会計がおかしくなってきている。それと共に、経済もおかしくなってきている。
 なぜ、会計がおかしくなってきたのか、それは、会計が本来の視点、働きを失っているからである。

 会計学ほど正当な評価を受けていない学問も珍しい。会計学なんて金儲けの手段が、商業の一部ぐらいにしか捉えていない人間が大勢する。だいたい商売や商業そのものを卑しむ傾向が、根強く残っている。

 ただ、ここで気をつけなければならないのは、現行の会計制度、既成の会計制度に囚われてしまうと、会計本来の目的を見失ってしまう危険性がある。特に、現行の会計制度は、企業会計、財務会計の分野に特定されてしまっている。会計は、会計主体が存在するところには、成立しうる。そして、経済の実態を正確に反映するためには、その会計の適応範囲の拡大が不可欠なのである。その為には、会計本来の目的と機能を明らかにする必要がある。

 近代経済体制は、会計制度を土台にして成り立っている。近代会計制度がなければ、今日の経済発展はありえない。それでありながら、会計制度ほど、粗略、邪険に扱われている分野もあるまい。そして、そのために、現代の経済は、深刻な事態から抜けられないでいるのだ。まあ、会計制度の復讐、呪いとでも言いたい。それほど、現代人は、会計制度を酷い扱いしている。
 経済学が、現実の経営や政策に有効な手立てを示せないのは、政治家や官僚、学者の多くが、会計を商売の道具ないしは、技術ぐらいにしか考えていないからである。会計は、神が、現代人に与えたもうた賜物の一つである。それをいかに有効に使うかは、人類の責任なのである。

 会計不況という言葉がある。しかし、会計学と経済学とは、全くといって結びついていない。会計基準の変更が、経済や財政(税制度)にどのような影響を及ぼすかなんて、まったく、考えられても、検討もされていない。しかし、経済の現場や実務においては、深刻な問題を投げかけている。してみると、経済学は、経済の現場や実務の世界とは、無縁な学と言う事になる。それは、現在の経済学が科学とは、ほど遠い存在であることを意味する。

 経済問題に、会計士の意見を求められることがない。メディアでも、経済について話をするのは、会計の素人である場合が多い。滑稽なことに、会計制度について議論する時でさえ、会計士が加わることは稀である。経済の論理と経営の論理が適合していない証拠である。これでは、経済の現場である経営学と、理論である経済学が、基礎科学と工学のような関係になりようがない。

 経済の論理には、本来、会計制度の文脈が色濃く反映するはずであり、現実にそうである。だから、近代経済学は、会計学を基礎にして成り立つべき学問である。そして、会計学を基礎にすることによってのみ経済学は、科学になりうるのである。
 ところが、大学では、会計学どころか数学すら必須教科からはずそうとしている。それでは、経済学は、科学どころかアナクロニズムの所産になってしまう。それは、科学と言うより文学、それも、芸術性を排除した文学である。

 経済の基本単位は、共同体である。経済を成立させている基本単位の共同体は、先ず第一に政府、つまり、財政である。次に、家計、そして、最後に事業体である。この三つの共同体の形態が経済の基礎を作り上げている。そして、この共同体を土台にして分配の仕組みは成り立っている。市場は、この共同体の境界線に派生して、共同体の限界を補正している。そして、共同体内部が、その働きによって分業化され、体系化された構造物が組織である。つまり、共同体は、組織であり、組織の限界点で市場は形成されるのである。
 この市場と組織が作り出した空間に成立するのが、会計的空間である。これまで会計的空間を成立させてきたのは、共同体外部から働きである。必然的に、組織、事業体を無機質な機関としてしか捉えない見方が会計の世界では支配的になる。そして、それが会計の宿痾となり、経済を狂わす元凶となっている。そして、また、会計の社会的地位を、著しく低くしている原因でもある。

 会計は、ビジネスの世界の共通言語だと言われている。共通言語であるならば、その文法、文脈がビジネスの世界、つまり、経済に影響を及ぼさないはずがない。それなのに、経済学の世界では、いまだに、会計は、非嫡出子扱いである。正式に認知されていない。その方が、経済学者にとっては、煩雑なビジネスの現場に巻き込まれる事はないし、会計士にとっては、観念的な経済の理論に振り回される事はない。結局、疎ましく思う者にとっても、神聖視する者にとっても、認知しない方が都合がいい。それで割を食うのは、会計であり、経済の現場である。結果、いつまでたっても会計は、社会的に認知されないし。だからこそ、会計も経済も良くならないのである。

 この様な、経済問題に携わる人間の会計に対するな無関心さが、市場経済を歪めてしまっている。それが、経済のみならず社会全体の歪みを増幅している。
 なぜ、会計はこの様な不当な扱いを受けなければならないのかと言えば、それは、会計が、対象としているのが、特定の人間の利益だと思われているからである。会計士というのは、特定の集団の利益を代表しているにすぎない。それ故に、普遍的な問題には、そぐわない。そう誤解されているからである。しかし、会計は、経済の現場の共通の文法言語である以上、多大な影響を与えないはずがないのである。政治家や官僚といった経済を司る人間にその自覚がない事が、会計が経済に与える悪影響を防げない最大の原因なのである。

