会計基準は、所与の命題ではない。つまり、会計基準は、物理法則のような与件と同じように扱うことはできない。

 人間の社会と自然の世界とは異質な空間である。人間の社会は、人為的な空間であり、人間の観念が創り出したものである。特に、国民国家における法や制度は、国民の合意、総意に基づく事を原則とする。故に、会計制度は、合理主義的な体系であり、不文法的な体系ではない。一連の仮定や命題による定義群を論理の前提としているのである。合目的的、論理的体系だと言う事である。つまり、目的を明確にする必要があるという事、論理的手続きを前提としている事を意味する。

 合理的な体系といっても、自己完結的、閉じられた体系ではない。法学者の中には、法を自己完結的な体系だと錯覚している者を多く見受けられる。法は、法的現実、つまり、法によって、解釈、または、取り締まらなければならない現実があって成り立っている。法は、法それ自体で成立しているわけではない。法体系内部の無謬性のみを問題にして条文の解釈に没頭するのは、錯誤である。法も会計もそれを成立させている実体があってはじめて成り立ついわば陰のような存在であり、前提となる現実や実体が主なのである。
 
 会計基準は、会計的現実があって、はじめて成立する。なぜならば、会計とは、会計的現実を、利害関係者に、説明するところから出発しているからである。そして、説明する対象、視点によって会計の目的は、微妙に違ってくる。
 つまり、会計基準は、会計的現実があって、会計目的があり、その目的から導き出される命題である。

 法も会計も絶対ではない。相対的なものだ。法的命題や会計的命題によって全てが裁けるというならば、法も会計も言語学者に任せればいい。法も会計もその条文の背後にある現実が問題なのであり、現実をどう解釈するかの基準として法や会計がある。法や会計の条文に合わせて現実をねじ曲げるのは、本末の転倒である。

 会計上の命題は、作業によって為される。作業には、順序がある。この順序に従って作業を組み立てるのが、会計的論理である。学校教育では、この順序を重んじない。それが、学校教育の弊害でもある。現実の世界には、順序がある。

 会計の基本は、経験則、慣習法、慣行法である。会計の規則や基準は、決め事であり、約束事である。重要なのは、その決め事や約束がどのような経緯、経過、過程、手続きを経て決められたかという事である。そして、その決め事や約束事の背後にある事実や本質、精神がどのようなものであるかである。語辞語面、条文の解釈が問題なのではなく。何を問題として、何が言いたいかである。日本の法学者、法曹間の人間には、この事を理解していない者が多くいる。法に決められていないからできないとか、解らないと言うのなら、法学者も法曹界も必要ない。法に決められていない事象を、法に照らし合わせて、どう解釈するかが、法律学者、法曹界の人間の仕事なのである。同様に、会計に携わる人間も会計現象を会計制度の中でどのように捕捉するかが、重要なのである。
 常に、法よりも社会正義の方が優先する。社会正義の根本は自己善である。そして、その社会正義が、形成されるプロセスこそが、重要なのである。法があることによって、社会正義が実現できなかったり、犯罪を捕捉することができなかったら、その法は、法としての働きをしていないどころか、法本来の働きを、阻害していることになる。
 会計が、慣習や慣行を基礎としているという事は、会計の土台は、商取引、取引慣行にあることを意味しているのである。その取引慣行の起源や根拠を明らかにする事が、その会計的処理の妥当性を判断するために必要なのである。

 勘違いしてはならないのは、会計的な空間が、経済的現象を網羅しているわけではないという事である。会計手段によって捕捉できない経済現象はいくらでもある。また、会計的正当性と社会的正義は、同等のものではない。会計的にいくら正当的であっても社会良識に反することもある。その場合は、法や社会常識が優先する事を忘れてはならない。

 要は、企業の実体を説明できればいいのである。しかし、会計情報を基にして、税が徴収されたり、融資が実行される以上、実利実害が生じる。そこに会計情報の本質が隠されている。

