A 会計の自律性

 内的会計、内部会計が確立されていない。それによって、会計主体、経済主体の主体性が確立されていないのである。

 現行の会計制度では、企業を一機関としてみる。企業は、単なる機関ではない、共同体である。共同体は、分業化され、体系化されると組織となる。つまり、共同体は、組織である。会計主体は、組織である。機関と共同体の違いは、自律性にある。組織は、主体性をもってはじめて自律的になる。つまり、自律性が、主体性の確立のための鍵を握っている。

 会社とは、可哀想なものだ。現代社会では、会社は、機関に過ぎない。共同体でも、組織でもない。しかし、会社は、生き物である。組織であり、共同体である。人々の集まりである。そこに働く者に生活の糧を与え、世話をしている。働いている者にとって生き甲斐でもある。
 それなのに、現代社会では、ただの機関としてしか認知していない。それ以外の組織は、共同体として認知しているというのに。
 しかも、現代社会では、会社は、その存在する無視をされ、下手をすると、悪者扱いである。やれ、会社の奴隷になるな、会社は労働者の敵だという具合に。そして、労働者も、経営者も、株主も、銀行も、国も利用するだけ利用して、役に立たなくなるといとも簡単に潰してしまう。潰した後に、残る負債や責任の全てを企業になすりつけて。しかし、奴隷のようにこき使われているのは、企業である。
 会社に感謝することなく、粗雑に扱っているから、経済は良くならない。経済環境をよくしたいなら、企業を認知することである。

 会計の在り方は、最終的には、人間の問題であり、一人一人の人生、つまり、生き方や人生に収斂することを忘れてはならない。そして、その一人一人の人生を集約した存在が、企業である。

 組織や共同体が、経済的に自立しては、なぜ、いけないのだろう。人は、経済的に自立できて初めて社会人として認められるのに、組織は、経済的に、自立する事を、なぜ、求めてはいけないのだろうか。組織は、先ず、経済的に独立した単位として自立する必要がある。会計の目的は、共同体を経済的に自立させることにある。

 経済的に自立できない機関が、行政であり、公共機関である。そして、それが常に、経済の攪乱要因として働いている。だからこそ、公会計が必要なのである。

 企業は、機関であり、共同体ではないとするならば、企業に永続性を求めるべきではない。その場合、目的を達成ししたら解散することを前提とすべきである。

 民間企業は、それ自体が自律的な共同体である。自律的な共同体である以上、生存できるような選択をする。生存するために、利益を上げ、内部留保を蓄積する必要があれば、利益や内部留保を追求する。その利益や内部留保の追求が会計の論理によって有利にも不利にも展開するなら、必然的に、会計の論理に従って行動をする。
 実態が同じでもとるべき会計手段によって表に出る結果が違い、それによってより発展したり、倒産したりするとしたら、自分に有利な会計的処理に経営を適合させるのは、当然である。結果、会計的論理が経営を支配するようになる。会社をよくすると言うより財務情報をよくするために、社員を解雇することも厭わなくなるであろう。それが本来の会計の在り方かというとはなはだ疑問である。

 共同体であれば、継続と安定的分配が主要目的の一つである。経済という視点から見ても重要な意味がある。それは、とりもなおさず、会計目的でなければならないのである。
 
 説明をすべき対象は、投資家、債権者、国家である。会計制度を複雑にしているのは、説明すべき対象によって目的や制度そのものが微妙に違ってくるという点である。ところが、この区分が曖昧模糊としており、実際の実務では、ゴチャゴチャに混乱してしまっている。結果、租税回避としての利益隠しや、株価をつり上げるための利益操作が、横行する事になる。

 滑稽な事に現行の会計目的は、会計主体である民間企業を否定的に捉えることから出発している。

 それを端的に現しているのが、内部からの視点が欠落している点である。この事実は、会計主体を経済を構成する基本単位としての共同体として見なしていないからである。
 会計主体にとって本来主役であるべきは、労働者、従業員である。ところが、その労働者、従業員によって結成された労働組合にとってすら、企業は、打倒すべき対象でしかない。本来、労働者、従業員の共同体、ベースであるべき企業と労働者や従業員が排斥し会うことは不幸なことである。そして、それが、物事の本質を複雑にしている。
 会計の場が、分配と労働という経済の先端に位置していながら会計主体が、経済主体として認められていない証拠である。それでは、会計主体は、下僕にすぎない。奴隷的な扱いしか受けない。

 しかし、経済から見た会計目的に対して、国家は、税金を取ることを目的とし、債権者は、自分の債権を保全することが目的であり、投資家は、自分の利益と取り分を確保することが目的である。ここには、事業を存続し、適正な原価で生産財を市場に送り出すと同時に、労働者に対しその成果を合理的に配分するという経済上の視点が欠けている。その結果、雇用を創造し、労働者に社会的な富を分配するという経済上最も重要な機能が見落とされているのである。