 また、家計的空間で評価されるのは、基本的経済単位の中で、事業体のみである。家計も政府、公共機関も会計的空間ではブラックボックスである。この事が、会計の効果を限定的なものにしてしまっている。会計的な責任を問われるのは、民間企業だけであり、いくらでたらめな経営をしても公共事業の人間は、責任を問われることはない。結局最終的なツケは、国民が税金という形で払わされる。

 会計は、貨幣的な基準に依拠している。つまり、貨幣経済と伴に発展してきた。貨幣の存在は、会計を産み育んできた。それは、会計にとって強みであると共に限界でもある。つまり、会計の限界は、非貨幣的な限界でもある。
 非貨幣資産、費用性資産、未実現利益、などが好例である。これらの課目の中に含み資産が隠されている。逆に、含み損もである。また、繰越、繰り延べ勘定といった決算整理事項の中にも、不良資産は、紛れ込んでいる。これらの存在が、金融システムを危うくし、経済の低迷の原因になっていることは、衆知の事実である。ところが、経済学では、この様な会計的な問題は取り扱わない。需給の問題や購買力の問題といった表面的な現象のみを問題にする。
 会計がおかしくなってきている。それと共に、経済もおかしくなってきている。
 なぜ、会計がおかしくなってきたのか、それは、会計が本来の視点を失い。

 経済の基本単位は、共同体である。経済を成立させている基本単位の共同体は、先ず第一に政府、つまり、財政である。次に、家計、そして、最後に事業体である。この三つの共同体の形態が経済の基礎を作り上げている。そして、この共同体を土台にして分配の仕組みは成り立っている。市場は、この共同体の境界線に派生して、共同体の限界を補正している。そして、共同体内部が、その働きによって分業化され、体系化された構造物が組織である。つまり、共同体は、組織であり、組織の限界点で市場は形成されるのである。
 この市場と組織が作り出した空間に成立するのが、会計的空間である。これまで会計的空間を成立させてきたのは、共同体外部から働きである。必然的に、組織、事業体を無機質な機関としてしか捉えない見方が会計の世界では支配的になる。そして、それが会計の宿痾となり、経済を狂わす元凶となっている。そして、また、会計の社会的地位を、著しく低くしている原因でもある。

 会計は、ビジネスの世界の共通言語だと言われている。共通言語であるならば、その文法、文脈がビジネスの世界、つまり、経済に影響を及ぼさないはずがない。それなのに、経済学の世界では、いまだに、会計は、非嫡出子扱いである。正式に認知されていない。その方が、経済学者にとっては、煩雑なビジネスの現場に巻き込まれる事はないし、会計士にとっては、観念的な経済の理論に振り回される事はない。結局、疎ましく思う者にとっても、神聖視する者にとっても、認知しない方が都合がいい。それで割を食うのは、会計であり、経済の現場である。結果、いつまでたっても会計は、社会的に認知されないし。だからこそ、会計も経済も良くならないのである。

 この様な、経済問題に携わる人間の会計に対するな無関心さが、市場経済を歪めてしまっている。それが、経済のみならず社会全体の歪みを増幅している。
 なぜ、会計はこの様な不当な扱いを受けなければならないのかと言えば、それは、会計が、対象としているのが、特定の人間の利益だと思われているからである。会計士というのは、特定の集団の利益を代表しているにすぎない。それ故に、普遍的な問題には、そぐわない。そう誤解されているからである。しかし、会計は、経済の現場の共通の文法言語である以上、多大な影響を与えないはずがないのである。政治家や官僚といった経済を司る人間にその自覚がない事が、会計が経済に与える悪影響を防げない最大の原因なのである。

 また、家計的空間で評価されるのは、基本的経済単位の中で、事業体のみである。家計も政府、公共機関も会計的空間ではブラックボックスである。この事が、会計の効果を限定的なものにしてしまっている。会計的な責任を問われるのは、民間企業だけであり、いくらでたらめな経営をしても公共事業の人間は、責任を問われることはない。結局最終的なツケは、国民が税金という形で払わされる。

 会計は、貨幣的な基準に依拠している。つまり、貨幣経済と伴に発展してきた。貨幣の存在は、会計を産み育んできた。それは、会計にとって強みであると共に限界でもある。つまり、会計の限界は、非貨幣的な限界でもある。
 非貨幣資産、費用性資産、未実現利益、などが好例である。これらの課目の中に含み資産が隠されている。逆に、含み損もである。また、繰越、繰り延べ勘定といった決算整理事項の中にも、不良資産は、紛れ込んでいる。これらの存在が、金融システムを危うくし、経済の低迷の原因になっていることは、衆知の事実である。ところが、経済学では、この様な会計的な問題は取り扱わない。需給の問題や購買力の問題といった表面的な現象のみを問題にする。

 ここでは、会計制度の構造を分析し、そのうえで、会計制度が、近代経済にどのような働きをしているのかを明らかにして、会計制度のあり方を考えていきたい。


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