資本主義社会で経済を狂わすのは、資本である。

 皮肉な事に、資本主義社会は、企業を大切にしていない。それが端的に現れているのが、資本の概念、論理である。資本は、外部の株主の請求権である。資本には、会計主体内部の人間は、一切何ら権利も持たない。それが、資本の論理である。
 資本家は、悪であるという思想が、税制の中、ひいては、税務会計の中に働いている。つまり、現行の資本主義、会計には、自己否定のような論理が組み込まれていることになる。それが、資本主義経済を歪めたり、異常な現象を引き起こしている。

 資本とは、何か。会計上、資本の解釈が一番ハッキリしないのである。返さなくても良い資金といった説明があるが、これは、間違いである。実際は、配当によって返済している。というより、恒久的に利益が上がった場合、返済し続けなければならない。だいたい何の見返りもなく、資金を提供する者がいるであろうか。キャピタルゲインを当てにしているという者が居るが、キャピタルゲインは、結果に過ぎない。最初から当てにできるものではない。
 資本を負債の一種のような捉え方があるが、企業は、基本的には、継続が旨である。継続できなくなるときは、大体において、資産は食いつぶしている。ならば、返済の当てのない負債という事になる。投資家は、返済のあてのない借金を引き受けるであろうか。それほど、投資家は、人が良いわけではない。ならば、投資家が求めているのは、別の処にあると考えるのが妥当だ。
 資本の問題は、企業は、誰のものかという問題に行き着く。資本の論理においては、最初から、会計主体内部の人間の権利は、除外されている。働く者は、会社の対して何の発言権もないという事である。この発想は、働く者から見ると違和感を覚えるかも知れない。特に、日本人は、企業や職場を自分の家と等閑視する傾向がある。我が家というのと同じ感覚で我が社という。しかし、実際にというか、制度的に言うと、企業は、働く者から一番、遠い処にあるのである。だから、収益が悪化すれば、働く者達の意志は、無視されて金融機関や株主の都合や思惑で、解雇されたり、合理化されたりする。売り買いまでされるのである。それを人身売買のようには考えない。しかし、実体は、人身ばいばいと変わりない。それ以上かも知れない。
 つまり、現行の企業は、植民地か、領主国のようなもので、共和国的な組織は、存在していない。企業は、収益を自分のために使うことも貯める事も許されない。つまり、企業は、自分が稼ぎ出した利益を全て吐き出さなければならない。特に、最近の時価会計の流れには、濃厚にその論理が働いている。その為に、企業は、利益を恒常的に上げられなくなっている。また、利益を蓄積する事も許されなくなっている。利益を平準化する事や益出しは、現在の会計の論理からすると不正だという事になる。それは、企業の経営の安定を度外視し、企業の市場価値のみを問題にしているからである。つまり、企業とは、家畜と変わりないのである。一種の奴隷制度である。

 では、何のために、会計制度はあるのか。現行の会計制度は、会社を破綻させるためにあるのである。会社を破綻させても税収を増やす事、また、情報を開示する事が、現行の会計の論理では正しい事になる。そこに勤める労働者や企業の社会的責任なんて知った事ではない。それが、現行の会計改革である。だから、不良債権のあぶり出しに汲々となっている。しかし、不良債権そのものを会計が生み出しているという考え方は、彼等は、とらない。なぜなら、会計の目的そのものを知らないからである。知らないと言うより、彼等にとって家畜の命より、家畜の市場価値の方が重要だからである。

 更に、最近の会計制度が、というより、投資家の見方が、近視眼的になっている事に原因している。投資家にとって、その企業が、実際にどのような経営をして、どのような社会的貢献をしているのかが重要なのではなく。また、長期的に見て、将来性があるかが、問題ではなく。短期的にどれくらいのキャピタルゲインを上げるかが、問題なのである。それは、彼等にとって企業は、家畜と言うよりも競馬馬のような存在に過ぎないのである。競馬の不正をただす。現行の会計の正義は、その程度のものである。

 企業は、収益と収支を短期に均衡できるようには、最初からできていない。だからこそ、資本の働きが前提となったのである。また、資本が必要なのである。
 つまり、最初から短期的に均衡することを予定していない会計主体を、無理矢理、短期的な利益や均衡によって推し量ろうとする。最初から矛盾しているのである。元々、短期的に均衡しないからこそ、会計的手法が必要だったのである。その典型が、減価償却会計であり、実現主義である。短期的な視点で見るのならば、現金主義で良いのである。現に現金主義が近年、復活してきた。しかし、現金主義でなく、実現主義がとられた背景は、企業業績を長期的な視点から把握しようとしたからである。つまり、会計制度は、自らの成立基盤を否定しようとしているのである。

