はじめに


経済とは生きる為の活動である。
故に、経済とは、人を生かすための仕組みである。
人を生かすための仕組みは、使い方を間違えば人を殺す仕組みに変質する。
人を生かすための仕組みの目的とは、国民が生きていくために必要な財を生産し、あるいは、調達して国民に遍く配分する為の仕組みである。
経済の仕組みの目標は、必要な資源を必要とする人に必要なだけ、提供する事である。

経済の仕組みは、歴史的産物である。故に、現実の経済のアルゴリズムは、個々の国や社会の歴史を背景として成立している。
それが個々の国の経済に固有の性格を与えている。これが前提である。

経済の仕組みは全体と部分から成る。
経済の仕組みは、人、物、「お金」の三つの要素からなる。
人、物、「お金」は、それぞれ独立した空間、場を構成する。
人と経済の仕組みの関係は、労働と消費にある。家計部門の核となり、家計は、消費主体である。家計部門の投資は、消費を前提とした住宅投資である。
物と経済の仕組みの関係は、物を生産し、仕事を作る。不足する資源を海外から調達する。その為に余剰な財を海外に売って外貨を調達する。民間企業が核となり、民間企業は、生産主体である。企業の投資は、生産手段に対する設備投資である。

「お金」と経済の仕組みの関係は、「お金」は、人と物、生産と消費の間を仲介する事で、財を分配する。金融は、金融部門の核となり、金融部門は、市場取引の鏡となる。
金融機関の投資は、資金の過不足を補うための金融投資である。

財政は、生産主体と消費主体を兼ねる事で市場の歪、偏りを調節する。また、財政は、国債を通じて金融と実物経済の懸け橋にもなっている。財政の投資は、社会資本の形成と所得の再配分を目的とした公共投資である。
これが、人と物と「お金」の基本的関係と働きである。

人、物、「お金」には、それぞのの動き、流れがある。その流れをアルゴリズムにする。
先ず、全体像を鳥瞰する。現代の経済は、自由主義経済である。自由主義経済のインフラストラクチャーは、市場経済、貨幣経済、会計制度である。

市場経済は、経済主体と市場からなる。経済主体は、個人と組織からなる。現代経済は、組織と市場が組み合わさった構造体である。
経済主体の最小単位は、個人である。経済主体は、その働きに応じて組織化する。組織は部門を構成する。

経済は主体の初期設定は、零である。つまり、無一物である。経済主体が経済活動をするためには、「お金」を先ず調達する事が求められる。これが前提となる。
次に、物と人のアルゴリズムを明らかにする。

物的アルゴリズムは、財を生産し、生産した財を分配し、消費すると言うのが基本である。
その為に、生産手段を構築、整え、財を生産し、それを市場に供給し、分配する。消費者は、必要な資源を市場から調達して消費する。
生産主体は単に財を生産するだけでなく、仕事を作り出して所得を分配する役割がある事を忘れてはならない。

人的アルゴリズムは、先ず、人は、市場から生きていくために必要な資源を手に入れる(調達する)為には、「お金」が必要となる。
人は、「お金」を第三者から借りるか、労働力か、手持ちの私財を売って「お金」を手に入れ、その「お金」を支出する事で生きていくために必要な資源を市場から手に入れて消費する。
労働力は生産手段の一種である。

重要なのは、経済は物の生産だけで成り立っているのではない。人の所得が対極に成り立たない限り経済は機能しない。人の所得は、支出と均衡する必要がある。所得より支出が上回ると貸借、即ち、ストックが過剰となる。貸借は、余剰の「お金」を生み出し、「お金」の正常な循環を阻害する。物価と雇用は、経済の両輪なのである。
勘違いをしてはならないのは、世の中の大多数の人間は、平凡な人間、凡人である。何らかの欠点、それも身体的な障害がある者もいる。天才でも、特殊な技能があるわけでも、図抜けた才能に恵まれているわけでもない。どちらかと言えば無能で、欠点だらけの人間である。そういう人達が生活に困らないような所得を得られるようにする事も経済の仕組みの役割なのである。
これからの技術革新が、平凡で無能な人間から仕事を奪うようなものならば確実に経済は衰退する。そのような仕組みになっているのである。単純労働を軽視したら経済は成り立たなくなる。遊んで暮らすのは虚しい。なぜならば、生きる目的も見いだせず。他人の役にも立たないからである。

「お金」のアルゴリズムは、少し複雑である。まず「お金」を金融機関が生産する必要がある。生産した「お金」を経済主体に貸し出す事によって供給する。「お金」を手に入れた経済主体は、市場取引に依って市場から生きていくために必要な資源を手に入れる。

