黒字化することは可能なのである。しかし、その場合、全体としての収益、所得は減少する。それに、民間が黒字化すると言っても社会全体の景気が良くなるという事を意味しているわけではない理由である。


財政上の借金と家計の借金は性格が違う



資金の過不足を補うのは、貸し借りである。「お金」の買い借りは、借金を生み出す。
よく国の借金を家計に置き換えて表現している物を見掛けるが、財政上の借金と企業経営上の借金と家計の借金は根本が違う。
まず第一に、目的が違う。第二に、対象が違う。第三に会計が違う。第四に働きが違う。第五に性格が違う。
家計、企業、財政、海外部門の借金を十把一絡げに語る事はできない。

家計、企業、財政、海外部門は、局面が違うのである。
家計は、主として消費の場で、企業は、生産の場で、財政は、社会資本の場で、海外部門は、世界市場、為替の場で成り立っている。次元が違うのである。次元が違うから自ずと目的も違ったものになる。必然的に方向も対象も違うものになる。

特に国債は、単に資金を運用するというだけでない。財政には、資金を生み出し、市場に供給しするという役割がある。その手段として国債を活用する。つまり、国債には、紙幣を生産し、供給する役割、働きがあるのである。そして、この働きは、国債の働きも規定している。国債は、通貨の発行量を規制するという働きがあり、また、通貨を担保するという働きが加味されている。この働きは、通貨の発行権を根拠としている。
この様な国債に対して家計や企業経営は、約定によって借入金は、上限が確定している。
また、海外部門では、世界市場での通貨の安定や決済のための原資に国債は活用されている。

家計は、住宅などの消費を対象とし、企業は、設備投資や在庫投資等の生産手段を対象とし、財政は、社会資本や所得の再分配を対象とし、海外部門は、通貨を対象とする。
本来、財政は、事業目的が決定的な要素である。事業目的は、国家理念に準ずるからである。しかし、今日の日本の財政は、景気対策が主となって国家理念が忘れられている。それは元々敗戦によって作られた国家だからである。建国の理念があいまいなのである。国家理念そのものが否定され、持つ事すら許されないような自虐的な部分が日本人にはみられる。
そして、それが財政に致命的な悪影響を与えている。つまり、財政を評価するための基準が持てないのである。土建国家と揶揄される由縁である。確固たる教育理念が持てずに教育に対する予算が拡大する原因でもある。何のために、誰のために、何を目指して教育をしているのかわからない。ただ、明確に定義もされていない公平とか、公正とか、平等とか、民主的とか、人道的と言った漠然とした理念に囚われて、無原則に教育しているに過ぎない。それでは、予算を抑制することなどできない。前年を踏襲しているに過ぎなくなるのである。

企業会計によって負債は、資産、純資産、収益と費用とに取引を通じて結び付けられている。さらに、企業会計では、負債は、資産、純資産、資本、収益と費用の関係によって成り立っている。資産を担保にして成り立っている。

家計や財政は、現金主義に基づいているのに対して企業は、期間損益主義に基づいて負債の働きが測られる。利息の計算や評価も家計や財政は、現金主義に基づいて為される。企業会計は、資産や費用と関連付けられるが家計や財政は、返済額の多寡、返済額の収入との対比でしか測られない。逆に企業会計では、借入金の動向が表には現れない。家計や財政は、残高主義であって利益ではない。要するに残高が問題なのである。

家計や企業は利息は約定に基づいて定められるのに対して、国債や為替は、市場の相場に基づいて決められる。つまり、国債は、変動的で、景気や環境に敏感に反応するのである。

資金は、物とお金の交換とお金の過不足を補おうとする働きによって循環する。利益や損失は、その過程で生じる指標であってそれ自体がお金を循環させる働きがあるわけではない。経営の目的は、利益を上げる事ではない。資金を循環し、収入と支出を調節する事で、適正な分配を介して生産と消費を制御する事である。利益は、資金の循環状態を監視する為の指標に過ぎないのである。

財政赤字の何が問題なのか。借金をしたとしても家計と違って必ずしも返済しなければならないというのでなければ、問題ではないようにも思える。そこが財政赤字の悩ましい所でもある。なぜ、国が借金を貯めてはいけないのか。
一方的に赤字や黒字か累積すると均衡が破れ貸し借りができなくなり、資金の循環が滞る事になる。
実際に物を動かすのは売買取引である。貸し借りはある意味で仮想取引に過ぎない。貸し借り取引の比率が売買取引の比率より高まると実体的取引に支障が生じるのである。