 会計主体は、外部の人間によって食い物にされている。なぜなら、外部の人間にとって会計主体の継続は、重要な問題ではない。要は、ババを引かないように注意すればいいだけである。働いている人間のことなど、全く眼中にないのである。彼等にとって、労働者は、確立統計の対象に過ぎない。
 それは、会計に思想的裏付けがなされていないからである。元々、会計に正義などないのである。それは、部外者の監視のための手段、基準に過ぎないからである。会計主体内部をよくしたり、経済的に、自立させる事を、目的とした体系では、ないからである。

 資本に、内部の者が、関われない。社員を大切にしない会社、会社を大切にしない社員を生み出す元凶がそこにある。つまり、現行の会計制度に従う限り、社員は、部外者なのである。利益の一切は、社外の関係者に権利があり、最終的には、持ち出されてしまう。働いている者は、働きに応じて分だけ、どのような基準、何を根拠に報酬を決めるのかは、別にして、報酬が支払われるだけである。退職金のことを考えると、社員は、会社を辞めて部外者になった時、はじめて権利が、生じる事になる。働いている者は、内部にいる時は、発言権すら与えられていない。これでは、会計主体内部の人間を大切にしようがないし、会計主体内部の人間も会社に愛着を持つことができないのは、当然の帰結である。

 会計主体を機関と見るのか。共同体としてみるのかの違いである。現行の会計と言うより、資本主義においては、会計主体は、機関に過ぎないのである。それを端的な現しているのが資本である。

 そのうえ、資本には、商業蔑視の思想が見え隠れする。また、会計主体、企業必要悪論である。とにかく、金を儲ける事、儲けた金を貯める事、悪い事であり、消費は美徳である。そういう思想が制度の中に織り込まれている。特に、税制の中にである。無駄遣いをすればするほど、借金をすればするほど、浪費をすればするほど評価され。正直に汗水垂らし、勤勉に、そして、誠実で、質素に、暮らすと損をする。そんな思想を蔓延させて、社会は、本当に良くなるのであろうか。また、企業は、信用のできない、油断のならない存在であり、外部によって雁字搦めにしておかなければならない。厳しい監視下に置かないと不正をする。そう言う前提で会計制度は成り立っている。だから、会社をよくしようなどという視点は、会計に携わる人間には、最初からない。それが、会計を司る者の正義である。

 資本とは、何か。自己資本とか、純資産とか、資本金とか、いろいろ言われるが、実のところ、勘定科目の中で、一番曖昧なのが、資本なのである。
 自由主義社会で自由の概念が曖昧なのに似て、資本主義社会において資本の概念が曖昧なのである。それが、原因で、資本主義社会は、狂い始めている。

 資本の定義には、いろいろある。第一に、純資産である。第二に、過去の利益の蓄積。第三に、自己資本。第四に、資本金。第五に元手。第六に、持ち分。第七に、株価という具合にである。

 中でも、最も裏付けがあるのが、純資産である。ところが、純資産が、くせ者なのである。純資産は、資産−負債という方程式で導き出されるものであるが、この資産の算出基準がハッキリしないのである。
 例えば、資産の中に潜む不動産の価値が先ず問題になる。不動産は、一物五価と言われ。中には、工場の敷地のように、売れない土地もある。時価や不良債権は、この不動産を根拠に計算される部分を多く含んでいる。時価とか不良債権というものが、いかに曖昧な概念なのかを証明している。純資産の基礎となる数字の中の主要な部分を占める不動産がこのていたらくである。更に、不動産以上に、重大な影響与える有価証券や為替は、一日の中でも大きく変動する。それら不安定な価値を元に純資産は、算定されるのである。

