経済とは


経済は、社会や国家の根幹である。経済は、社会や国家の根幹でありながら、経済の役割について正しく理解されたり、定義されているわけではない。
その為に、経済は、金儲けの手段であったり、貧困の原因だと思われたり、戦争を引き起こす元凶のように言われてきた。しかし、それは経済を正しく理解していない証左に過ぎない。

経済は、本来、人々を豊かにする手段であり、平和を維持するための手立てなのである。
貧困や戦争は、経済がうまく機能していない事に起因する出来事である。
経済を正常に機能させるためには、生産、分配、消費の関係を均衡させる必要がある。なぜならば、生産、分配、消費は、各々自律した働きをしながら、相互依存関係にあるからである。

近代経済の仕組みは、生産と消費が分離する過程で成立した。
近代以前経済と近代経済の決定的な違いは、生産と消費の場が分離した事で、分配の場が派生した事である。生産、分配、消費の場が分離した結果、生産主体と分配主体、消費主体が成立した。
そして、生産と分配、消費の場が分離独立した事によって貨幣経済が発達し、貨幣経済と賃金労働、税の金納が定着する。
そして、国民経済計算書において雇用者報酬が確立し、その比率を拡大した。

注意すべきなのは、生産と消費の場が分離する過程で市場が生じた事である。

生産の場と消費の場が分離独立する過程で、個人が経済的に独立し、私的所有権や市民権などの権利が確立した。この様な近代的個人を基礎として民主主義や国民国家が成立したのである。
経済的に独立した個人は、生産者と消費者を兼ねる存在である。つまり、個人は、売り手であり、買手でもある。これが、市場経済に対称性をもたらしている。
また、生産の場と消費の場が分離独立する事で、市場が成立し、物流や貨幣経済が発達した。

所得は、生産局面では人件費と言う費用であり、分配局面では、報酬と言う評価であり、支出局面では、生活費である。そして、支出は、収益と投資に転化する。
更に、人は、生産局面では、労働者であり、分配局面では、所得者であり、消費局面では消費者である。この流れが経済の動向を定めている事を忘れてはならない。
生産局面で利益だけを重視し、ひたすら、費用の削減を求めると、必然的に所得は圧迫され、支出が減少する。生産、分配、支出をいかに調節するかが経済の肝なのである。
そして、生産、分配、支出が不均衡になると、それが時間価値を歪め、物価や景気に影響し、フローとストックの比率を歪ませる。なぜならば、総生産、総所得、総支出はむ付加価値であり、時間価値だからである。

近代以前では、生産の場と消費の場は一体だった。経済主体は家族中心であり。一つひとつの経済主体が、一つの運命共同体、自給自足を前提とした存在だったのである。
そして、共同体は、共同体内部の空間と外部の空間を生み出した。内部は、倫理的な空間であり、組織的な空間であるのに対し、外部は、非倫理的空間であり、市場的空間である。そして、貨幣は、外的空間において有効であった。

経済と言うと真っ先に生産の事を思い浮かべるのが一般的である。生産効率か、利益とか、投資とか、金儲けである。
しかし、経済は、生産だけで成り立っているわけではない。生産ばかりに偏るとなぜか、経済が上手く回らなくなる。それは、経済は、生産だけでなく。同じくらい分配や消費に依っているからである。
財を生産しても分配する手段がなければ、財を活用する事はできない。財は、必要とする人のところにわたってはじめて効用を発揮する。
否、むしろ、消費にこそ経済の基盤はある。なぜならば、消費は、生活を司るからである。生きる為に必要に物を必要なだけ生産する。つまり、生産の根拠は消費なのである。

生産と分配、消費、そして、貯蓄は各々独立した空間・場を形成している。
生産や分配、消費、そして、貯蓄の体系や構造も違う。目的も違う。その点を明確に区分して考える必要がある。大切なのは、均衡である。
体系や構造、目的が違えば、指標も違ってくる。
生産の局面では、生産量、供給力、操業度、生産効率、総産出等が指標となる。
分配の局面では、失業率、所得の代表値、分散。幅と範囲。最小値、最大値が重要となり。
消費の局面では、物価、生活水準、貧困度、人口構成、可処分所得が指標となる。
これらの指標を同一の基準で測る事はできない。ただ相互の関連を無視すると均衡が保てなくなるのである。故に、アルゴリズムが重要となる。

確かに、全人口が生存していくために必要な物資を生産、調達できなければ国民の死活問題になる。これはこれで経済が成り立たなくなる。その意味では、生産は経済を成り立たせるための前提条件となる。
全人口の一割によって全人口に必要な財を調達、生産できたら、財の分配をどの様な基準で行うかが難しくなる。生産に係る行為によって所得が成立するのは、一割でしかないからである。
何が国民経済に必要なのかを決めるのは、生活水準である。
我々は、江戸時代の生活水準には戻れない。電気、ガスなどがなければ、生活は成り立たなくなっているし、交通の便も然りである。故に、何が必要とされるかは、消費によって定まる。だから、一律一様にその国、その時代にとっての生命線を確定する事はできない。石油の様な国民の生命戦に係る資源は、経済全体に占める割合がわずかでもその国の存亡にかかわる大事である。

現代の経済の仕組みは、生産主体と分配主体が組織を共有している。生産主体と分配主体が組織を共有する事で、生産に対する動機付けが分配に直結している。所得に成果が直接結びつく事によって生産が促される仕組みなのである。この仕組みの利点は、生産と消費が市場を通じて結びついている事である。つまり、生産が消費の関係によって自動的に制御される事にある。また、生産と分配、即ち、所得が結びつく事で、生産に対する動機付けが直截的にされる事である。
反面、分配に波や偏りが生じ、不安定になり易い点である。分配の偏りや波は、景気に直接的に影響する。貧富の格差や景気の変動の原因となる。
この様な経済の歪を是正する為に、生産と分配の仕組みを切り離す試みがされる。その一つが社会主義であり、共産主義である。しかし、生産と分配を切り離すと生産と消費の不整合を調節する機能が働かなくなる。その為に、生産と消費にずれが生じ、生産の偏りが拡大する。

分配は、働きに応じて所得の分配し、所得を基礎として財を分配すると言う二段階で行われる。
第一次分配は、所得によってされる。所得は、支出に転化される。支出は、消費と貯蓄になる。支出は、所得を基礎として成立する。所得を支出が下回れば、残高は、貯金に回され、不足すれば蓄えを取り崩すか、借金をして補う。貯蓄は資産を形成し、借金は、負債を形成する。資産と負債は、偏って蓄積される傾向がある。資産と負債の偏りが階級を形成する。階級化は、社会、経済の健全な発展を損なう要因である。なぜならば、働きに応じた公平な分配の妨げとなるからである。

一割の人間にしか生産による成果から派生する所得に得られないとしたら、後の九割の人間にいかに所得を分配するかが、最大の課題となる。経済の一番は実はこの点ある。なぜならば、働きに応じて所得を分配し、分配された所得を使って必要な財を手に入れる。これが自由経済の原則だからである。
所得を生産にかかわった者だけで独占すれば後の者たちの生活が成り立たなくなる。かといって生産に関わらない人間が生産の成果を強奪する事もできない。労働者から、成果を搾取している事になる。
生産活動に直接かかわらない人は、何によって所得を得るのか。生産活動に関わらない人にどの様に所得を配分するのか、それこそが経済の最大の課題なのである。何を根拠に、どの様に、漏れなく国民に、分配するかは、経済体制の真髄である。
だからこそ、経済は、本質的に分配の問題なのである。生産、所得、消費をいかに均衡させるか。生産に偏っても、所得に偏っても、消費に偏っても経済は、正常に機能しなくなる。生産(者)と消費(人)を均衡させる手段が「お金」なのである。基本的には、生産、分配、支出は、一致しているものとしてみなす。
経済の問題は、単純に生産性を上げればいいというのではない。生産効率を上げれば上げる程、少ない人数で生産量を増加させることができる。しかも、生産効率を上げれば、生産量も増える。人間が消費する量には限りがあるから、消費量を上回る生産量は、余剰となる。
今日一番の問題は、不労所得の割合が増大している事である。物が不足しているわけではない。むしろ、現代は、あらゆる物が余っているのである。不足しているのが問題ではない余っているのが問題なのである。
消費の拡大はも生産性の向上を促すが、市場が飽和状態になると証拠の減退は、生産を抑制する圧力となる。
どの様な手段によって、どの様な仕組みによって、何を根拠として生産活動に関わらなかった者にも所得を配分するかが経済の問題なのである。

自由主義体制と社会主義体制、封建主義体制の違いは、分配の仕組みの違いだと言っても過言ではない。
何を根拠に、どの様な仕組みによって分配するのか、それは経済体制、社会体制にとって決定的な要因となる。
生産と分配を切り離した体制が共産主義体制であるが、生産と分配を切り離すと生産の自律性が失われる。生産と分配を直接結びつけると経済変動、市場動向が直に分配に影響する。生産と分配の関係をいかに制御するかは、国家機関に何を担わせ、どの様な働き、仕組みを持たせるかによって決まる

生産効率の向上が必ずしも経済発展や、経済成長に結び付く事は限らない。それは、経済成長や経済発展は、単に生産性の問題だけではないからである。経済の目的は、生産にあるわけではない。国民生活の向上にある。この点を誤解すると採るべき経済政策を間違い、かえって、国民生活を破綻させてしまう危険性すらある。
経済の目的は、生産性を上げる事や競争力をつける事ではなく。国民生活を安定させ、生活の向上を促す事にある。国民生活を犠牲にして経済を成長させても国民を豊かにする事にはならない。また、経済成長はしても貧富の格差が拡大してその日の生活にも事欠くような国民が増える様では意味がない。
企業の利益は、収益を伸ばすか費用を削減する事による。まず、収益の実質的な拡大には限りがある事を忘れてはならない。市場には限りがあるのである。収益が頭打ちになって時、費用を削減する事だけで利益の拡大を計れば、所得が圧迫される。社会全体の生産効率の向上は、総所得を圧迫し、所得格差を拡大する。
所得格差が拡大すると
所得格差の拡大は、富裕層と貧困層の階層化を促す。一方で贅沢三昧の生活を送る階級がある半面、その日の生活すら成り立たない人々がいる様では国家の存在意義すら問われかねない。
また、貧困は、相対的な事である事を忘れてはならない。貧国は格差が拡大した結果なのである。必要な財が必要なだけ生産され、公平に分配されていれば、生活が成り立たないほどの貧困は、生まれないのである。貧困は、歪んだ分配の結果なのである。
極端な格差は、国民経済を成り立たなくし、社会の成立基盤を危うくする。格差の拡大は、治安の悪化を招き、社会不安の要因となるからである。故に、社会の所得の偏りを是正する必要が生じる。それが所得の再分配である。
生産と分配が不均衡になると所得の再配分の比重が大きくなる。所得の再配分は、財政が担うから税負担が重くなる。税負担と言うのは、直接的な反対給付がない分、負担感や不公平感ばかりが増す傾向がある。それ故に限界がある。

分配の仕組みでは分配の単位が鍵を握っている。分配の基礎単位として何を想定するかが、社会思想の基本となる。

分配の単位が、個人ではなく家族や世帯とされるのは、所得を得る事の出来る人口(生産年齢人口)と分配しなければならない人口(全人口)に隔たりがあるからである。現金収入を得る事の出来る労働には限りがある。全人口を生産年齢人口を軸にしてどの様に区分けするかが、社会の基盤となる。
必然的に労働の範囲や定義をどう考えるかによって分配の在り様、単位は違ってくる。単純に生産年齢と言って現金収入を前提とした労働と現金収入に結び付かない労働がある。前者は家外労働(生産労働)であり、後者は家内労働(消費労働)である。
現金収入があろうとなかろうと労働に貴賤はなく。生産労働も消費労働も経済の両輪なのである。ところが、減給収入のある労働だけが経済的な評価をされる。それが男女差別の下敷きともなっている。
生産の局面だけに労働価値を特定するとどうしても偏りが生じるのである。労働には、生産労働だけででなく、消費労働もある。その典型が家事労働であり、介護である。非生産的労働、また、収入の伴わない労働をどう補足していくかが、今後の経済の在り方の鍵を握っている。
そして、この問題は、少子化の遠因ともなっている。
家内労働を否定し、全ての仕事を外注化しても所得の分配には限界が生じる。分配の単位を何に設定するかは、社会構造や出生率にも影響する事なのである。
個人に分配単位を還元すればするほど、家族の形成は妨げられる。なぜならば、家族を形成する為の経済的根拠が希薄になるからである。
そして、この部分は、支出、消費の部分に直結している。

消費は、財の性格によって違いがある。第一に、有形か、無形かの違いがある。第二に、消費の周期による差がある。第三に、原材料の違いによって財の性格は変わる。第四に、生産工程の違いによって財の性格は違ってくる。第五に、形状や物理的な差による違いがある。第六に、名目的に価値と実質的価値の差がある。
有形か、無形かは、食料品、設備、土地、建物と言った形のある物か、サービスや権利の様な無形なものかの差である。有形な物は、物的な制約があるのに対して、サービスや権利は物的な制約がない。有形か、無形かは、時間とのかかわり方の違いとして現れる。形あるものは、時間と伴に変化するのに対して、無形なものの時間の働きは約定によって決まる。また、有形か、無形かは、実物か、貨幣価値かの違いでもある。これは、実質価値か、名目価値かにもつながる。「お金」は資産でもあり、債権、債務でもあり、資本でもある。
消費には周期がある。食品の様に毎日消費される物もあれば自動車のような耐久消費財は、一定の周期で更新される。家の様に一生に一度の買い物もある。そして、消費の周期が産業の性格に決定的な影響を与える。
原材料は、価格に重要な影響を与える。原材料には、エネルギーの様な無形な物や、石油の様に原材料の変化や為替の影響を受ける物がある。また、食品の様に天候に左右されるものもある。また、生産地が限られていて、生産地の政情や災害によって影響を受ける物もある。
生産工程は、例えば、工業製品と農業製品の差のようなものである。同じ工業製品でも装置産業や受注製品、家、建物では、景気に与える影響が違ってくる。また、金融商品のような無形な権利を表象している財もある。
財には、気体、液体、固体と言って形状の差やICチップのように小さくても高価なものもあれば、大きくても低価なものもある。この様な差は産業、即ち、生産に対して重要な影響を与える。
名目価値とは、取引の結果に基づく価値を言い。実質的価値とは、相場に基づく価値である。名目的財とは、主といして金融商品や権利である。「お金」に基づく財か、実物に基づくか財かの違いである。
財のこれらの違いは、消費支出の差として現れる。

