分配のアルゴリズム


分配の意義



分配は、生産の場と消費の場が分離する過程で成立した場である。故に、分配には、生産と消費の懸け橋的な性格があり、生産と消費の性格を併せ持つ、あるいは、段階的に生産から消費へと変化していく傾向がある。

分配の過程は、最初は、生産の場から始まり、段階的に消費の場へと転回していく。分配の過程で、中間投資と中間消費が発生する。この中間投資と中間消費の役割が重要となる。

分配は、組織的な「お金」の配分と市場から財を購入するという二段階で成立する。

分配のアルゴリズムは、他のアルゴリズムとは、根本が違う。分配のアルゴリズムこそ思想的なのである。つまり、分配のアルゴリズムは経済の思想を具現化したものである。
何を基準、どの様な体制、仕組みによって生産財を分配するかは、極めて思想的なのである。
生産性を向上させるのに伴って付加価値をあげなければならないと主張する者がいる。それは、全ての国民、労働者の高度な技術と知識、能力を要求する事につながる。しかし、一人ひとりの能力や技術には個性があり、適正があり、限界がある。
全ての国民、例えば、システムエンジニアや飛行機のパイロット、数学者の様な技術や知識、能力を要求する事はできない。
単純な労働に向いている人もいる。所謂、進歩主義的な考えのある者は、能力至上主義的な事があり。能力の劣る者を認めようとしない傾向がある。

何の取り柄もなく、何をやらせても駄目、不器用で真面目、正直なだけな人、謹厳実直、そんな人にも遣り甲斐のある仕事、生き甲斐、誇りの持てる職場を作るのも経済の仕組みの重要な役割なのである。
大多数の人は、天才ではないし、スポーツの花形選手になれるわけでもない。不器用で、みすぼらしく、醜くて、欠点だらけ、それでも人間らしく生きる権利、誇りの持てる仕事に就く権利は誰にだってある。
確かに、俺はその他大勢の口かもしれない。でも人として生まれてきたのだ。
選ばれた人ではない、平凡で、普通な人たちのためにこそ経済の仕組みは役に立たなければならない。そうでなければ経済の仕組みなんて最初から成り立たないのである。なぜならば、経済とは生きる為の活動だからであり、経済は、全ての人を生かすための仕組みだからである。

所得の分配と生産とを切り離して考えるべきだとする思想がある。しかし、それは経済の仕組みを破綻させてしまう。
経済の仕組みは、経済を構成する主体の双方向の働きと私的所有権に依拠した働きによって制御されている。個人が、生産主体と消費主体を兼ねているから、生産と消費双方の均衡がとれるのである。むしろ、生産主体としての働きと、消費主体としての働きを切り離してしまうから経済の仕組みが正常に働かなくなるのである。
経済主体は、自分が稼いだ収入を基礎として支出や蓄えを組み立てる。この収入と支出、蓄えを均衡させようとする働きが経済の仕組みを制御するのである。

経済は、生きる為の活動であり、経済の仕組みの本質は、分配にある。
分配は、「お金」の分配と財の購入と言う二段階で行われる。
「お金」の配分は、組織的に行われ、財の購入は市場を通して行われる。
経済取引は、二つ経済主体の間で成り立っている。基本的に経済取引は、相手が存在する。
二つ以上の主体が関係する取引でも会計上は、一対一の関係に分解される。会計上の単位取引は一対一に還元される。
取引は、財と「お金」、あるいは、権利と「お金」の交換を意味する。権利と「お金」の交換は、同量の債権と債務を生じさせる。取引は等価である事を前提とする。故に、取引量の総計は、ゼロ和に設定されている。
財と「お金」との交換は、損益、フローを形成し、権利と「お金」との交換は、貸借・資本取引、ストックを構成する。損益取引は、売買によって実現し、貸借取引は、貸し借りによって成り立っている。資本取引は、貸借取引の延長線上にあり、根本は、同質である。
「お金」の働から見ると、取引は、経済主体への入金、出金として現れる。つまり、一つの経済主体の入金には、必ず、同額の出金をする経済主体を前提としている。
一方の収入は、他方の支出であり、一方収益は、他方の費用である。この関係から生産と分配の相互作用を考察しないと部分と全体の整合性は取れなくなる。
故に、一つ取引の取引量は、主体の取引量と全体の取引量は、一対二の比率になる。


内閣府 国民経済計算書

インターネットの発達は、分配の在り方を根本から変えようとしている。生産者と消費者の距離がグッと近づいたのである。
しかし、生産主体、分配主体、消費主体の根本が変わっているわけではない。
生産主体がどのように分配に関わり、消費の在り方を生産主体に伝えるかが、重要となるのである。

個人は、生産手段としての労働力を生産主体に提供して、所得を得て、消費に支出する。支出は、生産手段の収益に還元される。
これが「お金」の循環運動を生み出すのである。「お金」が円滑に循環しなくなると経済の仕組みは、正常に機能しなくなる。
つまり、労働の成果と所得と生活費は均衡しないと経済の仕組みは、機能しなくなるのである。最も経済の仕組みを不安定にするのは、偏りと不均衡である。
それを是正するのが一般政府と金融の役割である。