月賦やローンで生活に必要な物を買い続けると返済資金が所得を上回るような事態が生じる。そうなるといくら金を稼いで借金を返済しても元本は無限に増えていくことになる。こうなったら経済は成り立たないのである。
いくら所得があっても借金を返済する目処が立たなければ新たな借入もできなくなる。

負債が累積すると貸し借りや売買に支障をきたす事になる。

負債の増加は、金利負担を重くする。


財務省    http://seesaawiki.jp/w/sunrise2010/

家計上の借金は、主として住宅ローンであり、消費的な資産に対する事が多いのに対し、企業の借金は、主として設備投資であり、生産手段に対するものが多い。生産手段に対する負債は、収益の元となって資金の回収を目的としている。そして、減価償却費によって清算される部分と一部に借り換えを前提としている資金が含まれる。

それに対して、住宅ローンのような借金は、将来の所得を担保していたは資金であり、約定通りの返済が前提となる。
つまり、対局にある資金の性格が違うのである。それによって借金の性格にも違いがある。設備投資は、期間損益主義に基づくし、住宅投資は、現金主義に基づいている。減価償却費の扱いが違う。投資の性格が違うのである。
金融機関の扱いにも差が生じる。

これからの時代は成長を期待できない時代である。

ゼロ金利にするのではなく。ゼロ金利になるのである。
ゼロ金利政策と言うのは、日本銀行にとって苦肉の策である事は間違いない。金融機関にとって利鞘が命である。その利鞘の根拠となるのが金利である。何と言われようと金利は、金融機関の存在意義を象徴している。金融の象徴ともいえる金利を金融機関の総元締めともいうべき日本銀行がゼロにするというのは、尋常ではない。
金利がなくなれば、即ち、ゼロ金利は、金融機関にとって収益率をゼロにする事でもある。

金利は時間価値の元となる。時間価値は、付加価値を構成する。金利をゼロにする事は、時間価値をその延長線上で付加価値を否定する事を意味しかねない。

時間価値をなくすは付加価値を失うことを意味する。
何もしなければ市場の拡大によって収益率が上がっていくという時代ではない。
収益率、即ち、付加価値を上げるためには、何らかの仕組みが必要なのである。
金利がなくなれば、即ち、ゼロ金利は、収益率をゼロにする事でもある。
それは付加価値を失うことを意味する。

赤字や黒字にするのではなく、赤字や黒字を状況に合わせて減らしたり増やしたりする仕組みを作ることなのである。

そして、家計や企業と決定的に違うのは、財政は、通貨発行権を持っているという事である。


赤字が是か非かではなく、均衡が問題なのである。


現在、我が国は、巨額な財政赤字に苦しんでいる。しかし、ともすると赤字は悪い事だからなくさなければならないと言った皮相捉え方に終わっているように思える。その為に、物事の本質がつかめずに、抜本的な解決ができないでいる。

赤字が是か非かではない。制御できる赤字かどうかが問題なのである。
制御できるかどうかは、赤字がどのような働きをして、何に対してどのような影響を及ぼしているのか。
また、なぜ赤字は、発生したのか、その仕組みが問題なのである。

「お金」は、「お金」だけで成り立っているわけではない。「お金」と交換の対象となる財があって「お金」はその効用を発揮する事が出来る。故に、「お金」の流れの逆方向に流れる財の流れがある。

「お金」の働きは、単方向にとらえていては明らかにできない。「お金」の働きを明らかにするためには、「お金」の働きを双方向な働きとして再認識する必要があるのである。
現在の財政は、単式簿記的単方向の働きとして認識している。そのために、負債を制御する事が出来ないでいるのである。
赤字か、黒字かといった局所的な見方だけでなく。全体的働きから個々の部分の働きとして適正かどうかを見てみないと赤字の持つ意味、黒字の持つ意味は明らかにできない。

期間損益は、資産と負債、収益と費用の均衡を計りながら「お金」の働きを制御するために設定されている。
故に、損益は、資産と負債、収益と費用の均衡点に設定されなければ意味がない。
「お金」は負債によって発生する。
収益を費用が下回っていると負債は減少し、収益より費用が上回ると負債が増加する。
収益と費用との関係は、負債の増減に影響を及ぼし、負債の量を調整する役割を果たしているのである。
期間損益は、資産と負債、収益と費用の水準を保つ事に主たる目的があるのである。

貨幣経済の問題で大切なのは、生産の問題ではなくお金を如何に循環させるかの問題である。
それは、赤字化、黒字化の問題ではなく、均衡の問題であり、所得の問題である。如何に所得を適正に配分するかの問題である。
負債が問題だとするならその負債をいかに何処に付け替えるかの問題なのであり、是非善悪の問題ではない。経済は均衡が大事なのである。
又、負債が問題だとしてもそれは負債の状態、累積しているのか、偏っているのか、過剰なのかの問題であって負債そのものを悪だとしているようでは、問題の解決はできない。
黒字が良くて、赤字か悪いというのは、お門違いである。赤字黒字の是非は、全体と部分との関係によって判断されるべき事である。