消費の在り方は、市場を介して生産構造に影響を与える。消費の在り方は、生活の場によって定まる。生活の場とは、家族構成を基本単位として形成される。家族構成とは、何を単位としてそして、何によってあるいは、誰の収入によって成り立っているかが基本に構成される。消費単位の最小単位は、単身世帯である。
大家族、三世代家族、核家族、単身世帯と時代は変遷している。それが消費構造を変質させている。
そして、今日の最大の課題は、少子高齢化にある。少子高齢化は、経済を成熟化し、衰退化させる。
消費構造の変化は、経済の仕組みに決定的な影響を与えている事を忘れてはならない。

人々は、安定を求めているのか、変化を求めているのか。経済成長を求めるのならば変化を前提とすべきかもしれない。しかし、人々は、生活の安定を求め始めると変化を前提としていたら対応する事が出来なくなる。確かに、高度成長時代は、技術革新に支えられて経済成長、変化を基調とした経済だったかもしれない。しかし、生活が安定し、ある程度生活が満たされてきたら、人々は、安定を求めるようになる。
現代経済の問題点の一つは、経済を変化を前提として成り立っているとしている事である。人も物も有限なのである。無限に拡大し続ける事はできない。
いつの時代にも世の中には、変わるものと、変わらないものとがある。変わる事を善として変わらない事を悪だとしたら世の中に安定は失われる。何が変化し、何が変わらないのかを見極め経済の在り方そのものを変わる事象と変化しにい事象とを分けて考える必要がある。
それは、消費構造に端的に現れる。
一人ひとりの家計支出の結果全体を一つの箱に例えれば、何に箱にどの様な割合で詰めるか、箱に詰め切らない部分、空いた部分をどう調節するかが、経済全体を示している。箱に詰められる物には限界があるのである。
箱の底、即ち、基幹となる部分は、所謂生活費、ライフラインと言われる部分であるが、現在の経済では、軽視されがちである。なぜならば、変化が乏しいからである。箱全体規模を押し上げているのは、変化している部分である。つまりは、生活費以外の部分である。なぜならば、経済成長と言う概念は変化する部分によるところが大きいからである。安定しているところに経済成長の種は見出されない。それが重大な錯誤を生むのである。
変化している部分と必要性とは、直接関係しているわけではない。むしろ、必需品は、変化していないのである。
消費の中には、必需品があり、必需品の多くは、消耗品である。つまり、一定の生産と消費が繰り返されなければならない生産財がある。この様な財の生産と消費は安定している事が求められる。この部分を構成するのは、衣食住のうち、衣食部分やエネルギー、水道等である。この部分の価格が不安定になると経済全体が震撼する事になる。
現代の経済は、このように経済の底辺を支えている部分を軽視している。その為に、経済が絶えず不安定となるのである。
必需品は価格の安定が求められる。多くの必需品は、差別化が難しく、雇用の底辺を形成している者が多い。この様な部分の価格は、一定水準を保つ事が求められる。だからこそ、規制や関税によって保護される必要がある。
生活を支える財は、同時に安定的に所得を形成する財でもある。しかも差別化が難しいとなれば、過当競争に陥り、適正な価格を維持できなくなるからである。なにがなんでも低価格は良い事だとするのは偏狭である。価格は、消費者だけのものではない。生産や分配の問題でもある。
また、必需品を他国に依存すれば価格を自国が制御する事が難しくなるからである。競争条件が極端に違う国と同じ土俵で勝負すれば小さい方が負けるに決まっている。また、生産手段である労働力が不当に低く抑えられている国とは、同じ市場で競争すれば価格で負けるに決まっている。劣悪な労働条件や低賃金の国の労働者はまともに競争する事はできない。同じ条件で競争をすれば、貧困の輸出にもなりかねない。自由主義経済は、公正な市場を維持する事で、自由主義体制を敷衍化する事にもなるのである。
コモディティと言われる財の価格維持は、自由主義の根幹にかかわる事なのである。それは、国の体制や国家理念にもかかわる大事である。

経済は、生産、分配、消費が均衡する事で成り立っている。生産だけを見ても消費だけ見ても経済の状態は明らかにならない。その要にあるのが分配の仕組みであり、分配の手段が「お金」と市場なのである。だから、自由経済は、貨幣経済と市場経済の上に成り立っているのである。

現代の経済は、生産性ばかりに重きを置く。失業対策と言うのは、生産性を補完する役割しか求めない。しかし、経済を分配と言う局面から見ると失業と言うのは、中心的課題となる。失業率が高くなると分配の機能が阻害されるからである。

確かに、インターネットは、生産、分配、消費の関係や構造を根本から変えようとしている。しかし、生産、分配、消費の働きは変わらない。

倉庫の様な自動化され、極限まで従業員が削減された安売り店だけが生き残り、その周辺を失業者に囲まれるそんな経済を今の為政者は志向している。故に、景気は停滞するのである。それが生産効率のみを突き詰めた結果である。
そこには商店街を散策しながら買い物を楽しむというゆとりある生活は影も形もない。それが経済を活性化するというのならばまだしも、経済を衰退させる原因である事に気が付かない限り、経済は、衰弱する一方である。

経済と言うのは、生産と分配をどう調和させるかを設計する事なのである。その根底にあるのは消費の質である。
分配の鍵は、適正な労働条件や雇用である。公正な競争の前提は、同じ労働環境によって実現する。
完全障壁では公正な競争は示現できない。前提条件が変わらないのである。

経済とは、生きる為の活動である。即ち、生きる為に必要な資源を調達、あるいは、生産し、それを分配して消費、即ち、生活に供する。

経済の基本は、生活であり、生活に合わせて必要とする資源を調達、あるいは、生産し、分配する。
その手段として「お金」や市場が存在する。
経済の基礎は、消費なのに、生産が優先されたり、分配の手段である「お金」が目的化されたりする。それが経済の本質を根本から覆しているのである。

先ず、我々は、生きていく上に何が必要なのかを明確とすべきなのである。個人でいえば生活設計であり、国家でいえば国家構想である。生活設計や国家構想を基として経済は成り立っている。

最終的に何をどうしたいのか。経済でいえば、経済をどうしたいのか。それを明確にせずに議論をしても始まらないし、意味がないと思う。ところが、政治家も経済学者も、目的もわからないまま、目先の問題や、表面的な現象に目を奪われた議論しているように思える。だからいつまでたって着地点が見いだせない。
逆に、いえば着地点が明確だから経済の概念も枠組みもできる。


経済の定義


経済とは生きる為の活動である
経済は、金儲けの手段を言うのではない。
経済は、生きる為に必要なものを調達、あるいは、生産し、調達、生産したものを分配し、それを消費し、余った物を保存する一連の過程を言う。故に、経済には過程がある。過程とは時間の関数であり、変化である。
消費には一定の周期があり、それが景気の波を作る

経済は、生きる為に必要な資源を生産、あるいは、調達し、遍く、分け与える行為である。
「お金」や市場は、その為の手段に過ぎない。

製品を製造したり、「お金」を儲けたりするのが経済の目的ではない。
経済の目的は、別にある。経済の目的は生活である。
ところが、手段である「お金」儲けや、生産が目的化しいつの間にか、「お金」儲けや生産の効率化が経済の目的であるかのように錯覚されるようになってしまった。
それが不幸の始まりであり、貧困や格差を生み出す元凶となってしまったのである。

消費で問題になるのは、質である。なぜならば、消費に個人の趣味趣向に左右されるからである。
故に、経済には、量だけでなく質がある。
消費は、文化なのである。

経済とは、生活である。故に、経済の基礎は消費にある。どの様な生活を前提とするのかによって経済の在り様も変わってくる。生活を成り立たせている環境の変化にどの様な対応するかが、経済の仕組みの課題なのである。

経済は、「お金」儲けではない。「お金」は、経済を成り立たせている手段の一つであり、目的ではない。
現代の経済の問題の一つは、「お金」が目的化してしまっている事である。

経済の仕組みを考える時、生産の局面だけで捉えると、経済の仕組みの全体像が見えなくなる。なぜならば、経済の仕組みは、分配による部分が大きいからである。

いかにして生産財を消費者全てに満遍なく必要なだけ、必要としているところに行渡らせるか。それが経済最大の課題であり、経済の仕組みの最終的な目的であるからである。

いくら財を大量に生産しても、それを分配する手段もなく、誰もその財を必要としていなければ、生産しただけ無駄になるのである。
それは浪費である。

経済は、必要性、即ち、消費に基づかなければ本来の効用を発揮できない。

大量の食糧が廃棄されている、一方で飢餓に苦しむ人々がいたらそれは経済の仕組みに欠陥があるのである。
必要としている人達に必要とする物を必要とするだけ分配するのが経済の仕組みの本来の目的・役割なのである。
その本来の役割に基づいて経済の仕組みは構築されるべきなのである。


経済の目的


経済の目的は、人を生かす事である。

経済と言うのは、人々が生きる為の活動を言う。有体にいえば経済とは、生活である。全ての人々の生活が成り立つ様にするのが経済の目的である。

経済の最終的目標は、どれだけ生産するのかではなく。どの様な生活を目指すかにある。国民の生活水準をいかに高め、より良い生活を実現する事にある。
その意味からすると現代の経済は、競争力とか、生産力に特化しすぎている。効率よく生産し、「お金」を儲ける。それはそれで意味はあるのかもしれないが、その後が続かなければその意味も虚しくなる。
目的は生産ではなく、消費にある。生産は、手段である。

敗戦後の日本は、国家目的を持つ事が許されなかった。明治政府は、富国強兵を目的とした。しかし、その内、強兵が主となり、富国が従属的な地位に落とされた。しかし、強兵が主となれば富国は犠牲にならざるを得ない。
それでも経済の目標は明らかであった。戦後の日本は、国家目的さえ明らかにされなかったのである。
だから「お金」儲けが主となる。目的がないのである。「お金」のために国民生活が犠牲になっているのが今日の経済である。

国民が生きるために必要とする必要としている財を生産し、それを国民すべてに遍く分配する事が経済の目的である。
経済の目的は、生産と消費を調和させる事である。
経済の根本は、生産と消費である。しかし、経済の仕組みの根本は、分配にある。
故に、経済の仕組みを構築しようとした場合、中核となるのは、分配の仕組みなのである。

経済の目的は、生産、分配、消費の働きが均衡させる事である。

経済の本質は変化である。環境の変化をいかに消費に反映させるかが経済の仕組みの目的である。

現代時には、「お金」が全てであるがごとき錯覚がある。しかし、「お金」は、手段であり、目的ではない。同様に利益は指標であって目的にはならない。

経済を安定させるためには、支出を安定させると同時に、支出を所得の範囲内に収める必要がある。
その為には、物価の安定が条件となる。
経済は、所得の範囲内に支出を収める事と物価を安定させることが鍵となる。


経済の仕組み


経済の目的は、財を生産し、それを分配することで生活を成り立たせる事である。
経済の目的は、全ての国民が生きていけるような環境を作る事にある。
経済の仕組みの目的は、生産、分配、消費を均衡させる事である。

経済で一番重要なのは、財を適切なところに配分する事である。
経済の仕組みは、生産の仕組み、分配の仕組み、消費の仕組みの三つの仕組みからなる。
中でも、経済の要になるのは、分配の仕組みである。分配は、生産と消費を結ぶ懸け橋だからである。
そして、分配の在り方がその社会の基本的な思想を形成するからである。
いかに、公平な分配を実現するかが経済の中核的思想を形成する。

生産の場と消費の場が分離独立する過程で分配の場は形成された。その経緯から、生産主体の中に所得の分配の仕組みがとりこまれる事になる。生産効率と分配の基準は必ずしも整合性がとれているわけではない。なぜならば、分配の仕組みは、生産と消費との懸け橋としての役割を果たしているからである。
生産の側からすれば、分配は、働きに応じたものにしたいし、消費の側は、生活に応じたものにしたい。消費の基本単位は世帯であり、世帯は一律ではない。

故に、雇用条件や雇用形態は、規制されなければならないのである。

終身雇用、年功序列は、社会的背景、時代的背景によって生産と消費の整合性をとる過程で成立した体制である。しかし、経済や生活実態の変化は、終身雇用や年功序列型の雇用形態を転換させたのである。
雇用形態、労働条件、賃金体系は、一律、絶対ではなく。相対的で時代や環境の変化によって変わっていくものなのである。しかし、雇用形態、労働条件、賃金体系は、その時点時点においては、経済の仕組みの前提条件となる。

また、経済主体、経済圏の間の競争の制約ともなる。

分配は、組織的に所得の配分し市場で財と「お金」を交換すると言う二段階によって行われる。
市場における財と「お金」の交換を市場取引と言う。

市場取引の過程で価格が形成される。価格は物価を形成する。
経済の最終目標は、消費である。なぜならば、経済は、消費によって完結されるからである。
消費によって生活は実現する。生活設計に基づいてこそ、経済は実用性を発揮できる。経済は現実なのである。
国家構想があって財政は成り立つ。景気対策があって国家があるわけではない。景気対策によって財政が破綻する事があれば本末転倒である。

経済は虚構でも理想でもない。現実である。

現在の経済を構成する要素は、人と物と「お金」である。
経済を構成する基礎は、人と物(生産財)である。「お金」は、人と物とを関連付ける手段、媒体である。
故に、経済の実体は、人と物にある。「お金」は、財と結びついて名目的価値を生み出す媒体である。
物や用益に「お金」が結びつく事で貨幣価値は形成される。

現代経済の仕組みの前提は、第一に、貨幣経済に前提とする第二に、市場経済に則る事である

経済の仕組みは、「お金」の流れによって動いている。

経済の仕組みを動かしているのは、「お金」の流れである
「お金」の流れは、資金の過不足によって生じる資金の過不足は、「お金」の入出金によって生じる

「お金」の流れには、移転経常収支がある。
移転とは、対価の伴わない一方的な「お金」の流れを言う。
期間損益においては、移転は貸借を形成し経常収支は損益の本となる。
資金の過不足は、移転、即ち、貸借、金融取引、資本取引によって補填される。

「お金」の流れには、移転による流れ経常収支上の流れがある。現実の「お金」の流れは、移転と経常収支が合わさった流れである。どちらにせよ資金が回らなくなれば、経済の仕組みも経済主体も機能しなくなる。それが破産である。
移転による流れは、損益に影響しないが資金繰りに深刻な影響を及ぼす。問題は、移転が損益上計上されない事である。その結果、損益に気をとられて貸借の動きを見落とすのである。それが最悪の場合、黒字倒産を引き起こすのである。