現在の経済では「お金」の動きが鍵を握っている。

現代経済の仕組みを動かしているのは、「お金」である。「お金」は、循環する事によって効力を発揮する。「お金」の働きは、「お金」が流れる事で発揮される。「お金」の働きを規制しているのが貨幣制度である。
経済主体は、「お金」の出入りによって動く。「お金」の出入りは、現金収支を意味する。現金収支を表しているのがキャッシュフローである。

「お金」の出し入れによって経済主体も市場は動く。「お金」の出し入れは現金収支となる。「お金」の出し入れは出金と入金である。出金は、支出であり、入金は、所得である。

注意しなければならないのは、「お金」の働きである。
「お金」は、分配の手段である。分配である「お金」が機能を発揮する為には、「お金」の流通総量は、上に閉じている必要がある。「お金」が有限であることが「お金」が信任されるための必要条件である。これは仮想貨幣も同じである。
なぜならば、「お金」は必要量と生産量を調節する手段だからである。市場価格は、人と物と「お金」の量の均衡点によって定まる。
問題なのは、貨幣価値は、何の制約もしなければ上に開いている。故に、貨幣の流通量の上限に対して何らかの制約を設ける必要がある。キャプを被せるのである。

問題は、市場の規模は一定していないという事である。市場は、膨張と収縮を繰り返している。市場全体は、無数の市場の集合体である。全体を構成する個々の市場は、固有の性格や構造を持ち一律一様ではない。
故に、「お金」の総量の上限も一律に決められない。いくつかの要素の相互牽制の働きを前提として相対的、構造的に設定される。

市場経済は、カジノに似ている。市場は、取引によって成立している。市場では、「お金」がなければ取引に参加できない。
カジノでは、手持ち資金をチップに両替する事でゲームに参加する権利を得る。
同様に、市場経済では、「最初にお金」を手に入れる事が必要条件となる。

「お金」の働には、長期的働きと短期的な働きがある。
長期的働き、生産手段を構築し、短期的働きは、消費として現れる。
長期的働きは、貸借によって、短期的働きは、売買によって実現する。
貸借は、債権と債務を生み出し、債権と債務は証券を派生する。この証券が紙幣の原型となる。貸しは、「お金」を預けることを意味し、借りは、「お金」を預かることを意味する。故に、預金の本質は貸借である。資本も貸借関係の一種とする事が出来る
生産手段は、固定資産と負債・資本を形成する。負債と資本、資産がストックを形成する。

「お金」の価値は、交換価値である。
今日の「お金」には、実体はない、交換と言う働きに価値がある。「お金」の働きは、生産でも消費でもない。交換なのである。
「お金」は観念的所産である。つまり、人間の意識が生み出したものである。「お金」は、合意によって成り立つ。故に、「お金」は、信認がなければ成立しない。また、「お金」は、取引によって成立している。「お金」は、使わなければ効用は発揮できない。
貯蓄は、支払準備であって効用が発揮されているわけではない。

「お金」は、あなたが「お金」だというから「お金」なのである。

「お金」は、象徴であり、情報である。交換価値の象徴である「お金」は、貸借取引によって生み出される。直接物と物とが交換できるならば「お金」は必要とされない。「お金」が必要とされるのは、物と物との間に貸し借りが介在するからである。
「お金」は、象徴的行為、手続きによって生産される。その行為は、貸借取引を象徴している。
貸し借りにせよ、売り買いにせよ、市場取引は、単体では成り立たない。何らかの相手が必要とされる。取引主体と取引相手との間の反対取引に依って市場は成り立っている。
これは、「お金」を生産する上で重要な要素となる。そこに金融機関の本質的役割がある。金融機関は、市場取引の鏡なのである。

紙幣の始まりは、国が国債を発行し、中央銀行は、国債を担保にして紙幣を発行する。紙幣は、中央銀行の国民からの負債である。なぜなら、紙幣は、市場取引によって担保されているからである。故に、中央銀行は、物価に対する責務を負う事になる。

「お金」は一度発行されると回収するのは困難である。なぜならば、「お金」は消費されないからである。

「お金」は単体では生み出せない。必ず相手がいる。自他の取引、やり取りが全ての始まりである。買う者がいれば売る者がいる。借りる者がいれば貸す者がいる。この関係は対称している。
男と女がいて子孫が残せるように、「お金」を生み出す仕組みにも雄と雌がある。これは一つの摂理を表している。

易に太極あり、これより両儀を生ず。
太極から陰陽が生じる。
太極は一、陰陽は二。

元は善の長なり。亨は嘉の會なり。利は義の和なり。貞は事の幹なり。

物を利すれば以て義を和するに足り、貞固なれば以て事に幹するに足る。

利は義である。義を極めたところに利が生じる。義に反する利、利を得られない義は、真の利でも、義でもない。


       

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