キャッシュフローが正の値であれば、経営財務は、健全化されているように見えるが、必ずしも健全だとは限らない。財務の健全性は、資金の長期的働きと短期的な働きが明確に区分されているかによる。それは、キャッシュフローを見ただけでは検証できないのである。
重要なのは、お金が正常に機能しているかどうかである。

財政が赤字化する一因は、財政が現金主義に則っているのに、家計と違って貯蓄が許されていない点にもある。つまり、赤字の原因の一つは、単年度均衡主義にある。貸し借りによる長期的な均衡が許されなければ、ゼロに均衡する。それがゼロサムである。単年度均衡主義である。
しかも営利事業が許されなければ、蓄えをする事ができずに現金不足を解消する手段がなくなる。一度現金が不足すれば、蓄えがないから清算することもできなくなる。
また事前に予算が決められてその範囲内での運用しか許されなければ、予算が余れば、予算を使い切り、予算が足りなくなれば、どこからか短期的にお金を借りてきて補う事になるから、そのお金が返せなくなり、財政は慢性的な赤字に陥る事になる。

営利を否定したら経済は成り立たない。




営利主義の否定は、金利や利潤と言った付加価値、時間価値の否定に基づいている。時間価値を否定したら長期均衡が不可能になる。付加価値を否定すれば、現金収支の不均衡はそのまま赤字に結びつく。利益が出ている時は、利益を吐き出し、損失が出た場合、損失を補う手段を持たないからである。そして、それは貸し借りを否定していることでもある。
財政を健全化する為には、時間価値を認めることで長期的視野を取り入れ、長期均衡を計る以外にないのである。
単に支出を緊縮しても所得を減らすだけで国家経済を健全化することには繋がらない。
大切なことは、何を国家経済は目的としているか。即ち、どの様な国を作ろうとしているのかが、根底になければ経済の健全化は語れない。

民間企業は、短期的に赤字でも長期的に均衡すればいいという考えに立ち、期間損益を計算する。
財政赤字を解消する為には、民間を赤字にして財政の赤字を付け替える以外にないのである。その民間を赤字にする手段は、期間損益主義を導入して長期均衡を計る以外にないのである。

今日の貨幣経済が、貨幣の循環に基づいて成り立っていると仮定すれば、財政というのは、国家の心臓部とも言える。

貨幣経済において経済の仕組みを動かしているのは、資金の循環である。資金の循環は通貨の発行量と回転数で決まる。
故に、自由主義経済では、通貨の発行量によって制約される。

経済の実質的な規模は、生産と消費の規模によって決まる。しかし、生産量や消費量は、直接、計測する事が難しい。ゆえに、生産量と消費量を貨幣価値換算する事によって計測し、合わせて市場の仕組みによって制御、調節するのが今日の、市場経済、貨幣経済を土台とした自由経済である。
貨幣価値は、物価の名目的価値を形成する。

実質的な経済は、物の生産と消費によって成立している。生産と消費は市場においては、需要と供給として現れる。つまり、実質的な経済規模は需要と供給を基礎として形成される。この需要と供給に通貨量が適合していると物価は安定的に推移する。しかし、実質的な経済規模に対して、通貨の流量が不足したり、過剰に流れと物価の名目的価値は不安定となる。

通貨の流量は、実質的経済規模の変動に影響される。通貨の流量が実質的な経済規模を上回れば、名目的価値は上昇する。

実質的GDPが名目的GDPを上回っていても、市場が拡大している場合は、実質的GDPの力が強くて名目的GDPを引き上げているのであるが、市場が収縮している場合は、名目的GDPの力が実質的GDPを引っ張っているのである。見た目は同じに見えても内容は正反対である。

実質的な経済規模の拡大が止まれば通貨の需要も減退する。資金需要が減退する中で供給が増加すれば過剰流動性が発生する。これは、社会全体の効用に負の占める部分の割合が拡大させる事を意味する。
実物資産の裏付けのない金融資産は負債である。

経済規模の拡大によって通貨の流量も増加させなければならないし。経済規模の縮小する場合は、通貨の流量も減少させる必要がある。
それを調節するのが財政であり、金融政策である。

紙幣は、はじめ借用証書だった。



通貨の発行は貸し借りによる。
通貨の過不足は、貸し借りによって解消される。
即ち、現金収支は、通貨の過不足の一局面を意味するのに過ぎない。個々の主体の現金収支や損得が全てを表しているのではない。
収入と支出は、均衡の問題であり、現金収支は、経済主体が経済全体に占める比率と回転数の問題である。
即ち、財政収支は、歳入と歳出の均衡の問題である。