勘違いしてはならないのは、経済破綻の直接的原因は、資金繰りであって、売上(収益)や利益が直接的な原因ではない。収益や利益は、資金繰りのための指標に過ぎないのである。近年、キャッシュフローが重視されるようになったのは、当然的な帰結であるが、その意味が正しく理解されているとは思えない。
この点を正しく理解しておかないと、利益や収益が上がっているのに、資金の流出が止まらず、負債が拡大して、最悪の場合、破産してしまう様な事が起こる。俗にいう黒字倒産である。
これは、民間企業だけでなく、財政や家計も同じである。ただ、民間企業は、会計制度によって損益と貸借の関係を明確に区分しているが、財政や会計はこの区分がされていないために、損益にかかわる収支と貸借に係る収支が渾然としている。

この様な事態を引き起こす要因は、第一に、市場が拡大し、成長している時、収支の均衡が崩れた場合第二に、逆に、市場が成熟し、成長が停滞し、市場が縮小し始める場合第三に、収益が不安定で経済状態を固定できない場合第四に、過当競争によって収益水準が支出水準を下回って場合。支出水準と費用水準とは別物である事を注意しなければならない。第五に、会計上の利益と資金計画が乖離している場合である。
これらの問題が、先進国にとって重い負担となっているのである。
経済を分析する時、この点が重要なポイントとなる。

大体、市場経済も貨幣制度も、成長を前提として形成されたものではない。
人口も、生産量も、消費量も、「お金」の流通量も、一定ならば、物価も、所得も基本的に一定である
逆にいうと物価の変化を引き起こす要因は、人口の変化生産量消費量「お金」の流通量であり、経済を分析する場合、何を変数とするか、何を定数とするかにかかっている。
成長期と言うのは、一過程であり、それも過渡期である。創成期には、創成期、成熟期には成熟期の在り方がある。全てが同じわけではない。
基本的に経済と言うのは、成熟期を前提として形成されるものである。
生産革命以前の経済では、専ら、人口と消費量、生産量の変化が経済の主要な課題だった。中でも、生産量が一番の問題だった、なぜならば、人口の変化は緩やかなものであったし、消費量の変化は、人口の変化に伴っていたからである。天候不順や旱魃、冷害、洪水、台風、戦争等によって食料の生産量が極端に落ちれば、すぐに飢饉が襲ってきた。経済問題の代表的なのは、「水争い」、「縄張り争い」である。
生産革命によって大量生産が可能となり、それに伴って市場が整備された今日、人や物の問題から「お金」の問題へと主軸が移ってきた。

貨幣や市場を介在しない時代の経済は、基本的に自給自足、足らないものを物々交換で行ってきた。それを貨幣や市場を介在する経済体制に移行すれば必然的に自給自足体制とは違う仕組みになる。第一に、生産の場と消費の場が分離独立し、それに伴って分配の仕組みが発達した。第二に、分配の場である市場と分配の手段である「お金」が経済の中軸に発達し、経済全体を支配するようになる。「お金」がなければ生活が成り立たなくなる。

市場経済の要は、「お金」にある。「お金」の問題は、人や物には限りがあるのに、「お金」には、際限がないという事である。なぜならば、「お金」の本質は、自然数による数値情報だという点である。
もう一つ、留意する点は、今日の法定貨幣は、公的債務と言う性格を持っている点である。紙幣は、清算できない負債みたいなものである。それ故に、一度発行されて紙幣は、回収するのが難しい。

そして、経済は、成長期から成熟期へと移行しようとしている。それなのに、成長期と同じ政策をとり続けているから、あるいは、創成期の政策に逆戻りしようとするから、経済の土台を切り崩してしまっているのである。

為政者も、経済学者も、評論家も、経営者も表面の「お金」の流ればかりを装って、水面下の「お金」の流れを忘れている。しかし、資金繰りの話は、水面下の「お金」の流れが深く関わっていて、表面に現れた「お金」の流ればかりを取り繕っても抜本的な解決には結びつかない。表面に現れる数字とは、フローを指し、水面下の流れとはストックを指す。ストックには、静的な響きがあるが実際は、フロー以上に流れがあり、それが資金繰りを握っているまである。

重要なのは、「お金」の働き、性格と「お金」の流れる方向である。

経済が成長から成熟へと移行し、市場の拡大が止まる、あるいは、縮小に転じると収益と費用関係が変化する。必然的に負債の働きの性格も変わる。それを前提として為政者は、経済政策を立てる必要がある。
「お金」の移動には、「お金」の働きを準備する為の移動、即ち、支払いを準備する為の移動と「お金」の働きを発揮する為の移動がある。前者が貸借上の働きであり、後者が損益上の働きである。
会計上、損益上の移動は、収益、費用として計上されるが、貸借上の移動は、増減としてしか表現されない。しかし、資金繰りで鍵を握っているのは、貸借上の働きである。
創成期には、土台、需要が不足しているし、購買力もない。資金をいかに市場に浸透させるかである。その時は、公共投資によって潜在需要を刺激する事は効果的である。
成長期に資金が不足するのは、市場の拡大にと伴う支出に収入が追い付かないからである。しかし、表面に現れる収益と費用の帳尻は問題ない場合がある。故に、気が付かないうちに資金が窮屈になり、資金繰りがつかなくなって破綻する危険性が高くなるのである。成長期には、いかに資金を供給するかが最大の課題となる。あまり、公共投資を多用すると、公的債務の拡大を招く。
成熟期には、収益の伸びが期待できなくなる。その分、過去に投資した資金の回収が重要となる。故に、利益が上がるのに、資金繰りが窮屈になる傾向がある。成熟期には、適正な価格が維持できるように市場環境を整える必要がある。特に、損益上に現れない資金の移動には、十分に配慮する必要がある。どこを競うか、どこを協調するかを明確にし、産業毎にメリハリのある政策をとる必要がある。
気を付けなければならないのは、「死の交叉」と言われる現象で利益が上がっているのに、現金収入が減少するという現象である。現金収入が減少しているのに、利益が上がっているために、税金がかけられる。最悪、資金繰りに詰まる。それは、償却計画が資金計画が乖離している事によって起こる。負債の怖さで、表面的には、利益が上がっているように見えて資金繰りが悪くなっている状態である。社会全体がこの状態に陥ると景気がよくなっているはずなのに、景気が突然破たんするといった症状を呈する事になる。往々にして、成長期から成熟期の転換点に陥る症状であり、フローの水準に変化がないのに、ストックが拡大に歯止めがかからない状態である。現在の日本の状態がまさにこれである。
成熟期から衰退期に入りかけた時は、それまでの既成概念に囚われない柔軟な発想が求められる。衰退期は、変革期でもあり、再投資の時期でもあるのである。それまで蓄えを一気に放出して果敢に新しい事に挑戦する必要がある。

この様な経済の変遷は、根底に、生産と消費の関係がある。生産が拡大しているか、縮小しているか、消費が拡大しているか、縮小しているか。人口が増加しているか、減少しているか。生産、消費、人口の関係が市場の状態を左右する。
根本は、人と物と「お金」の均衡である。

創成期には、資金を作る。資金を調達する事が一番の課題となる。成長期は、市場の拡大に伴って資金不足な状態が慢性的に続く事になる。成熟期になると資金は、余剰気味になり、市場に向かっていた水面下の「お金」の流れは、回収側に方向を転じる。資金調達も外部調達から内部調達へと転換される。
成長期には、投資を軸に回っていた資金が運転資本へと軸足を移していく。成長期は、黙っていても拡大していた収益が、成熟期になると収益は、よくて横這い、ともすると、減少に転じていく。

余剰な資金は、放置するとストックに蓄積され、フローを圧迫するようになる

現代社会は、不足が問題なのではなく。なんでも余剰、余剰、余っている事が問題なのである。ハングリーなのではない。物も「お金」も有り余っているのに、なぜか貧しいのである。それは、借金の負担が重くのしかかっているからである。それは金融機関も同じなのである。

成熟期では、収益の維持が柱となる。それは、水面下の「お金」の流れを制御しているのが収益だからである。費用に計上されない「お金」の流れは、収益によって制御される。問題は、水面下の資金の流れが損益では測れない事にある。
なぜ、日本経済は、長期にわたって低迷しているのか。それは、政府が民間企業が適正な収益を上げられなくなるような政策を講じているからである。

安定した収益が見込めなくなると将来の収益を担保とした資金繰りが期待できなくなる。
経済が成熟し、市場が拡大均衡から縮小均衡に向かうと成長による資金の獲得が期待できなくなる。
そうなると資金調達の手段が内向き、内部資金調達に比重が移る。
それが我が国で明確になったのがバブル崩壊によってである。そして、2000年には、外部資金調達を内部資金調達が上回るようになる。

実質的な可処分所得を圧迫し、狭める。
所謂、金詰りである。
利益は上がっているが資金が回らない状態を引き起こす。
故に、損益だけでなく、移転によって引き起こされる影響を計算しないと経済に対する対策は立てられない。

注意しなければならないのは、損益上に現れる減価償却は移転と直接的に結びついているわけではない。
ストックがフローに影響を及ぼすのは、移転によるものと付加価値によるものがある。貸借は移転から生じ、実質的な可処分所得の幅を制約する。付加価値は、ストックを基数として比率に影響する。この様に、フローは、ストックから二重に制約を受けている。

経済の仕組みの根本は、取引である。取引とは、財と「お金」、権利と「お金」の交換を意味する。

貨幣価値は、債権と債務によって作られる債権は、権利であり、債務は「お金」である
債権は資産の、債務は、負債の元となる。
債権と債務は支払いを準備する。
市場取引では、貸借によって支払いを準備し、売買によって取引を実現する。

「お金」の流れによって動く経済の仕組みは、第一に、「お金」を循環させる装置でなければならない。
第二に、全ての消費単位に資金を満遍なく行渡らせておく必要がある。
第三に、常に全ての消費単位に資金を供給し続ける必要がある。
第四に、経済主体は、残高をゼロ以下にすることはできない
第五に、経済の最終的な目標は、生産と消費を均衡させるような仕組みを構築する事なのである。

経済の本質は変化である。環境の変化をいかに消費に反映させるかが経済の仕組みの目的である。
経済の根本は、消費である。消費とは、生活である。

世界経済を安定させるためには、生活水準を平準化し、保つ以外にないのである。生活水準に偏りがあれば、常に、その偏りをなくす方向に市場に圧力がかかる。関税や規制によって国家間の偏りを一時的に補正的に是正できたとしても恒久的に生活水準の偏りは放置できない。この点を十分に留意しないと経済そのものよりも国家・社会そのものを破壊してしまう。

経済の仕組みの最小単位は、個人である。個人は、集合して生産単位分配単位消費単位を形成する。生産単位、分配単位、消費単位は、働きに応じて、家計非金融法人金融法人財政対家計非営利団体海外の部門を形成する。

市場経済では、生活に必要な資源は、市場取引を経由して調達する。市場経済では生活に必要する資源を購入する資金を先ず稼ぐことが前提となる。
先ず、生活費があってその生活費を賄う所得が必要とされる。所得は、生産手段である労働力を提供する事で得られる。
可処分所得と消費支出の関係、収益と費用の関係を集約するのが市場価格であり、市場価格は物価を形成する。

そして、経済の働きは、利益と貯蓄の関係にも見られる。

経済の仕組みの核となるのは、分配である。分配は、生産と消費とを関連付け生産を調節する働きがある。
分配の手段は、費用である。
期間損益では、分配の働きは、収益と費用の関係から導き出される。

所得や収益は、相対的な事であり、絶対的な事ではない

バブルの時代、がもう何年も所得は変わらないのに、地価は、四倍にもなったと嘆いていた。一見景気はよく見えるが実質的には、所得は後退しているのである。また、所得が変わらないのに、物価が上昇すれば家計は厳しくなる。
いくら生産性が上がっても所得に反映されない、むしろ、所得を圧迫するのでは意味がない。
所得は、分配の手段である。生産量、所得水準、消費量は、相関関係であらねばならない

費用には、固定的費用変動的費用がある。支出にも、固定的支出変動的支出がある。気を付けなければならないのは、収益と収入、費用と支出とは、別物だという点である。
そして、収益や収入は、不確実であるが、費用や支出は、確定的な性格があるという事である。これらの性格が経済の仕組みの前提となる。

「お金」の配分の手段には、市場的なもの組織的なものがある。

経済の仕組みは、市場組織からなる。
財の貨幣価値は、市場取引によって決まる
市場は取引の場である。

分配の標準的流れは、先ず「お金」を所得として組織的に配分し、次に、市場を経由して生産財を分配するという二段階で行われる。
問題は、いかにして「お金」を分配するかである。

生産単位、分配単位、消費単位は、経済主体である。経済主体は、組織体であり、共同体である。組織体、共同体である経済主体は、内部と外部が形成される。経済主体内部の取引を内部取引とし、経営主体間の取引を外部取引とする。
経済主体間の外部取引は、等価交換を前提とする。故に、外部取引の総和は、対称的でゼロ和である。
経済主体の内部取引は、非対称で、利益は、内部取引から生じる
単位期間における内部取引に依って経済主体の経済状態を測る手法が期間損益である。

消費単位は、必要とする財を市場から調達する。

市場経済の目的を達成する為は、生産、分配、消費の三つの独立した場が形成されなければならない。

市場の働きによって生産、分配、消費、貯蓄は調節される。

市場価格は経済的価値を要約し、経済を構成する因子の働きを明らかにする。

生産と分配、消費、貯蓄は各々独立した場を形成する。
生産、分配、消費、貯蓄を結び付けているのが「お金」である。
生産と分配と消費は均衡する必要がある。生活に必要、即ち、消費量と分配量と生産量を調和させようとする力が経済の仕組みに働いている。

経済の仕組みの目的は、生産、分配、消費を均衡させる事である。
現代の経済の仕組みは、生産に偏り過ぎている。その為に、分配が適切になされず、意味もなく生産効率優先に陥りがちである。その結果、生産に偏りが過大になり、分配や消費に歪みが生じて、物価の変動が制御できないでいるのである。

消費構造が分配を制約し、生産の効率が分配を抑制する。


経済の働き



現在の市場経済は、貨幣経済を前提として成り立っている。

経済の働きは、人々の働きを促し、人々に所得を分配し、人々が市場から必要な資源を必要なだけ調達できるようにする事。即ち、生産、分配、消費である。

経済の核となる部分は、人と物と「お金」の積によって形成される。
具体的には、売上=販売量×単価×顧客である。販売量は、生産量を元とし、単価は、物価の基礎となる。顧客は人口の範囲内に制約される。
これが意味するのは、人と物の積によって経済の基礎となる量が形成され、貨幣価値が掛け合わされる事で経済量は確定する。人と物は有限であるが、「お金」の単位には限りがない。
人と物の変化は確定できるが「お金」の変化は確定できない。故に、ハイパーインフレーションも恐慌も貨幣的現象である。