分配の目的と役割



分配と言うのは、言い換えると分け前の話である。だから難しいのである。
しかも、部門の働きに応じた分け前をしなければならない。部門の性格も働きも違うだから難しいのである。
分け前、取り分は、争いの本。全ての人間を納得させられる分配の基準はない。むしろ、全ての人間がどのような基準に従って分配しても納得しないと思っていたほうがいい。だから、分配の基準には客観性が求められるのである。

経済で重要なのは、いかに、生産、あるいは、調達した財を必要としている人に、必要な時に、必要なだけ、しかも、全ての国民に満遍なく分配するかである。

その為には、「お金」が社会の隅々にまで配分されていなければならない。また、常に新鮮な資金が供給され続ける必要がある。その為の仕組みが分配の仕組みとなり、その基盤となるのが分配のアルゴリズムである。

この様な観点からすると生産のためのアルゴリズムと分配の為のアルゴリズムは明らかに違うのであ。第一に基本が違う。前提が違うし、そもそも目的が違う。故に、基礎となる指標が違ってくる。

分配の指標として重視されるのは、失業率、平均賃金、分散、最低賃金、物価、労働分配率、労働人口、生産年齢人口率、人口構成等、根本的に、労働条件や所得、評価方法、公正さ、市場環境である。

生産と分配を二律背反、対立的にとらえるのは、間違いである。なぜならば、生産と分配は表裏の関係にある。生産した物が売れなければ、生産主体は成り立たなくなるし、所得が増えても財が不足したら、物価の高騰を招くだけである。生産と分配の相互作用によって経済は成り立っているのである。
費用か利益かではなく。両立させるためにどれくらいの収益を上げるか、その為に価格をどう設定するかかが重要となるのである。
ただ、留意すべき事は、生産と分配の基準は、独立した事だという事であり、均衡がとれなくなると仕組み全体が正常に機能しなくなるのである。

分配は、経済の要である。分配で重要な働きをしているのは、費用である。現代人は、費用を目の敵にしているが、費用をやたらに削減すると分配の働きに支障をきたす。
適正な費用否かは、収益との関係から求められる。その指標は利益である。
費用は、価格に反映される。適正な価格が維持されなければ適正な費用も維持できない。価格が適正であるか否かは、収益と費用の関係から求められる。なぜならば、収益は、売上であり、売上は、単価を集計したものだからである。単価は、単位価格を言う。
ただ安ければいいというのは、経済の効用を無視している。

経済は、収益を上げ利益を得る事だと誤解している人が多い。経済は、生活に必要な財を生産し、それを消費者に配分する事である。
経済の目的が利益にあるとすると限りなく、費用を削減すればいいという事になる。しかし、費用の大半は、人件費である。人件費を極限にまで削減する事が目的だとされたら、必然的に個人所得は縮小される事になる。それは、社会全体では総所得の縮小を意味する。

忘れてはならないのは、経済は物の生産だけで成り立っているのではないと言う事である。
人の所得が対極に成り立たない限り経済は機能しない。人の所得は、支出と均衡する必要がある。所得より支出が上回ると貸借、即ち、ストックが過剰となる。貸借は、余剰の「お金」を生み出し、「お金」の正常な循環を阻害する。物価と雇用は、経済の両輪なのである。
勘違いをしてはならないのは、世の中の大多数の人間は、平凡な人間、凡人である。何らかの欠点、それも身体的な障害がある者もいる。天才でも、特殊な技能があるわけでも、図抜けた才能に恵まれているわけでもない。どちらかと言えば無能で、欠点だらけの人間である。そういう人達が生活に困らないような所得を得られるようにする事も経済の仕組みの役割なのである。
これからの技術革新が、平凡で無能な人間から仕事を奪うようなものならば確実に経済は衰退する。そのような仕組みになっているのである。単純労働を軽視したら経済は成り立たなくなる。
仕事・労働は苦役ではない。自己実現の手段の一つである。遊んで暮らすのは、虚しい。なぜなら、生きる目的も見出せず。他人の役にも立たないからである。

半分の労力で生産できても二倍の所得になるわけではない。所得が増えなければ付加価値も増えない。付加価値が増えなければ、市場も拡大しないし、成長もしない。では、生産性を高めなくていいのかと言うとそれでは、物質的な豊かさは実現しない。生産量が増えても所得が変わらなければ、経済成長は実現しないのである。要は、生産と分配とをどう両立させるかの問題なのである。
安売り業者を消費者の味方とメディアは持ち上げるが、消費者は生産者でもあるのである。

生産のための仕組みと分配のための仕組みは違う。大体、目的が違うのである。ただ連動しているために、一体性が求められる。
分配の仕組みは、例えば、7000万人の国民がいる国があるとして、その内、20歳未満の人口が2000万人、60歳以上の人口が1000万人とする。男女の比率を半々として、国民が生活するのに必要な資源を生産する為に、必要とする資源は、1000万にで生産できると仮定する。但し、消費に必要とされる労働の成果は除く。市場経済では、生産されたもの総てを換金し、国民は、所得を得て、必要な物は、お金を払って市場から調達する。
要するに7000万人が生きていくために必要な資源を1000万人にで生産した場合、それをどの様に分配するかの問題である。
働ける人口は、未成年と60歳以上を除い4000万人だとする。かつては、大体7人程度の血縁による集団に形成し、それが家計と言う経済単位を構成して、その中の一人の男性が働いて後の7人を養っていたというのが基本的構図である。そうなると、働いてる男性の相対的な地位が高くなり、家庭では、主人に主人以外の者が隷従する。
2000万人の女性が所得を得る機会すら奪われていた。
更に、所得を得られる人間は、1000万人に限られるから、1000万人の男性も仕事にあぶれる。
それで新たに、1000万人分の仕事を作らなければならなくなる。その仕事の多くは、権力によって生まれる。権力の根幹は、治安と国防である。
現代問題となるのは、生産性が高まる事で、生きていくために必要な資源を生産する為の人口が少なくて済むようになってきた事なのである。生産性が高まれば高まるほど失業者が増える。失業者にいかに「お金」を配分するかそれが最大の課題である。
それに対して生産部門は、いかに効率化して費用を削減するかに血道をあげている。
かつては、人口を維持する為に労働力が不足した。それが課題だったのである。現代は、生産性が向上したことで仕事がない事が問題となっている。経済問題の質が変わったのである。
生産と分配の構造の整合性をいかにとり、保つかが経済最大の問題なのである。

