企業は、あらゆる角度から、経済性を分析される。それに対し、その他の経済単位、即ち、財政も家計も経済性よりも、近い道の方ばかりが問題にされる。特に、財政は、経済性を度外視する傾向が高い。家計は、収入より、支出が多くなれば破綻してしまうからである。家計が破綻すると、事実上、家庭は、崩壊する。財政は、経済性を度外視してもいいと思われている。というよりも、経済性を問題にする事自体、悪い事のように、捉えているきらいがある。
 武士は金銭の事で気に病むべきではない。金は、武士にとって卑しむべきものであり、金銭に囚われて、大義を失うのは、武士の恥である。そんな考えに今の官僚も支配されているようだ。侍ほどの志もない癖に、気位だけは高い。だから、財政は、破綻する。

 経済性を分析するための基礎となるのが、損益計算書と貸借対照表である。損益計算書は、利益を計算する過程である。会計の計算制度は、損益計算書と貸借対照表に収斂する。そして、損益計算書と貸借対照表、それに、キャッシュフロー計算書や利益処分案等と言った書類類を財務諸表という。この財務諸表の目的は、利害関係者に企業の実体を開示する事と、企業の継続を計ることである。

 経済は、回転運動であり、循環運動である。この回転運動の一定期間のプロセスを表現したのが、損益計算書であり、一断面を捉えたのが貸借対照表である。ただ、注意しなければならないのは、損益は、断片であり、貸借は、断面だと言う事であり、どの断片を選ぶか、どの断面を選ぶかの基準は、任意だという事である。しかも、その選び方によって結果は、全く違ったものになるという事である。ここに会計のからくりが隠されている。

 経済活動には、フローの部分とストックの部分がある。つまり、流動的な部分と静止した部分である。このフローの部分とストックの部分を分けて表現したのが、損益計算書と貸借対照表である。
 経済活動は、フローとストックのバランスの上に成り立っている。フローの部分の割りにストック部分の比率が以上に拡大するとフローとストックのバランスが崩れ、経済活動に支障がきたす。偽薬にフローが停滞するとストックの働きが、効かなくなる。日本経済のバブルと、その後の不況は、フローとストックのバランスの乱れに原因がある。
 故に、会計情報で重要なのは、比率である。それは、会計主体が構造的であることの証拠でもある。

 ストックには、ストックの働きがある。しかし、近年、含み経営は、悪い事のように喧伝された。そうすると、ストックを放出せざるを得ないような会計制度にかえられた。その結果、不動産市場も資本市場も破綻し、立ち直ることができないでいる。そして、それが、企業の資金源を圧縮し、金融市場を崩壊させる原因となっている。

 経済の表面に現れてくるのは、流動的部分である。本来は、この流動的部分だけを明らかにすれば、会計主体の経済行動は、解明されるはずであった。ところが、本来、固定的であるべき、又は、水面下にあって企業業績に影響を及ぼさないはずのストックの部分が大きく変動する事が明らかになってきた。一種の地殻変動のようなものである。そして、その地殻変動が、資金調達に絡んで企業の存続に重大な影響を及ぼすことが解ってきた。

 株や不動産の異常な高騰や含み資産を基礎とした企業の働きや他の産業に与える影響は、異常なものである。それが、フローとストックのバランスを崩す原因となる。また、そのような価値は、企業本来の働きに反する作用である。それは、会計の目的である健全な経営や働く者のモラルを著しく損なう危険性がある。企業は、生産拠点でおり、従業員は、自らの働きによって報酬を受けるのが本来の姿である。ところが、固定的部分のしかも未実現利益によって資金を得て、会社の規模を拡大し、従業員の働きとは、無縁なところから報酬を支払えば、企業は、生産性や効率を高める努力を止め、極端な場合、生産的な働きを放棄してしまう。働く者もまるでギャンブラーのように不労所得を求め、不必要に生活が華美になるようになる。
 経営は、基本的に、表に出ているフローの部分から判断すべきものであり、水面下のストックに対する評価は、必要に応じてすべきことである。また、課税は、未実現利益に対して課せられるべきではない。なぜならば、未実現利益は、資金的な裏付けがなく、納税する目的だけに、資金を新たに調達しなければならなくなるからである。

 バブルの背景には、相続税の問題が隠されている。相続税対策が先か、土地の異常な高騰が先かは、卵が先か、鶏が先かの、議論に似ているが、相続税対策がバブルを加速したことは、事実である。その証拠に、バブル崩壊後、相続税が払えなくなった事が、社会問題化した。それは、未実現利益、ストックの部分に課税したことに原因がある。未実現利益、ストック部分に過大な課税をすれば、フローの部分を圧迫し、過剰な資金の調達をしなければならなくなる。フローが途絶えると企業は、継続することが不可能になる。それ故に、相続問題が深刻な問題になるのである。

 損益計算書は、経過や仕事の流れを表現したものであり、貸借対照表は、断面を表現している。故に、損益は、期間で表され。貸借は、状態で表される。経営の実態を判断するために、二時点間の経過から判断するか断面を比較することによって判断するか、議論が分かれている。それは、本来、経営の表面に現れてこない、ストックの部分の価値が大きく変動することに原因がある。しかも、その部分が、経営を維持するために必要な資金の調達に深く関わっているからである。

