会計には、三つの重要な働きがある。その一つが、経済の民主化である。今一つが、経済の安定化である。最後の一つが、経済活動の監視である。中でも、最も重要な働きが、経済の民主化である。そして、経済の民主化を実現するためには、内部会計の確立が必要である。

 経済の民主化は、経済における主権を労働者、つまり、働く者が取り戻すことにある。本来、会計は、その目的のために働かなければならない。しかし、現在の会計は、働く者の会計ではないのである。
 そのために、働く者は、いつも過酷な状況に置かれている。働く者は、企業から最初から疎外されている。企業に勤め、実際に、汗水を垂らして働き、その成果で、生計を立てている者は、企業の経営や運命に関わることが許されていない。企業は、働く者達のものではないのである。企業の存続や収益の活用に対し、労働者達は、全く発言権を持たない。だから、企業の業績が悪くなったり、環境の変化についていけなくなったり、高齢化し、能力が衰えると、とたんに解雇の対象となる。一定の年齢が来たら退職しなければならない。自分達の会社をどのような会社にしたらいいのか、自分達の将来のために、何に投資をしたらいいのかについても、全く発言権がない。組織の変更や改革についても参画すらできない。また、労働条件や異動についてもである。それどころか、いざという時の蓄えすら許されない。自分の会社が倒産してしまったらそれまでである。つまり、働く者には、何の権利も与えられず、無防備な状態に置かれているのである。この点が、かつても組織と決定的に違うのである。企業以外の組織は、全人格的なものであった。基本的に、人間を中心にして考えられてきた。しかし、会計上においては、人間は、疎外されているのである。組織の運営、経営から排除されているのである。
 結果、働く者にとって会計主体である企業には、求心力をうしなってしまったのである。その証拠に、かつて骨を埋めるという言葉があったが、今は、死語である。企業に骨を埋めたくても、最初から拒絶されているのである。
 経済という最も生活に密着したところから労働者達が排除されている。それが、今日の民主主義の最も大きな欺瞞である。

 金融機関や親会社による支配に脅え、敵対勢力からの買収の脅威にさらされている。労働組合は、会社にとっては、敵対的な存在であるし、経営者といったところで所詮、雇われ経営者に過ぎない。また、経済世界には、世襲制度が厳然と存在する。つまり、経済は、全くと言っていいくらい民主化されていないのである。
 第一に、従業員が、経営に参画するのは、現時点では不可能に近い。なぜなら、現在の会計情報は、全くと言っていいくらい、働く者にとって役に立つ情報ではないからである。働く者にとって重要な情報は、人事評価、つまり、自己の労働と成果との関連であり、労働の対価の妥当性である。また、働く者にとって企業の継続性は、最も重要な問題であり、そのために、収益がどのように使われているかの情報が肝心なのである。会計情報は、これらの情報とは無縁である。つまり、現在の会計情報では、報酬は、労働の対価ではなく、コスト、費用の一つに過ぎない。また、内部留保は、株主の取り分を示したである。

 家計と比較して考えれば解る。家を建てるのに、銀行から借金をしたからといって、銀行の言いなりなり、仕事の指図をされる必要があるだろうか。プライバシーを公開する必要があるだろうか。献立まで、干渉さなければならないだろうか。親に、頭金を出してもらったからと言って、親の言う相手と結婚しなければならないだろうか。自分の稼ぎの全てを親に渡さなければならないだろうか。預金も貯金も、資産の全てが、親の物になるだろうか。しかし、企業に対しては、それを要求する。しかも、源泉徴収されているというのに、所得が、余ったら、その半分が税金でもっていかれる。担保を取られているのに、その上、全額返済もしなければならない。

 自分は、企業の独立、経済的な自律、民主化のためには、社員が務めている間だけ保有することのできる、一代だけの株券があってもいいと思う。一代株主な制度も検討の余地があるとおもう。

 重要なのは、企業を支え、存立させてきた社員達が必要としている情報である。なぜなら、彼等は、そこで生きてきて、こけから先も生きていかなければならないからである。株主は、株を売ってしまえば終わりである。債権者は、借金を返してもらえばいいのである。それに対し、労働者達にとって家族達も含めた生活や人生、全人格的なものが含まれているのである。

 人事評価や将来への投資について、働く者は、情報が必要である。それらの情報は、働く者達の人生に最も大きな影響を与える情報だからである。自分が習得した知識や技術が自分にとってどのような影響を与えているのか、どのような価値があるのかは、重要な情報である。また、自分達の労働の成果が、どのように使われているのか。それが自分達の将来や生活にどのように役に立つのかも重要な情報である。そして、稼いだ金の使い道に対する発言権は、基本的な権利の一つである。だのに一向に顧みられたことがない。

 内部会計とは、管理会計を軸に、社会保険会計、税務会計(社員向け)、退職金会計、人事会計(評価体系)、年金会計、投資会計と言ったものでが複合的に組み合わされて構築されるべき体系である。

 世界は、構造的統一の方向に緩やかに向かっている。
 思想的対立と言うよりも構造的な対立なのである。一見、思想や宗教上のように見える対立もその根底では、社会や経済構造の原則を共有しない相手を信頼できないそういう構図の中で、国際的な対立は引き起こされている。
 会計や経済の世界も然りである。会計は、一つの構造に統一されつつある。しかし、問題なのは、それが、会計本来の目的や在り方に沿っているかである。

 会計制度の変更は、経済に重大な影響を与える。問題なのは、会計制度の機能や働きも解らないで行政当局が、自分達の思惑や都合で会計制度をもてあそんでいる事である。

 増収増益を義務づける事は、結果的に、インフレを動機付ける事につながる。会計主体は、人々の生活に密着しているのである。

 会計制度の変更のような事で、企業の運命が左右されたり、労働条件が悪化したり、解雇されたり、また、経済が深刻な影響を受けていることである。会計の正義とは、何か。それは、教条主義的なものであってはならない。会計が対象としている世界は生きているのである。
 大切なのは、経済が廻っているかどうかである。論理的にいかに整合性がとれても、会計が原因で、経済が立ち行かなくなったら、本末転倒である。会計は道具に過ぎないのである。抜き身の刀は、切れれば、切れるほど、危険である。普段は、名刀ほど鞘に収めておく必要がある。

 地域社会に対する会計主体の問題も、同じである。せっかく企業を誘致しても雇用も増えず、税収も増えず、財政負担ばかりが増え、あげくに環境が破壊されたのでは意味がない。

 問題なのは、会計が、株主や金融、税務にのみ活用されているという事である。企業は、公器である。国家、国民、働く者達のためにもっと活用されるべきだという事なのである。

 会社が働く者のものでも、経営者のものでもないとしたら、国家は、国民のものでも、政府のものでもないと言う結論を導き出されかねない。家庭は、家族のものではないと言う結論にもつながる。会計には、その危うさが潜んでいる。そして、現代資本主義の持つ危険な落とし穴がその論理の中に見え隠れするのである。

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