経済が分配の仕組みだという事は、この点からも言える。
単純に労働への対価と言えないところに分配の難しさがある。分配には、市場取引の様な客観的根拠になる部分が少ない。多くの部分が恣意的なのである。
分配には、報酬、対価、評価、生活費の資金源等の働きがある。報酬は所得、経常収入を意味し、対価は、財に対する費用を意味する。評価は、自己実現や動機付けを意味し、モチベーションやインセンティブの根拠となる。その他に、生活費として人との属性に基づく部分がある。生活費には、個々の地域の前提条件も含まれる。そして、これらの働きが給与体系・給与構造の下地となる。
報酬は、給与の基礎的部分を構成し、対価は、残業や手当などの追加費用として、また、評価は、賞与や昇給などに反映され、生活は、属人給として支給される。
報酬は、給与の期間となる部分を構成する。費用は、収益と関係によって測られる。評価は、成果、実績が基本となる。
ただ、分配は、成果や実績、時間だけで測られるべき事ではない。なぜならば前提条件に個人差があるからであり、また、分配本来の目的は、必要な時に、必要とする人に、必要とされる資源を、提供する事だからである。
所得の偏りは、分配の目的の障害となる。その為に、国家権力による所得の再配分が必要となるのである。

生産の仕組みと分配の仕組みの整合性をとる上で、一番障害になるのは、生産の論理と分配の論理が不整合である。
生産側から見れば人件費はあくまでも費用であり、消費側から見ると生活費である。分配側から見ると所得である。
この三つの働きの相互牽制によって経済主体は成り立っている。
生産の論理は、利益の追求であるのに対して分配の論理は、生活にある。それ故に、仕事に対する評価が貢献度や実績に対する評価と年齢や家族構成といった属人的な部分に対する評価を組み合わせる事になる。
評価の基準が組織を構成する者の合意がとれなければ、組織を制御する事が難しくなり、最悪場合、組織が解体してしまう。

分配において報酬が組織的になされているという事が一番の問題なのである。ところがなぜかこの点が蔑ろにされて市場ばかりが問題とされる。収益を上げる事が問題なのではなく、適正な分配がされていない事が問題なのである。そして、それは評価の問題なのである。
つまり、経済で最大の問題は、評価、待遇である。評価の仕方、基準を間違えば、極端な格差が生じる。それは、プロスポーツの世界を見ればわかる。
プロスポーツは、評価や報酬の問題に常に頭を悩ましてきたのである。
成果と経済的効果、そして、個人の評価をどう結び付けるかが経済で一番の課題である。


分配の前提と初期設定


分配は、二段階に行われる。第一段階では、働きに応じて「お金」、即ち、所得を分配する。第二段階で市場から財を購入する事で財の分配が完結する。第一段階で消費主体を収入を得て第二段階で支出によって財を購入する。

分配の前提は、全ての消費単位に生活する為の最低限の支払準備ができている事である。
そして、消費には周期があり、その周期に合わせて必要なだけの資金が絶えず供給されていなければならない。これが前提である。

「お金」がなければ、何も手に入れる事が出来ない。最悪の場合、餓死する事もある。
自由経済では、「お金」がなければ何もできない。生きる事さえできなくなるのである。分配にとって支払準備、「お金」を所持する事が大前提となる。
「お金」がなければ、借金するか、貰うか、手持ち資産を売却する以外にない。
「お金」がなければ生きられないから現代社会では、「お金」が犯罪の最大の原因となる。

分配は、消費単位に対してなされる。消費単位は、基本的に一家族、世帯である。
位置消費単位は、少なくとも一人は、所得を獲得する事が前提である。
消費単位は、家計を形成する。

分配の手段には、組織的な手段と市場的な手段がある。
いずれも「お金」が仲介する事で成り立っている。
故に、市場経済における前提条件は、組織、市場、「お金」が存在する事である。

組織的手段と市場的手段は、分配の基準もやり方も違う。
組織的分配は、評価に基づき恣意的になされる。市場的分配は、取引に基づき選択的におかなわれる。
組織的分配は、どの程度生産に貢献したかの評価に基づいて恣意的になされる。

市場による分配は、取引によって実現する。
市場取引は、二つの主体の間で成立する。
市場では、売り手と買い手がいなければ、分配は成り立たない。
売り手と買い手の関係は、外部取引を構成し、対称的である。