 そのうえ、純資産といわれる部分には、多くの含み資産が隠されている。含み資産は、裏返すと、含み益、含み損のことであり、未実現利益(損失)である。含み資産の未実現利益(損失)というのは、資産を得らなければ実現しない。しかし、資産が、その時点の価値で売れるとは限らない。典型的なのは、株である。大量の株を一度に放出すれば、株価は下がる。つまり、自分で自分の首を絞めてしまうのである。この様な資産の代表は、棚卸商品である。時価といって、棚卸商品の場合、いろいろな評価の仕方がある。売値なのか、仕入れ値なのか。何倍も違ってくる。それに、時間が絡むと、例えば、(仕入れたタイミング、売るタイミング)によっても差が出る。また、清算価格、再販、再購入価格価格なのかによっても違う。売値にしても、相場なのか、定価なのか、希望価格なのかでも違ってくる。これに、製造が絡むと原価が問題になると言う具合に、何通りにも計算ができる。こうなると、都合のいい方程式を用いられたら、いくらでも含み資産の額や利益が操作できることになる。
 元となる数字が曖昧である以上、純資産の額は、当てにはできない。

 資本に含まれる収益は、過去の収益の集積に過ぎない。将来の収益を保障するものではない。将来の収益を保障するのは、あくまでも、企業内部にある経営資源である。資本は、その経営資源を現したものではない。実体がないのである。

 持ち分会計という発想がある。負債、資本は、債権者、株主の持ち分だという思想である。あくまでも、企業の所有権は、外部にあるのである。収益は、配当、税、役員報酬、内部留保に分配される。資本の概念は、この収益の分配という考え方を基礎にして成立している。つまり、資本の問題とは、取り分の問題なのである。取り分というのは、言い換えると、持ち分である。ところが、この取り分、持ち分に働く者の取り分は含まれていない。

 自己資本という言葉を文字通り資本だというならば、資本は、会計主体自身、つまり、自己に還元されるべきものである。ところが、資本の核に、肝心の自己がない。つまり、会計の主体が存在しない。あるのは、部外者の権利だけである。これでは、結局、負債と同じ、他人資本になってしまう。

 それから、株価の問題がある。資本と株価の総額は、一致しない。例を挙げると、トヨタ自動車の資本金は、八十八億円(平成十六年度三月末 単独)。資本は、千三百八十五億円(平成十六年度三月末 単独)。総資産が、二千八百八十九億円(平成十六年度三月末 単独)。売上が、八千七百三十七億円(平成十六年度三月末 単独)であるのに対し、株式時価総額は、平成十六年十一月二十六日現在で、なんと十四兆一千百五十億円(日経新聞社)である。また、株価から見た企業買収価値(日経新聞十月三十日版)では、十八兆四千億円と試算している。資本を企業の買収価値だとすると、現実に資本と表示されている額と、これだけ、かけ離れている事になる。

 こうなると資本の実体とは、何か、解らなくなる。実際、資本とは、そう言うものなのである。資本は、権利である。観念的なものであり、実体のない、虚の部分なのである。虚だからこそ、悪用しようと思えばいくらでもできる。会社の実体とは、関係なく、株価を操作することで利益を上げることが可能なのである。そして、多くの投資家が、株価に踊らされて、その結果、バブルが引き起こされてきたのである。

 会計主体にとって真の資本の働きは、別の処にある。将来に対する投資の原資、緊急時における資金、支払のための原資、従業員の退職金の準備金、蓄え、長期的に安定した賃金を支払い続けるための調整金等といった働きである。これらの問題は、働く者にとって死活問題である。

 資本本来の働きを否定したら、企業は成り立たないのである。

 企業活動は、短期的に均衡するものではない。長期的に均衡するものである。それに対し、外部の人間は、長期的に企業に関わるわけではない。故に、短期的な収益のみを問題にする。だから、資本に、長期的な働きを要求していない。あくまでも、株を保有している期間のみの成績が問題なのである。だから、投資家は、資本の持つ本来の働きや企業の実体に関心がないか、薄いのである。要は、企業業績が、株価にどう影響するかが、問題なのであり、それ以外に関心はないのである。
 ところが、企業で働く者は違う。たしかに、企業に勤める期間が短くなったとはいえ。働く者は、企業によって生活の糧、原資を得ているのである。企業の継続は、絶対的な要件である。しかも、収入は、一定していた方がいい。儲かった時は、沢山もらえるが、儲からなかったら、極端な場合無給になるといったら生活設計ができない。特に、今日のように借金が生活の前提になると収入が不安定なのは、困る。故に、収益を平準化したいと考えるのは、当然の事である。ところが、部外者にとって収益を平準化するよりも、正確な収益を知りたいという動機が優先する。それが会計の正義である。会計の正義とは、収益が上がらなくなったら、賃金を削減するか、解雇することである。そのことで、労働者や経済がどのような影響を受けるかなんて知ったことではない。そのような、身勝手な論理で、会計に携わる人間は、自己を正当化している。だから、会計は、社会的に認知されないのである。今の会計には、思想がない。哲学ない。だから魂が籠もらないのである。単なる技術に過ぎなくなるのである。
 資本の役割は、本来、企業経営を長期的に均衡するための調整器、安全弁、緩衝器のような機能である。余剰の収益が上がった時は、それを内部に蓄えておき、将来のための蓄えや緊急時の資金にする。また、従業員には、長期的に安定した所得を保障する為に、資金を貯蓄する働きが、資本の機能の中で重要なのである。そして、その為に、企業は、継続をその目的の一義にあげるのである。