 会計的現実とは何か。それは、企業を興したいと思う者が、出資者を募り、資金を調達することから始まる。そして、投資資金や運転資金が不足すると、債権者から融資を受けて、事業を継続する。利益が上がると、その利益の中から税金を納めなければならない。
 会計的な現実とは、ここまでの事である。しかし、本来は、経営者は、経営をしていくために情報が必要であり、労働者は、自分の労働に対する適正な配分を受けるための資料が必要である。経営者にとっては、意志決定に必要な情報であり、労働者にとっては、生きていく為に不可欠な資料である。しかし、現時点では、これらの情報や資料は、会計的空間には、含まれていない。労働者や従業員は、最初から除外されてきたのである。
 つまり、現行の会計の目的は、外部の利害関係者が、意志決定をするために必要な情報を必要な形にして提供する事である。この目的を実現するために、会計基準は、定められている。故に、会計目的は、それに相対する対象との関係によって設定される概念である。つまり、会計目的は、第一に、投資家が、投資をする対象を判断するために必要な情報を提供することである。第二に、債権者が融資をする際に必要な資料である。第三に、国家が、税金を徴収する際の根拠となる数字を提供することである。この三つの目的によって生み出される空間が、会計的空間である。
 目的に応じて、形成される空間は、必ずしも同じ空間とは限らない。つまり、会計空間は、目的毎に発生している。会計は、合目的的空間なのである。

 野球は、試合毎に空間が発生している。その空間は、野球場という物理的空間を共有していても必ずしも同一の空間とは限らない。
 同様に、会計的空間は、その目的毎に発生している。そして、同じ情報や仕組みを共有することはあっても、必ずしも同一の空間とは限らない。

 合目的的空間である会計空間の成立要件である会計原則や会計基準は、目的に準じて決められる。故に、会計原則や会計基準は、目的によって検証されなければならない。

 目的によって成立する空間は、目的によって検証される。故に、目的が違えば、成立する空間も異質なものになる。たとえ、いくつかの原則や手続き、仕組みを共有していたとしても、それは、明確に分けて考えなければならない。
 特に、税務が形成する空間は、税を徴収するという明確な効用を持っている。故に、他の空間とは異質な特異な空間である。この点を忘れると制度としての会計は、整合性がとれなくなる。

 会計空間を成立させる前提は、第一に、会計目的である。第二に、会計主体の存在である。会計的空間を成立させるためには、会計主体を特定する必要がある。第三に、会計的現実の存在である。会計主体を成立させる会計的現実は、取引という実体に基づかなければならない。第四に、会計の目的や制度、つまり、約束事によって会計規則が適用される領域が、特定されなければならない事である。その上で、会計の制度が成立する空間の範囲が設定される。第五に、貨幣経済、貨幣空間の存在である。このことは、会計基準は、貨幣的な基準、即ち、数値的、量的基準である事を意味する。第六に、期間の特定である。一定の基準を区切って会計的現実は、測定される。必然的に、会計情報は、期間損益の形式をとることになる。第七に、会計空間は、中立的でなければならない。そのためには、客観性、検証可能性が確立、確保されていることが前提となる。そのためには、一般に認められた会計原則に従わなければならない。第八に、比較が可能でなければならない。第九に、フローとストックの両面から記述されなければならない。第十に、フローとストックの両面から記述できるようにすることから、必然的に、複式簿記的な思考を前提とせざるを得なくなる。即ち、会計的空間は、複式簿記的な二元論的空間である。

 会計的空間は、会計の論理だけで構築されているわけではない。会計を処理する仕組み。法的な制度といった外枠も含めた構造的なものである。会計基準は、この様な構造の中に位置付けてはじめてその効力を発揮する。

 会計は、市場経済、貨幣経済を基礎としている。必然的に、会計基準は、貨幣基準、数値基準を土台にすることになる。つまり、会計的世界は、数字、数学的論理の世界であり、基本的に数値、数式で表現されるのである。
 もう一つの特徴は、加算主義、つまり、足し算が、会計の世界では、基本だと言う事である。

 会計の特徴は、期間損益にある。実現主義、発生主義を生み出した。今、現金主義が、脚光を浴びているが、現行の会計制度の基本は、実現主義、発生主義である。
 会計的手段で、ある一定の期間で実績を区切って報告するようになると、収益や費用をどこで認識するかが重大な問題になる。その事実が、実現した時点で認識するのが、実現主義で、その事実が発生した時点で認識するのが発生主義、現金の実際的な授受をもって認識するのが、現金主義である。本来なら、現金の授受をもって認識するのが、わかりやすい。現実に、家計や財政は、原則的に現金主義である。しかし、現金の授受を基本とすると、費用対効果、費用収益対応という観点からはずれてしまう。そこで、収益は、実現主義、費用は、発生主義が、現行の会計制度では一般的にとられている。
 特に、高額な固定資産、設備投資の費用を減価償却として期間配分する事によって、それまで、実現できなかった大規模な産業の建設の道を開いたのは、会計制度の偉大な成果の一つである。
 しかし、収益が、実現主義、費用が、発生主義であることによって会計には、恣意性が生じる。即ち、実現とは、何か、発生とは何かの見解が一定していず、状況や場合、極端な場合、会計主体の解釈によって決められてしまうからである。そこで、現金主義に則る財務諸表を添付することが最近では、義務づけられるようになった。しかし、会計の基本は、費用収益対応が原則である。