また、経済を動かすのが部門間の資金の過不足である。
部門間の過不足は、支出と所得の差で表される。
所得より支出が少なければ資金不足主体で所得より支出が少なければ資金余剰主体である。
全体の所得より支出が大きければ、経済は拡大し、少なければ縮小する。
個々の部門で見ると所得より支出が多い部門は、資金不足主体で、赤字主体、少ない部門は、資金余剰主体で、黒字主体。赤字主体は、拡大し、黒字主体は縮小している。
黒字がよくて、赤字が悪いと単純に考えると成長している主体は、悪くて、縮小している主体はいいという事になる。バブル崩壊後、財政赤字の一般政府は悪くて、黒字主体の非金融法人企業は良いという事になる。しかし、景気を停滞させたのは、財政が拡大しているのに、民間企業が縮小している事が原因である。
結局、バブル崩壊後にとられた政策は、財政を赤字にする事で民間企業を黒字にした事である。だから、実体経済は、縮小へと向かったのである。
重要なのは、全体との調和(バランス)である。

支出=消費+投資
所得=消費+貯蓄
支出-所得=(消費+投資)-(消費+貯蓄)=投資-貯蓄

要するに、支出>所得か、支出<所得かが経済の方向を決める
後は、部門間の貸し借りである。部門間の過不足を調節する形で資金の過不足の落としどころを模索する。
全体の支出と所得、各部門の支出と所得の関係と部門間の貸し借りをみて調和のとれた政策をとる事が肝要なのである。
また、消費が介在している点を見落としてはならない。消費の働きは一見相殺されるかのように見えるが実際は、投資と貯蓄の間で均衡を保っている。

経済は、力の均衡によって成り立っている。市場には常に一定の方向に力が働いている。
市場に働く力の源はどこから来るのか。まず第一に、経済本来の働きである。経済は、人々が必要としている資源を調達、あるいは、生産し、全ての人々の分け与える事が本来の目的である。その為に、予め「お金」を人々に分配し、与えられた「お金」を使って生活に必要な資源を調達する。
所得は費用であるから生産局面では下げ圧力がかかり。生活費の原資であるから、消費の局面では上げ圧力がかかっている。
また、市場では、売上でも需給の影響を受ける。
市場の拡大局面では、上げ圧力がかかり、縮小局面では下げ圧力がかかる。
問題は、均衡点である。
人口やストックと言った分母となる集合の増減が決定的な働きをしている。
複数の市場の影響力が組み合わさっている。

経済の働には、短期的働きと長期的働きがある。短期的働きは、期間損益を形成し、フローを意味する。長期的働きは、貸借、投資から発生し、ストックを構成する。

国民経済計算書では、収益は、産出を意味する。費用と利益は、中間投入(中間消費)と付加価値から構成される。中間投入、中間消費は、生産過程で投入され、消費され、費用として相殺される。固定費減耗は、仮想的な勘定であり、資金の動きはない。営業余剰には、中間貯蓄と言う働きがあり。税は、移転である。表には、現れないが貸借による移転による資金移動が隠されている。
それに対して、雇用者所得、混合所得は、経常収支である。重要なのは、実質、何が経済の効用を発揮しているかである。

現代の市場経済は、生産の場と消費の場が分裂する事によって成立した。生産と消費の場が分裂する過程で分配の場が形成され、市場が生まれた。そして、生産と消費が分裂する事で経済的に自立した個人が形成されたのである。経済的に自立した個人は、今日の経済の核である。

働きの中で重要なのは、引力と斥力である。
引力と斥力の関係が全体に働く力の方向と量を生み出す。特に、個人に働く引力・斥力は、経済の基本的な働きとなる。
生産者の立場からすれば高く売りたいし、消費者の立場から見ると安く売りたい。この正反対の働きが均衡する処で経済は成り立っている。

A 個人の働き


個人は、経済の最小単位である。
個人の本質は人である。故に、人としての属性を持つ。経済の最小単位としての個人は、一人の人の経済的働きのみに特化した存在である。
人は、生きる事を目的としている。即ち、個人の働きの動因は、生きようとする意欲である。即ち、経済を動かしているのは、個人、一人ひとりの生きようとする意欲である。生きようとする意欲は利己的な感情ではない。生物の本質であり、人間だけに備わった感情ではない。

人が人として生きる為にには、生存に必要な財を調達、あるいは、生産する必要がある。
人は、一人では生きられないし、子孫を残す事が出来ない。故に、人は、集団となり組織を形成する。

個人の基本的働きは、働いて、働きに応じて報酬えて、手にした報酬で家族を養うという事である。
無論、報酬を得る手段は、働きによるわけではなく、また、全ての個人が働いているわけではない。しかし、個人の中心的な働きは、働く報酬を得る家族を養うの三つである。

個人は、一人では生きていけない仕組みになっている。現実には、引き籠りとか、ニートと言った様に一見一人だけで生きているように見える、また、一人の力で生きていると錯覚している人もいるが、そういう人ほど、他人の世話になっている。ただ自分が自覚をしていないで一人で生きていると思い込んでいる。また、マスメディアがそのように思いこませているだけである。隅々まで組織化が進んだ今日の社会は、個人は、一人で生きられない仕組みになっている。
経済の中には、無人島を想定する考えが根強くあるが、それは無意味である。なぜならば前提が違うからである。

一人で生きられないような仕組みの中で個人は、集まって集団を形成する。集団は、組織化され、はじめて効用を発揮する。

集団は、社会における役割、働きによって生産単位、分配単位、消費単位を構成する。単位は、集まって部門を形作る。

経済の基本は、生きる事、即ち、生活であり、消費である。まず生きる為に何が必要なのかを明らかにしないと経済の基礎は確定できない。
生きる為に必要な財を調達し、あるいは、生産するのである。
そして、それを消費単位を構成する者に分配する。社会的分業が進むと消費単位に生産財を分配し、分配されたものを消費単位内で組織的に分配する。そこに自ずと規則が生じる。それが経済的価値観を構成する。

個人の働きは、生産の場では、生産者として、分配の局面では、取引主体として、消費の局面では消費者として働く。これらの働きは、一人の個人において統一されるている。即ち、個人は、生産者であり、取引主体であり、消費者であり、貯蓄家(投資家)である。

生産、分配、消費、貯蓄は、各々独立した空間と体系をしている。この生産、分配、消費、貯蓄を結び付けているのが個人の働きである。

近代の経済は、生産と消費の場が分裂独立した事で成立した。生産と消費が分裂する過程で、分配の場が形成され、その時、個人が経済的に独立、自立したのである。個人の働きが確立される過程で、私的所有権や市民権が確立された。
個人が確立される事で、生産の場、分配の場、消費の場が個人の働きによって結びつけられる。個人は、生産者であり、所得者であり、消費者である。個人がこの三つの働きを兼ねる事で、生産、分配、消費の場は、独立した空間を形成する事が可能となったのである。
故に、近代経済にとって個人の確立は不可欠な要件である。つまり、働き、所得を得て、「お金」を使って市場から必要なもの、欲しい物を手に入れる。これらの働きが経済を成り立たせているのである。

個人は、労働者であり、所得者であり、消費者である。
機械化によって負担が減少したとしても、機械化によって効率化された分、価格が低下したら、人件費の削減となれば収入が減少し、消費が減退して売上の減少となる。
つまり、仕事の成果と所得と消費支出は、個人を媒介して結ばれているのである。
生産効率の向上が所得の向上に結び付いて初めて消費支出が上昇する。いくら技術革新をして生産効率が上がっても所得の向上に結び付かないければ経済は成長しないのである。技術革新が雇用を減らせばかえって経済は停滞する。
生産効率を所得に反映する為には、適正な価格の維持が前提となるのである。

個人の働きは、生産の局面では、費用として現れ、分配の局面では所得として現れ、消費の局面では支出として現れる。

生産の局面では、個人の働きは、費用として現れる。個人の働きは、能力と実績に依拠する。
生産の局面では、経済の仕組みは、所得を得る手段を提供する事が求められる。費用としての人件費を削減し過ぎると市場全体の収益や所得が減少し、市場は縮小均衡へと向かう。

分配の局面では、個人の働きは、所得として現れる。所得の分配をどこが、どの様な基準によって、どの様な手段で行うかは、国家体制にかかわる問題である。
分配を生産から切り離し、分配の基準と生産の体系を全く別の次元で行うという思想もある。但し、その場合、生産と消費とを繋げる機構が失われ、生産を消費によって制限する事も生産によって消費を制約する事もできなくなる。生産と消費の相互作用が失われるのである。それでは、経済の自律機能が働かなくなる。生産と消費が関連付けられるから市場経済は、自律的に動けるのである。
忘れてはならないのは、分配を担っているのは、費用だという点である。
だからこそ適正価格が求められるのである。

消費は、分配を通じて生産の場である産業に働きかける。消費の構造は、産業の構造を変化させる。
消費とは、生きる為の活動であり、核となるのは衣食住にある。
消費を構成する要素の多くは、消費に周期がある。典型的なのは、食事である。毎日食事をしないと生きていけない。一日、何回食事を摂取するかによって食事に対する支出が決まる。食料の様な必需品に対する周期的な支出が消費支出の基礎となる周期を生み出す。
生活に必要な資金が所得の幅の枠組みとなる。所得は、費用の基礎となって生産を制約する。
この三つの要素の均衡によって経済の仕組みは形作られる。

つまり、経済の仕組みは、費用と所得と支出を均衡させることが求められる。
費用と所得と支出の均衡は、総生産、総所得、総支出の均衡の基となる。それは、三面等価の根拠でもある。しかし、三面等価に固執すると現実が見えなくなる。

費用は、収益を基礎とし、所得は、付加価値と比較され、支出は、可処分所得と対比される。

個人は、給与所得者、労働者であると同時に、顧客、消費者でもある事を忘れてはならない。この二つの役割の均衡が失われると経済は成り立たなくなる。


B 部門の働き


個人が集合して部門を構成する。
部門は、家計、一般政府、非金融法人企業、金融機関、対家計非営利団体、海外部門からなる。
生産的働きは、基本的に非金融法人企業が生産主体であり、金融機関は、一応生産主体と言う事にはなるが、貸出と負債の金利を収益の源泉としており、その意味では、財の生産と言うのとは異質である。どちらも最終消費はしない。
一般政府と対家計非営利団体は、生産と最終消費の両方を行う主体である。但し、生産は行うが営利活動とはみなさない。
家計は、最終消費主体である。一部、生産主体を併せ持つが基本的に消費主体と考えられる。
生産主体は、財を生産し、市場で販売する働きを家計は、必要とする財を市場から調達し、消費する働きを、一般政府は、社会資本を構築し、所得の再配分によって所得の不均衡を是正する働き、金融機関は、資金を融通する事で資金の過不足を是正する働きをする。

経済の仕組みの土台は、消費単位である消費単位の中核は家計である。全ての個人は、いずれかの消費単位に属する事が前提である。最終消費支出の一部は一般政府が担っている。
消費単位は、生産手段を生産主体に提供して収入を得る必要がある。生産手段には、労働のような用役や所有権から派生するものがある。
生産主体は、生産手段と原材料を活用して財を生産する。生産単位の中核は、非金融法人企業である。非営利的事業による生産活動は、一般政府や対家計非営利団体などの公的機関が担っている。

国内で調達できない資金や資源は海外から調達しなければならない。その為に海外交易がある。必要とする全ての資源を調達、あるいは、生産できる国は海外交易をする必要がない。
政府は、海外との交易の決済に必要される資金を準備しておくことが義務付けられている。

単位期間の部門間の資金の過不足は、ストックとなり部門内に蓄積される。資金の過不足の残高の総和はゼロである。そして、ストックは、支払いを準備する。
経済主体間、部門間の資金の過不足を融通する期間の中核が金融機関である。資金の過不足を補填する機能の一部、特に所得の再配分は、一般政府などの公的機関が担っている。

この様に、一般政府は、生産、消費、金融の各部門にまたがって各部門の資金の過不足を補正する役割がある。

部門間の歪は、ストックを拡大する。ストックの拡大は、フローの比率を圧迫する。フローの比率とは、金利、税率、所得の増加率、賃率等である。金利や税率などが圧迫されると必然的にストックが拡大する。
この様に部門間の偏りが拡大するとストックとフローの均衡が水平的にも、垂直的にも保てなくなる。

金利、物価、税、所得、利益、通貨価値の間には、相互牽制が働いている。
ゼロ金利も、デフレーションも税率の変化も、利益率の変化、所得の低下、為替の変動も、ストックとフローの関係、比率が影響している。

均衡が破綻すると経済の仕組みも破綻しも制御ができなくなる。

経済の働き、部門間の資金の過不足、貸し借りに要約される。
例えば、家計の預金は、直接、あるいは、金融機関を経由して非金融法人企業に投資される。投資とは移転を意味する。この場合、家計の金融資産残高と非金融法人企業の投資の相関関係、そして、総所得の変化が重要となる。
ちなみに、一般政府の投資は、付加価値を生み出さない事になっている。投資に係る資金移転がどこからどこへ流れかが、支払準備の状態を知る上で重要となるのである。

経済の仕組みの動きは、部門間の相関関係が基礎となって形成される。逆の経済の仕組みの歪は、部門間の貸借から生じる。
相関関係の基礎は、部門間の貸し借り、残高である。部門間の貸し借りは、個々の部門間の関係から生じる。ゆえに、個々の部門間の貸借関係と働きを解明する必要がある。

C 「お金」の働き


貨幣経済とは、貨幣を媒体として成り立つ経済体制を言う。

「お金」は、道具、手段である。
「お金」は、分配の道具、手段である
「お金」は、交換の道具、手段である。
「お金」は、数値情報である。「お金」は、価値を数値化する。現在の経済を動かしているのは、数の力である。
「お金」は、価値を一元化する働きがある。
「お金」は、価値を普遍化する働きがある。
「お金」は、匿名性がある。匿名性があるから盗まれる。普遍化もする。「お金」は人を選ばない

表象貨幣に実体はない。あるのは情報である。故に、貨幣は、固有の名目的価値を生み出す。

「お金」が生み出す価値は、交換価値である。
「お金」の価値は交換にある。つまり、どれだけの財と交換できるかによって「お金」の効用は測られる。
「お金」は、貯める事も、貸し借りする事も可能である。
ただし、「お金」は、貯める事が目的なのでも、貸し借りする事が目的なのでもない。「お金」を使って欲しい物や必要な物を手に入れる事が目的なのである。

「お金」は、使い捨てされるものでなく。繰り返し使う事で効用を発揮する名目的価値は、劣化しない。即ち、名目的は価値は保存される。「お金」は、情報伝達のための手段である
また、名目的価値が劣化しないから「お金」は循環する事で資金の過不足は補填される。