 その結果、会計が外部勢力の論理に支配されていることによって共同体内部への蓄積が許されず、共同体の上げた利益や資産が外部勢力に収奪されている。

 企業の使命や働きは、生産性や効率を促すことばかりではない。企業は、本来、雇用、生産、消費、分配、流通という経済の根本的働きを司る場所である。生産性や効率を問題とするのは、主に、外部の利害関係者である。外部の利害関係者にとって内部の人間の都合など極端な話どうでも良い。内部の人間に要求しているのは、人間性ではなく、経済性、即ち、機能、性能だけである。しかし、企業内部の人間にとって企業は、生活の場である。
 
 主体性は、内側の問題である。企業、即ち、会計主体が、主体性を確立するためには、共同体の自律性を促す会計なければならない。
 共同体は、組織化されることによって主体性を確立する。組織は、生き物である。組織自体が独自の意志を持ている。共同体として自立しようとするならば、共同体自体が経営権を掌握する必要があるのである。
 これに最も近いのがオーナー企業であるが、オーナーが絶対的な所有権を発揮するために、封建的な体制に陥りやすい。また、オーナーが、所有に徹した場合、経営と資本の分離が成立して、共同体の自律性は失われる。結局、共同体として自律するためには、その内部で働く者の手に主権が握られる事である。その上で、組織的に体系化される必要がある。

 会計制度自体、会計の目的、即ち、会計の対象の都合のいいように作り替えられているという事である。税務会計は、税制に都合がいいように、証券法に基づく会計は、投資家の都合のいいように、商法会計は、債権者の都合がいいように作られている。
 そして、それらは、全て会計主体の外部に存在するのである。

 同じ収益をあげるのに、千人よりも百人の方が経済効率はいい。果たして本当に、その考え方は、正しいだろうか。企業の役割は、経済効率だけでは測れない。企業誘致に熱心であった地方が、結局、地元の雇用や税収に結びつかないことに気がついて、企業誘致を断念したという話を聞いた事がある。イラクへの自衛隊派遣も、地元の雇用に結びつかないので、経済的な効果が上がっていないとも聞いている。会計主体である。企業の最大の働きは、雇用を創出し、経営活動によって経済を活性化することにある。そのためには、企業経営は、自由でなければならない。外部勢力に隷属している限り、企業の自由な活動は、妨げられる。働く人間の人権も守られない。企業は、ミニ共和国、自由の砦、民主主義の橋頭堡であるべきなのだ。

 真の民主主義は、経済的民主主義が確立してはじめて成立する。現在の労働組合は、経営と対立した存在であり、企業を内部から崩壊させてしまう危険性がある。本来、経営者と労働者の目的は、同じものであるはずである。それを違う角度から追求する事に意義がある。企業と組合が、対立するのではなく、相互牽制をしながら、協調して企業を発展することが正常な在り方である。企業の民主化こそ、真の民主化へとつながる。

 現在、内部会計というと管理会計を指す。管理会計というのは、読んで字のごとく、管理するための会計である。これ自体は、重要で内部会計の中の根幹をなす部分であり、原価計算制度が、基礎となる。しかし、企業の最も中核となる働きは、分配機能である。つまり、雇用と分配に関連した会計が、内部会計である。その意味で、評価制度会計、退職金会計、社会保険会計、福利厚生会計、環境会計、従業員のための税務会計などが、管理会計と結合して構築されるべき会計である。そのうえで、その核である企業の存続を計るための会計である。働く者のための会計それが内部会計である。

 問題は、現行の会計制度の目的が、外部のみへの説明責任だと言う事である。結局、会計主体の目が外側ばかり向いているようになる。

 外部から見ると会計主体は、収奪の対象でしかない。故に、内部への蓄積は、許さない。
しかし、内部への富の蓄積が、許されなければ、会計制度、分配構造の均衡が保てない。内部留保は、事業体が存続するために不可欠な原資である。なぜならば、内部留保、純資産は、非常時の資金、再投資をするための原資だからである。資本は、外部から見れば経営の参加権であるが、内部から見ると経営の支配権である。

 機関であるか共同体であるかの根本的な差は、愛があるかどうかである。働き者達への愛情があるか、否かである。今までの会計には、働く者のための会計、その視点が欠けていたのである。だから、内部の人間は、関心を示さなかった。また、愛社精神も薄れてきたのである。ただ、効率性を求めるだけの会計、非人間的な会計、それが、会計に血を通わせなかったのである。働く者のための会計が成立した時、企業は、自分の意志で自立する事が可能となるのである。その時、はじめて生きた会計が成立するのである。


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