「お金」が取引の道具として成り立つためには、貨幣制度、信用制度が成り立っている必要がある。これは必要条件である。

取引が成り立つためには、需要と供給がなければならない。

金銭面における分配の初期設定は、所持金はゼロである。故に、まず分配は、「お金」を稼ぐ、調達する事から始まる。


分配の働き



分配こそ経済の要になる。なぜならば、経済の目的そのものが分配にあるからである。

経済は生産だけで成り立っているわけではない。いくら財を生産しても消費者に分配されない限り、生産された財は、無駄になる。生産された財は、全ての消費者、国民に分配される事ではじめて経済の仕組みは成り立つのである。

生産に働く原理と分配に働く原理とは違う。生産と分配の原理の違いは、生産と分配の目的の違いから生じる。
生産は、最小の資源で最大の効用を求める。それに対して分配は、所得の幅と分散と平均が問題となる。必要とする支出に対応できる所得が求められるのである。

費用は、生産のための支出である。費用の役割は、生産だけでなく、分配や消費の働きもある。生産効率を上げるという名目で費用を限りなく削減すると所得も縮小し、消費も減退する。
適正な費用が維持できるような収益を実現できる市場構造を構築する事。その為の指標が利益である。
所得の上昇拡大を前提としていたら際限なく成長し続ける事が運命づけられてしまう。
縮む事を覚えないと市場経済は、常に破綻と再生を繰り返さなければならない。
生産の拡大を伴わないで費用である所得だけを上昇させることはできない。利益は、収益と費用の差なのである。この関係を忘れたら、現在の市場経済は成り立たない。
現在、個人事業の典型だった喫茶店とか、居酒屋まで企業化され組織化されつつある。個性的で多様だった喫茶店や居酒屋、小料理屋が標準化され一様なものになっってしまった。東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、静岡でのみコーヒーも規格化され均一化されている。それが成熟した経済だと言われたら、私は、退化、逆行だと答えるしかない。
経済は、本来多様なものだ。それは、消費者が多様であり、市場が多様であり、環境や前提が多様だからである。多様さを失った経済は、全体主義的で、独裁的である。
なぜ、喫茶店や、居酒屋、小料理屋が企業化され一様なものに変質するのか。
それは経済制度が市場を一様化させるような仕組みになっているからである。
価格やコストだけに特化した市場は、多様さを失うのは必然的結果である。それは、量のみが先行して質が軽視された結果である。大量生産、大量消費に偏れば質が軽視されるのは当然である。
また、居酒屋や喫茶店の様な三ちゃんと言われたような企業でも人を雇えば、常に人件費の高騰に悩まされる事になる。年々、人件費をあげなければならなくなれば年とともに競争力を失っていく事になる。経済発展に伴って新興国が競争力を失うのは、人件費の高騰に依るし、先進国が新興国に太刀打ちできないのも人件費が高いからである。
市場や経済が成熟してくると必然的に所得は、相対的に高くなる。

最低賃金や労働条件、労働時間などの経済の枠組みも分配に対する考え方から制約される。この点は、個々の国の経済事情、状況に違いがあるから、国家間の市場格差になり不公正な競争を容認する事になる。
故に、公正な市場環境を維持確立させるためには、国家間に差をつける必要がある。ただ、国家間に差をつけるのは、国家間の話し合いによる。差のつけ方が無原則なものであったり、報復的なものであったり、特定の国を狙い撃ちにするようなものであると健全な市場の発展を妨げる事になる。基本的には、相互協力、国際分業に基づいた体制にする必要がある。関税だけではかえって不均衡で偏った市場を許す事になる。
貧困の輸出や労働条件の悪化にならないような取り決めでなければならない。
生活水準の向上か悪化か、相互に採られた政策によって経済を発展する事も衰退させる事にもなる。

分配においては、幅が重要となる。人が生きていくために必要最小限の所得をどの様な基準でどこに設定するかが、下限を制約するからである。

所得の上昇拡大を前提としていたら際限なく成長し続ける事が運命づけられてしまう。
縮む事を覚えないと市場経済は、常に破綻と再生を繰り返さなければならない。
市場は拡大と縮小を繰り返す事で、「お金」を循環させているのである。
生産の拡大を伴わないで費用である所得だけを上昇させることはできない。利益は、収益と費用の差なのである。この関係を忘れたら、現在の市場経済は成り立たない。
費用や借金を罪悪視、費用や借金をひたすらなくそうとするのは、経済の一面しか見ていない事を意味する。費用や借金にも重要な役割があるのである。費用は、生産手段であるとともに分配の要である。費用と所得は表裏の関係にある。


分配の仕組み


分配は、「お金」を組織的に分配し、必要に応じて財を市場から購入するという二段階で行われる。
「お金」に還元する事で貨幣価値の一元化が測れ、市場から必要に応じて購入する事で多様性が保てる。また、市場を経由する事によって需給に基づく生産の調整ができ、適正な経済的価値を確定できる。