物やサービスは、消費されれば失われる。しかし、「お金」は、行使され効用を発揮しても「お金」の持つ名目的価値は失われない。
「お金」は、使用されても消費はされない。

「お金」の働きは、財と交換する事で発揮される。「お金」は、使用される事で効果を発揮する。
「お金」の働きは、財と交換する事によって財の生産を促し、市場に流通させ、消費者に分配する事である。
「お金」の働きは、出金、入金によって発揮され、数値によって表される。極めて単純である。
「お金」は、交換、支払いを準備する。支払いを準備する働きがあるから、「お金」は、価値を保存し、貯蓄する事が出来る。
「お金」は、貨幣単位を構成し、名目的価値を保存する働きがある。名目的価値は、市場取引に依って確定する。故に、名目的価値は相対的価値である。また、名目的価値は操作によって作られる。
「お金」は、経済的価値を数値化する。貨幣価値は、経済的価値を数値化した値である。
「お金」は、取引の手段であり、決済の働きがある。
「お金」には、名目的貨幣価値の確定する働きがある。
「お金」の働きには、財と掛け合わさる事で財の経済価値を貨幣価値によって一元化する働きがある。
価値が一元化されるとは、リンゴやミカン、船、牛、馬といった異質の実体や労働と言った働きや時間、切符や証書による権利といった異次元の対象を共通の基準で取引する事が可能となることを意味する。
財を貨幣価値に還元すれば経済的価値の演算が可能となる。
例えば、リンゴと机の価値を足したり、引いたりすることができるようになる。また、サービス料を時間とかけ合わせる事も可能となる。この様にして経済的価値を貨幣価値に還元するのが「お金」の働きである。
価値が一元化されると普遍化される。貨幣価値は、万国共通の働きを表す。同じ働きをするから通貨の交換が可能なのである。

経済の仕組みを動かしているのは、入金、出金によって生じる「お金」の流れである。
「お金」の流れは、資金の過不足によって生じる。資金の過不足は、「お金」の入出金によって生じる。「お金」の過不足は、「お金」の流れを生み出す原因であり、「お金」の流れによる結果である。故に、残高が基本的指標となる。

会計に用いられる指標は、基本的に、自然数であり、離散数である。

「お金」の流れには、移転と経常収支がある。
移転とは、対価の伴わない一方的な「お金」の流れを言う。

経済の仕組みの根本は、取引である。取引とは、財と「お金」、権利と「お金」の交換を意味する。

貨幣価値は、債権と債務によって作られる。債権は、権利であり、債務は「お金」である。
債権は資産の、債務は、負債の元となる。
債権と債務は支払いを準備する。
市場取引では、貸借によって支払いを準備し、売買によって取引を実現する。

貨幣経済体制とは、経済的価値の基幹的部分を貨幣価値に還元する。気を付けなければならないのは、貨幣価値に還元できない経済的価値も存在するという点である。ただ、貨幣価値体制では、貨幣価値に還元されたものだけを市場価値とし、市場価値で経済活動を制御する。

世の中を動かしているのは、資金の過不足であり、「お金」の流れである。資金過不足と流れは、部門間や経済主体間の貸借によって補われる。それを仲介するのは、金融である。世の中が上手く機能しなくなるのは、部門間や経済主体間の貸借関係の歪みや「お金」の流れの偏りである。部門間や経済主体間の貸借関係の歪みや「お金」の流れの偏りを補正する働きをしているのが、一般政府である。
現代社会の一番の病巣は、部門間や経済主体間の歪を補正する役割を担っている財政が歪んでいる事である。
一般政府の財政の歪みが、中央銀行の財務を歪め、中央銀行の歪みが金融機関全体の財務と収益を偏らせている。
更に、フローとストックの関係を不均衡にして貨幣価値を希薄化している。

D 市場の働き

経済活動の基本は、市場から財を購入する事で完結する。つまり、市場は、一連の経済活動を完結する働きをする場である。
故に、市場の動向は、経済全体に決定的な影響を及ぼす。ある意味で市場経済では市場が全てだともいえる。
市場の状態が拡大均衡によって成り立っているか、縮小均衡によって成り立っているかの違いが経済政策の是非を判定する。

故に、何に市場の拡大均衡に結び付き、何が縮小均衡に転換させるのかを明らかにする事が肝心なのである。
市場に働く力が拡大均衡の側に向いているか、縮小均衡なのかは、市場が発展段階なのか成熟しているかといった段階に依拠している。また、飽和状態か不足した状態かにもよる。

市場には、収益と費用、需要と供給を均衡させようとする力が働いている。均衡圧力には、拡大均衡型と縮小均衡型があるが、いずれにしても、エントロピーは、増大し続けている。そして、利益に対しては、下降圧力となる。

市場の状態を決定づけているのは、人口、単位消費量、単価である。更に、新たな市場が生まれつつあるのか、衰退し、消滅しようとする市場がどれくらいあるのか、市場そのものがどれくらいあるのかによって決まる。
生産の主役は物であり、消費の主役は人である。物の生産には限界があり、人の欲望にも限りがある。限りがないのは「お金」である。故に、制御ができなくなるのは、「お金」と決まっている。

市場が縮小し始めると生産も消費も縮小し始める。
ただ、分配だけが拡大し続けようとするために市場の制御が効かなくなるのである。市場が制御不能に陥り暴走するのは、市場の状況を見誤り、間違った政策をとるからである。

市場は、売買取引の場である。
市場は、需要と供給を調節する場である。
市場は、貨幣価値を確定する場である。

市場は、人為的に作られた場であり、一定の条件や取り扱われる財によて画定された範囲(例えば建設市場、金融市場等)、境界線(例えば通貨圏等)が存在する。その範囲や境界線を越える場合は手続きが必要となる。

市場は、需要と供給を価格によって調節する場である。故に、急激な需要や供給の変化を和らげ、物価が安定する様な仕組みを組み込む必要がある。
需給の変化は、生産と消費、双方に作用する。それが価格の安定化に寄与するような仕組みにする必要がある。
変化を増幅するような仕組みになっていると市場の機構そのものを破壊してしまう事もある。

ニクソンショックやプラザ合意の際のような為替の急激な変化、石油ショック時の様な原油の高騰等の影響などが参考になる。

市場は、売買取引の場である。
市場が場であるためには、必要な要件がある。
取引の場では、売り手と買い手が成立できるように準備されていなければならない。

市場は、売り手と買い手が出会う場である。
売り手は、販売を前提とした財を買い手は、「お金」を所持している事が前提である。
売り手も買い手も相手を選択できる事が保障されていなければならない。
一方的に売買取引が強制されるようでは、取引の場は確立できない。
取引の場は、売り手も買い手も自由に相手を選べなければならない。つまり、売買取引は、組織の様に一連の作業ではないのである。市場は、売り手も買い手も対等な立場で取引ができる事が保障される必要がある。
故に、市場は単なる空間ではなく。法に依って取引が保障されている場である。

市場は価格を決定する場である。価格とは、財の貨幣価値を言う。貨幣価値は相対的であり、売買取引によって取引の都度確定する。価格は、売り手と買い手の合意によって成り立つ。
結果的に市場は、需要と供給を調節する働きが生じる。即ち、市場は需要と供給を調節する場である。

法は、一定の規則に基づいて統制される必要がある。取引は、いわばスポーツのフィールドようなものである。ルールがなければスボーツのフィールドは成立しないように市場は、法がなければ成立しない。故に、市場は契約によって成り立っている。

市場取引は、分配の手段の一種である。
市場は売買取引で成り立っている。市場経済では、売買以外の手段で財を得るのは、犯罪、即ち、盗み、強盗、脅迫、詐欺となる。犯罪は、法によって定められる。法が予め定められていないと犯罪は成立しない。それが法治主義である。

組織と市場の違いは、組織は体系があるのに対して市場を制御するのは、法であって権限ではない。組織は階層的権限・責任があるのに対して、市場は、対等な関係しかない。

売買取引には、一定の手続き、条件、アルゴリズムがある。

経済の働きで重要なのは、適正な価格を維持する事である。
適正な価格と言うのは廉価を意味するわけではない。

市場には、需要と供給を調節する働きがある。

消費や投資には、周期がある。消費や投資の周期が景気に波を生む。
消費や投資の周期に合わせて市場は、拡大均衡と縮小均衡を繰り返している。
また、市場は、経済の発展段階や状態によっても拡大と縮小を繰り返す。
市場の働き、市場が置かれている前提条件や状況によって違ってくる。
拡大均衡期と縮小均衡期では市場の働きは違う。
拡大均衡に向かっているか、縮小均衡に向かっているかを見極める事である。
その為には、前提条件の変化や状況の変化を確認し、見逃さない事である。

市場は、労働条件の差や賃金の格差、為替の変動などに敏感に反応する。労働条件や賃金格差などをどう平準化するかが市場環境を維持する為の鍵である。条件をなるべく均質にする事によって公正な競争を実現するのであり、関税もその対策の一つである。ただ関税は、対策の一つであり、余り関税に頼りすぎるとかえって公正な競争を阻害し、消費者に不利益に働くことがある。
重要なのは、条件を整える事で、市場を閉ざす事ではない。

市場は装置であり、強い衝撃には脆い部分がある事を忘れてはならない。為替の変動がプラスになる産業があればマイナスに働く産業もある。各々採るべき政策も違ってくる。

市場は、実験の場でもある。望むと望まないに関わらずに、市場ではいろいろのことが試されているし、また、試されてきた。規制を設定したり、緩和したり、強化したりし、規制が経済に与える影響はいくらでも検証できる。また、会計制度の変更や法の改正、金利を上げたり下げたり、金融緩和をしたり、引き締めたり、公共投資をしたり、いなかったり、年金制度の結果、増税や減税、税制度の変更、社会保障制度が経済に与える影響、為替の変動、原油価格の高騰、戦争が経済に与える影響等、色々な事が試され、結果も出てきているのである。ただ、責任問題にかかわって客観的に検証されていないのである。だから、経済は科学になりえない。

市場を成り立たせているのは、競争の働きである。市場が独占・寡占状態に陥ると競争の原理が働かなくなる。市場に競争の原理が働かなくなるとどうなるか。即ち、独占・寡占の弊害は何かを上げる。
独占、寡占の弊害の第一は、組織的な限界である。市場には、分配の手段として市場的手段と、組織的な手段がある。生産と消費の場が分離する以前は、分配は、専ら組織的に行われていた。組織的な分配は、非貨幣的であり、私的な所有権も制限されるのが一般である。
独占・寡占状態になると必然的に組織的分配に支配されていく事になる。故に、組織的な限界が弊害になる。組織的限界は、組織的な限界は、垂直方向の限界でもある。垂直方向の限界とは、管理限界を意味する。垂直的限界は、社会を階層化する原因ともなる。社会の階層化は、正当性のない差別の原因となる。
組織的限界は、情報伝達の限界を生み出す。
独占・寡占の弊害の第二に、専制的権力を生み出す事であり、個人の権利が制限される事である。組織的分配は、恣意的で主観的な基準に基づいて行われる。そして、私的所有権も制約される事になる。それが結果的に貧富の格差の原因となる。
第三の、独占・寡占の問題は、相互牽制が効かなくなる事である。相互牽制が効かなくなると不正を生む。また、切磋琢磨する動機を失う。
第四は、相対的対応が出来なくなる。相対的対応と言うのは、独占・寡占は、全体を平準化標準化される傾向があり、地域性や個体差への対応ができなくなり、絶対的基準によって支配されやすい。つまり、多様性がなくなる
社会全体が文化的に貧しくなるのである。
第五に、革新や変革に適応できなくなる。組織は、組織内部の権力構造を維持しようとする働きがある。組織内の規律や序列を守ろうとして保守的になりがちである。また、既得権益が発生し、強権的になり易い。権力は腐敗しやすい
第六に、組織は、現状を維持しようとする事によって進歩や環境への適応が出来なくなり、硬直的になる。機動性、鋭敏性が失われ、鈍重になる。
これらの弊害を為に、市場は、独占・寡占に陥らないような仕組みにする必要がある。そこから生まれたのが独占禁止をうの精神である。
独占禁止法は、自由経済の精神でもある。
市場は、人為を嫌い、法や制度を重んじる。故に、規制が重要なのである。無原則に規制を緩和したり、規制をなくせば、市場は、独占・寡占へと向かう。逆に、整合性や正当性のない規制は、市場を硬直化する。どちらにせよ、それは市場経済の死である。市場は化外の場なのである。

逆に、過当競争や価格競争は、適正な価格を維持できなくなり、同様に寡占、独占の道を開く。
基本的に、収益の中から適正な費用を支払い、利益の中から投資資金を回収し返済するというのが、資本主義のモデルなのである。
競争を絶対視する競争原理主義者は、結局、乱売合戦を招き、独占・寡占への道を開く。

市場で最も重要なのは、であり、自由である。法を軽んじたり規制を嫌えば、市場は忽ち暴力によって支配される。秩序を嫌うものは、市場に参加する事はできない。だからこそ、規制や法の在り方が問われるのである。スポーツでルールが問われるように…。
ルールは、プレイヤーの自由を奪うものではなく。逆に、プレイヤーの自由を保障する事である。

E 経済主体(組織)の働き


経済主体は、経済を構成する経済的に自立した主体である。
経済主体には役割がある。
経済主体は、個人の集合である。
経済主体には組織がある。
経済主体は、現金収支によって動いている機構である。
経済主体は、共同体であり、内部は組織によって動き、外部は市場や制度の法によって動かされている。
外部取引は、等価交換を原則とし、利益は内部取引から生じる。外部取引には対称性があり、内部取引は非対称である。
複式簿記は、取引を内部取引に還元したものである。

所得の配分は、組織的になされる。
経済主体は、生産単位、分配単位、消費単位毎に形成される。
生産単位としての経済主体は、財を生産し、市場で販売する。分配単位の経済主体は、所得を組織的に分配する。消費単位の経済単位は、市場から財を購入して消費する。
個々の経済単位は、経済主体を形成する。即ち、生産単位は、生産主体を、分配単位は、分配主体を、消費単位は、消費主体を形成する。

経済主体の働きは、財を製造する。取得を分配する。財を消費する。生産財を在庫する。資金を貯める。

経済主体の中で生産主体は、分配主体を兼ねている。生産と分配の構造は、個々独立しているが、相互に影響を及ぼしながら生産と分配とを調節している。

基本的に分配は、「お金」、即ち、所得を分配した後、市場から財を購入する事で完結する。

生産と分配は一つの主体の内部で同時に処理される。分配の仕組みは生産を促進するが生産そのものの仕組みとは違う要素で働いている事を忘れてはならない。生産の都合を優先し、分配の働きを無視すると経済の本意を失ってしまう。
分配は、生産を促す事だけが目的なのではない。報酬には、生活がかかっているのである。