公共投資を増やしても、緊縮財政をしても、増税をしても、借金は増えるし、収入も増えない。一向に財政は良くならないのはなぜか。
増税しているのに、税収は伸びないどころか減少している。その原因が問題なのである。
要は、収入と支出、収益と費用の関係が均衡していないのである。
支出の対極に収入がある事を忘れてはならない。

増税しても所得の総量が変わらなければ、実質的な税収は増えない。増えたとしても名目的な税収である。

所得や消費が減れば、税収も減るのである。つまり、税と言っても総生産、総所得、総消費、全体の一部分に過ぎない。全体の量をどう分配するのかの問題であって税体系が閉じた、自己完結的な体系ではないのである。そして、その根幹にあるのは、税ではなく。生産と消費であり、所得と消費である。

税も、借金の返済も可処分所得を減らす。
取引は、交換を前提として成立している。故に、反対給付のない取引は、経済的効果を発揮しない。

拡大均衡か、縮小均衡か



規制緩和による競争の奨励、収益力の低下、支出を削減し、緊縮財政策を採用し、金利を上げて投資を抑え、自己資本率の向上、総資産、総負債の圧縮等の施策は、縮小均衡型の施策である。逆に、規制をある程度して競争を抑制し、収益力を向上させて、税を緩めて支出を促し、投資を拡大する。金利を下げて借金をしやすくして、総資本、総資産を拡大させる。これは拡大均衡型施策である。
縮小均衡、拡大均衡どちらが是か否かの議論は馬鹿げている。どちらにしても絶対的施策と言う事はない。市場の環境、状況に合わせて拡大均衡型施策、縮小均衡型施策を組み合わせて施行すべきなのである。
それにしても、今日の日本の施策は中途半端である。

経済の状態は、経済主体の収入と支出の関係から生じる。
収入構造と支出構造が経済状態を規制しているのである。故に、経済主体の一つである財政を健全化する為は、収入構造と支出構造の整合性をとる必要がある。
単位期間内の収入と支出の働きを表したのが期間損益である。市場経済では、収入構造と支出構造は、収益構造と費用構造によって制御されている。ゆえに、市場経済と連携した上で財政の健全化を図るためには、収益構造と費用構造を一体化させ、統御させる必要がある。

経済主体というのは、収入を受け取る側であると同時に、支出を支払う側でもある。即ち、収入主体と支出主体は一体である事が前提である。
個人は、消費者であると同時に労働者でもある。売り手は買い手でもある。この事を前提とすればただ価格を安くすればすむと言うほど単純な話ではないのである。この双方向の働きを経済主体が一体的に持つから経済は均衡するのである。故に、経済は、部分的にも全体的にもゼロ和均衡になる。

財政収支が均衡するためには、財政収入と財政支出が予め均衡するような仕組みに設定されていなければならない。

収入や支出は、国家や世界市場の構造や状況に多大な影響を受けている。
所得の再配分一つとっても人口構成や雇用、景気の動向が大きく関わっており、政府の内部の都合や事情だけでは決められないのである。

戦争は財政赤字の本質的解消にはならない


経済や財政が行き詰まりった時、結局、戦争や革命、クーデターのような暴力衣的な手段ででしか問題を解決する事が出来なくなる。
大きな戦争の陰には、経済や財政の破綻が隠されている。

権力者は、追い詰められた時、戦争の誘惑に取りつかれる。人は餓えた時、体制に叛逆する。
暴力的に破壊し、暴力的に他国を支配しようとするのである。

多くの戦争は経済が原因で起こる。また、革命の背後には、貧困や飢餓、窮乏が隠されている。経済とは生きる為の活動である。人は、生きようとして生きられないと悟った時、戦いを起こす。人は生きる為に戦うのである。
国家経済が負債によって行き詰まると、あらゆる物全てを破壊し尽くし、累積した債務を帳消しにしたいという衝動に為政者は駆られる。そして、戦争という究極的手段に対する誘惑に囚われるのである。
たまったツケを互いに押しつけ合って最後には戦争になるのである。

しかし、前提が何も変わらない限り、いくら暴力的な手段に訴えても根本的な解決にはならない。
根本にあるのは、人々が生きようとして生きられない環境なのである。
経済の問題を解決しない限り、貧困も飢餓も解決しない。そして、戦争も革命も内乱もなくならない。