「お金」の分配は、働きに応じて組織的に行われる。働きに応じて組織的に行われるから評価制度が機能しなければならない。

財の交換は、市場において行われる。市場の分配は、市場価格を基準にして行われる。

一般に市場経済と言うと市場が全て取り仕切っているように思われがちだが、市場は、経済の仕組みの一部に過ぎない。むしろ、分配は、経済主体、即ち組織が主役なのである。一部の働しか担っていない市場の働きを絶対視したら市場経済の実体は見えてこない。
分配の仕組みの基礎は、「お金」を分配する仕組みの在り方によるのである。
生産の仕組みと切り離して分配の仕組みだけを働かせようという思想は、現代の経済の仕組みの対極に常に存在している。
それが共産主義であり、統制経済である。生産は生産、分配は分配として切り離して考える事で、生産と分配の不整合からくる景気を乱れをなくそうという思想である。しかし、生産の仕組み、機構と分配の仕組み、機構を切り離してしまうと生産と消費とを関連付ける事が出来なくなる。
また、生産のための仕組みと分配の為の仕組みを切り離した場合、何を基準に分配をするかが問題となる。働きに応じた基準が設定されないと仕事に対する意欲や倫理観が維持できなくなる。仕事に対する意欲や責任感が保てないと仕事の生産性は、極端に低下する。それは、共産主義体制において実証済みである。
それに、生産の仕組みと分配の仕組みを切り離したら「お金」は、市場を循環しなくなる。

重要なのは、生産の仕組みと分配の仕組みの整合性をどう保つかにある。それは、どの様な収益構造を構築すべきか、費用対効果をいかに維持していくかの問題なのである。
問題なのは、生産効率と分配効率が背反的関係にあるという事である。分配は、支出、費用を構成する。生産性を高める場合、いかに費用を削減するかが課題となる。しかし、費用を削減する事は、分配効率を下げる事になる。結果的に生産効率を上げると分配効率が低下する事になる。
経費の中で最も比重が重いのが人件費である。人件費には固定費と言う性格がる上に時間と伴に上昇するという性格がある。故に、利益率を高めるためには、人件費を削減するのが最も効果的なのである。

生産主体である企業は、利益のみを追求すると際限なく人件費を削減する事になる。人件費は、裏返すと所得である。故に、人件費を削減する事は、総所得を減少させる効果がある。要するに、仕事も所得も少なくなるのである。企業が利益を追求した結果仕事も減り、総所得が減少する。結果的に消費が減退して景気を悪くし、企業の利益を圧迫するという悪循環に陥ってしまうのである。

だからこそ適正な価格を維持できる市場環境を築き、維持する事が重要になってくるのである。だからこそ、独占禁止法は、独占を禁じる事だけを目的としたものでなく、不当廉売も禁じているのである。

生産の論理と分配論理は次元を異としている。それなのに、経済主体の組織を共有している。
いかに分配の仕組みと生産の仕組みの整合性を保ち、消費の構造に結び付けるかが解決の糸口なのである。

経済主体の働き、一つではなく複数ある。しかも、生産、分配、消費、貯蓄の個々の局面において違う働きをする。
経済主体の最小単位は個人である。個人は、集合して家計と言う消費単位を構成する。
生産、分配、消費、貯蓄と言う働きは、個人の働きによって実現する。

個人は、労働力と言う生産手段を生産主体に提供し、所得を獲得している。個人は、獲得した資金を使って市場から資源を調達して生活を成り立たせている。つまり、個人は、労働者であり、消費者でもある。労働者と消費者と言う相反する役割を個人と言う主体によって統一する。それが資本主義、市場経済の本旨なのである。

働き(Function)に応じて報酬を得る。ただ、働きは一定ではない。労働には個人差がある。単に能力と言うだけでなく、年齢によるものもある。兎に角、労働に代表される働きは一律一様ではない。
「お金」を分配、即ち、所得を分配する組織と生産のための組織は一体である。組織を共有する事で、生産と分配とを結び付け経済の仕組みの整合性をたもっている。
問題は、生産効率と分配効率は、一体ではないという事である。この点を考慮しないでひたすら生産性の効率を追求すると分配が成り立たなくなる。

労働組合は、経済主体の在り方を分配の側から監視してきた。それはそれなりの働きがある。ただ、それが生産、経営者と単純に対立するようになると生産と分配の整合性がとれなくなり、極論すると生産の仕組みと分配の仕組みを切り離してしまえという事になる。

しかし、そうなると分配は、生産と消費の懸け橋としての役割が出来なくなる。分配は、生産側にも消費の側にも偏り過ぎると均衡を失って暴走する事を防げなくなる。

その時重要になるのは、会計と言う枠組みである。勘違いしてはならないのは、元々、会計は、人為的なものであり、収益を中心とした利益構造を柱にした体制だという点である。適正な利益を維持する為には、適正な収益と費用をどの様に確定し、それを維持するかと言う事であり、それを実現する場が市場なのである。

経済の仕組みは、「お金」を廻せば維持できる。しかし、「お金」を廻す事だけが経済の仕組みではない。「お金」を循環するのは手段であって目的ではない。
では、適正な収益をどの様に維持するかと言う事になる。適正な収益を維持する為には、適正な価格を実現する事なのである。

ひたすら、価格競争力、生産の効率、規制緩和、廉価を追求して消費者に阿っても適正な収益が維持できるわけではない。不景気は、費用と価格の働きを軽視した結果なのである。

利益のみを重視して生産効率をばかりを追求すると生産と分配、消費の均衡が保てなくなる。
経済が成熟し、市場が飽和状態に陥ったら量から質の経済へと転化させるべきなのである。生産主体も消費主体も、分配主体である事を忘れてはならない。

生産と所得の分配が同じ組織である事によって生産効率を高める事が分配効率を低下させる事につながる事がある。生産効率と分配効率の整合性を保てるような仕組みや規制をしないと、経済の仕組み全体の均衡が保てなくなる危険性がある。