 また、期間損益を確立するためには、取引の事実の経過を、時間をおって立証できなければならない。この様な検証の可能性を確保するためには、記録を残さなければならない。しかも、取引の事実を第三者が立証できる物に基づく必要がある。故に、記録は、証憑に基づかなければならない。そして、その証憑は、一定期間、保管しておく必要がある。その上で、手続き、会計的処理の履歴が辿れるようになっていなければならない。この様な、立証可能性が会計では要求される。つまり、会計とは、この事実が示すように情報系なのである。

 会計を成立する前提の一つに、フローとストックの区分がある。複式簿記の根本は、会計主体を内側と外側に分け、内側の働きと外側の働きによって経済取引を区分することである。借り方は、内部への働きを示し、貸し方は、外部への働きを表している。そして、この働きをフローとストックに分類し、内側と外側のフローの差を収益という形で、蓄積された物の差と資本という形で表現するのである。この区分と分類に対する約束事の基準が、会計基準である。

 内側の働きに分類する以上、本来は、会計は、内部会計と外部会計とに分かれる必要がある。内部会計は、その目的から考えると管理会計と言われるものであるが、制度としてまだ確立していない。ただ、あえて制度として確立されているものをあげるとしたら、原価計算制度である。しかし、内部会計の目的は、管理に限定されているわけではない。会計主体の内部の人間が、求めているのは、成果物の適正な配分と事業の継続である。適正な配分は、安定的かつ継続的な所得の配分である。企業の内部留保は、そのための原資であり、基金である。外部の人間に勝手収奪されては困るのである。外部の人間、特に、株主にとっては、資本は、取り分に過ぎないが、内部の人間にとっては、経営が悪化した時の基金であり、所得を平準化するための貯蓄である。しかし、この観点からの視点が欠けていて、経済の悪化に伴って多くの企業が倒産し、多くの労働者が、失業している。そのために、経済は悪化し、社会秩序、治安が悪化している。それは、企業が一種の共同体であり、儲からなくなったら、潰せばいいと言う単純な論理では、片づけられない存在だと言う事を忘れているからである。
 企業は、役割が終われば解散すればいいと言うのは、企業が、人間の集まりであり、生活圏の源泉だと言う事を無視した暴論である。人は、そんなに簡単に転身できない。自分が習得して知識や技術は、人生経験が生み出した、一種の資産である。それが無価値に等しくなるのに、多くの人は耐えられない。会計は、人を生かすための道具であって、労働の成果を収奪するための道具ではない。会計が本来の働きを取り戻すためには、内部会計の確立が不可欠なのである。

 銀行の自己資本率や不良債権問題、デフレ期の時価会計、減損会計の導入、税制度が税務会計の上に成り立っている事実を考えれば、経済に会計制度が影響をあえないはずがない。それなのに、経済学者は、会計制度の問題をまともに取り上げようとはしない。これは、経済学者の怠慢以外の何ものでもない。

 会計の、目的とは何か。その目的によって、会計基準が対象とすべきものが明らかになる。結局、投資家の目的は、配当とキャピタルゲインであり、債権者の目的は、融資の妥当性と債権保護、国税当局は、ずばり、納税額の根拠である。そして、これらの指し示すところは、キャッシュの裏付けのある収益と所得である。つまり、キャッシュの裏付けのある収益と所得の計算が会計に求められる本来の機能となる。そこから、会計基準は、求められるべきである。

 確かに、株主にとって資本に含まれる取り分という問題はあるが、それは、本来、対象となる会計主体が解散した際の場合である。会計主体が、継続している場合は、やはり、収益から、配当を受け取るべきである。
 キャッシュの裏付けのない未実現利益には、実体がない。つまり、仮想、架空の利益である。そのような裏付けのない者を課税対象にしたら、納税のために資金を別に調達しなければならなくなる。
 また、融資の保証は、別に担保しているのが常である。
 故に、会計の根本は、取得原価主義なのである。

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