公理主義的空間である会計の論理は、一連の原則の上に成り立っている。その論理的原則の基礎は、複式簿記の論理である。

 ここで注意しておきたい事は、会計の論理があって会計が対象とする実体があるわけではないという事である。会計的論理によって説明しなければならない実体があって会計的な論理が成り立っているという事である。法学者、会計学者が陥る罠がそこにある。最初に法や会計規則ありきではなく、現実があるのである。その意味で会計も法も現実の影にすぎないのである。その影が、現実の実体を操り出すことが問題なのである。

 全ての論理は、観念的なものであり、故に、相対的なものである。相対的なものである論理を構成する命題は、全て仮説の上に成り立っている。この前提を法学者や会計学者は時々忘れてしまう。公理主義的な体系を会計的空間がもっていたとしても、その空間そのものは、相対的な空間であり、絶対的なものではない。絶対的なのは、対象としている現実である。元々会計は、慣習や習慣の上に成り立ってきた。つまり、経済現象を説明するための方便の一つであり、常に、経済環境に合わせて検証し、更新していくべき空間なのである。

 会計的世界は、二元論的世界である。それを構造的に示しているのが、複式簿記である。つまり、会計的世界は、複式簿記を下地にした世界なのである。
 複式簿記における借り方、貸し方は、共同体の内側と外側への作用、反作用の関係を現している。つまり、共同体内部へ取り込む物を借り方側に外部へ放出する物を貸し方側に置くのである。運用と調達という表現でもおかしくない。つまり、一つの取引を、共同体に対する内側の働きと外側の働きの均衡として、表現するのが、仕分けである。複式簿記は、この様な二元論として現される。

 内側とは、何の内側を示し、何の外側を示すのか。それは、共同体の内と外である。会計の説明責任とは、共同体の外に対する説明責任を意味する。この共同体の内と外という概念なくして、複式簿記の二元論の意味を捉えきる事はできない。
 経済の基本単位は、共同体に基礎にして成り立っている。その共同体の内から外に対する説明責任が、会計の成立根拠である。

 企業や政府、家族を機関と見る見方がある。しかし、企業や政府、家族は、ただ単なる機関ではなく、共同体である。共同体には、根本に愛がある。この共同体という視点が稀薄になるにつれ、ビジネスの場の主体が喪失されてきたのである。それが、経済の在り方そのものにも微妙な影響を与えている。

 共同体の外部の存在にとって会計の目的は、違ってくる。共同体の外部に存在し、説明を必要する存在とは、何か。第一に、株主、つまり投資家である。第二に、債権者、第三に、国家である。彼等は、おのおの共同体の外部にあって共同体の資産に対し、所有権を主張する。しかも、その主張には、根拠がある。故に、彼等に対して、共同体内部から説明をする必要がある。そのために、必要なのが会計の論理である。
 つまり、会計の論理は、共同体内部から外部に対する説明という構図が成り立つのである。その差は、企業の所有権の問題で歴然とする。曰く、企業は、株主のものである。そして、その視点によって会計の在り方も左右される。目的も違ってくる。株主にとっては、配当の原資と株の価値が、債権者にとっては、債権保護が、行政から見ると税の支払い能力が問題になる。必然的に、目的も違えば見るべき処も違う。

 財務会計の根本は、外部からの視点、ないし、外部への説明責任という視点である。そこには、内部からの視点が欠けている。それは、会計が共同体の外部への説明責任と言う事に成立基盤を置いていることに由来する。外部の人間にとって共同体の内的な事情など収益に関係しない限り、どうでも良いのである。そのために、会計の基本単位を一機関としてしか認識しない。だから、純粋に制度会計的な論理からは、共同体としての凝集力は生まれてこない。単純に言えば、会計上においては、共同体内部の人間は、会計的価値しか認識しえないのである。つまり、人件費というコストでしかない。

 会計の世界は、本来、非情な世界である。なぜならば、会計そのものは、道具にすぎないからである。医学に情を差し挟む余地がないのは、医学そのものは、単なる技術にすぎないからである。そこに。人間的な感情を持ち込むのは、医者である。医者が、患者に対する愛情を持ち込まなければ、医学は、冷酷非情なものになる。医学を志す者は、その点を忘れてはならない。同じ事が会計にも言える。医学が人を対象としているならば、会計は、企業を対象としているにすぎない。いずれも、人の一生に関わっている事に相違はない。
 企業のみならず、経済界を支配する規範は、会計的規範である。それ故に、会計に携わる者に自覚がなければ、経済は、死んでしまう。経済は、生き物である。無機質な会計的論理にあっても共同体を生かしていかなければならない。そのために必要なのが、共同体内部からの視点である。

 商売人の全てが会計学をマスターしているわけではない。そうはいっても、ビジネスは、会計学的な文脈によって自己を表現することが法的に義務づけられている。必然的に経済の基本単位である事業体の行動規範は、会計制度の文脈に添って形成される。故に、企業という共同体は、この二元論的表現によって一つの取引を共同体内部にフィードバックし、意志決定に結びつけているのである。このフィードバック機能が会計、複式簿記の重要な特徴である。そして、結果的に、このフィードバック機能によって近代会計制度は、近代経済構造に重要な機能を果たしているのである。

 そのもの自身が原因で起こった結果は、そのもの自身へ帰す。又は、還元する。これがフードバック機能である。フィードバック機能が働くためには、一つの働きを一方向のみの作用として捉えてはならない。人の意識が相対的認識に依存する限り、一元論的な捉え方では、物事の位置づけが不可能だからである。作用反作用の関係で捉えるべきなのである。どうしても、二元論的、多元論的な認識にならざるをえない。故に、会計学的な論理は、二元論である事によって有効なのである。ただし、これは、認識の問題であってそのもの自体の問題ではない。
 そのもの自体が単元的であるか、二元的であるか、多元的であるかが問題なのではない。こちら、つまり、自己の認識が単元的であるか、二元的であるか、多元的であるかの問題なのである。
 組織が自律的であるためには、フィードバック機能が働かなければならない。そうしないと、自己認識ができない。自己認識ができないと、自己制御ができなくなるのである。自己制御ができなければ、自浄作用が働かない。そうすると、軌道修正ができなくなるのである。

 では一体、事業体の内部と外部の働きによる二元的な世界の論理とは、具体的にどのような世界なのであろうか、次に述べたいと思う。
 内側の流れが費用であり。外側の流れが収入である。内側に蓄えられるのが資産であり。外側にたまるのが負債である。内側の蓄積が外側に貯まった物より多ければ、債権となり、少なければ債務となる。
 会計は、基本的には、内側の世界と外側の世界に大別される。資本は、内外の格差にすぎない。内側と外側の流れ差が利益になり、利益の累積が内部留保となる。そして、元手と利益の累積が資本となるのである。

 本来なら、この内側に蓄積した資産と外側に貯まった負債の差額が資本という単純な図式なのだが、厄介な事に内側に蓄積された資産、ストックが、それ自体独自の価値を形成してしまうことである。しかも、それが正の価値のみでなく、負の価値も生み出すという事である。そこに、資本の論理が働くのである。
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会計の論理