犯罪の陰には、金と女があると言われる。つまりは、経済と欲望、憎しみが、人を犯罪に書き立てるのである。
生活に困れば、人は物を盗み、強盗を働き、人殺しまでする。

貧富の格差は経済の問題である。

アメリカで銃規制が叫ばれるが遅々として進まない。
最終的手段として武力の行使を排除しない経済主体が一つでも存在するかぎり、非武装化できないのである。
金を手に入れるためには、違法行為を躊躇しない人間がいるかぎり警察を否定できないというのと同じである。

戦争や革命と言った暴力的な手段は、政治的な解決手段になるかもしれないが、経済を解決するための最終手段にはならない。

財政赤字の累積や経常収支の不均衡は、部門間の歪が原因である。部門間の歪が解消されなければ、結局、戦争や革命、軍事クーデター、ハイパーインフレーションと言って暴力的手段に訴えるしかなくなる。

現在の様な政策を続けていると部門間の歪は拡大し、また、時間価値が喪失していく。最後には、戦争のような暴力的な手段でしか解決不能な状態に陥る危険性が高い。しかし、戦争によって経済の根本的な解決はできない。
問題は部門間の歪をどの様に解決していくかである。特に、国家間の歪は、直接的に戦争に影響する要因である。この点を留意して国際交流を深めていく必要がある。一国が自国の利益だけを追求すれば、結局は、世界の経済体制を壊してしまうのである。


国家財政の基本は都市計画のようなものである。


国家財政の基本は景気対策でも、軍事でもない。
自分たちの国をどの様な国にするかという国家理念にある。
そして、国家の礎は、一年、二年でできるものではない。何年も、何十年も、それこそ何百年もかけて築き上げていくことである。

東日本大震災の時、得た教訓の多くは、何世代にもわたって語り継がれてきた事を忘れた事にある。

現代人には、傲慢なところがある。進化は、進歩であり、過去はすべて劣っていて学ぶべき事は何もないという思い上がりである。

財政は、景気対策のためにあるわけでもなく。現代を敷衍化することにあるのでもない。
子孫に対して何を残せるかの問題である。

日本の都市、特に東京は、自由だ、放任だと言って無秩序に何の計画性もなく好き勝手家やビルを建ててきた。
その弊害は、災害や再開発の時に露呈する。道路一本通す大仕事である。
乱雑に建てられたビル群は、一つひとつは個性的な設計をされていたとしても全体として見たら、ただ雑然とした没個性的な塊に過ぎない。

国を守ると言って戦争を起こし。人類のためと言って人類滅亡の火種をまき散らす。

美しい街並みは失われ。人々の生活の場であった商店街も廃墟となっている。
子供の頃に飛び回った山河は荒れ果て。野生の動物たちは影も見せない。
人々の社交の場であった店はなくなり、倉庫の様な店舗が増えた。
利益だけを追求した職場は一見合理化されたように見えても結果的には人々から仕事場を奪っている。
ただ無味乾燥な箱でしかない家や仕事は、人々の心から安らぎまで奪ってしまう。

一体我々は、どの様な国を望み、どの様な国にしたいと思っているのか。
それを忘れたら財政なんて意味がない。
財政は、国民の夢や希望を実現するための手段なのである。

景気対策と称して人々が望みもしない、必要ともしていない家、人の住めない家や建物を建てる。街を見れば住む家を取り上げられ、住む家さえ持てない人々に溢れている。その一方で空き家、空き部屋が増えている。ゴーストタウンが出現している。
財政は、景気対策のためにあるわけではなく、国民に豊かで幸せな生活を送らせるためにこそある。
公共投資は、景気対策の手段ではない。国民を災害から守り、国民生活の利便性を向上させるためにこそある。
必要としていないところに橋をかける必要もないし、必要としていないところにトンネルを掘る必要もない。
まずしっかりとした青写真、構想があってこそ財政は本来の力を発揮させる事が出来るのである。

子孫を繁栄させたいのか、破滅させたいのか。
それを明確にすべきである。

国家は、国民に生きる場を与え、人々の想いを実現するためにある。


財政を健全にするためには、国家戦略が必要である。



今、我が国が必要としているのは、国家的意志と国家戦略である。
なにも、これは、国家主義とか、全体主義とかと言うのではなく。自由主義やグローバリズムを否定するという意味でもない。
現在の国際社会が国の働きを基本単位の一つとしているからである。主権国家、独立国家が主体的な働きをしないと国際社会にも国家に対しても貢献する事が出来ず、結果として主権や独立を危うくするからである。

まず、国家戦略の根本は、我が国の主権と独立を維持する事にある。
次に、建国の理念を実現する事にある。
前提として我が国は、国民国家だと言う点である。国家の主権は国民にあるという事である。主権者の権利と義務を守る事が国民国家の国是である。