 収益総額−費用総額=当期純利益。この式が損益計算書等式、資産=負債+資本。これが、貸借対照表等式という。資本=資産−負債。これが、資本等式である。

 損益を重視する考え方を収益費用観(revenue and expense view)と資産負債観(asset and liabilty view)という。損益の部分は、流動的な部分であり、貸借の部分は、固定的、静止した部分である。流動的な部分のみを重視する考え方を動態論というのに対し、固定的な部分を重視する考え方を静態論という。

 収益総額−費用総額=当期純利益(または当期純損失)という見方が主流だったが、現代は、期末資本−期首資本=当期純利益(または当期純損失)という考え方も有力になってきたのである。利益の計算法として前者を用いる考え方が、損益法、後者を用いる考え方を貸借法という。見て解るように、前者は、損益計算式である。この点からも解るように、前者は、動態論であり、後者は、静態論である。この二つの式が導き出す利益は、同じでなければならない。ところが、それぞれ導き出した利益が一致しない場合がある。というよりも、一致しない。その原因は、ストックの部分に隠されている。

 会計制度の在りようで、利益が出たり、損失が出る。日本の基準ならば大幅な黒字が、アメリカの基準に従ったら、大幅な赤字になったりする。むろん、逆のケースもある。この様に、利益は、一定ではなく、会計制度の在り方、会計処理の仕方、会計的判断によって変動するものである。極端に言えば、利益は、会計的に創出されるとも言える。この様な会計制度の上に成り立つ市場経済は、会計制度によって左右されるのは、必然的なことである。会計が解らなければ、経済は語れない。

 ただ、会計の目的は、企業の会計上の不正を暴く事だけではない。経済を活性化する事にある。手術は、成功したけど、患者は死んだというのでは意味がない。角を矯めて牛を殺しても本末転倒である。もっと酷いのは、政策の過ちを誤魔化すために会計を利用するのは、一種の犯罪である。企業の目的は、企業の存続・継続である。そのためにこそ財務諸表は活用されるべきなのである。

 経済的な出来事を善悪の基準で判断しようとする傾向がある。しかし、経済的な事由は、善悪の判断になじまない物が多い。だいたい、法に違反しているから悪いと言っても、その法そのものが、社会正義に基づいているとは限らない。むしろ、国家権力に基づいた強制権によっている場合がほとんどである。また、解釈の違いによって、大きく判断がずれてしまう事例が多いのも特徴である。社会正義と必ずしも整合性をもっていない以上、法に違反しているからと、正義感を振り回しても意味が、ないのである。

 以前、読んだ本の中で、千人で一億円を儲ける会社と、百人で一億円儲ける会社の、どちらが、優れているかという問題提起があった。確かに、経済効率で言えば、百人で一億円儲ける会社の方がいいに決まっている。しかし、もう一方の見方からすると、千人で一億円儲けるというのは、千人を養った上で、尚かつ、一億円も受けているという解釈も成り立つ。それは、企業の役割、働きをどう考えるかによって、全く、正反対の結論が出ることを意味している。

 何でも、かんでも、利潤は、悪であると言うところから出発する。利潤は、搾取であり、詐欺的行為によってもたらされるという考えである。そして、そのような利潤は、全て社会に還元すべきであるという思考方法である。
 しかし、企業は、法人である。法人は、人ではない。法人である企業が利潤をため込んでもそれだけで悪いというわけではない。特定の個人や集団のものにため込んだ利潤が使われるから問題なのである。

 基本的に好況というのは、企業が適正の利潤をあげている環境を意味している。儲けることは、人をだます、悪い事だという論法で判断されたら、景気を良くすることはできない。悪いのは、不当に利益をあげ、その利益を不当にため込むことである。その場合、不当とは何かを明らかにしなければならない。一部のマスコミのように、闇雲に、儲けることは悪だと決めつけられたら、それは、市場経済そのものを否定する事である。まあ、儲けることは、悪だと主張する者の多くは、市場経済を否定しているのだろうが。

 企業の経営者を、まるで、江戸時代の悪徳商人のような目で見る。会計の話もどこか胡散臭そうに見ている。しかし、会計を下地にして現代社会が在ることを忘れてはならない。
現代会計が背負っている光と陰が、現代社会の光と陰を反映しているのである。そして、経済性が明らかにされない部分にこそ不正が隠されている。また、不正が派生しやすい事が明らかになってきた。そこで、近年、情報開示の必要性が指摘されるようになってきたのである。市場経済下でも、不正がなくなったわけではない。しかし、情報が開示されていることにより、不正は、明らかにされ、責任の所在が明らかにされ、処罰されやすい環境が整っている。それにたいし、財政は、不正が、隠蔽されやすく、責任の所在も不明瞭になりやすい。故に、公会計制度を導入すべきであるという意見が大勢を占めるようになりつつある。少なくとも、財政の経済性は、追求されなければならない。

 会計が胡散臭く思われる原因の一つが、限られた人間を対象としたものだという点と現実に人々の目に触れるのは、株価の問題や法人税に問題があった時ぐらいだからである。いかも、株に対するイメージが投機、つまり、博打のイメージと重なっているのと法人税の問題が、脱税のイメージと重なるからである。一方は、反道徳的であり、今一方は、犯罪的である。どちらにしろ良いイメージは、もたれない。しかし、会計は、本来、市場経済の共通言語である。負の部分よりもプラスの部分を注目すべきである。そのためにも、利潤は、悪であるという先入観を捨てる必要がある。経済人の中には、利潤をあげられない企業は、悪であるという考えすら在り。市場経済下では、その意見の方が正しい。

損益と貸借

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