生産主体内部の分配は、費用として現れる。生産主体内で費用は、分配を実現したものである。
費用は、性差の為に犠牲になる部分と言った間違って認識が横溢しているが、それは誤解である。費用は、分配の要である。
価格は、費用と利益を基礎として形成される。適正な価格が維持できなくなれば、利益を確保する事が出来なくなり費用を賄う事も不可能になる。それは、経済主体の破綻を意味する。
経費削減を至上命題にすると分配の機能は失われる。

価格を市場競争のみに委ねるのは危険な行為である。市場が無原則な過当競争に支配された場合、放置すると利益は、限りなく追加費用に収斂する。価格の最終的目標は、廉価ではなく。適正価格である。なぜならば適正な価格を維持できなければ費用による分配が維持できなくなるからである。
経済の目的は、競争力にあるわけではない。適正な分配にある。

経済主体を動かしているのは、「お金」の流れであるが、「お金」の流れで損益上に表れるのは、収益と費用の関係だけである。収益が圧縮されると損益に計上されない移転によって資金繰りが悪化する事がある。市場取引は損益にしか反映しないから移転による資金繰りの悪化が見落とされることがある。表面は景気がよくなっているように見えても資金が市場に流れにくくなっていることがある事を忘れてはならない。

経済主体の本質が変化してきている。
今までの経済主体の在り方は、垂直的で、閉じていて、階層型、自己完結的であったのが、水平的で、開いた、ネットワーク型、コンポーネント型な仕組みへと変貌しつつある。これは、市場の在り方そのもの変えつつある。


D 価格の働き


価格は、働きである。
価格は、一定ではない。
価格は、売り買いと言う市場取引の働きによって作られる。
価格には、需給を調節する働きがある。
故に、価格は、収益と言う働きと費用と言う働きの相互作用によって作られる。
収益と費用は、外部取引によって成立し、利益は、内部取引に依って成立する。収益は、収入に基づき、費用は支出に基づく。
価格には、損益を構成する働きがある。

価格は、生産と分配の縮図であり、構図である。

価格の働きは、為替も反映する。
価格の働きは、費用、現在り価格の動向も反映する。

単位価格を単価と言う。単位価格とは、単位当たりの価格である。
単価には、付加価値が凝縮している。単価は、収益構造の縮図である。単価は、費用対効果を表している。即ち、単価は、経済的価値の原点である。
価格の働きは売上に収斂する。売上は、単価×数量×顧客数である。
単価は因子である。装置産業では、単価だけでは利益は、確保できない。なぜならば固定費が単価には含まれているからである。利益は、一定の数量を売り上げないと実現できない。販売数量が利益、即ち、収益構造が影響されるからである。収益構造を裏返すと費用構造になる。費用構造はその国の産業構造を集約している。国家間の産業の競争力は、産業構造によって左右される。故に、競争力の歪は、費用の歪として現れる。
販売量は、市場規模に制約される。市場規模は人口に比例される。
単価は、所得の制約を受ける。

価格の働きを知るためには、費用構造や収益と費用の関係を知る必要がある。なぜならば、価格の働きの中で費用の働きが分配の要になるからである。

価格の働きに関して誤解がある。価格は低ければいいというのではない。
価格に求められるのは適正価格であって廉価ではない。そして、価格の働きが正常に働く水準が適正価格である。
価格は市場で決められる。
価格を決めるのは、需要と供給、収益対費用の関係である。そして、分配の要の働きをしているのは費用である。つまり、適正価格とは、適正な費用を賄える値段なのである。

経営を効率化して費用を抑制するのは、利益を上げる事が目的なのである。価格を下げる事が目的なのではない。
この点を錯覚すべきではない。いくら経営を効率化し、費用を削減しても単純に価格を下げてしまったら、低価格以外の効果を期待できない。効率化して利益が上がった分を再投資や開発に向けてはじめて効率化の効果が出るのである。
世の中には、利益を上げる事は罪悪であるかのごとき思想が蔓延しているが、利益があるからこそ社会貢献もできるのである。

価格は、物価を構成する。価格は、需給を反映する。需要は消費量に基づき、供給は供給力、即ち、設備投資に基づく。消費量は市場規模による。市場規模は人口と所得に比例する。設備投資は、費用に影響する。価格は、費用に制約される。この様に物価は、いろいろな要素が複雑に絡みながら形成されていく。危うい均衡の上に物価は成り立っている。何らかの要素が暴走しただけでも物価は抑制が効かなくなる危険性が高いのである。

生活の形態も変わらない。人口の変化も少ない。
「お金」の流通量も一定、生産量も変化しないとなったら物価は一定である。
これが一つの原則である。逆にいえば、生活様式、人口、「お金」の流通量、生産量のいずれか一つでも変化すれば物価は変動する。

生活様式は、消費を意味する。消費量も生産量も、人口も有限である。しかし、「お金」の流通量は、上に開いている。貨幣価値が上昇し始めたら際限なく物価は上昇する。

経済が経済の仕組みを制御する為の指標として活用すべきなのは、実際的な「お金」の動きによる裏付けがある働き、物価の水準、所得の水準、金利の水準、費用対効果の関係、通貨の流量、為替などである。つまり、物価と所得支出の水準の均衡が経済を安定させる鍵だからである。

少しでも不可欠な資源が不足すれば、物価は、上昇する。所得の上昇も物価を押し上げもする。しかし、資源も所得も所詮、人と物であり、限りがある。当然、物価の上昇と言っても際限なく上がり続けるという事はない。一定のところで落ち着く。
しかし、「お金」には際限がない。一度暴走したら歯止めが効かなくなる危険性がある。

少しでも不可欠な資源が不足すれば、物価は、上昇する。所得の上昇も物価を押し上げもする。しかし、資源も所得も所詮、人と物であり、限りがある。当然、物価の上昇と言っても際限なく上がり続けるという事はない。一定のところで落ち着く。
しかし、「お金」には際限がない。一度暴走したら歯止めが効かなくなる危険性がある。
インフレーションもデフレーションも根本は、貨幣的現象なのである。いかに、部門間の歪みや「お金」の流れの偏りを是正し、円滑に「お金」を循環させるかが鍵なのである。

F 金利の働き

金利は働きである。金利の働きは、時間価値を生み出し、付加価値を構成する。

時間価値とは、時間の経過とともに生み出される価値で、二点間の運動と距離によって求められる。
時間価値は、相対的価値であり、物自体が単独で生み出すものではなく、他の要素との関係によって生み出される。要素間の関係は、要素間の位置と運動から導き出される。

時間価値を構成する働きは、付加価値を構成する。付加価値を構成する要素は、時間の関数である。付加価値を構成する要素には、金利の他に、配当、利益、物価、所得、税、地代・家賃等がある。
時間価値は、資金の移動を促す働きがある。

時間価値を構成する要素は、相互に影響を及ぼし合う。即ち、連動して動く性格がある。それは、付加価値を均衡させようという働きに基づく。

例えば、地価と金利の水準によって、持ち家が得か、賃貸住宅が得かが変わる。借入金の返済額と賃貸料の相対的関係によって月々の支出が違うからである。借金の返済額が賃貸料より大きければ賃貸住宅に流れる傾向が高くなるであろうし、借金の返済額が賃貸料より少なければ、持ち家が増える。
この現象は、フローとストックの関係を象徴している。どちらが得か損かは一律ではないのである。

時間価値を直接的に生み出すのは金利の働きである。直接的と言うのは、人為的に操作できるという意味である。金利以外に直接操作できる付加価値の要素には、税がある。

金利は、「お金」に時間価値を付加し、資金の貸し借りを促す働きがある。金利があるから、「お金」を融通し、融資する動機付けになる。金利がなければ、「お金」を貸し付ける動機もなく責任も果たせなくなる。
この様な金利は、利益に直接反映する。

故に、利息や配当は、融通した資金を元金とする。利益を原資としている。
同様に、地代・家賃は、地価を元金とし、配当は、資本を元金とする。
税は、課税対象を元金とする。
物価は、需給関係によって定まり、資金の流通量を原資とする。

利益は、収益と費用の関係を表すとともに、資産と負債の動きにも関係する。利益は、投資した資金を回収する為の指標である。故に、利益は、費用対効果と純資産によって測られるのである。
金利は負債に基づいて派生し、費用に影響する。また、投資、運転資本、再投資の原資に働いている。
税は、所得を原資とし資金の流通量を元としている。

減価償却費は、付加価値の名が特殊な働きをしており、減価償却費を取り扱う時は注意が必要である。なぜならば、減価償却費は、単位期間の設備投資の働きを測定する為に仮想された費用だからである。必ずしも「お金」の動きを反映しているわけではない。故に、減価償却費は、現金の動きと照合する必要がある。つまり、長期負債の増減と固定資産の増減との照合する必要がある。

投資は、担保力と収益力によって決まる。担保力は、二時点間の資産価値の差により、収益力は、単位期間内における収益と費用の関係による。投資から派生する付加価値(金利、利益、人件費、償却費等)は、担保力と収益力によって制約される。付加価値の働きは、フローとストックの比率、付加価値を構成比の二方面から牽制される。

この様に付加価値は、水平方向と垂直方向の働きの均衡を求めて変動する。フローとストックの関係抜きに付加価値の働きは、理解できない。

現代の日本は、ゼロ金利に置かれているために、景気の変動を制御するのが難しい環境に置かれている。それは時間価値が市場に働かなくなっているからである。

G 付加価値の働き


付加価値は働きである。
付加価値は、産出を分母としている。

付加価値は、経済活動の成果である。経済活動の成果は、付加価値として表す事が出来る。
付加価値は、時間価値を作る。
付加価値の働きは、分配に要約される。
経済の仕組みの目的は、分配にあるから付加価値は、経済の仕組みの実体を表している。

付加価値そのものは、産出を分母とする。付加価値の対極は中間消費である。付加価値の中間消費は本来対称性がある。付加価値と中間消費の対称性が損なわれるのは、時間価値に歪みが生じているからだと考えられる。この様な歪は、付加価値の構造を危うくする。

付加価値は、産出を分母としているという事は、産出の内容が付加価値を拘束する事になる。産出が実需の裏付けがあるものか、拡大再生産に結び付くものならば、付加価値も拡大も実態が伴っている。しかし、実需の裏付けがなかったり、拡大再生産に結び付かなければ実質的な付加価値の拡大には結びつかない。
景気の拡大を見る時は、この点をよく点検しないと実体のない景気変動に振り回される事になる。

付加価値は、部門間に配分される。部門間に配分される事で、部門間の役割が定まる。
また、付加価値は、働きに応じても配分される。付加価値の働きには、消費と投資がある。消費と投資は、資金の働きに着目すると単位期間における資金働きと単位期間を超えた資金の働きに置き換える事が出来る。

利益、営業余剰・混合所得は、産出を基礎数とし、収益を元として費用対効果を示す指標である。
利益、金利、配当、地代家賃は、時間価値を作り、資金の循環を促す働きがある。
人件費は、所得であり、生活費の原資である。また、生産手段の成果である。
税金は、一般政府に対する配分である。税は、所得の再配分の働きがある。社会資本の原資となる。「お金」の循環を促す。

時間価値は、付加価値に自律性を持たせる。時間価値が働かなくなると付加価値は、統制を欠いて平衡が保てなくなる。
時間価値を主導するの金利である。

利益を追求に偏ると人件費や金利が圧迫される。人件費が圧迫されると総所得が減少し、金利が圧迫されると資金の時間価値の働きが弱くなり、融通が効かなくなる。

国民生活を税によって賄う事は、不可能である。なぜならば、税は、付加価値を生む生産的活動に結び付いていないからである。故に、税によって付加価値は増えない。税は移転に属する。
移転は、資金の効用を準備する事である。移転は、効用を準備しても効用を発揮するわけではない。

問題は、要素間の力関係と元となる力要素との関係、部門間の貸し借りの関係である。そして、全体の関係を維持する為の限界点がどこにあるかによって個々の要素をどの様に調整すべきかが見えてくる。
ここで要点となるのは、直接影響を及ぼしたり、動かす事の出来るできる要素は何か、そして、直接動かしたり、管理する事の可能な要素の中で、実際に自分が操作するのはどのポイントかを絞る事である。

一番拙いのは、状況の変化に適合できなくなる事、逆に、状況の変化に引き摺られて自身を制御できなくなる事である。

付加価値の状態を保つ事で経済の仕組みは制御される。故に、付加価値構成する要素間の働きと要素の元となる要素との関係を理解しておく必要がある。

ゼロ金利は、国債の増加による長期金利、金融費用の上昇を防ぐ為の施策である。
国債の拡大は、民間企業の総資本を圧迫し、投資を抑制する。

付加価値は、最終消費支出が出口(ゴール)になる。出口と言うのは目標でもある。つまり、消費の在り様こそ分配を主導すべきなのである。
消費構造が、産業構造の枠組みを構成する事が本来のあるべき姿である。

付加価値で重要なのは、均衡(バランス)である。利益とか、金利とか、所得とか、税とかいずれが突出しても付加価値は正常に機能しなくなる。基本的に付加価値は、時間価値であり、時間価値の歪みが大きくなれば必然的に均衡を崩して暴走するのである。

経済のアルゴリズム


経済にはアルゴリズムがある。
経済のアルゴリズムの基本線は、人の一生である。
一生と言うのは一筋の生きる生き方を意味する。人生は、不可逆的で一本の道しかない。やり直したいと思っても過去には戻れないし、人生は一期一会である。
その人生の出来事が生み出すアルゴリズムである。

誕生、幼少期、思春期、青年期、壮年期、晩年、そして死という一連の流れがそもそもアルゴリズムなのである。
物事には順序がある。物事の道筋は、作法や礼儀、手続き、仕来りなどによって以前は決められていた。

仕事や生活にも四季があった。生活には、祭礼、人生は冠婚葬祭で縁取られていた。それが生活に知らず知らずアルゴリズムを持たせ、人生に弾みをつけてきたのである。

意味あることを意味もなく捨ててきたのが現代である。
一年の計は元旦にあり、それが始点である。

その時々に儀式や風習があり、その土地のアルゴリズムが存在していた。今はそれが風化してしまい。物事の筋道や手順が曖昧になってきた。それは一見安易になったように見えてむしろ、難しくしてしまっているのである。

経済の流れは、生産、分配、消費、貯蓄である。

経済の流れでは、人の動きと、物の動きと、「お金」の動きが並行して成立する。
経済は、生産の局面での「お金」の動きは、資金を調達する。物の流れは、生産手段に投資する。原材料を調達する。財を生産すると言う順に現れる。人の動きは、生産手段である労働力を提供する。即ち働く。
分配の局面では、「お金」を分配する。財を販売する。報酬を受け取る。
消費の局面では、「お金」を支出する。財を購入する。財を消費する。そして、「お金」の余りを貯蓄する。販売した余りを在庫する。