生産の論理と分配論理は次元を異としている。それなのに、経済主体の組織を共有している。
いかに分配の仕組みと生産の仕組みの整合性を保ち、消費の構造に結び付けるかが解決の糸口なのである。

経済主体の働き、一つではなく複数ある。しかも、生産、分配、消費、貯蓄の個々の局面において違う働きをする。

経済の仕組みは全体と部分から成る。経済はいくつかの部品が組み合わさってできている。全体と部分の働きの整合性がとれなくなると経済は正常に働かなくなる。
この点は、組織だけでなく、市場にも言える。

市場は、一つでできているのではなく。複数の市場が組み合わさり、あるいは重なり合って一つの全体を構成している。
市場は、一律一様な場ではなく、合目的的な構造を持った場であり、個々独立した働きや構造を持つ市場が組み合わさる事で全体の働を構成している。
経済政策は、個々の市場の働きや役割、動向、状況を見極めて個々の市場の適合した施策を講じる必要がある。

分配は、「お金」を市場に循環させることを介して行われる。市場は、「お金」の流れによって財を分配させる仕組みである。「お金」の流れが財の分配を実現するのである。「お金」の流れは、財の流れを作る。
生産財は、「お金」の流れる逆方向に流れる。つまり、「お金」が流れていればその逆方向に流れる財があることを意味する。
市場は、「お金」を循環させる装置だと言っていい。
つまり、市場経済の仕組みは、「お金」をいかに循環させるかが鍵を握っているのである。
その為に、資金の移転が重要な機能を果たしているのである。

「お金」を循環させる行為は、売買と移転である。移転には、貸借と贈与がある。
「お金」は、循環し、財は、直線的に流れる。

分配は、市場取引を通じて実現する。市場取引は売買を通じて行われる。売買は、「お金」と財との交換を意味する。
故に、市場取引を実現する為には、予め、消費単位に資金が供給されている必要がある。
つまり、分配は、「お金」の配分、即ち、所得によって準備される。
移転は、支払準備である。
「お金」は、取引に依って市場に供給され、循環し、効力を発揮する。
外部取引は等価交換を前提として成り立ち、利益は、内部取引より生じる。
一般に取引と言うと「お金」の動きばかりを注目し、財の流れが見落とされる。その為に、双方向の働きが認識されない場合が多い。

問題は、「お金」をどの様な基準に従って、どのような手段で、誰が(何が)執行するのかである。
「お金」は、一般に報酬として消費単位に支払われ分配される。

分配のアルゴリズムの働きは、全ての国民に、一人当たり一定の幅の範囲で所得を分配する事である。
一定の幅と言うのは、生活していくうえで必要な資源を市場で購入する事が可能な範囲と言う事である。故にも経済は、物価と個人所得の平均と分散、最低所得との関係に収斂する。
分配は、一般に組織的になされる。基礎を市場に置く生産とは、根本から違うのである。分配は、一般に組織的になされる。なぜならば、分配は、分業に基づくからである。
分配は、均一均等にはできない。分配の対象である消費者が置かれている環境、状況が違うからである。同額の所得を配分しても前提条件によって格差が生じる。寒冷地にいる者と温暖な地方にいる者とは生活の前提が違うからである。
また、人には、能力や適性の違いがある。能力や適性を無視して配分すれば当然不平等になる。
問題は、どの程度の差をつけるかである。経済は差によって動いている。差をつける時、合理的な基準に基づくか否かが、平等であるかないかの問題なのである。差をつけること自体で不平等が発生するわけではない。

分配は、部門を対象にして行われる。家計に対する分配は、雇用者報酬、企業法人に対する分配は、営業余剰と・混合所得、一般政府に対する分配は、税である。
所得と支出の配分の偏りが部門間の資金の過不足となる。資金の過不足は、ストックに蓄積され、フローの流れる方向を左右する。

注意すべきなのは、営業余剰・混合所得は、中間消費項目として最終消費支出から除かれている点である。

分配の仕組みは、いかに、生産の過程に連動しながら、公平な分配を実現するかにある。そして、公平な分配は、消費の充実から求められる。つまり、一定の生活水準の実現である。同時に最低限の生活水準を保障する事にある。


分配の手段


分配には、個人の分配の流れと経済主体間の分配の流れ、部門間の分配の流れがある。
個人の流れは、所得から消費への流れを意味し、経済主体間の流れは、生産者から顧客への流れであり、部門間の分配は、貸借の流れである。

分配の基本は、働きに応じて所得として「お金」を配分し、必要に応じて財を市場から購入する。
それが原則であるならば、働くことが手段である。働く事は、労働力に代表されるが、労働力が全てではない。生産手段全般に言える。

市場経済体制においては、分配の手段には、組織と市場がある。
市場経済では、先ず、所得を分配しておいて必要に応じて必要なものを市場から手に入れるという二段階で実現する。

所得を組織的に分配するのは、主として経済主体である。

分配の手段には内的分配と外的分配がある。
内的分配の手段は、組織的分配であり、外的分配の手段は、市場取引を言う。

多くの人は、市場経済における分配の手段は、市場に限られているように思い込んでいる節がある。
しかし、分配は、所得の分配、財の購入と二段階行われる。所得の分配は組織的になされる場合が多い。また、資本主義体制では、徴税上の都合から給与所得として形式的に組織的手段を装う場合が一般的である。