最も避けなければならないのは、国家戦略も展望もないままに、外部の圧力に屈し、部門間の歪を是正する事である。それは我が国の主権を否定し、独立を危うくする事だからである。

財政赤字と言うが、表面的な事に囚われて、その背後にある根本的病巣を見逃せば、国家の存亡すら危うくする。
現在の財政の諸問題は、部門間の資金の過不足の歪みからきている。この部門間の歪みを是正しないかぎり、財政を根本的に改善する事はできない。

市場経済を動かしているのは、部門間の資金の過不足による。基本的に家計部門と民間法人部門の短期的では、交互に資金不足部門と余剰部門とを入れ替わらせる。
通常は、財政部門は、中立的、即ち、均衡した上に置かれるようにし、資金を供給する時に財政部門を資金不足部門とするよう調節する。財政部門は、期間損益(プライマリーバランス)を視座に入れて運用する。
そして、金融部門は、裏方として中立的立場を維持するように制御する。金融部門が資金余剰部門、資金不足部門として表面に現れるようでは資金繰りが上手くいっていない事になる。財政と金融は、表裏一体となって資金循環の中枢として機能するようにする。
海外部門は、国際分業の観点に立って経常収支と資本収支が均衡するように調節する。海外部門は、水平的均衡を保つ部門でもある。
絶対に赤字は悪いと決めつけるのではなく。資金と損益の関係をよく見て判断するように心がけるべきである。

市場は、水平的均衡、垂直的均衡、部門的均衡によって三次元空間を構成し、それに時間軸を加える事で時空間、四次元的空間を形成する。

部門間の歪を是正する手段として第一に、負債そのものを清算してしまうやり方である。第二に、資金不足主体の負債をそのまま、資金余剰主体に移植する事である。例えば、負債を肩代わりしてもらう事、あるいは、民営化する事で負債を資産に転換するような事である。第三の手段としては、資金余剰主体を資金不足主体に構造的に変換する事である。負債を清算するというのは、副作用も大きく。最終的手段である。

部門間の歪を是正するためには、資金移動が伴う。
資金移動の中で時間価値を生じさせないのは、税、給付、贈与などであり、故に、税、給付、贈与は所得の再分配の手段として用いられる。
資本は、時間価値を生じさせないわけではないが、相対的な形で、かつ、規則的に派生するものではない。資本と言う概念が成立した事で、資金の過不足の歪みからくる過剰な働きを抑制する事が可能となった。
部門間の歪を解消する手段としては、税、給付、贈与などの手段も有効である。
また、資本取引を活用する事も大いに考えなければならない。

一番穏当なのは、時間をかけて構造手転換をすることですが、その時間が残されているかどうかが難しく。その道筋も明確にしなければならないですが、そのためには、産業の状態を熟知しておく必要がある。

根本にあるのは、我が国のあるべき姿を明確にし、その展望、構想を持つ事である。
それがなければ道筋を作ることはできない。過去と決別をし、何によって立つべきか。我々は、それを明確にする必要がある。その為には、それなりの覚悟をする必要がある。

税金を何に使うか。それが問題なのである。それこそが国家の役割を実現するための手段だからである。
税金を効率よく使う、それこそが財政再建の近道だからである。その為には、歳出の中身や配分を見極める事である。中でも所得の再配分の仕方が重要な鍵を握っている。それは、所得の再配分そのものが社会的であり、本来家計や企業が主体的に取り組むべきところが多いからである。例えば、年金や介護は家計が負担できる部分が多くあり、また、金銭面だけでなく家計が負担するのが筋である部分を多く含んでいるからである。親や子供の世話を誰が見るべきなのか。それは価値観によるところが大きいのである。

歳出には、行政費用、地方財政費、防衛関係費、外交費用、国土保全費用、産業振興費、教育費、社会保障関係費、国債費等がある。
所得の再分配として使われる部分は、主として社会保障費関係である。また、地方財政費は、空間的な意味での所得再配分を担っている。
国土保全費や゜産業振興費は、公共投資になる。
なぜ、所得の再配分の見直しが必要とされるのか、それは、所得の再配分に係る支出は、硬直的、固定的になり易いからである。景気の変動や環境の変化の影響を受けにくいために、歳出を硬直的にしてしまう。

財政が破綻すると真っ先に機能しなくなるのがこの所得の再配分である。所得の再配分は、経済的実体を持たない、単純な支出と見なされるからである。年金にせよ、社会保険にせよ、家計で代替えしろと言えば可能な支出なのである。本来、社会保障に相当する部分は、地域コミュニティーが担ってきた。だからこそ、地域コミュニティーの再構築をする事は、財政を改革するうえでも、財政が破たんした場合でも不可欠な事なのである。経済が機能しなくなった時、重要なのは、社会的機能である。