経済の流れは、生産、分配、消費、貯蓄であるが、生産、分配、消費の働きは、対等だという点である。即ち、生産に分配は隷属しているわけではなく。消費の上位に分配は位置するわけではなく、消費に生産は隷属しているわけではない。生産があって分配が決まるわけではない。
生産と分配の役割は、等しいし、さらに言えば生産と分配の基礎となるのは消費だという事である。

生産と分配、消費の関係が不均衡になるから経済は歪むのである。
生産と分配、消費の均衡を保つ事が経済のアルゴリズムの最終目標である。

生産と分配を切り離すと生産と分配との間の整合性が保てなくなる。
生産と分配の間には、「お金」の働きが関わっているのである。

生産と分配の基準は別のものである。生産に対する評価は市場でされ、分配に対する評価は、組織的にされる。
故に、生産のアルゴリズムと分配のアルゴリズム、そして、消費のアルゴリズムが並立しその均衡によって経済全体の状態は形成されるのである。

生産のアルゴリズムは、投資に始まり、利益で完結し、消費のアルゴリズムは、所得に始まり、消費で完結する。
分配のアルゴリズムは、生産と消費の接点で始まる。

現代の経済は、生産に偏り過ぎている。その為に、経済全体の整合性が保たれないのである。


経済的危機とは何か。


経済的な危機とは、どのような事を指して言うのか。また、何を原因として起こるのか。
その点を明確にしておく必要がある。

貨幣経済が発達する以前は、経済的危機とは、飢饉とか、旱魃とか、冷害、疫病、戦争と言った即物的な事であった。そして、経済的期の本質は、今も変わらない。人々の生活が成り立たなくなることが経済的危機なのである。
この事を忘れて、貨幣的な現象のみに目を奪われると経済的危機の本質を見誤る事となる。

貨幣経済が発達した今日では、経済危機は、貨幣的現象の様相を呈して現れる。しかし、経済の本質は、生きる為の活動である。つまり、経済は、生活に直結している。

表面的には、貨幣的現象として経済は現れる。名目的な現象として現れるが経済の実体は、物的、人的要素にある。この点を間違えると経済の役割が見失われる。
財を売って「お金」を受け取る。財を買って「お金」を支払う。つまり、物的事象なのである。
「お金」の受け払いを相殺すると最終的には、財と財の交換、物々交換を意味する。
問題は、「お金」が間に入る事で、物と物との交換の過程にいろいろな要素が入り込む事なのである。
「お金」の貸し借りや、貯金も可能となるのである。

そして、「お金」が介在する事で、実体的価値と名目的価値が分離し、さらに乖離する様になるのである。
現在の経済危機の元凶は、「お金」である。だからと言って「お金」が悪いという訳ではない。ただ、経済危機の多くが「お金」が原因で起こっているというだけである。

今の経済的危機のほとんどの原因は、「お金」にある。「お金」の何が原因で経済危機は起こるのか。
第一に、「お金」の流れが原因で起こる危機である。第二に、「お金」の過不足が原因で起こる危機である。第三に、「お金」の働きが原因で起こる経済危機である。第四に、「お金」の流通量による危機である。第五に、「お金」の偏りが原因で起こる危機である。
現代の経済の仕組みは、「お金」の循環によって成り立っている。この循環が止まると経済は機能しなくなる。それが流動性の危機である。
「お金」の過不足が拡大すると「お金」が満遍なく市場に流れなくなる。
「お金」の働きは、交換である。「お金」の働きは、人、物、「お金」が不均衡になると機能不全に陥る。
「お金」の流通量が過剰になれば物価は、上昇し、不足すれば物価は、下落する。それが極端に現れると経済が成り立たなくなる。
「お金」の流れや資金の過不足に極端な偏りが生じると経済は、危機に陥る。
危機が連鎖して全体が破綻してしまう。
フローとストックの不均衡から生じる経済危機などがある。

経済危機の原因は、経済が、実体から乖離する事である。経済の本質は生きる事であり、生かす事である。
その為には、人々の真面目な日々の営みが生活の糧となる事である。それが経済本来の実体である。それに対して「お金」が生み出すものは、名目である。
「お金」その物が人々の生活に役に立つわけではない。「お金」は、交換の手段に過ぎない。
人々の生活に役立つのは、「お金」と交換した物、購入した物である。
貨幣価値は、名目的価値でしかなく、実体はない。
名目が実体から乖離し、実体が失われて名目に支配された時、経済は、おかしくなるのである。

経済が実体から乖離すると危ない橋を渡らないと儲からなくなる。つまり、「お金」儲けが主となり、働きや生活が従となった時、経済の実体は失われるのである。「お金」のために、人々は、自分の生活を犠牲にせざるを得なくなる。そうなると社会が腐敗する。
経済がなぜ実体から乖離するのか。それは、真面目に働いて得た所得や収益を悪いことだとする風潮である。「お金」儲けは悪いと決めつけ、正当な働きで得た利益すら認めようしない。その癖、投機や博打で得た「お金」を正当的な事とする。それでは、正直者が馬鹿を見る事になる。競争、競争と規制を嫌い。安ければいいと短絡的に決めつける。
実直に堅実に与えられた仕事をこなしていれば、生活するのに困らない程度の収入が得られる。家を建てた時の借金もきちんと返済を続ければ自分が生きているうちに清算できる。年老いて働けなくなっても子供たちが面倒を見てくれる。それが信じられたから人々は、真面目に生きていく事が出来たのである。
ところが、経済が実態から乖離し一方で大量の食糧が廃棄されているというのに、他方で、今日食べる物にも事欠く人々がいる。博打の様な事で大金を手に入れられる者がいる一方で、真面目に働くものが報われない。

真面目に働いても、努力しても、報われなくなる。一番の問題は、人の道が失われる事である。真善美の基準が失われる事である。偽物が横行し、悪が栄えて、汚い事をした者が得をする。
正しい生き方も許されなくなり、不正に手を染めなければ日々の糧もえられなくなり、汚いやり方でしか生きられなくなる。出世は美徳ではなく、悪徳でしかない。成功を誇る事は許されず、金持ちは恥ずべきこととされる。
そんな世の中に警鐘を鳴らすべきなのに、現代の自称知識人は、自由や平等の名のもとに名声や欲望を縦(ほしいいまま)にする。「お金」が悪いのではない。人間が悪いのである。

次に問題となるのは、部門間の歪である。現在、一般政府が資金不足に陥り、民間企業と家計が余剰資金を抱えている。更に、一般政府の負債の過半を中央銀行が抱ええ込んでいる。この様な状態は、持続不可能である。早晩、家計の資産を取り崩して一般政府の資金不足に充てざるを得なくなる。それが、適切な手段が講じられなければ、増税、ハイパーインフレーション、恐慌、デフォルト、戦争、革命等の暴力的な手段に依らざるを得なくなる。

問題となるのは、中央銀行の当座預金である。支払準備として資金が当座預金に凍結している時は、資金は、市中に出回らない。当座預金に貯め込まれた資金が溶けだしたら、物価上昇は避けられない。


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しかも、中央銀行が貯め込んだ国債と相殺しようにもその場合は、市中銀行が国債を引き受ける必要がある。そうなると、長期金利が低位で保てなくなる。長期金利が上昇する事は国債の下落を招く事になる。しかし、金利がいつまでも低い、ゼロ金利だと金融機関の経営が成り立たなくなる。それが金融危機の引き金を引く事になる。
いずれにしても、所謂、出口戦略が鍵を握っている。


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財政は、先ず、プライマリーバランスを実現する事を最優先すべきなのである。ただプライマリーバランスと言っても相対的である事を忘れてはならない。プライマリーバランスを実現する過程で留意すべきなのは、部門間の関係であり、経済成長の影響である。
財政のみならず家計も、民間企業も、海外部門も経常収支を黒字にする様に努めるべきなのである。現金収支は、経常収支と移転からなる。貸借・資本取引は、移転である。売買取引が経常収支を成立させる。
経常収支は、資金移転を含まない収支であり、現金収支で全ての経済主体を黒字化する事はできないし、必要でもない。問題は、ストックとフローの力関係なのである。
要するに、貸借に関わらない収支を均衡させる事で、全体の均衡を計る事が基本なのである。
経常収支は、会計でいえば、期間損益、あるいは、営業キャッシュフローに相当する部分である。営業キャッシュフロー範囲内でしか投資していなければ成長は望めない。
期間損益で利益を出しつつ、付加価値を生み出す対象への投資を促す事である。
その意味では、公共投資は、直接的に資金運用に結び付くが、付加価値を生み出さない。また、拡大再生産にも結び付かない。その上、財政を悪化させてしまう。公共投資に頼るより、むしろ、民間企業や外国資本が安心して投資できる環境を整える事が重要なのである。
公共投資が有効なのは、インフラストラクチャーが未整備で、経済発展が期待できる時に限られている。公共投資の本来の目的は、社会資本を充実させることにある事を忘れてはならない。景気対策として財政政策を多用する事は、公的債務を累積させるだけである。

いずれにしても市場経済の中心は、市場なのである。市場の外でいくら投資をしても市場に資金は、回ってこない。過剰に公共投資に期待するのは間違いである。過剰に公共投資に期待するのは、経済と言うより既得権の問題である。

力のない権力者、無能な権力者は、最期は権力に固執する。それが怖いのである。
次の戦争は、今までの戦争と違い、核兵器も生物化学兵器もあるのである。

消費は、経済の最終目標である。消費に結びつかなければけ経済の実効は現れない。消費は生活水準や発展段階によって変化する。
生活の実体は消費として現れる。生活の破綻は経済の破綻を意味している。問題は、国民生活に必要な物が、必要な時に、必要としている人に、必要なだけ供給されない事である。
人々が生きられない環境になったら、経済は成り立たないのである。
それが「お金」が関わると人や物の問題で片付かない事が経済を複雑にしているのである。

利益(営業余剰)や減価償却費(固定資産減耗)は、最終消費支出に結びつかない。だから、実質的な経済成長を促さないのである。
また、利益がいくら増加しても資金が内部調達により、外部調達が増えなければ、市場全体の経済的価値は増えない。利益を中心に考えているとこの辺の文脈が理解できない。
いくら利益を上げても、かえって景気を悪化させる場合がある。なぜならば、消費と生産の関係で重要となるのは、収益と雇用者所得(人件費)の関係である。いくら利益を上げても、付加価値を構成する他の要素を圧迫したらかえって弊害となるからである。
結局、雇用者所得、金利、減価償却費・税などを圧迫する事になる。利益で重要なのは、収益との割合、関係である。そして、その根本は、収益と費用の関係に至る。つまり、費用対効果である。
利益を絶対化したり、目的化するのは間違いである。利益は、指標である。

危機の構図のもう一つの側面は、生産と分配に係る事である。そして、それは根本の消費の構造から生じる。
生産と所得は、同じ組織を使う。利益を追求して生産性を高める事は、所得を削減する事になる。生産効率を高めつつ所得を向上させるためには、生産効率と分配効率を両立させることが求められる。しかし、生産と分配は、同じ基準で測る事はできない。それは内的規範では、外的基準との整合性がとれない事を意味する。故に、規制によって内的規範を制約する事が必要とされるのである。それが労働法の根拠である。
また、公正な競争を保障する根拠ともある。
生産性の向上が経済危機の原因となりうることを忘れてはならない。特に、インターネットや情報技術、コンピュター化、AI化、自動化は、一つ間違うと分配構造の本質を変えてしまう。技術革新が人々の生活に供せられた時、その効果は、受け入れられるのである。

危機の構図・アルゴリズム


日本経済新聞社が日本、米国、欧州、中国、アジアの上場会社、約二万六千社(金融を除く)財務内容を調べた結果、三年連続して、支払利息が営業利益を上回った企業が十八年度で五千三百社、全体の二十%に上ったとしている。
営業キャシュフローを投資キャッシュフローが一兆㌦近く上回る状態が八年続き、支出超過の結果、有利子負債は、20兆㌦と十年でほぼ倍増していると指摘している。
負債の利率は、十年間で一ポイント低下しているのに、負債残高が利率の上昇以上に増えたいる為に、支払利息は、0.8兆㌦と四割増えたとしている。
但し日本は、バブル崩壊後、外部資金調達が困難になった結果、支払利息が営業利益を上回る企業の数は、国別にみると相対的に低かった。(2019年8月11日日本経済新聞)

現在の経済の仕組みにおいて前提となるのは、全ての経済主体は、生産手段を活用して財を生産し、生産した財を売って所得や収益を得て、その中から、経常的な支出を賄い、投資にかかった資金を返済していくというのが基本である。貸借は、生産手段に投資する過程で生ずる事である。貸借で得た資金は、経常収支には用いないことが前提である。故に、貸借・資本取引と損益取引を明確に区分する事が会計では求められている。
経済の基本的な働きは、売買によって発揮され、貸借は、資金移動と考えられている。貸借から派生する「お金」の働きは、利息として表される。故に、貸借・資本取引は、移転なのである。
ところが現在、経済は、期間損益による働きより、貸借・資本取引による働きが上回るようになってきた。そのこと自体が市場経済そのものが破綻している事を意味する。
フローとストックの関係が狂っているのである。

所謂、貸し借りであったとしても「お金」が回ってさえいれば経済は、破綻しないと考えている人は、市場経済の仕組みの根本を理解していない、貸し借りだけで経済が成り立つとしたら、損益の働きは意味がなくなる。
収益と費用の働きがあって「お金」は、循環するのである。それは財政とて同じである。財政赤字こそストック拡大の元凶である。問題は、部門間の不均衡にある。

我が国に差し迫った経済的危機は、ストックの急激な拡大が根本原因である。ストックの拡大は、フローを圧迫して付加価値の働きを変化させる。
ストックは、複利的・幾何級数に拡大する傾向があり、ある時点を境にして急速に上昇する。
ストックが発散しないように、収束する範囲内で負債を制御するのが政府と中央銀行の役割なのである。

ここで注意すべきなのは、全ての経済主体、家計も、非金融法人企業も、金融機関も、一般政府も、一国も、経常的収入の中から借入金の返済をするという点である。
経常的収入とは非金融法人企業では、収益、家計は、所得、政府は、税、金融は、金利収入、国家は、経常収支である。ただ、全ての主体が黒字になるわけにはいかないから、環境や状況に応じて黒字主体と赤字主体を入れ替える必要がある。
間違えてはいけないのは、黒字主体は、善で、赤字主体は悪だという決めつけである。黒字か、赤字かは、部門間の相対的関係によって決まる事であり、良い黒字もあれば悪い黒字もあり、良い赤字もあれば、悪い赤字もある。いずれにしても、制御不能な状態にしてしまう事が悪いのである。
経常的な収入ではなく、貸借に頼った資金繰りは、ストックの拡大を招く。これは、民間企業も、家計も、金融機関も、一般政府も変わりない。
一般政府には、紙幣の発行券があるから税に基づく経常収支は慢性的に赤字にしていいという訳ではない。一般政府こそ、収支が合わなくなればストックの拡大を促してしまう事になる。