一般に市場経済と言うと市場取引が全てであるように錯覚されているが、実際は、所得の多くは、組織的に配分される。
所得の分配は、組織的になされ、財の分配は、市場を通して行われるのが原則である。
なぜ、所得の分配は、組織的になされるのか、そこには、所得の分配は、評価にもしづくからである。つまり、所得の分配において差がつけられるのである。

市場経済では、市場だけが問題とされる。しかし、市場経済下でも所得の分配は、組織的、かつ、恣意的にされる。だからこそ分配のアルゴリズムは思想的なのである。

経済主体は、基本的に共同体であり、組織である。家庭も、企業も、政府も組織的な主体である。

組織の機能には、現業部分と管理部分がある。現業部分は、生産・販売・仕入購買、在庫等、直接業務にかかわる部分をいう。それに対して、金銭の出納、組織統制、企画、設備の保守点検といった間接的、付帯的業務を管理部分と言う。これらの業務が費用を構成する要因となる。

所得は、支払準備である。
分配を実現する為には、支払準備となる「お金」を事前に配布する必要がある。分配は、所得を配分し、手に入れた所得の範囲内で市場から必要な財を手に入れるという二段階で行われる。
故に、先ずどのように所得を満遍なく消費単位に配分するかが重要となる。

先ず、所得を得る手段を準備する事が分配の前提となる。

所得を得る手段で一番有効なのは、生産手段である労働力を提供する事である。
つまり就職する事である。

家計が「お金」を調達する手段は、主として労働の対価としての所得である。
国税庁は、所得を、給与所得、利子所得、配当所得、不動産所得、事業所得、退職所得、山林所得、譲渡所得、一時所得、雑所得の10種類に分類している。労働の対価として支払われるのは、この内、給与所得を指す。
所得の中で安定的で固定的な所得としてみなせるのが給与所得であるから、基礎的支出は、給与所得に依存しているのが一般的である。
故に、分配の中核は、給与所得に依存している。

所得を得たら、市場から必要とする財を購入する。

現在、個人事業の典型だった喫茶店とか、居酒屋まで企業化され組織化されつつある。個性的で多様だった喫茶店や居酒屋、小料理屋が標準化され一様なものになっってしまった。東京で飲むコーヒーも、ニューヨークで飲むコーヒーも、静岡でのみコーヒーも規格化され均一化されている。それが成熟した経済だと言われたら、私は、退化、逆行だと答えるしかない。
経済は、本来多様なものだ。それは、消費者が多様であり、市場が多様であり、環境や前提が多様だからである。多様さを失った経済は、全体主義的で、独裁的である。
なぜ、喫茶店や、居酒屋、小料理屋が企業化され一様なものに変質するのか。
それは経済制度が市場を一様化させるような仕組みになっているからである。
価格やコストだけに特化した市場は、多様さを失うのは必然的結果である。それは、量のみが先行して質が軽視された結果である。大量生産、大量消費に偏れば質が軽視されるのは当然である。
また、居酒屋や喫茶店の様な三ちゃんと言われたような企業でも人を雇えば、常に人件費の高騰に悩まされる事になる。年々、人件費をあげなければならなくなれば年とともに競争力を失っていく事になる。経済発展に伴って新興国が競争力を失うのは、人件費の高騰に依るし、先進国が新興国に太刀打ちできないのも人件費が高いからである。
市場や経済が成熟してくると必然的に所得は、相対的に高くなる。

喫茶店の様な商売でも一人ひとりの所得を上昇させようとしたら多店化する以外になくなる。停滞や縮小は許されないのである。しかし、拡大成長には限りがある。なぜならば、実質的な市場規模を画定するのは人と物だからであり、人や物は、有限な実在である。故に、物質的な限界があるのである。人や物に限りがある以上、無限に経済を成長させることはできないのである。同様に限りなく所得を拡大する事はできない。市場の縮小を前提とした施策をとらなければならない時があるのである。
その為には、市場が飽和状態に陥った時、量から質への転換が求められる。
ところが今日の日本の市場では、安売りが奨励され、競争を煽る政策が採られている。これでは適正な収益は維持できなくなる。デフレーションの最大の原因は、適正な収益が維持できない事なのである。

問題は、情報通信技術の進歩によって労働の質が変化し、労働の質の変化が組織的分配の質を変化させつつある事である。
これまで分業による組織的な生産が主だったのが、個人を単位としたネットワーク型の仕事が増えてきた点にある。更に、分配の仕組みの変化に拍車をかけているのがインターネットの進歩である。
インターネットの進歩は、これまでの、閉鎖的で、自己完結型、垂直的で階層的、集中処理型な組織を開放的で、連結型、水平的なネットワーク、分散処理型へと職場環境を変化させている。
これらは従来の組織に基づく所得の分配の在り方を変化させつつある。従来の組織は、規模の経済が働き、生産と分配が一体となった仕組みである場合が多かったが、生産と、分配の仕組みが分離しつつある。そして、それに伴って失業率が上昇し、従前の様な労働集約的な産業が成り立たなくなりつつある。
単純反復労働は、廃れ、より特殊な技能や知識が要求されつつある。付加価値の高い仕事が求められている。
反面、AIの発達は、知的な労働からも人を追い出しつつある。
民間企業に頼って所得の分配が経営の合理化によって成り立たなくなりつつある。