財政の質を悪くしている原因の一つは、税の使い道が今日、景気対策を主として考えられている事にある。確かに、財政の目的の一つに景気対策がある。しかし、景気対策は、財政の本旨ではない。あくまでも、副次的、二義的な事である。この点を忘れてはならない。
財税の質を保ちつつ、財政を立て直すためには、資金の過不足の歪みを是正するように支出の主体を代える事である。

量から質への転換こそが今求められているのである。

例えば、今、取り組まなければならないのは、教育の質である。教育の質を高めるためには、なぜ、何のために、何を教育すべきかである。一番肝心なのは、学習意欲を高める事です。ただ、教育すればいいというのでは意味がない。問題は、学校の量を増やす事ではなく、教育の質を高める事なのである。
少子高齢化が予測される今日、何の展望、目的も明らかにせずに、学校の数を増やしたり、無原則に無償の範囲を拡大するのは、自殺行為である。教育現場の荒廃、教育の質を招く事である。学習意欲もなく、目的もなく、進学してもかえって教育水準を下げるだけである。教育の機会を増やすという事と、強制的に教育するというのは、意味が違う。
人口が減少し、学生数が減る一方で、財政が破綻すれば、倒産・閉校によって追い込まれる事は必定なのである。ならば、明確な教育方針を立てそれに基づいて教育改革をすべきなのである。その為には、大学数を絞り込み集中的な資金投下をすべきなのである。何の展望もないままに無原則に大学を増やす事は、結局、人材を枯渇させることになる。

日本は、明治維新以来、「殖産興業」を国是とし、産業の育成にいそしんできました。そして、今日、日本は、世界に冠たる地位を築いてきたのです。しかし、足下を見渡してみれば、日本の企業だと思い込んでいる多くの企業が外国資本に組み込まれ、いつの間にか、日本の基礎となるべき産業が衰弱しはじめている。

企業が収益力も回復しないままに資金不足主体に追い込まれれば、産業は壊滅的な打撃を受ける。量から質への転換を促すような施策、(規制の強化も含め)を講ずるべきなのである。先ず何よりも収益力を回復できるような環境を作る事である。これは金融機関も含めてである。一番拙いのは、時間価値を喪失している事である。時間価値が失われれば金融機関は、利鞘を確保できなくなる。

例えば、エネルギー業界である。我が国は、エネルギーの原材料の大半を輸入に頼っている。エネルギー源を確保する事と効率的に活用する事は、国の存亡にかかわる大事である。
その為には、省エネルギーを促進する必要がある。しかし、単純に省エネルギー化を進めればエネルギー産業の収益力は確実に低下します。その為には、単位消費量を削減した分、単価で補う必要がある。確かに、産業としての効率化を図る必要がありますが、無原則に規制を緩和し、乱売合戦をさせたら、産業そのものが成り立たなくなる。

住宅産業も曲がり角に立たされている。新築着工件数は、バブル崩壊後減少し続けている。ただ、投資先のない余剰資金がまた、不動産に回れば、バブルの二の舞になる。次に、バブル、および、バブル崩壊に見舞われたら、日本経済は立ち直れなくなる。
高齢化が進む今日、地域コミュニティーの再構築が急がれます。高齢化が進んでいるというのに、買い物難民が現れるといった悲惨な状況に地域社会は追い込まれつつある。
財政が破綻し、年金制度や社会福祉制度が機能しなくなったら最後の砦として残されるのは、地域コミュニティーである。その地域コミュニティーが荒廃している。
根本にあるのは、都市計画の不在である。年は、商店街や広場を中心に計画的に建設されてきた。それが現在、無秩序に崩壊しつつある。地域活性化の元に巨額の資金を地方に資金が投じられているが、根本的な理念が欠如している。もともと、日本人は、社稷を重んじ、祭りを中心にして地域コミュニティーを構築してきたのである。大切なのは、人間関係、人の情けであって上物ではない。ただ効率的に資金を投資すべきなのである。人を生かすために、資金を投入すべきなのである。使命感を持って。

所得の劣化を防がなければならない。高齢化に従って所得が劣化する危険性がある。所得の形態には、何らかの生産手段に対する対価と、贈与、給付と言う二つの形がある。今後、高齢化が進むと所得の形態が対価から給付費と言う形に転換していく。対価から給付への転換は、生産性の低下を必然的に招く。特に給与所得者は、退職すると転職が難しい。その点、職人や個人事業者、個人商店、農業、漁業は、体力が続く限り仕事を続けることが可能である。これも、今後教育行政という観点からも見直す時期です。猫も杓子も大学へと言う時代ではない。やる気もなく、目的もなく、能力もない者まで高等教育を受けさせる必然性がないのである。