 企業の経済主体の主体が、該当主体の外にあるという事はどう言うことであろうか。他の経済主体のことを考えれば解る。家計は、家族以外の者のために、家計簿をつけ、開示するであろうか。また、家計の主体を家族以外の人間に渡すであろうか。個人破産した者は別にして、それは、プライバシーに関わる問題として厳しく拒絶するであろう。家計は、家族以外の人間、特に、国家に主権があるなどと言ったら、大変な事になる。家計は、家族のものではないと言っているような者である。相当の強権国家でもそのような横暴な事は許されない。ところが、企業は、企業を構成する者達の者ではないと法的に決められているのである。つまり、企業は、奴隷的存在なのである。だから、生殺与奪の権限が、外部の主人達の手に握られているのである。
 では、財政はどうか。財政の主権は、国民にある。内部で働く、政治家や官僚は、国民の負託を受けて国家を運営している。しかし、実際は、国家の運営、経営は、政治家や官僚が握っているのである。また、国民の立場は、株主であり、債権者であり、顧客のようなものである。しかし、国家は、会計報告の開示のルールさえ確立していない。責任の所在も曖昧なままである。
 財政が破綻したからと言って、国家の独立が犯されたという話は聞かない。確かに、内政を干渉されたり、主権に制限を加えられたと言う歴史は、過去にはある。しかし、だからといって植民地や属国にされるわけではない。また、財政が、破綻したからと言って、責任をとらされたという者が、居たという話も、聞いたことがない。住宅金融公庫を廃止するにあたって累損が三兆円あるという記事が、十二月九日の新聞各社に載った。しかし、このことで誰も責任をとる者は居ない。とるどころか、高額の退職金を天下った役人は、もらって、慰労されるのが関の山だ。民間企業の場合は、こうはいかない。場合によっては、全財産を没収された上、犯罪者にもなりかねない。いずれにせよ、企業経営とは、天と地の開きがある。
 それもこれも、企業は、最低限の権利も認められていないという事である。つまり、企業の主権は、企業の外部にあり、企業は、外部の人間によって支配されているのである。


 生きる場としての企業。会計主体が、一個の自立した生き物として機能することが、そこに働く人々を生かす事になる。その為には、資本を内部の人間が取り戻す事である。その一つの試みが、社員持ち株制度、ストックオプションである。しかし、その大多数が悪用され、本来の意味がなくなっている。
 在籍期間中だけ、株主になれる一代株主のような制度も一考の価値がある。つまり、会社に在籍している間だけ株をつ制度であり、会社を退職する際に、退職金という形か、退職金にプラスする形で精算する。また、株券を所有する者は、株主と同等の権利を実質的に持てるようにする。少なくとも、株主総会に出席するようにする。それによって、会計主体内部の人間が、会計主体の枠組み作りに参画をする。

 株は、権利であって実体がない。実体がないから際限がない。貨幣も観念であり、際限がない。際限がないという事は、無限だという事である。際限のない株を際限のない貨幣で価値を規定しようとすると価値は、無限大に発散する危険性がある。
 株主取り分を資本だというならば、資本とは、株に附帯する諸権利を象徴しているとも言える。

 問題は、財務諸表に入り込む虚の部分にある。その虚の部分が資本なのである。資本には、実体的な裏付けがない。つまり、資本の本質は、権利なのである。そして、その権利の主体は、本来誰なのか、それによって会計の枠組みを構築しないと資本は、その本来の機能を取り戻すことはできない。本来の主体が主権を取り戻した時、資本は、実体を持つ。その時、会計主体は、その本来の姿を現すのである。その主体とは、内部になければならない。つまり、働く者達の総意が、主体である。働く者達が、主権を取り戻すことによって会計主体は、実体を持つのである。


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