ストックの急激な拡大が、フローにどの様な影響を与えるのか。
ストックは、債務と債権によって成り立っている。債務は、約定に従い固定的であるのに対して、債権は、資産となり、実需に結び付いて変化する。つまり、変動的である。債務が固定的であるのに対して、債権は変動的であり、債権と債務は資金繰りに直結し、「お金」の流れ、即ち、フローに影響する。
ストックが急速に拡大するとフローに拡大圧力がかかる。
フローの急速な拡大を放置した場合とフローの拡大を抑え込もうとした場合で違いが生じる。
ストックの急激な拡大によるフローの上昇を放置した場合、フローの上昇によってストックとの均衡を実現する事を目標とせざるを得ない。しかし、フローの上昇の制御に失敗した場合、ハイパーインフレーションの原因となる。
フローの拡大を抑え込もうとすると第一に考えられるのが、金融危機であり、金融危機も金融機関の破綻と流動性の喪失。貨幣価値の希薄化の三つが考えられる。
第二に、収益の圧迫。第三に、所得の圧縮である。必然的に失業を招く。第四に、財政破綻。第五に、格差の拡大である。
金融危機には、三種類ある。第一に、金融機関自体の収益が成り立たなくなる事である。第二に、リーマンショックの時のように、「お金」の流動性が失われる事である。第三の貨幣価値の希薄化は、インフレーションやデフレーションの原因となる。
今一番危険視すべきなのは、金融危機である。金融危機の根本原因は、債務の拡大に金利が追い付かない事である。その結果、金利に相対的な下方圧力がかかる。現在のゼロ金利状態が二十年近くも続いていて金融機関の収益を圧迫し続けている。
次に注意しなければならないのは、流動性の枯渇である。これは、例えば一金融機関の破綻等に起因して金融機関内の資金の融通、信用が働かなくなる事によって起こる。
金融機関のシステマティック・リスクである。個々の金融機関では避けられるないリスクである。
第三に、貨幣価値の希薄化は、ストックは支払準備を意味するから現実に決済に使われている資金の量を大幅に、上回る支払いが準備される事で貨幣価値が希薄化することを意味する。
金融危機だけでなく、フローを強引に抑え込むと他の部分にも影響が出る。
フローの拡大を無理に抑え込もうとすると更なるストックの拡大を招き、付加価値に影響が出る。

付加価値を構成する要素は、雇用者所得、金利、税、営業余剰(利益)等に対する圧迫であり、金融危機は、金利に対する圧力が主たる要因である。

ストックの拡大は、フロー全体に対する拡大圧力として働く。フロー全体は、収益を意味し、収益は、価格と数量の積である。価格は物価を構成する。故に、ストックの拡大は、物価の上昇圧力して働く。物価の上昇が相対的に低いと、付加価値の収縮圧力として働く。それは、成長力の低下圧力でもある。
ストックが拡大している中で資産価値が下落すると資産価値に対する負債の負荷が急速に高まる。そして、非金融法人企業の資金調達力を締め付ける。
非金融法人企業の資金調達力は、資産価値と将来の収益である。規制緩和は、将来の収益力を過当競争を招く事で圧迫する。

利益、即ち、営業余剰の拡大は、必ずしも経済全体にいい影響を及ぼす事ではない。収益の向上を伴わない利益は、費用を削減した結果だからである。
儲からないのも問題だが、儲けすぎも問題なのである。
経済は、分配の問題である。

市場の拡大が止まると収益には、縮小圧力がかかる事になる。ただ、物価の上昇は、名目的拡大を可能とする。そこから、名目的価値と実質的価値の乖離が始まる。
名目的価値には、拡大圧力が実質的価値には縮小圧力がかかる事で、債権と債務が別々の動き、働きをする様になる。
その典型がバブルであり、バブル崩壊である。

不良債権と言っても実体は変わらないのである。例えば、バブルの時代に高騰した時、購入した土地がバブル崩壊後に下落して不良債権化したと言っても同じ土地なのであり、地価が乱高下した結果に過ぎないのである。
経済の実体は、人と物にある。「お金」は、経済の仕組みを動かす道具である。しかし、現実に経済を動かしているのは「お金」である。人と物は、実質的価値を形成し、「お金」は、名目的価値を形成する。

大体、不良債権は、相対的な事であり、絶対的な事ではない。実質的価値と名目的価値の乖離が原因なのであり、ある意味で、作られるものである。たとえ一時的に地価が下落したからと言って単純に不良債権だから処分しろと言うのは、乱暴であり。バブル崩壊時の様に全体的に地価が下落した場合は、不良債権の発生は避けられないのであり、強引に不良債権を処理すればさらに地価の下落を招く事になる。それは不良債権をいたずらに拡大するだけである。大体、資産価値が下落したとしても返済が滞ることなく、収益も十分に見込めるのならば、不良債権として処理する事はかえって弊害になる。

気を付けなければならないのは、利益と収益とは違うという点である。
付加価値の中で営業余剰が拡大したからと言って経済成長を促すとは限らない。
営業余剰の性格は、中間貯蓄である。営業余剰、即ち、利益は、再投資に向けられない限り、過去の借金の返済に充てられる。民間企業が資産価値の下落によって資金調達を外部から内部に変更した事が問題なのである。
営業余剰は、最終消費に結びつかない、故に、経済成長を促さない。また、営業余剰は、資金移転であり、拡大再生産に回されなければ、負債の返済に充てられ、市場を縮小する。
民間企業のストックは、圧縮されても、経済全体のストックの量が減少しなければ、減少した負債は他の部門に付け替えられるだけである。
市場の収縮に伴う資金不足は、財政によって補われる。それが、財政を悪化させる要因となる。
要は、「お金」の流れる先を見極める事なのである。

流すべきところに流さないで流してはならないところに流している事が問題なのである。
危機的状態に陥ったからと言って滅多矢鱈にバルブを開いたり閉じたりしたら機械が壊れてしまう。

次に、所得の圧迫である。フローに対する影響は、付加価値に対する圧力として働く。
所得も圧迫される。経費削減などによって所得の相対的収縮を招き、
収益が圧迫される事で総所得が圧縮されると配分に影響が出る。一つは、格差の拡大である。もう一つは、経費削減による失業。もう一つは、負債の返済に依る可処分所得の圧縮である。

要するに、高度成長が終焉し、市場が過飽和状態に陥ったために、市場が飽和状態でない時と同じようなルールで競争をさせていたら適正な収益が上げらなくなる。
り、企業収益をさらに圧迫した。本業で利益を上げられなくなった企業が資産運用によって利益を上げようとし、それがプラザ合意による円高と重なり、円高による資金繰りの悪化を防ぐ目的で金融緩和をした、その結果、ストックの拡大に拍車をかけた。ストックの拡大は、バブルを引き起こした。
それに危機感を抱いた行政と金融が引き締め策をとった事で資産価値が大幅に下落し、それが名目的価値と実質的価値の大幅な乖離を招いた。
資産による未実現利益(含み益)、将来の収益に基づく資金調達力いずれも断たれた民間企業は、資金を外部調達から内部調達に切り替え、それに伴って市場は、収縮し始めた。
その時に、規制を緩和して競争を促した。市場の収縮によって生じた資金不足を一般政府が補った事で財政が悪化した。家計は、可処分所得が圧縮された事で消費が抑制され、市場の収縮に拍車をかけているというのが現状である。
バブルが崩壊した時は、荒れた市場を養生し、競争を抑制し、企業の基礎体力を回復させることに専念すべきなのである。それを病み上がりの病人に全力疾走をするように仕向けた。それでは多くの企業が力尽きるのは当たり前である。

いい加減に、金儲けは悪い事、大企業悪説みたいな考え方を捨て、企業や市場の働きを正当に評価すべきなのである。
ただ、手遅れでなければと思う。

どこかで負の連鎖を断ち切らないと現在の経済は、破綻し、暴力的な手段でしか問題が解決できなくなる。
暴力的手段とは、ハイパーインフレーションや、大恐慌、戦争、革命と言った行為である。特に戦争であるが、これからの戦争は、核兵器をはじめとする生物化学兵器の存在を前提としている事を忘れてはならない。

金融機関もゼロ金利のような低金利が収益を圧迫しているように見えるが、実際は、利鞘がとれない事が問題であり、もう一つは、有力な貸出先が見つからないで、国債で運用せざるを得ない状況が問題なのである。
金利を単純に上げれば解決できる事ではない。
例え、利鞘が確保されたとしてもストックの拡大に歯止めがかかるわけではない。
非金融法人企業は、資金調達力が奪われている事が問題である。適正な価格、適正な収益が維持できないでいるのが原因なのである。
家計には、借金や税金の負担が重くのしかかっている上に、仕事が保障されていないことが不安材料なのである。老後の生活に不安があるから財布の紐がきつくなる。
現代の経済は、収益、収入が柱で成り立っている。借金、負債ではない。それは一般政府も同じである。一般政府だけは例外で収益を上げなくとも、あるいは、いくら借金を上げても許されると思うのは、権力者の傲慢である。一般政府の野放図な借金こそ国家、国民を苦しめるのである。

規制そのものを悪として否定するのは、無政府主義である。
規制とは、法の一種である。スポーツでいえばルールであり、スポーツは、ルールだともいえる。
ルールがあるから、人々は、自由にスポーツを楽しめる。
ルールは、煩わしいと言ってなくしてしまったらスポーツは成り立たなくなる。
ところが、多くの経済学者は、規制を目の敵にする。
市場は、規制で雁字搦めにしたら自由な交易はできない。しかし、だからと言って規制をなくしたら、市場は無法地帯となる。
時代や環境に適合しなくなり、障害になっている規制は速やかに改廃すべきである。しかし、市場の秩序を守り、企業が適正な収益を上げる為に必要な規制、顧客の安全・安心を保障する規制は、強化されるべきなのである。
競争、競争とがなり立てる人がいるが、経済の目的は、競争にあるわけではない。競争は手段である。競争が悪いと言っているわけではなく。競争は全てではないと言いたいのである。
経済の目的は、人々に豊かで平和な生活を送らせる事である。競争によって貧しい人が生まれたり、争いが始まるのなら、本末転倒である。金儲けも然り。金儲けを否定はしないが、金儲けは手段であって目的ではない。

規制の是非を問うのは、間違いである。

法が犯罪を作るという者さえいる。しかし、彼等は、法を成立させなければならない事実を見ようとしていない。確かに、法がなければ犯罪にはならないかもしれないが、法がなくなっても人の罪がなくなるわけではない。ただ、確かに、法が一度制定されると犯罪は、確定する。故に、法そのものではなくて、一つひとつの法の正当性が常に問われるのである。

道徳や戒律だけでは、世の中は治められないのである。

規制で問われるのは、規制の是非ではなく、規制の正当性である。
なぜ、どの様な目的で、何を、どの様に制約させられるのか。それが焦点なのである。規制は、何がなんでも悪い、全てなくしてしまえというのは暴論である。

高度成長が終わり、経済が成熟期を迎え、市場が飽和状態に陥ったら、高度成長時代の規制や政策が通用しなくなった。市場の相転移したのである。市場の働きが変化したのに、高度成長時代の制度や規制をそのままにしておいたことが問題なのである。高度成長時代は、プラスに働いていた制度や既成が一転して障害となった。だからこそ、制度や既成の改廃が要求されたのである。

ただ、制度や既成の改廃には時間がかかる。制度や規制を改廃している間に大きく事態は変化してしまう事がある。だからこそ、変化に即応できる体制、仕組みを予め制度に組み込んでおく必要があるのである。

1970年代、経済が成長期から成熟期へ移行しようとしている時代は、既成の規制が経済の安定に対して弊害となった。だからこそ規制緩和が必要とされたのである。
現在は、逆に、無原則で行き過ぎた規制緩和が弊害になりつつある。それがいきつくと反動で保護主義的政策が横行するようになる。
現在必要とされているのは、市場の秩序を取り戻すための規制である。
変革期に破壊は付きものであるが、それは創造を伴うものでなければならない。創造を伴わない破壊は、単なる暴力に過ぎない。
何が何でも規制してしまうというのは乱暴であるが、既成は悪だとしてしなくしてしまうのも無謀である。

同じ様に、競争も絶対ではない。無原則な競争や、価格だけに特定された競争、乱売合戦、過当競争などは行き過ぎた競争である。無原則な競争は、暴力的になり、市場の秩序を乱し、独占・寡占への道を拓く。
話し合いは悪だとするのは、民主主義に反する思想である。話し合いを禁じれば、話し合って解決しなければならない事が生じれば裏で話し合う事になる。話し合いが悪いのではない。秘密裏に協定が結ばれるのが悪いのである。
だとしたら、公の場で、正式な手続きに沿って話し合いがされればいいのである。
過当競争などによって市場が荒廃したら不況カルテルの様な競争の抑制策も必要であり、以前は、その正当性は、広く認められていたのである。

重要なのは、市場や業界の中に、合意に基づいたルールを形成する事である。

現在の市場経済は、収益を柱とした体制である事を忘れてはならない。「お金」を調達して生産手段に投資をし、世の中に必要な財を生産する為の働きによって企業も個人も報酬を得てその中から、日々に必要な財を市場から購入し、借金を返済していく。これが基本なのである。
問題は、市場が無秩序になった事で、企業が、収益の中から費用(主として人件費)を支払ったうえで、借金の返済のための資金が捻出できなくなったことである。
まずやらなければならないのは、全ての主体が、日々の生産活動で得た収益から生活費と借金の返済資金が捻出できるようにする事なのである。
民間企業が投資を控えるのは、将来の収入によって投資資金が回収できる目処が立たないからである。
将来の収入は、収益と資産の残存価値である。そして、それが資金の調達力となる。地価の下落は、資産の残存価値を著しく毀損している。企業の資金調達力は、収益性にかかっているが、極端な規制緩和によって適正な収益見込みが立てられない。故に、投資が停滞しているのである。
金融市場で資金が不足している事が原因なのではなく。むしろ、金融市場は、危険なほど、余剰資金で溢れているのである。

現在の経済的危機を乗り越えるためには、先ず適正な収益を上げられるようにする事である。
次に、部門間の歪を是正する事である。経済の骨格を組み替える必要がある場合は、公的債務を民間に付け替えたり、民営化の推進等も考える必要がある。


       

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