この様な変化は、組織的分配の主役だった民間企業の在り方を変化させつつある。また、労働力と言う生産手段を提供し、その対価として報酬を受け取っていた個人の在り方も変化せざるを得なくさせている。
更に、肉体労働といった力を必要とする仕事からコンピューターを使った仕事が増えるのに従って女性の社会進出が進んだ。
この様な変化は、必然的に社会環境、個人と企業、個人と家計、個人と国家の関係も変えつつある。
それは、分配の仕組みの在り方そのものを根底から変えようとしている。


国民経済計算書における分配の流れ


国民経済計算書における、分配の流れは、第一次所得の分配勘定、第二次所得の分配勘定、現物所得の再分配勘定、そして、所得の使用勘定迄を指して言う。配分、移転、最終消費、貯蓄までの一連の流れを指す。

分配は、生産過程で所得を組織的によって分配し、次の段階で所得から必要な「お金」を引き出して財を購入する一連の過程である。
分配は、産出を基にして成立する。

第一次所得の配分は、第一次所得がどのような過程を経て制度部門に配分されたかを示している。

第一次所得は、生産局面において生産手段を活用した結果として発生する所得を指して言う。生産手段とは、生産に必要な手段(労働力等)、生産に必要な資産(設備等)である。
具体的には、雇用者報酬、営業余剰・混合所得、生産・輸入品に課せられる税(控除)補助金、それらに財産所得の受け払いを加えた値である。
財産所得の受け払いを除いた他の要素を各部門に配分しそれを集計したものが国民所得になる。
固定資産減耗を含まないのが純国民所得であり、含む者が総国民所得である。

雇用者報酬は、家計に、営業余剰は、法人企業と家計に、、混合所得は、家計に、、生産・輸入品に課せられる税(控除)補助金は、一般政府に配分される。

雇用者報酬は、専ら家計が受け取り、家計は、消費支出の資金源とする。
雇用者報酬は、専ら家計以外の他の部門が支払い、家計が受け取る。

第二次所得は、現物社会移転を除く所得の再配分の部分を言う。
所得の第二次配分における資金移転は、所得・富等に課せられる経常税と社会負担・給付およびその他の経常移転によって成立している。
所得の第二次分配勘定は、第一次所得バランスから可処分所得につながる過程である。

国民経済計算書では、分配と言うのは、生産の成果の分配から消費に至る過程を言う。
そして、その過程で付加価値を形成され、それが可処分所得を経て最終消費支出となるのである。

分配は、所得から最終消費に至るまでの過程と言える。最終消費は、貯蓄(ストック)を派生させる。その過程が分配のアルゴリズムの下敷きとなる。

分配の主体は、生産主体と消費主体でその間に組織と市場が介在する。そして、組織と市場は、分配の基準も分配の仕組みも違うのである。
市場経済と言う全てが市場によって行われているかの錯覚がある。しかし、分配の本質は、前段の組織的分配にある。

組織的分配を誰が、どの様な基準の依って行うか、それは経済体制の本質的な問題なのである。お金が事前に配分されている事を前提として市場は成り立っている事を忘れてはならない。


分配のアルゴリズム


分配の為の基準は思想的である。

分配のアルゴリズムは、「お金」の分配、財の配分と二段階で行われる。

分配のアルゴリズムは、先ず「お金」を手に入れる事から始まる。どこから、どれだけ、どの様な手段で手に入れるかが全ての始まりの課題である。

分配のアルゴリズムで問題とされるのは、所得の配分にどの様な手段を用いるか。生活していくうえで、必要な所得はどれくらいか。経常的所得(経常的収入)をどの様にして維持するか。所得の偏りをどの様にして是正するか等である。

分配のアルゴリズムで問題となるのは、「お金」と財が配分される経路と手段である。「お金」と財が配分される経路と手段によって経済の仕組みの基礎は構築される。

分配の働きは、部門によって違いがある。
国民経済計算書においては、最終消費支出部門は、家計と一般政府である。非金融法人企業、金融法人は、基本的に最終消費支出はしない事になっている。非金融法人と金融法人の消費は、中間消費と見なされる。
財政(一般政府)の分配の働きは、主として税や給付による所得の再配分である。

また、金融機関の分配の働きは、資金の過不足を補い、資金を融通する事である。

最終的に分配は、消費によって完結する。消費されない部分は、貯蓄として投資に回される。
市場を形成するのは、消費者である。消費があって生産が制御される。現代社会は、生産と消費の関係が転倒している。即ち、生産があって消費があるように錯覚されている。故に、生産性だけが異常に追及される。
その結果、消費の効率化である節約や無駄と言う概念が廃れてしまっている。

経済が停滞する原因は、仕事がないか、所得が上がらないか、労働人口が減少する事である。
仕事がなければ仕事を作ればいい。それが失業対策である。しかし、景気対策、失業対策として公共事業をしてもそれが恒久的なものでなければ一時的な効果しか望めないし、また、生産性のない事、拡大再生産が望めない事に使われれば、財政を悪化させてしまう。結局税で補てんする事になり、負担ばかりが重くなる。
所得が上がらない理由は、収益が向上しないからである。表面的な現象ばかり目を獲られて犯人探しをしても抜本的な解決にはならない。
人口は基数である。短期間で解決する手段はない。




       

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