消費の質の向上も図られるべきなのである。大量生産、大量販売、大量消費の時代から、多品種少量へと転換を計るべきなのである。
今の経済は、安さばかりに価値を見出している。安さだけが競争力を持つと勘違いしている。経済は、生きるための活動である。消費は、経済の最終段階であり、豊かさは、消費の質によって測られるべきなのである。量産、量販に偏ったために、質が軽んじつつある。質を重んじるならば、高くてもいい品を選ぶ目を養う事であり、良い物を長く使う事で、経済性を高める事を計るべきなのであるむ。経済性とは、生産性や効率ばかりを表す言葉ではない。無駄なく節約する事を表す言葉でもある。

また、支出の劣化も懸念される。本来支出は、消費に向けられるべきものである。
支出には、消費に向けられるべき部分だけでなく、借金の返済、税、社会保障費、保険と言った固定的な支出がある。この固定的支出の支出全体に占める割合が上昇すると流動性が低下してくる。所得が低下したり、失業によって所得が得られなくなると極端に流動性が低くなる。この事は、高齢化が進み所得を給付に頼る人口が増えるにつれて流動性が低下する事を暗示している。さらに金利の上昇局面になれば生活破綻者が激増する危険性をはらんでいる。しかも、資金重要が決定的に低下する事も予測される。

為替は、名目的な事である。実質的な事ではない。名目的に改善できたとしても実質的な部分が取り残されてしまえば抜本的な解決にはならない。かえって禍根を残す結果に終わる。

資金移動の中で時間価値を生じさせないのは、税、給付、贈与などであり、故に、税、給付、贈与は所得の再分配の手段として用いられる。
資本は、時間価値を生じさせないわけではないが、相対的な形で、かつ、規則的に派生するものではない。資本と言う概念が成立した事で、資金の過不足の歪みからくる過剰な働きを抑制する事が可能となった。

日本の国是


現代日本の国是、建国理念は、個人主義、自由主義、民主主義である。
そして、経済体制は、自由経済である。

この点を正しく理解していない日本人が多い。
それは、現在の体制が敗戦によってもたらされたからである。
今や日本は、戦後生まれの人が大勢を占めている。
個人主義も自由主義も民主主義も当たり前の事のように、受け止め、現代の憲法も法も自然の法則のように錯覚している日本人は多い。
しかし、自由も民主主義も国民国家も、本来、革命によって勝ちとるものなのである。自由や民主主義を確立されるために幾多の血が流されてきた。今でも自由と民主主義のために戦っている者は、世界中にいる。

民主主義も自由も革命という暴力によって獲得された。その上に、国民国家は打ち立てられたのである。
民主主義や自由主義、即、無抵抗主義、非暴力主義はではない。民主主義者、自由主義者の多くが平和主義を求めてでもある。
民主主義は、暴力によって政権間交代をしないで済むようにする体制である。しかし、だからと言って民主主義と非暴力主義とは一体ではない。
むしろ、自由主義者、民主主義者は、自分を犠牲にしても自由や民主主義を守り抜く覚悟が求められる。なぜならば、自由も民主主義も独裁や武力に対して脆弱だからである。
圧政や暴虐の前に逃げ出したら自由も民主主義も守れないのである。自由や民主主義のために戦う覚悟なくて自由主義者や民主主義者は名乗れない。
自由も民主主義も国家も与えられるものではなく、勝ち取るものであり、築き上げるものなのである。
それ故に、自分の力で主権も独立も守れない国は、国家として認められない。
国際社会では、自分の力で自分を守れない者は一人前と認められないからである。
平和は、現実である。空想ではない。

経済は、生活空間を作る事です。生活空間の経済なんて欺瞞です。

日本人は、日本から逃げられないのである。

誰も守ろうとしない国は、守れ切れるものではない。

嵐が近づいていると解ったら、嵐に備えるのが当たり前である。嵐が近づいていると知っていながら何もせず、その結果甚大な被害を被ることがあったとしてもそれは自業自得としか言いようがない。

避けられない事ならば、最悪の事態も想定し、展望や戦略をもって対処すべきなのです。
避けられないとなったら、衝撃を可能な限り抑え、被害を最小限にとどめなければなりません。さもなければ、我が国は底なしの沼に沈み込むことになります。

展望も策もないまま最悪の事態を迎えたら後がなくなる。
我々は、これから来る子供たちのために、次の時代を担う者のために、できるだけの事をすべきなだ。
その為にも、我々は、戦後の繁栄を享受したものとしてそれなりの覚悟する必要がある。
この国の未来のために…。

我々には責任がある。





       

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